経済・政治・国際

2018年12月11日 (火)

2002年4月:説得力不足でしたので、生の声を~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2002年に書き込んだものです)

 具体的なパレスチナ人の生の声をお伝えしなくては説得力不足でした。

 イスラエル軍が侵略中のヨルダン川西岸の北端にある町がジェニン。イスラエル領に隣り合う地区だ。昨年11月、10年ぶりにパレスチナを取材したときには、ジェニンの郊外にある村に住むサエッド君(25歳)の自宅を訪問した。ジェニンと村の間を結ぶ幹線道路から間近に見える位置に、戦車が2両、畑の土に隠れるように置かれ、銃身は道路に向けられていた。道路は3ヶ月間封鎖され、前日にたまたま障害物が取り除かれたとのことだった。

 私はサエッド君に会ったのは彼が15歳の時。1991年当時の彼は東エルサレムにある「国境なき医師団」ベルギー支部から派遣された理学療法士が指導するリハビリセンターで、上半身の筋肉を使う訓練をしていた。運悪く彼がイスラエル兵の銃弾の直撃を受けたのは、中学生だった14歳の時。村の中にある学校を取り囲んだイスラエル兵が撃ったダムダム弾が、右腕に当たり、右の脇腹に食い込み、心臓近くを貫通し左半身の背中から身体の外へ飛び出した。そのため脊椎の損傷で下半身不随となっていた。(ダムダム弾とはジュネーブ条約で使用が禁止されている破壊力の高い銃弾だ。当時も今もイスラエル軍はダムダム弾の使用を止めていない。)

 リハビリ中の15歳のサエッド少年の瞳は、静かな悲しみをたたえていたのが印象的だった。その時の写真を元に、二つの病院で訪ね歩いて得た結果が、ジェニンに住むという情報だった。エルサレムを出発し、乗り合いタクシーを4度乗り換え、山道ではロバ馬車に乗り換え、ジェニンには6時間以上かかってたどり着いた。本来ならば自動車で2時間程度の距離だと思われるが、幹線道路も山道もイスラエル軍による検問所や障害物などで何カ所も遮断されているため、パレスチナ人の移動や労働の自由が奪われていたためだ。(現在のヨルダン川西岸はイスラエル軍の全面的展開で、移動の自由が利かず、取材が困難と推測します)

 25歳となったサエッド君は車椅子生活。新婚だったが、両親、弟夫婦と4年前に建て替えた家で暮らしていた。彼は細身で物静かな雰囲気は変わらなかった。その晩は彼の家に泊まらせてもらい、ラマダン中の特別夕食をごちそうになり話を聞いた。通訳は村に住み、ジェニンにあるパレスチナ自治病院で医師のインターンをしているサエッド君の友人がやってくれた。

 「戦争は何も解決しない。シンプルなパレスチナ人も、シンプルなイスラエル人も戦いを望まず、平和に暮らしたいと思っている。シャロンのような政治家だけがパレスチナ人と隣り合って暮らすのを嫌がっている。イスラエルの入植地はガンのようなものだ。入植者は元の所へ帰るべきだ。入植地の土地はパレスチナ人に返還されれば、お互いに戦うこともなく暮らすことができる

イスラエル政府もイスラエル軍もイスラエル国民の顔といえる。シャロンは国民によって選出されたのだから、シャロンもイスラエル軍も国民も一つの同じ輪だ

空や地下水が我々の自由にならなければ、国家の意味がどこにあるだろう。自分の土地での移動の自由がないのならば、国家の意味がどこにあるのだろう

 93年のオスロ合意以降、ヨルダン川西岸の主要都市がパレスチナ暫定自治区に組み込まれる一方で、イスラエル人入植地の新設拡張は進み、2万戸を越える新住宅が建設され、入植者数140、入植者数40万人となったという。占領地に入植地を建設することは、国連決議違反。ヨルダン川西岸もガザ地区も、入植地が虫食い状態にある現実のまま恒常的停戦と和平がもたらされるといえるでしょうか。

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2001年11月:パキスタン・ペシャワールから~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 前回、パレスチナの実状を書き込んだエルサレムを24日に離れ、26日からはパキスタンのペシャワールに来ています。ラマダン(断食月)はパレスチナ取材中から始まり、似非イスラム教徒として、朝食後から日没までは水も飲まず、タバコも吸わず、何も食べないで我慢する努力をしているところです。とは言っても、実状は朝食は7時くらいに食べ、さらにこっそりチョコレートやビスケットなどを時折食べたり、水を飲んだりしてしまうので、とてもラマダンを実行しているわけではないのですが。

 アフガン人があふれるペシャワールの宿は、コックやウエイターは全員アフガン人。パシュトゥーン人、タジク人で、経営者はかなり前からペシャワールに出てきたアフガン人。日没直後の食事は、ホテルの食堂にある大テーブルをマネージャーから警備も含めた使用人全員が集まり、モスクから流れるアザーンを合図に、待ってましたとばかりに食べ始めます。今日は金曜日、私も夕食に呼ばれ、みんなと一緒にミルクティー、ポテトのピリ唐揚げ、ナン、果物などをいただきました。今日は朝食後はティーを一杯、それにジュースを一口だけで何とか夕方まで我慢しましたが、どうも私はイスラム教徒にはなれません。

