東日本大震災(原発事故・放射能汚染)

2019年3月23日 (土)

「痛みを分かつこころ」とは。9年目の東日本大震災と原発事故(福島、宮城、岩手3県巡りからPart2。大津波被災地巡り)

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今回は約3年ぶりの岩手県と宮城県の大津波被災地取材だったが、何よりも強く感じたのは、「9年目に入ってやっとここまで来たか」、もしくは、「まだここまでなのか」というある意味、愕然とした思いだ。
大津波被災地は原発事故被災地のように腰の据わった取材ができていない。そのため駆け足取材となりがちだ。とはいえ、震災後からの変化は、現場に立つ機会のない人にとっては、写真などで比較しないとわかりにくい。なので、変貌ぶりの一端を知る目安にはなる。


3月14日、宮城県東松島市、石巻市

宮城県で石巻市、気仙沼市に次いで犠牲者が多かったのが東松島市。犠牲者数は1132人

0182_dsc8448宮城県東松島市野蒜。大津波でなぎ倒された松林。2011年3月撮影。

_yyy4284sumiweb 松林だった公園跡は整備され苗木が植樹されていた。2019年3月。


石巻市門脇地区

全被災地のなかでも、最も犠牲者の多かったのが石巻市犠牲者数は3552人

018web2011年3月撮影。奥の方に門脇小学校校舎が見える。
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大津波と火災の両方で全損した門脇小学校。2011年3月撮影。
_yyy4309sumiweb_12019年3月撮影。


3月15日、盛岡市、岩手県大槌町、陸前高田市

 1286人が犠牲となった岩手県大槌町は旧役場のあった町中心部も吉里吉里も大規模なかさ上げ土木工事の成果とはいえ、8年間の変貌が強烈だ。大槌町役場は解体され更地化されていた。震災遺構として残すかどうかが住民の間でも問われたが、町長と議長が解体に賛成したということだ。

 私たちはあれほどの犠牲と被害の教訓を、これから生まれてくる子どもたちに残すことができるのだろうか?
_aaa0519大槌町中心部。2011年8月撮影
_8ds9515jpgsumijpgweb同、2015年5月撮影。かさ上げ工事が進んでいる。
_yyy4516sumiweb同、2019年3月撮影。表面的には全く新しい街並みが出来つつある。
_aaa3124sumiweb大槌町庁舎、2012年9月撮影。町長はじめ40人の職員が大津波の犠牲となった建物。大津波の教訓を震災遺構として未来世代に残すかと思われたが。
Dsc_0447sumiweb大槌町庁舎跡。2019年3月撮影。
Dsc_0443sumiweb同庁舎解体後の追悼小屋、2019年3月撮影


大槌町吉里吉里

中心部とは異なる湾に面したすり鉢状の吉里吉里も変貌ぶりが激しい。大津波による壊滅ぶりを知らないと、どこがどうなったのかが全く見えない。大津波で浸水し家屋が壊滅した地域のかさ上げはかなり進み、すでに新しい住宅街が形成されつつあった。新築の家屋群を見ていると、どうしても頭の中で比較してしまうのが、原発事故被災地の家屋が解体され、更地化されても、住民が戻ってこない福島県浜通りの光景だ。どちらも残酷な点は変わらないのだが、将来的な展望を考えると、大津波被災地の新築家屋の光景がまぶしく見えてしまうところがある。

_aaa9648web2011年6月
_aaa4823jpgweb2011年4月
_yyy4406sumiweb2019年3月。幹線道路が画面左の海寄り、高くかさ上げした場所に移っているのがわかる。
_8ds9446jpgsumisumiweb高橋英悟住職、2015年5月
_yyy4433sumiweb2019年3月
_yyy4372sumiwev高橋英悟住職、2019年3月
 震災後の4月から不定期だが取材してきている吉里吉里吉祥寺の高橋英悟住職はこう話された。
「被災者の多くがまだ区切りがついていない。住民の命を守る防災に対する備えを考える時期に来ているのに、防潮堤ができてから考えることを止めてしまっている状態です。旧庁舎解体をめぐる感情の対立。20年30年後の子や孫たちに何を残せるか。どう生きるべきかという大人としての背中を見せられない」
こうも指摘した。
「生きるための希望が見えない時代。お金も物もあるのに人の心は満足しない。自分のためだけに生きることではなく、人を大切と思うことで生きる力や希望が湧いてくる」
高橋住職も「他者の痛みを知り共感する心」の重要性を説いていた。
_yyy4471sumiwebかさ上げされ新築住宅が再建された吉里吉里の一部。2019年3月撮影
_yyy4476sumiweb同、2019年3月撮影。

原発事故被災地にも大槌町吉里吉里と似たような光景が広がるが、その意味は正反対だということを想像してほしい。大震災と原発事故から8年。福島県浪江町では地震で壊れた家屋や住民が帰還を諦めた住宅や店舗などが解体工事の真っ最中。常磐線浪江駅前商店街に面した一帯も家屋が次々に解体され、あちらこちらに空地ができていた。元の人口は22000人だった浪江町。避難解除された地域に帰還した住民は約900人。何とも残酷な現実ではないだろうか。
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福島県浪江町。2017年12月撮影。
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2017年12月撮影。


陸前高田市(犠牲者数は1757人)

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2011年3月撮影。震災後の陸前高田市に初めて足を踏み入れた時の見渡す限り破壊され尽くした光景を忘れることはできない。どこをどう撮ればいいのかも見当がつかなった。

壊滅した広大な陸前高田市の復興を想像してみると、瓦礫を徹底して片付け、ゼロから街全体のかさ上げをし、そこからようやく生活に欠かせない建物、商店街、住宅街などなどの再建ということになる。国がオリンピックにかける予算の何倍も必要なのは容易に想像できるのではないだろうか。

_8ds9655jpg2015年5月撮影、左端の三角形の建物が大津波の破壊を多少は免れて残った道の駅。
_yyy4606sumiweb2019年3月撮影。道の駅以外は全体的にかさ上げされている。道路向かいのガソリンスタンド「オカモト」は、元の場所での営業再開は諦めたようで、1キロ以上離れた場所で営業再開していた。
_yyy4582sumiweb五階建てのアパートが震災遺構として残されるようだ。高さ14.5メートルまで津波が到達したことを示す表示が五階部分に取り付けられている。元は「下宿定住促進住宅」だったとある。


被災地の一部を駆け足で見ただけだが、あの大震災から9年目に入っても、「復興」は途上中の途上に過ぎないと感じるのは私だけだろうか。厳しすぎる現実の背景には、大津波被災地が太平洋岸450キロというあまりにも広範囲に及んでいるためだ。大津波で壊滅した街の復旧復興再建は、どこもかしこも前代未聞の超大土木工事の現場となったわけだから、予算も、重機も、作業員も、どれだけつぎ込んでも足りることはない。追い打ちをかけるように原発事故の収束廃炉作業も同時進行という、まさに国難に立ち向かわざるを得なかったはずだ。

しかしだ、大手メディアは諸手を揚げて東京五輪に熱を上げている。安倍晋三(首相)が国際社会にウソをついて五輪を招致したためだ。安倍自公政権に頭を垂れて忖度することに熱心な公共放送のNHKでさえも、東日本大震災から8年の被災者アンケートの結果、「復興五輪」は「誘致名目にすぎず」(約54%)、「被災地での経済効果」は期待できず(60%)、被災地の「復興を後押しする」とは思わない(約58%)との回答を公表している。アンケートの詳細は以下をご覧ください。
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NHKによる東日本大震災8年、被災者アンケートの結果から、「東京オリンピック・パラリンピックで、以下の項目についてどう思いますか?」との設問に対する回答が注目に値する。被災者にとり、「復興五輪」は「誘致名目にすぎず」(約54%)、「被災地での経済効果」は期待できない(60%)、被災地の「復興を後押しする」とは思わない(約58%)と回答し、否定的回答者の51%が「復興のための工事が遅れる」とし、47%が「五輪の開催費用を被災地に使うべきだ」とまで言い切っている。
NHKの調査とはいえ、被災者の心情が色濃く反映されているではないか。大津波被災地の復興の遅れは、膨大な被災者に対する政府の犯罪に等しいとさえ言えるのではないだろうか?というのが私の個人的な見解だ。


3月17日、神奈川県茅ケ崎市「萩園いこいの里」にて講演と写真展

東北三県の被災地を取材し、信州に帰る前の締めくくりが茅ケ崎市での講演会と写真展だった。

Dsc_0456sumiweb写真詩集「なじょすべ」からの写真も展示した。

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講演タイトルは「いのちと痛みを分かつこころ~東日本大震災と原発事故から9年目に考える」とした。
福島市、二本松市などの福島県出身者も多かった。今回の全取材を通じ、私が改めて実感し、被災地を取材し続ける者として繰り返し伝えてゆかなければいけないと考えたのは、関さんの代表的な詩「なじょすべ」の結びで表現されていた。
「悩むこころに 沿うてくれ
オレたちに 欲しいのは
痛みを 分かつ こころだよ」


・蛇足として
私たちはどうしたらいいのか、何をしてはならないのか。関さんの詩を基準にすることで自然とわかるのではないだろうか。

PS:東京五輪は被災地の復興に役立つか?Part2(大津波被災地で聞いた)2013年9月25日

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2019年3月21日 (木)

「痛みを分かつこころ」とは。9年目の東日本大震災と原発事故(福島、宮城、岩手3県巡りからPart1)

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イチエフの排気塔やクレーンが見える浪江町請戸海岸で、深々と首を垂れる田中徳雲さん。


3月9日から17日にかけ、東日本大震災と東電福島第一原発事故から8年が経ち9年目に入る福島、宮城、岩手の被災3県を一気に取材し、神奈川県茅ケ崎市で講演と写真展をしてきました。写真は移動順です。写真40点超、動画一本をアップしてあります。動画はスウィング・マサさんの、南相馬市の大津波被災海岸での失われた命への演奏動画です。

