経済・政治・国際

2024年3月21日 (木)

能登半島大震災が「原発震災」を免れることができたのは?

能登半島大震災が「原発震災」を免れることができたのは、(関西電力)珠洲原発が地元の根強い反対運動で、2003年に凍結に追い込まれ、(北陸電力)志賀原発が停止中だったからに他ならない。二度目の被災地を取材した感想だ。

動画 関西電力珠洲原発建設予定地だった珠洲市高屋町の高屋漁港 3月8日撮影

輪島市西部が、最大約4メートル隆起し、西へ最大約1メートル移動し、人知を超えた地震の破壊力の甚大さに改めて圧倒された。
最大約4メートル隆起したと専門家が調査で指摘した輪島市門前町鹿磯漁港と志賀原発の直線距離は25キロしかない。

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動画 地盤が2mは隆起したため、漁港の機能を喪失した輪島市門前町黒島漁港 3月5日撮影

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3月5日から8日まで、1月には回る時間がなかった内灘町と珠洲市を中心に取材した。7日には志賀原発のマスコミ公開があり、構内の震災による損傷ヵ所を見てきた。また、珠洲原発反対運動に尽力した関係者の案内で、珠洲原発建設予定地だった珠洲市高屋町の被害状況も見ることができた。高屋漁港は少なくとも2m隆起していることが顕著だった。関西電力が珠洲原発の計画を凍結したのは2003年12月。それから約4年後の3月25日に最大深度6強の「能登半島地震」が起きている。その4ヵ月後には、最大深度6強の中越沖地震が発生。大きな地震が新たな地震活動を呼びこむことは間違いない。

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液状化の激しい内灘町 3月5日撮影          

動画  珠洲市正院の倒壊状況 

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避難所となっている珠洲市正院小学校で、ジンギスカンの炊き出しを実施する浄土真宗のボランティアチーム。(3月6日)寺は全壊状態の地元の真宗僧侶がコーディネートし、遠くは北海道、兵庫県、福井県、七尾市などから参加したお坊さんたちだが、被災地支援に慣れているようで、手際よく調理し、炊き立てご飯と味噌汁、おかず一品付いた夕食が提供された。珠洲市の隣、能登町出身の真宗僧侶、長田浩昭さんが、早くに奥能登ボランティアセンターを、珠洲市まで30分以内で移動できる能登町の集会所を借り上げ、寝泊まりできる拠点を立ち上げたことにより、ボランティア活動が軌道に乗っている。

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動画 珠洲市正院から北部の外浦にある高屋町までの山道の巨岩崩落現場 3月8日撮影 

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関西電力珠洲原発の建設が2003年に凍結された予定地。地盤が2mは隆起したと思われる珠洲市高屋町の高屋漁港。3月8日撮影

原発建設反対運動の拠点となった真宗の圓龍寺は全壊して見るも無残だった。反対運動の中心的役割を果たした住職の塚本真如(まこと)さんは、1月から二次避難していて不在。案内してくれたのは、能登町出身で20代の時から珠洲原発反対運動にのめりこみ、塚本住職と共に闘いづづけてきた長田浩昭(釋浩昭)さん(63)。

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写真は圓龍寺本堂と、原発反対運動に奔走した長田さん。寺の壊れ方に言葉もなかった。
「10人から始まった若い集団、カバンも地盤も選挙カーもなかった」と振り返った長田さん。
原発反対の珠洲市長選や県議選では、選挙カーから候補者に代わってスピーチしたという。

石川県は浄土真宗王国。能登半島は集落も寺も門徒(檀家)も分断され、買収、脅し、無言電話など、あらゆる分断工作をはねのけて、塚本住職がぶれなかったのは、「真宗の坊さんは、強い者の味方をしたらアカン」との父から教えが根底にあったからだと塚本さんが長田さんに言っていたこどだという。

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この日は原発反対運動を共に闘いぬいた井上商店を営む井上伸造さん(75)が一時帰宅していた。高屋地区での再会は震災後初めてだという。
井上さんは市長選や県議選の原発反対候補の運転手をずっと務め、最後までブレなかった反対派住民の一人だ。井上商店は圓龍寺と漁港の中間にある。長田さんの立つ写真の後ろ側の土手には反対派住民の監視小屋があり、関西電力の動きを把握していたという。背景の高台が原発建設予定地だった。その崖の一部は地震により崩落している。長田さんの奥さんは、炊き出しボランティア要員として、拠点の整理整頓などに休みなく身体を動かしていた。

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入居が始まって間もない仮設住宅で一人暮らしの被災者に、炊き出しを届ける真宗大谷派の女性陣。
仮設での生活が始まったばかりの女性被災者は、震災でご主人を失っていた。写真とは別の80歳を前にする男性被災者は、仮設が当たったことを、宝くじが当たったより嬉しかったと喜んでいた。珠洲市の仮設は3月8日の段階で74戸が完成。

動画  海岸から見える北陸電力志賀原発 1月11日撮影

7日に志賀原発の現況をマスコミに公開したのでフリーランスとして私も参加した。約50名の報道陣が二班に分けられ、現場取材をした。

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3点の写真は震災で損傷し使用不能となった2号機変圧器。3枚目は損傷した部分が見えるカット。2号機変圧器の故障が原因で、5系統ある外部電源のうち2系統が使えなくなったまま、2号機変圧器復旧の目途はたっていない。

4点目の写真は、1月16日の震度5弱の地震発生後に試運転したら自動停止した1号機HPCSディーゼル発電機。受電回路変更により修理済み。

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以下はNHKの報道。
志賀原発 能登半島地震の被害箇所 初公開 一部復旧めど立たず (3月7日)
「外部から電気を受ける際に使う2号機の変圧器は配管などが壊れておよそ1万9800リットルの油が漏れ出し、一部が海に流出~3系統5回線ある送電線のうち1系統2回線が今も使えなくなっています」

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終了後のぶら下がり取材の形で、原子力部部長(写真の左側)と土木建築部部長が記者会見に応じた。震災から二ヵ月後、報道陣に初めて公開したのは、今回の地震で志賀原発が壊れず、放射性物質を外に出していないことを担保できていると原子力部部長は自信を持って話すためだったといえる。問題は、二基の原発が「停止中」であるという前提条件に一言も触れなかったことだ。もしも、「稼働中」だったらどうなのか?50人余のテレビ新聞メディアの誰も聞かなかったので、ぶら下がり終了後に原子力部部長に直接尋ねてみた。

「稼働中だったらどうなのか?」と直接尋ねると、「たらればの質問ですが、稼働中でも同じだといえます」と言い切った。
福島事故の教訓は?人知を超える地震の怖さを十分に認識している?原発の幹部は安全神話の殻に閉じこもったままなのか?と愕然とした。

付け加えると、元旦地震で志賀町は震度7、発電所地下2階は震度5強、399.3 ガルを観測したことは公表済みだ。
今回の震災で1号機の観測値は公表されたが、2号機の観測値は今も公表はない。2007年の能登半島地震では、1号機239ガル、2号機264ガルだったことは明らかになっている。2号機は少なくとも400ガル超と思われる公開されないままだ。

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追記:大震災から二ヵ月後の応急仮設住宅の現状は次の通り。
石川県のホームページからの抜粋。3月12日現在。
・建設計画は4345戸。完成戸数は447戸。
・輪島市76戸完成/1940戸
・珠洲市126戸完成/899戸
・穴水町33戸完成/422戸
・能登町66戸完成/380戸
・七尾市89戸完成/391戸
・志賀町32戸完成/194戸
・内灘町34戸完成/65戸
・羽咋市0戸/54戸
つまり、応急仮設は建設予定の1割ちょっとしかできていない。
入居予定の被災者の1割ちょっとしか入居できていないということだ。

死者は安否不明者含め248人。
住宅被害は76800棟。
輪島市だけでも全壊3461棟、半壊3292棟。
珠洲市だけでも全壊3173棟、半壊2486棟。
全壊半壊がわかっているだけでも、少なくとも22000棟。
自宅で生活したくてもできない被災者は膨大だ。

震災ガレキの片付けは、二ヵ月経っても、動画でもわかるように全く軌道に乗っていない。
断水は、石川県だけでも約18380戸。珠洲市はほぼ全域が断水のままだ。

震災からわずか二ヵ月半。被災者の現実に「見ざる聞かざる言わざる」の態度なのだろうか、北陸新幹線が金沢駅から延伸したことで、
テレビはお祝いムード。NHKニュースによると、北陸新幹線の石川県の金沢駅と福井県の敦賀駅を結ぶ約125キロの区間が16日、開業したとお祝いムード一色だ。「北陸応援割」が16日から始まり、首都圏と新たにつながった福井県や石川県の各地は、大勢の観光客でにぎわっていると報道している。大丈夫かこの国は。日本人はここまで自分勝手の民に成り下がったのか!

