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2019年9月22日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論2004年掲載)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論2004年掲載)

 

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。
 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。
 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

 

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。
 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。

 

 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。
 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重苦しい雰囲気はない。
 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。
「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。
 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。
 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。
 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。
 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。
 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。
 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。
 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。
 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

 

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。
 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。
 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。
 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている

 

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2019年9月18日 (水)

ガイドブック「行ってはいけないアジア」掲載コラムから「マラリアの基礎知識」

 2005年「行ってはいけないアジア」に掲載したコラムの「マラリアの基礎知識」を以下に再掲します。
戦争中の沖縄もマラリアの猛威が振るった地域です。急激な温暖化とともに、日本本土も20年以内には亜熱帯気候となり、マラリアを心配しなければいけないような時代が到来するかもしれません。今から読んでみても損はないですよ。
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 カレン民族を詳しく知りたい人は、マラリアの発病を覚悟する必要があるだろう。私はジャングルに三日間滞在しただけで、発病した経験がある。毎年、100~200万人近い人がマラリアのために世界中で命を落としている。アフリカのサハラ以南が最も危険だが、東南アジアではビルマ・タイ国境地帯でもマラリアが猛威を振るう。

 熱帯や亜熱帯のハマダラカの媒介でのみ感染するマラリアは、空気感染も血液や体液による感染も起きない。こうしたマラリアに関する基礎知識は、インターネット上でも十分な情報が手に入る時代だが、情報提供者の研究者たちは患者の体験がないようだ。実際、日本の医療現場で働く医師や看護婦はそうした知識もないので、マラリアと聞いただけで後ずさりする。

 ここでは個人的な体験を知ってもらうことが近道だろう。ただし、マラリアによる感染と発病は個人差があるので、一例として知っておき、現地入りする前の心構えとしてほしい。私の場合は、これまでにビルマ取材では四回マラリアが発病した。フィリピンの取材では、取材中にアメーバ赤痢にやられ、帰国後に一度マラリアが発病し、一度は結核で入院した。感染地帯での取材は避けられないので、職業病と割り切るようになったが、マラリアの発病は嫌である。

・なぜかマンダレーで発病したマラリア
 初めての発病は1989年8月。ビルマの北の都マンダレーで発病し、タイのバンコクの総合病院で診察した結果、マラリアと判明。治療薬を服用して症状が快復してから帰国した。二回目は95年5月。カレン民族同盟のドゥープラヤ管区(メーソットから西南方向のカレン領)を取材中に発病。運良く四輪駆動車で一時間ちょっとのところにKNUが運営する病院があり、そこにかつぎ込まれ、点滴と治療薬で快復した。三回目は長期国内取材を終えて帰国後の95年の年末、田舎に帰省中に発病した。日本での発病は初めてだったので、少々慌てた。すぐに帰京し、正月で閑散とした都内の道路を救急車で都立駒込病院の感染症科に入院。点滴で症状は快復した。四回目はいつだったかはっきり覚えていないが、自己判断で治療薬のキニーネを服用し軽症で済んだ。

 中でも、初めての時が何の病気か全くわからなかったので怖かった。89年8月、私は初めてのビルマ都市部の取材中だった。取材の狙いは、民主化デモが全国的に実施された88年の8月8日から一周年後の首都ラングーンにあった。この頃のビルマのビザ取得は、今では想像できないほど困難だった。団体パッケージツアーが普通で、日程は決まっている。ちょうど個人ツアー用のビザが出始めたばかりで、二週間以内のパッケージ・ツアーを、ビザの唯一の窓口であるバンコクの旅行会社に申請。入国後、ラングーンの観光省ツーリスト・ビルマで、滞在中の全日程を提出し、ホテル代、飛行機代、列車代を米ドルで支払うことが義務づけられていた。結局、二週間のビルマ観光旅行代(バンコクからの往復チケット代・ビザ代も含む)として、私は一〇〇〇ドル(日本円にして約一五万円)支払った

 発病したのはビルマ入りして九日目。私は外人観光客のおきまりのコースである、ラングーンーパガン遺跡ーマンダレーと回っていた。ホテルで朝起きると、身体が異常にだるく上半身に力が入らない。頭は重く、腰や足首も痛い。起きあがるのがやっとだ。顔が黄色に変色していた。薬を買うために這うように外出し、サイドカーで市場に行き、薬屋でマラリア用薬を買い求めた。期限切れの薬が大手を振って歩いているビルマで、どんな薬を飲んだのか覚えていないが、四種類の薬を服用した。翌朝は、Tシャツ、ベッドのシーツに毛布カバーがびしょびしょで塗れ雑巾を絞るほどだった。初めての経験に不安にかられた。

 思いついたのはマラリアだった。実は、ラングーンに入る直前、ビルマ国境のジャングルで、ビルマ学生キャンプに泊まり込んで取材をしていた。この時は三泊だけだ。7月末はまだ雨季の最中、マラリア対策でジャングル内の作られた小屋の簡易ベッドは蚊帳で覆われていた。夜行列車で8月8日にラングーンに戻った時にはフラフラ状態だった。注射を受け、数日間我慢し、市内の要所で銃剣を着けて市民を威圧する兵士たちの写真を少しだけ撮った。帰国前にバンゴクの総合病院の血液検査を受けた。すぐにPF型マラリアと判明し、治療薬の服用を開始したが、マンダレーで発病してから10日間、大量の寝汗は毎日で、ほぼ一日置きにだるささと熱っぽさがぶり返した。昼間は眠れても、夜は意識がもうろうとして眠れず、朝になると疲れ切ってしまう繰り返したった。10日間で7~8㌔痩せた。帰国したものの、体力が10歳ほど衰えてしまったと感じた。マラリアの発病は基礎体力を奪うことを学んだ。

 二回目と三回目の症状は共通していた。激しい下痢とはきけ、悪寒に激痛で頭がズキズキし、高熱と体中の間接の痛みが特徴の症状だった。エビのように身体を曲げ、歯を食いしばって痛みに耐えるしかない感じだ。

・二度目はKNU解放区の病院に入院
 二回目の発病で車でかつぎ込まれたKNUの病院は、患者が私を含めて10人入院していた。5人がマラリア患者で、内二人は一歳前後の赤ちゃんだった。地元の住民も全く発病せず「免疫」ができていると思われる人もいるし、発病し死亡する人もいる。ちなみに、タイのメーソットにあるメータオ・クリニックを取材中に、マラリアダンシングと呼ばれ、錯乱状態でものすごい形相で暴れる若者を見た。マラリア治療が手遅れで目の前で息を引き取った28歳の男性もいた。四種類あるマラリアによっては、手遅れとなれば死ぬケースも多々あるのだ。

