日記・コラム・つぶやき

2018年5月13日 (日)

【記録】414国会前大行動 安倍政権は退陣を!

(写真はクリックすると拡大します)

 国会前が久しぶりに決壊した抗議行動は5万人大集会。
昨年9月に我が田舎に引っ越してから私にとっても久しぶりの国会前での撮影だった。
早くも一月が経過しようとしているが、多くの人にこの日の記録を記憶に刻んでいただくため、アップが遅くなりましたがご覧ください。

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動画:バリケード決壊前

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動画(バリケード決壊前):元シールズわかこさん


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動画:「お前が膿だ!」~「総辞職!総辞職!総辞職!」


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2動画:国会前中央元シールズ&未来の公共

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動画元シールズ奥田くん

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澤地久枝さんが呼びかけたキャンドルデモ(午後6時前~)


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参考までに3年前の国会前の大抗議行動を思い出してください。
2015年9月 1日 (火):「戦争法案廃案!」「安倍政権退陣!」のコールが渦巻いた、小雨の中の10万人超国会前抗議フォトルポ


2015年9月29日 (火):SASPL(サスプル)からSEALDs(シールズ)へ。反安倍政権の協力な磁石!


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2018年5月 9日 (水)

8年目に入った原発事故後の福島~信毎掲載記事

(写真はクリックすると拡大します)

長野県の信濃毎日新聞紙上で上下連載(2018年4月19日、24日)された記事ですが、信毎購読者でない方が読めるようにJPEG画像にしました。クリックすると拡大し読むことができます。

 これまでのブログ記事も合わせて読んでみてください。


「被ばく牛を農地保全に活用する法人代表」
「牛は宝  殺処分は無意味」  
谷咲月さんの大熊町での活動を紹介しました。
Jpgweb2018年4月19日掲載


「被災地支援に通う原発難民の63歳」
「賠償の格差知らず猛省」
富岡町の自宅に帰還することを諦め、川内村住民の支援を始めた木田節子さんを紹介しました。
Jpgweb_22018年4月24日掲載


◯参考用:原発事故から7年目に入った取材を4回連載で掲載した昨年の信毎記事は以下で読めます。
2017年4月 9日 (日)「7年目の福島~復興遠い原発事故被災地~」(信濃毎日新聞連載)

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2018年1月 3日 (水)

避難解除しても人影は?3月になればまる7年が経過するが・・・

(写真はクリックすると拡大します)

 _yyy7355jpgsumijpgweb避難指示が解除された浪江町の水田地帯に姿を現した壁。除染土を積み上げたフレコンバッグの仮置き場だが、中間貯蔵施設の役割をしばらくは果たすことになるのだろう

原発再稼働に積極的に賛成する人も消極的に賛成する人も、政府=経産省の原発再稼働路線に協力する政治家も官僚も、電力の問題に鈍感な人も、新たな年の初めに以下の写真群をどうか見てほしい。(写真撮影はすべて2017年12月)

_yyy6560jpgsumijpgweb大熊町の帰還困難区域にある民家の子ども部屋に残されたCD。この民家で家族が集う正月を迎えることは二度とないだろう。

原発事故は本当に収束し、廃炉作業が始まったといえるのだろうか?
避難指示が解除され住民の本来の日常生活が再開されているのだろうか?
3月が来れば原発事故で10数万人の福島県民が我が家を追われてからまる7年が経過する。
にも関わらず、まるで国土の一部を喪失したかのような事態がこの日本で継続していることをことを納得できるようにどう説明するのか。
地震や台風などの水害の被災地であれば、7年あれば人々は前を向き生活再建の道を着実に歩いているだろうが。


大熊町の熊町小学校(注:大熊町は町長の自宅のある一地域を除き帰還困難区域)
_yyy6672jpgsumijpgweb校門を入ると空間線量は平常値の100倍超小学校の熊町小学校。校舎の時計は地震の時刻のまま止まっている。


_yyy6661jpgsumijpgweb生徒たちが避難したままの教室。


_yyy6701jpgsumijpgwebサッカーのゴールポストを覆い隠す雑草が繁茂する校庭。

 

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・3月11日のままで時間が止まった大熊町の小学校の教室。
・園児たちの遊ぶ姿のない富岡町の保育園。
・フレコンバッグの積まれたピラミッド群に占領された浪江町や南相馬市の水田地帯。
・津波で全壊しそのまま残されている大熊町の住宅。
・地震に耐えながらも、度重なる泥棒などによって荒らされ放題の大熊町の民家。
・防潮堤はできても、雑草の生い茂る荒野と化したままの浪江町請戸。
・家屋の解体は進めど、住民の姿は見えない浪江町のかつての商店街などなど

安倍首相率いる自民党公明党政権が喧伝する「復興」はどこに隠れているのか。

_yyy7619jpgsumijpgweb富岡町の夜の森にある富岡保育園。


_yyy6772jpgsumijpgweb熊川近くの津波で全壊した住宅はいまも手付かずに残されたまま。
近くの水田には大破した乗用車が数台、撤去されずに草に覆われていた。

_yyy7664jpgsumijpgweb南相馬市小高区の除染土仮置き場。フェンスで囲われ、黒いフレコンバッグが見えないようにしてあるが。

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 ひとたび東電福島第一原発のような過酷事故が起きれば、貧富の差を問わず、私たちが失うものは何だろうか。


大熊町の帰還困難区域に自宅のある木幡ますみさんの一時帰宅
_yyy6464jpgsumijpgsweb原発の真西7キロの帰還困難区域に自宅のある木幡ますみさん。農業用倉庫と経営していた塾の間の軒下は手が付けられないほどに荒れてしまった。

_yyy6438jpgsumijpgweb原発事故年から毎年、定点観測のように撮影している場所での木幡さんの一時帰宅の写真。


_yyy6583jpgsumijpgweb原発事故が起きるまで、毎年、米を家族で手広く作っていた水田に目をやる木幡さん。農家が農業の再開ができ、収入の目途が立たなければ、仮に避難解除となっても帰還する意味があるのだろうか。


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_yyy6749jpgsumijpgweb大熊町熊川沿いのかつての水田地帯。中間貯蔵施設として整備されつつある。一時的に30年の間、ここに保管し、その後はどこか別の土地へ運び出すという腹積もりなのだろうか。それとも、住民があきらめて土地を恒久的に手放すことに同意するまで時間稼ぎをするつもりなのだろうか?

