東日本大震災(津波被災地)

2013年9月25日 (水)

東京五輪は被災地の復興に役立つか?Part2(大津波被災地で聞いた)

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 岩手県、宮城県の大津波被災地を一年ぶりに回った。昨年9月にフォトルポルタージュ「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」(彩流社)出版後に、拙著で紹介した被災者のみなさんを訪ねて回って以来となってしまった。

 そのこともあって、現場から1年も離れてしまうと、自分自身は、もう旅人のような目線しか持っていないような気にもなった。このブログ記事は、駆け足で取材したこともあり、私がこれまで何度か取材したことのある大津波被災者などの声に限られ(もちろん、偶然の出会いで取材できた被災者も含まれる)るので、全体の一部を反映したものであることを、前もってお断りしておきたい

 とはいえ、大津波の被災者は、東京五輪招致を祝うことは、自分たちの生活再建の日々とは無縁で、被災地の復興を遅らせるだろうと漠然とした不安と心配を抱いていることは確認できたと思っている

岩手県釜石市、大槌町
_aaa04592011年3月26日。釜石市鵜住居の4棟のアパート。 _aaa6637同、2013年9月17日。

_aaa48232011年4月25日 大槌町吉里吉里 _8ds2968同、2013年9月17日

_aaa05192011年8月16日 大槌町の江岸寺墓地から大槌町役場の方向をみる。 _8ds2945同、2013年9月17日

_aaa02172011年3月25日。釜石市魚市場跡。 _aaa3059同、2012年9月27日。 _8ds3061同、2013年9月17日。

 大震災直後の写真と今回の写真を並べて見た。大津波から二年半でガレキはキレイに片づけられ、一見、復興が着実に進んでいるように見える。しかし、被災者の生活再建も、住居の高台移転もままならない目に見えない厳しい現実があることを心して置く必要がある。

 東京オリンピック招致と関連施設建設工事は、津波で住むところを全て失った避難民の高台移転が始まる頃と時期が重なる。

釜石市の19歳
_8ds3080web_2岩崎翔さん(19歳)。
「五輪が来ても来なくても、どうせ東京の人たちは俺たちのことなんか忘れちまっているさ。だったら自分たちで復興すればいいさ」。2013年9月17日

 釜石市鵜住居の自宅は流され祖母が死亡。当時は高校生。小学校からの同級生二人が流された。女の子の遺体は見つかったが、男の子の友人で中学まで部活で野球を一緒にやっていた同級生のメールアドレスはいまだに消せないでいると話した。「どこからともなく帰ってくる気がすることもあるから」
 工業高校を卒業後は地元の復興に関わる仕事についているが、もしも大震災がなければ、今ごろは仕事を求めて東京に出ていたと思う、
ともいった。

☆釜石市片岸町の被災者、中村イヨ子さんの話(海に近い自宅は土台を残して流され、ご主人の遺骨も見つからないまま)
 中村さんはいち早く仮設を出て、昨年12月から釜石市の内陸部の求めた土地に平屋を建てて移り住んだ。
「7年後に被災者が仮設を出て、家で暮らし、生活再建ができているならば歓迎するわ。オリンピックは話題にもならない。年金暮らしの私たちには何の得にもならない」

大槌町吉里吉里の漁民
_aaa6658今年8月の盆明けにようやくかさ上げされた岸壁が出来上がった。吉里吉里の港。殺菌設備がまだ完成していないため、養殖カキは収穫後に広島県に送ってから処理され、大槌産として市場に出荷される流だという。

_8ds3003web山崎由紀子さん(真ん中、45歳)。祖母が流されて死亡した。
「日々の生活を考えるので精一杯で五輪のことなど話題にもならないわ。他所の国で起きている騒ぎみたい。予算も人もどんどん減っていくでしょう。そうでなくとも復興が遅れているのに」

 年代の異なる三人共に、同じ気持ちだった

 ちなみに、山崎さんのご主人の漁師、朋洋さんは自分たちの置かれた状況よりも原発事故被災者を心配していた。
「テレビで見たが、目に見えない放射能で、福島の人は家があっても帰れないのは辛いだろうな。漁をしても、汚染水の問題で、宮城県の魚は値が下がっているという話だし、俺たちも燃料の値上がりで、大きい船での出漁は割に合わないから止めた」

_8ds3022_2(三人ともに大槌町吉里吉里の漁師の奥さんたち。
手にするのは吉里吉里特産の養殖ワカメ。注文したい方はこちらへご連絡ください。
新おおつち漁業協同組合吉里吉里養殖組合(tel:0193-44-2321まで)

_aaa6663吉里吉里に完成したマンション型の五階建災害公営住宅。希望者が予想を下回り定員割れしているそうだ。将来、一戸建てを建てる時に補助を受けることができないので、高台移転後に一戸建てを建てたい被災者は敬遠しているのが理由だと聞いた

☆高橋英悟吉祥寺住職の話(約180人をこす檀家が亡くなった大槌町吉里吉里の高台にあるお寺)
「五輪に関しては、私は現実的です。ただダメだというのではなく、それに乗り遅れないように、忘れられないように決意して、未来の子どもに何を残してやれるのかも考えて取り組んでゆくことが大切ではないかと
大槌町は行政も含めて努力している。被災地が何を求めているかを官僚に伝えていく努力が不足しているのかなあとも思う

岩手県大船渡市、陸前高田市
114252011年4月25日。大船渡市 _8ds3118同、2013年9月18日。線路が全て撤去されていた。

_aaa06832011年3月27日。大船渡市中心部の惨状。 _8ds31172013年9月18日。撤去された線路は舗装され、バス道路となっていた。 _aaa67259月18日。線路がガードレールに囲まれたバス道路となった。


_aaa09002011年3月27日。陸前高田市市街地の惨状。 _aaa67872013年9月18日。陸前高田市はどこよりも早くガレキは撤去され、一部はかさ上げされた盛土が始まっていた。そんな市街地のど真ん中で、不思議な光景を見つけた。雑草の覆われた畳10畳ほどの広さの区画の真ん中に、小さな家庭菜園を見つけたのだ。もしかしたら昨年から始まっていたのかもしれない。所有者の「ここは私の家があった土地ですよ」という意思表示なのかもしれない。
 キュウリ、ナス、ミニトマト、サツマイモ、菜っぱ類など、10種類ほどの野菜が丹精込めて作られている光景だった。背景は、高さ7~8mはあると思われるかさ上げした盛土。
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_aaa6739フレコンバッグ製の仮堤防。津波にも、台風による大潮にも耐えられるものではないのは明らか。

宮城県気仙沼市、南三陸町
_aaa10422011年3月28日。気仙沼市鹿折地区。火災も発生して丸焼けともなった惨状。 _8ds3283同、2013年9月18日。第18共徳丸の解体工事が始まっていた。 _aaa6825同、9月18日。解体される貨物船の隣の敷地に建てられた慰霊碑。地元の人によると、派出所の警察官が避難誘導の途中で津波に飲み込まれたという。

_aaa12632011年3月28日。南三陸町の惨状。 _8ds33412013年9月18日。南三陸町防災庁舎。 _8ds3324変わりゆく街を見つめながら散歩する70歳と73歳の被災者。
二人の話:二人共に自宅が高台にあったので津波の被害は免れた。一人は実家が流され、もう一人は親戚5軒が流されたという。お金のある人や若い人たちは、高台移転を待たないで、内陸部の登米市や仙台市に家を建てて移り住んだとのこと。盛土を8m~10mかさ上げし、移転が済むころには、南三陸町の元の人口は16000人から1万人くらいに減るといわれている、と被災時は68歳の女性は言った。

「何が今、オリンピックだって。こっちの復興がそっちのけになってしまうのでねえか。トルコでもどこでも、あっちの方へ行った方がよかった。福島の人は怒ってるだろうに。私だって怒るもの。私らはまだましだから」

宮城県石巻市
0182011年3月30日。石巻市門脇地区。後方で火災に見舞われたのが門脇小学校。 _aaa6877同、2013年9月18日

_aaa18392011年3月30日。門脇地区のお寺。 _aaa6890同、2013年9月18日。
_8ds3349同、9月18日。

☆気仙沼市のジーンズ工場経営者の及川秀子さんの話:
「五輪は楽しみです。でも、被災地の復興がたちおくれることもとても心配です」

都内で居酒屋を営む大槌町出身者、芳賀吉見さんの話(吉里吉里の自宅が父親と共に流され、遺体はまだ見つからない。兄と妹も亡くなった)
「オレは五輪に反対だ。喜ぶことはできない。とくに福島県の被災者が気の毒だ。収束も何もしてないし、できそうにないのにオリンピックで騒いでいる。腹が立つよ」


取材のまとめ
 復興予算の被災地外での流用は繰り返し報道されている。被災地と遠い地方での公共工事により、被災地での資材不足による高騰についても報道されている。被災地の復興事業に関わってきたゼネコン関係の経験豊かな人材や職人が、五輪施設の現場や、地元の公共事業の現場へ戻ってゆくだろうと、被災者は不安がる。その不安はテレビや新聞などの大手メディアが、五輪による経済効果などの皮算用を伝えれば伝えるほど、増幅されることだろう。


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2013年7月 2日 (火)

佐々井秀嶺師による原発周辺での人・動物供養

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 インドから一時帰国中で、一億人をこえるインド仏教徒の最高指導者、最長老の佐々井秀嶺師をご案内し、原発周辺を二日間回った。写真で報告したい。

 実は佐々井師を福島県にご案内するのは、今回が三度目だ。東日本大震災と原発事故に居ても立ってもいられなくなった佐々井師が、2009年の44年ぶりの一時帰国日本行脚後、もう二度と日本には帰ってこないといいながら再帰国したのは大震災から3ヶ月後の2011年6月。その時は、岩手県宮古市から三日間、鎮魂の読経を主な被災地各地でしていただいた。三日目のラストの場所が、原発から20数㌔離れた南相馬市鹿島区だった。

 以来、6月に一時帰国されるようになり、昨年は警戒区域が解除となった南相馬市小高区の村上地区(大津波の犠牲者が60名をこえた)で鎮魂の読経をしていただいた。

 今年はまる二日間をフルに使い、楢葉町、富岡町、南相馬市、浪江町の要所要所をご案内し、松村直登さんと吉沢正己さんのところで動物供養をしていただいた。撮影は全て6月26日と27日の両日。

 _8ds3938楢葉町の除染後の汚染土仮置き場をあちこちで見て圧倒される佐々井師。

_aaa3019福島第二原発脇の楢葉町波倉地区。主なガレキの撤去はされていたが、二度と住みようのない全壊家屋はまだまだ手つかずで残っていた。これが大震災から2年以上が経過しても、変わることのない原発周辺の現実。

 どこへ行っても除染作業員が固まって作業している姿と、家がしっかり残っていても住民のいない楢葉町を見た佐々井師の驚きと悲しみは大きかったようだ。

_aaa3182常磐線富岡駅。雨が荒廃感を増幅させていた。

_aaa3180JR富岡駅前商店街の美容室。大地震が襲った時間で時計は止まったまま。家屋は津波で全壊している。

_aaa3086死んだ子牛などが数頭埋められた場所で動物供養する佐々井師と懇ろな読経に手を合わせる松村直登さん。富岡町全体に響き渡るような低く訴求力のある声で、実に懇ろな読経をしていただいた。