 私がこの解放区にある病院で安心できたのは、看護士たちはよく訓練され慣れていたことだ。わずか1~2滴の血液で、約30分後には顕微鏡を覗きマラリア原虫の種類でどのタイプかを見極め、治療薬を投与するからだ。病院といっても備えられている機器は顕微鏡一台の病院だ。皮肉なことに、近代的高価な医療機器が設備されている日本の総合病院はかえって危ない。一例をあげると、10年ほど前、義勇兵としてKNUの部隊と行軍したことのある日本人の若者が、帰国後の大阪で手遅れとなって病死した。彼の友人だった別の義勇兵からマラリアの発病だったと聞いた。体力が落ちている時にマラリアは発病しやすいが、性別も年齢も選ばないので注意が必要だ。

 私の住む東京都内で、熱帯病で安心してかかれるのは都立駒込病院の感染症科だ。三回目の発病でお世話になった都立駒込病院には、様々な熱帯病を扱う感染症科があり、最も多くに症例を持つ病院だ。血液検査でマラリアと診断されれば即入院治療開始となる。治療には点滴が欠かせない。下痢とはきけが続き、食欲が出ないことと、固形食を受け付けないからだ。通常は3~4日の入院で退院となる。感染地帯に出かけない限り、再発を心配する必要はあまりない。

 最後に治療薬について。現地で購入できるマラリア治療薬は数種類ある。クロロキン、メフロキン、ドキシサイクリン、ファンシダー、キニーネ、そして最新の中国で開発されたアルテスネイト(ARTESNATE )もある。全て錠剤で、予防と治療のための服用の仕方が異なるので、お店の薬剤師に聞く必要がある。これらの治療薬はビルマ・タイ国境のタイ側の町ではほとんど市販されているので便利だ。ところが、日本国内では治検薬扱いだ。副作用があるので同意書にサインしないと治療薬が渡されないのだ。
 私はキニーネと中国製のアルテスネイト(一箱一二錠入り)を持ち歩くようにしている。どこで発病しても、症状を緩和することが最悪の事態の回避になるからだ。

(脚注: 誰でも準備できる対策:一:蚊よけローションか蚊よけスプレー(現地で購入する)、二:蚊帳、三:寝袋(顔だけ出していても蚊よけローションが有効)、四:雨季を避ける(乾季に蚊の発生はかなり減る)

 これでもあなたはカレン民族を知るために、現地に行きますか?

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2019年9月15日 (日)

雲水牧師・釈弘元師と富士山弘願寺(白頭山聖霊教会)25周年(宗補雑記帳からの復活ブログ)

2004年9月23日(木) 雲水牧師・釈弘元師と富士山弘願寺(白頭山聖霊教会)25周年

 12日(日)に富士山の麓にある富士山弘願寺(富士宮市)に行って来た。最近は白頭山聖霊教会とも呼ばれる。昨年末に、住職管長牧師の釈弘元師と清僧さんたちの托鉢を撮影していらいだから9カ月ぶりになる。4ー5年前から取材をはじめ、6-7回は通ったことになるだろうか。

 この日は創立25周年記念行事と新著「我が魂を三八度線に埋めよ」(同時代社刊)の出版記念が行われたが、今回は管長の釈弘元師のインタビューをすることが主な目的だった。来年中には、朝鮮半島の38度線に弘願寺が移転され、今回が最期の創立記念行事になる可能性もあったからだ。

 弘願寺はいわゆる既成教団に属する仏教寺院ではなく、キリスト教会でもない。おそらく世界に一つしかないユニークなものだ。第一本尊はお釈迦さま、イエス・キリスト、老子の3人、第二本尊は清僧さんとなっている。清僧さんとは、心の清らかな僧侶の意味で、実際は知的障害者の人たちだ。祭壇には三体の仏像があり、十字架が柱の梁にかかり、老子も祀られている。本堂などの敷地を取り巻く垣根には、韓国の国花である真っ白なムクゲ(無窮花)が満開だ。
 
「お釈迦さまだけでも、イエスさまだけでもちょっと寂しい。老子も大好きである。こんな宗教のデパートみたいののは聞いたこともないと言われたが、私の直感できめた」

 著書「韓日求道放浪60年」--両眼具備・本当の牧師になります--(2000年、燦葉出版社刊)でこう言っているのが、富士山弘願寺を創立した釈弘元師。82歳だ。希有の放浪人生を歩んできた癖の強いキャラクターだ。仏教僧侶であり牧師でもある。日本人以上に日本語が巧みで、日本語文字はきれいで、文章表現も秀でている。

 釈師のインタビューやフォトストーリーはいづれ雑誌に掲載できると思うので、ここではごく簡単に釈師のプロフィールを紹介しておこう。師の人生が放浪に継ぐ放浪の人生だということがよくわかる。

 1922年に日本統治下の朝鮮半島の白頭山の麓、今の北朝鮮(本人は共和国と表現する)で生まれた。父親は漢方医だった。中学時代に満州に出てから単身日本に渡り都内の中学校を卒業、東京大空襲を体験する。その後、満州でいろんな仕事につくが、日本の敗戦で一時帰郷する。思想的な対立が深まり、南北分断前に南に渡る。戦後はソウルの大学を卒業し、台湾に留学。東京大学大学院時代には、日本国内の新興宗教を研究した。帰国後に釜山で出家してから再々来日し、駒沢大学仏教学博士コースで学ぶ。1979年に知的障害者のために「精薄寺院弘願寺」を富士山の麓に創立する。89年には渡米し、69歳で牧師の資格をとり帰国。2003年に富士山弘願寺に戻り、住職に還る。

 釈師は、「私は流れる水だ。この80年間荒波にたくさんぶつかった。大海がやっと見えてきた」と話した。来年は38度線に教会を建て、富士山弘願寺・白頭山聖霊教会を移転する計画に取りかかると抱負を語った。清僧さんたちも一緒に移り住むという。

 釈弘元師を知れば知るほど、インドで活躍している佐々井秀嶺師の生き様が重なってみえる。

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ニュース23 マンデープラスに取り上げられた番組に対する感想(宗補雑記帳からの復活ブログ) 