_yyy6851jpgsumijpgweb住民の同意を得たと思われる土地だけが、虫食いのように中間貯蔵施設の仮置き場に変貌しつつある。

大熊町復興拠点(渡辺町長の自宅のある大川原地区)
 ちなみに、大熊町が31億円といわれる税金を投入し、イチエフから約8キロ西で新規に町役場を建設しようとしている大川原地区復興拠点は着々と整備され、予定地の更地化が進行中。場所的には常磐高速の西側になる。
 予定地の一部は渡辺町長所有の不動産。大熊町町民の一割にも満たない住民が帰ってくるかどうかもわからないのが復興計画の前提になっているにもかかわらずだ。一年前のブログでも紹介したが、販売して収益を上げることが前提のイチゴ栽培も多額の予算がついて計画されている。

Jpgweb大川原地区復興拠点地区の土地利用計画図(大熊町役場ホームページより借用)

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◯大津波で多数の犠牲者を出した浪江町請戸地区
_yyy7231jpgsumijpgweb浪江町請戸。無数に偏在していた漁船は完全に撤去されたが、全壊した家屋がまだ数軒残されている。雑草が津波の痕跡を覆い隠そうとしている。
_yyy7224jpgsumijpgweb原発事故収束作業中のイチエフの排気塔が肉眼で見えるのが請戸港のある請戸海岸だ。ここで生計を立てられる漁業の再開が果たして可能なのだろうか?

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家屋解体の進む浪江町駅前商店街
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◯まとめ
 私たちが空気のように当たり前に思っている日々の生活、仕事、学校、祖先から代々受け継がれ守られてきた田畑も家々も伝統も文化も、原発事故による放射能汚染のために手の届かないところに行ってしまう。バラバラに分断された家族や集落共同体も取り返すことはできない。
 
 それが、国による強制的な避難が解除された福島県の浜通りの冷たい現実なのだということを、日本人の大半はまだ気づいていない。いや、そうした事実をうすうすは知っているが、現実として認識したくはないというのが本音ではないのか。


新年の蛇足
_yyy6644jpgsumijpgweb大熊町の帰還困難区域を走りまわる放射線量モニタリングカー。
「20キロで低速走行中」だそうです。

 地震、津波、火山噴火という天災が古代から連綿と続く日本列島。原発事故という人災が再び繰り返されれば、あなたの町でもこのような車が低速で走り回る事態が起きることだろう。日本人はもう少し賢い生き方を選択してきたのではなかったのか。

PS:参考までに、一年前のブログは以下をクリックしてご覧ください
「年越せば、まる6年となる福島県大熊町。富岡町の松村直登さんの近況も」

◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729


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2017年12月19日 (火)

郡山市の米農家、中村和夫さんの急逝を悼む

(写真はクリックすると拡大します)

Jpgweb(2011年9月の「第1回 さようなら原発」集会にて)

 反原発集会でのムシロの幟がシンボルだった米農家の中村和夫さん(68)が、今年4月下旬、脳溢血で突然旅立ってしまった。2014年に直接取材しはじめる前から偶然の積み重ねで、原発事故が起きた年から中村さんを何度か撮影し、その後に中村さんの本業の現場を度々取材した者として、中村さんの死を悼み、その人となりを知ってもらうためにもブログ記事として残しておきたい。

 中村さんの急逝を知るのが遅すぎたことを深く反省したい。


Jpgweb(同じく2011年「第1回さようなら原発」集会にて)

 以下に引用するのはWeb毎日スポニチTAP-iに掲載した記事です。3年前に書いた記事ですが、中村さんの人物像が浮かび上がると思うので再録しておきたい。
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風評被害に抗う米農家・中村和夫     写真・文 山本宗補

 日本中のメディアが東京五輪招致を歓迎する報道しかせず、福島県民の五輪反対の声は封殺されている。

 「首相があれほどウソこき恥こき言って誘致してる。言語道断だ。福島県人を愚弄している。人の命と五輪とどっちが大事だ。五輪はご破算だとIOCに直訴したい」

2jpgsumijpgweb(有機マ米用の田んぼの前で、オリンピック誘致に反対の意志表示、2014年5月)


4jpgweb(カリウム肥料を散布。2014年5月)


_aaa3625jpgjpgweb(後継者の息子さんと田植え、2015年5月)

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 福島第一原発から西に70キロ。郡山市逢瀬町の専業農家の中村和夫さん(66)は、歯に衣着せぬストレートさで政府とメディアを批判した。

「福島県人からすると、世の中この重大な事故を忘れているのではないか。1号機から3号機までのメルトダウンに手も足も出ない。除染しても根っ子を止めないと話にならない。不安だらけだ。再稼働なんてあったもんじゃない」

 中村さんが原発事故に対して抗議し始めたのは、事故年4月26日の東電本店前の抗議以来だという。同年9月、大江健三郎さんらが呼びかけた第一回の「さようなら原発」集会に参加した。その時は、畳大ほどのムシロに、「放射能汚染下での生活 もう我慢できね 原発のバカヤロー」と大書した。6万人の参加者の中で最も目立ったのが中村さんの幟だった。東電旧経営陣らを刑事告訴した福島原発告訴団の一員として、中村さんは告訴団の抗議行動に必ず参加し、叫び声を上げてきた。


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(東京地裁前の抗議行動に参加。2013年2月)


 逢瀬町は、東西10数㌔に及ぶ郡山盆地西端に位置し、奥羽山脈水系からの豊かな農業用水があり、緩やかな傾斜が広がる農村。「この辺は粘土質で米以外は向かない」と中村さんは言う。米は7ヘクタール、野菜作りも手広い。いつも甲斐甲斐しく働く奥さんの喜代さん(61)と、後継者となった長男直己さん(36)の3人の家族経営だ。農繁期は援農者もある。

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7jpgweb(直売所に出す野菜に値札をつける喜代さん、2014年7月)


_aaa2799jpgsumijpgweb出荷するインゲンの収穫に忙しい和夫さん。


 今年の米価は暴落した。しかし、中村さんは採算ギリギリの販売価格を変えることはしない。消費者と直に繋がっているのが強みだ。原発事故前から産直で米の全量を個人消費者や生協などに販売。農協を通さないのは、猫の目のようにくるくる変わる農政に対する憤りがある。国の減反政策に大冷害のあった1993年まで100%協力した。ところが、国は米不足対策で一時的に米を輸入したが、ミニマムアクセス米としてその後も輸入を続け、食糧管理法が廃止された。国は輸入米を買い続け、農民には生産調整を求めた。農協に協力してきた思いは裏切られ、信用できなくなったのだ。

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 農村と都市との交流を考え、逢瀬町と湖南町の農家11件で取り組む農家民宿を9年前に開始。農家3件で郡山環境保全農業研究会を立ち上げ、化学肥料や化学合成農薬を一切使用しない「JAS」認定を受けた有機米作りにも励む。野菜は20人の農家が共同出資した直売所「ポケットファームおおせ」で販売し、郡山市内のイトーヨーカ堂にも卸す。直売所にはとうもろこし、トマト、きゅーり、かぼちゃなど、多種多彩の野菜が並ぶ。

