書籍・雑誌

2019年2月23日 (土)

詩と写真のコラボ写真集、「なじょすべ~詩と写真でつづる3・11」(彩流社)の発売

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 福島県二本松市で原発事故に被災し、家族は山形県に自主避難させ、佐渡で子どもたちの保養キャンを続ける関久雄さんとのコラボ写真集、「なじょすべ~詩と写真でつづる3・11」(彩流社)が2月末に発売されます。

 カラー112ページ、A5版、定価1800円プラス税。福島弁で「福島のいま」を伝え続ける関さんの40数編の詩と、私の写真50点弱で構成されたコラボ写真集です。

美しく、時には怒りを誘う写真。
哀しみと憤りを静かに映し出す詩。
二人の不思議なコラボレーションが読者の感情を呼び覚ます。

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「なじょすべ」  関久雄

わたしね 病気 治すために
ムノウヤク野菜を 何十年も食べてきた
福島で 野菜こさえるごども そこさ居るごども 
やっては なんねえと 思うのさ
だから カンパ送らなかった
まごどに 気の毒だったども 
と エミさんの 言う


測定所 立ち上げた
この 小松菜は 不検出
よかったら 買ってくなんしょ
それでも お客さん 三分の一
と タモツさんの 言う


下の 田んぼ 川の水が上がっから
1万ベクレル あるんだよ
阿武隈川の 青い 流れを見ながら
スギウチさんの 言う


ペットボトルの水道水 福島市が 売り出した
すると 世間はこう 言うんだ
カルト そのもの もう犯罪
ストロンチウムは 測ったの プルトニウムは 出てないの
フクシマ県を 閉鎖しろ


なじょ すべなあ
 

おめさん方よ
確かに オレも食わねえし
飲んでくれとも 言わねえが
悩む こころに 沿うてくれ
オレたちに 欲しいのは 
痛みを 分かつ こころだよ

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彩流社に直接注文したい方は以下のURLをご利用ください。
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-2562-1.html

アマゾンは以下のURL。
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%98%E…/…/ref=sr_1_3…

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2019年1月 8日 (火)

広河隆一氏の性暴力問題についての個人的見解

 広河隆一氏(現在75歳)と取材現場が一緒だったことが二度ある。
週刊文春で報道された広河氏の性暴力問題と広河氏のジャーナリストとしての実績についての個人的な見解を明らかにしておきたいので、長文になるが最後まで読んでいただきたい

 ようやく最初のテーマとなるフィリピンの継続取材をしている程度の実績のないカメラマンだった私にとり、雲の上の人のような報道写真家の広河隆一氏と初めて取材現場が一緒になったのは湾岸戦争直後のイラク取材だった。1991年のことだ。イラク取材ビザは出なかったため、イラク市民緊急支援を目的とする日本の市民グループのボランティアメンバーの一員として、1991年5月にイラク入国。ボランティアリストには私同様に取材目的で広河隆一氏やテレビ局の記者なども名前を連ねていた。

 広河氏と同じ現場を取材しても、広河氏の知名度や力量には太刀打ちできるわけもないので、イラク戦争直前にパレスチナとパリで取材した国境なき医師団(MSF)のイラク国内で緊急医療活動の取材を試みることにし、ヨルダンとバグダッドのMSFと連絡を取り取材ができるかどうかを探っていた。

 その甲斐あって、バグダッドからは広河氏たちが同行した支援グループと分かれ私は別行動をとり、医薬品や支援食糧物資を満載したMSFの大型トラックの助手席に乗りイラク北部のクルド人居住圏に入った。その結果、クルド人居住圏でのサダム・フセインの軍隊による徹底的な破壊と略奪行為と国連関係者の姿もない中で医療活動活動するMSFによるクルド人国内難民の孤立した状況の取材に成功した。週刊現代や朝日ジャーナル誌のグラビアで報道することができた。中東の取材に慣れない私にとってはできすぎた結果だったといえる。 

 この時の二度の中東取材で私は以下のように結論づけた。
『武力によって国際問題の解決を計ることが、「秩序」とは裏腹に新たな「混乱」をつくりだす事を改めて証明したのが1991年の「湾岸戦争」だった。戦争はパレスチナ問題には消極的な姿勢をとり続けてきた国連と、アメリカをはじめとする西側大国のダブルスタンダードを明らかにした。アメリカや日本も含めた西側大国の価値観に根ざした「国際秩序」や論理に翻弄されてきたアラブ人やイスラム教徒の心に、取り返しのつかない不信感や憎しみを植えつけてしまった。それが湾岸戦争の残したものだった』

 ちなみに、私は広河氏の超広角レンズの付いたカメラとビデオカメラ一台と録音機を首から下げ、同時に取材をすすめる姿にうなった。動画の訴求力を広河氏はすでに多用していた。

 二度目は20年後の福島原発事故直後の取材だった。
 2002年、「9・11」同時多発テロと米国によるアフガニスタンとイラク攻撃という報復攻撃以降、ジャーナリズムの在り方が問われ、ジャーナリストの取材と報道の権利と義務を守ることが困難になってきたことなどの状勢に、広河隆一氏が中心的な発起人となってJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。フリーランスのフォト・ジャーナリストやビデオ・ジャーナリストで構成)が設立された。志を同じくする私もの会員の一人として活動を共にし、JVJA主催でイラク戦争写真展などテーマも異なる数多くの写真展や報告会を開催した。

 2003年に岩波書店から「世界の戦場から」シリーズ全11冊プラス別冊が刊行されたが、広河氏の知名度と影響力抜きには出版されなかった大型企画だと思う。広河隆一氏が総編集となり、パレスチナ、チェチェン、イラク、ハイチ、核汚染、環境破壊など、JVJA各会員が長年取材してきたテーマがわかり易くまとめられた写真集シリーズとなった。「刊行の言葉」としていみじくも広河氏はこう記している。

ジャーナリストは人間の何を守るための存在であるべきなのか』 

 私は長年の取材フィールドとしてきたフィリピンを、「フィリピン~最底辺を生きる」として出版できた。あとがきには、「長年の取材を生かす機会をこの写真集シリーズで与えてくれた広河隆一さんに感謝する」と私自身が記している。

 実はJVJA会員として活動を共にする前には、広河氏の代表的な分厚いルポルタージュ「人間の戦場」(1998年)の書評を信濃毎日新聞に寄稿したこともある。広河氏の報道写真家としての凄さとパレスチナやチェルノブイリの子どもたちの支援活動を立ち上げ、息の長い支援を続ける姿勢に敬服していたからだ。

 2003年に広河氏が責任編集で出版を開始したフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」の出版企画には積極的に賛同し、1986年から親交のあった報道写真家福島菊次郎氏に賛同人になってもらうことを広河氏に提案した。「DAYS JAPAN」出版の賛同人に名を連ねた伝説の報道写真家・福島菊次郎さんの生き様とそのドキュメンタリー写真の連載に読者が触れるきっかけを提供した。

 広河氏のジャーナリストと支援活動の両輪の実績を尊敬していた私だが、広河氏のJVJA代表初期に転機が来た。DAYS JAPAN誌上で広河氏が多用する某著名写真家が、ビルマ(ミャンマー)軍事政権主催の写真展を新宿の著名なフォトギャラリーで開催した事実について私が問題視し、編集長としていかがなものかとJVJA全体会議で問い正したからだ。身の程知らずの若輩者がフォトジャーナリストの「大御所」であり業界の「権威」の広河氏に盾ついた格好になる。その写真展は少数民族と民主化を求める市民を弾圧、逮捕投獄し民主主義を否定する軍事政権による国外向け観光キャンペーンの一環のような内容だった。軍政下における社会問題を取り上げた内容は皆無。著名な写真家の世渡りのうまさと思想信条のかけらもないような姿勢に、長年ビルマ(ミャンマー)の民主化運動と少数民族の自決権問題を取材してきた者として黙ってはいられず、軍事政権に肩入れするような写真家をDAYS JAPAN誌上で多用することは間違っていると指摘した。JVJA会員を辞める覚悟での私の問題提起に対する反論はない曖昧なままでその場は終わった。広河氏と関係が疎遠となったのも自然の成り行きだ。

 その後、広河氏はDAYS JAPAN編集長に専念することを主な理由にJVJA代表を退き、JVJAは共同代表制となった。広河氏がJVJAから正式に脱会したのは2008年。