2007年4月30日  マンデープラスに対する感想 
 
 23日(月)の筑紫さんの「NEWS23、マンデープラス」での放送に対し、友人知人からの感想ははおおむね好意的だった。何よりも構成が良かったという指摘と、生スタジオの「リンゴの老木」についてのコメントが良かったと評価してくれた声が多い。個人的にはスティール写真や写真集という媒体ではない、テレビ特有の力や表現方法を改めて実感することになった。せっかくだから自己宣伝も兼ね紹介させていただく。

・「拝見いたしました!休館日の翌日は、修学旅行予約のため開館していて番組をみたかたからの「写真展」の問い合わせの電話や、実際に美術館に「写真展」をご覧に来た方も2組ありました。短い時間でしたが、きちんとしっかりまとめられていた内容でとてもよかったです。山本さんもかっこよかったですよ!!個人的には、美術館入り口の看板から入ってくださったのに感激しました。」
これは番組冒頭で紹介された沖縄の佐喜眞美術館からのもの。写真展「また、あした」は昨年末で終了しているにも関わらず、館に足を運んでくれた視聴者がいることに頭が下がる。

・「お年寄りって可愛いものなんだなって実感しました。きっとそれは、出てきた方みんな、今もしっかり自分らしく生きている方たちナンだなあと思います。わたしもますますかわいくなるぞお!と思わせてくださいました。」

・「くつみがき・・ 元気ですよね~ 駅から歩いて出た時、くつみがきが仕事だと思わなかった。とっても上品な(と書くと靴磨きが上品じゃないみたいですけど・・)ご婦人っていう印象でした。仕事が品格を作るんじゃなく、どんな立派な仕事でも、偉いといわれても、その人そのものが品格を作るんですね。」

・「いやー、録画ミスってしまいました。どなたか撮っていませんか?観ようと思ってたんですけど、予約録画を安心してうたたねしてました。気がつくと番組終了の5分前のところでした。山本さん、ごめんよ---。」
 これは写真集の冒頭に「大往生の島」として紹介した沖家室島で民宿「鯛の里」を営む松本さんから。お父さんは70代後半のタイ釣りが得意の現役漁師で、瀬戸内の新鮮な魚貝類の刺身を食べきれないほど出してくれる宿です。先日の松本さんのメールでは、宿の前にある廃屋民家(おそらく戦前からの建物)がとつぜん崩壊したとのこと。回りは畑なのでケガ人はいなかったそうだ。実はその廃屋は、写真集カバーで93歳の柳原さんが押し車で畑に向かう写真の背景にある建物だ。

・「老いは行く道。誰も避けられない。そして死に向かっていく。その道筋に例外は無いからこそ、直視して考えなければいけないと改めて感じました。僕を含め、若者が特に考えるべき。感じるべきと。」

 時折一緒に雑誌の仕事をするライターの方は、熟練した物書きの洞察力で観てくれた。
「で、私は、山本さんの、相手との関係の結び方が、さまざまな高齢者の一つひとつの表情につながっていると思い、そこんところを書評に書こうとして、何度も破綻した。このことに間違いはないと、今でも思うんですけどね。ただ、それは一面であって、一方では、長く人生を生きてらした方々が、ある意味で神──この言い方に誤解があるとすれば、どんどん自然に近付いているということも大きい。
 いろんなことがあったけれど、生きてきた。こうして生きてきたから穏やかに「いろんなこと」を自分に同化できるというか。彼、彼女自身が山本さんを受け入れる広がりを持っているというか。それは多分今、戦火のなかにある若い人々に、「だから、生きていてほしい」という思いにつながっていくというかね。
 つまり、撮影する山本さんの一方的な作品、ないしは、一方的に関わって相手が答える関係性ではなく、双方がシンクロして生まれる作品にほかならないのだということ。」

・「スゲーなあ 感心しましたョ! ただ前の山本カメラマンは世界を歩いて、 人間の真向かいに立ちカメラのシャッターをきってましたネ(その度胸と根性と迫力には感動していましたヨ~隠れフアンでしたよ)。でも 今回の老人足の裏を撮っている姿には少しショックでしたヨ。カメラマンから芸術家になってしまったように見えました~ 。あの姿で 今 を食って行かれるのだろうか? まあ 加齢美なのかなあ。昔を知っているだけに少し淋しいなあ ~」

寄せられた感想をすべて紹介できないが、心のこもった感想はありがたい。また、番組をたくさんの友人知人が観てくれたことと、番組で伝えたいメッセージをそれぞれの見方で感じてくれたことも嬉しい限りです。もっと説得力のある写真を撮らなければという気持にもさせてくれる。

 一枚の写真には、撮り手の意志が反映され、一本の番組にも制作者の意図が反映されている。ちなみに番組を制作したのはまだ30代半ばの浅井寿樹さん。元々はスティールカメラマンだが、最近はビデオジャーナリストとして活躍している。臓器移植の問題で、心臓移植直後の患者さんの力強く脈打つ心臓を、胸の穴ごしにアップで映し出し、観る方の心臓が止まるようなドキッとする番組を作っている。浅井さんの企画がなければ番組とならなかった。心から感謝したい。

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マッカーサー回想記を読んでみた(宗補雑記帳からの復活ブログ)

2007年4月17日   マッカーサー回想記を読んでみた

 敗戦後の日本の方向性を良くも悪くも形づくったのが、連合軍総司令官マッカーサー元帥なのだという印象を強く受けた。読んだのは「マッカーサー回想記」(1964年朝日新聞社発行)を抜粋した「マッカーサー大戦回顧録 上・下」(2003年中公文庫)だ。満州に関する本を物色していて、石原莞爾著の「最終戦争論」(中公文庫)を見つけ、近くにあったので買ったものだった。

 マッカーサーとフィリピン、中でもコレヒドール島は切り離せない。これは拙著などですでに書いたことだが、我が母親の最初の結婚相手が再召集され、戦死したのは敗戦の年のコレヒドール島攻防戦だった。そんなこともあり、フィリピンを長年取材してきたのにも関わらず、まだ読んでいなかった本だった。

 マッカーサー司令官は、真珠湾攻撃とほぼ同時にフィリピンに攻め入った日本軍にフィリピンから追い出され、体制を立て直してフィリピンを解放することを自分の責任と任じ、日本本土攻撃までの最大目標として米軍(陸軍)を指揮した。1942年3月、日本軍の攻撃で追い詰められていたマニラ湾入り口の要塞であるコレヒドール島を、マッカーサー司令官は小さな高速魚雷艇で脱出した。ミンダナオ島北部のカガヤン港に到着後、飛行機で一旦オーストラリアへ脱出。その後、オーストラリア軍の協力も得て体制を整え、ニューギニア西部、ラバウル(ニューブリテン島)まで南下した日本軍に対する反撃を開始した。マッカーサー司令官はこのとき、60歳をこえていた。