 放射能の影響は少なからずあった。事故後の水田の土壌調査では3000ベクレル/kgあった。セシウム流出防止剤のゼオライトの散布量は加減し、水田によっては深耕もした。事故年に8ベクレルあった米だが、昨年は1.5ベクレルに減少。セシウム吸収抑制剤としてカリウム肥料を散布。今年はさらに減った。検出限界値は20ベクレル/kgなので事故年からND(不検出)が続くが、風評被害は覆せない。首都圏から農家民宿の参加者はいなくなった。震災前からのつきあいのある都会での出張販売にも影を落とす。

_aaa4137jpgjpgweb玄米の全袋放射能検査のために運んできた中村さん、2015年10月)

12jpgweb(お茶の水のイベント会場で米や野菜の直売、2014年10月)

「風評被害は払拭できていない。県の全袋検査で安全が確認されても、直売所の米の販売は、事故後は半分以下となり今も低迷している。地元の人でも嫌っている」

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関西の大学生らが中村さんの話を聞きに訪ねてきた、2014年3月)
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 希望が見えるのは学生たちとの農業体験を通じた交流だ。原発事故前に始まった文京学院大(埼玉県ふじみ野市)の学生たちは逢瀬町に通っている。今年10月の大学祭に、中村さんが野菜をトラックで運び入れ、学生たちが販売協力した。

「親戚の家に行くような感じ。学生たちにとっては第二の故郷です」(何度となく中村さん宅に農業の手伝いで泊り込んだ卒業生の星野麗音(れおん)さん)。来年からは日本女子大の学生との交流も始まるという。

 中村さんの新米の袋には自筆の感謝のことばが添えられている。
「震災から3年余、今だに福島県の農産物を敬遠されている中、あえて私どものお米、野菜を食べていただき御礼と感謝申し上げます」
 
 そこには、都会の消費者に最も理解してほしいメッセージがある。

「単に安いか高いかの物指しばかりでなく、農家が農地を守ることによって生物を守り、自然環境を守っていることも考えてください」

(毎日スポニチTAP-i 連載第五回 2014年12月掲載)

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 ちなみに日本の農業を守り、食料安全保障の要ともなってきた「種子法」が安倍政権により来年3月で廃止されることに対し、和夫さんは「ダメだー、こりゃ!」と反対運動に参加する意思を見せていた。モンサントなどに代表される多国籍種子企業に日本農業が支配されるこ可能性が高まるからだ。良い種子の価格が不安定化し、農家の廃業に拍車がかかり、食料自給率が現在の37%から10%代にまで落ち込むことも懸念されている。

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 中村さんの米袋には、「中村さんちのお米」の文字とともに、大きな大きなオムスビを手に、いつも笑顔の和夫さんの似顔絵のイラストが印刷されている。

 中村さんが前兆もなく倒れたのは田植えを控える農繁期。種子法廃止反対の署名運動に動いたのは、突然の悲しみに向き合う余裕もなく農作業に追われた喜代さんだった。

 「お父さんがこれはやりたかっただろうということを、これからもやってあげられたらいいなあと思っている」

 その喜代さんによると、ある人が中村さんの突然の死に対し、「アクセルを踏みっぱなしで、ブレーキをかけ忘れたんじゃないか」とつぶやいたという。

 和夫さんの笑顔が印刷された米袋はこれからも使い続けていくと喜代さんは話した。中村和夫さんの急逝を悲しみ、中村和夫さんの実直な生き方が受け継がれ、花を咲かせ実を実らすことを念じて止みません。

                                           山本宗補  合掌

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2017年5月11日 (木)

熊本大震災から1年 生活再建、復興とは何かを考えよう

(写真はクリックすると拡大します)

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熊本大震災から1年後の被災地に、三度目の取材に入った。
壊滅的な被害を出した益城町中心部に添って流れる秋津川沿いは、例年よりも遅れた桜が満開の時期と重なった。一件の民家が解体中だった。壊れて住めなくなった家屋の解体と更地化の進行が、昨年7月の取材時からすると、すごいスピードで進んでいる印象を強く受けた。満開の桜を背景に解体される民家は、どこかシンボリックな光景だった。


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「仮住まい47725人」の大見出しが際立つ、熊本日日新聞4月14日朝刊紙面

一体、全国のどのくらいの市民が、これほどの深刻な事態を実感していただろうか?

このブログの読者には、原発事故後の福島県の浜通り、例えば浪江町で発災から5年~6年後にようやく始まり、軌道に乗った家屋の解体撤去、更地化の現在進行形の事実を想像しながら、熊本地震後の、家屋の解体更地化の進展を考えてほしい。
 
 このブログでは、最初の取材および昨年7月の取材時と、大地震から1年後の被災地の変化をわかり易く伝えるために、二枚の写真を合体させてみた。左側の写真が昨年の4月か7月に撮影したもので、右側が1年後の4月に撮影した写真です。壊滅的な被害を出した地区の更地化が顕著だが、被害がわかる写真がないと、現場に立つ機会のない人には、被害の規模さえも想像できないからだ

益城町
Photo益城町寺迫地区


Photo益城町惣領地区。


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益城町惣領地区


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益城町木山地区。死者が出た家の跡地に用意された献花台。


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更地化の進む木山地区。


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益城町木山地区。

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益城町木山地区


_n618909jpgsumijpgweb犠牲者の出た家の跡地に設けられた献花場所、

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益城町宮園、宮園公民館周辺

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壊滅的な被害を出した地区の更地化が顕著。
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様々な事情で解体の遅れている家屋も、もちろん、あちらこちらに点在する。

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西原村

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原木シイタケ専業農の家荒木一さん宅は、1月に解体され、更地になっていた(風当地区)
_n610573jpgsumijpgweb荒木さんについての琉球新報の記事(4月27日掲載)

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集落移転の話も検討された大切畑集落。


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風当地区に残る全壊家屋。


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Photo酪農家の大川充洋さん。今年二月半ばから、生乳の出荷を再開(星田地区)
_n610578jpgsumijpgweb大川さんについての記事(4月26日掲載)。


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「味の山一」料亭と仕出し屋を経営していた緒方登志一さんは、全壊した料亭を改造し、昨年10月から営業を再開した。(布田地区)

_yyy3472jpgsumijpgweb持ち込まれたマグロを解体する。

_n610576jpgsumijpgweb緒方さんについての琉球新報の記事(4月28日掲載)