 広河氏とは顔を合わすこともほとんどなくなったが、少しでも原稿料を稼ぐためにDAYS JAPANにも写真を売り込み、「老い~生きる達人」(6ページ、2007年2月号)、「証言者たちの戦争」(8ページ、2007年10月号)、「産む歓び」(8ページ、2008年7月号)などの特集が掲載された。

 そうした中で起きたのが東日本大震災と福島原発事故だ。発災日夜にJVJA仲間のメーリングリストに福島取材向かうことを提案。翌早朝、JVJAの野田雅也(以下敬称略)を新宿駅前で拾い、3月12日夜には福島県田村市の小学校に緊急避難したばかりの大熊町町民の取材を二人で開始。その晩には郡山市内のホテルに森住卓、豊田直己、綿井健陽、野田雅也と私をいれた5名のJVJA会員と広河DAYS JAPAN編集長が合流。

 翌13日は車3台、6人の共同取材を開始。福島第一原発から3.5キロの双葉町役場、双葉厚生病院、常磐線双葉駅界隈などを取材。町から住民の姿は消え、双葉厚生病院前では広河氏、森住、豊田が持参した三台のガイガーカウンターで空間線量を測定し、1000マイクロシーベルト毎時(1ミリシーベルト)以上という異常に高い放射線量を測定した。その事実はテレビなどでは全く報道されていない原発事故の怖ろしい現実を伝える内容だった。その日の夕方までにはネットを通じて共同取材の結果を拡散した。6人の合同取材はイラク取材をまとめた映画製作で知られる綿井氏が撮影し、You-Tubeに公開され再生回数7万回を超えているので既知の人も多いだろう。三日間の共同取材を通じ、広河氏からは無視されていることを痛感したことを覚えている。

 その後は広河氏と取材現場が一緒になることはなかった。そして今回の週刊文春報道で明らかにされた広河氏の著名度と「権威」を利用した、あまりにもひどい性暴力問題だ。「7人の女性が証言」と報道された。あってはならない女性の人権無視だ。JVJAは昨年12月31日に広河氏の性暴力問題についての緊急声明を出した。全文はJVJAのホームページで目を通していただきたいが、一部だけをここに抜粋しておきたい。

私たち自身、これまでに写真展や報告会などを広河氏と一緒に開催しておきながら、重大な人権侵害に気づくことが出来なかったことは、深く反省しています。「彼がそんな行為をするはずはない」とする権威主義に陥り、加担していたと言わざるを得ません。
 広河氏はまず、被害女性一人ひとりにきちんと謝罪し、その罪を償うべきです。さらに公の場で自らの言葉でもって、事実関係を説明し、その社会的な責任をとるべきです

 週刊文春の記事は、広河氏がジャーナリストとして長年積み上げてきた裾野の広い山を自らの行為でぶち壊してしまうほどの内容で、パレスチナ問題であれ原発事故であれ、弱者の側に立ち世間に訴えてきた姿勢とは真逆だ。活動を一時期共にした者としては俄かに信じがたいものだったが、広河氏とは疎遠のせいか記事内容に近い女性問題を私自身が耳にしたことも、JVJAの仲間から噂を聞くこともなかった。言い訳になるかもしれないが、福島菊次郎さんのような人間的魅力を広河氏に感じていなかったから、広河氏のプライバシーに関心がなかったからかもしれない。

 今回の報道がなければ、いずれはその名を関した写真賞が創設されることは間違いないほどの実績と知名度と影響力を持つのが広河氏だ。40冊を下らない著書。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、土門拳賞、日本写真家協会賞年度賞などジャーナリズムと写真関係の賞を総なめにもしている。個人的には、「写真記録 チェルノブイリ消えた458の村」の、放射能汚染により住民が二度と住むことが不可能となり、土砂で埋められる村々のスティール写真は鳥肌が立つほどに凄まじかった

 広河氏の権威と信頼の失墜、ジャーナリズム全体への信頼の失墜は測りしれないが、広河氏に触発されパレスチナ問題などをテーマにフォトジャーナリズムの世界に身を投じてきた同業者の失望感は尋常ではないだろう。私の失望感はそこまでではないかもしれないが、残念極まることには変わりない。

 ただ、ここで何よりも重要なのは、広河氏がジャーナリズム界で果たしてきた大きな役割を知らない一般の人の視点だろう。一般的には広河氏の実績がどう扱われるのかよりも、広河氏が被害者に対しどう責任を取るのかということだけに関心が集まるのが自然だ

 今年は敗戦から74年。国策の侵略戦争中、軍部の予算を利用して対外宣伝雑誌を次々と創刊した写真家がいる。彼の名前を冠した写真賞まで創設された名取洋之助だ。名取はLIFE誌のように洗練された日本のフォトルポルタージュの草分け的写真雑誌「NIPPON」を1934年に創刊。当初は日本文化や産業を海外に紹介する内容を目指したようだが、侵略を正当化する内容に変わり、「NIPPON」は44年の36号まで刊行された。軍部との関係を強めた名取は、プロパガンダ目的の広報雑誌6誌を創刊。陸軍による謀略雑誌「SHANGHAI」(1938年)や関東軍報道部出資の「MANCHOUKUO」(1940年)などを刊行した。

 戦後、名取が自らの戦争責任を総括した様子は残念ながらない。その点は、昭和天皇をはじめ、殺生を禁じる伝統仏教の各宗派や高名な僧侶も、侵略戦争を支持しながら戦後は贖罪の意識をあいまいにしたのが日本社会なので、名取だけを責めることもできない。

 写真界での名取の戦後の功績は、1950年から刊行された岩波写真文庫全286作の編集責任者として能力を発揮したことだろう。名取は1962年に53歳で没したが、日本写真家協会により新進写真家の発掘と活動を奨励するため、2005年に名取洋之助賞が創設された。戦争への積極的な関わりなどとは無関係に、「名取洋之助」の名を冠した賞は高く評価されている。だからといって、名取の戦争への積極的な加担をあいまいにすることは、後に続く後輩たちが同じ過ちを繰り返す言い訳を残すようなものだ

 写真は一度発表されると、撮影者の意図とは裏腹に一人歩きする。すでに評価が定着した広河氏の作品、著作、映画などを全否定する動きが今後あるかもしれない。しかし、10年、20年の長いスパンで見れば、性暴力被害者の女性たちの心情とは切り離された形で、訴求力があり忘れがたい作品は残るのではないか。それは広河氏の潔い責任の取り方次第でもあるといえる。

 自戒を込め、ジャーナリストに対する信頼の低下をどう回復するかは残された者が努力する他はないと覚悟している。


 

 

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2018年12月16日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論掲載、宗補ホームペーよりの復活ブログ)

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。

 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。

 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。

 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。
 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。

 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重ぐるしい雰囲気はない。

 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。

 「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。

 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。

 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。

 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。

 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。

 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。

 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。

 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。

 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 
義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。

 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。

 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。

 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている。

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2018年12月11日 (火)

2000年9月:朗読者」読みました~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 約1ヶ月ぶりに投稿してみました。 盛夏の8月はいろいろと雑用などに追われる一方で、 8月下旬までは全く本を読めず残念でした。夏休みに買い貯めた 本をたくさん読みたいと思っていたのですが。 それでも、気を取り直して、話題の「朗読者」をよみました。重く考えさせる内容とは別に、読みやすかったのには救われました。 それは何よりも前半を占める15歳の主人公と40歳前後と思われる ハンナとの濃密な愛人関係の描写により引き込まれたものでした。

 「朗読者」のポイントは、積山さんが的確にご指摘されているとおり だと思います。日本で読まれる理由のひとつも、「朗読者」という 小説で描き出されているナチスドイツ時代にドイツが犯した罪を、戦後、ドイツという国家やドイツ人個人個人がどのように反省したか、また、どのように責任の所在を明らかにしようとしたのかを振り返ろうとしている意志に驚いたり、多少の違和感を感じながらも我が日本の戦後に置き換えて、考えざるをえない気持ちになるからでしょう。戦後、戦争責任をあいまいに処理した日本人にはどきりとさせられる 小説です。

 朗読者を読んだ勢いで、ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」を読み、「ある憲兵の記録」(朝日新聞山形支局)も読み終えました。キャパはハンガリー生まれのユダヤ人で、ヨーロッパ戦線の幾多の生死を分ける極限で後世に残る報道写真を残した稀にみる人物。カメラマンの職業柄、彼の写真は見慣れているものの、この本を読んでいなかったことを悔やみました。キャパは恋人をロンドンに残したまま、アメリカの写真雑誌「ライフ」 の従軍カメラマンとして、第二次世界大戦中の北アフリカ、イタリア、フランスなどの各最前線をヘルメットにカメラだけで渡り歩きます。目の前では多数のイギリス兵、アメリカ兵、フランス兵などが死んでゆき、仲間のライフ誌従軍カメラマンは沖縄の伊江島で死にます