 パレスチナでは豪華なラマダンスペシャルの家庭料理を一度ごちそうになりましたが、ここのアフガン人は果たしてどんな夕食を家族で食べているのかが気になるところです。ついでに、この宿で働くアフガン人の給料は1500ルピー以下。100ドルが6000ルピーの交換レートなので、25ドル以下です。

 27日からはペシャワール会の活動と中村哲医師の取材撮影に取り組んでいます。中村先生は27日から12月3日までが、こちらのPMS病院に詰めながら、アフガン領内での援助活動の指揮をとり計画を練り、残りは日本での講演活動の日々を交互に繰り返すパターンができています。火曜日は疲れと睡眠不足がありありの表情で、言葉にも力がありませんでしたが、今日はかなり元気が回復した表情と雰囲気が感じられました。

 今朝ほど、ジャララバード北部のマラリア流行地域に向け、マラリア用の薬や寝袋などを積んだ車2台でアフガン人スタッフを送り出したところです。緊急食料援助活動は、ジャララバードとその周辺の治安が不安定なため、一時休止状態。通常の医療活動は続いているという話です。カーブルには国連機関などから大量の食料が運び入れられはじめたために、今後の食料援助は大きな援助機関の活動範囲外の地域に力を入れることになるようです。

 今日はようやく中村先生の医師としての現場をしっかりと病院で見せてもらいました。患者一人一人との対話と欠かさず、担当医師の所見なども確認しながら、ゆっくりと時間をかけて見て回る姿は、日本からここまで中村先生の現場の一部を見に来たかいがあることを実感させてくれました。中村先生よりも頭の位置が低いのはベッドの患者さんだけで、アフガン人とパキスタン人医師陣は小柄な中村先生を見下ろして、中村院長の説明に耳を傾けているのです。

 著書で想像した個性の強い人物を時折確認しつつ取材しています。ちなみに、タバコ好きの中村先生は、ラマダン中に外では絶対に吸わないそうですが、院長室はラマダンの時期でも影響されない部屋とされ、ミーティングや人に会う合間にタバコが欠かせないようです

 私は帰国まで10日を切りましたが、ジャララバードとカーブル間の治安が安定すれば、アフガン領内を是非見てこようとは考えています。

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2001年11月:10年ぶりのパレスチナ~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 11月12日からイスラエルに来て、10年ぶりにパレスチナ情勢を取材中です。今回の取材で、誤解を恐れずに極限すれば、イスラエルが国家テロの国だと断定してもおかしくないと改めて実感しています。こう書いても、おそらくこの国に来てパレスチナ人が1948年のイスラエル建国で国土を奪われていらい強要されている暮らしぶりを一目見るまでは、みなさんには信じてもらえない表現だと思っています。

 私は中東の専門家ではありませんが、ひとりのカメラマンとして短期間だけでも撮影、取材したことのほんの一部を紹介して置きます。

 昨日、パレスチナ自治政府が管轄するガザ地区(イスラエル南西部のエジブトとの国境周辺)にあるハンユニス 難民キャンプで、イスラエル軍が発射した砲弾の不発弾が爆発し、登校途中のパレスチナ人の子どもが5人、即死です。12歳から15歳の子どもたちです。その中のひとりが地面にあった爆弾を蹴ったために爆発したようです。

 私は今はエルサレムで取材中なので現場取材には出かけていませんが、地元のアラビア語の新聞は全て一面トップですが、イスラエルの「ハーレーツ」紙でさえ同様です。テレビニュースなどを見ても、地面に直径3メートルはある大きな穴が深く掘られるほどの破壊力です。子どもたちの身体もバッグも吹き飛んでしまったようです。

 現場周辺は先週のガザ取材で二日続けて撮影に出かけた場所です。イスラエル軍が最近は幾度となく深夜攻撃を繰り返し、前日あった国連のテントやパレスチナ人の住宅が跡形もなく壊されてしまうほど、日替わりで光景が変わってしまうほどパレスチナ人に対する攻撃を止めないスポットです。難民キャンプの一角ですが、イスラエル軍は隣接するユダヤ人入植地を守る口実で、あからさまな侵略を繰り返しているわけです

 パレスチナ側は自治警察が治安を守る任務を負っていますが、武器は自動小銃のみ。戦車砲や時には攻撃ヘリも動員し、ロケット砲やマシンガンなど使い放題のイスラエル軍とは最初から勝負になりません。一斉攻撃の仕上げが戦車のようなブルドーザーでパレスチナ人のコンクリートやブロック製の住宅を破壊しての更地化です。エジブトとの国境線のラファは、更地化がより一層進んでいます。イスラエル政府が一方的な戦争をパレスチナ人に仕掛けているのが現実です。

 別の事例をあげましょう。昨日、取材に出かけたのはキリストが誕生したといわれるベツレヘム。エルサレムから南へ20分。ベツレヘムとその周辺にある難民キャンプは、ちょうど一ヶ月前の10月18日から29日までの11日間、イスラエル軍によって包囲され、激しい攻撃を受けたところです。(この前例のない攻撃は前日の10月17日に、シャロン首相よりもタカ派と言われたゼエビ観光大臣がパレスチナ人によって暗殺されたことへの報復攻撃と思われています)