私たち1人1人に、被災者に対する「痛みを分かつこころ」があれば、大地震、大津波、原発事故被災者の悲しみや苦悩も緩和され、生活再建が一歩前進する希望となることを改めて強く実感した取材行でした。
それは、社会に蔓延する自分さえ良ければ構わない、自分の会社さえもうかれば良い、自分の国さえ経済が好調であれば良いという現代社会を立て直す処方箋ともいえる生き方だと感じます。


「痛みを分かつこころ」とは、関さんの詩「なじょすべ」の結びの表現です。
「オレたちに欲しいのは 痛みを分かつ こころだよ」
何年経っても、2万人以上の犠牲者を生んだ東日本大震災と原発事故を忘れないことであり、教訓を必ず生かし繰り返しの愚を引き起こさないための生き方を選択する意思の現れだと言い換えることができるといえます。


「痛みを分かつこころ」は表現は多少の違いがありますが、私が取材し発言を書き出したみなさん(南相馬市小高区同慶寺田中徳雲住職、浪江町希望の牧場・ふくしま代表の吉沢正巳さん、飯舘村の元酪農家長谷川健一さん、岩手県大槌町吉里吉里吉祥寺高橋英悟住職)は、それぞれの表現で話していますが、つまるところは同じ意味合いのことを伝えようとしていることがわかります。


3月9日、福島県二本松市。

写真詩集「なじょすべ」が刊行されて初となる関さん主催のイベント「3・11を忘れない、いのちが大事の集い」が二本松市男女共生センターで開かれた。この建物には深い因縁がある。

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関久雄さんと私の写真詩集「なじょすべ」共著者二人組。「なじょすべ」からの初めての写真を10点ほど展示。

_yyy2482sumiweb楽器すべて手作りのへんてこ本物アーティストミュージシャンで絵本作家でなんでも抜群センスのだるま森さん。
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_yyy2383sumiweb写真詩集「なじょすべ」から自作詩を朗読する関久雄さん。

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関久雄さんを真ん中に、「3・11を忘れない、いのちが大事の集い」の参加者とスタッフのみなさん。2019年3月9日、二本松市男女共生センター。

8年前の3月16日、私は田村市の総合体育館に避難した大熊町町民の取材の過程で自衛隊からの情報を得て、フォトジャーナリストの森住卓さんとこの場所に駆け付けた。駐車場では自衛隊が除染テントを開設し、浪江町の住民がバスや車で避難移動してきた。住民は建物に入ると3列に並ばされ、完全な防護服姿の者たちにより、ガイガーカウンターで頭からつま先まで放射能検査を受けていた。あたかも放射能に汚染された迷惑物質扱いだった。中に入って撮影したいと交渉したがダメだったので、森住さんと窓越しに撮影したいろんなことを思い出す建物だった。建物の壁には「放射能ゴミ」と書かれたビニール袋があり、住民の物とも思われる衣類がパンパンに入っていた。駐車場の空間線量は9マイクロシーベルトあった
3月10日、南相馬市小高区同慶寺から海岸沿いの防潮堤の上や下を歩き、浪江町請戸海岸までの「慰霊の行進」が実施された。
(原発事故後はみんなの意識が変わりそうに思えたのに)なぜ私たちは変われないのか?そこで気づいたのが、便利な生活を少なくとも享受してきている私たちの世代はみなそうだと思いますが、自分自身の中に東京電力があるという心の問題です
(南相馬市小高区同慶寺田中徳雲住職)
Dsc_0185sumiweb同慶寺を出発する間際の参加者。 _yyy2707aumiweb海岸沿いを歩き出来たばかりの防潮堤の上も行進。田中徳雲住職が許可を取り付けていたから可能となったコース。長〜い距離となったが参加者の皆さん、本当によく歩いたものだ。 _yyy2748sumioweb _yyy3186sumiweb _yyy2956sumiweb _yyy2878sumiweb _yyy2867web行進参加者は「南無妙法蓮華経」と書かれたお札を海に流す。

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大震災と原発事故で亡くなった諸霊を弔う矢向由季さん。
_yyy3174sumi時には完成したばかりの防潮堤の上を行進し、時には防潮堤の下を歩く。

_yyy3131sumiweb_1
_yyy3158sumiweb南相馬市小高区井田川地区の大津波犠牲者24名の名を刻む慰霊碑で立ち止まり、死者を供養する田中徳雲さんら慰霊の行進一行。

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_yyy3297sumiweb写真詩集「なじょすべ」の共著者で福島弁で詩をつづる関久雄さんも慰霊の行進に参加。
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_yyy3328sumiweb請戸港に到着した一行。

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慰霊の行進目的地の浪江町請戸海岸に到着。請戸港一帯では大津波により182名の死者が出た。8時半にお寺を出発し、午後3時過ぎに着いた。
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イチエフの排気塔やクレーンが見える浪江町請戸海岸で、深々と首を垂れる田中徳雲さん。



3月11日、福島市。「第8回原発いらない地球のつどい」に参加し、「なじょすべ」写真展示。有志による反原発歩きデモ。県庁前で独り街宣する吉沢正巳さんに合流。氷雨降る中、吉沢さんはカウゴジラと化していた。

Dsc_0254sumiweb「第8回原発いらない地球のつどい」の分科会。持参した「なじょすべ」写真は急きょパネルに貼らせてもらった。

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_yyy3602sumiweb3月11日、「第8回原発いらない地球のつどい」の集会終了後、有志が歩き行進をした。気合の入ったスウィング・マサさん。

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200万人県民みんなで後始末の苦しみを連帯責任を負うしかありません。県知事も悪かった。県議も県選出の国会議員も悪かった。県庁も県民も原発を止めることがなかった。みんなで原発事故のこの汚染の苦しみを負っていきましょう。オリンピックはいりません。3・11は終わっていません

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いつまでも福島差別が続くんだったら福島県民はいうべきだと思います。東京湾で火力発電や原発で東京湾で関東の電気を作るんだよと。福井県民、新潟県民のみなさん、再稼働するんだったら、死んでも町がなくなっても家に帰れなくなってもいいんだね。そういう覚悟がなければ再稼働はなりません
(県庁前で雨の中、独りでスピーチする吉沢正巳希望の牧場・ふくしま代表)

3月12日、浪江町希望の牧場、南相馬市
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「ふくしま・考える人の駅」町に帰還する住民が少なすぎるための観光客呼び込み作戦か?希望の牧場に実に怪しげな駅名看板が登場していた。意味深なセリフも書かれていた。「取り返しのつかないものだとわかった原発とサヨナラをする」 原発事故から9年目の朝。
D1bfosovyaawzt2一見、飽食の牛たち。減ったとはいえ、278頭健在とのこと。希望の牧場・ふくしまの9年目 D1brueluyaabmds露出してしまった牛の骨に生花を供えた慰霊の空間も。原発事故から9年目の朝。

_yyy3714synuwev仲の良い姉と弟???ロールえさを牛舎に運ぶお姉さん。野菜くずを落とす吉沢さん。それにしてもエサは不足気味だ。
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「オレたちには力がなかった。プルサーマルを止めることができなかった。言うべきは言ったが止められなかった。実力を持たないと話しにならない。力不足だった」と、原発事故が起きる前のことを振り返る吉沢さん。

D1dfjf6vyaemwgg_1「なじょすべ」のカバー写真で使った馬を飼う相双ファームの田中信一郎さんに写真集をプレゼント。南相馬市小高区にある田中さんの厩舎は津波に襲われたが馬たちは生き延びたものの、原発事故により避難指示が出たため、9頭の馬が餓死したという。写真の馬は原発事故を生き延びたが撮影後に病気で死亡したとのことだった。
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「なじょすべ」でネコ二匹が登場する南相馬市原町区の滝沢昇司さんの牛舎。北海道の畜産大学を卒業した長男・一生くんが手伝っていた。原発事故当時は中学生だった。彼は4月から四国の酪農家で一年修行してくるという。
_yyy4080sumiweb酪農一本だけでは経営難になりかねない現状を見越して、脱原発の意味も込め、滝沢昇司さんは発電事業主として大転換した。牧草地を使って営農型発電を大展開中。現在10数か所に設置済み。さらに増やす予定。現在だけでも総発電量は750キロワットに相当すると言った。南相馬市原町区。
_yyy4028sumiweb南相馬市小高区羽倉地区に立てられた、環境省が目論んでいる「汚染土再利用」反対ののぼり。除染土を常磐自動車道の車線拡幅工事に再利用する環境省の実証事業案に対し、地元の羽倉(はのくら)地区が猛反対している。毎日数百台の除染土を積んだダンプカーが常磐道を走っている。
_yyy4034sumiweb羽倉地区同様に避難指示が解除されている南相馬市小高区大富地区の仮置き場外に置かれたモニタリングポスト。0.425マイクロシーベルトの数値を示している。この線量でも避難指示解除されているのが除染と避難解除の実態。
_yyy4259sumiweb三台、四台と隊列を組み、除染土を積んだダンプカーが常磐自動車道を忙しく走る。
3月13日、浪江町、南相馬市、飯舘村
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「帰村した住民は1300人。100パーセント65歳以上の高齢者だ」
「生き甲斐はない。夢も希望もない。ただ生きているだけだ」
飯舘村の自宅に帰還した元酪農家の長谷川健一さん。自宅前の田畑がフレコンバッグの仮?置き場になっている。
酪農には未練はないと、牛舎跡にはそばの脱穀、製粉関連の一連の機械を補助金を活用して設置した。広大な畑地にはソバに、かつての水田は荒野にしないための除草の仕事は毎年しっかりと取り組んでいるという長谷川さんだが・・・。 長谷川さんは菅野村長のなりふり構わぬ独裁にあきれ返っているとのことだった。まだ60代半ばで、あれほどに元気だった長谷川さんの本音の背景を知ろうとすることが、「痛みを分かつこころ」ということに、遅すぎるかもしれないが私たちは気づく必要がある。
_yyy4123suiweb飯舘村上空をオスプレイが低空で飛んでいった。長谷川健一さんによると、オスプレイを見るのはこれで三回目だといった。オスプレイは日本列島上空を我が物顔で飛び回っている。2019年3月13日。