 同じ頃の中国・満州国では、山形出身の若い農民が憲兵として、天皇を頂点とする大日本帝国のために忠実に働き、国土を外国人である日本人に蹂躙され愛国心を心に秘める無数の中国人を捕らえ、処刑場へと送ります。72歳となった元憲兵の土屋さんが、新聞記者に語り、新聞紙上に長期連載されたものをまとめた本が「ある憲兵の記録」ですが、何年も前に買ったものの、なかなか読む気が起きなかった本でした。

 土屋さんが憲兵として10年以上勤めたのは、海亀の宮内さんが暮らしたハルピンからは遠くない、チチハルというロシアとの国境近辺の街ですが、敗戦後はロシアと中国の収容所に入れられ、帰国するまで11年間の抑留生活を送ります。その間、土屋さんは自ら罪の総量を振り返り、14年間に、328人を直接間接に殺し、1917人を逮捕拷問し刑務所に入れたという恐ろしい数字でした。

 「自分は戦争の加害者であり、中国では鬼だった。再び、あのような侵略戦争を繰り返してはならない」と語る土屋さんは、各地で自らの体験を話し、反戦を訴える活動をしているという。また、1990年には中国に「謝罪の旅」にも出ている。この本には、「善良な地方の一農民を、平気で人を殺す兵や憲兵に仕立て上げ」た当時の日本の時代背景も描かれています

 すでに亡くなった私の父親も中国大陸で憲兵をしていたので、この本はショッキングでした。もし、我が父が元気な頃に憲兵時代に何をしたのかを話したとしても、私はどう対応すれば良いのかわからなかったでしょう。父は戦争体験については完璧に口を閉ざしていました。ただ、昭和天皇が死んだ時、戦争責任を取らなかった
天皇裕仁を非難する私に激しく怒り、勘当だと怒鳴られたことをはっきりを思い出します。

 たまに投稿すると長くなりすぎますね。みなさん、宮内さん、ご容赦ください。

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2000年8月:朗読者、広島、長崎 山本宗補 MAIL~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 先日、新宿の書店で「朗読者」を買ってきました。
何十冊と平積みで売られていたので、探すこともなく見つけました。
今月中には読むのが楽しみです。

 10数年前、ポーランドに残るアウシュビッツ(現地ではオシビェンチムと読んでいる)を訪れたとき、今世紀最大の民族抹殺の歴史的現場と なった強制収容所跡を徹底して当時のままに近い状態で残し、後世の人々に何が行われたのかを伝える意志の力強さの圧倒されたものです。

 一人でゆっくりと写真を撮ったのですが、帰国後にフィルムを現像 した時に驚愕したのです。一本のフィルムには強制収容所に残る殺戮されたユダヤ人の顔写真と、そこに重なるように生きているポーランドの 炭坑夫の一家のポートレート写真が重なるように写りこんでいたのでした

 アウシュビッツを訪れる前日に、近くにある大きな炭坑の町で、一家のポートレートを撮影したフィルムを、完璧なうっかりミスで再び撮影 に使ってしまったためでした。単純にプロカメラマンとしては失格のミスを犯したのですが、振り返ってみると、アウシュビッツの何かが、私の能ミソの判断能力を阻害した ことは間違いないと信じています。

 広島に原爆が落とされてから55年後の8月6日の夜、NHKで広島市内の袋町小学校の壁面に残る55年前の伝言と、それらを書き残した人たちの家族や関係者をドキュメントする番組をみました。 涙があふれてきました。原爆により負傷した人々が避難した小学校の 壁が掲示板として使われ、55年前のままの壁面が残されていたのです。そうした壁面によりかかって、おそらくたくさんの負傷者が息絶えたことでしょう。そうした光景が浮かんでくるような空間が残され、 伝言を書き残した遺族が、初めて壁の前にたち絶句する映像もありました。
 
 番組の最後には、この袋町小学校が老朽化のために解体工事が進行中で、伝言の書かれた壁面が切り取られて保存されるとの説明が付け加えられたのですが、私が愕然としたのは、この原爆の記憶と人々の悲しみが刻み込まれた歴史的な建物を跡形もなく解体するという事実です。

 建物全体を残さず、伝言の書かれた壁面のみを切り取り、おそらく広島の原爆博物館に常設展示するのでしょう。 単にこぎれいで、コンパクトにまとまっただけの近代的原爆博物館(世界中の人類に広島の原爆の被害のすさまじさを伝えようとする意志が薄弱のコンクリート空間)に陳列されるだけで、55年前に書き残された伝言の重みが喪失するだけにすぎないことを懸念します。 (古いビルを利用した長崎市内の原爆博物館の、変に洗練されていない 展示方法の方が、広島よりもはるかに心に響くものです)

 時としてあいまいな人の記憶を補助してくれるのが、袋町小学校などの歴史の証言を残す建物のはず。切り取って博物館の中に閉じこめて、一体どうやって子どもたちや世界中の人々に原爆を破壊力と原爆が 人類にもたらす際限のない悲惨さを、説得力を持って伝えようとする
のだろうか。

まさ君へ 山本宗補 MAIL 2000/07/27

ノーテンキな若者があふれ、無責任な大人や政治家、経営者が あふれる世紀末の日本。
宮内さんの海亀通信には何故か、きまじめな若者が吸い寄せられ てくるようだ。

 「自由の獲得か死か」 カッコイイことばだね。まさ君の年齢はわからないが、そんなにつきつめて考えたいなら、ちょっと外の世界をみてくるのがいい。ぼくのオススメは、近いところでは四国の八十八カ所を めぐるお遍路だ。ちょうど、一週間の撮影・取材に行ってきたところで、様々な年齢の男女が全行程1400キロを歩いていた。
早くても四十日以上はかかり、半端な気持ちでは 太刀打ちできない行程だ。 四国には異質な価値観や幅広い寛容度に根ざした日本人が 生活している。とことばで言ってみても伝わらないだろうが。別の日本社会が現存する。

 ノーテンキな若者も、無責任な大人も、どれほど才能あふれる人も、親の愛をたくさん受ける人でも、この世に生まれたからには 我々には必ず死を迎える時がくる。ひとりひとりの往き方があり、いづれ間違いなくやってくる。 ぼくはその時まで急ごうとは思わない。

君は手塚治虫のマンガ世界を知っているかい。
「火の鳥」「ブラックジャック」「ブッダ」「ファウスト」
・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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2018年12月 4日 (火)

2004年5月18日(火) 須田治追悼集「まなざしの向こう側へ」が刊行された(宗補雑記帳よりの復活ブログ

 軍事政権下のビルマ(ミャンマー)では、憲法制定のための「国民会議」が17日開始された。アウンサンスーチー書記長とティンウー副議長が自宅軟禁とされたままの野党NLD(国民民主連盟)は、会議をボイコットした。選択肢のない結論だろう。あらかじめ軍政による結論が出ている会議は「茶番」でしかないからだ。

 ビルマ情勢のことはこの次雑記することにして、今日は友人のジャーナリストで昨年3月に急逝した須田治さんの「須田治追悼集」が刊行されたことをお知らせしたい。今年2月20日の雑記ですでにお知らせした文集が16日に長野市の出版社オフィスエムから刊行された。

 タイトルは「まなざしの向こう側へーー須田治追悼集」。須田さんの視点に相応しい実に良いタイトルだ。本はB5版270ページ、定価1500円。私が撮影した須田さんが取材中の写真を表紙のほかに10点使われています。ご家族を含め友人知人の追悼文が50点以上収録され、須田さんの主な著作を網羅した年表もあります。

 圧巻は二点の未発表原稿。ひとつは「ジャーナリストの仕事とは」と題された原稿用紙130枚をこえる長文です。須田さんが13年前に東京の出版社を退職してフリーランスのジャーナリストになる決意を込めて書かれたもので、彼のジャーナリズム論と日本のジャーナリズムに関する危機意識がひしひしと伝わってくるものに仕上がっている。

 もう一点は、満州の引揚者である母親のソ連軍から逃げる際の残酷な戦争体験を聞き書きした「母と戦争体験」だが、こちらは読むだけで痛ましい。ジャーナリストとしての須田さんが何を大切にしたきたか、その原点に巡り会ったような文章だ。この二点の原稿を読んだだけでも須田さんの力量が伝わってくるはず。追悼集の詳細はタイトルをクリックし、出版社のホームページで確認できます。 また、以下に本書に収録されている私の追悼文をコピーしました。