 1942年7月のニューギニア東部での地上戦を皮切りに、フィリピンに向かって北上する「かえる飛び作戦」をとり、強大な日本軍に対する正面攻撃を避け、分断し挾間撃ちにしたり、制空権と制海権を奪ってから、物資や兵員の補給路を断ち、日本軍を孤立させる戦術を取ることで、米軍側の損害を最小限に留めようとしたことを強調している。例えば、ラバウルやニューギニアの日本軍の脅威に対し、物資も兵員も食料の補給も断たれた状態に持ち込み、日本軍にトドメは刺さず、戦略的に重要でない日本軍の拠点は素通りし、44年10月までにフィリピンに到達している。

 マッカーサーの陸軍部隊が南西太平洋を北上する一方で、中部太平洋上を日本に向かってまっすぐに縦断したのが、ニミッツ提督が指揮する米海軍だ。マリアナ諸島のグアム、サイパン、テニアン、そして硫黄島と沖縄を攻略したのはニミッツ指揮下の米軍だ。これらの島々が他よりも本土防衛に重要な戦略拠点だったためか、日本軍の徹底抗戦もあり、玉砕と自決のイメージがどこよりもつきまとう。

 「硫黄島も沖縄もけっきょく陥落したが、そのために払った犠牲は膨大なものだった。推定死傷者数は、沖縄では7万5千人以上、硫黄島でも2万2千人近くに達している。沖縄では、大部分が特攻隊から成る日本空軍の攻撃で、米側は、艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失8百機の損害を出した。これらの数字は、南西太平洋部隊がメルボルンから東京までの間に出した米側の損害の総計を越えるものである。この戦いで第10軍司令官バックナー将軍は戦死し、スチルウェル将軍が後任司令官となった。」

 マッカーサーはこのように回想し、要はニミッツ提督の戦法は米兵に必要以上の犠牲者を生み出したことを指摘したいことが読み取れる。この回想記は、84歳で亡くなったマッカーサー元帥が、大戦終了後15年が経過し、80歳を過ぎて執筆したものだ。全てを自分に都合良く解釈しているような我田引水、自画自賛の印象を受ける。とはいえ、読後の印象は、戦後日本の廃墟からの再建は、政治家的豪腕を発揮したマッカーサー元帥が、時にはアメリカ政府とは異なる連合国の要求を排除して占領政策を強引に押し進めた結果だと実感できる。彼は、戦争犯罪者に昭和天皇を含めるべきとの英とソ連の要求を押しとどめ、ソ連軍の進駐を断固拒否したと記している。

 マッカーサーは占領下の改革の原則の上げている。1:婦人の参政権、2:労働者の組合組織化、3:学校教育の自由化、4:思想、言論、宗教の自由、5:経済機構の民主化などだ。

 自由な教育を奨励する上で、マッカーサーは文部大臣に次のような指示を出している。
「学生、生徒、教職者、教育関係官吏が政治的、公民的、宗教的自由にかかわる問題を何の拘束も受けずに討論することを奨励する」
彼は極東国際軍事裁判(東京裁判)についてはこう書いている。
「戦犯は裁判の結果、妥当な刑罰を受けた。A級戦犯は28人だけで、これは政府その他の地位にあって実際に日本を開戦に導いた責任を負う人々であった。」「この軍事裁判ほどその誠実さを信頼するものは他にないと信じる。」「すべての善意の人が人類の最も残酷な苦しみであり最大の罪である戦争がいかに徹底して無益であるかを知り、やがてはすべての国が戦争を放棄することを祈る」

 戦後62年、安倍首相は、占領軍下で作られた憲法改正を含む、「戦後レジーム」の見直しが何よりも優先する。
「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組みの多くが、21世紀の時代の大きな変化についていけなくなっていることは、もはや明らかです。(中略)今こそ、これらの戦後レジームを、原点にさかのぼって大胆に見直し、新たな船出をすべきときが来ています」と安倍首相は、得意気に言う

 しかし、私には不思議に思えるのが物事の順番だ。「戦後レジーム」は、あくまでも日本の侵略戦争の結末だ。大東亜共栄圏というウソ八百の侵略思想で、昭和天皇を大元帥とする軍国主義指導者が突き進んだ結果が呼び込んだものだ。安倍首相が変えようとする「戦後レジーム」を生み落とした張本人は、じつは戦前の天皇制軍国主義の日本社会そのものだといえる。そうした歴史的事実の因果関係を都合良く忘れ、戦前の歴史的過ちを素直に反省し、謝罪し、謙虚になる姿勢がないまま戦後の体制を見直すのだという。

 安倍首相が見直して、復活したい価値観の具体例のヒントがこの本の下巻にある解説にあった。ノンフィクション作家の工藤美代子氏によって2003年に書かれたものだ。以下に一部を引用する。

「問題なのは、平成の世になってもまだマッカーサーの創作した日本は、その残影を引きずったまま、時間が推移しているところである。簡単にいうと、マッカーサーは戦後の日本に民主主義という巨大な卵を生みつけて去っていった。卵は孵化し、無気味な変容をとげた。政治、経済、教育、文化、あらゆるジャンルで、マッカーサーの刻印が押された怪獣が動きまわっている。(中略)ポスト・マッカーサーの日本を私たちが自分たちの手で作り上げる時が、もう到来しているのではないだろうか」
 ネットで検索すると、工藤氏は今年の2月11日に日本会議大阪・府民の集いという集会で記念講演し、以下のように紹介されている。
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国歌斉唱などの式典の後、ノンフィクション作家の工藤美代子氏(56)を迎え「皇室と日本の伝統」をテーマに記念講演を行った。工藤氏は現在興味深く調査し、国民思いであったとされる大正天皇の正室、貞明皇后のエピソードを中心に語り「皇室は日本が世界に誇れる文明。日本の精神的支えとなるこの文化を今後も守るべき」と語気を強めた。
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2019年9月13日 (金)

空爆を考える基礎知識(宗補雑記帳からの復活ブログ)

2009年1月31日 空爆を考える基礎知識

 この時期、火事で焼け跡から家族4人の遺体が発見されたというニュースで胸が締めつけられることが多い。昨夜は強風が吹き荒れ、近くで火事でも起きたら誰しも延焼が心配で気が気でないだろう。かつて東京大空襲により推定10万人が一晩で焼け死んだ夜も、風速10mをこえる北風が吹き荒れる日だったようだ。