_yyy4207sumiweb富岡町の常磐線富岡駅隣で稼働していた仮設焼却炉があっという間に解体撤去作業中だった。
Yyy_3329jpgsumijpgweb三菱重工系のJVにより600億円で受注され、富岡町内の可燃性除染ゴミを焼却し濃度の高い灰にしていた施設の一つだが、稼働中に異様を誇った建物は見る影もなくなっていた。
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環境「汚染」省による同様の仮設焼却炉で目につきやすく代表的なものは浪江町請戸海岸に500億円の予算で建設され稼働している仮設焼却炉がある。同様の仮設焼却炉は主に避難指示区域に建設され、28ヵ所で総額は2800億円を超すと指摘されている。富岡駅隣のものはその一例に過ぎないが、先進国といわれる日本の環境保護?の実態だとすればわかり易い。政府にも官僚にも大半の国会議員にも、被災者の痛み悲しみを思いやり、それを政治に行政に反映することができていない。ましてや、復興五輪の美名で1兆円とか2兆円をオリンピックに浪費することは、「犯罪的」と表現しても不十分だといえるのではないか。


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2019年1月 8日 (火)

広河隆一氏の性暴力問題についての個人的見解

 広河隆一氏(現在75歳)と取材現場が一緒だったことが二度ある。
週刊文春で報道された広河氏の性暴力問題と広河氏のジャーナリストとしての実績についての個人的な見解を明らかにしておきたいので、長文になるが最後まで読んでいただきたい

 ようやく最初のテーマとなるフィリピンの継続取材をしている程度の実績のないカメラマンだった私にとり、雲の上の人のような報道写真家の広河隆一氏と初めて取材現場が一緒になったのは湾岸戦争直後のイラク取材だった。1991年のことだ。イラク取材ビザは出なかったため、イラク市民緊急支援を目的とする日本の市民グループのボランティアメンバーの一員として、1991年5月にイラク入国。ボランティアリストには私同様に取材目的で広河隆一氏やテレビ局の記者なども名前を連ねていた。

 広河氏と同じ現場を取材しても、広河氏の知名度や力量には太刀打ちできるわけもないので、イラク戦争直前にパレスチナとパリで取材した国境なき医師団(MSF)のイラク国内で緊急医療活動の取材を試みることにし、ヨルダンとバグダッドのMSFと連絡を取り取材ができるかどうかを探っていた。

 その甲斐あって、バグダッドからは広河氏たちが同行した支援グループと分かれ私は別行動をとり、医薬品や支援食糧物資を満載したMSFの大型トラックの助手席に乗りイラク北部のクルド人居住圏に入った。その結果、クルド人居住圏でのサダム・フセインの軍隊による徹底的な破壊と略奪行為と国連関係者の姿もない中で医療活動活動するMSFによるクルド人国内難民の孤立した状況の取材に成功した。週刊現代や朝日ジャーナル誌のグラビアで報道することができた。中東の取材に慣れない私にとってはできすぎた結果だったといえる。 

 この時の二度の中東取材で私は以下のように結論づけた。
『武力によって国際問題の解決を計ることが、「秩序」とは裏腹に新たな「混乱」をつくりだす事を改めて証明したのが1991年の「湾岸戦争」だった。戦争はパレスチナ問題には消極的な姿勢をとり続けてきた国連と、アメリカをはじめとする西側大国のダブルスタンダードを明らかにした。アメリカや日本も含めた西側大国の価値観に根ざした「国際秩序」や論理に翻弄されてきたアラブ人やイスラム教徒の心に、取り返しのつかない不信感や憎しみを植えつけてしまった。それが湾岸戦争の残したものだった』

 ちなみに、私は広河氏の超広角レンズの付いたカメラとビデオカメラ一台と録音機を首から下げ、同時に取材をすすめる姿にうなった。動画の訴求力を広河氏はすでに多用していた。

 二度目は20年後の福島原発事故直後の取材だった。
 2002年、「9・11」同時多発テロと米国によるアフガニスタンとイラク攻撃という報復攻撃以降、ジャーナリズムの在り方が問われ、ジャーナリストの取材と報道の権利と義務を守ることが困難になってきたことなどの状勢に、広河隆一氏が中心的な発起人となってJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。フリーランスのフォト・ジャーナリストやビデオ・ジャーナリストで構成)が設立された。志を同じくする私もの会員の一人として活動を共にし、JVJA主催でイラク戦争写真展などテーマも異なる数多くの写真展や報告会を開催した。

 2003年に岩波書店から「世界の戦場から」シリーズ全11冊プラス別冊が刊行されたが、広河氏の知名度と影響力抜きには出版されなかった大型企画だと思う。広河隆一氏が総編集となり、パレスチナ、チェチェン、イラク、ハイチ、核汚染、環境破壊など、JVJA各会員が長年取材してきたテーマがわかり易くまとめられた写真集シリーズとなった。「刊行の言葉」としていみじくも広河氏はこう記している。

ジャーナリストは人間の何を守るための存在であるべきなのか』 

 私は長年の取材フィールドとしてきたフィリピンを、「フィリピン~最底辺を生きる」として出版できた。あとがきには、「長年の取材を生かす機会をこの写真集シリーズで与えてくれた広河隆一さんに感謝する」と私自身が記している。

 実はJVJA会員として活動を共にする前には、広河氏の代表的な分厚いルポルタージュ「人間の戦場」(1998年)の書評を信濃毎日新聞に寄稿したこともある。広河氏の報道写真家としての凄さとパレスチナやチェルノブイリの子どもたちの支援活動を立ち上げ、息の長い支援を続ける姿勢に敬服していたからだ。

 2003年に広河氏が責任編集で出版を開始したフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」の出版企画には積極的に賛同し、1986年から親交のあった報道写真家福島菊次郎氏に賛同人になってもらうことを広河氏に提案した。「DAYS JAPAN」出版の賛同人に名を連ねた伝説の報道写真家・福島菊次郎さんの生き様とそのドキュメンタリー写真の連載に読者が触れるきっかけを提供した。

 広河氏のジャーナリストと支援活動の両輪の実績を尊敬していた私だが、広河氏のJVJA代表初期に転機が来た。DAYS JAPAN誌上で広河氏が多用する某著名写真家が、ビルマ(ミャンマー)軍事政権主催の写真展を新宿の著名なフォトギャラリーで開催した事実について私が問題視し、編集長としていかがなものかとJVJA全体会議で問い正したからだ。身の程知らずの若輩者がフォトジャーナリストの「大御所」であり業界の「権威」の広河氏に盾ついた格好になる。その写真展は少数民族と民主化を求める市民を弾圧、逮捕投獄し民主主義を否定する軍事政権による国外向け観光キャンペーンの一環のような内容だった。軍政下における社会問題を取り上げた内容は皆無。著名な写真家の世渡りのうまさと思想信条のかけらもないような姿勢に、長年ビルマ(ミャンマー)の民主化運動と少数民族の自決権問題を取材してきた者として黙ってはいられず、軍事政権に肩入れするような写真家をDAYS JAPAN誌上で多用することは間違っていると指摘した。JVJA会員を辞める覚悟での私の問題提起に対する反論はない曖昧なままでその場は終わった。広河氏と関係が疎遠となったのも自然の成り行きだ。

 その後、広河氏はDAYS JAPAN編集長に専念することを主な理由にJVJA代表を退き、JVJAは共同代表制となった。広河氏がJVJAから正式に脱会したのは2008年。

 広河氏とは顔を合わすこともほとんどなくなったが、少しでも原稿料を稼ぐためにDAYS JAPANにも写真を売り込み、「老い~生きる達人」(6ページ、2007年2月号)、「証言者たちの戦争」(8ページ、2007年10月号)、「産む歓び」(8ページ、2008年7月号)などの特集が掲載された。

 そうした中で起きたのが東日本大震災と福島原発事故だ。発災日夜にJVJA仲間のメーリングリストに福島取材向かうことを提案。翌早朝、JVJAの野田雅也(以下敬称略)を新宿駅前で拾い、3月12日夜には福島県田村市の小学校に緊急避難したばかりの大熊町町民の取材を二人で開始。その晩には郡山市内のホテルに森住卓、豊田直己、綿井健陽、野田雅也と私をいれた5名のJVJA会員と広河DAYS JAPAN編集長が合流。

 翌13日は車3台、6人の共同取材を開始。福島第一原発から3.5キロの双葉町役場、双葉厚生病院、常磐線双葉駅界隈などを取材。町から住民の姿は消え、双葉厚生病院前では広河氏、森住、豊田が持参した三台のガイガーカウンターで空間線量を測定し、1000マイクロシーベルト毎時(1ミリシーベルト)以上という異常に高い放射線量を測定した。その事実はテレビなどでは全く報道されていない原発事故の怖ろしい現実を伝える内容だった。その日の夕方までにはネットを通じて共同取材の結果を拡散した。6人の合同取材はイラク取材をまとめた映画製作で知られる綿井氏が撮影し、You-Tubeに公開され再生回数7万回を超えているので既知の人も多いだろう。三日間の共同取材を通じ、広河氏からは無視されていることを痛感したことを覚えている。