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2015年12月17日 (木)

2015年の最もPV(Page View)された拙ブログ記事順位

 2015年は安倍晋三(首相)と自民党・公明党(創価学会)の暴走、憲法無視、民意無視、戦前回帰路線の年だったと言い切ってもいい。戦後日本のターニングポイントとなったことは間違いないことに、近い将来、気づくことになるだろう。

(注:1000回をこえるページビューされたブログ記事を、PVが多い順番に並べました
これまでは、「RT」の数字が出たのですが、最近は数字は出ないシステムとなってしまいました。
よって、PVの多い順番に並べてみました。必ずしも、「RT」の多い順番とはならないようですが、
どんなテーマが読者に最も関心を持たれているのが一目瞭然
です。

「()」でくくった記事は今年の記事ではないことを示しています。

7gatu_15nichi戦争法案が衆議院で強行採決された日の国会前。

「自民党は死にましたね!」
「公明党は魂を売ったの?」


1:ゴーマンな安倍晋三(首相)による、民意無視、独裁と「違憲政党政治」の終わりの始まり(5,032PV  注:以下同)
7_gatu18_5

2:戦後70年、大本営の狂気を物語る戦争遺跡:松代地下壕大本営跡(4,861)
_8ds9062jpg
 

(鎮魂の読経~生きた仏教)(4,451)  

3:安倍政権は後藤さん、湯川さんの解放に本気だったのか?(4,250)

_8ds1033jpg渋谷ハチ公前で後藤さんと湯川さんの死を追悼する集まり。 

ビルマ(ミャンマー)の民主化のために闘うアウンサンスーチーさんのこと)(3,316)  

(獄死した尹東柱(ユン・ドンジュ) その詩と治安維持法)(2,638)  

4:福島県浪江町津島~原発から20キロ以遠の帰還困難区域と開拓入植者~Part1(2,451)
_8ds4069jpgjpgweb

(死線を彷徨い、生還した佐々井秀嶺師(インド・ムンバイにて))(2,084)  

5:シンポジウム「朝日新聞問題を通して考える「慰安婦」問題と日本社会・メディア」報告(2,079)
_8ds6274jpgjpgweb「私は慰安婦捏造記者ではない」と説得力ある説明をする植村隆さん。

6:追悼:反骨の報道写真家・福島菊次郎さんが亡くなった。私たちにいま問われているものは何か(1,895)
005

7:始まりました、京都での長期写真展。戦後70年平和企画 山本宗補写真展 「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(1,878)

Photo_1

(原爆資料館(広島平和記念資料館)を見て考える) (1,878)  

(パパラギの里(石雲禅寺)) (1,838)

8:大熊町・双葉町・浪江町 帰還困難区域の現状とは?(1,822)
_aaa4601jpgjpgweb原発から7キロの距離にある大熊町の自宅に一時帰宅した木幡夫妻。

9:「戦争法案廃案!」「安倍政権退陣!」のコールが渦巻いた、小雨の中の10万人超国会前抗議フォトルポ.(1,580)
_aaa3657jpgsumijpgweb

10:SASPL(サスプル)からSEALDs(シールズ)へ。反安倍政権の協力な磁石(1,388)

Sep1818jpgweb9月19日、参議院で戦争法案が強行採決された夜中の国会前。

「凶行採決 亜米内閣」

11:2015年写真展「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」巡回途中経過・開催希望者募集中(1,266)
Dsc_0971jpgsumi姫路展から。

12:福島県浪江町津島~原発から20キロ以遠の帰還困難区域と開拓入植者~Part2(1,242)
_8ds0684jpgweb棄民再びの大内孝夫さん。


13:安倍政権にレッドカードを!さまざまな「赤」で7000人が国会大包囲!(1,101)

_8ds9534jpgsumi民意無視の象徴となった国会を包囲する「赤」。

(日本軍幹部の責任を肩代わりさせられたBC級戦犯裁判の不条理(韓国・朝鮮人元BC級戦犯と遺書)(1,001)

(中略)昨年までの記事は省略し、以下はPVの多い順の今年の記事

14:辺野古新基地反対国会ヒューマン・チェーンと増殖する「「I am not Abe !」の意思表示

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15:世論を無視した安倍自民公明政権による「川内原発再稼動!」を阻止するためのゲート前座り込み(8月9~11日)フォトルポ
Sendai_npp_gate_7川内原発ゲート前の再稼動反対座り込み。
 

16:「安倍政権NO! 3・22大行動」フォトルポ
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17:「経産省前テントひろば」仕事始め脱原発記者会見から
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18:新刊(反核)、コラボ(反戦)、沖縄(反米軍基地・反原発)をまとめて紹介

_aaa3620jpgsumi_2窪島誠一郎さんとの新刊共著「「父・水上勉をあるく」(彩流社)

19:『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 上(信濃毎日新聞2007年掲載)
Photo

7ggatu_17_2_1安倍首相がポツダム宣言をよく読んでいないと、恥ずかしくもなく国会答弁した日の国会前抗議(7月17日)

「憲法をつまびらかに読んでみろよ!」

◯PS
参考までに、2014年の最も読まれた拙ブログ記事リツイート順位はここをクリックしてください


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2015年9月27日 (日)

大盛況だった福島菊次郎さんの講演会写真展(2008年9月と2010年8月、雑記帳から転載)

(菊次郎さんの死を追悼し、ブログ開始前の雑記帳での記事を転載します。内容は、2008年と2010年に府中市で菊次郎さんの講演会と写真展を開催した時の報告です)

2008年9月18日  大盛況だった福島菊次郎さんの講演会と写真展

_dsc4981jpg

 敬老の日に87歳になる福島菊次郎さんを「酷使」する講演会と写真展は大成功だった。
私の予想をはるかにこえる大入りで、府中の講演会は400人あまりの参加者があり、広くて天井の高い写真展会場は講演会直後は身動きできない空間となり、まるで近代美術館のゴッホ展のような大混雑ぶりだった。ピークの時間帯は福島さんの写真と写真説明をしっかりと観ていただくことができなかった入場者が多数いたことを想像すると、混雑もプラスばかりとはいえない。主催者の積極的なPR攻勢が実を結び、朝日と毎日に大きく講演会が福島さんの代表作とともに紹介され、ネット上での講演会告知も徹底していた。

 展示したのは「写真で見る戦争責任」パネル20数枚、「ある被爆者の記録」10枚、兵器産業など10枚だ。午前10時の開場から夜7時までの一日写真展だったが、入場者は600名を楽にこえてしまった。

Hukushimahuchuexhbitcatalogue2008この講演会写真展のために製作されたミニ写真集。

 今回のために印刷したA4版16ページのモノクロミニ写真集は、200~300部販売できれば上出来と予想していたが、印刷の良さと500円という格安さに、講演参加者数を上回る部数が販売された。何よりも写真の力強さであり、時代を反映する優れたドキュメンタリー写真だからで、全てが絶版となっている福島さんの写真集の中身の濃密さを彷彿とさせるからなのだろう。主催者の判断で印刷を重視したものにした甲斐があった。

 同様の印刷で72ページ、定価2000円の本格的写真集を制作し販売することも十分採算が取れると思えるほど良い仕上がりだ。

 敬老の日の翌日は、疲労困憊しているはずの福島さんを連れだし、お茶の水にあるJVJAの事務所で私も含めて12名の現役フォトジャーナリスト、ビデオジャーナリスト、映画監督、新聞記者、テレビ番組制作会社経営者などと福島さんとの交流会をもった。

_dsc5015jpg「がらんどう」さん一家のみなさんと。

 交流会の前に、神田の古本やアンティーク雑貨店「がらんどう」さんに立ち寄る。オーナーが福島さんの大ファンで、昨年は瀬戸内離島物語の写真パネルを展示したお店だ。福島さんの希望で急遽、友人知人に声をかけた内輪の会だった。私のリード役の不手際で、福島節は出たものの、出席者の遠慮からか活発な質疑応答までにいたらずにお開きの時間となった。体重が35キロに落ちた福島さんの疲労度からしてもそれ以上続けるのは健康的にまずいと判断した。福島さんがあと2~3年若かったら、二次会で議論が盛り上がったはずなのだが。