 先日、江東区にある東京大空襲・戦災資料センターに初めて出かけた。公共施設だろうと思いこんでいたのだが、民間の施設だと知って驚いた。受付で300円の入場料を払うと、一人の若者が丁寧にガイドしてくれた。いろいろ話しているうちに、まだ20代としか思えない若者がアジア・太平洋戦争全般についても、やたらと詳しいことに驚いた。ガイドというよりも、博物館のキュレーターのような役割だ。

 私は写真を仕事にしているためか、ビジュアルに情報が入ることで物事の深刻さをようやく理解する傾向がある。資料館は広いスペースとはいえないが、地図、写真、遺品、生存者による絵画、米軍が投下した焼夷弾の実物などが効果的に展示されていて、ビジュアル的に大いに刺激され、東京大空襲の際だった残酷さと、想像を絶する規模の大量殺戮に考え込まざるをえなかった。

 孤高の前衛書家である井上有一が東京大空襲を奇跡的に生き延びたことについては、以前に雑記帳で触れたが、彼が書いた畳一枚くらいの大きさの作品コピーも展示してあった。「噫(ああ)横川国民学校」と題した書で、1945年3月10日の「江東一帯焦熱地獄」を書きなぐった内容だ。井上有一の書が東京大空襲をビジュアルに伝えるものとして堂々と展示されていることに親近感を覚え、展示の方向性に共感した。公立ではないことによる視点の確かさ、人間味なのかもしれない。

 数多くの遺品を収めたガラスケースの中に、一際目に飛び込んできたのが、巻物状の死者リストだった。縁の一部がネズミに食われたようにボロボロになっているが、冒頭には「南無阿弥陀仏」と書かれ、死者一人一人の名前を墨で丁寧に書き出してある。一つの苗字で4人5人と名が連ねられてあることが状況の深刻さを想像させた。

 ガイドの若者と戦争や空爆についての論議をしているうちに閉館時間が迫り、展示を充分見ないままいくつかの資料を購入した。戦災資料センター発行の資料や館長を務める作家の早乙女勝元氏が編著した「写真版 東京大空襲の記録」と「東京大空襲 訴状」(東京大空襲訴訟原告団・東京大空襲訴訟弁護団発行)などを買い、受付の方から東京大空襲の遺族で両親を含む家族4人を失い、自らは助かったものの米軍機の機銃掃射により右腕をもぎ取られた豊村恵玉さん著の「みたびのいのち 戦禍とともに六十年」(文芸社)を無料でいただいた。

ここで東京大空襲についての基礎知識を、早乙女さんの著書や戦災資料センターが発行した資料から簡単に整理し記憶しておきたい。今日まで持ち越されている日本の姿がよく見えてくるからでもある。

 1944年8月までにマリアナ諸島の日本軍を全滅させた米軍は、サイパン、グアム、テニアンの3島を日本本土の空襲の出撃基地として整備し、準備を整えた。航続距離5000㌔、6~7㌧の爆弾を搭載できるB29の大編隊で本格的な空襲を開始したのは11月24日からだ。当初の攻撃目標は武蔵野にあった中島飛行機工場などの軍需工場が主で、日中に上空1万㍍の高度からの爆弾や焼夷弾の投下した。11月中に3回、12月中に12回、1月中には8回空襲している。

 しかし、3月10日の東京大空襲は異なった。風速10mをこえる北風が吹いていた。防空体制が機能しない夜間を狙いすましたように、高度3000㍍以下の超低空で進入した325機のB29は、皇居の東側の下町で人口超過密地帯をターゲットにし、焼夷弾の雨を降らせた。零時8分に始まった、2時間半の空襲により、現在の墨田区と江東区、それに台東区と荒川区の大半を焼き尽くした。約26万7千戸が焼失し、罹災者数は100万名をこえ、推定10万名が焼死した。

 広島の原爆に匹敵するほどの被害をキーワードで拾うとこうなる。大火流、火災旋風、とてつもなく大きな火のるつぼ、白熱地獄、死体の炭化などだ。夥しい数の黒こげとなった死体が累々と横たわる写真が残されている。空襲後に引き上げるB29の乗員が約240㌔離れた上空から真紅の光芒を見ることができたそうだ。

 米軍による無差別の空襲は8月15日の敗戦の日まで執拗に繰り返され、東京に空襲があった日を合わせると99日。死者総数は116911名(東京新聞1994年8月の調査による)を数える。

 日本全国での空襲による死者合計は、広島と長崎の原爆死者数33万4千名を含めると、約56万名となる。これは東京大空襲規模の空襲が5回繰り返されるまで、天皇をトップとする大本営の戦争指導者が戦争が徒に引き延ばした狂気を表す数字だ。

 室蘭436名、青森906名、仙台1066名、日立1578名、前橋538名、千葉945名、横浜8000名、長岡1460名、福井1584名、甲府1127名、静岡2010名、浜松3239名、名古屋7858名、豊川2477名、津4000名、大阪12000名、神戸8414名、明石1464名、和歌山1212名、岡山1737名、呉2071名、徳山982名、岩国917名、徳島1700名、高松1359名、高知487名、福岡2000名、八幡2251名、大牟田1291名、佐世保1030名、熊本599名、鹿児島3329名、那覇548名。

 これらは東京と広島・長崎を除く、主要都市の米軍空襲による死者数である。米軍による戦争犯罪を問うだけでなく、何故これほどまでに空襲が続いたのか、米軍が日本本土を自由自在に空爆できた戦況に、原爆投下まで敗戦を決断しなかったのは何故なのかを疑問に思わない人はいないだろう。

 政府は国民の命を見殺しにしただけではなく、戦後、東京大空襲の被害と犠牲者の正式調査もせず、公式慰霊碑を建立せず、被爆者とは異なって民間空襲戦災者は援護対象外としてきた。「みたびのいのち」を書いた豊村さんは、「落下爆弾が違うだけで、犠牲の尊さが違うのですか」と政府の姿勢を問いただしている。3月24日の名古屋大空襲により左目を失い、左手に後遺症を負った名古屋の杉山千佐子さんは、37年前から「戦災障害者援護法」の制定を国に訴えかけてきたが、実現していない。

 東京大空襲をはじめ、日本本土の焦土作戦を立案・指揮したのはカーチス・E・ルメイ将軍ということはよく知られている。しかし、ここに日本政府と日本人のあり方を問うポイントがある。1964年の12月、東京オリンピック終了後の時期に、天皇と日本政府(佐藤栄作首相)は、ルメイ将軍に勲一等旭日大綬賞を授与したのだ。「航空自衛隊の育成に貢献した」からだという。この勲章受賞者は、主に湯川秀樹、朝永 振一郎、小柴昌俊などのノーベル賞受賞者や、本田宗一郎、豊田 章一郎などの面々が受けている
 
 


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3月は「旅立ち」の月なのか?(宗補雑記帳からの復活ブログ)

3月22日  3月は「旅立ち」の月なのか?