 その後は広河氏と取材現場が一緒になることはなかった。そして今回の週刊文春報道で明らかにされた広河氏の著名度と「権威」を利用した、あまりにもひどい性暴力問題だ。「7人の女性が証言」と報道された。あってはならない女性の人権無視だ。JVJAは昨年12月31日に広河氏の性暴力問題についての緊急声明を出した。全文はJVJAのホームページで目を通していただきたいが、一部だけをここに抜粋しておきたい。

私たち自身、これまでに写真展や報告会などを広河氏と一緒に開催しておきながら、重大な人権侵害に気づくことが出来なかったことは、深く反省しています。「彼がそんな行為をするはずはない」とする権威主義に陥り、加担していたと言わざるを得ません。
 広河氏はまず、被害女性一人ひとりにきちんと謝罪し、その罪を償うべきです。さらに公の場で自らの言葉でもって、事実関係を説明し、その社会的な責任をとるべきです

 週刊文春の記事は、広河氏がジャーナリストとして長年積み上げてきた裾野の広い山を自らの行為でぶち壊してしまうほどの内容で、パレスチナ問題であれ原発事故であれ、弱者の側に立ち世間に訴えてきた姿勢とは真逆だ。活動を一時期共にした者としては俄かに信じがたいものだったが、広河氏とは疎遠のせいか記事内容に近い女性問題を私自身が耳にしたことも、JVJAの仲間から噂を聞くこともなかった。言い訳になるかもしれないが、福島菊次郎さんのような人間的魅力を広河氏に感じていなかったから、広河氏のプライバシーに関心がなかったからかもしれない。

 今回の報道がなければ、いずれはその名を関した写真賞が創設されることは間違いないほどの実績と知名度と影響力を持つのが広河氏だ。40冊を下らない著書。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、土門拳賞、日本写真家協会賞年度賞などジャーナリズムと写真関係の賞を総なめにもしている。個人的には、「写真記録 チェルノブイリ消えた458の村」の、放射能汚染により住民が二度と住むことが不可能となり、土砂で埋められる村々のスティール写真は鳥肌が立つほどに凄まじかった

 広河氏の権威と信頼の失墜、ジャーナリズム全体への信頼の失墜は測りしれないが、広河氏に触発されパレスチナ問題などをテーマにフォトジャーナリズムの世界に身を投じてきた同業者の失望感は尋常ではないだろう。私の失望感はそこまでではないかもしれないが、残念極まることには変わりない。

 ただ、ここで何よりも重要なのは、広河氏がジャーナリズム界で果たしてきた大きな役割を知らない一般の人の視点だろう。一般的には広河氏の実績がどう扱われるのかよりも、広河氏が被害者に対しどう責任を取るのかということだけに関心が集まるのが自然だ

 今年は敗戦から74年。国策の侵略戦争中、軍部の予算を利用して対外宣伝雑誌を次々と創刊した写真家がいる。彼の名前を冠した写真賞まで創設された名取洋之助だ。名取はLIFE誌のように洗練された日本のフォトルポルタージュの草分け的写真雑誌「NIPPON」を1934年に創刊。当初は日本文化や産業を海外に紹介する内容を目指したようだが、侵略を正当化する内容に変わり、「NIPPON」は44年の36号まで刊行された。軍部との関係を強めた名取は、プロパガンダ目的の広報雑誌6誌を創刊。陸軍による謀略雑誌「SHANGHAI」(1938年)や関東軍報道部出資の「MANCHOUKUO」(1940年)などを刊行した。

 戦後、名取が自らの戦争責任を総括した様子は残念ながらない。その点は、昭和天皇をはじめ、殺生を禁じる伝統仏教の各宗派や高名な僧侶も、侵略戦争を支持しながら戦後は贖罪の意識をあいまいにしたのが日本社会なので、名取だけを責めることもできない。

 写真界での名取の戦後の功績は、1950年から刊行された岩波写真文庫全286作の編集責任者として能力を発揮したことだろう。名取は1962年に53歳で没したが、日本写真家協会により新進写真家の発掘と活動を奨励するため、2005年に名取洋之助賞が創設された。戦争への積極的な関わりなどとは無関係に、「名取洋之助」の名を冠した賞は高く評価されている。だからといって、名取の戦争への積極的な加担をあいまいにすることは、後に続く後輩たちが同じ過ちを繰り返す言い訳を残すようなものだ

 写真は一度発表されると、撮影者の意図とは裏腹に一人歩きする。すでに評価が定着した広河氏の作品、著作、映画などを全否定する動きが今後あるかもしれない。しかし、10年、20年の長いスパンで見れば、性暴力被害者の女性たちの心情とは切り離された形で、訴求力があり忘れがたい作品は残るのではないか。それは広河氏の潔い責任の取り方次第でもあるといえる。

 自戒を込め、ジャーナリストに対する信頼の低下をどう回復するかは残された者が努力する他はないと覚悟している。


 

 

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2018年5月13日 (日)

【記録】414国会前大行動 安倍政権は退陣を!

(写真はクリックすると拡大します)

 国会前が久しぶりに決壊した抗議行動は5万人大集会。
昨年9月に我が田舎に引っ越してから私にとっても久しぶりの国会前での撮影だった。
早くも一月が経過しようとしているが、多くの人にこの日の記録を記憶に刻んでいただくため、アップが遅くなりましたがご覧ください。

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動画:バリケード決壊前

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動画(バリケード決壊前):元シールズわかこさん


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動画:「お前が膿だ!」~「総辞職!総辞職!総辞職!」


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2動画:国会前中央元シールズ&未来の公共

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動画元シールズ奥田くん

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澤地久枝さんが呼びかけたキャンドルデモ(午後6時前~)


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参考までに3年前の国会前の大抗議行動を思い出してください。
2015年9月 1日 (火):「戦争法案廃案!」「安倍政権退陣!」のコールが渦巻いた、小雨の中の10万人超国会前抗議フォトルポ


2015年9月29日 (火):SASPL(サスプル)からSEALDs(シールズ)へ。反安倍政権の協力な磁石!


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2018年5月 9日 (水)

8年目に入った原発事故後の福島~信毎掲載記事

(写真はクリックすると拡大します)

長野県の信濃毎日新聞紙上で上下連載(2018年4月19日、24日)された記事ですが、信毎購読者でない方が読めるようにJPEG画像にしました。クリックすると拡大し読むことができます。

 これまでのブログ記事も合わせて読んでみてください。


「被ばく牛を農地保全に活用する法人代表」
「牛は宝  殺処分は無意味」  
谷咲月さんの大熊町での活動を紹介しました。
Jpgweb2018年4月19日掲載


「被災地支援に通う原発難民の63歳」
「賠償の格差知らず猛省」
富岡町の自宅に帰還することを諦め、川内村住民の支援を始めた木田節子さんを紹介しました。
Jpgweb_22018年4月24日掲載


◯参考用:原発事故から7年目に入った取材を4回連載で掲載した昨年の信毎記事は以下で読めます。
2017年4月 9日 (日)「7年目の福島~復興遠い原発事故被災地~」(信濃毎日新聞連載)

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2018年1月 3日 (水)

避難解除しても人影は?3月になればまる7年が経過するが・・・

(写真はクリックすると拡大します)

 _yyy7355jpgsumijpgweb避難指示が解除された浪江町の水田地帯に姿を現した壁。除染土を積み上げたフレコンバッグの仮置き場だが、中間貯蔵施設の役割をしばらくは果たすことになるのだろう

原発再稼働に積極的に賛成する人も消極的に賛成する人も、政府=経産省の原発再稼働路線に協力する政治家も官僚も、電力の問題に鈍感な人も、新たな年の初めに以下の写真群をどうか見てほしい。(写真撮影はすべて2017年12月)

_yyy6560jpgsumijpgweb大熊町の帰還困難区域にある民家の子ども部屋に残されたCD。この民家で家族が集う正月を迎えることは二度とないだろう。

原発事故は本当に収束し、廃炉作業が始まったといえるのだろうか?
避難指示が解除され住民の本来の日常生活が再開されているのだろうか?
3月が来れば原発事故で10数万人の福島県民が我が家を追われてからまる7年が経過する。
にも関わらず、まるで国土の一部を喪失したかのような事態がこの日本で継続していることをことを納得できるようにどう説明するのか。
地震や台風などの水害の被災地であれば、7年あれば人々は前を向き生活再建の道を着実に歩いているだろうが。


大熊町の熊町小学校(注:大熊町は町長の自宅のある一地域を除き帰還困難区域)
_yyy6672jpgsumijpgweb校門を入ると空間線量は平常値の100倍超小学校の熊町小学校。校舎の時計は地震の時刻のまま止まっている。


_yyy6661jpgsumijpgweb生徒たちが避難したままの教室。


_yyy6701jpgsumijpgwebサッカーのゴールポストを覆い隠す雑草が繁茂する校庭。

 

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・3月11日のままで時間が止まった大熊町の小学校の教室。
・園児たちの遊ぶ姿のない富岡町の保育園。
・フレコンバッグの積まれたピラミッド群に占領された浪江町や南相馬市の水田地帯。
・津波で全壊しそのまま残されている大熊町の住宅。
・地震に耐えながらも、度重なる泥棒などによって荒らされ放題の大熊町の民家。
・防潮堤はできても、雑草の生い茂る荒野と化したままの浪江町請戸。
・家屋の解体は進めど、住民の姿は見えない浪江町のかつての商店街などなど

安倍首相率いる自民党公明党政権が喧伝する「復興」はどこに隠れているのか。

_yyy7619jpgsumijpgweb富岡町の夜の森にある富岡保育園。


_yyy6772jpgsumijpgweb熊川近くの津波で全壊した住宅はいまも手付かずに残されたまま。
近くの水田には大破した乗用車が数台、撤去されずに草に覆われていた。

_yyy7664jpgsumijpgweb南相馬市小高区の除染土仮置き場。フェンスで囲われ、黒いフレコンバッグが見えないようにしてあるが。

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 ひとたび東電福島第一原発のような過酷事故が起きれば、貧富の差を問わず、私たちが失うものは何だろうか。


大熊町の帰還困難区域に自宅のある木幡ますみさんの一時帰宅
_yyy6464jpgsumijpgsweb原発の真西7キロの帰還困難区域に自宅のある木幡ますみさん。農業用倉庫と経営していた塾の間の軒下は手が付けられないほどに荒れてしまった。

_yyy6438jpgsumijpgweb原発事故年から毎年、定点観測のように撮影している場所での木幡さんの一時帰宅の写真。


_yyy6583jpgsumijpgweb原発事故が起きるまで、毎年、米を家族で手広く作っていた水田に目をやる木幡さん。農家が農業の再開ができ、収入の目途が立たなければ、仮に避難解除となっても帰還する意味があるのだろうか。


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_yyy6749jpgsumijpgweb大熊町熊川沿いのかつての水田地帯。中間貯蔵施設として整備されつつある。一時的に30年の間、ここに保管し、その後はどこか別の土地へ運び出すという腹積もりなのだろうか。それとも、住民があきらめて土地を恒久的に手放すことに同意するまで時間稼ぎをするつもりなのだろうか?