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_8ds4066松村さんの囲い込みを見学する。
_8ds4048松村さんと佐々井師とポニーのヤマ。

_8ds3969松村さんの犬に抱きつかれる佐々井師。

_8ds4084松村さんがサポーターさんから押しつけられたというネコの「シロ」には逃げられる佐々井師。

_8ds4266浪江町請戸海岸から見える福島第一の排気塔。原発からは4㌔弱。

_8ds4147請戸地区の簡易的慰霊碑で読経する佐々井師。

_aaa3248頑丈な作りだが壊滅的な被害を請けた請戸小学校。卒業式が行われたことを物語る体育館の惨状に驚く佐々井師。

_8ds4256請戸小の駐車場で目にした給食で使われたと思われるスプーン類。

_aaa3226川の向こうは双葉町となる浪江町との境で手を合わせる佐々井師。長さ50mほどの橋は流失している。

_8ds4357浪江町の「希望の牧場」の牛舎を見学する佐々井師。
_8ds4408吉沢正己さんの原発事故後の体験に耳を傾ける佐々井師。

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_aaa3388読経の現場に向かう佐々井師。

_aaa3404吉沢さんにすすめられ、原発の排気塔を双眼鏡で見る佐々井師。

_aaa3464動物諸霊の追悼法要をあげる佐々井師。野太い声で懇ろに懇ろに読経した。
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 実は昨年6月にも佐々井師を希望の牧場まで案内したのだが、どうしても時間がないので、牧場入口で同行の僧侶4人のみなさんと読経していただいていた。

_aaa3518吉沢さんの街宣車をバックに佐々井師の本領発揮。「仏教は原発に反対だ!仏教は原発に反対だ!仏教は原発に反対だ!」と一人叫んだ佐々井師。

A0221南相馬市小高区にある相馬藩歴代藩主の菩提寺となっている曹洞宗同慶寺(田中徳雲住職)を訪ねた佐々井師。原発から17㌔に位置。現在は避難指示解除準備区域。日中の滞在だけが許可されている。

_8ds4571本堂に一時保管されている津波や震災後の関連死で亡くなった檀家さんの遺骨を供養する佐々井師。

 同慶寺を訪ねたのは、29日に横浜市で開催された講演会で田中徳雲同慶寺住職と顔合わせすることになっていたからだ。名所旧跡の大好きな佐々井師にとっては、良い刺激になったようだ。

 二日間の最後に案内したのが南相馬市小高区から避難して仮設住宅で暮らす木幡敬弘さんと葉倉さん。前から取材していたので、佐々井師に仮設住宅の実情を実感してもいたいので立ち寄らせていただいた。
_8ds4596不思議なご縁で、壁には同慶寺のカレンダーがかかっていた。木幡さんも葉倉さん(右端)も同慶寺の檀家さんだった。

_aaa8083木幡さんが自宅前に張り出した看板。「帰りたい 帰りたくない どうする」。(2013年3月撮影)

_8ds4759木幡さんの奥さんが作った毛糸の手芸ふくろう。避難生活でもてあます時間を奥さんたちは競いあうように手芸作品作りに入れ込んでいる。壁飾りのふくろうをいただいた。

_8ds4614木幡さん夫妻と葉倉さん(右端)に頭を下げて失礼する佐々井師。

A028帰京の途上、立ち寄った二本松市西勝田の浪江町住民用の大型仮設住宅。まるで放射線量が低くはない山中に「棄てられた」ような、市内からは遠い山中にある。

◯番外:横浜市での講演会(6月29日、主催はメイクアワウェイ)
 _8ds4676講演する田中徳雲住職。田中住職は原発事故前から原発問題を憂慮し、福島老朽原発を考える会 (フクロウの会)で活動していたことを初めて知った。田中住職が大地震と大津波後にいち早く原発が最悪の事態に至る可能性を先読みしたことは自然で、家族を遠方に避難させなければという思考も当然だったとわかった。結果的に田中住職はご家族と共に福井県に避難した。現在はいわき市に仮住まいして、毎日同慶寺に通っているというお話だった。国道6号線をいわき市から南相馬市に抜ける時は、シートと袈裟に鉛のプレートを入れ、被ばくから身を守っているというお話だった。

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_8ds4698講演する佐々井師。

_8ds4737講演後のお二人。

 ちなみに、私は佐々井師とはどんな僧侶なのか、また福島県の原発周辺での動物供養などの報告も兼ね、佐々井師の講演前にスライドトークをさせていただいた。そのラストメッセージが次の写真。これは、2011年6月に佐々井師を案内して南相馬市鹿島区で読経していただいた時の佐々井師独特の口上だ。

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 佐々井秀嶺師は明日の3日にインドに帰国する。

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2013年4月 4日 (木)

原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前の警戒区域の人動物模様。Part4・南相馬市編

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_aaa7988「相双ファーム」の野馬追で使われる馬。南相馬市原町区江井地区。原発の北16㌔。

 「原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前の警戒区域の人動物模様」のPart・4は、一年前の4月半ばに警戒区域解除により、避難指示解除準備区域と居住制限区域に分けられた南相馬市小高区と原町区。3月中にアップしたかったが諸事情により息切れして遅れてしまった。取材は一月前になるが、帰還の可能性を知る重要なポイントが詰まっているので公開しておきたい。

_8ds4872小高小学校の隣にある小高商業高校の広大なグランド。2年経って荒野と化している。空間線量は0.5マイクロシーベルト。

_8ds4860小高小学校。JR常磐線小高駅から約1㌔西寄り。

 南相馬市は海岸線が長いこともあり、福島県では大津波による犠牲者が最も多い自治体だ。小高区の場合も同様で、大津波により壊滅的な被害を受けた国道6号線(海から約1.5㌔前後)から海側一帯は、2年経った今でも、流された自動車さえもそのままで、全半壊家屋の解体も手つかずだ。水田地帯は主なガレキは片づいたが、細かなガレキを毎日手作業で拾い出している段階にすぎない。

_aaa7696全半壊した住宅の解体が全く手つかずの地区。

◯原町区堤谷地区
_8ds4794復興事業で続けられる水田のガレキ撤去作業。原町区堤谷地区。海から1.5㌔。

ガレキ拾い作業のリーダーは区長の綱川定さん(64歳)。堤谷地区では6件が津波でやられたという。
「ゴミ一つでも拾わないと、一歩前へ進まない」
鹿島区の仮設での生活が続く。
「狭くて寒くて言い訳ねえべ。酒量は増え、体重は増え、ストレスが増え、血圧は上がる」

_aaa7724避難生活を続ける地元の住民の失業対策。45名の班。この日作業していたのは10名。日当は1万円。月曜日から金曜日までの作業。

_aaa7743トラクターの荷台にゴミを集める佐藤公一さん(73歳)。自宅は地震で屋根が抜けたがまだ修理できていないという。米作りと養蚕をやっていた。塩害の除去も必要なため、米作りの再開はまだまだ先のことだという。佐藤さんは浪江町請戸に嫁いだ娘さんを津波で失っていた。

_aaa7735

「何もしないでただ生活しているわけにもいかない。仮設でのこうした生活が10年続いても、家直したりして、現実と向き合っていかないと。先々のことは誰も言えない。日銭稼がないと生活できない」(綱川定さん)

◯相馬野馬追馬を飼育する相双ファーム。
 田中信一郎さん(54歳)の経営する相双ファームは、津波にやられた原町区江井(えねい)地区の国道6号線脇にある。昨年4月の再編で、避難指示解除準備区域となった、原発から20㌔圏内の地域だ。一段高いところにある自宅などは難を逃れたが、エサを保管していたコンテナトラック二台は流されたまま。厩舎は冠水。田中さんは、原発の爆発音を聞き、煙が上がるのを見たので一時避難した。
 3月末に戻ると、厩舎につながれていた9頭が餓死していたという。津波で被災した厩舎に戻ったのは昨年12月末とのこと。野馬追に使われる馬たちは地元選出の国会議員の働きかけなどにより、国の家畜安楽死を免れ、事故後の5月に救出されて馬事公苑でボランティアなどの手により丁寧に管理されてきたという。今は、生き残った15頭の馬が大切に育てられていた。

 _aaa8050自宅のある広い敷地にある馬の運動場。空間線量は0.3~0.5マイクロシーベルト。

_aaa7956
_aaa8044

_8ds4916田中さんは厩舎の掃除とエサやりに毎日追われる。

「ここは線量が低いから除染しないといっていたが、除染しないと誰も戻ってこないよ。前に測定したら、天井裏で4マイクロシーベルトあった。津波で壊れたり冠水した厩舎の解体は、2年後といわれた」。
「原発なんてものはここにはいらない。原発が必要なら、東京に作りなさい」

◯鹿島区千倉の仮設住宅で避難生活を送る小高区の葉倉さんと木幡さん
_8ds4989拙著「鎮魂と抗い」107ページに登場する葉倉しげ子さんと雑種のマロン。犬を飼うことができる仮設住宅で、犬だらけの印象があるほど。一年ぶりに再会して、仮設で話しを聞いた。事故前はほえない犬だったマロンは、仮設に移ってからは吠える犬になってしまったという。

 葉倉さんは60代の夫婦と、娘さんと、80代後半の母の4人で仮設生活。「狭いのが何よりもキツイ」という。夜は眠れなくなり、ストレスで胃が痛くなった。血圧は高くなり、薬が欠かせなくなったとのことだ。夫の育雄さんは、仮設に入ってから2ヶ月後に軽い脳梗塞を患い、片手が麻痺したという。この日、ご主人は、大震災前に退職した会社に昨年から復帰し不在だった。

_aaa0034警戒区域解除となった日に、葉倉夫妻が自宅に一時帰宅した時にお会いして撮った写真。(南相馬市小高区羽倉、2012年4月17日撮影)
 この時、育雄さんは、帰還の思いをこう言っていた。
「水が使えない。米は作れない。作っても売れない。米作りはもうダメかもしれない」
「水道も使えない。浄化槽も使えない。電気は復旧してもここでは生活できない。仮設が本宅みたいなもので、ここは別荘みたいなもんだ」。

 この時の取材で、農業用水の水源が最も高濃度に汚染された浪江町の山間部にある大柿ダムだということを知った。つまり、育雄さんが自宅前の水田で米作りを復活したいと思っても、ダムが除染されなければ水が使いものにならないということだ。もちろん、水源となる山の除染などありえない話。大柿ダムに水源を頼る以上、小高区の米作りはやりたくてもできないということだ。
  
 しげ子さんは、狭い仮設にいるよりも、早く自宅に帰りたい気持ちが募ると話したが、ご主人は「オレは帰らない」というそうだ。自宅と周辺の除染はまだ先の話だ。
 
_aaa8068しげ子さんは、自宅で何もやらないわけにはいかないので、編物や折り紙などを集会所で習って、作ってはほしい人にあげるのだという。男たちの多くがパチンコや酒で気分転換を計ろうとする代わりに、川内村の取材でも同じだったが、仮設に引きこもりがちになる女性は暇な時間を手芸にうちこんで、かろうじて崩れがちな心の安定を保とうとしているような印象を受けた。
 しげ子さんに勧められるままいただいた毛糸の人形二体。左はトイレ用のロール紙を入れ、右はスナック缶を入れる実用的なもの。
_8ds5342