 この間、イスラエル軍は高いビルを占拠して、難民キャンプを包囲し、至近距離で昼も夜も発砲を続け、パレスチナ人を恐怖のどん底に追いやったのです。パレスチナ人の死者は22名、うちパレスチナ人警察官は4人。残りは17歳から57歳までの一般市民です。負傷者は146名。死者と負傷者全員がかつぎこまれたベツレヘム市内の病院の医療責任者の話を聞きましたが、驚きました。死者のほとんどが首、胸、頭への銃弾によるもの。4人の死者は家の中にいたにも関わらず、狙い撃ちされたといいます
「イスラエル軍は殺すために発砲したのは明かだ」と、パレスチナ人でクリスチャンのピーター医師は断言しました。

 昨年9月に第二の インティファーダが始まっていらい、パレスチナ人は再び大きな刑務所に隔離された暮らしです。というのは、パレスチナ自治区の西岸もガザ地区も、イスラエル軍により厳しい検問所がそこら中に設置され、封鎖されてしまったので、それまでイスラエル領内での職場へ通勤していたパレスチナ人が、のきなみ仕事と収入を奪われている状態です。ガザ地区の出入りが可能なのは、国連関係者、パレスチナ自治政府高官、外国人ジャーナリストくらいに限定されているほどです。やはり、現場に来てみないと想像できないほど、基本的人権も存在権さえも奪う占領と弾圧方法が巧妙に敷かれているのです

 中東の和平はパレスチナ問題の解決(ユダヤ人の国家と隣接するパレスチナ人国家建設)抜きには考えられません。国連決議さえ無視したままのイスラエルへの一方的な肩入れをするアメリカが、イスラム教徒の怒りを増幅してきた事実を見落とさずに、アフガン情勢とリンクして考えてください。ちなみに、2-3日前のアメリカ政府の和平への提案を本物と感じているパレスチナ人は見あたりません。いつも口約束でだまされてきた歴史があるからです。

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2001年11月:内なる凶暴な遺伝子~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 10月下旬の宮内さんの海亀日記、「内なる凶暴な(もしくは利己的な)遺伝子」、という表現へのこだわりが気になっていました。

 同時テロのように一気に多数の犠牲者が出る事件や戦争が続くと、死者の数を数字で表すことが空虚になり、実感が希薄になってきていることがかえって心配です。それは犠牲者一人一人の存在感がゼロのごとく扱われているためかもしれない。国政、県政レベルの議員連中も、多くの日本人も同じように現実感に乏しい世界に閉じこもっている。アメリカの同時テロの犠牲者6000人。6年前の阪神淡路大震災の犠牲者約6000人。日本に住んでいる者さえ、あの未曾有の大地震による無数の悲しみと都市の破壊を自分のこととできなかったのではとさえ思ったりもする

 私自身は想像力が鈍い。それゆえ、仕事に選んだ写真を撮る行為で、現場を踏むことで実態を伴わない数字が初めて現実味を帯びてくる。アフリカ内陸部の小国、ルワンダには4年前に取材に行ったことがある。国連の推計では少なくとも80万人が虐殺された。多数派のフツ族が少数派のツチ族隣人を襲い、わずか3ヶ月ほどの間のジェノサイドの結果だった。7年前の出来事である。政権を握るフツ族に影響力のあったフランス軍も、国連も虐殺のエスカレートを止めることのできた立場にあったはずだ。だが・・・・。

 聖域だった教会や、各地の学校に集められたり逃げ込んだツチ族やフツ族穏健派がフツ族政権の操る民兵らにより、銃殺されたり撲殺され、大量殺戮の場と化した。中部の技術学校の立ち並ぶ教室には、掘り出された白骨化したりミイラ化したおびただしい数の遺体が並べられていた。頭髪や衣服が部分的に残っている女性の遺体ものもあった。兄弟とさえ思える子どもの白骨もいくつも置かれていた。おぞましい光景以外の何者でもない。80万人の死者とはそうした遺体が80人分並び、生存者が80万人分の遺骨を処理しなければならないのだということを想像してほしい

 しかし、ルワンダはそんなジェノサイドが似合うような殺伐とした環境の大地では決してない。ルワンダとは「千の丘の国」を意味する国名で、亜熱帯の見渡す限りの斜面が耕された農業国だった。乾燥した砂漠、飢餓の蔓延する飢えたアフリカのイメージとはほど遠い。国名のごとくどこか中国雲南省からビルマのシャン高原に連なる丘陵地帯が続く東南アジア的世界を彷彿とさせる国。南東部は茶のプランテーション地域で、隣国ザイール(現コンゴ共和国)との国境となる湖は、スイスのレマン湖を思わせる自然の美しい一帯、さらに北西部にはマウンテンゴリラの生息するジャングルもある。そうした自然を思い浮かべれば、少しはルワンダに暮らす人々の生活を想像できると思うが。

 中部の町にある民俗博物館には様々な形のスキやクワ、ナタなどの農耕具類が数多く展示されていたのには驚いた。歴史のある農耕文化が存在していたことを証明していたからだ。想像するに、現代的改良を加えられた亜熱帯農業による食糧増産が、狭い国ルワンダの人口増加につながり、返って耕作面積の減少、貧富の格差拡大、土地なし、職なし、教育なしの若者を増産。多数派のフツ族の若者の不満のはけ口が、権力者たちにより操られ、政敵ツチ族にし向けられてきた。