_dsc5038jpgJVJA事務所での交流会。

 「天皇を(そのまま)残したのが諸悪の根源だった」という一言が、福島さんの交流会での総括だった。福島さんが昭和天皇に対する怒り、天皇の戦争責任を追求する私的怨念を抱くきっかけの最たるものが、60年代の天皇の記者会見での回答を聞いた時だったと話された(注:正確には1975年の天皇記者会見)。中国新聞記者の「広島の原爆に対してどう思うか」という質問に対し、「戦争だから仕方がなかった」と答え、英国の通信社記者の「戦争責任についての考えは」との質問に対し、「そのような言葉の文に対する文学方面の研究はしていないのでわからない」と返答した会見をテレビに釘づけになって見ていたそうだ。翌日の新聞は会見の内容を伝えはしたが、全く論評しない扱いに、天皇に対する恨みがこみ上げてきたと話された。

 電車を乗り継ぎ、府中のホテルまで送り、駅前のラーメン点で二人で遅い夕食を食べた。さすがに福島さんも空腹だったとみえ、おいしそうにラーメンを食べていた。

 翌日、福島さんは親友で、上関原発反対運動の写真集「中電さん、さようなら -山口県祝島原発とたたかう島人の記録」(創史社)を出した那須圭子さんとともに柳井に帰っていった。この本には福島さんが撮影した戦後まもない祝島漁民の生活と、原発反対運動の写真も収録されている合作本でもある。

 福島菊次郎さん、たいへんお疲れさまでした。「写らなかった戦後」シリーズ第三弾の執筆が早く校了し、書店に並ぶことを願っています。

元の雑記帳はこちら

2010年8月24日  『遺言 Part3』 福島菊次郎最終講演会in府中

Kikujiro5august2010

 府中での福島菊次郎最終講演会&写真展は盛況のうちに幕を閉じた。私にとっての今夏のメインイベントは終わった。主催者は私を含め、2年前の講演会と同じ顔ぶれの実行委員会。5ヶ月前に執筆中の「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな」の出版が講演会に間に合うことを確認し、会場を仮押さえしたことで準備正式開始となった。
Kikujiro3august2010著書にサインを求める人人。

 同じホールでの講演会は前回を下回るがまずまずの入り。客層は予想した中高年よりも若い世代、とりわけ女性層が多かった印象

Kikujiro9kamanakaaugust2010鎌仲ひとみ映画監督と。
 
(中略)

 写真展は今回3日間開催した。前回は講演日だけでギュウギュウ詰めとなり、じっくりと写真を観てもらうことができなかった反省を踏まえた。会場の広さと至便さで、胃ガン手術後の福島さんが命を削ってまで制作に没頭した写真パネルを70数枚展示できた。写真点数にして350点をこえる。前回の倍近いパネル数となった。最長1時間程度で見終えるには丁度いい分量だったかもしれない。

Kikujiro4august2010

 続きは雑記帳でごらんください

Kikujiro11august2010「写らなかった戦後」シリーズを刊行する現代人文社の成澤社長と。

以下はブログ以前の雑記帳の菊次郎さんに関しての記事

2003年8月6日  報道写真家、福島菊次郎著「ヒロシマの嘘」のススメ
2005年7月6日  福島菊次郎さんの緊急講演会が決まる
・2005年7月20日 「戦後60年 戦争が始まる」福島菊次郎講演会が大盛況だった
2007年6月25日  福島菊次郎講演会の終了、山本宗補写真展の開始
・2008年9月18日  大盛況だった福島菊次郎さんの講演会と写真展
2010年3月25日  松江、柳井、光、祝島、大久野島
・2010年8月24日  『遺言 Part3』 福島菊次郎最終講演会in府中
                    

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2015年9月26日 (土)

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 上(信濃毎日新聞2007年掲載) 人生方向づけた「戦争」

福島菊次郎さんを追悼し、信濃毎日新聞2007年3月5日に掲載した記事を再録します。
交友が続いていた菊次郎さんの人生について、戦争体験者の取材を覚悟を決めて初めて書いた記事でした。

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 上

人生方向づけた「戦争」
                  山本宗補
Photo

 江戸時代の白壁の商家が残る山口県柳井市。中心街から離れ、寂れた歓楽街の一角にあるアパートの一室で、八五歳の独居老人がワープロに向かっている。胃ガンの摘出や胆のうの手術などで満身創痍の老人は、体重三七㌔。視力は落ち、耳も遠い。だが、小泉首相、安倍首相と続く政治の流れが、老人の反骨心の残り火を燃え立たせる。六畳間の片隅では、愛犬のロクが寝そべり、部屋の隅には、周防大島で暮らした時期に自作した棺桶が置かれている。

 報道写真家、福島菊次郎。一九六〇年代初頭から二〇年間、フォトジャーナリズムの第一線で活躍し、学生運動、あさま山荘事件、三里塚闘争、被爆者、公害問題、若者の風俗など多岐に渡るテーマをルポ。「文芸春秋」「現代の眼」などの月刊総合誌を中心に、一時は年間一五〇ページ以上発表した。これまでに刊行した写真集は一二冊に上る。

 その反骨精神を物語るエピソードの最たるものは、六〇年代後半、防衛庁広報課を欺いて、自衛隊と兵器産業の実態を撮影し、雑誌に発表したことだろう。「国家権力を相手に、取材にモラル云々をいっていたら、権力に都合のいい写真しか撮れない」と福島さんはいう。暴漢に襲われて重傷を負い、不審火で家が焼けたが、屈しなかった。

 写真集『原爆と人間の記録』を出版した七八年、テレビ番組「徹子の部屋」に出演した際には、「『天皇制批判はしないで』と釘を刺されたので、『終戦』という言葉を使ったらその場で席を立つことを約束させた」という。 

 その福島さんはここ何年か、写真で表現できなかったことを文章で補完しようと、自分史を追うように取材現場の記憶をたぐり、一人称で書き残している。『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』(現代人文社、二〇〇三年)には、多くの被爆者が見捨てられ、死んでいった〝平和都市広島〟の暗部を、『写らなかった戦後2 菊次郎の海』(同、二〇〇五年)では、六二歳で東京を捨て、郷里に近い瀬戸内海の島に移り住んでからの生活を中心に綴った。

 「『菊次郎の海」』のあとがきには、こう書かれている。
「靖国神社こそは若者を死地にかりたて、ボロ布のように使い捨てた軍国主義の大量殺人装置以外の何ものでもなかったのだ。ボクも何度か靖国の生け贄になりそうになった」。

 その戦争体験が、福島さんの戦後の生き方を方向づけた。

 福島さんは一九二一(大正十)年、周防灘に面する山口県下松市の漁村の網元の家に生まれた。小学校の遠足で隣接する光市の伊藤博文の家を見学した後、一九二三年の虎ノ門事件(摂政時代の昭和天皇の暗殺未遂事件)で処刑された難波大助の家を回り、「国家に背くと死刑になる」という教師の説明に震え上がったそうだ。

 四四(唱和十九)年四月に召集され、広島西部第一〇部隊輜重(しちょう)部隊に入隊した福島さんは、馬に蹴られ骨折し、そのおかげで死を免れる。入院中に沖縄へ向かった所属部隊の輸送船は、米軍の攻撃を受けて沈んだ。沖縄戦終結後の二度目の召集では、原爆が投下される六日前、広島から貨物列車で宮崎の海岸に送られた。グラマンの空襲に脅えながら、米軍上陸に備え、爆雷を抱えて戦車に飛び込む自爆訓練に明け暮れていたとき、広島に原爆が落とされ、原隊は全滅した。わずか「六日」が生死の運命を分けた。

「同級生の半分近くが戦死した。命は天皇陛下からいただいたものだから、天皇陛下にお返ししなければいけないという固定観念があった。戦争で死ぬことと、敵を殺すしか考えなかった狂気の青年時代だった」と福島さんは振り返る。

 小学生のとき、中国人五〇人は殺さないと、と思っていたという。「仲の良かった同級生は上海戦、南京戦を戦い残虐行為をやった。もし戦争に行っていたら、僕も相当悪いことをしただろう。戦争に行けば死ぬのはわかっていたから。戦後は、ほおかむりして反戦平和を唱えたと思う」

 復員後、福島さんは郷里で時計店を営みながら広島に通い、行政に見捨てられた被爆者の苦しみを撮り続けた。最初の写真集『ピカドン』を出版したのは六一年のことだった。

(中、下に続く)


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2015年9月25日 (金)

追悼:反骨の報道写真家・福島菊次郎さんが亡くなった。私たちにいま問われているものは何か?