 

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2023年9月 7日 (木)

東電福島第一原発事故による核燃料デブリ汚染水海洋放出反対の声

 岸田首相の指示によるイチエフ原発事故汚染水海洋放出の初日となった8月24日の浪江町請戸港。
ホッキ貝、シラス、ヒラメなどの水揚げで活気が漂っていた。
漁から戻った漁師さんたちは、取材に応じるなと上からクギをさされていた。

 

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とはいえ、若い漁師さん。
「東京で流せばいい」
ベテラン漁師さん。「反対しない者はいない」
「反対しても、政府は聞く耳を持たない。沖縄の基地問題と一緒」
全国での汚染水海洋放出反対については、「もっとやってもらいたい」と。
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浪江町請戸海岸での、汚染水の海洋放出に反対し続けてきた希望の牧場・よしざわの吉沢正巳さんの怒り。
「汚染水の海洋放出は、福島県の漁業を台無しにしてしまいます。汚染水放出は50年経っても延々に終わりません」

 

 吉沢さんを取材に来たのは、韓国、中国、香港のテレビ局だけだそうだ。日本国内のテレビも新聞社も、どこも汚染水海洋放出問題で取材に来なかったという。国内メディアの問題意識はどこにあるのか?自分自身の頭で考えないのか?!

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双葉町にある原子力災害伝承館と双葉産業交流センターの大きな建物には、復興予算が合わせて80億円以上注ぎ込まれている。
にもかかわらず、敷地に隣接する空き地は、大津波で流された墓石が雑草の海に飲み込まれたまま12年が経つ。

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 吉沢さんはカウゴジラを動かし汚染水放出反対の街宣ができない。カウゴジラを牽引する街宣車(軽自動車)のオイルタンクに穴が開き、エンジンの修理も必要。カウゴジラの車検も切れたためだ。取材に行って初めて知った。吉沢さんは自らツイッターで車の修理のカンパを呼び掛けていない。修理にかかる費用、請戸川河口で釣って魚を放射能検査に出す費用。大きな財布をお持ちの方、カウゴジラが活躍できない吉沢さんの活動にカンパを!!!

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2023年6月 6日 (火)

佐々井秀嶺師についての執筆記事一覧(2004年~2018年)

◇山本宗補HP:インド:佐々井秀嶺・アンベードカル・インド仏教◇2014年10月以降、少しづつ更新中

中国新聞に寄稿(2018年12月18日)「スマホを見ずに 人を見よ」

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「浪曲は人生の教師だ! 講談は人生の教師だ!」(2017年7月 facebook)

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佐々井秀嶺宮島講演「南天竜宮城と平家一門」(2017年6月 facebook)

・佐々井秀嶺師三鷹講演 お蔭様で大盛況でした(2016年7月 facebook)

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インド仏教の聖地ナグプール滞在記(2016年3月~4月、写真150点)facebook

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佐々井秀嶺師講演 in 高野山 (2015年6月14日)facebook

佐々井秀嶺大型写真集「日本行脚~44年ぶりの母国64日間の全記録~」がネット書店から購入できるようになりました。2010年発行、B4版170ページ、全カラーのハードカバーです。定価は税込10,800円(本体価格 10,000円)。Web_20230614222201

死線を彷徨い、生還した佐々井秀嶺師(インド・ムンバイにて)(2014年8月25日)

ナグプールの病院からムンバイの大病院へドクター飛行機で転院した佐々井秀嶺師のお見舞いに行き、1週間食事の世話をして帰国しました。奇跡的な回復振りを見せる佐々井師の動画をYoutubeにアップしました。(8月20日記す)

・入院中の佐々井師の容態がここ2~3日、日に日に回復傾向にあるとのナグプールに入った三旅さん情報です。昨日まで話しかけた言葉は理解していても、言葉にならなかった佐々井師でしたが、今日、4日は、「インドラ寺院に帰るぞ!」とヒンディー語で話したとの、インドラ寺院事務局長のアミット氏の話です。それを聞いて、ようやくほっとした気持ちです。(8月4日記す)

共同通信により佐々井秀嶺師の最新記事が全国地方紙に配信され、掲載されました。
 2014年5月に取材したものです。「戦う仏教 天竺で実戦」「在印47年の佐々井秀嶺師」写真撮影を担当しました。記事は石山永一郎編集委員。高知新聞掲載(2014年7月9日) 東京新聞掲載(7月10日)

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中国新聞に寄稿(2013年8月5日):「脱原発こそ本当の回向」

佐々井秀嶺師による原発周辺での人・動物供養(2013年7月2日のブログ)

フォトルポ「鎮魂と抗い~3・11後の人びと~」(彩流社、2012年9月発行)に佐々井師の被災地での読経行脚を8ページで収録。

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・fotgazet第3号(8月10日発行)に「佐々井秀嶺師と共に躍進するインド仏教徒」掲載

佐々井秀嶺師の東日本大震災被災地での読経(2011年6月13日~15日)写真
 (6月、極秘に6月末に極秘にインドへ帰国されました)

・「大法輪」3月号(2月10日発売)に龍樹菩薩大寺落慶の愉快な顛末を書きました。インドの仏教史に刻まれた歴史的なイベントだと思っています。大型書店で。

2011年1月末発売の月刊誌「一個人」3月号に佐々井師の写真が6ページで特集。
 佐々井ファン必読。ダライ・ラマ14世と美輪明宏も同時に特集されています。

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・「GRAPHICATION」誌(No.171)に佐々井師について本文とカラー写真で8ページ掲載。写真9点。A4版。「師弟関係」特集。書店販売はない広報誌です。

週刊朝日(11月26日発売号)のカラーグラビアに、龍樹菩薩大寺落慶法要の写真を掲載

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龍樹菩薩大寺の落慶法要などの取材記を雑記帳(2010年10月28日)に書きました。写真も多数掲載しています。ご覧ください。

・2010年10月10日から24日まで、インド取材。龍樹菩薩大寺の落慶法要などを無事取材し、10月27日に帰国しました。

・龍樹菩薩大寺の落慶法要が10月中旬に開催されます。大乗仏教の祖師、龍樹菩薩を顕彰する大寺院。(インド、ナグプール郊外)

佐々井秀嶺著「必生 闘う仏教」が集英社新書から10月15日刊行。帯用、トビラ用ほか写真数点提供しています。読みやすい本です。
 佐々井秀嶺師の活動、インド仏教を復興したアンベードカル博士を知るオススメ導入本。
 読了後に山際素男著「破天」、アンベードカル著「ブッダとそのダンマ」、「アンベードカルの生涯」を読むのを推奨

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・サンガジャパン Vol.2(7月2日発売)の巻頭に佐々井師の写真を掲載