 鹿島区の仮設住宅に着き、葉倉さんの部屋番号をたまたま訊ねた男性が木幡敬弘さん(79歳)だった。不思議なことだが、木幡さんにお会いしたことがないのに、「葉倉さんとこで見させてもらった本に、俺の家が載っていた」といわれてビックリした。話を聞いて、拙著の99ページに掲載した民家の立看板を写した写真のことだとわかり、納得した。「帰りたい 帰りたくない どうする」とベニヤ板の看板が民家の庭先にかけられているもので、実は浪江町と間違えて写真説明を書いていたものだ。

 木幡さんが看板をとりつけたのは、警戒区域が解除された昨年4月16日。看板の文字は自分自身の揺れ動く心境を、他の住民に問い掛けたつもりだったと話した。 そこで、木幡さんに同行して、一緒にご自宅へ行った。

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 木幡さんは専業農家として20年。主に梨などの果樹栽培、トルコキキョウなどの花卉栽培、イチゴやトウモロコシなどの野菜を生産していたという。畑入口の直売所に立てた、宣伝看板はどれも手作りという。実にうまい出来だと感心した。木幡さんが、自分自身の心境を看板に書いてまで出したことが、自然な動きに感じられて納得した。

 自宅は一見、被害がないように見えるが、裏ヤブ側の屋根が崩れて雨漏りがしているという。畳まで取り替えないと住めないとのことだ。庭先の線量は0.3マイクロシーベルトと高くはない。竹やぶとなった家の裏手は6マイクロシーベルトあるという。
 「除染がどこまでできるか。近くにあるモデル除染した幼稚園の線量は変わっていない。農地は全部生活圏だから除染しないとダメだ。東電は元のままに戻してくれればいい。販売用の農業は、生きているうちはダメだろう」
_aaa8073ペットボトルの風車も手作りだという。誰もいない味気ない空間を、花の代わりに色塗りの風車で飾ってあった。

「人間は一人ではいられない。隣近所が帰ってこないと、生活は成り立っていかない」

◯原町区馬場の酪農家・瀧澤昇司さん
_8ds5062瀧澤昇司さんは拙著の「抗う人」6番目に登場する酪農家。現在40頭弱で酪農が完全復活。3・11前よりも出荷量が増えているという。毎週月曜日が綱引きチーム「大仁田」の牛舎での練習日。チームは6年前に結成し、牛舎を使っての練習は4年前に開始。夕方の搾乳が終わってから掃除が始まった。練習時間は夜7時から10時まで。

_8ds5172職業は様々というメンバー。この日の最年少は18歳。綱の反対側には、引く人数分に見合う重しをワイヤーで吊ってバランスをとっている。男たちの本気とは無縁のごとく、ホルスタインの牛たちは、我関せずの様子。
_8ds5234

 瀧澤さんは、4月から太陽光発電を開始すると言った。「原発に電気を頼らないようにしないと」。自宅の屋根が強度が足りないので、それならと牛舎の広い屋根を使い、22㌔ワットの事業用発電をして、東北電力に売電することにしたと。
「酪農家は毎日絞ってあげないといけないので、家を開けることができない。官邸前に抗議に行けないし、吉沢正己さんのように街宣もできない。せめてもの、俺なりの抗いですよ」

◯遠藤信之さん
 東北電力原町火力発電所で働く遠藤さん。自宅は発電所前(原発の北25㌔)で、海が目の前にあったため、跡形もなく流され、奥さんと母親を失った。拙著でも取り上げた被災者の一人。久しぶりに近況を聞きに仮設を訊ねた。(鹿島区の山側にある仮設住宅)
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 自宅のあった場所は災害指定区域となり、立ち退き対象で家の再建はできない。市が土地を買い取ることになっているが、進んでいない。高台移転を考えているが、震災から2年経っても仮設の暮らしがしばらくは続くことになると覚悟していた。

 「生命保険を担保にお金を借りて建てるしかないだろうな。ハウスメーカーは、いま黙っていてもお客さんが来るので営業しない。大工さんも含め、1年先まで予約で埋まっているそうだよ」

 3月10日にお墓参りをして、菩提寺で3回忌を終えたという。長男は仮設から市内に引っ越し、埼玉県の高校に通う二男は4月からは高校2年制に進級し、長女は千葉市で生活。残った家族4人はバラバラに暮らしている。普段はあまり思い出すことはないという遠藤さんだが、毎晩、晩酌しながら、話相手がいない時に家族を失った寂しさを実感するのだと話す。

◯取材後記
 小高区の場合は他の地区よりも地震による被害が甚大な点も特徴だ。住民の立入が自由になって1年、家の解体も修理もすすんでいない。電気が使えても、本格的除染はまだこれから。線量が低くても帰還の見通しは立ちにくい。避難生活を続ける住民の望郷心と、実際には帰りたくても帰れないと判断する心境が、実のところ、最も分かりやすい避難対象地域と実感した。

 見通しが立たないでけでなく、近所の住民が一人も帰っていない場所に、高齢者が帰って生活を始めること自体が考えにくい。50代、60代ならまだしも、70代以上の体に不安を抱える高齢者が、仮設よりは自宅が何よりといって、孤独な生活を再会するだろうか。

 自宅があれば、誰しもそこに帰って元の生活に一日も早く戻りたいと願う。そこに暮らす住民の感覚で、現実の生活環境を考えたとき、「原発難民」となった避難民が、いま帰還する選択ができるだろうか。帰還する選択ができないこと自体が、原発事故による実害だ。ましてや、原発事故は未収束ではないか。

_8ds5031立看のメッセージを張り出して1年。木幡さんは、もう少し希望の感じられるものに書き換えたいと言った。しかし、現状の本心は、やはり「帰りたい 帰りたくない どうする」のままなのだと。

PS:1年前の警戒区域解除の日の現地ルポは以下のブログをクリックしてご覧下さい。
「止まった時間」・解除された南相馬市の警戒区域(Former No Entry Zone in Minamisouma city.)


 

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2013年3月27日 (水)

原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前の警戒区域の人動物模様。Part3・大熊町編(脱原発政党「みどりの風」議員同行取材)

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◯田村市の旧警戒区域。
 まず、以下の写真を見てほしい。今年3月8日と2月8日の放射線量で見ると、線量が上昇していることがわかる。左側の測定値は一年前の同時期のもので、3月26日の方が、3月9日よりも上昇している。線量が上がった原因は明らかに雪解けによるものだ。別の言い方をすると、雪が積もっているあいだは、雪による放射線の遮蔽効果があるということだ。もう一つのポイントは、この測定地点の一年間の減少率は低いということだ。しかも、このポストの周辺にある民家の除染は終了していると思われるにも関わらず。この事実が意味することは重要ではないか。 _8ds7620田村市道ノ内集会所。3月13日。
 実は、同じ上昇傾向は、田村市役所の玄関を入ったところに設置された大型液晶テレビの画面でも確認できる。一月のグラフになっているので、雪解け開始から少しづつ線量が上がっていくことが、田村市内各地のモニタリングポストの数値から誰にも読みとれる。

_aaa9302民家の庭に仮置きされたままの、大型土嚢に入れられた除染後の汚染土など。

_8ds7592警戒区域に入る直前の、防護服に着替える前の写真。立っているのは、「みどりの風」代表の参議院議員・谷岡くに子氏。田村市道ノ内集会所にて。
                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大熊町の避難区域再編
 大熊町は福島第一原発を立地し、全域が警戒区域となっていたが、昨年12月10日にすでに再編されている。
町の西南端にあたる中屋敷行政区が「避難指示解除準備区域」、大川原1・2区行政区が「@居住制限区域」となり、残る全域が「帰還困難区域」に再編された。といっても、帰還困難区域の人口が約96%を占める。
 この日は帰還困難区域となった野上地区に自宅があり、学習塾を経営していた木幡ますみさんの公益事業帰宅に同行した。愛知県選出の参議院議員で、大学学長も務め、高等教育や脱原発に熱心な谷岡くに子「みどりの風」代表も同行された。年末の総選挙で敗れた山崎誠前衆議院議員(民主党→みどりの風→日本未来の党)も同行されていた。よって同行記のような形で報告してみたい。谷岡議員は、民主党政権時から、木幡さんが代表を務める「大熊町の明日を考える女性の会」の陳情などに耳を傾けてきた。木幡さんは、夫の前町議の仁さんとともに、中間貯蔵施設を大熊町が引き受けるべきだと、細野環境相(当時)に直接働きかけてきた。
(twitterでの発信も心がける谷岡議員の当日のつぶやきも、ところどころ引用させてもらいました)

_8ds7599田村市から国道288号線を東進するルートで大熊町に入った。開閉式の検問所となっていた。検問事業は民間の業者に委託されているようだった。オフサイトセンター(OFC)の車が止まっていた。

_aaa9316野上地区の入口にある木幡家の墓地で、地震による墓石倒壊状況を目の当たりにする谷岡議員。

_aaa9324肥大した月見草(枯れ枝の状態)の写真を撮る谷岡議員。奥が山崎前議員。

_aaa9329建物は大丈夫だが、地震で積み上げられていた肥料などが倒れたままの農機具置き場から塾のある建物へ向かう。

_8ds7620_2塾の壁に張り出されたままの大学合格速報に見入る谷岡議員。

_8ds7639天井近くには「平成17年東大合格」のマジック書きが残る。

_8ds7627塾の窓側の線量を計る谷岡議員。1.8マイクロシーベルトをこえる。
_8ds7631机の上に残る落書きと線量計の相合い傘。

「谷岡郁子 ‏@kunivoice 3月13日 大熊町にいます。線量計で、いろいろな場所を測っています。お墓の石や、屋根の上も。塾の機材運び出しに飛び入りさせてもらった次第」(谷岡議員のtwitterから転載)

_8ds7649浜通りの冬でも暖かい気候で梅が咲いていた。

_aaa9368屋根が近い二階が線量が高いと読んで、二階の窓際で測定。まん中が山崎前議員。

_aaa9343脚立で屋根に登って雨の通り道を測定する谷岡議員。ユズの黄色い実が見える。

_8ds7669広い平屋の屋根の雨樋の下で200マイクロシーベルトをこえた。

「谷岡郁子 ‏@kunivoice 3月13日 大熊町の友人宅は、屋根の上で4マイクロ、家の中でも2マイクロ、雨樋の下は、200を超えていました。もう1つは、100くらい。大熊の目抜き通りは10から場所によっては50くらい。福一から1キロの所では空間線量が30マイクロ超えも」(谷岡議員のtwitterから転載)

木幡ますみさんの動画。(2月28日の一時帰宅に同行した際に収録)

 「建物はこわれていないけど、中はねずみに荒らされていて。地震だけだったらすぐに直すことができ、片づけることができたはず。原発事故のために、線量が高く帰ることができない。もうここに二度と帰れないと思うと、悔しい思いでいっぱいです。一時帰宅の度につよく思います。
 家は3軒あるんですが、昔の古い建物ですが、母屋はひとつもこわれているところはない。このままだったら住めるのに、いくら古い家だとしても、最低のお金を出されては家など建てられません。ましてや帰れないんですから、きちんと家と土地が求められるような財物補償をしてほしい」