 ただ、その不満の根源は持たざる者が多少は羽振りの良い隣人を羨むという、極めて人間的なねたみの感情が源泉となっているものと思えるのです。経済的な格差の歴然とした国の持たざる者の感情は、日本人には想像できにくいほど根が深く、経済的にしか解消できないものかもしれません。「内なる凶暴な遺伝子」がなせる殺戮とは、どこか違うような気がするのです。もっともっと、指導者層、権力を行使する立場にあるリーダーたちの資質が問われるべきだとも感じているからです。

 ルワンダで歴史的なジェノサイドが起きたとはいっても、アフリカ大陸にヨーロッパ列強が押し掛け、分断し植民地化する以前の部族社会の共同体は、フツ族とツチ族でもおそらく何らかの共存と、ブレーキが働いていたはず。ルワンダの場合は西隣のザイール(現在のコンゴ共和国)ともどもベルギーに統治され、ベルギーは少数派のツチ族を重用し、フツ族をコントロールした。しかも、富の象徴だった牛の所有数でツチ族とフツ族のIDの基準としたという。ある研究者は、ベルギー時代に、牛10頭以上持つ者をツチ族とみなしたという破廉恥な統治政策があったと指摘している。遺伝子とは異なる、ある人為的なすり込みが、世代を経て暴発する引き金となったという側面を見逃してはならないと思います。もっとリーダーの資質、責任を糾す見方もできるのではないでしょうか。

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2000年9月:朗読者」読みました~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 約1ヶ月ぶりに投稿してみました。 盛夏の8月はいろいろと雑用などに追われる一方で、 8月下旬までは全く本を読めず残念でした。夏休みに買い貯めた 本をたくさん読みたいと思っていたのですが。 それでも、気を取り直して、話題の「朗読者」をよみました。重く考えさせる内容とは別に、読みやすかったのには救われました。 それは何よりも前半を占める15歳の主人公と40歳前後と思われる ハンナとの濃密な愛人関係の描写により引き込まれたものでした。

 「朗読者」のポイントは、積山さんが的確にご指摘されているとおり だと思います。日本で読まれる理由のひとつも、「朗読者」という 小説で描き出されているナチスドイツ時代にドイツが犯した罪を、戦後、ドイツという国家やドイツ人個人個人がどのように反省したか、また、どのように責任の所在を明らかにしようとしたのかを振り返ろうとしている意志に驚いたり、多少の違和感を感じながらも我が日本の戦後に置き換えて、考えざるをえない気持ちになるからでしょう。戦後、戦争責任をあいまいに処理した日本人にはどきりとさせられる 小説です。

 朗読者を読んだ勢いで、ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」を読み、「ある憲兵の記録」(朝日新聞山形支局)も読み終えました。キャパはハンガリー生まれのユダヤ人で、ヨーロッパ戦線の幾多の生死を分ける極限で後世に残る報道写真を残した稀にみる人物。カメラマンの職業柄、彼の写真は見慣れているものの、この本を読んでいなかったことを悔やみました。キャパは恋人をロンドンに残したまま、アメリカの写真雑誌「ライフ」 の従軍カメラマンとして、第二次世界大戦中の北アフリカ、イタリア、フランスなどの各最前線をヘルメットにカメラだけで渡り歩きます。目の前では多数のイギリス兵、アメリカ兵、フランス兵などが死んでゆき、仲間のライフ誌従軍カメラマンは沖縄の伊江島で死にます

 同じ頃の中国・満州国では、山形出身の若い農民が憲兵として、天皇を頂点とする大日本帝国のために忠実に働き、国土を外国人である日本人に蹂躙され愛国心を心に秘める無数の中国人を捕らえ、処刑場へと送ります。72歳となった元憲兵の土屋さんが、新聞記者に語り、新聞紙上に長期連載されたものをまとめた本が「ある憲兵の記録」ですが、何年も前に買ったものの、なかなか読む気が起きなかった本でした。

 土屋さんが憲兵として10年以上勤めたのは、海亀の宮内さんが暮らしたハルピンからは遠くない、チチハルというロシアとの国境近辺の街ですが、敗戦後はロシアと中国の収容所に入れられ、帰国するまで11年間の抑留生活を送ります。その間、土屋さんは自ら罪の総量を振り返り、14年間に、328人を直接間接に殺し、1917人を逮捕拷問し刑務所に入れたという恐ろしい数字でした。

 「自分は戦争の加害者であり、中国では鬼だった。再び、あのような侵略戦争を繰り返してはならない」と語る土屋さんは、各地で自らの体験を話し、反戦を訴える活動をしているという。また、1990年には中国に「謝罪の旅」にも出ている。この本には、「善良な地方の一農民を、平気で人を殺す兵や憲兵に仕立て上げ」た当時の日本の時代背景も描かれています

 すでに亡くなった私の父親も中国大陸で憲兵をしていたので、この本はショッキングでした。もし、我が父が元気な頃に憲兵時代に何をしたのかを話したとしても、私はどう対応すれば良いのかわからなかったでしょう。父は戦争体験については完璧に口を閉ざしていました。ただ、昭和天皇が死んだ時、戦争責任を取らなかった
天皇裕仁を非難する私に激しく怒り、勘当だと怒鳴られたことをはっきりを思い出します。

 たまに投稿すると長くなりすぎますね。みなさん、宮内さん、ご容赦ください。

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2000年8月:朗読者、広島、長崎 山本宗補 MAIL~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 先日、新宿の書店で「朗読者」を買ってきました。
何十冊と平積みで売られていたので、探すこともなく見つけました。
今月中には読むのが楽しみです。