_yyy6851jpgsumijpgweb住民の同意を得たと思われる土地だけが、虫食いのように中間貯蔵施設の仮置き場に変貌しつつある。

大熊町復興拠点(渡辺町長の自宅のある大川原地区)
 ちなみに、大熊町が31億円といわれる税金を投入し、イチエフから約8キロ西で新規に町役場を建設しようとしている大川原地区復興拠点は着々と整備され、予定地の更地化が進行中。場所的には常磐高速の西側になる。
 予定地の一部は渡辺町長所有の不動産。大熊町町民の一割にも満たない住民が帰ってくるかどうかもわからないのが復興計画の前提になっているにもかかわらずだ。一年前のブログでも紹介したが、販売して収益を上げることが前提のイチゴ栽培も多額の予算がついて計画されている。

Jpgweb大川原地区復興拠点地区の土地利用計画図(大熊町役場ホームページより借用)

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◯大津波で多数の犠牲者を出した浪江町請戸地区
_yyy7231jpgsumijpgweb浪江町請戸。無数に偏在していた漁船は完全に撤去されたが、全壊した家屋がまだ数軒残されている。雑草が津波の痕跡を覆い隠そうとしている。
_yyy7224jpgsumijpgweb原発事故収束作業中のイチエフの排気塔が肉眼で見えるのが請戸港のある請戸海岸だ。ここで生計を立てられる漁業の再開が果たして可能なのだろうか?

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家屋解体の進む浪江町駅前商店街
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◯まとめ
 私たちが空気のように当たり前に思っている日々の生活、仕事、学校、祖先から代々受け継がれ守られてきた田畑も家々も伝統も文化も、原発事故による放射能汚染のために手の届かないところに行ってしまう。バラバラに分断された家族や集落共同体も取り返すことはできない。
 
 それが、国による強制的な避難が解除された福島県の浜通りの冷たい現実なのだということを、日本人の大半はまだ気づいていない。いや、そうした事実をうすうすは知っているが、現実として認識したくはないというのが本音ではないのか。


新年の蛇足
_yyy6644jpgsumijpgweb大熊町の帰還困難区域を走りまわる放射線量モニタリングカー。
「20キロで低速走行中」だそうです。

 地震、津波、火山噴火という天災が古代から連綿と続く日本列島。原発事故という人災が再び繰り返されれば、あなたの町でもこのような車が低速で走り回る事態が起きることだろう。日本人はもう少し賢い生き方を選択してきたのではなかったのか。

PS:参考までに、一年前のブログは以下をクリックしてご覧ください
「年越せば、まる6年となる福島県大熊町。富岡町の松村直登さんの近況も」

◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729


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2017年12月19日 (火)

郡山市の米農家、中村和夫さんの急逝を悼む

(写真はクリックすると拡大します)

Jpgweb(2011年9月の「第1回 さようなら原発」集会にて)

 反原発集会でのムシロの幟がシンボルだった米農家の中村和夫さん(68)が、今年4月下旬、脳溢血で突然旅立ってしまった。2014年に直接取材しはじめる前から偶然の積み重ねで、原発事故が起きた年から中村さんを何度か撮影し、その後に中村さんの本業の現場を度々取材した者として、中村さんの死を悼み、その人となりを知ってもらうためにもブログ記事として残しておきたい。

 中村さんの急逝を知るのが遅すぎたことを深く反省したい。


Jpgweb(同じく2011年「第1回さようなら原発」集会にて)

 以下に引用するのはWeb毎日スポニチTAP-iに掲載した記事です。3年前に書いた記事ですが、中村さんの人物像が浮かび上がると思うので再録しておきたい。
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風評被害に抗う米農家・中村和夫     写真・文 山本宗補

 日本中のメディアが東京五輪招致を歓迎する報道しかせず、福島県民の五輪反対の声は封殺されている。

 「首相があれほどウソこき恥こき言って誘致してる。言語道断だ。福島県人を愚弄している。人の命と五輪とどっちが大事だ。五輪はご破算だとIOCに直訴したい」

2jpgsumijpgweb(有機マ米用の田んぼの前で、オリンピック誘致に反対の意志表示、2014年5月)


4jpgweb(カリウム肥料を散布。2014年5月)


_aaa3625jpgjpgweb(後継者の息子さんと田植え、2015年5月)

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 福島第一原発から西に70キロ。郡山市逢瀬町の専業農家の中村和夫さん(66)は、歯に衣着せぬストレートさで政府とメディアを批判した。

「福島県人からすると、世の中この重大な事故を忘れているのではないか。1号機から3号機までのメルトダウンに手も足も出ない。除染しても根っ子を止めないと話にならない。不安だらけだ。再稼働なんてあったもんじゃない」

 中村さんが原発事故に対して抗議し始めたのは、事故年4月26日の東電本店前の抗議以来だという。同年9月、大江健三郎さんらが呼びかけた第一回の「さようなら原発」集会に参加した。その時は、畳大ほどのムシロに、「放射能汚染下での生活 もう我慢できね 原発のバカヤロー」と大書した。6万人の参加者の中で最も目立ったのが中村さんの幟だった。東電旧経営陣らを刑事告訴した福島原発告訴団の一員として、中村さんは告訴団の抗議行動に必ず参加し、叫び声を上げてきた。


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(東京地裁前の抗議行動に参加。2013年2月)


 逢瀬町は、東西10数㌔に及ぶ郡山盆地西端に位置し、奥羽山脈水系からの豊かな農業用水があり、緩やかな傾斜が広がる農村。「この辺は粘土質で米以外は向かない」と中村さんは言う。米は7ヘクタール、野菜作りも手広い。いつも甲斐甲斐しく働く奥さんの喜代さん(61)と、後継者となった長男直己さん(36)の3人の家族経営だ。農繁期は援農者もある。

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7jpgweb(直売所に出す野菜に値札をつける喜代さん、2014年7月)


_aaa2799jpgsumijpgweb出荷するインゲンの収穫に忙しい和夫さん。


 今年の米価は暴落した。しかし、中村さんは採算ギリギリの販売価格を変えることはしない。消費者と直に繋がっているのが強みだ。原発事故前から産直で米の全量を個人消費者や生協などに販売。農協を通さないのは、猫の目のようにくるくる変わる農政に対する憤りがある。国の減反政策に大冷害のあった1993年まで100%協力した。ところが、国は米不足対策で一時的に米を輸入したが、ミニマムアクセス米としてその後も輸入を続け、食糧管理法が廃止された。国は輸入米を買い続け、農民には生産調整を求めた。農協に協力してきた思いは裏切られ、信用できなくなったのだ。

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 農村と都市との交流を考え、逢瀬町と湖南町の農家11件で取り組む農家民宿を9年前に開始。農家3件で郡山環境保全農業研究会を立ち上げ、化学肥料や化学合成農薬を一切使用しない「JAS」認定を受けた有機米作りにも励む。野菜は20人の農家が共同出資した直売所「ポケットファームおおせ」で販売し、郡山市内のイトーヨーカ堂にも卸す。直売所にはとうもろこし、トマト、きゅーり、かぼちゃなど、多種多彩の野菜が並ぶ。

 放射能の影響は少なからずあった。事故後の水田の土壌調査では3000ベクレル/kgあった。セシウム流出防止剤のゼオライトの散布量は加減し、水田によっては深耕もした。事故年に8ベクレルあった米だが、昨年は1.5ベクレルに減少。セシウム吸収抑制剤としてカリウム肥料を散布。今年はさらに減った。検出限界値は20ベクレル/kgなので事故年からND(不検出)が続くが、風評被害は覆せない。首都圏から農家民宿の参加者はいなくなった。震災前からのつきあいのある都会での出張販売にも影を落とす。

_aaa4137jpgjpgweb玄米の全袋放射能検査のために運んできた中村さん、2015年10月)

12jpgweb(お茶の水のイベント会場で米や野菜の直売、2014年10月)

「風評被害は払拭できていない。県の全袋検査で安全が確認されても、直売所の米の販売は、事故後は半分以下となり今も低迷している。地元の人でも嫌っている」

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関西の大学生らが中村さんの話を聞きに訪ねてきた、2014年3月)
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 希望が見えるのは学生たちとの農業体験を通じた交流だ。原発事故前に始まった文京学院大(埼玉県ふじみ野市)の学生たちは逢瀬町に通っている。今年10月の大学祭に、中村さんが野菜をトラックで運び入れ、学生たちが販売協力した。