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布田川断層マップには、大切畑ダムを縦断するような、新たな断層が見つかっている。(ピンク色の太い線が新たに見つかった断層。西原村の荒木さんの自宅の近くを布田川断層が走っている。

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布田地区の裏手は小高い山が連なっているが、大地震の前は小さな滝が流れていた場所が完全に崩落して、深いV字渓谷ができていた。その後の豪雨の度に崖が崩れ、谷間が広がりつつある。緒方さんはじめ、布田地区の住民は、地震よりも山崩れによる土石流の被害を現実視している。
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V字渓谷となった場所のわずか200~300ⅿ下流には、民家が立ち並び、地震により全壊し、更地となった空間も目立つ。この場所にあった民家が本震でつぶれ、年配の男性が圧迫死した

 隣に住み、地震後に隣人の救出にかけつけた森幹雄さん(60)は、解体され更地になった自宅跡で生活再建の厳しさを語った。「集団移転の話が出ている。目途が立たない。先が見えない。どうにもならない」
奥さんは自宅跡に住むのは怖くて嫌だと話しているという。
それでも、「東北の被災者や原発事故被災者よりも、ずうっとましだと思う」と話した。

南阿蘇村と阿蘇市
_yyy4318jpgsumijpgweb崩落した阿蘇大橋。

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東海大阿蘇キャンパス近くの倒壊し、学生の犠牲者の出たアパート。

_yyy4247jpgsumijpgweb1周忌の黙祷に音連れた学生たち。

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同じく、東海大阿蘇キャンパス近くの倒壊し、学生の犠牲者の出たアパート。


_yyy4331jpgsumijpgweb阿蘇キャンパスの入り口に建つ、全壊した建物と、崩落した土手。


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阿蘇市狩尾地区の大きな地割れはまだ手付かずだった。地割れは約2キロに及ぶため、広い水田地帯の耕作は、大規模は土地造成事業が必要なため、農業再開は来年まで延期されている


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断層と地割れが顕著な水田地帯。
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犠牲者を追悼する住民(4月14日、益城町木山地区)
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「被災者150人聞き取り調査 「元の場所戻りたい」8割」(熊本日日新聞4月16日掲載記事から)地元紙による被災者聞き取り調査が載っていたので、ポイントのみ書き出したい。


「地震前の居住地に戻りたいか」は63%(94人)。
「戻りたいけど戻れない」が19%(28人)

合わせて8割超が転居を希望しない。

「住まいの再建・確保」の「見通しが立たない」が50%(75人)
自宅の復旧や入居先の確保が被災後1年では困難。

現在の生活への不安や不満などが「ある」「どちらかといえばある」は57%(85人)。
その理由として48人が「住まい」

健康面では、35%の53人が「この1年間で体調不良があった」と回答。
3人に1人以上が今も不調を訴える。
24人が不眠や強いストレス、いらいらなど感じている。
10人が病気の発症・悪化。

就労に関しては「変化なし」が60%(90人)。
残る60人のうち農業や自営の計22人が「再開できない」「廃業した」などと回答

「行政への希望」では、復旧や家賃への補助関連が17人。
原則2年とされる仮設住宅の入居期間の延長を望む人が13人。

「将来への希望や不安」については、金銭面から住宅再建へ不安を感じる人が31%(47人)。
「地域が再生するのか心配」とする声が21人。

約2割の被災者が、元の居住地に戻りたくても戻れない、という点が、最大のポイントだと思う。

狭すぎる仮設住宅(西原村)
 夫婦二人で生活する二軒の被災者の仮設の広さ?を紹介する。

Dsc_5063jpgjpgweb
西原村の大きな仮設住宅の朝。


_yyy4090jpgsumijpgweb荒木さん夫妻の仮設住宅は1K。居間兼寝室が6畳マイナス押入れ分の1畳
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_yyy4553jpgsumijpgweb緒方さん夫妻の仮設も1K。荒木さんと同じ間取り
「誰もが狭い仮設は一日でも早く出たいが、家を建てる金はない」と緒方さん
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_yyy4229jpgsumijpgweb仮設住宅の夜。

原発事故後の福島県との比較のための参考に
_n619700jpgsumijpgweb地震で倒壊寸前のままに残された神社と鳥居。除染は完了し、今年3月31日に避難解除となった地域にある。(浪江町、2017年3月撮影)

_n611245jpgsumijpgweb地震には耐えたが、原発事故により帰還困難区域に指定され、手付かずにされたままの大熊町の住宅街。2017年3月撮影。

取材後記
 壊れて住めなくなった家屋の解体、更地化は、生活再建の第一歩。解体撤去、更地化のスピードは速いものの、大震災と表現するに値する熊本の地震の被害から、被災者と被災地が立ち直ることは、決して楽なことではないことは、写真などから現場に立たなくてもわかると思う。

 地震という天災と、原発事故という人災による、生活再建、復興への道のりの極端な違いを想像してみてください。まして、原発事故による放射能汚染が深刻な地域の住民にとっての、生活再建とは、復興とは何か?

 以下は熊本大震災取材の記事です。参考にしてください。
熊本の地震は大震災ではないのか?熊本大震災フォトルポ(4月29日~5月2日)

熊本の地震は大震災ではないのか第2弾(7月13~15日取材)

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2017年4月 2日 (日)

浪江町と富岡町の「避難指示」は解除された。早6年。でもまだここ。

(写真はクリックすると拡大します)

(注:写真はすべて3月8日から12日の間に撮影。
原発事故から7年目に入ったといえる福島県の全体像の一部です)

_yyy1188jpgsumijpgweb浪江町の「痛い」除染。

 河北新報によると、大熊、双葉両町の全域と近隣5市町村の帰還困難区域を除き、福島県内の避難指示が、31日に浪江町と飯舘村、川俣町山木屋地区で、4月1日に富岡町で解除された。

 解除対象は約3万2000人浪江町が5841世帯1万5327人、飯舘村は1753世帯5859人、山木屋地区は548世帯1160人。富岡町は、3830世帯9578人
 
 「原発事故では、最大で11市町村の計約8万1000人が避難対象となった。これまでに田村市都路地区東部、川内村東部、楢葉町、帰還困難区域を除く葛尾村と南相馬市の一部などが解除された。新たな解除地域を加えると、面積で67.9%、当初人口との比較で約7割が居住可能となる。

 大熊、双葉両町の全域と帰還困難区域は4月以降も避難指示が継続され、約2万4200人の避難生活が続く政府は、帰還困難区域内に「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)を整備し、2022年をめどに避難指示を一部で解除する方針を示している」(河北新報3月30日web版)

 常磐線小高~浪江間が運転再開されたとか、富岡町に「さくらモールとみおか」が全面開店したとか、双葉署が6年ぶりに富岡に帰還した、などなど。新聞テレビなどの報道によると、避難解除により復興が一気に加速されたというような空気がたれ流されている。果たしてそうなのか?