 10数年前、ポーランドに残るアウシュビッツ(現地ではオシビェンチムと読んでいる)を訪れたとき、今世紀最大の民族抹殺の歴史的現場と なった強制収容所跡を徹底して当時のままに近い状態で残し、後世の人々に何が行われたのかを伝える意志の力強さの圧倒されたものです。

 一人でゆっくりと写真を撮ったのですが、帰国後にフィルムを現像 した時に驚愕したのです。一本のフィルムには強制収容所に残る殺戮されたユダヤ人の顔写真と、そこに重なるように生きているポーランドの 炭坑夫の一家のポートレート写真が重なるように写りこんでいたのでした

 アウシュビッツを訪れる前日に、近くにある大きな炭坑の町で、一家のポートレートを撮影したフィルムを、完璧なうっかりミスで再び撮影 に使ってしまったためでした。単純にプロカメラマンとしては失格のミスを犯したのですが、振り返ってみると、アウシュビッツの何かが、私の能ミソの判断能力を阻害した ことは間違いないと信じています。

 広島に原爆が落とされてから55年後の8月6日の夜、NHKで広島市内の袋町小学校の壁面に残る55年前の伝言と、それらを書き残した人たちの家族や関係者をドキュメントする番組をみました。 涙があふれてきました。原爆により負傷した人々が避難した小学校の 壁が掲示板として使われ、55年前のままの壁面が残されていたのです。そうした壁面によりかかって、おそらくたくさんの負傷者が息絶えたことでしょう。そうした光景が浮かんでくるような空間が残され、 伝言を書き残した遺族が、初めて壁の前にたち絶句する映像もありました。
 
 番組の最後には、この袋町小学校が老朽化のために解体工事が進行中で、伝言の書かれた壁面が切り取られて保存されるとの説明が付け加えられたのですが、私が愕然としたのは、この原爆の記憶と人々の悲しみが刻み込まれた歴史的な建物を跡形もなく解体するという事実です。

 建物全体を残さず、伝言の書かれた壁面のみを切り取り、おそらく広島の原爆博物館に常設展示するのでしょう。 単にこぎれいで、コンパクトにまとまっただけの近代的原爆博物館(世界中の人類に広島の原爆の被害のすさまじさを伝えようとする意志が薄弱のコンクリート空間)に陳列されるだけで、55年前に書き残された伝言の重みが喪失するだけにすぎないことを懸念します。 (古いビルを利用した長崎市内の原爆博物館の、変に洗練されていない 展示方法の方が、広島よりもはるかに心に響くものです)

 時としてあいまいな人の記憶を補助してくれるのが、袋町小学校などの歴史の証言を残す建物のはず。切り取って博物館の中に閉じこめて、一体どうやって子どもたちや世界中の人々に原爆を破壊力と原爆が 人類にもたらす際限のない悲惨さを、説得力を持って伝えようとする
のだろうか。

まさ君へ 山本宗補 MAIL 2000/07/27

ノーテンキな若者があふれ、無責任な大人や政治家、経営者が あふれる世紀末の日本。
宮内さんの海亀通信には何故か、きまじめな若者が吸い寄せられ てくるようだ。

 「自由の獲得か死か」 カッコイイことばだね。まさ君の年齢はわからないが、そんなにつきつめて考えたいなら、ちょっと外の世界をみてくるのがいい。ぼくのオススメは、近いところでは四国の八十八カ所を めぐるお遍路だ。ちょうど、一週間の撮影・取材に行ってきたところで、様々な年齢の男女が全行程1400キロを歩いていた。
早くても四十日以上はかかり、半端な気持ちでは 太刀打ちできない行程だ。 四国には異質な価値観や幅広い寛容度に根ざした日本人が 生活している。とことばで言ってみても伝わらないだろうが。別の日本社会が現存する。

 ノーテンキな若者も、無責任な大人も、どれほど才能あふれる人も、親の愛をたくさん受ける人でも、この世に生まれたからには 我々には必ず死を迎える時がくる。ひとりひとりの往き方があり、いづれ間違いなくやってくる。 ぼくはその時まで急ごうとは思わない。

君は手塚治虫のマンガ世界を知っているかい。
「火の鳥」「ブラックジャック」「ブッダ」「ファウスト」
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2000年10月:20歳の頃の体験談~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 衆議院選挙の結果に対する海亀の宮内さんの怒り(日記)に全く同感です。
20歳以上の有権者の約38パーセントの大人が、投票しなかったという事実が
日本人とは全体的にはどんな国民かを反映している点が残念です

国政がとんでもない政治家たちによって、うさんくさい方向へ突き進んでいる時に、
投票しなければどのような選挙結果になっても、国民はそれを受け入れざるをえない
わけですから。

 選挙結果はいつもそうですが、我々が無責任であり、また国会議事堂で眠りこけるために
選ばれた国会議員の顔の総体が、かなり平均的日本人の体質やメンタリティーをかなり
正確に反映していることを認めざるをえないもので、いつもやりきれません。

 大人社会がいかにいい加減にできているのか、大人が無責任な連中だと見限ったのは
私の場合は高校生の頃だったと思います。もう30年も前のことです。多感な年頃の
中高校生は昔も今も、大人社会のうさんくささやいい加減さを早くから見通したような
気になるものです。くだらない大人にはなりたくないと、大人になるのを拒否
したかったものです。