(写真はクリックすると拡大します)

 (注:編集中なので後で追記したり、書き直す予定です)

「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」

 これは福島菊次郎さんが主権者として、ジャーナリストとして残した有名な一言である。

000180(2001年撮影)

 福島菊次郎さんが9月24日に息を引き取ったと、ご家族から聞いた。体重は30キロちょっとしかなかったようなので老衰のようだ。心からご冥福をお祈りするばかりだ。

 ご家族だけで火葬し、葬式はやらないという。

 菊次郎さんが常々怖れていた安倍自民公明政権が、違憲立法である「戦争法案」の強行採決という独裁的手法に及んでまもない時期の訃報は、今日一日降り続く雨のように、気持ちを暗澹とさせ、心を重くする。

 ちょうど2年前、ある一件によって26年間続いた交友関係がこわれ、菊次郎さんとは疎遠になっていた。だが、そんな個人的な一件とは無関係に、菊次郎さんの戦後の生き様を畏敬する気持ちには何ら変わりがない。

 立命館大学国際平和ミュージアムで二ヶ月間の写真展「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」を開催したが、その時のポスターとチラシには福島県南相馬市の大津波被災地を私がご案内したときに撮影した写真を使用した。ポスターは菊次郎さんに送ったところ、アパートに貼ってあるということを人づてに聞いていた。

Photo_1

 ちょうど、二年前に刊行された、朝日新聞社発行の「Journalism 2013.9」誌には、「反骨の報道写真家・福島菊次郎から、フォトジャーナリスト魂を学ぶ」と題した8ページの長文を寄稿した。自分自身がフォトジャーナリズムの世界に入り、ここまでやってくる経緯に、菊次郎さんとの交友関係をからめての記事だ。

 このブログ記事では、福島菊次郎さんのご冥福を念じ、「Journalism」誌掲載前の荒原稿に少し手をいれた文章を追悼の代わりに掲載したい。写真は誌面で使用したものと使用していないものも少し加えたい。(Journalism誌をお持ちの方はもう一度読んでいただけると嬉しい)

 1986年の菊次郎さんとの始めての出会いなどについても触れている。

005(2005年撮影)


反骨の報道写真家・福島菊次郎からフォトジャーナリスト魂を学ぶ

 敗戦から68年の夏。国内外の戦争体験者70人の証言をまとめたA4版のモノクロ写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(彩流社)を出版できた。掲載したうち、18人がすでに鬼籍に入られてしまった。もっと早く出版にこぎ着けたかったが、東日本大震災と原発事故が起きたので、後回しにせざるをえなかった。2011年3月12日から福島県に入り取材を開始し、一年半の継続取材をまとめた全カラーのフォトルポルタージュ「鎮魂と抗い~3・11後の人びと~」(彩流社)を昨年9月に出版。そして民主党の自滅で自民公明連立政権が再登場し、安倍晋三首相の復活となった。危機感を募らせた私は、この写真集を敗戦記念日前の出版にこぎつけようと急いだ。

 写真集のあとがきで触れたが、私が戦争体験者の聞き取りを本格的に開始したのは、2005年夏。日本最南端の八重山諸島が舞台となった「戦争マラリア」を取材したところからだ。それまで沖縄戦のことさえも取材していなかった自分が取り組むには、理由付けが必要だった。
 
その理由を遡ると、約30年前から東南アジアの国々の内戦や貧困などの社会問題を取材しはじめたことに行き着く。取材中に熱帯特有のマラリアやアメーバ赤痢などに何度も罹り、マラリアの症状に関しては熟知していたという自負もあった。日本にもマラリアがあることが本当なのか現地で確かめてみたいとも思った。「戦争マラリア」についての詳細は、拙写真集を手にとっていただくことにして、本題のフォトジャーナリストとしての仕事と、昨年公開された映画「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」で、その存在と生き様が全国的に知られることになった福島菊次郎さんとの関わりについて書いてみたい。ちなみに、「戦後はまだ・・・」に掲載した一人が、92歳で現役報道写真家の福島菊次郎さんだ。

人生の目標を失い米国で写真を学ぶ

 若い頃は社会の問題やジャーナリズムの世界とは無縁だった私が、フォトジャーナリズムの世界に踏み込むようになった経緯を簡単に記しておきたい。福島菊次郎さんとの縁の偶然性がより浮かび上がるからだ。長野県の田舎町で生まれ育った私は、都内の大学の夜間学部に滑り込んだものの、勉強が嫌いで長続きせずに自主退学。早々に自分の人生も見限り、家出をし、自己嫌悪が増幅し自殺願望にとりつかれた。ただ、自殺するほどの勇気がなく、人生の目標もないまま日本で生きるよりも、物理的に生活環境を変えてしまえば真剣に生きる気持ちになるかもしれないとアメリカに渡った。1978年、25歳だった。カリフォルニア州南端のメキシコ国境の町サンディエゴで生活した。観光ビザから学生ビザに現地で変更できるといわれていたが、ビザ変更ができないまま、サンディエゴ市のコミュニティーカレッジで写真の基本を二年間学んだ。写真を選んだのは、他に興味が湧く職業訓練的な科目がなかったからだ。

14(2011年撮影、福島県南相馬市)

  私が報道写真の世界に魅かれるようになったのは、図書館などで借りたロバート・キャパとかユージン・スミス、LIFE誌やマグナムなどの社会派的写真をたくさん見てからだ。英文写真集のためか、日本人写真家の作品に触れることは稀だった。知った名前はローマ字名で、EIKO HOSOE(細江英公)、HIROSI HAMAYA(濱谷浩)くらいだった。土門拳の名前も本も知らないまま過ごした3年半の滞米生活で身に付いたものは、写真撮影の基礎と日常生活をこなす英会話能力程度だった。自分にとって特筆すべきは、自殺志向を招いた自己嫌悪というネガティブな思考から、アメリカ人特有のポジティブな思考に自分を変えることができるようになったことだろう。

  帰国後、英語も写真も使わなければ無駄になると思い、東南アジアに行き始めたが、社会問題とか歴史を学ぶ姿勢のないまま写真を撮っただけだった。有り難かったのは、撮影の仕事で来日するマグナムなどの世界的に著名なカメラマンの荷物持ち兼通訳としてのアルバイトが時折できたことだ。そうした経験が社会派的な写真に関心を引き寄せる役割を果たしたと思う。

 転機となったのがマルコス政権晩年の85年。飢餓が伝えられたフィリピン中部のネグロス島に入り、地主階級の私兵が労働者に無差別に発砲し、20人以上が殺害された虐殺事件の被害者を取材した。死体も、銃弾による負傷者も、武装した私兵も、私にとっては全てが始めての取材となった。週刊誌などに売り込んだが掲載に至らなかった。取材が不十分で、マルコス政権とは何か、独裁政権末期の虐殺事件をどうとらえるべきか、日本とフィリピンの関係とは何か。私が編集者に説明し説得できるほど状況を把握できていなかった。英字紙にだけは掲載できたものの、取材しても発表できなければ取材したことにならないことを思い知らされた。その後の大統領選挙、無血クーデターなどとフィリピンの政変がテレビ中継で日本のお茶の間にも報道される展開となり、私自身もフィリピン取材にのめりこんで行った。

 今振り返ると、日本との関わりの深いフィリピンは駆け出しのフォトジャーナリストに取材の基礎を学ばせてくれた。貧困、飢餓、内戦、天災、日本人人質事件、日本のODA、日本企業の関わり、日本人中年と若きフィリピナの見合い結婚、日本軍の戦争の傷跡など。英語能力の向上にもつながり、その後のビルマ(ミャンマー)取材や、インドや中東などでの取材にも生かされることになった。日本の大学を卒業し、メディアで記者修行したわけでも、労働組合や市民運動をやってきたわけでもない私の思考や思想形成は、内外の取材現場で培われたものだ
 
報道写真家・福島菊次郎との出会い

20119(2009年撮影。さようなら原発大集会)

 私が福島菊次郎さんに初めてお会いしたのは86年秋。菊次郎さんが瀬戸内海の周防大島で野菜を有機的に作り、果樹も栽培し、自給自足の生活をされている時だった。菊次郎さんは漁師の子どもだったから魚は海に行けば手に入った。当時65歳。その後に破局を迎える若い女性と同居していた。