・4月17日(土):信濃毎日新聞に佐々井師写真集『日本行脚』出版のインタビュー記事が掲載。

・4月14日(水):BS11デジタル午後22時42分~50分、インサイドASIAに出演し、『日本行脚』を紹介します。番組キャスターはジャーナリストの野中章弘氏。

・4月11日(日):多摩市で佐々井秀嶺師についてスライドトーク予定。小人数の集まり。
 場所:多摩市永山6-10-2 グリーンハイム尾根1F ナチュランド・シルフレイにて
 時間:午後1時~4時  問い合わせ:042-376-5065 野呂喜代子さん

・佐々井秀嶺師写真集出版を記念し、スライドトークします。写真集販売の開始です。
 会期:2010年3月10日(水):午後2j時15分~3時15分。
 スライドトークタイトル:「佐々井秀嶺師に密着して見えてきたものとは」
 会場・参加申し込み先:大日如来南天鉄塔記念協会事務局:祐照寺2階本堂
     大阪府大東市諸福7-2-35 祐照寺 入場無料、定員70名。申し込み要。
 主催:大日如来南天鉄塔記念協会
 このトークは写真集発行者の「第2回協会大会」のプログラムとして開催されます。事前申し込みが必要です。
 

・六大新報(2010年2月25日号。真言宗系の週刊新聞)に、『日本行脚』発行者の大日如来南天鉄塔記念協会幹部の瀬尾光昌師による、佐々井師写真集に関する告知記事が2ページで掲載されました。

月刊「宝島」4月号(2月下旬発売)に佐々井秀嶺師の写真が掲載されます。

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・中外日報(2010年1月30日)に掲載された佐々井師写真集刊行の告知記事。中外日報は仏教紙です。クリックしてご覧ください。

佐々井秀嶺師写真集『日本行脚』(撮影・編集:山本宗補),2010年3月10日刊行。1000部限定。B4版変形、168ページ全カラー、
 定価6000円(送料別)。 注:希少部数後の定価の変更ありです。約620点の写真、44年ぶりの母国64日間の全記録。200ヵ所に及ぶ全行脚行程リスト、インドの写真20点、佐々井師直筆あいさつ文、本音コメント多数収録、佐々井師略年表付き。資料価値の高い内容。
 写真集の一部をPDFファイルで観たい方はクリックしてください。(少し重いデータです)

ブッダガヤ大菩提寺解放闘争:デリー大行進(2009年12月10日)の報告:12月15日の雑記帳をクリックしてご覧ください。

・12月20日(日):「菜の花の会」で佐々井秀嶺師の活動をスライドトークします。
 会場:ひばりが丘公民館(tel:0424-24-3011)。最寄り駅は西武池袋線ひばりが丘。
 駅から歩いて7分。 お出かけください。連絡先:ヤドカリハウス(山田征さん)

・12月5日から佐々井秀嶺師の取材でインドに出かけてきます。帰国は13日の予定。デリーでの大菩提寺管理権奪還大行進・集会を取材し
 予定通り帰国しました。                        
                                        
・月刊「部落解放」12月号に、佐々井秀嶺師の全国行脚について、グラビア8ページと本文9ページで掲載しています。大型書店でご覧ください。

・11月8日(日)午後4時~ 山本宗補スライドトーク開催:「佐々井秀嶺師、インド仏教徒の最高指導者、44年ぶりの帰国」
 佐々井師の二ヶ月間全国行脚とインドでの「生きた仏教」実践者の活動を一気に紹介

 JVJA写真展2009:テーマは「世界187の顔」  例年恒例の写真展期間中のイベント。JVJA会員による約130点の写真を展示し、トークショーを日替わりで開催します。会期11月3日(火)~11月15日(日)  会場:キッド・アイラック・アート・ホール展示の入場無料、トークショーは有料です。定員40名、予約先着順です。詳細はJVJAのホームページへ。  チラシがダウンロードできます 表・裏 終了しました

・JVJAオープントーク:2009年9月16日(水)開催 午後6時半開場、7時開始~9時。 会場:JVJA事務所。
 「写真で観る佐々井秀嶺師」と題して、私がスライドトークを開催します。
 佐々井師のインドでの活動、インド仏教を復興したアンベードカル菩薩の足跡、佐々井師の44年ぶりの一時帰国と全国行脚の一部をスライドで紹介します。限定15名、参加費1000円。参加申し込みは先着順で締め切らせていただきます。
   

・「アエラ」9月7日号(8月31日発売)に佐々井秀嶺師のルポ記事を書きました。「闘う仏教」支える武道。カラー写真もあります。  

「自然と人間」誌9月号(9月1日発売)に、佐々井秀嶺師のフォトルポをカラー写真4ページで掲載。
「生きた仏教の実践者、44年ぶり母国に帰る」。大型書店でご覧ください。

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・月刊「大法輪」(2009年9月号)(8月10日発売)に、佐々井師全国行脚同行記を書きました。書店でご覧ください。

・中国新聞掲載(2009年6月1日):「佐々井秀嶺師 44年ぶり帰国の意味を考える」として原稿を掲載しました。
「ジャイビーム(アンベードカルに勝利を)!」が日本の伝統仏教の寺院で初めて叫ばれたことの歴史的意義について書きました。
 

・佐々井秀嶺師最終講演会開催:「よみがえる仏教 インド仏教の復興運動の今」6月7日(日)、午後3時~5時。会場:護国寺本堂。一般公開、無料(自由喜捨)。インドでの佐々井師の活動やアンベードカル菩薩に関し、私がスライドトークを10分間します。お出かけください。

・佐々井秀嶺師一時帰国:全国行脚道中密着取材記:以下をクリックしてをご覧ください。
 4月21日、4月25日、4月30日、5月9日、5月15日、5月20日、5月27日、6月4日、6月10日、6月15日、6月20日、6月23日、6月25日、6月30日、7月6日、7月14日、7月22日、7月30日、8月3日、8月12日(結願) 

・山際素男氏の葬儀について雑記帳に書きました。(2009年3月22日、4月14日)
 山際素男先生との最初の出会いについての雑記帳は2004年3月2日をご覧ください。

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・「dankai パンチ」誌2009年4月号に佐々井師の写真掲載(p102~p105)。

・信濃毎日新聞(2008年11月23日掲載)に「破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人」(山際素男著、光文社新書)の書評を書きました。

月刊PLAYBOY日本版12月号(2008年10月25日発売)に佐々井秀嶺師のインタビュー記事掲載(p160~p165)。
カラー写真も多く、ぜひご一読ください。

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・アエラ:世界の遺産(2007年6月25日号掲載):「カンヘリー石窟寺院群」(PDF)

・「インドで仏教徒急増」(共同通信社配信、山陽新聞掲載、2007年4月27日)

「カーランジー村仏教徒一家殺害事件」が意味するものとは?!(2006年12月)
 容疑者11名に対する判決出る:2008年9月24日、マハーラシュトラ州バンダーラ簡易(地方)裁判所:死刑6名、終身刑2名、無罪3名。
 階級差別による殺害は否定。高裁に控訴される可能性大。佐々井秀嶺師、2周忌の2008年9月29日に村で法要。

・写真で見る佐々井秀嶺師の大立ち回りダイジェスト(2006年9月-10月) 

アエラ:世界の遺産(2005年8月29日号掲載):「インド マンセル遺跡 乾燥した大地に姿を現した古代宗教の拠点」

月刊「ムー」(2005年7月号)掲載:「日本人僧が発掘した幻のインド仏教遺跡」
マンセル遺跡とシルプール遺跡のカラー写真を多数掲載:p1、p2~3、p4~5

アエラ:「現代の肖像」(2005年2月21日号)掲載:「佐々井秀嶺 一億人導くバンテージー」

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・琉球新報掲載(2005年3月1日):「改宗が生活の向上にインドの仏教徒 アンベードカル菩薩を敬愛」