 たくさんの若者が、悩み、心の苦しみなどをストレートに書き込んでいますが、
生きる限りそれも当たり前のこと。すれてしまった昔は若者の大人も、人生に
悩みながら、怒りながら生活しているし、若者はそれ相応の人生の悩みを抱えて
生きている。つまり、生きている限り悩み、迷いはつきもの。不安を抱えていて
当たり前だといいたい。

 20歳前後の自分自身を振り返ってみても、とりたてて何になりたい、こうしたい
という夢も希望も、目的もないまま生きていました。将来を考えるとそれはそれは
不安でした。考えれば考えるほど自己嫌悪に陥るわけです。さりとて勉強が嫌い。
田舎の3流高校を出て、受験勉強という言葉さえ身近ではなかったため、昼間の
大学など合格できるはずもなく、運良く3流大学の夜間学部にひっかかったのです。

 しかし、元来勉強に身が入らないために大学は半年も持たずに、止めました。
その後の精神状態は不安定で、私がしたことは自殺しようと言う決断。遺書を
書いて田舎の自宅を抜け出し、まず考えたのは貨物船に乗り込み、海に身を投げ
る方法。横浜港に行き、貨物船を探したもの実行できず、捨てられているコンテナに
入り込み、寒い夜を何とも心細く過ごしたことを覚えています。貨物船の汽笛が
不安をかき立てるのにうってつけでした。

 その後は上野駅に向かい、九州にするか北海道にするかを切符を買い求めるとき、
ほんの一瞬だけ迷ったような気がします。しかし、自殺をするのだから暖かな南ではなく
北を選ぶべきと思い直し、北海道にむかいました
。途中、仙台で降りて、薬局を2-3件
回り、睡眠薬をくださいといったものの、どの店でも断られました。

 北海道に入ると、時期は11月末だったのですでに、雪がちらつきはじめ、結局は日本の
最北端の稚内までたどりつき、そこから島へフェリーで渡ったのです。
余りの寒さとそびえる雪山の吹雪いている山頂を眺め、結局怖じ気づいてしまって
自殺を実行することはしませんでした。それだけの強い意志が無かったからでしょう。
泊まった民宿で飲んだ冷たい水のうまさが、民宿のおばさんたちの心優しさと
ともに今でも忘れられません。

 ただ、その後の数年間は心の中には常にいつかきっと自殺することでこの世と
おさらばしたいと思い続けていたのは確かです。いつから自殺という言葉が意識の
片隅から消えていったのかは、今となっては覚えていませんが
、それで良かったの
でしょう。私も大人として一人前にすれていったということもあるでしょう。
私が家出をしてから両親に連絡をしたのは約1年後でした。父親はあきらめかけて
いたようでしたが、母親は必ず生きていると信じていました。

 息子が家出をして1年間、両親の悲しみや気苦労、嘆きなどを私が理解するのには
随分と長い年月がかかったように思います。今思えば、自殺を実行できるほどの強い
意志が無かったことに感謝しています。仮に、自ら産んで大きく育てた我が子が自殺
したとしたら、母親の嘆きは尋常ではすまないでしょう。自分自身の責任ととらえ、
拷問を受けるような悲しみを引きずることになったかもしれません。我が子がどれほど
できが悪くてもです。

 いつの間にか、50歳が間近に迫るこの年齢になって、私もようやく親心のようなものを
理解できるようになったようです

 若者が生きる目的や夢が見つけられない、生きている価値がないなどと深刻に
悩み、心の苦しみに時には押しつぶされそうになっているのは、極めて自然であり、
私からすれば健全とさえ思える。

 今回もだいぶ長くなってしまいましたね。ただ、30年ほど前に似たような心の
迷いをやりすごした者の体験談として読んでもらえれば結構です。
フィリピンの先住民取材での赤ちゃん誕生撮影に関する話を書くつもりでいた
のですが、この次にしますよ。

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2018年12月 7日 (金)

2005年11月10日:火葬場で焼身自殺した福井の老夫婦に思う(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 夕食後、近くの店でビギンの中古CDを買い、「涙そうそう」を聴いたら涙があふれてきた。ラジオで聴いてもなぜだか条件反射のように目頭が熱くなってしまう素晴らしい曲だが、今日は2-3日前の老夫婦の自殺のことが思い浮かんで仕方がなかった。7日の午後、福井県大野市の火葬場で焼身自殺した80歳と82歳の老夫婦のことだ。

 テレビのニュースでショッキングな内容に息もつまりそうだった。「老老介護」の果ての無理心中に、あまりのやるせなさと悲しみに、連れ合いと線香を焚いて老夫婦の冥福を祈った。しかし、すこし心が落ち着いてみると、単なる自殺では片づけられない、夫の逝き方への強い意志が感じられ気になりはじめた。

 今朝の日刊スポーツによる続報では、子どもも身寄りもない夫婦で、夫が妻を近くの病院によく連れていったり、オムツの取り替え、掃除洗濯を全部やっていたようだ。妻は数年前から痴呆の症状が出ていて、夫も体調をくずし病院通いだったという。地元の警察は、妻の介護生活に疲れた夫が、将来を悲観して覚悟の心中だったと見ているとあった。