 チェルノブイリ原発事故が春先に起きた年でもあった。その原発事故の深刻さを十分に認識していなかった私だが、ポーランドの撮影で、放射能の影響を深刻に受け止める話を聞き、多少は身近に感じ始めていた。帰国後、雑誌の仕事で周防大島と橋で結ばれた沖家室島の、高齢でも元気に生きるお年寄りを撮影する仕事で沖家室島に滞在した。人口200数十人の孤島の唯一の寺の住職が、「同業者なら福島菊次郎さんのことは知っているでしょう」と、周防大島に住む菊次郎さんの家に案内してくれた。団塊の世代の住職は大学時代にゲバ棒を手に学生運動に身を投じたことがある世代だった。

 私はフォトジャーナリストと名乗ってはいたが、30歳を過ぎてもまだ駆け出し同然で、自分自身の取材テーマを持たなかった。実際、菊次郎さんにお会いするのは荷が重すぎた。小柄だが、厳しい顔つきの菊次郎さんとほんの少しだけことばを交わしたくらいで、写真を数枚だけ撮らせてもらったが、他には何も覚えていない。その後も縁が続くとは全く思わなかった。その時だったか、ミカン畑の真ん中にある借家の回りの畑に人糞を肥料にしてイチゴを育てていたところを見たような気がする。田舎の長野県で母親の畑仕事をできるだけ手伝い、作物を作る苦労を身近なものと感じることができるようになったのは、菊次郎さんの自給自足の生き方に影響を受けていた。

  初対面のその時まで、菊次郎さんと私の接点がゼロだったわけでもない。実は、アメリカから帰国後、小さな古本屋で手にしたのが菊次郎さんが78年に出版した『原爆と人間の記録』(78年、社会評論社)だ。土門拳などの名前や作品さえまだ知らない私が、福島菊次郎という並外れた存在を偶然のきっかけで知ったのがこの時だ。あとがきを立ち読みして感動したことは忘れられない。日本にも戦争でなくとも命を張って取材し報道するカメラマンが存在することに敬服した。あの本を古本屋で手にしていなければ、私は福島菊次郎という報道写真家の存在を知ることが無かったような気がする。

菊次郎さんの仕事と生き様を広く伝える

  99年からは「老いの風景」をテーマに、同郷で同い年のジャーナリスト、須田治さんとペンと写真のコンビを組み、全国で「老い」をテーマに取材開始した。「老いの風景」の取材を始めるまでの私はといえば、フィリピンとビルマ(ミャンマー)の取材をそれぞれフォトルポルタージュとして出版するのがやっとだった。視線は国外にだけ向かっていたのだが、海外で長期取材しても掲載できる雑誌がほとんど無くなり、私自身も海外報道から国内問題への転換を迫られていた。その最初の取材で、沖家室島を13年ぶりに訪れ、小さな島の世代交代した島民の老いてもなお元気に一人暮らし続ける姿を撮った。取材後に周防大島の菊次郎さん宅に立ち寄ったところが、私にとっては菊次郎さんの命懸けの仕事と向き合い始めるきっかけとなった。沖家室島の取材に出かける度に、菊次郎さんの借家に泊まらせてもらい、深夜まで菊次郎さんが現役で取材していたころのいろんな話を聞くことが始まった。

 2002年。菊次郎さんが周防大島で自ら制作した膨大な写真パネルを展示する写真展を企画し、さいたま市浦和の知人が経営する日本喫茶ギャラリーで開催した。数年後、菊次郎さんの写真パネルの管理を依頼されることになるのだが、私が初めて関わった写真展だった。二週間を二部構成とし、「瀬戸内離島物語」と「日本の戦後を考える戦争責任展」を展示。「瀬戸内」の時には菊次郎さんの彫金作品も同時に展示販売した。彫金は菊次郎さんの器用さを象徴するもので、彫金作家ベストテンになったこともあるほどの実力だ。写真パネル制作費を稼ぎ出したのも彫金作品だという。菊次郎さんは毎夏、敗戦記念日を初日とする彫金展を都内青山のギャラリーで開催。私は夫婦でギャラリーに挨拶に出かけ、作品を見る程度のおつきあいが長く続いた。蔵を改造したギャラリーの畳部屋で菊次郎さんの講演会も実現した。

200222002年、ギャラリー楽風での写真展

 イラク戦争開戦とほぼ同じ頃、筆のたつ須田さんが49歳の若さで急逝してしまった。菊次郎さんのインタビューを人気の高い月刊誌「サライ」に売り込み掲載するなど、須田さんの筆力に写真を撮る者として頼っていたことを反省し、自分なりの「老いの風景」を取材し続けた。菊次郎さんの生活の場は、この頃までには周防大島から柳井市に移っていた。大島の借家を引き払い、99年には下関市で写真館を一時運営し、翌年には常設写真展会場を柳井駅前に見つけたのを機に柳井市のアパートで独居生活となった。根っからの犬好きの菊次郎さんに同居の犬も欠かせなかった。

  写真集「また、あした 日本列島老いの風景」のタイトルで出版したのは2006年。「老い」にまつわる総論的な構成で、第1章は「大往生の島」と題して沖家室島を取り上げ、第4章は「記憶を撮る」と題して戦争体験者の肖像写真とその体験の一部を紹介する形だ。一人目が、私が自慢したい01年に撮影した菊次郎さんの横顔だ。キャプションの代わりに菊次郎さん特有の表現を掲載した。「靖国神社こそは若者を死地に駆り立て、ボロ布のように使い捨てた軍国主義の『大量殺人装置』以外の何ものでもなかったのだ。僕も何度か靖国の生贄にされそうになった」

Dsc_01352006年撮影

  狭いアパート生活で菊次郎さんは、写真だけでは伝えきれなかった現場のやりとりを活字にまとめる執筆に集中した。「写らなかった戦後」(現代人文社)シリーズとなり、第一段は「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘」と題されて2003年7月に刊行された。シリーズ第二弾の「菊次郎の海」出版に合わせた講演会を、2005年に都内で開催した。この時から菊次郎さんの講演の進行役を自ら務めるようにした。話始めたら途切れることのない菊次郎さんの話を、時間内に引き出すためのブレーキ役と舵取りに過ぎないが。

  講演の締めくくりに84歳の菊次郎さんは言った。

「戦後、ジャーナリストも国民も言ったことだが、ああいう馬鹿
な戦争をやったのは、ジャーナリズムがペンを折ったから。こういう事態が再び来たのはジャーナリズムと個々のジャーナリストがその志を放棄したから。戦前と同じで大政翼賛化し、戦後をきちんと照らして導いていくべきジャーナリズムの怠慢が作ったんだ。僕もジャーナリストの一人として、そういう内省をし、今日も田舎から出てきてジャーナリストとしての役目をちゃんとやろうとしている」

 小泉政権下でアメリカのイラク戦争に加担し、靖国問題で日中関係が一気に悪化していった時期だ。

  信濃毎日新聞紙上で、「『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎」と題した福島菊次郎論を三回に分けて掲載したのは2007年だ。菊次郎さんのすさまじい生き様を少しでも伝えたかった。昭和天皇の下血報道に際し、「このままとんずらされてたまるか。絶対に奴より先に死なんぞ」と決意し、退院を早めて「戦争責任展」と題した写真パネルを自費制作し、無償で全国巡回させたことを読者に伝えた。昭和天皇の下血報道は菊次郎さんが67歳で、胃がん摘出手術を終えて入院中の時だった。爆弾を抱えて自爆攻撃をさせられる訓練中に戦争が終わった福島菊次郎元二等兵の、最高責任者に対する責任の問いかけだった。

112(2011年9月撮影、さようなら原発デモ)

福島菊次郎講演会と写真展開催
  2007年6月に御茶ノ水の明治大学の教室を会場に、「戦争がはじまる」福島菊次郎「遺言」講演会を開催した。講演会は会場に入りきれない50人ほどにあきらめてもらうほど大盛況だった。私も所属するフリーランス仲間の集まりであるJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。02年に広河隆一さんを代表として結成。その後、DAYS JAPANを発行した広河さんは退会し、現在の会員は16名で共同代表制)主催で開催したが、菊次郎さんの名前も仕事も知らない若い世代を中心に、14歳の中学生から70代の高齢者まで、幅広い参加者が集まった。企画した私が司会進行役をし、菊次郎さんが撮影した主要作品をスクリーンに上映して紹介した。講演会のアンケートが反響の大きさと重みを物語っている。

  「自衛隊や三里塚闘争などの、戦後の問題を示した写真の迫力がすごいと感じました。また、それ以上に天皇問題や日本の将来に対し語られる福島先生のすごさにも圧倒されてしまいました。(男性・44歳)」「初めて話を聴くが、すごい人だと感じ入る。「戦場体験」「戦争体験」「裕仁の戦争犯罪」「大本営発表」「権力のウソ」「ジャーナリズムの堕落」「被害者立場のみ主張」「加害者意識の欠如」(男性・74歳)」