 楽風での写真展が無事終了し、少し気が抜けた。天候不順のためか、前半はまばらだったが、ラストの三日間はポカポカ陽気に誘われ駆け込み的にたくさんの人が観に来てくれた。さいたま市浦和という決してアクセスが良いところとはいえない会場にわざわざ駆けつけてくれたみなさんには心から感謝したい。

 二週間の写真展はけっこう疲れる。終わった翌日は蓄積された疲労のためかへとへとだ。四捨五入すれば60歳。単純に体力が落ちただけかもしれないが、長期の写真展はやはり疲れるものなのだ。用意周到に準備しても何か忘れていたり、展示が完了しても何かが抜けていたりする。遠路来てくれる人には申し訳ないと思うと、できる限り詰めていることになる。

 全紙全倍合わせて65点を展示した。図面上の計算では50点の展示で窮屈かと想定していたが、楽風の空間は広く、展示のしがいがあることを改めて実感した。一階の喫茶スペースから二階のギャラリースペースに上がる階段と廊下も、照明は暗いがオシャレな展示空間に活用できた。

 それにしても畳敷き土壁の壁面はお年寄りのモノクロ写真にピッタリだ。理想的には写真展も楽風のような有機的なスペースでいつも開催できると良いのだが。築100年をこえてもまだまだ現役の建物が、写真のお年寄りを生き生きと蘇らせてくれているような気がする

 3月は「旅立ち」の月なのかと思う。なぜか身近で旅立つ人がこの月に集中する。今日は、19日に80歳で急逝したある大作家の葬儀に行って来た。家族と内輪だけの小人数が集まる、火葬場だけでのお別れ会だった。「無宗教」とのことで、僧侶も読経も戒名も何もない、実にさっぱりした葬儀だった。ご本人の性格や逝き方の反映ではないかと思った。新聞のお悔やみ欄に出れば、驚かれる人も多いに違いないが、ご遺族の意向でまだ公表されていない。いづれ明らかになるが、今日のところは名前を伏せておきたい。

 実に気さくな方だった。愛煙家でほんとうにスパスパと吸っていた。中毒になっているのではと思ったほどだ。初めてお会いした時の印象がそうだった。先生の著書を読んでインドのことを教えてほしいと思って手紙を書き、会っていただいた。武蔵小金井駅に近い先生が行きつけの居酒屋で、サイン入りの貴重な本も二冊もらったと思う。すでに絶版になっている本で、その後は出版社の担当編集者の熱意で新書版で刊行され手に入りやすくなったが。早くもあれから5年が過ぎたと思うと、たった一冊の本との出会いの妙縁というか因縁に不思議な巡り会わせを感じる。

 先生とはとりわけ親しくさせていただいたというわけではない。ただ、先生に頼まれた雑誌やビタミン剤をインドで購入してお渡ししたり、先生の行きつけのレストランで、先生をよく知る友人知人を交えて何度かごちそうしていただいた。2年前にはインドでも先生とある大人物が対談される場に同席し、写真を撮らせてもらったこともある。大病されて危ない時もあり、その時は三鷹の大学病院にお見舞いにいった。最近では、1月末にインド関係者と出版社の担当者だけとご自宅に近い喫茶店で楽しく雑談したのが最後となった。葉巻が似合う人だった。

 火葬前の棺には、先生の代表的な著書二冊と真っ新な原稿用紙が収められ、先生の肉体と共に旅立った。

 コンビを組んで「老いの風景」を取材した親友のジャーナリスト、須田治さんが急逝したのは6年前の3月19日だった。7年前には実兄が病死し、5年前には義父が亡くなった。二人とも3月だった。季節の大きな変わり目は向こうの世界からの吸引力が強いのかもしれない。

 明日からはビルマ・タイ国境の取材に出かける。正味8日間の取材行だ。 

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負け犬、法律無視の暴言(宗補雑記帳からの復活ブログ)

2010年3月31日 負け犬、法律無視の暴言

 

 先日の松江で不思議な体験をした。大阪大空襲により大火傷を負った二人の取材をしてから1週間後だった。大阪での取材中は、手塚治虫や小田実の反戦の原点は大阪大空襲だったことを思い出していた。

 

 松江で中支に派遣され、シベリア抑留、撫順戦犯管理所を経て帰還した難波靖直さんのインタビューを終え、一休みしようと松江駅近くのデパート内にある外資系のコーヒーショップに入った。常々ボイコットしている外資系の店だったら入らないが、そうではないチェーン店だった。コーヒーを注文して待つ間、10数冊の本や新聞が置かれた小さな本棚があるのに気づき、何となしに見ていると手塚治虫ものがあった。「いのちとこころの教科書」(イーストプレス)という本で、手塚マンガを編集した学校の参考書的な本だった。かつては大のマンガ好きで、手塚治虫はマンガ家の枠をこえたものすごい作家だと思っている。大長編の「火の鳥」はCOMというマニア向けのマンガ雑誌で読んでいた。「ブラック・ジャック」「ブッダ」「アドルフに告ぐ」も好きだ。

 

 驚いたのは、この本に手塚自身の大阪大空襲の体験を元にした「紙の砦」というマンガが掲載されていたことだった。コーヒーを飲むのも忘れて読んだ。取材した二人の空襲体験が手塚マンガによって映像化されたようだった。手塚の大阪大空襲体験がどんなマンガだったか確認したいと思っていたところに、この偶然の出会いは不思議としかいいようがなかった。一度は見たことのあるマンガだが、タイトルは覚えていなかった。妙縁としかいいようがなかった。

 

 昨日はBS11デジタル放送番組用の収録があった。放送予定は4月14日(水)夜10時42分から8分間。「INSIDE ASIA」という番組で、佐々井師の日本行脚写真集と活動を紹介する。写真は20数点紹介してくれるが、キャスター役の野中章弘氏との掛け合い8分なので、要点のみの説明だけで終わった。