共同通信社配信(2004年11月):インド仏教徒の信頼を集める日本人僧-佐々井秀嶺師

Dsc_0003sumiweb信濃毎日新聞掲載2004年12月

月刊「ムー」(2004年11月号)掲載:「こんな人がいた/第8回 佐々井秀嶺」

・月刊「部落解放」(2004年11月号)掲載:「ダリットと共に37年、日本人僧・佐々井秀嶺師」

・大法輪掲載(2004年8月号):「インド仏教復興への道:命を賭ける日本人僧・佐々井秀嶺師」

・週刊エコノミスト掲載(2004年8月31日号):「問答有用 インド仏教僧 佐々井秀嶺」

週刊朝日掲載(2004年6月25日号):「日本人が発掘した 古代仏教遺跡」マンセル遺跡のサイト1の頂上に立つ佐々井師(マハーラシュトラ州)。密教的要素の高い男女のレリーフ像。シルプール遺跡の仏教寺院ゲート壁面。(チャティシュガル州)
マンセル遺跡サイト2の複合的建造物。僧院、仏塔、宮殿跡などが混在するといわれる。

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信濃毎日新聞掲載(2004年4月20日):「いま世界で:インド 仏教に改宗 カースト制と闘う」
「大菩提寺を解放せよ」と叫びデモ行進する佐々井秀嶺師と信者たち。マハーラシュトラ州アコーラ郡(2004年4月)

 

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2020年4月 1日 (水)

「命の行進2020 2020年3月10日」 南相馬市小高区から浪江町請戸海岸まで雨中15キロ 犠牲者追悼行進

(写真はクリックすると拡大します)
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ひたすら「南無妙法蓮華経」と唱え、団扇太鼓を叩きながら歩く15キロだった。冷たい雨降りの中、5時間の行程だった。

 

南相馬市小高区の同慶寺から、慰霊の行進の目的地は、180人をこえる犠牲者を出した浪江町請戸海岸まで。参加者は約20名。同慶寺住職の田中徳雲さんの写真を中心に紹介します。
最終目的地の荒れた海から押し寄せる波に向かい、「南無妙法蓮華経」と手書きされたお札を撒き、犠牲者を弔う田中徳雲同慶寺住職と、「命の行進 2020」の長い行程を歩いてきた日本山妙法寺の佐藤達馬上人(奥の人)。
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「南無妙法蓮華経」と手書きされたお札は、静岡県在住の日本山妙法寺の信者さんが5000枚手書きされたもの。
東日本大震災の大津波で海に流され、彷徨う魂が海を漂うお札をつかんだ瞬間に、時がどんなに経っても犠牲者のことを忘れないでいる人たちがいたことで魂が救われたという実話を元に、海に流す形が定着したという。

 

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翌日の3月11日は、同慶寺で東日本大震災追悼イベントとそれに先立ってのマンダラカフェのまとめが行われた。 あの日から丸9年が経過した節目の日の行事が終わってから、田中徳雲師にこの一年間を振り返っての気持ちを聞いた。 「この一年は良いことも悪いことも多かった。元気に活動していた人が亡くなったり、会を解散したり。みんな疲れていた。私も疲れていた。9年間を振り返って一番強く感じるのは、人とのつながり。忘れさせることはさせられない。仲間と呼べる人たちが、足を運んでくれる。声をかけてくれる。今日じゃなくても、顔を見に来てくれる。そういう人が大勢いる。あの震災がなければ、得られることはなかった、人とのつながり。失ったものはたくさんあるけれども、いただいたものも同じようにたくさんある」

今年の「命の行進、慰霊の行進」も、得られるものがたくさんあった。

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2020年3月30日 (月)

東京五輪の是非を8人と1頭から聞きました(取材は3月7日から16日まで)

(写真はクリックすると拡大します)


東京五輪についての意見を、8人とイノシシ一頭から聞きました。 (3月22日にFacebookに投稿した内容を転載します。なお、安倍政権が五輪開催をあきらめ、来年に延期することを正式に決めたのは3月24日)
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テレビ新聞は「復興五輪」のまやかしをまだ続け、安倍自公政権の悪政の共犯者となり続けるのだろうか!?
まるで「井の中の蛙大海を知らず」かのように、コロナ禍がここまで世界中も問題となっても、まだ五輪を開催しよういう安倍自公政権は、日本人だけが参加する国体を開催すれば良い。新型コロナウイルスが登場する前から、テレビ新聞などの大手メディアは視聴者・読者に伝える義務がある。「五輪には反対だ!」という、被災者の反対意見を。
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_yyy5260sumiweb 「安倍オリンピックが炎上して崩れていくんだ。安倍オリンピックを倒すタイミングが来た。3・11は終わっていない。原発事故はまた起きる。首都圏直下の地震も起きるだろう。そしてコロナがきっかけとなる。このまま行ったら国民もろとも玉砕の道をたどることになる。これまでの大きな筋書きは間違っていなかった。赤いボールは五輪を中止させるための時限爆弾だ(注:手にしているのは請戸海岸で拾った漁業用のブイ)。浪江町は4000棟が解体され更地になる。サヨウナラ浪江町だ。広大な帰還困難区域は荒廃する」(希望の牧場・ふくしまの吉沢正巳代表。浪江町


_yyy3733sumiweb 「アベさんは被災者福島県を利用して、五輪開催の意義があると訴えて招致した。中央の政治家が五輪を政治利用して「復興五輪」と表現するのはわかるが、地元の政治家や県全体までが福島の「復興五輪」だと盛り上げる感覚が解せないし、許せない。
原発事件の前と後。あの頃の故郷と今の故郷が同じだと思っている人は一人もいないだろう」(阿部光裕住職。福島市

_yyy3377sumiweb 「国は五輪開催することで福島の原発事故は解決しましたと世界に発信しているが、それは違う。多くの問題があるにも関わらず、五輪で日本は大丈夫と何事もなかったかのような偏ったイメージが広まる。住民はそうじゃないと思っている。いずれ自分のところに原発事故の被害が及ぶ。手放しで喜べる五輪ではない。五輪のために使う金は原発廃炉などに使うべきだったと思っている」(米野菜専業農家の中村喜代さん。郡山市

_yyy3655web 「首相があれほどウソこき恥こき言って誘致してる。言語道断だ。福島県人を愚弄している。人の命と五輪とどっちが大事だ。五輪はご破算だとIOCに直訴したい」(米野菜専業農家の故中村和夫さん。郡山市。2017年4月に急病により68歳で旅立った。五輪反対の意見は2014年にインタビューした時のもの

_yyy4339sumiweb 「五輪どころではないはずです。日本には真剣に向き合わなければいけない問題が山積みなのに。五輪にかけるお金も労力も時間もかけるどころではないと思っています。エネルギーをかけて大きなことをやった後のダメージは大きく、日本社会は疲弊します。五輪はやらなければ良いとずっと思っています」(田中徳雲住職。南相馬市

_yyy5070sumiweb_20200330221401 「イノシシのオレからも意見を聞きたいってかい!?9年前のあの原発事故による放射能汚染で大熊町は人間が一人もいない街になり、オレたちは食べ放題、荒らし放題の楽園になった。オレたちが獣のなかで一番放射能汚染されていることも知っているが、どうにもならないさ。駅と鉄道が再開されるようだが、常磐線界隈をねぐらとしていたオレだが、住民が戻って来れるわけではないので、あまり心配していないさ。五輪が開催されようとされまいと、オレたちの関心事は食い物が手に入るかどうかだよ」(大野駅前の駐車場を散歩していた雄イノシシ。大熊町

_yyy5727sumiweb 「元々、招致する際に、五輪やりたいのは山々ですが、今は辞退します、他所の国がお先にどうぞと譲るのが筋。オリンピックなんてお祭り騒ぎやっている時じゃないっぺ。「復興」、復興」って大金が動いているが、オリンピック終わったら一気に減速するって」
被ばく牛を生かす、元建設業で養蜂家でもあった松村直登さん。富岡町