「親戚の家に行くような感じ。学生たちにとっては第二の故郷です」(何度となく中村さん宅に農業の手伝いで泊り込んだ卒業生の星野麗音(れおん)さん)。来年からは日本女子大の学生との交流も始まるという。

 中村さんの新米の袋には自筆の感謝のことばが添えられている。
「震災から3年余、今だに福島県の農産物を敬遠されている中、あえて私どものお米、野菜を食べていただき御礼と感謝申し上げます」
 
 そこには、都会の消費者に最も理解してほしいメッセージがある。

「単に安いか高いかの物指しばかりでなく、農家が農地を守ることによって生物を守り、自然環境を守っていることも考えてください」

(毎日スポニチTAP-i 連載第五回 2014年12月掲載)

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 ちなみに日本の農業を守り、食料安全保障の要ともなってきた「種子法」が安倍政権により来年3月で廃止されることに対し、和夫さんは「ダメだー、こりゃ!」と反対運動に参加する意思を見せていた。モンサントなどに代表される多国籍種子企業に日本農業が支配されるこ可能性が高まるからだ。良い種子の価格が不安定化し、農家の廃業に拍車がかかり、食料自給率が現在の37%から10%代にまで落ち込むことも懸念されている。

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 中村さんの米袋には、「中村さんちのお米」の文字とともに、大きな大きなオムスビを手に、いつも笑顔の和夫さんの似顔絵のイラストが印刷されている。

 中村さんが前兆もなく倒れたのは田植えを控える農繁期。種子法廃止反対の署名運動に動いたのは、突然の悲しみに向き合う余裕もなく農作業に追われた喜代さんだった。

 「お父さんがこれはやりたかっただろうということを、これからもやってあげられたらいいなあと思っている」

 その喜代さんによると、ある人が中村さんの突然の死に対し、「アクセルを踏みっぱなしで、ブレーキをかけ忘れたんじゃないか」とつぶやいたという。

 和夫さんの笑顔が印刷された米袋はこれからも使い続けていくと喜代さんは話した。中村和夫さんの急逝を悲しみ、中村和夫さんの実直な生き方が受け継がれ、花を咲かせ実を実らすことを念じて止みません。

                                           山本宗補  合掌

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2017年4月 2日 (日)

浪江町と富岡町の「避難指示」は解除された。早6年。でもまだここ。

(写真はクリックすると拡大します)

(注:写真はすべて3月8日から12日の間に撮影。
原発事故から7年目に入ったといえる福島県の全体像の一部です)

_yyy1188jpgsumijpgweb浪江町の「痛い」除染。

 河北新報によると、大熊、双葉両町の全域と近隣5市町村の帰還困難区域を除き、福島県内の避難指示が、31日に浪江町と飯舘村、川俣町山木屋地区で、4月1日に富岡町で解除された。

 解除対象は約3万2000人浪江町が5841世帯1万5327人、飯舘村は1753世帯5859人、山木屋地区は548世帯1160人。富岡町は、3830世帯9578人
 
 「原発事故では、最大で11市町村の計約8万1000人が避難対象となった。これまでに田村市都路地区東部、川内村東部、楢葉町、帰還困難区域を除く葛尾村と南相馬市の一部などが解除された。新たな解除地域を加えると、面積で67.9%、当初人口との比較で約7割が居住可能となる。

 大熊、双葉両町の全域と帰還困難区域は4月以降も避難指示が継続され、約2万4200人の避難生活が続く政府は、帰還困難区域内に「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)を整備し、2022年をめどに避難指示を一部で解除する方針を示している」(河北新報3月30日web版)

 常磐線小高~浪江間が運転再開されたとか、富岡町に「さくらモールとみおか」が全面開店したとか、双葉署が6年ぶりに富岡に帰還した、などなど。新聞テレビなどの報道によると、避難解除により復興が一気に加速されたというような空気がたれ流されている。果たしてそうなのか?


Photo_2福島民報3月31日より


Photo_3福島民報4月1日より


写真群から様々な情報を汲み取ってほしい

避難指示が解除された浪江町の「希望の牧場・ふくしま」一帯。
_yyy2539jpgsumijpgweb希望の牧場・ふくしまの牛たち。放射能に汚染され、経済的価値はゼロとなったが、原発事故を生きのびた生き証人たちだ。


「除染して避難解除しても、さようなら浪江町なんだ!」と、以前から力説する吉澤正巳さんも、やっぱり悲しいんだ。
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ボランティア獣医の伊東先生
_yyy1355jpgsumijpgweb痩せ牛には、人間でいえば点滴が必要。

_yyy1400jpgsumijpgweb伊東先生が出版したばかりの、限りなく現実に近い寓話的フィクション、「福島ノラ牛物語」(彩流社)。主人公は野生化した雄牛。本能に従い、家畜として生きる道を捨て、自らの未来を選択する姿が感動を呼ぶ。
解説は私が書かせてもらいましたので、それも併せて読んでみてください。

_n616371jpgsumijpgweb牧場の除染後のフレコンバッグが、一角を占領するかのように置かれていた。5000袋とも1万袋ともいわれる分量だ。


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帰還困難区域として残された浪江町津島地区
1jpgweb浪江町の残された帰還困難区域となった津島地区。津島小学校は校舎だけはしっかりと残っているが・・・。


1jpgweb_2津島地区の水田は、ことごとく楊の木が群生し、水田だったとは思えない変貌を遂げつつある。


2jpgweb後10年もすれば、森になりそうな勢いだ。

二年ぶりに見る、イチエフから24キロにある関場さんの自宅と、大内さんの自宅と墓地
1jpgweb_3津島地区に自宅のある関場さんの一時帰宅に同行。二年ぶりの関場さんの家は、獣によりさらに足の踏み場もない状態。

_yyy2618jpgsumijpgweb富岡町の木田節子さんの自宅で見たもの同じだが、自治体が各家庭に配布した原発カレンダーが2011年3月のまま、架かっていた。
「原子力発電所で事故などが起こったときは、様々なほうほうで知らせてくれるよ」との文言が虚しい。浪江町の馬場町長は、国からも東電からも何の連絡も来なかったと非難するのが常だ。


_yyy2729jpgsumijpgweb_2裏山への登山道は熊笹に覆われた。

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_yyy2785jpgsumijpgweb家の周りはイノシシで荒らされているが、地震でびくともしなかった大内孝夫さんの自宅。二年ぶりの線量は、少しは下がったが、まだ2.7マイクロシーベルト。周辺の広大な森や山を除染しない限り、自宅の除染は無意味だろう。

_yyy2806jpgsumijpgweb大内家の墓のある墓地では、池田さん(57)が、1年前に病死した母親(88)の納骨に来ていた。

_yyy1499jpgsumijpgweb大内孝夫さん(84)は戦前は一家で満蒙開拓団として満州に移民した。しかし、母親を皮切りに、家族8人を失った。棄民の結果、福島県に生還できたのは弟と、シベリア抑留後に生還した父親だけだった。津島は戦後に開拓入植して切り開いた土地だった。

_n616586jpgsumijpgweb大内さんが避難生活を続ける杉内仮設は、ほとんどが空き部屋となり、残っているのは1割程度のようだ。大内さんも、復興公営住宅に入居待ちだ。

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浪江町請戸港
_n617220jpgsumijpgweb6年ぶりに漁師が試験操業の出漁に出る前日の請戸港。


_yyy2951jpgsumijpgweb500億円の予算で稼働する仮設焼却炉が請戸港を前にして建っている。


_yyy3003jpgsumijpgweb請戸地区には、まだ解体されずに残された家屋が10軒ほど残されている。


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避難解除された富岡町
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 除染しても農業の復活が見込めない農地40ヘクタールを利用した、「富岡復興メガソーラー・SAKURA」。出力30メガワット。発電開始は今年12月の予定。売電収入の一部が地域の復興に活用されるという。
_yyy2243jpgsumijpgweb富岡町のメガソーラー、「富岡復興メガソーラー・SAKURA」。


_yyy2155jpgsumijpgweb「富岡復興メガソーラー・SAKURA」を背景に立つ松村直登さん。

_n616793jpgsumijpgweb松村さんは牛23頭とポニーを生かし続けている。エサやり後の一服。


_yyy2278jpgsumijpgweb松村さんの取材にかけては、情熱を燃やし続ける共同通信社の原田さん。酒量はめっきり減ったようだ。


_yyy1922jpgsumijpgweb甲斐犬のイシマツ。イノシシも仕留める生まれつきの狩猟犬。母は純潔の甲斐犬、父は原発事故後に保護した白い大型犬の雑種。

3jpgweb避難指示が解除される前から夫婦で自宅に戻って生活する半谷信一さん(83)。松村さんは、原発事故翌年に半谷さんから頼まれ、ポニーを預かり牛たちと共に生かしている。

「水も水道も、トイレもあっぺし、電気も来てる。問題ねえ」と半谷さん。しかし、現実は、「みんな家壊してけえって来ねえな」

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南相馬市原町区の酪農家・滝沢昇司さん
_n616608jpgsumijpgweb本業は酪農家だが、原発事故後に脱原発の意思で発電事業に力を入れ、売電が順調な滝沢昇司さん。牛舎の屋根を皮切りに、母屋、牧草地、大型農業機械の駐車場の屋根などを活用。(南相馬市原町区馬場)


2_jpgweb酪農もエサの内容などの改善を経て安定してきたところだという。日々の出荷量は800kg。自宅の周辺は特定避難勧奨地点となり、避難指示対象から、運よく外れたが、事故後の三ヵ月は絞って捨てるしかなかった。

_yyy1789jpgaumijpgweb牛舎で生活する子ネコたち。


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黒いフレコンバッグでなければ問題ないのか。除染後の福島市内。
 東電と国と県による無責任の象徴がこれらのグリーンシートで覆われた除染廃棄物の山だ。
_yyy1482jpgsumijpgweb客商売の駐車場スペースに置かれたままの除染廃棄物。