 さて、ここからがいちばん言いたいことで、国松警察庁長官狙撃事件が時効になったことと、警視庁の青木五郎公安部長による、事件は「オウム真理教のテロ」であると断定する捜査結果を公表したというびっくり仰天ニュースについてだ。時効ということは、「犯人を捕まえることができなかった」という冷厳な事実以外の何ものでもない。容疑者として特定されても、実行犯、共犯者と断定できる証拠がなかったから事件が時効になった。それだけのことだろう。それを、「犯人は捕まえられませんでしたが、犯行グループはオウム真理教と断定します」と発表しているのが警視庁だ。捜査結果の概要でも「疑わしい」しているだけで断定できていない。にも関わらず矛盾した発表が恥ずかしげもなくされていいのだろうか。負け惜しみというよりも、法律を無視した「負け犬の遠吠え」。警視庁だけは法治国家の裁判制度を無視することが許されていると暴言を吐いているようなもの。オウム真理教、とりわけ「教祖」と個人崇拝されながら、欲望の固まりとしか思えない松本智津夫が大嫌いなので、オウム真理教を守ろうとしているつもりはない。

 

 今回の前例が今後まかり通れば、警視庁や公安警察が、気に入らない個人や組織、政治家や政党であっても、証拠もなく「犯人」と名指し、マイナスイメージをかぶせて社会から抹殺することが許されることになりかねない恐ろしさがある。戦時中の軍国主義下の特高警察に近づいているのか。いまの時代でいえば、軍政下ビルマの秘密警察と似たようなものになりつつあるということかもしれない。

 

 この15年間、のべ48万人が捜査に投入されたという。威信をかけた捜査がほんとうに行われてきたのだろうか。個人的な体験になるが、昨年11月、私自身が警視庁特別捜査本部の警部補から、国松長官狙撃事件の共犯者に関係する情報を教えてくれないかと、唐突に携帯に電話があった。私がビルマ少数民族のカレン民族解放闘争に詳しいからというのが理由だった。時期的には、時効まで6ヶ月を切ったという新聞報道が各紙に掲載されて少し後になるころだ。

 

 後日、捜査員2名と四谷のファミレスで合って1時間ばかり話した。年配の警部補と若い巡査部長だった。時効間際になって、なぜ何の情報を知ろうとしているのか尋ねると、狙撃犯には小柄で年配の共犯者がいたという有力な情報があったので、共犯者の手がかりを集めているという。共犯者とおぼしき人物が、ビルマ山中で反政府ゲリラであるカレン民族解放戦線の「傭兵」として戦った経験があり、狙撃の腕が高いと見られているという。

 

 捜査員の話しぶりで、彼らがインターネット検索で収集できる情報さえも認識していないと思われたので、カレン民族解放闘争とビルマ軍政に関して30分ほどレクチャーさせてもらった。傭兵とは金で雇われた兵隊のことだが、カレン民族が外国人兵士を雇えるほど財政的な余裕がないため、「義勇兵は存在したが傭兵はいなかった」ことや、ビルマ山中の行軍の困難さを解説した。カレン民族に関わる日本人は取材者であれ、義勇兵であれ、インターネット検索でほとんど特定できるはずだが、二人は最低限の情報すら知らなかった印象を受けた。14年前に出版した拙著「ビルマの大いなる幻影」さえも読んでいなかった。

 

 はっきりいって、不勉強であり本気で情報を集めているのかが疑問に思えた。本気ならば、タイ・ビルマ国境の現地へ飛んで情報収集することが最善だ。誰に会ったら良いですかと尋ねられれば、紹介しても何の問題もなかった。捜査員にはその気もないようだった。警部補が最後に取り出したのが似顔絵だった。「この人物に会ったことはありませんか」。義勇兵たちとほとんどつき合いのない私には知らない顔だった。捜査員と別れたとき、懸命に捜査をしているというアリバイ作りに動いているだけなのかもしれないというのが私の実感だった。ファミレスに二人の捜査員を残して先に退出したが、おそらく彼らはコップなどから私の指紋を取っただろう。

 

 後日、全国紙の記者経験のある友人にこの話をすると、「山本さんは容疑者の一人なんだよ」とからかわれた。 

 

 

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2019年9月12日 (木)

憲法の誕生と回顧録(宗補雑記帳から復活ブログ)

2007年5月1日  憲法の誕生と回顧録

 4月29日は昭和天皇を美化する政治家や官僚、取り巻きが、こっそりと「昭和の日」と休日名を差し替え、昭和天皇の名で言い尽くせない犠牲を強いられた国民を侮辱した日。

 昨日の新聞には、「『昭和の日』をお祝いする実行委員会」(会長は石原慎太郎都知事)が、八王子で式典を開き、天皇・皇后両陛下バンザイを三唱したとあった。外遊中の安倍首相からは祝辞が寄せられたそうだ。

 夜、NHKスペシャルで日本国憲法誕生の経緯を追ったドキュメンタリーをやっていた。
幣原首相の「戦争放棄」の提案や、連合軍代表で構成される極東委員会による注文の部分は、マッカーサー回顧録に書かれた内容と同じだった。当時の日本政府が「戦争放棄」をうたう一方で、天皇の地位と権威を最後まで残そうと占領軍と駆け引きしたことがよくわかるように編集されていた点がわかりやすかった。

 回顧録にもあるが、明治憲法の「天皇は神聖にして侵すべからず」の表現を変えただけで、天皇の地位安泰を当初から目論んでいる日本政府の、敗戦国としての身の程知らずで子供じみた考えの甘さが伝わった。

 番組では、オーストラリア政府による戦犯リストの6番目に「Hirohitoヒロヒト」の名がしっかりタイプされた書類が映し出されたが、当然だと思う一方で、リストの1番目にないことが不思議だった。この点は回顧録によると、ソ連とイギリス政府は昭和天皇を』A級戦犯のトップに上げたようだ。そうした要請を個人的に排除するかたちで、マッカーサーが昭和天皇を免責し、天皇制を維持する体制を守らせ、占領軍統治と戦後日本の改革に利用したことは明白だ。

 連合国には大元帥の昭和天皇も訴追し、謝罪しても謝罪しきれない責任を追究してほしかった。なぜならば、日本国民が昭和天皇や戦争指導者の戦争責任を自ら裁くことをしなかったのだから。「砕かれた神」を書き残した復員兵渡辺清の言うように、沖縄の平和活動家の阿波根昌鴻が「出家してほしかった」というように、天皇が自ら退位することを当たり前と思っていた国民の期待に反し、天皇は皇位に居座った。その結果、戦後何十年たっても、政治家による天皇の政治利用が続き、戦争を美化し玉砕があたかも美しい行為であるかのような表現を蔓延させている。