 「遺産は全て市に寄付します」と夫が署名した遺言状は、8日に大野市役所に届いたが、約1年前に作成されていたという。用意周到な準備と夫婦そろっての死に方を選んだ決意が、最初から揺るぎないものだったことがうかがわれる。

 それにしても、火葬場の焼却炉を内側から閉めて焼身自殺を実行するとは、そのための準備をする夫の一連の行動を想像するだけでも、胸が詰まってくる。意識がしっかりしたままの二人が、熱い炎で身体が焼かれ意識がなくなるまで耐えることができたのだろうか。まるで葬送曲を流して心を静めるかのように、車からはクラシック音楽が大音量で聞こえるようにしてあったという。 

 優れた小説家でも思いつかない方法で老夫婦は向こうの世界に渡る方法を実行してしまった。
 子どもも身寄りもない老夫婦には、頼れる友人もいない「孤立した」ような生活を送っていたのかもしれない。それにしても、最期の時の迎え方の潔さには、何か強い信念のようなものさえ感じることができる。自分の最期は自分でコントロールし、誰にも迷惑をかけないぞというような

 今朝、ヨルダンでは自爆テロで60名近くの人が殺された。一週間前のイスラエルでは、12歳のパレスチナ人の少年がイスラエル兵に頭を撃たれて殺害された。先月のパキスタンの大地震では8万人が亡くなった。どれも自分の意志で選び取った死に方ではない。

 福井の老夫婦の焼身自殺は、追いつめられた結果として選んだ死槐に方とは思えないのだ。強い意志で決断し、潔く実行しているところにすさまじいものを感じてしまう。

 二人は60年前の戦争を生き残ってきた、最も苦労してきた世代だ。青春時代を戦地にかりだされたかもしれない夫は、どんな体験をくぐり抜けてきたのだろうか・・・

 大野市のホームページを見たら、二人が彼岸に渡った日は、大野市と和泉村が合併して新大野市が誕生した日だった。

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2005年4月13日:親近感を感じるヨハネ・パウロ2世とネグロス島との深い繋がり(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 84歳で死去したヨハネ・パウロ二世には会ったことはないが、クリスチャンではない私も親近感を感じる。ローマ法王が生まれ育ったポーランドを取材し、アウシュビッツも撮影したことがあるのもひとつの理由だが、私がフォトジャーナリストの仕事を始める大きなきっかけとなったフィリピンと法王とが切り離せないからでもある。

 1981年に被爆地広島を訪問した法王は、その旅の行程で東アジアで最もカトリック教徒の多いフィリピンも訪問している。独裁者のマルコス大統領が権力を握っていた時代のことで、とりわけ注目に値するのが法王のネグロス島訪問だ。島国フィリピンで、よりによって法王は何故ネグロス島を訪問したのか。日本の広島を選んだのと同様に、そこには法王の強い意志があったのだろう。

 フィリピン中部のネグロス島は、別名「砂糖の島」といわれるほど、サトウキビ生産に依存し、少数の大地主が労働者を安い賃金で搾取するという封建主義的な経済構造が強固で、「フィリピンの縮図」ともいわれた島である。私はこの砂糖の島を85年から取材を始め、サトウキビ産業で働く労働者は農奴と感じるほどのショックを受けた。91年にようやく「ネグロス---嘆きの島(フィリピンの縮図)」(第三書館)のタイトルでルポルタージュを出版できたが、取材の中でローマ法王のネグロス島の州都バコロドでのスピーチを本で読み、感動した。会場には10万人が集まったという。その一部を以下に引用しよう。

土地はすべての者への神の賜物です。それがごく少数の利益のためにのみ使われ、残る大多数の人々が大地の生み出す豊かな富から締め出されているのはまことに許しがたいことです。限られた者が富と権力を手中にし、他方、工場やプランテーションで長時間激しい労働に従事している多くの者が家族さえ養いかねているのは、不正義が世を支配しているからです。教会は、力弱く、声をあげてもなお聞かれることのない貧しい人たちの側に立ち、慈善ではなく、正義を求めることをためらってはなりません

 拙著「ネグロス---嘆きの島」で私が引用したヨハネ・パウロ二世の、ネグロス島でのスピーチの一部だ。話し手が法王と知らなければ、搾取される側に身を置こうとする政治家のアジテーションともとれる内容だ。広大なサトウキビのプランテーション経営で富と権力を握り、マルコス政権を支えた地主勢力を鋭く批判している。ローマ法王の影響かどうかはわからないが、マルコス大統領はこの年、戒厳令を解除した。

 「これからは教会とプランター(農園主)は敵同志だ」と、法王のスピーチにネグロスの地方政治を牛耳る大地主が怒ったのも頷ける。ローマ法王に勇気づけられた労働者は、カトリック教会の神父やシスターたちの後押しも受け、労働組合の組織化が急激に進むきっかけともなったはずだ。

 4年後の85年9月、ネグロス島北部では、農園主が雇った民兵と警察らの発砲で、ゼネスト中の無防備の砂糖労働者ら20名が殺され負傷者50名をこえる虐殺事件が発生した。後に「エスカランテ虐殺事件」として知られ、マルコス政権が崩壊する端緒となった。そのニュースを聞き、マニラからネグロス島に入ったのが私にとっては初めてのネグロス取材だった。

 虐殺事件から6日後、不穏な空気が残る現場で行われた追悼ミサには、テレビ局も通信社のカメラマンもいなかった。地主勢力の脅しにも関わらず、カトリックの司教と神父合わせて74名に多数のシスターも出席し厳かに行われたが、著名なアメリカ人のフォトジャーナリストと私の他にカメラマンはいなかった。