Photo_2福島民報3月31日より


Photo_3福島民報4月1日より


写真群から様々な情報を汲み取ってほしい

避難指示が解除された浪江町の「希望の牧場・ふくしま」一帯。
_yyy2539jpgsumijpgweb希望の牧場・ふくしまの牛たち。放射能に汚染され、経済的価値はゼロとなったが、原発事故を生きのびた生き証人たちだ。


「除染して避難解除しても、さようなら浪江町なんだ!」と、以前から力説する吉澤正巳さんも、やっぱり悲しいんだ。
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ボランティア獣医の伊東先生
_yyy1355jpgsumijpgweb痩せ牛には、人間でいえば点滴が必要。

_yyy1400jpgsumijpgweb伊東先生が出版したばかりの、限りなく現実に近い寓話的フィクション、「福島ノラ牛物語」(彩流社)。主人公は野生化した雄牛。本能に従い、家畜として生きる道を捨て、自らの未来を選択する姿が感動を呼ぶ。
解説は私が書かせてもらいましたので、それも併せて読んでみてください。

_n616371jpgsumijpgweb牧場の除染後のフレコンバッグが、一角を占領するかのように置かれていた。5000袋とも1万袋ともいわれる分量だ。


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帰還困難区域として残された浪江町津島地区
1jpgweb浪江町の残された帰還困難区域となった津島地区。津島小学校は校舎だけはしっかりと残っているが・・・。


1jpgweb_2津島地区の水田は、ことごとく楊の木が群生し、水田だったとは思えない変貌を遂げつつある。


2jpgweb後10年もすれば、森になりそうな勢いだ。

二年ぶりに見る、イチエフから24キロにある関場さんの自宅と、大内さんの自宅と墓地
1jpgweb_3津島地区に自宅のある関場さんの一時帰宅に同行。二年ぶりの関場さんの家は、獣によりさらに足の踏み場もない状態。

_yyy2618jpgsumijpgweb富岡町の木田節子さんの自宅で見たもの同じだが、自治体が各家庭に配布した原発カレンダーが2011年3月のまま、架かっていた。
「原子力発電所で事故などが起こったときは、様々なほうほうで知らせてくれるよ」との文言が虚しい。浪江町の馬場町長は、国からも東電からも何の連絡も来なかったと非難するのが常だ。


_yyy2729jpgsumijpgweb_2裏山への登山道は熊笹に覆われた。

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_yyy2785jpgsumijpgweb家の周りはイノシシで荒らされているが、地震でびくともしなかった大内孝夫さんの自宅。二年ぶりの線量は、少しは下がったが、まだ2.7マイクロシーベルト。周辺の広大な森や山を除染しない限り、自宅の除染は無意味だろう。

_yyy2806jpgsumijpgweb大内家の墓のある墓地では、池田さん(57)が、1年前に病死した母親(88)の納骨に来ていた。

_yyy1499jpgsumijpgweb大内孝夫さん(84)は戦前は一家で満蒙開拓団として満州に移民した。しかし、母親を皮切りに、家族8人を失った。棄民の結果、福島県に生還できたのは弟と、シベリア抑留後に生還した父親だけだった。津島は戦後に開拓入植して切り開いた土地だった。

_n616586jpgsumijpgweb大内さんが避難生活を続ける杉内仮設は、ほとんどが空き部屋となり、残っているのは1割程度のようだ。大内さんも、復興公営住宅に入居待ちだ。

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浪江町請戸港
_n617220jpgsumijpgweb6年ぶりに漁師が試験操業の出漁に出る前日の請戸港。


_yyy2951jpgsumijpgweb500億円の予算で稼働する仮設焼却炉が請戸港を前にして建っている。


_yyy3003jpgsumijpgweb請戸地区には、まだ解体されずに残された家屋が10軒ほど残されている。


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避難解除された富岡町
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 除染しても農業の復活が見込めない農地40ヘクタールを利用した、「富岡復興メガソーラー・SAKURA」。出力30メガワット。発電開始は今年12月の予定。売電収入の一部が地域の復興に活用されるという。
_yyy2243jpgsumijpgweb富岡町のメガソーラー、「富岡復興メガソーラー・SAKURA」。


_yyy2155jpgsumijpgweb「富岡復興メガソーラー・SAKURA」を背景に立つ松村直登さん。

_n616793jpgsumijpgweb松村さんは牛23頭とポニーを生かし続けている。エサやり後の一服。


_yyy2278jpgsumijpgweb松村さんの取材にかけては、情熱を燃やし続ける共同通信社の原田さん。酒量はめっきり減ったようだ。


_yyy1922jpgsumijpgweb甲斐犬のイシマツ。イノシシも仕留める生まれつきの狩猟犬。母は純潔の甲斐犬、父は原発事故後に保護した白い大型犬の雑種。

3jpgweb避難指示が解除される前から夫婦で自宅に戻って生活する半谷信一さん(83)。松村さんは、原発事故翌年に半谷さんから頼まれ、ポニーを預かり牛たちと共に生かしている。

「水も水道も、トイレもあっぺし、電気も来てる。問題ねえ」と半谷さん。しかし、現実は、「みんな家壊してけえって来ねえな」

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南相馬市原町区の酪農家・滝沢昇司さん
_n616608jpgsumijpgweb本業は酪農家だが、原発事故後に脱原発の意思で発電事業に力を入れ、売電が順調な滝沢昇司さん。牛舎の屋根を皮切りに、母屋、牧草地、大型農業機械の駐車場の屋根などを活用。(南相馬市原町区馬場)


2_jpgweb酪農もエサの内容などの改善を経て安定してきたところだという。日々の出荷量は800kg。自宅の周辺は特定避難勧奨地点となり、避難指示対象から、運よく外れたが、事故後の三ヵ月は絞って捨てるしかなかった。

_yyy1789jpgaumijpgweb牛舎で生活する子ネコたち。


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黒いフレコンバッグでなければ問題ないのか。除染後の福島市内。
 東電と国と県による無責任の象徴がこれらのグリーンシートで覆われた除染廃棄物の山だ。
_yyy1482jpgsumijpgweb客商売の駐車場スペースに置かれたままの除染廃棄物。


_yyy1459jpgsumijpgweb福島市内。自宅前の駐車場スペースに置かれたままの除染廃棄物の山。除染は一昨年終わり、その後、いつ撤去されるかは、行政からの連絡はないと、住民の方。