_aaa9404時間が止まったままのJR大野駅前商店街。
_8ds7714手前が谷岡議員。奥が山崎前議員。山崎さんはビデオを撮るのに忙しく動いていた。

_8ds7692舗装された商店街の路上でも、6マイクロシーベルト近い空間線量を示す谷岡議員。
_aaa9395道路側の窓が地震で倒壊し、がら空きとなった「パンとケーキの店カムラ」。谷岡議員は、3・11前の店とお客さんのやりとりが今にも聞こえて来そうだと、感慨深げだった。

「谷岡郁子 ‏@kunivoice 3月13日 大熊町の目抜き通りのパン屋さんの店先、傾いたままの墓石。あの日から変わっていない断ち切られたささやかな、日常の幸せ。原発事故は終わっていない。復興は、スタートすらしていない。今日、このことを確認しました」(谷岡議員のtwitterから転載)

_8ds7731大熊町役場掲示板
_8ds7739閉ざされた役場の玄関に見える案内板は、「第一回定例議会3月7~17日」が架かったままで、確定申告の時期だったことを思い出させる案内もある。

 大熊町役場は2011年12月に除染実証実験が実施された。それから1年以上が経過した。駐車場の角の、枯葉の吹き溜まりで測定すると、26マイクロシーベルトを示した。つまり、元々放射線量の高い帰還困難区域は、除染しても再び三度線量が上がることを見せつけているようだった。

_8ds7768原発の南西2㌔の夫沢地区から見える事故現場の排気筒と建屋上部。
_aaa9470繰り返される余震で道路の陥没が拡大している。

_8ds7781原発の真南1.5㌔辺りから見える原発方向の太平洋。

_aaa9518大津波で壊滅した(財)福島県栽培漁業協会のカマボコ型の建物。

 この大型施設では、アワビ、ウニ、ヒラメなどを育てて放流していた。「東京電力福島第一原子力発電所の温海水(自然海水より7~8℃高い)を利用しているので、産卵時期を早めたり、稚魚・稚貝の成長を促進することができるところです」と、ホームページに記載されている。
 隣接して「福島県水産種苗研究所」もあったが壊滅した。(ホームページによると、所長、専門研究員1名が亡くなっている)。こちらも、原発の温排水を利用した研究をしていた。

_aaa9533奥が木幡ますみさん。

 この時は海からの東風が強かった。防波堤と舗装された駐車場スペースの空間線量は15マイクロシーベルトを示した。通常の海沿いは、双葉町でも浪江町でも富岡町でも1マイクロシーベルト以下と低いところがほとんどだ。しかし、原発に近いためか、極めて高い線量だ。
 さらに驚いたのは、津波で舗装が剥がされ土が露出する場所での空間線量が24マイクロシーベルト前後と、極めて高いことだった。土の上に直置きすると15マイクロシーベルトのところが、高さ1m程度の空間線量で測定すると25マイクロシーベルトになった。これには、どこで何を見ても動じない印象を受ける谷岡議員も首をかしげていた。

_aaa9477公益事業帰宅で同行した一行。写真は左から木幡さん、運転手高橋さん(大熊町からの避難民)、山崎誠前議員、谷岡議員、大野記者(東京新聞)。木幡さんは、当初は塾のコピー機を持ちだせないかと思案していたようだが諦めた。

◯公益事業帰宅同行後に訊ねた谷岡くに子議員の感想
 「放射線量はものすごくムラがあることを強く実感した。除染といっても細かい汚染マップを作る必要がある。除染に頼っても再び高くなってしまうところはわかって来ているわけなので、繰り返しをしないことと、拡散を防止すること。汚染土や草木類や葉を早く生活の場から線量の高い場所へ移してあげないとダメですね。

 大熊町は福島第一を視察したときに通りましたが、降りて町中を歩いてみたのは初めてです。一人の人間としての目線で、身体感覚で把握したのは今日が初めて。たとえば、大熊町の商店街のパン屋さんの道具やお盆などを見たときに、お客さんの主婦やお店のおねえさんの笑い声や応対の態度が見えたような気がした。ある日突然断ち切られた人々の息使いが聞こえるような気がして、胸が痛い思いでした。直したばかりのお店の場合は、ここで借金返して、家族養ってと期待に胸を膨らませていた家族の情景として浮かんでしまった。そんなささやかな幸せや日常の奪われた異常事態のまま2年も経ってしまったことを痛感した。
 宮城県も視察したが、地震後の一応の片づけは見えるわけですが、今日は地震の日のままの姿をさらす、全く手つかずの建物を多く見たわけです。原発事故の跡だけが、復興のスタートラインにたどりつけないことを深く感じました。

 一軒の家の回りでも、高いところ低いところがある。放射能の濃い低いはものすごく細かい状況だとわかった。国がやっている今のモニタリングのメッシュは、あまりにも荒っぽい。とくに生活範囲は、徹底的に細かいメッシュでやらなければいけないと強く感じました」

_8ds7771高濃度の放射能に生活環境が汚染されたことも知らず空に舞うトビもしくはタカ。巣作りのためだろうか、セシウムが吸着しやすい杉の枝を運んでいた。(排気筒が間近に見える夫沢の高台で)

◯取材後メモ
 富岡町の第二原発敷地内に設置されたスクリーニング会場に向かう車内で、谷岡議員がつぶやいた一言が重々しく感じられた。「共感能力のなさが倫理的な最大の問題点だ」。簡単にいえば、国会議員にも、官僚にも、学校教育や家庭教育の場でも欠如する、「他者の痛みに共感する感情」のことだ。経済効率や金もうけばかりを優先する社会から、ますます薄れていく価値観のことにほかならない。

 また、除染後の汚染物質のための中間貯蔵施設は、汚染度の濃度からいっても、大熊町の置くことが自然だ、というのが谷岡議員の意見だった。

 ちなみに、昨年11月と9月に木幡さんの一次帰宅に同行した時のルポはこちらです。ごらんください。
・「忘れがちだが、忘れてはならない警戒区域の惨状(一時帰宅同行記)」(2012年11月26日 )

「一月遅れの一時帰宅報告・その2(大熊町)。中間貯蔵施設調査候補地&セイタカアワダチソウ」(2012年10月30日)


 


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2013年2月24日 (日)

3・11を忘れないために~初動の取材と東電公開写真で振り返る~

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 まもなく、あの忌まわしい日から二年が経とうとする。人は忘れることで前に一歩進むことが得意な動物だ。同時に、人の記憶はあいまいなで意思薄弱な生き物でもある。2011年3月11日の大震災と福島原発事故が起きてから、自分の初動を振り返り、何を取材し何を撮影し、何を記録でき、且つ、できていなかったのかを共有したい。

 同時に、東京電力が公開した現場で撮影された写真と重ね合わせ、同時間に福島第一原発はどんな状況だったのかを忘れないでおきたい。(言うまでもないが、東電が公開した写真は事故直後の私たちの想像を絶する高レベルの被曝をしながら撮影された現場の記録だ。勝手に使わせていただいているが、そのことは肝に銘じておきたい)

2011年3月11日(金)午後2時46分以降
(自分のtwilogより時系列で転載)(注:あの瞬間、パソコンで原稿を書いているときだった。ネットにはつないだままだった)

都内東久留米市からの地震に関する報告:長く激しい揺れがゆっくりと続いた。あらゆるものがユラユラだったが本棚食器棚などほとんどそのまま。第一波は東久留米市では大丈夫だったのかもしれない。高層マンションやスーパー、コンビニなどがどうなったかはわからない。(posted at 15:02:06)

・都心の高層ビル、マンションなどがどうなったのか?個人的な身の回りの地震情報をtweetすることが被害状況を知るのに多いに役立つ。テレビラジオのみの情報に頼る時代ではない。協力しあいましょう。だたし、被害を大げさにあおる行為は慎まないと。(posted at 15:04:36)

・大げさな表現が慎みましょう! RT @hotateyasan 仙台駅崩壊!(posted at 15:16:06)

・RT @mizomasahonpo: @accobin NTTの友人からの連絡です。只今災害伝言ダイアル準備を進めています。もうすぐ171伝言ダイアルは通話料無料で使えるようになります。繰り返します。電話は今控えてください。これから地域の安否確認で電話は必要になりますので安全な地域の方は電話しないでください(posted at 15:45:36)

日経ニュース:東電、福島第1原発と福島第2原発で運転自動停止 http://tinyurl.com/4raxeun (posted at 16:00:30)

原発に関するNHKニュースが出てました。 Reading:NHKニュース 東北地方の原発がすべて停止 http://nhk.jp/N3ue67mQ (posted at 16:01:28)

東京電力福島第一原子力発電所のホームページをチェック http://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/index-j.html 稼動停止されていると思われるのに、最新情報が全く更新されていない。記録に留めておくためtweet、  (posted at 16:05:28)

・東京電力原子力のホームページトップも地震情報がゼロ。 http://www.tepco.co.jp/nu/index-j.html テレビラジオは原発関連の状況についてほとんど速報なしの印象高い。 原発周辺の方のtweetが望まれる。   (posted at 16:09:45)

東京電力ホームページの原発の現状:福島第一原子力発電所 1~3号機 地震により停止 (4~6号機は定期検査中) 福島第二原子力発電所 1~4号機 地震により停止 http://www.tepco.co.jp/cc/press/11031101-j.html 約405万軒が停電中 (posted at 16:18:21)

・この後、私は東京駅近くで友人と取り残されたという連れ合いを帰宅させようと、無謀にも車で東京駅へ向かった。結局、四谷駅手前でまったく身動き取れずにUターン。往復で8時間近い時間を無駄にしてしまった。

四谷手前でUターン。連れ合いたちには復旧した地下鉄などで帰宅できると指示。家に向かうが 渋滞ものすごいので何時に帰宅できるかわからない。福島原発事故が最も気にかかる。(posted at 23:01:04)

3月12日(土)福島県の取材に出発
午前3時すぎに自宅に戻る。無駄に8時間運転した感じ。早朝、準備を整え現地に向かうことにする。どこまで近づけるかわからないが。やはり福島第一原発ほか、緊急稼動停止した原発関連が最も気になる。宮城までは車では遠すぎるし。(ツイッターでposted at 03:35:48)

・RT @HidekiMorihara: 放射能漏れがほぼ確実になり、施設内で死亡者も出ているのに、今なお東京電力のHP上に言及がないことに憤りを覚える(http://bit.ly/eS2hcQ)。原子力安全・保安院の緊急ページにも、柏崎や六カ所の放射能入り水漏れの記載がない(http://bit.ly/fVMCyK)。(posted at 03:56:30)

・早朝5時に自宅を車で出発。新宿駅前ロータリーで、JVJA仲間の野田雅也くんをピックアップ。午前6時頃、一路郡山市を目指して出発。

_aaa9042東京を離れる前に朝刊を買う。(午前8時16分)

午後3時前ころ、栃木県内の幹線道路のレストランで遅い昼食。二人の先客は福島第一原発から逃げてきた作業員だった。「建屋のひとつやふたつが倒れるくらいの揺れだった」と一人が話してくくれた。会社名は明かさなかったが、水戸市に本社があるので、そこへ向かうという話だった。店の液晶テレビでは、1号機が水素爆発した映像を流していた。