_n613012sumiweb 「被災地復興が最優先なのに五輪をやろうとする。被災者や国民の視点ではない。経団連や一部のための政策だ。安倍は物事の道理を理解せず、好き勝手にやっている。その一つが五輪。国民は大きな力になびいていることに気づいてない。立ち止まって考える必要がある」
大津波で自宅1階が壊滅したが、リフォーム中の小野寺雅之さん。宮城県気仙沼市本吉町
(自宅下の線路はJR気仙沼線。まだ手付かずだ)


_yyy3649sumiweb「私がオリンピックに反対する理由は、「復興オリンピックと銘打って、避難者を切り捨てる政策を取っていることです。『福島県民はオリンピックどごでねえ!』」というのが正直な気持ちです。」
(子どもたちの保養キャンプ、佐渡へっついの家を主宰する関久雄さん。写真は郡山駅前にて)


 

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2020年3月29日 (日)

ようやく延期されたとはいえ、いつまで「復興五輪」に騙されているのか。

(クリックすると画像が拡大します)

2020114dsc_2569sumiweb_20200330202001Dsc_2568sumiweb_20200330202501 東京電力福島第一原発事故から丸9年。地元紙の福島民報によると、福島県民の県内外への避難者数は今でも41000を超し、県外への避難者数は31000人を超す。東北以外では、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の順で多い。この現実を前にしても、自民党公明党政府は、「復興五輪」を強行しようとした。

 

「復興五輪」がコロナウイルスによって蹴散らされた。当然至極すぎて驚かないが、安倍自公政権による「五輪ありき」政治により、新型コロナウイルス対策が手遅れになっているのではないかという心配が日本社会を覆い始めた。以下に紹介する写真群は、国民の命を軽視しても、今年7月に東京五輪を強行しようとしていた安倍「復興五輪」が、負のイメージを報道しようとしないテレビなど大手メディアを利用して、国民の目から隠そうとした東電原発事故から10年目の本当の姿だ。

誠実のかけらも、倫理感も道徳も持ち合わせず、口から出まかせ的な幼稚話法しか持ち合わせない安倍晋三(首相)が、「アンダーコントロール」と国際社会にウソ八百をついて、おそらく大金をちらつかせながら誘致した東京五輪。その始まりのうさん臭さから、今日の事態が来ることは筋書きができていたのではないだろうか。見えない神の手による懲らしめとして。

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双葉厚生病院の隣に建つ双葉郡医師会と双葉准看護学院の建物玄関。

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双葉町の双葉厚生病院真向かいに建つデイケアセンター裏口の下駄箱。9年前にスタッフが使っていた時のまま空気が止まっているようだ。大熊町にある小学校の教室のように。近くにある双葉町役場とこの厚生病院は、東電福島第一原発の北西約3.5キロの至近距離にある。

 

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9年前の3月13日午前10時半ごろ、緊急脱出の跡が残る双葉厚生病院玄関前に立ったことを思い出す。一度は除染されたと思われるいわくつきの病院だが、空間線量はいまだ高いままだ。何が問題かというと、この病院の敷地も近くの双葉町役場も、避難指示が解除された事実。3月14日に、常磐線が全線開通されるので、そのためだけに双葉駅とその周辺の除染も建物の解体更地化も進行途上の広範囲な一帯が、住民でも私のようなよそ者でも誰でも、歩き回ることが可能となったことだ。

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2011年3月13日午前10時半ごろの双葉厚生病院玄関前。空間線量が1ミリシーベルト(1000マイクロシーベルト)を超えた場所だ。平常値の約2万倍を示す放射線量だ。
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安倍晋三率いる自公政権を政権与党に押し上げ、お上のいうことを素直に聞いている多くの愚かしい有権者と、五輪招致以来、短期間のお祭り騒ぎに便乗し、五輪バブルを積み上げることに熱心だったテレビ新聞などの国民への影響力が巨大な大手メディアが共犯し、「復興」の実態のない東京五輪を玄関口までたぐり寄せることに成功したのはまぎれもない事実だ。
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双葉厚生病院の隣にある双葉青年婦人会館の駐車場は、自動車が放置されたまま10年目に入っている。何度ここに立ち寄ってもシュールさを感じてしまう光景。建物から急に誰かが出てきて、止めてある車に乗り込むんじゃないだろうか、という感覚だ。

9年前の東日本大震災と福島原発事故直後から被災地の取材を不定期ながら続けてきたカメラマンとして、五輪開催に反対の旗印を鮮明にして取材を続けてきた。
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希望の牧場・ふくしまの吉澤正巳代表:「福島県の被災地を置き去りにした大都会東京のエゴだ。勝手にやればと思う。五輪の最中に関東大震災と東海の大津波、浜岡原発がどうなるかを現実の問題としてみなさんでシュミレーションをした方がいいのではないかと言いたい」(2013年)
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五輪招致は復興に役立つわけがない。逆に足を引っ張ると話す阿部光裕常円寺住職。(2014年、福島市山口)

現場に何度か出かけて、「復興」ということばの誤魔化しとまやかしに気が付かない取材者はいないのではないか。そんな思いを持ち続けながら、あれから9年後、10年目に入る原発事故被災地、3月に入って早々と避難指示が解除された常磐線双葉駅周辺の現状をお知らせしたい。以下の原稿は3月12日にFacebookに投稿した内容に加筆修正した。

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3月14日、双葉駅ホームで開通を祝う横断幕を掲げる人たち。

加えて、3月14日の常磐線全線開通のお祝い写真も追加した。避難指示の解除の実態にそぐわないにも関わらず、「復興五輪」のイメージアップ策として挙行されたからだ。
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◯「復興五輪」と簡単に騙されていいのか?


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2020年東日本大震災と福島原発事故10年目の取材から。
第一弾は常磐線全線開通のために避難指示解除された双葉町の双葉駅周辺など。撮影は3月9日。

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春になると桜並木が素晴らしいこの場所には、以前、原発推進アーケードが建っていたが、跡形もないので、今では知る人ぞしる場所となっていた。ところが、画面左下には、その原発推進標語を考案した大沼勇治さんが貼ったと思われるポスターが残されていた。

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2015年12月21日。大沼さんが小学生の時に考案し、双葉町に採用された標語看板「原子力 明るい 未来のエネルギー」が報道陣を前に撤去された。大沼さんと奥さんは防護服姿で、「撤去が復興?」「過去は消せず」と記されたプラカードを掲げて抗議した。

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原発推進標語アーケードの裏側は、「原子力 正しい理解で 豊かなくらし」とあった。この日、大沼さんたちの抗議も空しく、双葉町の予算を使って看板は撤去され、役場の倉庫に保管された。

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新しくなった双葉駅。駅前には駐車場スペースもあるが、この駅前広場を使い聖火リレーが予定されていたと思われる。26日には、「聖火」が臨時列車で大野駅から双葉駅に運ばれ、駅前の約500メートルでランナーが聖火リレーすることまで予定されていた。(注:3月24日夜にやっと、やっと五輪開催延期となり、聖火リレーは中止となった)

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駅舎に隣接する「ふたばコミュニティセンター」内は全くの手付かずにも見える。五輪招致が復興事業の足かせになってきたことを物語っているともいえるのではないか?常磐線双葉駅と大熊町の大野駅は3月14日に9年ぶりに営業再開し、全線開通となる。

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駅前商店街や隣接する地区は、住宅の解体更地化の真っ最中。9年経ってやっとここを痛感する。

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加えて、大地震により店内が足の踏み場もないほどに商品などが倒壊し、あの日のままの建物側は、平常値の20~30倍の1~2マイクロシーベルトまで一気に線量が上がる。

 

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地震で崩れたまま廃屋となった建物。

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電気屋さん。

また、今回の避難指示解除と同時に、双葉町役場と双葉厚生病院のある6号線海側も一部が避難指示解除された。役場も病院も9年前にフリーランスの仲間6人で3月13日朝にたどり着いた場所だ。三人が手にする三種類の線量計が振り切れ、1ミリシーベルト(1000マイクロシーベルト)を超えたことを初めて知ったいわくつきの場所でもある。