_n616560jpgsumijpgweb民かと民家の隙間に置かれたままの除染廃棄物。


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詩人・関久雄さん(福島市内)
Dsc_4865jpgsumijpgweb福島市で、4月22日の佐久アースデイと前日21日の小諸での関さんトークの打ち合わせ。

Dsc_4940jpgsumijpgweb4月21日、小諸エコビレッジでのトークと詩の朗読会


4月21日(金)午後6時から、関さんの「原発いらない 命が大事」トークと詩の朗読。
佐渡へっついの家保養キャンプと福島のいまについて話してもらいます。
ゲストには内田ボブさんと詩人の長沢哲夫(ナーガ)さん。場所は小諸エコビレッジの常設ゲル。
参加費は1000円。

・4月22日(土)は佐久アースデイ会場の特設ゲルで、私のミニ写真展を開催しますが、その場で関さんに、トークと詩の朗読をやってもらいます。
2017佐久アースデイのポスター。


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「第6回原発いらない地球の集い」(主催:原発いらない福島の女たち)
(会場は福島市民会館)

Dsc_4969jpgsumijpgweb詩の横断幕「福島の不幸をみてください」


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_yyy2406jpgsumijpgweb3月11日午後2時46分、黙祷。


_n616995jpgsumijpgweb

「東京電力は責任をとれ!」
「福島の悲劇を繰り返すな!」
「福島事故は終わっていない」
「第二原発は廃炉にせよ!
「放射能拡散をやめよ」
「子どもたちを保養させよ!」
「住宅の無償提供を打ち切るな」
「全国の原発を再稼働するな」

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_yyy2304jpgsumijpgweb脆弱な日本列島。
仮想敵国から、核攻撃、ミサイル攻撃されなくとも自滅する原因があっちにもこっちにも。
事実、原発事故という人災により、国土の一部は喪失されたも同然。


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_yyy3041jpgsumijpgweb東京電力福島第一原発事故から7年目に入った3月12日。
浪江町請戸港の頭上に登った満月。解体されない民家が点在する。


取材後記
 「除染は終りましたので、どうぞご自宅に帰ってお住みください。これからの生活は、ご自分でお願いします」

 広い範囲の避難指示の解除。国と東京電力は、国の指示で避難した住民にそう言っているに等しい、というのが私の実感だ。では、なぜ?

 東京五輪開催の言い訳に過ぎない。原発事故から立ち直り、復興も始まり、五輪開催も心配ありませんよ、と国内外に喧伝するためだ

 除染も復興も中途半端で約束違反。もちろん、過酷事故の収束廃炉の目途が立ったわけでもない。政府の見え透いた狙いは明らかではないか。無責任にもほどがある
 
 誰しもが、できることならば帰りたい。だが、現実にはすでに6年経ち、生活基盤はすでに故郷にはない。
これから、我が家、我が故郷の町や村に帰還する住民は、果たしてどのくらいいるのだろうか。

 仮に避難解除対象人口の10%や20%ならば、合計で3200人から6400人に過ぎない。
それも、60歳以上で、高齢者がほとんどだろう。残念ながら、各自治体の存続は、
住民数からいっても、税収からしても、失われることになる。合併するしか、存続の道はないだろう。

 なお、今回の取材の詳報は、信濃毎日新聞文化欄で4月3日から4回連続で掲載されます。
信毎読者のみなさま、ご期待ください


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2016年12月24日 (土)

「あきらめないで、闘う人々」(9条連ニュース11月号から転載)

「あきらめないで、闘う人々」(9条連ニュース2016年11月20日号)
写真は元記事に追加しています。      山本宗補(フォトジャーナリスト)

(無断転載厳禁です。著作権侵害となります)

20158jpgweb戦争法に反対する人々(2015年8月)

 原発も戦争も国策だ。原発推進勢力と戦前回帰に突き進む勢力はピタリと重なる。原発に反対する人も違憲の戦争法に反対する人も自然と重なる

011npajpgweb(フィリピン、反政府ゲリラの新人民軍、1990年)

 私は30年ほど前から「抗う」人びとを取材し始めた。フィリピンやビルマ(ミャンマー)などのような独裁政権下で、政府の軍隊に抵抗する反政府武装勢力、いわゆる反政府ゲリラの従軍取材などを繰り返した。もちろん非暴力の闘いも取材対象だ。異なる政治体制、社会構造の中で、基本的人権や先住の土地を守ろうと、自衛の闘いにまで追い込まれた人たちの、多くの場合が命がけの闘いだ。沖縄の辺野古や高江の米軍基地化を阻止する反対運動と重なる。取材をしていくと、国軍=政府がどれほどの蛮行を自国民に対して行っているか、時には自衛のための武装闘争の選択肢しか残されない理由が実感できる

B003knu1991jpgweb(ビルマ、自決権を求めて闘うカレン民族の部隊、1988年)

Aung_san_suu_kyi_1jpgweb(ビルマ、アウンサンスーチー氏、1995年撮影)

 「抗う」はもちろん「抵抗」の抗、レジスタンス。世界中のどこでも、社会の不正や不条理、政府や軍隊や警察などの大きな権力(「お上」)のいうことに対し、「NO!」と抵抗する個人や人々がいる。「抗う」彼らを取材し伝える役割が私のようなフリーランスの取材者にはある。彼らの「抗い」は、テレビや新聞などの大手メディアで報道されることが敬遠され、自分たちの窮状を発信する独自の媒体を持たないからでもある。

Jpgweb(アフガニスタン東部取材中、2001年)


_aaa1042jpgweb(大津波で壊滅した気仙沼市、2011年)

 東日本大震災発生後は、翌日から福島県に入って原発事故や津波被災地の取材を開始した。1年半の取材を「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」にまとめ、その後も追跡取材をする被災者が何人かいる。彼らの共通項は、電力会社や政府のような、とても太刀打ちできそうもない相手に立ち向かう意思を貫く点だ。天災と人災に襲われ、住まいや生きる糧を奪われた被災者となったとき、自分自身が彼らほどに自分の足で立ち、抵抗できるだろうか。答えは自明だ。ここでは誌面の都合で、「抗う」被災者を一人だけ紹介したい。

不屈--吉澤正巳さん
Jpgweb_2(2016年9月、代々木公園にて)
 
 福島県浪江町の吉澤正巳「希望の牧場・ふくしま」代表のことを国会前に集まったことのある人なら、知らない人はいないだろう。吉澤さんは原発事故後の避難指示を拒否。イチエフから直線で14キロ北西にある牧場に留まり、自らの被ばくを覚悟の上で、被ばくし経済的価値がゼロとなった300頭以上の和牛を生かしてきた。農水省の殺処分指示をも拒否し、牛たちを原発事故の生き証人として生かし続ける畜産農家だ。「東電・国は大損害つぐなえ」と赤字で大書された看板をつけた宣伝カーで、成牛大の彫刻作品を牽引する吉澤さんの拡声器を通したスピーチで、鼓舞された人も多いだろう。