・郡山インターの手前1時間。長沼町の被災地を通過中。相当にヤバイ展開に成りつつある福島第一原発1号機まではまだある。朝6時に新宿を出てやっとここまで来た。10キロ圏内には入れないようだ。(ツイッターでposted at 17:18:52)(注:森住卓さんからの指示で、郡山市に着くまでに野田くんと私は乾燥ワカメを一袋食べていた。安定ヨウ素剤の代わりだ)

_aaa9078田村市役所に着いた。壁がかなり崩落し、役場内は緊張感が漂っていた。(午後6時32分)

_aaa9090田村市スポーツ文化センターに避難した大熊町の住民。(午後7時)

3月13日(日)原発から4㌔の双葉町中心部の取材。
・福島第一原発1号機からの避難指示は半径20キロに変更。第二原発からの避難指示は半径10キロに。今夜たどり着いたのは原発から40キロ離れた田村市。大熊町の避難住民が多数、公民館や小学校などを避難先としていた。不安は隠せない表情で。(ツイッターでposted at 00:03:13)

深夜、郡山市内のホテルで、森住卓、広河隆一、豊田直巳、綿井健陽の4名と合流。翌朝、原発を目指し、車3台に分乗し、6人で双葉町に向かうことにする。

_aaa9132双葉町内。原発から10㌔圏内に入り、最初の放射線量測定。毎時0.23マイクロシーベルト前後。平常値の5倍を示した。測定するのは野田雅也くん。(午前9時36分)

_dsc7764自衛隊の救出ヘリコプターが双葉町中心部へ向かって降りて行った。常磐線の橋が崩壊した場所で撮影。(午前9時58分)

G0011双葉町役場手前の原発推進アーケード:「原子力 郷土の発展 豊かな未来」(午前10時14分)

G0012午後2時47分で止まったままの役場の大時計。(午前10時17分)

_aaa9237無人となった役場正面ドア前で線量測定する広河隆一DAYS JAPAN編集長。針は振り切れ正確な数値は測定できない。(午前10時18分)

_dsc7776双葉厚生病院前。人目でわかる地割れと緊急避難した様子。(午前10時28分)
_aaa9272双葉厚生病院正面(午前10時38分)(原発から約4.5㌔)

G0015病院前で3台の線量計で測定したが、すべて針が振り切れた。毎時1ミリシーベルト(1000マイクロシーベルト)以上だっったことは間違いない。(午前10時42分)

_aaa9303この日のJVJA5名、と広河氏の6名による合同取材チーム。JR双葉駅近く(午前11時) この後、福島第一を目指そうとするが、道路陥没などのため、一旦撤退して、放射線量測定結果と現場状況を公表することにする。

_aaa9318双葉町中心部での取材を切り上げ、原発を離れ、田村市都路町古道で線量を測定。毎時1.11マイクロシーベルト。平常時の20倍の線量を測定した。原発の西約20㌔地点。(午前11路42分)

田村市役所駐車場で、JVJA・DAYS JAPAN合同プレスリリースをネットに配信

_aaa9328三春町の旅館のテレビ画面から。(午後7時24分)
_aaa93301号機の水素爆発の映像を流す同テレビ画面から。(午後7時25分)

3月14日(月)福島県の大津波被災地取材、仙台へ移動
・3月14日は午前中に旅館を出発し、川俣町を通過して相馬市と南相馬市の大津波被災現場の取材に入った。ガソリン不足を考慮し、車2台に6人が分乗。

_aaa9437相馬港近くで。(午後1時)

_aaa9485救出活動中の地元消防団。南相馬市渋佐地区。(午後2時20分)

・この後、北上して宮城県に入り、3月14日の夜は仙台市の宮城県庁ロビーに泊まった。

3月15日(火)仙台から南下し、名取市取材後に、福島県に戻る
_aaa96972号機の水素爆発の可能性が高まっていた。宮城県庁ロビーの液晶テレビから。(3月15日午前1時05分)

・3月15日は、取材ルートを分かれた。豊田氏の車で綿井氏と私の3人は、夜までに福島県に戻ることにして、仙台空港周辺と名取市を取材して南下し、夜までに三春町の旅館に戻った。

_aaa9777_2名取市閖上(ゆりあげ)で遺体捜索をする富山市の消防隊。(午前8時44分)

東電公開写真1(「爆発後の3号機と4号機原子炉建屋の外観」、3月15日、午前7時34分02_009
東電公開写真2(3月15日、爆発後の3号機建屋。撮影時間不詳01_001

_aaa9879(福島県内に戻る。3月15日、午後12時29分)

3月16日(水)田村市で避難した大熊町町民取材し、二本松市に移動。深夜帰京する
_aaa9906夜中に降った雪で真っ白になった三春町の旅館の裏山。3月16日午前7時39分。

_aaa9923田村市総合体育館に避難した大熊町の住民。午前9時16分。
_aaa9933同総合体育館。3号機の爆発写真が一面全体に掲載された地元紙と避難した大熊町町民。午前9時47分)

東電公開写真3(3号機。3月16日午前9時51分04_001_2

東電公開写真4(4号機。同9時51分04_002

_dsc8027浪江町住民を避難させた救急車。二本松市男女共同参画センター。3月16日午後1時21分。ちなみに二本松市は原発から60㌔ほど離れている。この時の取材では原発との位置関係や距離感がつかめていないため、全くの安全圏だろうと思いこんで取材していた。しかし、残念ながら、放射性物質は浪江町町民の避難ルートを追うかのごとく深く拡散していた。

_aaa0005敷地内の空間線量は毎時8.5マイクロシーベルトを計測同行の森住卓さん持参の日立アロカ線量計で測定。(午後1時33分)(原発事故の取材を始めていながら、平常値の200倍以上となる放射線量の高さを私は把握できていなかった)

_dsc8061「放射能汚染」と書かれ、袋に入れられ、建物の脇に積まれた廃棄物。(午後1時41分)

_aaa0038白い防護服のグループと話す自衛隊除染部隊。(午後1時50分)

128男女共同参画センターロビーで、放射能スクリーニングを受ける浪江町からバスで避難したばかりの住民。撮影は窓越しにしか許可されなかった。(午後2時17分)(後から思うと、浪江町町民が汚染物質のように扱われているように見える非常に奇妙な光景だ)

二本松市での取材後、綿井氏が同乗し、一旦帰京した。その後、私は3月24日からは宮城県と岩手県の大津波被災地の取材に入り、原発事故周辺の取材は4月10日に再開した。大津波被災地での取材に、森住さんから借用した日立アロカの線量計を持参し、各地で測定してみた。3月13日の双葉町での毎時1000マイクロシーベルト以上の放射線量を体感してしまったために、平常値の5倍、6倍の数値を見ても、危機感を感じないほど感覚が麻痺してしまっていた。

3月17日(木)
東電公開写真5(「乾式貯蔵キャスク保管建屋の状況」を見回ると思われる作業員。3月17日午前7時36分06_010_2

東電公開写真6(「乾式貯蔵キャスク保管建屋の状況」画像から。津波被害がわかりやすい。同午前7時44分06_013

東電公開写真7(3号機もしくは4号機に放水する陸上自衛隊放水車。午後7時58分07_008

3月18日
東電公開写真8(爆発により壁がほとんど吹き飛んだ4号機建屋。3月18日午前10時13分10_003

◯ブログまとめ:
 写真をもう一度見返すと、大震災直後の恐怖を伴った緊張感が鮮明に蘇ってきた。自分で撮影しながら、時間とともに忘れてしまうところだが、原発事故はいまだ収束せず、大津波被災地の生活再建も軌道に乗っていないことを忘れないようにしたい。 

 以下に初動取材のブログ記事のリンクと大津波被災地の平常値の数倍ある放射線量を測定した写真のリンクも貼ります。綿井健陽さんが撮影した動画のリンクも貼ります。まだの方、ぜひごらんください。
「原発事故、放射能、地震、津波という未曾有の複合災害」2011年3月23日 (水)
「写真で見る被災地の放射線量比較」2011年4月19日 (火)
「3・11メルトダウン 福島原発取材の現場から」Part2

◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729

・銀行振込
城南信用金庫
店番036 普通口座 ヤマモトムネスケ 口座番号340130

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2013年1月 7日 (月)

2012年のブログ記事のRT頻度から見る読者の期待と反応?

◯RTの多い記事トップ10本
 2012年は43本のブログ記事を書いた。毎月3~4本平均で更新したことになるが、自分でも気になるのは、一体どの記事が最も読まれたのか(見られたのか)ということだ。目安となるのはRT頻度ということになるが、読者はどんな記事写真により強く反応したのかということだといえる。てなわけで、RT頻度でトップ10本の記事と100RTをこえた記事を書き出しておきたい。もちろん過去記事を見逃した読者に見てほしいからでもある。

1:225RT。2月19日:「希望の牧場」Part2:警戒区域内の「生と死の狭間」。警戒区域の現実3

2:202RT。3月31日:若狭原発銀座で元原発作業員(下請け労働者)・斉藤征二さんの話を聞いた

3:195RT。7月17日:「7・16『17万人』さようなら原発」大集会&デモ

4:191RT。6月19日:首相官邸前で、野田政権に奪われた「主権在民」を実践する市民

5:183RT。2月8日:毎時275マイクロシーベルトの双葉厚生病院玄関口。警戒区域の現実1(双葉町)

6:149RT。11月26日:忘れがちだが、忘れてはならない警戒区域の惨状(一時帰宅同行記)

7:135RT。8月23日:被曝した牛を生かす水田放牧、「命の楽園」(浪江町)プロジェクトとは?