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9年前の3月13日午前10時頃にこの場所に辿りついたが、その時のままに感じられる

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役場や厚生病院の裏手は縄一本で中間貯蔵施設地域と隣り合っていて、除染土を運び込むダンプカーが次々に入ってきていた。線量はなおさら高い。

今回の避難指示解除はインフラ整備はまだなため、住民に帰還してくださいという避難解除ではないというものの、「五輪招致」ありきで、現状を都合よく無視し、常磐線を開通させ、聖火リレーを大々的に実施して復興のイメージ作りというシナリオが出来ていた。あまりにも無責任ではないか。

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双葉海岸に近い一帯は、かさ上げや造成工事の真っただ中。大津波で流された墓地跡には、墓石が並べて置かれている光景も9年後の現実だということしっかりと見つめる必要があるだろう。

これらの写真群は、あなたが、私が生活し、底なしに劣化した国会議員や官僚たちも生活する日本の国土の一部で起きている現在進行形の出来事であることを忘れないでいたい。「復興五輪」の実態である。

 

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3月14日。双葉駅舎で開催された特急列車出迎え式でスピーチする内堀福島県知事。「五輪で常磐線が利用される予定だ」と祝辞を述べた。
原発事故までの利用客や地元住民には嬉しいことかもしれない。だが、線量が高いままの双葉駅周辺は解体更地化を待つ家屋が立ち並び、避難指示が解除されたといってもインフラ未整備のため、2022年3月の住民帰還を目指すのが実情。

 

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富岡町名物の桜並木、夜の森がある夜ノ森駅ホーム。

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3月12日、夜ノ森駅前通りは帰還困難区域のままなので、バリケードで封鎖されていた。

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大熊町の大野駅ホーム。

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3月12日、開通前の常磐線大野駅前駐車場は雄イノシシが一頭、のんびりと散歩していた。

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大野駅前商店街もバリケードで分断されている。

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3月14日、双葉駅に停車し、仙台へ向かう最初の特急列車。写真に写る建物は、ほとんどが解体待ちで誰一人住んでいない無人地帯。

逆説的だが、コロナウイルスにより、安倍「復興五輪」開催は、1年先延ばしされ、被災者の生活再建が軌道にのりはじめたというような本当の復興とは無縁の実態が、海外メディアを通じて国際社会にあぶり出される機会が少しだけ先送りされたということかもしれない。
来年3月は原発事故から丸10年の節目の年。県内外へ避難した住民の動きはさらに小さくなり、ゴーストタウンはより顕著になってるだろう。原発事故による放射能汚染は、住民から「帰還」の選択肢を奪った。

 

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2020年1月 7日 (火)

いまこそ、痛みを分かち合う心を取り戻すとき

(画像はクリックすると拡大します)

 2020年となりました。希望を見つけにくい不安な船出を強く感じています。

信濃毎日新聞に掲載された中村哲さんについての寄稿(2019年12月11日朝刊)と、2020年の寒中お見舞いハガキを読者のみなさんと共有したいので掲載します。

 凶弾に倒れた中村哲さんは、2001年に一度だけパキスタンのペシャワールで直接取材させていただいた取材者として、また、数多の命が無駄に死に急ぎさせられた日本の国策による戦争の結果、戦後に産み落とされた日本国憲法9条の、国際紛争を武力で解決することを禁じた非戦と平和を基調とする憲法の改悪を阻止したい同志としても、追悼の気持ちを込めて書かせていただきました。

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 昨年は台風15号、19号と続き、東日本の広範囲に前例のないような大きな被害を引き起こしました。地球温暖化による気候変動は、大型化した台風などの大災害を発災場所を変えて繰り返すことを覚悟して生きなければならない時代となってしまいました。中村哲さんの生き方の柱である「目の前で困っている人を見捨てるわけにはいかない」が、国(政府)はもとより、個人のレベルでいまほど「痛みを分かち合う心を取り戻す」ことが日本社会に求められているときはないと思います。

「軍事費は削減し 防災減災に 自衛隊は再編し 災害救助組織に」

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2019年12月17日 (火)

カモフラージュする国、抗う個、止まらぬ気候変動(原発事故被災地のいま)

(写真はクリックすると拡大します)

来年は安倍晋三(無能で無責任で幼稚な首相)が国際社会に大うそをつき、招致した東京五輪がある。そのためのカモフラージュに多忙な実態が見えるのが原発事故を起こしたイチエフ周辺だ。

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原発事故を起こしたイチエフの南側に隣接する、ヒラメなどを原発の温排水を利用して養殖していた施設。約15mの大津波でコンクリート製の建物も全壊となったが、朽ち果てるにまかされたままだ。海側の空間線量は10マイクロシーベルトを超えていた。この施設では二人の職員が大津波で亡くなっている。

 

12月9日と10日の二日間、福島県大熊町、浪江町、南相馬市を駆け足で取材してきた。大熊町は町会議員の木幡ますみさんの一時帰宅に同行取材した。ちなみに木幡さんは11月に実施された町議会議員選挙でトップ当選を果たし、議会唯一といっていい反原発派議員。12人の議員中、唯一の女性議員として二期目が始まったばかり。8年前の2011年12月の今頃、初めて木幡仁・ますみさん夫妻の一時帰宅に同行して以来、ほぼ毎年のように同行してきが、今回は約2年ぶり。8年前の取材は以下のブログでご覧ください。大熊町の放射線量の恐ろしいばかりの高さを実感できると思います。

2011年12月29日 (木)どこを計っても高い大熊町内(警戒区域)の放射線量

 

木幡さんの案内で、事故原発のあるイチエフ側、つまり国道6号線東側の中間貯蔵施設の現状を垣間見てから、国道6号線西側の大熊駅前商店街と常磐線大野駅の周辺、それから木幡さんの自宅のある野上地区(イチエフから西7キロに位置)の現状を見て回った写真レポートです。

国道6号線海側

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駐車場に生えてきた松の葉を集め、線量計測に出すという木幡ますみさん。この場所では、以前は野ばらの実を測定していた。

 

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海側にあるボイラー関係の建物だろうか。大津波のより破壊されたままの姿が残されている。

 

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養魚場の建物脇に、一台の車がそのまま残されていた。モニタリングポストは二基設置され、一台だけが稼働していた。

 

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中間貯蔵施設として整備された敷地に、普通のダンプカーの倍の大きさの車両が、機械的に線量が選別された汚染土をピストン輸送している。

 

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中間貯蔵施設関連施設。線量によって振り分けられた汚染土が、ベルトコンベアーで運ばれていくシステムになっているようだ。大津波被災地の陸前高田市の大規模なベルトコンベアー方式を思い出した。

 

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ダンプカーが大熊町町外から汚染土を中間貯蔵施設に運び入れるため、渋滞が起きている。国道6号線も幹線道路も、軒並み、ダンプカーの車列が続き、行き交う車両の半分がダンプカーを占める印象だ。

 

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熊町小学校に設置されたモニタリングポストは稼働しているが、実際の線量との開きが異なることが明白。今回は見なかったが、熊町小の各教室は2011・3・11にタイムスリップしたまま、机の上は教科書やノートが広げられ、小学生が慌ただしく逃げ出したそのままの状態で密閉されているといえる。

 

◯大熊町駅前商店街
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大熊町駅前商店街は廃墟となった街同然。ゴーストタウンと化して8年9ヵ月。店舗内は大地震で崩れ、建物も壊れたままで、いまだに手付かず。

 

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大熊町商店街の中の店舗。地震や水害や大津波の被災地で、災害から8年9年後に住宅がこうした廃墟の状態を、あなたは想像できるでしょうか?手を加えることもないままに、大地震と原発事故により、ずっとずっと撃ち棄てられたままだという事実を。放射能汚染の怖ろしさを想像できるでしょうか?