Jpgweb_3(2016年10月、牧場にて)

 吉澤さんは原発事故後まもなく、国の原発避難民対策は「棄畜棄民」だとスピーチし始めた。吉澤さんにとっての「棄民」は、新潟県出身の両親が満蒙開拓団だったことに直結する。ご両親は国策に従い満州に移民したが、ソ連参戦後に開拓団を守るはずの関東軍に見棄てられ、ソ連軍から逃げきれないと判断した父は、老いた母と三人の幼子に自ら手をかけてしまったという凄惨な体験をくぐりぬけてきた。沖縄戦での集団死と共通する一生のトラウマとして残る戦争体験だ。母は無事帰国できたが、父はシベリア抑留後にやっと帰還。千葉県で営んだ酪農の規模拡大を計り、開拓団時代の伝手を頼って浪江町に広い土地を確保し酪農に取り組んだのが今の牧場の始まりだ。吉澤さんの抗いは畜産農家としての誇りだけではない。「原発の時代に、戦争の時代に逆戻りしてたまるか」という不屈の闘志が掻き立てられている。

反骨--福島菊次郎さん
Jpgweb_7(2011年9月、南相馬市にて)

 昨年94歳で亡くなった反骨の報道写真家・福島菊次郎さんは、「原発は原爆と同義語だ」と早くから断言していた。広島原爆を6日間の違いで免れたことが菊次郎さんの戦後の生き方を決定づけた。被爆者の克明で執拗な取材で菊次郎さんのプロの写真家としての方向性が決まり、自分の息子と同年代の全共闘運動の取材を通じ、「お上」の言うことを鵜呑みにしていた軍隊時代の自分の愚かさを深く悔いた。権力に立ち向かい、昭和天皇の戦争責任を問う表現活動に最期までブレはなかった

Jpgweb_8(2012年12月、山口県柳井市にて)

 私は菊次郎さんとの20数年来の親交があり、原発事故年の9月、放射能汚染が班目状態の福島県各地を、90歳になり心臓も弱った菊次郎さんを案内した。三日目は「さようなら原発」大集会の現場に立つ機会を作った。自分自身の目と体で原発事故の影響を実感してもらった。

 権力に迎合するばかりで、「抗う」個や人々を取材し伝える役割を多くの大手メディアが果たさないいま、フリーランスが伝えるしかない


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2016年12月22日 (木)

佐々井秀嶺師とアンベードカル博士生誕125周年(「大法輪」から転載)

(「大法輪2016年9月号掲載から記事は転載)
(写真はクリックすると拡大します)
(無断転載は著作権違反です。ご遠慮ください)

_n613130jpgsumijpgwebナグプールにて。


佐々井秀嶺師、一年ぶりの一時帰国
 インド仏教徒一億人の最高指導者となった佐々井秀嶺(インド名:アーリア・ナーガルジュナ・シューレイ・ササイ、80歳)が、今年も静養を兼ねて一時帰国し、七夕の日にインドへ帰っていった。高齢となった佐々井師だが、例によって精力的に西や北に行脚した。

 二年前、佐々井師は、本人曰く、「原因不明の病気で三途の川を渡って冥界を彷徨い、悪さを相談している者たちを見た」あげく、不死鳥のごとくに現世に舞い戻った。事実、佐々井師の存在を好ましくないと思っている勢力からは死亡説さえ流された。昨年の一時帰国後は三ヵ月にわたり食事もままならず激痩せした。結果的に糖尿病を克服したかのような精悍さを取り戻した風情で6月初めに母国に一時帰国した。

_yyy7802jpgsumijpgwebナグプール、インドラ寺院にて。

_n616010jpgsumijpgweb佐々井師の尽力で発掘された世界遺産級のマンセル遺跡。

 故郷岡山県新見市では、共生高校で青年時代の悩みについて講演し、京都産業大ではマンセル遺跡の更なる発掘研究を呼びかけ、本州ど真ん中の大地溝帯の中心に位置する長野県大鹿村では、自然環境を大切にした生き方を実践する子育て中の若い世代とゆったりした交流の時を過ごし、青森県では、昭和大仏で知られる青龍寺(高野山真言宗)で北海道や四国などからも遠路はるばると駆け付けた熱心な参加者を前に、50年あまりの布教人生で鍛えぬいた声量で講演した。

_yyy9119jpgsumijpgweb南相馬市小高区。


 一時帰国の度に必ず訪れる原発事故後の福島県浜通り。7月半ばに政府による避難指示が解除される南相馬市小高区同慶寺の田中徳雲住職の案内で、フレコンバッグのピラミッドを見つめ、原町区の海岸では津波で流されガレキとなった住宅の柱などを埋め盛土した森の防潮提を見学し、多数の死者行方不明者が出て復興とは無縁のままの浪江町請戸海岸で、供養のために般若心経を何度も唱えた。

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 福島県三春町の臨済宗福聚寺を訪ねて芥川賞作家として著名な玄侑宗久住職との異色な組み合わせの歓談も実現。玄侑師は妙心寺派管長の河野太通老師が佐々井師の長年の支援者でナグプールにも来ていることを佐々井師から聞き驚いていた。上座部仏教僧として著名で日本語が流暢なスマナサーラ長老とも初顔合わせの対談風トークの会もあった。佐々井師が話している時、下を向いたままの姿勢や、対談相手の話に関心がないというようなポーズをとるスマナサーラ長老の仕草が、話した内容よりも強く印象に残った。

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 都内三鷹市では、公共施設の会場が満席立ち見となるほどの熱気の中、インドで60年前に仏教を復興したB.R.アンベードカル博士について解説し、佐々井師に会うのが初めての参加者と交流した。私は大鹿村、青森青龍寺、三鷹の三ヵ所で、佐々井師講演の前座として、パワーポイントで佐々井師の活動紹介と生き様を参加者に伝えた

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 7月7日、佐々井師は35日間の一時滞在の行脚を終え、国籍取得して28年となるインドの大地に帰って行った。帰国前、佐々井師に滞在中の印象深い出来事を尋ねた。山梨県の日蓮宗内船寺で、大勢の信者さんが団扇太鼓で出迎えられたことと、講和後の講談師神田甲陽さんの創作講談「ヒロシマ・ナガサキ・アンド・ピース」には思わず涙したといわれた。ご住職の奥さんが佐々井師を送り出す際、自ら「ジャイビーム!ジャイビーム!ジャイビーム!」と甲高い声で発声し、信者さんたちの「ジャイビーム!」の唱和で送り出されたことに、とりわけ感動したと話された。