8:132RT。12月23日:福島菊次郎と愛犬ロク

9:130RT。2月20日:写真で見る「脱原発杉並有象無象デモ」

10:120RT。10月17日:「経団連解体!米倉ヤメロ!原発いらない!」コールが続く経団連前抗議

11:104RT。9月30日:福島原発告訴団全国集会~福島原発事故の責任をただす!~

◯読者の反応から見る傾向
 並べて見ると、原発に反対する内容の記事と写真だけだ。原発事故による福島県の警戒区域の現場に関してのブログ記事が4本、官邸前での再稼働反対行動を含めた「脱原発」デモの記事が4本。読者が何を期待し、どんな内容の記事を求め、強く反応してくれているのかがよくわかる。ちなみに、ブログ形式にした2011年3月以降、最もRTされた記事など、100RT以上の記事を並べてみます。

・342RT。2011年9月25日:反骨の報道写真家・福島菊次郎さん(90歳)のこと

・179RT。2011年6月30日:大震災被災地で読経し、原発廃止が死者の真の回向と実感した日本人僧

・145RT。2011年11月6日:「もんじゅ」「ふげん」命名の経緯と永平寺シンポ

・117RT。2011年12月13日:警戒区域内「希望の牧場」と代表の吉沢正己さん

・108RT。2011年5月10日:南相馬市と浪江町津島:ちょっと遅れた20㌔圏外取材ルポ

◯まとめ
 福島菊次郎さんに関する記事は二本だけで、474RTされているほど関心が高いことは特筆しておきたい。逆に、我が田舎に関する記事写真に対する反応が低いことが残念ではある。仏教に関する記事が二本あることは、今後の記事のヒントになりそうだ。
 
 というわけで、山本宗補のブログ「山本宗補の雑記帳 標高888mからの浅間山ろく通信~多様な価値観を伝えたい~」をどうか今年も宜しくご活用ください。

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2013年1月 6日 (日)

風化と抗う~年初の福島県取材から~

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 歳月に慈悲はないかのように、あれから3年目の日々を迎えることになる2013年。
 昨年の正月も大震災と原発事故の被災地を駆け足で巡ったが、その時は1冊の本にまとめようとも思わず、それができるとも考えていなかった。9月に出版できた拙著「鎮魂と抗い~3・11後の人びと~」(彩流社)のあとがきに、「1年6ヶ月が経過しようとする今日までの途中経過である」と書いた。一人のフリーランスのフォトジャーナリストが見た視点でこれまでの取材をまとめることの重要さを形にできたことは幸運だった。
 だが、被災地では、大半の被災者にとり、復興も生活再建もほぼ無縁のまま、月日だけが過ぎつつある。大都会や被災地と離れた地では、歴史的な原発震災さえもが風化しはじめている。私は一人の取材者として現場に立ち、発信し続けなければいけない。大晦日と新年の年初は福島県に身を置くことで、自らの風化に抗うことで新しい年をスタートした。

◯吉沢正己と希望の牧場(浪江町&南相馬市)
 _aaa4404年越しのカウントダウンを牧場の星空を見上げて迎えた吉沢正己・希望の牧場代表。

_dsc1196牧場からは福島第一原発の排気塔と作業クレーンが肉眼でも見ることができる。正月のせいか、クレーンは静止している。

_dsc1223原発事故以降、牧場で何頭の子牛が生まれ、かつ死んでいったのだろうか。元気そうな子牛はそこらじゅうにいるのだが。

_aaa4740母牛と離れている子牛。冬場用にと乾燥エサのロールが積み上げられている。

_aaa4636牛舎で1頭の子牛が元旦の朝も息絶えていた。撮影しながら、これも日常の一こまと感じてしまう自分がいる。「弱肉強食だ」と吉沢さんは割り切っていう。元気そうに見える子牛の明日は誰もわからない。
_dsc1350

_aaa4835牧場最強の種付牛にまたがって調教する?吉沢さん。「重重(シゲシゲ)」は原発事故前の「エム牧場」時代の最初の種付け牛。昨年、去勢されて引退した。

_aaa4784安倍政権の原発政策を厳しく批判する活動を始めることになる吉沢さん。「今年は勝負の年だ。農水と畜産農家との平行線がどこかで交わるような方向が見えてくると思う。原発再稼動のゆり戻しを許すかどうかでもある」

_aaa4684乾燥エサを重機で運ぶ吉沢さん。タンクに殴り書きされたメッセージがなれけば、何気ない牧場の一こまにすぎないのだが。2013年1月1日

(追記:吉沢さんの講演会が都内で1月13日(日)にあります。会場:東京ウィメンズプラザ。 やまゆりファームのメンバーでもある宍戸大裕監督の作品「犬と猫と人間と2 動物たちの大震災」完成記念上映会の会場のようです。)

◯南相馬市小高区
_dsc11382013年元旦の初日の出の時間帯。地盤沈下は目に見えない。テトラポットが無ければ、海岸線の浸食は止められないのだろう。南相馬市小高区浦尻海岸。

_dsc11342013年1月1日の初日の出。浦尻海岸から。

_aaa4576東北電力がまだ白紙撤回していない浪江・小高原子力発電所建設予定地。鉄塔は気象観測塔という。浪江町議会は建設誘致の白紙撤回を決議をし、南相馬市議会は建設中止決議をしている。

◯大柿ダム(浪江町)
 大柿ダムは浪江町を流れて請戸港から太平洋に流れ出る請戸川の上流をせき止められた農業用ダム。資料によると、主に水田3,808haの用水不足の解消を図るため1988年に完成した。東京ドームの14杯分の水を貯水できるという。浪江町、双葉町、南相馬市小高区の農業用水に利用されていた。

_aaa4897浪江町大堀地区は線量が高い。人もいない、鳥の姿も少ない地区の柿は色が何とも鮮やかだった。凍みても黒くならないのが不思議だ。空間線量は毎時2.5マイクロシーベルト。

_aaa4916浪江町の水田地帯はセイタカアワダチソウが枯れた荒野と化していた。浪江町の農業用水は大柿ダムに頼っている。
_aaa4846放水されたままで貯水されていない大柿ダム。原発から北西方向に位置し、放射線量の一際高い津島一帯を源流とするのが請戸川。請戸川に沿って渓谷を走るのが幹線道路の国道114号線。福島民報は2012年2月18日の記事で、「大柿ダム周辺の土壌で、最大一キロ当たり34万ベクレルの放射性セシウムを検出した」と伝えている。
_dsc1447大柿ダム入口の看板。
_aaa4871東北電力昼曽根発電所(出力500kwの小水力)の前の橋で空間線量を計ると、毎時11マイクロシーベルトをこえた(2013年1月1日)。国道114号は発電所のところで鍵付きフェンスで閉鎖され、昼曽根トンネルに抜けることができない。

 原発事故後の4月下旬、原発から約20㌔北西に位置する昼曽根トンネル入口に検問所があり、神奈川県警の若い機動隊員が花粉症マスクと手袋なしで検問していた。持参した日立アロカ製の線量計は19.99マイクロシーベルトで振り切れ正確な数値は計れなかった。文科省の公表するモニタリングポストの数値は30マイクロシーベルトをはるかに超えていた。

 つまり、大柿ダムの水源は浪江町でも最も深く放射能に汚染されている一帯となる。山の除染、森の除染、ダムの湖底や周辺の根本的な除染ができない限り、農業用水を貯めて警戒区域の水田地帯を再び潤すことはできないということだ。

◯復旧した東北電力原町火力発電所(南相馬市原町区)
_aaa4932一日で3000~4000人の作業員を投入し、予定より半年早く昨年11月に復旧。試運転で発電を再開した原町火力発電所。2号機は100万キロワットの発電能力。1号機の復旧は2月の予定。発電所の周囲も含め、大津波で甚大な被害を出した。隣接する海岸は整備された砂浜のビーチ。元旦からサーファーが波を求めて浮かんでいた。
_dsc1574発電所に隣接する住宅は跡形もなく流され、水田地帯は海水に冠水した。

◯飯舘村の避難民が生活する伊達市伏黒の仮設住宅
 飯舘村は昨年7月に浪江町津島に隣接する南部の長泥地区が、年間50ミリシーベルト以上の帰還困難区域として封鎖された。飯舘村村長選挙は昨年10月、菅野典雄氏(65歳)が無投票で5期目の当選をした。10月12日の福島民報によると、「菅野氏は当選後、東京電力福島第一原発事故による全村避難について『(5期目の)4年をかけずに住民の帰村を実現させる』と誓った」とある。

 原発事故直後、菅野村長が放射線量が異常に高いことを知りながら、村民に知らせず、4月21日に政府による避難指示が出るまで、子どもや女性を自主的に避難させる対応をしなかったことに怒り、著書や全国での講演活動でも村長を批判してきた酪農家の長谷川健一さんを訪ねた。
_aaa4966長谷川さんは今年還暦を迎える。大きな還暦祝が送られ飾られていた。仮設の狭い部屋ながらも、三人の子どもと大勢の孫たちに囲まれ賑やかで明るい新年を送っていた。しかし、村の行く末となると、表情は曇った。
「村民は、『除染イコール帰村』となっていて、具体的な線量低下もそのプロセスも無視して考えている状態だ」
 そういえば長谷川健一さんの飯舘村写真展が、新宿全労済スペース・ゼロの展示室で1月11日(金)~14日(月)の間、開催される。50点展示される。無料です。お出かけください。

◯大熊町の避難民が生活する会津若松市松長団地の仮設。
_dsc1590仮設住宅は市内の高台にあるため、積雪も多い。内陸部と大きく異なり、浜通りの大熊町は冬の間もほとんど積雪はないため、大熊町民は雪が苦手だという。そのため、仮設を出ていわき市に越す避難民も多く、仮設の空き部屋が増えているようだ。

_aaa4985木幡仁・ますみ夫妻。最近手術をしたばかりの仁さんの回復は順調という。顔色も良い。
「年内に中間貯蔵施設の場所が特定されることになるだろう。用地買収が進めば、賠償も進展する可能性が高くなる。財物保証も同時進行で進んでほしい」(仁さん)
「大熊町民は人まかせ意識になってきている。国民全体も人まかせ意識になっている」(ますみさん)

◯取材後記
 いわき市で原発事故取材初日の3月12日に、田村市の体育館で出会った原発作業員の若者と話した。その時は家族と避難中だった彼も事故からまもなく現場に戻っていった地元出身の一人だ。すでに線量が一杯のために一時現場を離れ、除染関係の仕事を開始したばかりだ。彼のように若くても現場経験豊富で有能な作業員=被ばく労働者は減るばかりなのが収束現場のようだ。地元紙によると、4号機の燃料棒の取り出しが11月から予定されている。果たして、1~3号機のメルトダウン(スルー)した燃料棒の状態が確認されるのがいつになるのだろうか。

_dsc0048
 水戸市では富岡町から避難している木田節子さんを訪ねた。木田さんはtwitterでもブログでも度々紹介してきたが、福島の原発難民の憤りを自らの言葉にした適格な表現で発信する希有な女性の一人だ。原発事故で目覚め、昨年2月の東海第二原発廃炉集会に参加するところから一気に脱原発の活動をスタートした。原発作業員を息子に持つ母親の視点、女の視点から説得力のある話し方、歯切れの良さで各地での講演にも出かけるようになった抗う福島県民だ。安倍政権となり、経産省前のテント村が危ないから守らないといけないと話していた。上の写真は木田さんからいただいた脱原発スローガンバッジだ。山梨県で木田さんが脱原発活動家の方からたくさん買い求めて利用を拡散している脱原発グッズ。
各地からは話してきてくださいと木田さんに声がかかるが、誰もが経済的な余裕がないために二の足を踏んでいるから、こちらから出かけないといけないと話す。木田さんらの出前講演のサポート組織を立ち上げる段階だという。木田さんの出番は増えるだろう。堂々と原子力村や政権与党を批判する木田さんのような「原発難民」がたくさん増えないと風化の歯止めにならない。

_dsc1084初日の出前の浦尻海岸。南相馬市小高区。
 安倍自民公明政権の再登場により、軍事力で中国大陸から東アジアを植民地化した加害の歴史に目をつぶり、新政権はいままた原発推進の謝罪と反省の弁もないまま原発再稼働と新規建設の意思を見せる。戦前戦中戦後の戦争指導者の無責任と、戦後50年も原発推進一辺倒で走ってきた自民党政治の無責任が共通する。
 自民党だけでなく、石原や橋下などに代表される右翼的政治家集団と、国民益よりも省益を優先する官僚機構が手を組む。脱原発の流れの風化、原発事故や大津波震災の風化に抗い、戦争体験の風化にも抗っていかないといけない年になる。波は荒く冷たい。


 

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2012年11月26日 (月)

忘れがちだが、忘れてはならない警戒区域の惨状(一時帰宅同行記)