 

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こちらも大熊町商店街の店舗。2011年3月11日で時間が止まったままだ。

 

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大熊町商店街にある店舗の名前は、「アトム観光」「ブックス アトム」。木幡さんは商店街の要所要所で空間線量を測る。来年3月に常磐線が全線再開される予定に合わせ、駅と駅前商店街一帯の避難指示を解除する動きがあるというので、木幡さんは避難指示を解除する状態ではないことを議会で訴え、何とか阻止したいと話す。

 

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大熊町駅前商店街の空間線量は3マイクロシーベルト前後ある。平常値の60~70倍だ。8年前、この商店街の放射線量を測定した時は11マイクロシーベルトあった。確かにこの間に線量が下がったことは確かだが、この一帯は住民の帰還を容認するほどの安全な場所ではない。

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大熊町の常磐線大野駅前の四つ角にあった建物は解体が終わったばかりだった。

 

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建て直された常磐線大野駅駅舎。駅前は整備工事中だったが、若い作業員は防護服着用だが、マスクなしで仕事に熱中していた。駅前の空間線量は3マイクロシーベルトある。

 

◯イチエフ西7キロの野上地区にある木幡さんの自宅
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イチエフから西7キロにある木幡さんの自宅。野上地区は帰還困難区域。9月に一時帰宅した際は、雑木と雑草で庭先は覆われていて、見るのも嫌だったという。夫の仁さんが除染を依頼し、東電関係者が太くなった雑木も含め、きれいに片づけてくれたようだ。東電が、木幡さんは町議会唯一の反原発議員だということを意識していることは間違いないだろう。

 

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雑草も雑木もきれいに刈り取られた庭先の空間線量は3マイクロシーベルト以上。木幡さん一家がこの自宅に帰還して生活を取り戻す選択はどうみてもないと実感する。

 

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木幡家の室内の様子は、以前の何倍もぐちゃぐちゃになっている印象が強い。ドロボウなにか、獣なのか・・・・・。

 

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自宅前に広がる農地は大半が水田地帯だった。木幡家は手広く米を作っていたというが、水田地帯は荒れ果てたまま。もちろん、農業が再開できるわけでもないが。

 

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原発推進の反省も原発事故の責任も何ら不問とされたまま町長を引退した渡辺利綱前町長の再建された自宅。前町長の自宅を中心とした大川原地区だけが徹底除染され、大熊町新庁舎が建設され、今年4月10日に避難指示が解除され、住民帰還が推奨された。そして8ヵ月。帰還した大熊町民は60~70名だと木幡さんはいう。

 

◯浪江町の希望の牧場の牛たちは?
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冬到来にも関わらず、原発事故を生き延びてきた被ばく牛たちがノンビリと太陽光を浴びる「希望の牧場・ふくしま」は、不思議な存在感を保つ。

 

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週3回、レタス県から大型トラックで運び込まれるレタスやキャベツなどのカット野菜の廃棄物。被ばく牛たちは、我先にと食べつ、ご満悦の様子
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希望の牧場・ふくしまの吉沢正巳代表。原発事故に、殺処分に、国の原発推進や自衛隊海外へ県政策などに、身体を張って抗う畜産農家。原発事故年の今頃、初めて牧場の取材をさせてもらったが、短くみても20年分くらいの出来事のあったこの歳月を、風貌に刻んでいると改めて思った。

 

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外国人訪問客に原発事故の自身の体験談を語る吉沢さん。アドレナリンが出て、吉沢節はハイテンションになる。
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希望の牧場で健在の牛は264頭。原発事故後にたくさんの子牛が生まれ息絶えていった。成牛も一頭また一頭と亡くなっていった。いつの間にか、原発事故後の死んでいった牛たちを弔うお墓が建てられていた。成仏できない牛たちの魂は、浮遊しているのかもしれない。

 

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「除染  解除しても サヨナラ 浪江町」
牧場入口には吉沢さんの本音が込められた新しい立て看がある。

 

◯フランシスコ教皇に被災者の思いを語った南相馬市の田中徳雲住職
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南相馬市小高区にある曹洞宗同慶寺。イチエフから17キロにある、相馬藩の菩提寺でもある。

 

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田中徳雲さんは南相馬市小高区同慶寺住職。来日したフランシスコ教皇に直接、原発事故被災体験を語る3人に選ばれた。話す予定の元原稿が、バチカン外務省により改変されて、手元に届いた。肝心な部分が改変されていた。どうしようか、当日は欠席しようか、と迷ったが、自分で用意した元の原稿を読み上げようと決めたと話す。

 

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バチカン外務省により削除されていた肝心な部分は以下の通りだという。

 

「そして便利な時代の恩恵を受けて生活してきたこと、つまり「被害者であるが、同時に加害者でもある」ことを自覚し、反省しています」
私たちは、原発による電力の便利さの恩恵を享受してきたことは否定できない。つまり加害者でもあるという、痛みを伴う見解を、徳雲さんは堂々と主張したかったのだという。

 

この部分は、今年3月の徳雲さんの「命の行進」の取材時に、徳雲さんはこう表現していた。
(原発事故後はみんなの意識が変わりそうに思えたのに)なぜ私たちは変われないのか?そこで気づいたのが、便利な生活を少なくとも享受してきている私たちの世代はみなそうだと思いますが、自分自身の中に東京電力があるという心の問題です

 

実際のところ、教皇の前で、徳雲さんはご自分の見解を読み上げたそうだが、日本語の達者なバチカン側の通訳が教皇に正しく通訳したのかは定かではない。

 

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同慶寺境内。境内に立つと空気感が変わることを実感する、清掃の行き届いた素晴らしいお寺だ。

 

台風19号の被害(南相馬市小高区)
台風19号による甚大な被害は長野県だけではない。福島県の阿武隈川流域の中通りも、太平洋側の南相馬市などでも、原発事故による放射能汚染をより複雑にする新たな被害を起こしているのではないかと思えた。

 

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南相馬市小高区を流れる小高川が、台風19号で氾濫し、上流域では水田地帯に倒木や土砂が大量に押し流されていた。

 

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ダンプカーが走るのは高速道路の常磐道。小高川の氾濫による土砂や流木は、水田地帯を広い範囲でばらまいた。台風19号から約二ヵ月後、一帯は手付かずのままだ。

 

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上流から運ばれてきたフレコンバッグが15袋、土砂とともに水田を埋め尽くしていた。(南相馬市の小高川流域)
この場所での事例から、汚染土の詰まったフレコンバッグが仮置きされている福島県内の広い範囲で、同様な被害が出ていることが容易に想像できる。
また、浪江町の請戸川上流にある大柿ダムは台風時に放流され、ダム湖底に堆積していた汚染土も下流域に押し流されたのではないかと指摘されている。大柿ダムの水源は、高濃度に汚染され、除染されることのない浪江町津島地区の深い渓谷。農水省によると、大柿ダムは灌漑用水専用のダムとして、南相⾺市⼩⾼区、浪江町及び双葉町の⽔⽥約3,500haへかんがい⽤⽔を供給する目的で建てられた。激しい台風の度に放射性セシウムがダムに流入すると農水省は公表。「湖底の底質中の放射性セシウム濃度は、2016年夏頃までは、20万Bq/kg前後でしたが、2016年夏以降は10〜15万Bq/kg前後で推移」とホームページで公開もしている。湖底に堆積していた放射性物質が大型台風の度に流出されるようでは、下流域の田畑を除染しても再汚染されてしまうことになる。小高区は避難指示は解除され、浪江町下流域も一部の避難指示は解除されている。大柿ダムの灌漑用水を利用した農業の再開には、放射能汚染問題の心配が付きまとうということだ。

 