 番組が明らかにしたように、日本国憲法の誕生に、占領軍や極東委員会、日本政府や民間人がどれだけ関わっていたにせよ、日本による侵略戦争の結果が招いたのが敗戦後の体制だった。そこで生まれたのが天皇制軍国主義を否定した新憲法の制定だった。「戦後レジーム」を見直し、改憲しなければならないという強迫観念にかられている人たちに欠けているのは、戦前から戦中の体制を見つめ直し、過ちを認め素直に反省する態度だと思う。

 「戦争を知らない子どもたち」の世代のカメラマンとして何ができるのか。日本の何が戦後レジームを招いたのか。お年寄りの写真と戦争体験談で、戦争の記憶を若い世代に少しでもつなげたい。

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2019年9月10日 (火)

渡辺清著「砕かれた神」は、戦争を知らない世代の必読書(宗補雑記帳から復活ブログ)

2007年2月9日  渡辺清著「砕かれた神」は、戦争を知らない世代の必読書

渡辺清著「砕かれた神」(岩波現代文庫)を読み終えた。実に痛快で説得力抜群の内容だった。この本の存在をもっと早くから知っていればとも思った。これこそ、学校教育の副読本のひとつに指定したらいいと思う。

先月、新宿の書店で立ち読みしていたら、この本がオススメというようなことが何かに書いてあった。捜したら書店にはなかったので、早速アマゾンで中古本を取り寄せた。読み始めたら、これほどの説得力をもって昭和天皇の戦争責任と、人間が卑劣だということを実感させてくれる本に出会ったことはなかった。電車の中で密かに興奮しつつ、心の中では喝采を送りながら読み継いだ。以下に一部を引用したい。

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九月三十日

天皇がマッカーサーを訪問(九月二十七日)。昨日ラジオで聞いたが新聞にも五段ぶちぬきでそのときの写真が大きく出ている。
それにしても一体なんということだ。こんなことがあっていいのか。(中略)
こともあろうに天皇のほうから先方を訪ねているのだ。しかも訪ねた先方の相手は、おれたちがついせんだってまで命を的に戦っていた敵の総司令官である。「出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌までうたわれていた恨みのマッカーサーである。その男にこっちからわざわざ頭を下げていくなんて、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争に負けたからといって、いや、負けたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではないか。まったくこんな屈辱はない。人まえで皮膚をめくられたように恥ずかしい。自分がこのような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、いたたまれぬほど恥ずかしい。(中略)

陸海軍の大元帥として捨て身の決闘でも申し込みにいったというなら話はわかる。(中略)おれにとっての「天皇陛下」はこの日に死んだ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ。
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十月一日

おれのこれまでの天皇に対する限りなき信仰と敬愛の念は、あの一葉の写真によって完全にくつがえされてしまった。おれは天皇に騙されていたのだ。

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翌年一月二日

おれは天皇がこれほどまでに無責任な方だとは思わなかった。八月十五日以来、いつかは潔くその責任をとるだろうと思っていた。それをまたひそかに信じていた。どうしてそんなもっともらしいことが言えるのか。道義が衰退した根源はそもそも天皇自身にあうのではないか。

これは元旦の昭和天皇の詔書の新聞報道を読んでの憤りをつづったものだ。「詔書」で敗戦の混乱で道義がうすれてきたことを天皇が憂うという内容に対しての怒りだ。

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この本は戦後復員した当時19歳の著者の日記だ。昭和20(1945年)年9月2日から始まり、翌年4月20日までが収録されている。16歳で海軍に志願入隊した若者が、復員後に郷里の静岡県で農家の家族と暮らす生活と心情を率直につづられている。今でいえば高校生から大学生の4年間を、軍艦の戦闘員として戦い、奇跡的に生き残った帰還兵が61年前の日本の状況をどんな思いで生きようとしていたのか、戦争を知らない世代の私にも手に取るようにわかるところが有り難い。いま80代の戦争体験者から聞く記憶とは、違う意味の正確な感情が吐露されていると感じる。

著者の渡辺さんは、16歳で海軍に志願兵として入った少年兵だった。いわゆる学徒出陣のインテリ層に属する人ではない。入隊から約一年後から一水兵として米海軍との主立った海戦を戦い、最後はフィリピンのレイテ沖海戦の途上で乗艦していた戦艦武蔵が沈没(44年10月24日)し、仮死状態で漂流していたところを味方の船に助け出された。同年兵は全員戦死。乗員約2400人の半分近くが戦死し、救出後もフィリピン各地の戦闘で多くが帰還できなかったようだ。奇跡的に生還した著者の「死にはぐれたうしろめたさ」も日記にはにじみ出ている。ちなみに、戦艦武蔵は全長263メートルで、戦艦大和と同じクラスの巨艦だった。

渡辺さんの昭和天皇に対する怒りは、実は天皇のために死ぬことしか考えずに、志願兵の資格としてはぎりぎりの若さで入隊したところから来ている。日記をつけ始めてから1週間後の九月七日の日記にはこうある

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国のため、同胞のため、そして誰よりも天皇陛下のために死ぬこと、天皇陛下の「赤子」として一死もってその「皇恩」に報いること、それをまた兵士の「無上の名誉」だと信じ、引きしぼるようにその一点に自分のすべてを賭けていた。
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この日記は、そうした思いで海軍に志願した渡辺さんが、敗戦後の日常生活を取り戻す暮らしの中で、大元帥昭和天皇や東条英機大将などの戦争指導者が、戦争責任をあいまいにしている報道に接し、自分は騙されたという感情から、ひたすら天皇を信じ、聖戦を信じていた自分自身の誤りに気づいていく自然の流れが読みとれることにもある。小学生になり、「万世一系」「現人神」「忠君愛国」などを学校で繰り返し教え込まれ、鵜呑みにしていたところに隠れた落とし穴があったと自省している。報道機関の豹変ぶりも伝わってくる。

日記の最後となる四月二十日、渡辺さんは、天皇から受けたことになっている軍隊期間中の俸給と食費、支給された軍衣などの全ての金品リストを列記したうえで現金換算し、4282円の現金と天皇宛の手紙を同封し、宮内庁に送ったことを書いている。日記の結びのはこうある

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私はこれでアナタにはもうなんの借りもありません
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すごい本だ。渡辺さんは56歳で1981年に病死した。この本がはじめて刊行されたのは1977年で、岩波現代文庫版は2004年に刊行されている。戦争を知らない世代には必読書だと思う。とりわけ、現役政治家や官僚、これからなろうとする若者に。

 

 

 
 
 
 

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