(写真はクリックすると拡大します)

 今回の警戒区域の一時帰宅同行取材は、大地震と大津波による大きな被害だけでも生活再建が困難なことを改めて実感し、原発事故という三重の手に負えない災害が起きたのが警戒区域だったことを再認識させられた。地震の被害は場所、地盤の違いによって極めて破壊的で、前回のブログで拘ったセイタカアワダチソウの脅威を、ちょっとピークは過ぎていたがより深く認識できた。

 9月の時と異なり、今回は南相馬市から浪江町に入って、浪江町幾世橋の大手スーパーなどに囲まれた大きな駐車場がスクリーニング会場からスタートした。取材は11月21日。

◯双葉町
_aaa9917双葉町内。警戒区域のため、手つかずなので、地震直後のようにさえ見える。
_aaa0042双葉町新山。浄土真宗光善寺の入口。双葉駅の南西。原発から約3.5㌔。

_aaa9976同新山町。木幡さんたちは伯母さんの家の状況を見回った。3・11直後から余震で家屋倒壊状況が悪化しているとのことだった。
_aaa9960大きくて長い平屋の家は崩れていなかったものの、玄関口のコンクリートの土台に大きな亀裂が走っていた。毎時1.9マイクロシーベルト前後。原発に近い割に空間線量は思ったほど高くない。

_aaa0483「原子力 郷土の発展 豊かな未来」 双葉町役場手前の原発推進スローガンが掲げられたアーチ。役場前の水田は、セイタカアワダチソウで完全に覆われた。

◯大熊町
_aaa0105JR常磐線大野駅前の広大な邸宅の石垣。重機を使わないと動かない大きな石が吹き飛んでいる。余震でより崩れたのかもしれない。大熊町。原発の西4㌔。

_aaa0083同じく駅前同然の場所に東京電力の「新大熊独身寮」が建つ。かなり新しい印象だが、裏側はセイタカアワダチソウの生い茂る世界だ。空間線量は10マイクロシーベルト前後。

_aaa0096東電独身寮の表玄関。駐車場も完備された広い敷地。

_dsc9564原発の南約4㌔の熊川地区。海岸から600mくらいの住宅。大津波は大熊町でも大きな被害を出していた。熊川沿いに津波は2㌔以上上流まで押し寄せた。

_dsc9592橋の上から熊川をのぞき込むと、産卵を終えたシャケ多数を確認できた。

_dsc9601熊川の内陸方向を眺めると、放射能に深く汚染された場所とは思えないのどかな景色が広がっていた。放射性物質は見えない。空間線量は土手や宅地周辺で計ると、毎時10マイクロシーベルト~4マイクロシーベルトある。

_aaa0201大熊町野上地区。原発に西7㌔の木幡さんの自宅。地盤が強固のせいか、地震による被害はほとんどない。ただ、何者かによって部屋が荒らされていた。ものが散乱し、9月に同行したときにネズミ駆除で焚いたバルサンの缶が誰かの手によって別の場所に置かれていた。警戒区域の線量が高い地域でも泥棒が自在に動き回っていることが驚きだった。

_aaa0249家族アルバムを探し出した。

_aaa0383原発事故前まで木幡さんが米を作っていた水田。水田の空間線量は場所によって毎時9マイクロシーベルト~6マイクロシーベルトある。水田地帯は伸び放題のセイタカアワダチソウの繁殖群生地となっている。

_aaa0310お墓参りでご先祖さまに水をやる。帰還できないとはいえ、墓地はいつになったら修理できるのだろうか?

_aaa0356墓地向かいの野上一区公民館の敷地。昨年のものと思われる肥大化した月見草の茎。右は花盛りの今秋の月見草。通常の大きさにみえる。肥大化した月見草は敷地内だけでも数本ある。空間線量は毎時4マイクロシーベルト。
_dsc9527

_dsc9613東電福島第一原発の南側の水田地帯を覆い尽くすセイタカアワダチソウ。排気塔とクレーンがくっきりと見える。

◯浪江町
_aaa0563浪江町請戸川の河口近く。散乱を終えたシャケが自然にかえりつつあった。

_dsc9678浪江町で見かけた元気そうな放れ牛。

_dsc9650原発から8㌔の「命の楽園」。畜産農家が水田放牧で被ばく牛を生かしている。囲い込みの内と外を比べると一目瞭然。被ばく牛を活用すれば、益畜として農地保全に大きな貢献ができるのは明らかなのだが。国はなぜ殺処分を止め、被ばく牛を生かして活用する道を考えないのだろうか。

 地震被害、津波被害、そこに原発事故による放射線の目に見えない脅威。まさに三重苦。譲りに譲って、万が一にも警戒区域が解除されたとしても、地震や津波で住居を失った住民は帰るところがない。人が住めるまで何年かかるかもわからない。帰還できるまで待つ期間の無駄と虚しさは見過ごされていいはずがない。圏内でも県外でも、速やかに別の定住先を見つけて生活再建を始めるほかはないのではないだろうか。国策で原子力発電を推進してきたのだから。

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2012年11月14日 (水)

「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」(彩流社)の書評紹介

 東日本大震災と原発事故による放射能汚染の現場を取材してまとめた「鎮魂と抗い」(彩流社)が刊行されて2ヶ月。これまでに出た書評や感想をまとめて紹介します。(追加更新予定です)

1:共同通信社による書評(10中旬):掲載されたのが確認できているのは岩手日報、信濃毎日新聞、京都新聞、新潟日報、福井新聞など。

東日本大震災と福島第一原発事故の被災地を歩き続け、人々の悲しみと祈り、憤り抗い、戦う日々を写真と文で描いたルポルタージュ。中でも被災地に立つ仏教者の姿が胸に迫る。

がれきを前に深く頭を垂らす若い禅宗の僧侶。檀家のうち約180人を津波で失い、遺族と向き合い続ける住職。2度と戻らないと決めていた故国・日本に戻り、被災地を回るインド滞在47年の僧侶。彼らの姿を通して、いまだに終わらない「鎮魂の現場」を生々しく伝える。原発の警戒区域内の貴重な写真も多数収録されている。

2:鎌田實の一日一冊(150)

東北の大震災を祈りとか、鎮魂という切り口で、写真にうつしとっている。
見事だ。

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悲しみがあふれてくる。
静かな怒りも見えてくる。
全体を通して、それでも負けない、と闘いつづける姿が見えてくる。
すばらしい写真集だ。     「八ヶ岳山麓日記・10月23日 (火)」

:ロフトプラスワンの平野悠さん
 以前フォトガゼット(写真家が集まってできたオンラインマガジン)で見た一人の坊さんの写真が忘れられない。私はその写真を求めて山本さんの展示会(キッドアイラクホール)まで足を運んだ。キャプションには「瓦礫を前にして何かしらないけど、ただ謝るしかない」と書かれている。東北大震災、原発、脱原発デモを精力的に取材し写真を撮り続けている山本宗補さんの写真集だ。そして被災地の苦悩の写真と共に、東北の寡黙なねばり強い人々が「放射能と闘う、東電と闘う、国と闘う。その姿を電気を使っていたみんなに解ってもらいたい。私たちは静かに怒りを燃やす。東北の鬼です。・・・私たちと繋がってください」と強烈なメッセージを残している。この本はただ被災地の情景を撮っただけではなく、抗う被災者をフォーカスした事だ。素晴らしい。今写真集が売れない時代。心を込めた写真はネットでは見ることができない。オススメの本です。(Rooftopレビュー)


2:落合恵子さんの書評:琉球新報掲載(10月28日)

 「鎮魂」と「抗い」。その、どちらをも置き去りにしてはならならない。“と”で結ばれた二つの思想と姿勢が意味する事実。本書に収録されたスティール写真と(写真の「説得力」をあらためて実感)、紡ぎだされた言葉を前に、鎮魂と抗いを深く、さらに深く心に刻む。

 どちらが欠けても、「あの日」と「あの日以降」を丸ごと受け止めることはできない。「ここ」から始め、何度となく「ここ」に戻り、残された私たちは鎮魂と抗いを続けるのだ、せめて。

 本書の前半、「鎮魂」は地震と大津波で壊滅した地で、死者や行方不明者を弔い続ける僧侶の姿を追っている。「五体投地して死者を供養する」(写真キャプションより)。「犠牲となった180人の檀家の塔婆を書く」。

 後半は、震災の翌日から始めた福島各地での取材で出会った、それぞれの「抗う個」を追っている。
 「放射能スクリーニング検査を受ける」住民。信号だけが点滅する無人の町。「原発事故から9か月後のある酪農家の牛舎」と記された写真には、餓死してミイラ化した牛が。

 表紙は、二つの写真で構成される。宮城県女川の仮埋葬場に並ぶ多数の塔婆の写真が鎮魂を。そして、「自らの被曝と引き替えに、牛を生かそうと東電と国に抵抗する道を選んだ」酪農家が抗う個、を象徴する。

 まさに鎮魂と抗いの「かたち」がここに。非情な国の、非情なこの現実を深く刻んだ本書。それを何度目かに開いた連休の午後。母親と共に沖縄から上京した女の子に偶然に会った。「この子、とうきょうには、オスプレイ、とばないの?って聞くんでです」。

 犠牲のシステムの上に胡坐をかいた権力。いのちと人権を脅かすすべてのものへの「抗い」は続く。そして抗いの水底にあるのは、抗えずに、あるいその途上で亡くなり、去っていった人々へ「鎮魂」である。

 後書きの最後で、山本宗補さんご自身、「終末期を迎えた」お母さまと暮らしながら、この取材を重ねてこられたのだ、と知った。 (落合恵子・作家)琉球新報芸能・文化

3:鎌仲ひとみさんのtwitterコメント(10月30日)

山本宗補さんの「鎮魂と抗い―― 3・11後の人びと」読了!なんという丁寧な取材。しかも地震・津波の最初の被害から原発事故に翻弄され抗う人々に寄り添ってこの1年半、読み進むにつれ、福島の人々の声がそばで聞こえるようでした。必読・必見です。

山本宗補さん@asama888 の新著「鎮魂と抗い―― 3・11後の人びと」フォトルポルタージュの傑作。どれだけの犠牲があり、いまだ続いているのか、これを読めば胸に落ちる。そしてこの人たちを見捨ててはいけない、たとえ政府がそうであろうが、私たちはつながらねば!