_yyy1459jpgsumijpgweb福島市内。自宅前の駐車場スペースに置かれたままの除染廃棄物の山。除染は一昨年終わり、その後、いつ撤去されるかは、行政からの連絡はないと、住民の方。

_n616560jpgsumijpgweb民かと民家の隙間に置かれたままの除染廃棄物。


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詩人・関久雄さん(福島市内)
Dsc_4865jpgsumijpgweb福島市で、4月22日の佐久アースデイと前日21日の小諸での関さんトークの打ち合わせ。

Dsc_4940jpgsumijpgweb4月21日、小諸エコビレッジでのトークと詩の朗読会


4月21日(金)午後6時から、関さんの「原発いらない 命が大事」トークと詩の朗読。
佐渡へっついの家保養キャンプと福島のいまについて話してもらいます。
ゲストには内田ボブさんと詩人の長沢哲夫(ナーガ)さん。場所は小諸エコビレッジの常設ゲル。
参加費は1000円。

・4月22日(土)は佐久アースデイ会場の特設ゲルで、私のミニ写真展を開催しますが、その場で関さんに、トークと詩の朗読をやってもらいます。
2017佐久アースデイのポスター。


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「第6回原発いらない地球の集い」(主催:原発いらない福島の女たち)
(会場は福島市民会館)

Dsc_4969jpgsumijpgweb詩の横断幕「福島の不幸をみてください」


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_yyy2406jpgsumijpgweb3月11日午後2時46分、黙祷。


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「東京電力は責任をとれ!」
「福島の悲劇を繰り返すな!」
「福島事故は終わっていない」
「第二原発は廃炉にせよ!
「放射能拡散をやめよ」
「子どもたちを保養させよ!」
「住宅の無償提供を打ち切るな」
「全国の原発を再稼働するな」

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_yyy2304jpgsumijpgweb脆弱な日本列島。
仮想敵国から、核攻撃、ミサイル攻撃されなくとも自滅する原因があっちにもこっちにも。
事実、原発事故という人災により、国土の一部は喪失されたも同然。


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_yyy3041jpgsumijpgweb東京電力福島第一原発事故から7年目に入った3月12日。
浪江町請戸港の頭上に登った満月。解体されない民家が点在する。


取材後記
 「除染は終りましたので、どうぞご自宅に帰ってお住みください。これからの生活は、ご自分でお願いします」

 広い範囲の避難指示の解除。国と東京電力は、国の指示で避難した住民にそう言っているに等しい、というのが私の実感だ。では、なぜ?

 東京五輪開催の言い訳に過ぎない。原発事故から立ち直り、復興も始まり、五輪開催も心配ありませんよ、と国内外に喧伝するためだ

 除染も復興も中途半端で約束違反。もちろん、過酷事故の収束廃炉の目途が立ったわけでもない。政府の見え透いた狙いは明らかではないか。無責任にもほどがある
 
 誰しもが、できることならば帰りたい。だが、現実にはすでに6年経ち、生活基盤はすでに故郷にはない。
これから、我が家、我が故郷の町や村に帰還する住民は、果たしてどのくらいいるのだろうか。

 仮に避難解除対象人口の10%や20%ならば、合計で3200人から6400人に過ぎない。
それも、60歳以上で、高齢者がほとんどだろう。残念ながら、各自治体の存続は、
住民数からいっても、税収からしても、失われることになる。合併するしか、存続の道はないだろう。

 なお、今回の取材の詳報は、信濃毎日新聞文化欄で4月3日から4回連続で掲載されます。
信毎読者のみなさま、ご期待ください


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2016年12月18日 (日)

年越せば、まる6年となる福島県大熊町。富岡町の松村直登さんの近況も。

(写真はクリックすると拡大します)

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大熊町新町のファミリーマート。年越せば丸6年になろうとしているのに、店内は3・11直後のまんま
地震による被害だけならこの状態で残されることはありえないだろう。(注:撮影は全て11月25日~26日)

 定点観測のように毎年一時帰宅に同行している大熊町の木幡ますみさんの一時帰宅に今年も同行した。facebookではすでに紹介済みだが、年内の内にブログにしておきたい。

木幡さんの自宅はイチエフの真西7キロにあり、帰還困難区域内。だが、自宅前を自由往来が許可されている国道288号線が走るため、避難解除された状況に近い。国道288号線は除染土などを運ぶダンプカーが行ったり来たりして、国道6号線よりも交通量が多い印象。それゆえか、空き巣に狙われやすいようだ。

_yyy4459jpgsumijpgweb大きな農家風の自宅前の坂道を登ってゆく木幡さん。


_yyy4494jpgsumijpgweb居間の荒らされ方が尋常ではなかった。ドロボウと動物も走り回ったような散らかり方。


_yyy4476jpgsumijpgweb一番広い部屋で木幡さんが掲げて見せてくれたのが夫の仁さんの弟さんが高校生のときに描いた絵。若い頃は絵描きを目指したというが、半身不随になりかねない病気を克服したばかりだという。


_yyy4531jpgsumijpgweb居間にある扉が閉まったままの仏壇から、夫の母親の遺影を持ち出した木幡さん。なぜか仏壇は荒らされた形跡はなかった。


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_n611038jpgjpgweb庭先の空間線量は3マイクロシーベルト前後だった。線量は明らかに下げ止まりだ。


_yyy4603jpgsumijpgweb土蔵が何者かによって開けられ、重い金属製の扉が閉まらないようにつっかい棒がされていた。


_yyy4634jpgsumijpgweb敷地内にはイチョウの大木が二本ある。銀杏が落ちて腐り始めていた。放射能測定のために、銀杏を収集する木幡さん。

 後日判明した銀杏の放射能汚染の結果は次の通り。
イノシシが大好物?の銀杏の外皮:セシウムの合計861ベクレル(137が716、134が145。カリウム40が596ベクレル)。
人間が好物とする銀杏の実:セシウムの合計574ベクレル(137が485、134が89。カリウム40が504ベクレル)

_n611061jpgsumijpgweb定点観測の場所に立ってもらっての写真。昨年までと比べると、坂道をふさぐ雑草や雑木が刈り払われている印象。木幡さんによると、同野上地区の住民の希望を東電が聞いたようで、住民サービスとして社員が家に通じる道や庭先などの雑草刈りに今年から開始したようだ。


◯木幡家の農地
_yyy4687jpgsumijpgweb国道288号線から枝分かれして大熊町町内に向かう道路端に立つ看板。「熊川海水浴場」の案内板が痛々しい。


_yyy4670jpgsumijpgwebこの道路の両サイドは、木幡家の水田だったが、いまはセイタカアワダチソウとススキの荒野と化して久しい。道路端5ⅿほどの雑草が刈り取られている。


イチエフの周辺と中間貯蔵施設予定地の現状
_yyy4763jpgsumijpgweb(財)福島県栽培漁業協会のカマボコ屋根が見えるが、イチエフと隣接しているヒラメやアワビの養殖場。


_n611127jpgsumijpgweb当然のことだが、いつ来てもここは高線量だ。この建物の周辺で撮影したり測定したりして、30分少々いるだけで頭が重く感じる


_yyy4866jpgsumijpgweb大津波により、養殖場の全ての建物は壊滅的被害を受けた。どれも、手付かずのまま放置されている。


_yyy4878jpgsumijpgweb配管もズタズタのまま。


_n611150jpgsumijpgweb養殖場裏手は太平洋が見渡す限り広がる。8.5マイクロシーベルト前後の空間線量を示した。

・カマボコ型の養殖場の脇に生い茂っていた野バラの蕾を木幡さんは収集し、放射能測定に出した。
その結果は以下の通りだった。
セシウムの合計が452ベクレル(137が370、134が82)。カリウム40は807ベクレル検出した。


_n611221jpgsumijpgweb運用されている中間貯蔵施設の一角。養殖場からは数百メートルしか離れていない元工業団地。放射線量が元々高い一帯だ。数値は10マイクロシーベルト近い

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_yyy4713jpgsumijpgweb津波により全壊した民家が手付かずで残されたままの熊川一帯も中間貯蔵施設予定地だが、現状は仮置き場として運用されているようだ。ダンプカーが頻繁に出入りしている。
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_yyy4956jpgsumijpgweb3・11の地震大津波により大きな被害を受けた太平洋岸450キロ沿線の中で、全壊家屋がいまも放置されたままの場所は、おそらく大熊町のこの一帯だけではないだろうか。原発事故による放射能汚染の怖ろしさを象徴しているのではないだろうか

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_n611245jpgsumijpgwebこの新興住宅街も中間貯蔵施設予定地。各地権者の同意なしには、貯蔵施設のための整備も開始できないわけだから、一年後もこの住宅街はおそらくそのままだろうと推測する。放射線量は7マイクロシーベルト前後を指す。
地震に耐えても放射能に汚染され、もはや人が住むことが憚れる瀟洒な住宅。これらも物言わぬ原発事故の生き証人ではないのだろうか。


_yyy4712jpgsumijpgweb熊町小学校も予定地に入る。写真は校舎前の校庭との境となる道路。もはや森状態だ。


_yyy4709jpgjpgweb_2原発事故前から建つ看板。「福島原子力企業協議会」の会員企業を列記しているようだ。東芝、日立、鹿島建設などの企業名が見える。東電のロゴが古いままだ。


大熊町復興拠点計画

Photo大熊町復興拠点計画図。
福島民報2016年11月26日から

・荒唐無稽というべきか、笑止千万というべきか、狂気と評するべきか。大熊町はイチエフから8キロの大川原地区を復興拠点に町役場の新設や広大なゴルフ場建設(ゲートボール場にしては広すぎるが)などの「復興」計画を公表した。

 この計画図にはないが、木幡ますみさんによると、大熊町は32億円の予算でイチゴの水耕栽培をこの地区で展開する計画になっているという。住民のほとんと帰還しない場所に役場を新設するとか、販売の見通しが立ちそうにないイチゴ栽培に手を出すとか、住民の税金や復興予算を活用するには全うな感性と理性的判断ができているとは思えない計画が目白押し。


_n611265jpgjpgweb自宅から持ち出した遺影をスクリーニング会場のスタッフが測定した。問題なく持ち出せた。

木幡さんのブログは「真澄の空」。原発に反対する大熊町町会議員として奮闘する木幡さんに注目!