国は五輪を招致し、原発事故をなかったことにカモフラージュする。抗う個はあちこちに存在し、ブレることはない。気候変動は被災地だけでなく、必ず私たちを襲う。被災者となって気づくのは手遅れになることに気づくべきだ。

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2019年11月14日 (木)

国防よりも、今こそ被災者支援、減災のための防災を優先するのが政府の責務だろう

(写真はクリックすると拡大します)

世間は「桜を見る会」のスキャンダルで大騒ぎだ。野党から突っ込まれ、「来年の「桜を見る会」は私の判断で中止しました」と責任逃れをしようとした安倍晋三(首相)は、戦後から長きにわたって続く恒例の政府公式行事を一存で中止する判断こそが、「桜を見る会」の私物化だと証明することがわからない政治家だ。とても国会議員の資格があるとはいえない。

 

それはさておき、台風19号から一ヵ月が過ぎた。当事者の被災者ににとっては現在進行形で忘れることはできないが、直接の被災者とならなかった者が忘れたくても忘れていけないこともある。幸運にも当事者とならなかったことに感謝しながら、台風19号による被害の現実を取材した記録と記憶を共有しておきたい。

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長野市の千曲川決壊による水没地域は、津波が通り過ぎたように見えるほど、幹線道路沿いでは自動車がひっくり返ったり流されたりしている光景が濁流の脅威を物語っていた。10月14日撮影。

 

_yyy1558sumiweb堤防決壊場所から遠くない津野地区は、被害の発生から一ヵ月が過ぎても凄惨な現場そのものだった。津波被災地と同レベルの被害だと痛感。豪雨による大河の堤防からの越水と決壊は、津波が被害を引き起こす仕組みと何ら変わらないという水害のとらえ方が欠かせないと思うようになった。11月17日撮影。

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同じく長野市の広範囲に水没した地域に軒を並べるリンゴ園は秋の収穫を目前にしながら深く水没していた。10月14日撮影

 

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長野県佐久市中込の千曲川の支流が本流と合流する直前で堤防が決壊し、水田40枚超が砂に埋まり、河原の砂利を敷き詰めたような状態だった。米は未収穫の水田ばかりだった。10月23日撮影。長野県佐久市中込、

 

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  福島県須賀川市前田川地区を流れる阿武隈川の越水氾濫により水没した果樹園地帯。写真は桃園。濁流により木は折れたり流されたりしている。11月3日撮影。

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「こんなひどい被害は88年生きてるきたが初めてだ」福島県須賀川市前田川で、梨やリンゴや柿などの果樹を幅広く栽培し、長男が跡を継いで専業農家として頑張ってきた鈴木昭一さんは言った。

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同須賀川市前田川地区の阿武隈川沿いに広がる果樹園地帯のリンゴ園。水没したリンゴや枝には上流域から流されてきた稲わらが厚くまとわりついていた。未収穫の稲穂も混在している。須賀川市も福島県内では果樹栽培が盛んな農村地帯だ。11月3日撮影」

 

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福島県本宮市の台風19号により被災した住民が廃棄した、通称「災害ゴミ」。昨日まで住民の生活の一部として愛用されてきた身の回りの品物を「災害ゴミ」と呼ぶには無理があるだろう。東日本大震災や熊本大震災の現場を思い出させる光景は悲しみと無念さが詰まっている。11月4日撮影。

 

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これから冬を迎えるのに、大量のストーブが廃棄処分となっていた。(同本宮市の集積所)11月4日撮影。

 

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福島県郡山市田村町徳定の床上浸水のため、ピアノを含めほとんどの家財道具を廃棄せざるをえなかった石塚さん(50代)。泥出しは16~17人のボランティアさんたちにより二日間でかきだしてもらったという。年老いた両親と、夫と長男の5人が暮らしていた二階建ての自宅の一階部分は空っぽとなり、日常生活を送る状態ではない。 11月4日撮影。

 

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日没後の石塚さんの家も周辺も住民の避難生活が続くために灯りはない。市が回収するという廃棄処分のピアノが家の前に出されている。11月4日撮影。

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台風19号による15都県の主な被害を示した信濃毎日新聞記事(11月10日)。被害が長野県だけ突出しているわけではないことがよくわかる。主な被害内容は、死者行方不明者は95人。住宅の全半壊が11685棟。住宅の床上床下浸水が64300棟。堤防の決壊が71河川140ヵ所に及ぶ。

11月12日のNHKニュースによると、台風19号とその後の大雨による農林水産関係の被害額は2500億円を超え、9月の台風15号による被害額と合わせると3000億円を上回って」いる。「コメやりんごなど農作物の被害は1万8900ヘクタールに及び、被害額は135億円」とのことだ。

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長野県の被害総額は2318億円(信濃毎日新聞11月12日)

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行方不明者の捜索活動が続けられていた。(長野市赤沼地区、10月14日)

 

こうした15都県に及ぶほどの激甚災害に対し、政府が10月16日に決定したのは、「今年度予算の予備費から7億694万円を支出する」だ。福島県郡山市の自宅浸水した被災者はこの金額にあきれはてていた。

 さらに時事通信によると、「政府は11月8日、台風15号と19号などによる被災地の再建支援として、2019年度予算で計上した予備費のうち1316億円の支出を閣議決定した」。被災者の生活と生業再建にむけた「対策パッケージ」に基づき、中小企業支援(501億円)、農業支援(151億円)などが柱だという。

 

Dsc_1099sumiweb深さ2m以上の浸水のため、リンゴは廃棄処分される。リンゴ農家が廃棄するために落としたリンゴは、被災したリンゴ農家のやるせない気持ちを代弁しているように感じるのは、私だけではないだろう。

 

1300億円程度で膨大な被災者の何を支援するつもりだろうか?自宅再建資金か?農地復活支援か?工場に欠かせない精密機械の購入か?農林水産業関係だけの被害だけでも3000億円を超し、長野県の被害総額にも満たない。被災者を愚弄する子ども騙しか?それもと、安倍晋三(首相)率いる自民公明(僧が学会)与党は、被害の深刻さをいまだに認識できないでいるということか?

 

安倍自民党公明党(創価学会)政権となってからは、防衛予算は急増する一方で2019年度は総額5兆2574億円となった。安倍・トランプ会談で安倍晋三(首相)はトランプから最新鋭戦闘機F35を105機、爆買いすることを約束したことはよく知られている。1機100億円以上。安くみても1兆2000億円だといわれる。

 

閣議決定した1300億円の台風や強風被害への政府支援額は、戦闘機13機分。50機分の購入を止めれば、6000億円ほどを被災者支援に割り当てることは簡単至極だ。戦闘機1機分のお金で90の認可型保育所を新設できるという試算もある。 要するに政府の意思の問題だ。国民生活の安定を優先する気持ちが少しでもあるならば、戦闘機の購入を止めて、被災者支援、減災のための防災用に貴重な税金を使います、という当たり前の配慮があれば、優先順位は判断できることだ。

 

郡山市の被災者、石塚さんはこうつぶやいた。「気候変動が起きていて、いままでは大丈夫だったけどもうダメですよね。踏みとどまって防衛費を減らして防災に優先して、自衛隊を編成しなおして、災害救助隊のように防災とかに特化してほしい。鉄砲なんか持たなくていいから。歓迎しますよ。(災害救助隊は)ありがたいと」

 

税金を国防費に浪費するよりも、気候変動により毎年必ず起きる自然災害(人災要素の高いものも含め)の減災のための防災と被災者支援こそが、政府=国が、県が、市町村が今こそ最優先すべき課題なのは明らかだ。 

 

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2019年9月22日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論2004年掲載)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論2004年掲載)

 

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。
 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。
 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

 

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。
 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。

 

 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。
 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重苦しい雰囲気はない。
 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。
「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。
 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。
 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。
 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。
 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。
 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。
 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。
 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。
 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

 

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。
 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。
 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。
 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている

 

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