 「解放の神学」の存在を知ったのもネグロス島での取材からだ。神父やシスターたちが民衆の側に入って活動する「解放の神学」が生まれた中南米の国々で、アメリカは共産主義に対抗する名目で専制的な政権をあからさまに支えた。フィリピンでも同様でマルコス独裁体制を支えていた。ネグロスでの法王のスピーチを読み返すと、「解放の神学」を奨励しているとしか思えない

 しかし、先日の毎日新聞の中米特派員が書いていた記事では、ヨハネ・パウロ二世は「解放の神学」を否定したため、中南米では80年代末までに解放の神学は影響力を失ったとあった。法王のスピーチと矛盾しているように思えてならないのだが、他紙にはない視点からの記事だったので印象深い。

 ローマ法王の死亡関連記事と写真はどの新聞でも似たり寄ったりで物足りなかったが、東京新聞に掲載された一枚の写真が記憶に残った。横たわる法王に向かって跪くアメリカ政府を代表する面々を撮ったニュース写真だ。左からブッシュ大統領と夫人、パパブッシュ、クリントン前大統領、ライス国務長官の5人が法王の遺体を見つめている。相反する価値観を実践してきた両者が居並ぶ写真だ

 武力を信奉し、イラク攻撃したブッシュ親子とライス国務長官、セックススキャンダルにまみれたクリントン。一方のヨハネ・パウロ二世は、ナチスドイツとソ連によって母国が分割統治され、肥沃な国土が蹂躙されたポーランドの歴史的な悲哀を体現した人だ。戦争や武力を否定し、社会的な不正義に敏感だったのは宗教者となる以前からのポーランドの歴史を背負っているからだと思う

 死に際まで命の尊厳を、自分自身の逝き方で最期まで見せつけた。植物人間を政府が関与してまで延命させようとしたブッシュ大統領とは対極にある。撮影した通信社のカメラマンがどんな思いを込めて撮ったのかはわからない。だが、皮肉が満載したこの写真を選んで掲載した東京新聞の意志に私は深く共感した
 
{注:ヨハネ・パウロ二世のネグロス島でのスピーチの原本は、三好亜矢子著の名著「フィリピン・レポート」(女子パウロ会)からの抜粋です。全文を読むには古本で探すしかないでしょう}

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2004年3月2日:インドの日本人僧、佐々井秀嶺上人の取材に出かけます(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 先週、山際素男先生にお会いした。初対面だったがゆっくりとしたペースで、数時間にわたって居酒屋でお話を伺った。とっても楽しい時間だった。私が最終のバスに乗るために失礼する頃には、20本くらいの吸い殻で山際先生の灰皿はあふれていた。あまりに多くの事を短時間に際限のある脳味噌に詰めようとしたが、帰る頃には頭が破裂しそうなほど刺激が強く、かつおもしろいお話だった。

 山際先生といえば名著の「不可触民」がある。インドのヒンドゥー教社会のカースト制度で、最底辺に位置し様々な職業についているが上位カーストからは人間扱いされない人たちのことだ。ダライラマ自伝などの翻訳も多数あるインド研究者であり作家だ。近著では「不可触民と現代インド」(光文社新書)がある。

 3年前には444ページという分厚い「破天 一億の魂を掴んだ男」(南風社)本を出され、インドに渡って30数年、インド仏教徒のリーダーとして仏教復興のために闘い続ける破天荒な日本人僧、佐々井秀嶺上人の生涯を書かれている数百万人、数千万人のヒンドゥー教徒が仏教に改宗しているのは、この日本人僧の力によるというのだ。想像を絶する活躍ぶりで、これが革命的でないとしたらどう表現すればいいのだろう。とにかく、インド人さえできないようなとんでもないことを実現しているのが佐々井上人という印象だ

 山際先生は、「まだ生きているのに自伝を書いてしまった。彼の結末をそろそろ考えておかなければ」などと冗談ぽい話をしていた。 

山際先生の著作や話を聞き、これは佐々井秀嶺上人にお会いする他はない、取材する他はないという気持ちになり、私は3日からインドに出かけることにした。約1ヶ月の滞在予定だ。不可触民からインド憲法の草案を書き、独立インドの初代法務大臣を務め、あの非暴力と平和主義で知られているガンジーとまっこうから対立したというアンベードカル博士がインド社会に与えた影響についても探ってきたいという魂胆もある。山際先生はダナン・ジャイ・キール著の「不可触民の父 アンベードカルの生涯」(三一書房)を翻訳されていて、アンベードカル博士の業績を日本人に様々な方法で紹介しようとしてきた唯一のインド研究者のようだ

 正直なところ、私はアンベードカル博士の名前は山際先生の本を読んで初めて知った。それまではガンジーの非暴力主義や平和主義のことをもっと知らなければいけないと少々焦っていたところだ。この佐々井秀嶺師の実践してきたことはアンベードカル博士の遺志を引き継いでいることを意味しているという。佐々井師やアンベードカル博士のことを少しでも知った以上は、取材してくるしかない。現実はどうなのかをこの目でできるだけ見てくるしかない

 若輩者に親切にいろいろ教えてくれた山際先生のご期待にそえるかどうかはわからないが。

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