富岡町の自宅に住み続ける松村直登さん
 富岡町の松村直登さんを半年ぶりに訪ねた。、

_n611323jpgsumijpgweb牛の囲い込みは除染のために空っぽだった。牛たちはどこへ行ったのだろうか?


_yyy5052jpgsumijpgweb川の反対側の水田が囲い込みとなり、牛たちは健在だった。この日は朝の冷え込みが厳しく、田んぼの水の表面は薄氷が覆っていた。
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_yyy5087jpgjpgwebエサやりをする松村さん。


Sumi_yyy5099jpgwebポニーのヤマは牛たちと共にピンピンしている。身体が二倍以上もある牛たちにいじめられることなく、エサを食うヤマは牛よりも生命力が強いのだろうか?


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_yyy5191jpgsumijpgweb松村さんは、来年は養蜂を本格的に開始したいと話していた。


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 これは富岡町の福島第二原発。先日の地震により1ⅿの津波が襲来したと報道された。(11月26日撮影)
問題は11月22日の福島県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震で、福島県は震度5弱だったが、その程度の揺れにより、3号機の使用済み燃料プールの冷却装置が1時間半ストップした事実の重みだ。
東電はこの第二原発の廃炉を決断せずに、虎視眈々と再稼働を目論んでいる
ことも併せて知っておく必要がある。_yyy5223jpgsumijpgweb

◯蛇足:一年前の大熊町は以下のブログ記事でごらんくささい。
大熊町・双葉町・浪江町 帰還困難区域の現状とは?


◯取材活動支援のお願い
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2016年10月27日 (木)

あなたも行きたくなる、「そうだ!希望の牧場へ行こう!バスツアー」 第一回の報告

(写真はクリックすると拡大します)

Dsc_3701jpgjpgwebシン・ゴジラを宣伝する自衛隊の広報ウィンドーから始まったツアー。
シン・ゴジラと陸海空自衛官募集が合体したポスターと、陸上自衛隊福島駐屯地創立63周年記念行事のポスターが貼り出されていた。(福島駅の地下通路)
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10月1日(土)、新幹線福島駅改札出口で集合した一行16名(参加者は関西圏や首都圏などからで、7割が女性)は、駅前で小型バスに乗り込み、浪江町と南相馬市との境に位置する希望の牧場へと向かった。全村避難となっている飯舘村を通り抜けるルートのため、フレコンバッグの仮置き場(吉澤さん流に表現すると、フレコンバッグの古墳地帯)を右に左に見て、真東の太平洋の方向へと向かった。飯舘村ではトイレ休憩後にバスを降り、ツアー参加者は黒い袋の山をまじかに体感した。

_n619329jpgsumijpgweb神戸から参加したご夫婦は、持参したガイガーカウンターで空間線量を計ってみた。希望の牧場の放射線量が相当に高いことを後で実感することになる。(飯舘村)

_n619337jpgsumijpgweb用意周到の希望の牧場スタッフ。針谷さんと柴田さんのコンビで、移動するバス車内で牧場や吉澤さんについて、参加者の知識を確かめるというか、笑えるクイズを出して、あきさせない努力をしていた。

Q:「吉澤さんはバツ3である?」というクイズもあった。正解は???

Dsc_3709jpgsumijpgweb用意周到な旅のしおりまで配布された。


 昼食は今年7月に避難解除されたばかりの南相馬市小高区で営業再開している「双葉食堂」。てんこ盛りのラーメンなどが特徴。昼食を済ませ、いよいよ「希望の牧場」に到着。入口でバスを降り、歩いて広い牧場の中ほどへ向かう。原発事故を生きのび、放射能汚染されながらも、天命を全うしようとしている300頭をこえる牛たちは、我関せずの態度で、牧草地で午睡を楽しんでいた。
 一見、何の変哲もない高原の、のどかな牧場に観光客の一団が到着したような風景だが。

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 数名の先客もいたため、吉澤節はすでに全開だった。
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_yyy0853jpgjpgweb両手には真っ赤な花火とも爆弾とも見えるものを持ち、道化師のごとくに熱弁をふるう吉沢さん。

「アベマリオといいます。北朝鮮ではありません。次の原発大事故はおそらく2020年。福島事故の次は、原発の無理やりの再稼働によって次の大きな原発事故が起きるでしょう。東京直下の大地震。東南海の大地震。2020年が危ない!」(10月28日、訂正しました)

代々木での吉澤さんのパフォーマンス動画。9月22日撮影

Dsc_3744jpgsumijpgweb吉澤さんがガイド役となり、バスで除染作業たけなわの浪江町の街中を抜け、請戸海岸に向かった。


_n619656jpgjpgweb二度と住むことのできないと判断された住宅などが解体され、除染が終了した更地があちこちに点在する希望の牧場に隣接する集落。


_yyy1223jpgjpgwen地震により傾き、倒壊は免れているものの、解体される運命にある国玉神社。除染は完了しているが、設置されたモニタリングポストは0.6マイクロシーベルト近くを示していた

 除染しても下がったとは言えない町に、住民のみなさんは帰っても大丈夫ですよと言っているかのように、浪江町の一部の避難解除は来年3月に実施されるようだ。
国が国民に示す「安心安全」の基準がこれ。


Dsc_3751jpgjpgweb請戸海岸で吉澤さんの解説を聞く参加者のみなさん。浪江町では津波などにより180名以上が亡くなったいる。津波の被害は請戸海岸一帯に集中した。津波で流された漁船は全て撤去され、住宅の基礎部分の撤去工事が始まっていた。それでも、イチエフの排気塔が目の前に見える請戸海岸は、津波の爪痕はいまでもあちらこちらに残されたままだ


File1009jpgsumijpgweb請戸海岸には、500億円の予算で、除染で出た可燃性の放射性廃棄物を焼却する仮設焼却炉が稼働している。三菱造船系のJVが請け負った、減容化という美名の、実際にはセシウムなどが濃縮された灰を生産する焼却炉だ。(この写真は今年3月に撮影)


101jpgwebツアー初日、夜は夕食と交流会で参加者と吉澤さん+牧場スタッフは親睦を深めた。南相馬市の居酒屋にて。

10月2日(日)ツアー二日目

_n619543jpgjpgweb気性の荒いといわれるホルスタインのガガちゃん。


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原発事故由来の放射能の被ばくにより、経済的価値のなくなった牛たちだが、早朝から日課のエサを食べる仕事が始まっていた。
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参加者の数名がボランティアで早朝からのエサやりに参加。やる気満々の面々だ。
誰もが牛だけでなく、生きとし生けるものの命をいたわる気持ちが強い人たちだ。

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Dsc_3837jpgjpgwebエサやりの途中の休憩タイムは、牧場でしか味わえない吉澤さんとの会話がはずむ。人生経験豊富な女性たち。遠慮なき質問も飛び交う
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 午前中の買い物などを済ませ、エサやりに参加しなかった残りの一行が牧場に到着後は、原発事故後に死んでいった200頭余りの牛たちが葬られている場所で献花と焼香。牧場の奥に建つ吉澤さんのお姉さんの家での昼食と希望ミーティング、そして記念写真などを撮り終え、第一回ツアー一行は福島駅へ向かった。

Dsc_3844jpgsumijpgweb持参した線量計で空間線量を測定して驚く参加者。牧草地の一角だが、平均して1.9マイクロシーベルトある。牧場は原発から北西方向の一角だ。

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原発事故から1~2年の牧場は、犠牲牛が続出。これまでに200頭近い牛が死んだとされる。大雨により、盛り土が流されたようで、牛の骨が露出していた

_yyy1004jpgsumijpgweb焼香し、冥福を祈る参加者。


_yyy1052jpgsumijpgweb空には不思議な雲がたなびいていた

Dsc_3861jpgjpgweb二代目の福ちゃんと記念写真を撮る参加者。

Dsc_3879jpgsumijpgweb昼食後の希望ミーティング。


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Kinenwebバスに乗り込む前のツアー参加者のみなさんと吉澤正巳代表+お姉さん&スタッフのみなさん。晴天にも恵まれた二日間だった。

_yyy1118jpgsumijpgweb普段は仲のよくない???吉澤姉弟が、福島駅へ向かうツアー参加者を仲良く見送った

Dsc_3885jpgsumijpgweb普段の静けさを取り戻した牧場の夕方。一見、平和としか見えない牧場の光景が広がっていた。


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_n619678jpgjpgweb除染が町内各地で進行し、そこらじゅうに汚染土の仮置き場が作られている浪江町。
全町避難で住民の生活する姿のない町は、確かに「フレコンバッグ古墳地帯」と呼ぶのが相応しい状況と化しつつある。
これでも浪江町の一部の避難解除は来年3月に予定されている。

Dsc_3890jpgsumijpgweb東京電力の原発事故から5年半。除染完了した場所に設置されたモニタリングポスト。除染しても、0.4マイクロシーベルトと高い数値

 1泊2日のツアーに参加するだけで、原発事故の深刻さや、故郷に帰りたくても帰ることのできない住民の心の内が、より一層身近に感じられること請け合いだ。次回はあなたも参加してみてはいかがですか。


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