山本宗補さんasama888「鎮魂と抗い3・11後の人々」の写真すごいです。山本さん、ものすごく被ばくしたね。でもそこに今も住み続けている人たち、特に動物の世話をし続ける松村さん・・命がけの活動。犠牲になった人々はもちろん、そして餓死した子猫や牛の魂にも鎮魂。

4:舞踏家・映画監督岩名雅記さん(在仏)の感想facebook(11月6日)

フォトジャーナリスト山本宗補氏の近作「鎮魂と抗い(彩流社)」を読ませていただいた。前作「3・11メルトダウン(凱風社)」もそうだったが、自分も含めてあの被災(悲災)に直に接していない人間にとって本書は感情と感性が突き動かされるという意味で「感動」の書となっている。万人必読である。

その理由は先ず被写体に向けて祈りと鎮魂の心なくしてはシャッターを切れないという山本さんの想いが強く伝わってくるからである。同時に恐らく200枚はある写真の...どれもが撮り手と被写体相互の共感であり共作である。もっといえば両者に横たわる痛みと苦しみの共有(慈悲)の作品である。

その共感は必ずしも副題にある「3・11後の人びと」に対してだけではない。捨てられ壊され冒され叫んでいるモノや動物たち、つまり無名無明の命に向って映像の祈りが捧げられているのだ。「船に祈る」という写真があったように思う。まさに家族のようにその人は船に向って詫び祈っていた。

祈りといえばこの写真集ほど祈り、または「手を合わせる」という行為が映像化された作品を僕は見たことがない。僧侶の祈りはもとより人々は静かに激しく祈っている。そして祈りの本来的な姿がここにあるということをこの悲惨を通じて僕らは漸くにして、そしてまざまざと看とることが出来たのだ。

大地にひれ伏して詫び祈る高僧。立ったままからだを二つに折って詫び祈る若い僧侶。そして無論のこと失われた命やモノに向ってひたすら祈る無数の人々。この祈りの時間をもう少し早く我々の日常にたぐり寄せることが出来ていたら我らの時代も違っていたのではないかと涙ぐみながらつい思ってしまう。

さて僕は本書を手にする前から「鎮魂と抗い」という異なる二つの辭が山本さんの中で、そして抗う人々それぞれの中でどう拮抗/関連しているのかということに興味があった。本書はそれを実に見事に開示している。命を敬い、祈る心を持つ者はそれを疎外する力に対して徹して闘えるということだ。

「希望の牧場」の吉沢さんや「がんばる福島」の松村さんは言うに及ばず、決死で闘う人々の心底にあるものは掛け値無しの愛情/やさしみにあることが写真と文で見事に切り抜かれている。正直なところ「希望」や「がんばれ」は僕の好きな辭ではない。安直に、しかも国家的に使われている節があるからだ。

けれどこの本を読んでいるとこれらの辭が吉沢さんや松村さんの何処から出てきたのかが良く分かる。まさに「静かな怒りを燃やす東北の鬼が‘苦悩と責任と希望を分かち合いたい’のでつながってください(196頁)」というその叫びから出てきた希望やがんばりを僕らは受け止めないわけにはいかない。

それにしても雪降る飯館村の写真(147頁)を見るにつけ、日本はかくも美しかったのかと今更ながら思う。それはまるで時代を超えた数百年前のまぼろしの日本のようだ。そんな大切な日本を壊してしまった責任の一端が我々にあることも山本さんは写真を通して静かに我々に問いかけてくる。

フォトジャーナリスト山本宗補著「鎮魂と抗いー311後の人びと(彩流社)」は生きていることの意味、生きていることは(ないことではないという意味で)有り難いことだということを再度我々が確認し、誓う為の聖なる書である。山本さんに心から感謝申し上げる次第である。(岩名雅記facebook)

◯書評を書いていただいたり、丁寧な感想を書いていただいたみなさま、本当にありがとうございます。これほど各分野の方から評価していただいたことは初めてです。(山本)

◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729

・銀行振込
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2012年10月27日 (土)

一月遅れの一時帰宅報告・警戒区域の実情(富岡町)

(写真はクリックすると拡大します)

 関係者に平謝り。先月末に警戒区域の一時帰宅の二日同行させていただきながら、ブログで報告をしていなかった。よって、一月遅れとはいえ、警戒区域の実情を共有したいと思います。(小声で週刊誌が取り上げそうもないので)

「野田総理。私の家をやるから、あそこに住め。フクイチの事故が収束したというんだったら、政治家は双葉郡に国会議事堂を置け。それができなかったら原発を止めろ」
 これは福島県富岡町から避難している木田節子さんのトレードマークともいうべき官邸前スピーチの一部。
_aaa48796月7日の首相官邸前でスピーチする木田節子さん(58)。

◯富岡町、木田節子さんの一時帰宅
 その木田さんの一時帰宅に同行させてもらった。Jビレッジから原発構内での作業に向かう作業員らは、誰もが防護服で検問所を通過する。ところが、一時帰宅者は、普段着のまま検問所を通過し、スクリーニング会場で防護服や個人線量計、空間線量計などを貸与された後、警戒区域内で防護服に着替えるやり方だった。これには驚いた。

 何故か?検問所は楢葉町の警戒区域が8月のお盆前に解除されたので、原発から約10㌔の楢葉町と富岡町の境に移動した。その検問所の警備担当の機動隊は、全員がマスクにゴム手袋。素肌を出さないで徹底していた。これは当然の防護策だ。ところが、スクリーニング会場は警戒区域内に新たに移動した。国道6号線から会場に入る交差点に立って車を誘導する人もマスクなし、防護服なしだった。

 _aaa0546木田さん夫妻と同行者は私を含めて3人の計5人。支給された防護服に私たちが着替えたのは警戒区域内。あいにくこの日は雨模様。
_aaa0544毛萱・波倉スクリーニング会場は富岡町の第二原発に隣接する場所。毎時0.85マイクロシーベルトの表示がホワイトボードに書かれているにもかかわらず、20代と思われる若い女性スタッフ含め、ほとんどがマスクせず普段着だった。木田さんの一時帰宅に同行してこれが一番の驚きだった。
 
_aaa0575福島第一原発から8㌔の自宅に半年ぶりの一時帰宅という木田さん夫妻。自宅玄関から入るところ。築20年。瓦屋根ではないので、屋根が崩れる被害はなかったが、室内は地震で特に二階の衣装ダンスが倒れて大変だったとのこと。

_aaa0648木田さんがバスガイドの仕事を始めた頃の同僚からもらったこけし人形。ここは二階の窓側で空間線量は2マイクロシーベルト。
_aaa0679二人の子どもを出産した病院から発行された育児記録。一人は釜石市で、一人は南相馬市でお産。釜石市の病院で出産した長男が事故前から原発作業員として働き、事故後には原発の仕事に復帰。今は除染の仕事に関わっているという。

_aaa0631バスガイドの仕事で、ツアー先の観光地巡りを自ら大きな模造紙にイラスト入りマップを描いて案内に使ったという木田さん。10分程度で仕上げてしまうという。これは京都~福井県一体のツアー時に用意したもの。立体的で俯瞰的で色鮮やか。ツアー先によって毎回描いたという木田さんのセンスを実感した。指を指しているのは大飯原発再稼働に反対する小浜市の辺り。

 原発事故後、木田さんが福井県に出かけたのは、原発事故による避難民の心情として、大飯町役場や福井県庁に出向いて、再稼働に反対するように申し入れるためだった。事故前は観光案内で出かけた先への事故後の再訪理由が皮肉で悲しくもある。

_aaa0621こちらは木田さん手作りの信州観光イラストマップ。ちょうど我が故郷の浅間山と軽井沢や小諸も書き込まれていたので撮影。ぬいぐるみは長女の娘さんのもの。

_dsc5764バスガイド時代の観光地のホテル滞在の度に書いてもらった思い出帳。大津波で被害が大きく営業ストップしたままの岩手県田野畑のホテル羅賀荘のもの。下は宮城県南三陸町のホテル観洋のもの。ホテル観洋は死者も出したが今は営業再開している。_dsc5767

 釜石市生まれの木田さんは、大津波によって大きな被害を出した被災地の観光地を、お客さんを案内して軒並み訪れている。そのため、自宅に残る思い出は大津波前の被災地の観光スポットとしてのにぎわいぶりを彷彿させ、皮肉な思い出帳となっている。
 同時に、故郷は大津波で壊滅的な被害を受け、仕事で回った先々も同様に破壊され、自宅を建てた富岡町は濃い放射能汚染によって帰宅困難となってしまった故、木田さんの悲しみと悔しさは人一倍強いものがある。

_aaa0764木田さんがガイドの仕事で留守にすることが多いため、ご主人が食事の用意をすることが多かったのだとキッチンに立つご主人。ご主人はJRに務める。

_aaa0870周囲が雑草で覆われつつある自宅の全景写真を撮る木田節子さん。ちなみに自宅の庭先は4.65マイクロシーベルトだった。洋なしの木が一本あり、毎年実をしっかりとつけていたというが、今年は全くない。どうやら放れ牛が食べてしまったようだ。

_dsc5814木田さん。

 町内を移動中にたまたま出会った男性は木田夫妻と知り合いで、福島第一と第二原発で35年働いてきた作業員の人だった。今年の三月まで働き退職した元作業員の人の話では、「空間線量が4マイクロシーベルトは通常の100倍だ。もうここは人が住むべきところではない。除染して高齢者ばかり集めても、町として成立しない」

_aaa1077常磐線JR富岡駅ホームで線量を計るご主人。線路はセイタカアワダチソウなどの雑草でビッシリと覆われている。足元には「スーパーひたち自由席」の文字が。

_aaa1013JR富岡駅の近くに駐車してあったご主人の車は、数十m流されて手つかずのまま。いまはセイタカアワダチソウに取り囲まれている。

_dsc5875残された自動車と周辺をビデオに撮る木田さん。

_aaa0971富岡町役場の裏手。
_aaa0977富岡町役場の除染で出たと思われる汚染土が大型土嚢に入れられ、役場に脇に積み上げられたままだった。_aaa0982

_aaa0943原発マネーで建設された「健康増進センター リフレ富岡」。庭はコスモスやセイタカアワダチソウが占拠。

_dsc5837花びらのギザギザがなくて、丸みを帯びたコスモスの変種ではないかと木田さん。「リフレ富岡」の植え込みで発見。

_aaa0910JR夜ノ森駅前の自転車置き場。ここもセイタカアワダチソウが我が物顔に成長していた。空間線量は毎時6マイクロシーベルト以上。

_aaa1104検問所で警戒区域から出る私たちの車内をチェックする神奈川県警の警官。全員マスク着用している。

 ちなみに、この日の4時間半の滞在で、積算被ばく線量は0.007ミリシーベルトだった。この数値は、これまで浪江町や大熊町で取材した時と比較すると4~5分の1程度だった。

◯取材後記

 木田節子さんはいま各地での講演が多忙になっている。講演が官邸前抗議の日に重なり、最近は見かけないのが寂しい。先日、木田さんから以下のメールに添付されてここに紹介する観光イラストマップが送られてきた。 

 「次々に原発が再稼働したら、この日本は、出戻り総理を狙ってるどこかの世間知らずのボッチャン議員がいう『美しい国』ではなくなります。そうならないうちに、日本を旅しておきましょう。日本は山紫水明の国と言われ、とくに秋の十和田や八甲田、八幡平は最高ですよ…というような話をするために、東北イラストマップを描いてきました。先日の一時帰宅時に見つけた、バスに乗務したときのものを眺めて思い付きました。結構いいできだと思います。よければ見に来てください」
Photo「この地図に放射線は描けません」と上部にあるのが心憎い。
Photo_2「国民守らねー政治家はいねーがー!?」

 イラストマップを良く見ると、「『美しい国』だと~。腹黒い奴が言うな~!」「山下クン 医者止めなさい」などとも書き込まれている。いやはや何とも。木田さんは素晴らしいセンスと度胸持ちだ。

 


 

東日本大震災(原発事故・放射能汚染), 東日本大震災(津波被災地) | | コメント (0) | トラックバック (0)

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