 「戦争責任というのは戦場責任のことのみを指すのではない。戦争とは戦前―開戦―戦中―終戦―時には戦後までのすべての局面を言うのであって、すべての局面に責任は生ずるとのメッセージが印象に残りました。既に「戦前」の局面に入っていると思われる現在、主権者たる我々一人一人の「戦争責任」が既に問われ始めているのですね。(男性・34歳)」

 「先日20歳になったばかりで、まだまだ子どもつもりでいましたが、もう自分も責任を負う人間なのだと思いました。自分の子どもや孫の世代に胸を張って生きて欲しい、戦争のある世界を残したくない。今の自分にできること、しなければならないことを考え、行動に移していきたいと思います。(女性・20歳)」

 「日本は戦争を終えると同時に再び新たな戦争へと歩んで来たような気がした。この国がいかに表面的な国であり、いかに危険な状態であるかわかった。いままでは、「国が悪い」という意識で何かと批判してきたが、その責任の源流が国民にあったのだということを思い知らされるような講義だった。このまま恐ろしい未来が訪れるのをただじっと待っているだけというのも非常にむなしいことだと思うが、正直な気持ちとしては、未来は変えられない気がした。(男性・18歳)」

 「誰かがなんとかしてくれるだろう、という考えでは(憲法改正までの)時間は権力者のいいように利用されるだけ」との言葉にギクリとさせられました。福島さんが言うとおり、今、多くの人が、主権者としての能力を失いつつある、というよりその事実自体に無自覚になっているにかもしれません。講演会パート2を是非やってください。(男性・24歳)」

  6年前の講演のアンケート内容だが、まるで昨日今日開催した講演に対する反応のようで、戦中派の体験を持つ菊次郎さんが時代の行く先を読み取っていることがわかる。

20002000年撮影
  
  2008年と2010年には、国立市の市民グループが立ち上げた実行委員会が主催し、府中市のサポーターの力も借りて府中市駅前の広い講演会場で、「遺言」講演会Part2、Part3と開催。2010年は、「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな」の出版に合わせ、本格的な写真展を三日間開催。福島さんが命を削ってまで制作に没頭した一辺90㎝の写真パネルを70数枚展示できた。写真点数にして400点ほどだ。幅広い世代に大きな反響を呼んだ。

 この時の福島さんの「遺言」講演のポイントを紹介しておきたい。

 「日本はポツダム宣言受諾の通告を受けても無条件降伏を即座に受け入れなかった。広島と長崎の原爆は天皇制を救うための代償となった」「日本人は戦争を語る場合には被害しか語らなかった。それでは日本の侵略の対象となったアジアの人々は納得しないだけでなく不信を募らせるだけ。強盗に押し入って殺人した者が、自分が受けた傷を強調しても誰も認めないのと同じこと。日本の平和運動は世界の平和運動に貢献しなかったのは、被害者自身もやられたことばかり言ってきたため。足を踏んだ人は忘れても、踏まれた人は絶対忘れられない」

 「日本は急激に体制翼賛化するでしょう。9条の破棄、国民主権を変える、天皇批判が不敬罪となった戦前の天皇の地位と権力を思わせるような法律も出てくると思う。憲法改正問題も含め、我々自身の良心と尊厳を問われる大事な問題に直面している。どうか矛盾することをやらないように考えてください」「国民の半数以上が憲法を護る投票の結果が出たならば、断固として自衛隊の存続に反対します。私の立場は写真でも明らかなように再軍備反対ですから当然です。お前はどうするかと問われたならば、前回の集会で話したように、自衛隊がなおも存続するならば、そのような大間違いの国でこれ以上生きることを拒否します」 

 まるで参議院選後の今を先取りして警告する内容だ。

原発事故と脱原発運動の取材

 冒頭で触れたが、大震災と大津波の発生、福島第一原発の未曾有の過酷事故直後から、私はJVJAの有志と福島県で取材を始め、3月13日午前10時には、広河隆一さんを含む合計6人で、原発から3.5㎞の双葉町役場と双葉厚生病院に着き、三台の放射線量計で測定した。測定値は1ミリシーベルトを越え、平常時の2万倍の異常さだった。詳細は拙著「鎮魂と抗い~」に書いたが、私の「3・11」取材はそうして一気に高まった。大震災と原発事故は、JVJAがオンラインマガジン「fotgazet」を創刊して一月後だった。合同取材による放射線量や写真はfotgazetニュースで発信し、本体のfotgazetでも定期的にまとめて刊行した。菊次郎さんの広島の被爆者をテーマにした写真も、10数ページに渡ってfotgazet本体に掲載させていただいた。「3・11」後はブログを開始し、取材した記事と写真を逐次発信してきた。

  原発事故の初期報道で不思議だったのは、事件事故天災の発生となれば、先を争って現場に駆けつけるテレビ局や新聞社通信社などの大手メディアに現場で出会わなかったことだ。ジャーナリズムとは、報道機関とは何のために存在するのかを考える上でしつこく指摘しておきたい。住民の安全のために、原発に近づこうとする車輌を止め検問体制を敷くことが職務の警察の姿もなかった。後になり、テレビ新聞各社の取材の自己規制は政府が指示したのではないことにさらに驚いた。住民が自宅に残り、または決死の思いで原発に近い自宅に貴重品を取りに向かっているにも関わらず、記者が現場に入ることを止めたことは驚きだ。
   
 政府や東電に頼らず、自分たちで放射線量を計測する機材と人材を確保し、現場のデータを視聴者や読者に提供できたはずでもある。SPEEDYよりも実測データが貴重な情報源となったはずだ。ジャーナリズムとは何か?菊次郎さんとの対比で指摘すればこういうことだ。70年代に菊次郎さんは、「自衛隊は憲法違反」という信念から、防衛庁(当時)をうまく欺き、政府が国民の目から隠す自衛隊と軍需産業に入り込んで撮影した。国民の知る権利の行使でもある。菊次郎さんは自衛隊広報課の圧力をはねのけ、雑誌媒体で次々と報道した。暴漢に襲われて重傷を負い、不審火で自宅を焼け出されてもひるむことはなかった。

 2011年9月、私は菊次郎さんを福島県内を二日間案内し、三日目は東京の脱原発大集会とデモの現場に立てるように日程を組んだ。菊次郎さんの体調を考慮し、誰から頼まれたわけでもなく、三日間だけの日程で案内したところを映画製作班は撮影したものが「ニッポンの嘘」に生かされた。

 福島県の現場に入る前から菊次郎さんが注目したのは、広島の被爆者が国や行政に見捨てられたままに再建された「平和都市広島の虚構」の構図を見抜こうとした。結論を下すには時期尚早なのかもしれないが。

 報道写真家・福島菊次郎のぶれない生き様と、大手メディアで報道されることの少なかった写真群から、私はジャーナリストの果たすべき役割を学んできた。
 2013年9月、上京した菊次郎さんに新著「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(2013年、彩流社)の感想を聞いてみた。「今度の本が一番いいね」と言われ、嬉しくなったことを思い出す。菊次郎さんとの出会いが縁で、フォトジャーナリスト魂を学んできた一人として、ようやく使命のいくらかを果たせた気がした思いだった。

9(2009年撮影。写真展を終え、東京から山口県柳井市のアパートに向かう電車内には、菊次郎さんの唯一の弟子である那須さんが同行)

 菊次郎さんが、『戦争がはじまる―福島菊次郎全仕事集』 (社会評論社)を出版したのは1987年。およそ30年前にさかのぼる。かつて跋扈した東南アジアの独裁政権と化しつつある安倍自民公明政権が、「戦争法案」を参議院で強行採決したのは先週のことだ。菊次郎さんは、広島の原爆を6日間の違いで免れた戦争体験と、戦後の報道写真家としての生き様から、日本が平和憲法をないがしろにすることのないように、自衛隊の海外派兵がないようにと警告を発し続けてくれた。

 体重30キロ余の94歳の老いた肉体に、ようやく休息のときがやってきたことを思うと、「菊次郎さん、お疲れさまでした。向こうの世界に渡ったら、どうか私たちの社会が、安倍晋三とその取り巻きがのぞむ戦前に回帰することを世代をこえた協力で、踏みとどまる力を発揮できるように見守っていてください。後は私たちにまかせて、どうかゆっくりお休みください」と話しかけたい気持ちになる。

合掌                                   2015年9月25日  山本宗補

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