_yyy8949jpgsumijpgweb_2青森市青龍寺


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 ここで登場する「ジャイビーム!(アンベードカルに勝利を!の意味)は、インド人仏教徒のあいさつ代わりのフレーズで、佐々井師が2009年に44年ぶりの一時帰国を果たした時、真言宗や臨済宗の寺院、浄土真宗系大学など宗派の垣根を超え、初めて日本人のみなさんが右手の拳を高く上げながら唱和した新しい真言だ。今回も大鹿村で、青森青龍寺でにぎやかに唱和された。
_yyy8887jpgsumijpgweb_2大鹿村でのイベント。「ジャイビーム!(アンベードカルに勝利を!)」

アンベードカル博士生誕125周年を利用するインドの政党
_yyy0813jpgsumijpgwebアンベードカル博士大学(ナグプール)


_n616264jpgsumijpgweb地方での仏教式典で、アンベードカル博士像に献花する佐々井師。

 佐々井師の一時帰国に先立つ二ヵ月前、私は二年ぶりに佐々井師の活動拠点ナグプールにいた。インドが酷暑期に入って間もない4月14日が、インド憲法起草者となり、インド仏教の復興を果たしたアンベードカル博士の誕生日だからだ。1956年の集団改宗から二か月後に急逝してしまった博士の改宗した聖地ナグプールはもとより、この日はインド各地でアンベードカル博士生誕125周年が盛大に祝われた。

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 アンベードカル博士といえばマハトマ・ガンジーと同時代の政治家で、上位カースト出身のガンジーとは対立した才能豊かな人物。しかもカースト外で奴隷扱いされていたアンタッチャブル(不可触民)出身。博士が著した「ブッダとそのダンマ」は仏教徒のバイブルとして広く読み継がれている。今年が特別だったのは、与党も野党もアンベードカル博士を称賛し、有権者の関心を引き付け選挙で有利になるための計算高い動きが際立った点にある。

 ヒンドゥー原理主義団体・民族義勇団(RSS)を母体とし、ヒンドゥー至上主義で知られるインド人民党(BJP)政権のモディ首相は、マディヤプラデッシュ州のアンベードカル誕生の地を生誕日に訪問するパフォーマンスを演じた。それに遡る3月、インド人民党は全国幹部総会で、「イスラム教徒は荷物を担いで好きな国へ出ていけ」発言で知られる党創立者のシャヤマ・プラサド・ムカジー氏とアンベードカル博士を同格に扱うようにという通達を出したほどの節操のなさだ。カースト差別から抜け出そうとインド古来の仏教を選び、ヒンドゥー教を棄て仏教に改宗したアンベードカル博士を、ヒンドゥー教が世の中で最高であるとするBJP創始者と同格に扱うという、日本では考えられないウルトラC的発想だ。

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 実際、生誕祭1週間前、佐々井師のインドラ寺院でも、佐々井師を無視する出来事があった。10数名の若い僧侶が寺院に集合し、本尊を拝んで佐々井師には挨拶することもなくブッダガヤ大菩提寺奪還闘争のために車で出発しようとした。佐々井師に断りのない生誕祭直前の動きにRSSの陰謀を嗅ぎ取った佐々井師は、僧侶たちを怒鳴り喝を入れた。「インドラにはもう来るな」と。「ジャイビーム!という合言葉を、「そんな言い方は止めなさい」と別の僧侶をたしなめる中年の坊さんもいたほどだ。この僧侶は一人の仏教徒から「お前はRSSだ」と指さされていたほどだ。

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 一方、2年前の総選挙で惨敗した国民会議派(コングレス党)も、仏教徒や下層民衆票の巻き返しにアンベードカル生誕祭を利用した。生誕記念日数日前、ナグプール市内の広場を貸し切って開催されたコングレス党の全国集会では、10万人規模の会場を埋め尽くした女性参加者の一人一人にアンベードカル博士の肖像をデザインした帽子を配った。特設中央ステージには、ガンジーの肖像画と在野民衆指導者として名高いマハトマ・プーレーの肖像画の真ん中にアンベードカル博士の肖像画を掲げた。

交代に演説する党幹部の背景の巨大なスクリーンには、アンベードカル博士の偉業を写真で次々と上映する凝りよう。メインスピーカーのソニア・ガンジー総裁(暗殺されたラジブ・ガンジー首相未亡人)は、BJPとRSSがアンベードカル博士を称賛しながら、実際には博士が起草した憲法を台無しにしようとしていると非難したほどだ。

 東京のインド大使館も、在日インド人仏教徒などを多数招いて盛大な生誕祭を開催。出席したゲストには、「ビムラオ・アンベードカル博士の生涯と時代」と題された15ページにわたる文章が掲載された日本語の「インド展望」(2016年1~2月号)が配布された。

アンベードカル博士生誕125周年パレード
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 4月13日、夜8時すぎ、アンベードカル博士生誕125周年を盛大に祝うパレードが、佐々井師によるインドラ寺院前のアンベードカル像への顕花で始まった。「バガワン・ブッダ・キー・ジャイ(ブッダ万歳)」、「アンベードカル・キー・ジャイ(アンベードカル万歳!)」と佐々井師は叫んだ。寺院前に用意された馬車風の山車に佐々井師が乗り込み聖火を受け取ると、夜の大行進が出発。重いものが握れない佐々井師から、聖火は弟子のダンマボディ(60歳)さんに渡った。(ダンマボディさんについては後述)

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 市内大通りの片側車線が通行止めとなり、老若男女の行列が8キロ続く大行進。例年にない盛り上がりだという。佐々井師の馬車の後をブッダやアンベードカルを讃える山車が続々と続き、若者や家族連れがぞろぞろ歩いた。ろうそくを手に静かに行進する女性たちに加え、プロの太鼓隊も登場。普段はお寺に参拝しないような若者層がパレードの中心だ。行進は深夜12時を回っても続いた。

 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」の阿波踊りを見ているようでもあった。折り返し地点は、アンベードカル像の建つ「憲法交差点」。群集で埋め尽くされ身動きができないほど。人々は熱気に身を任せ、博士を称賛しながら仏教旗を大きく振った。12時過ぎきっかりに佐々井師は、アンベードカル像に顕花し、生誕125年を祝うケーキカットを例年のように行った

弟子のダンマボディさんと「アンベードカルの生涯」  

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_yyy0234jpgaumijpgweb_2早朝のお寺のそうじ。

 パレードの先頭を進んだ馬車に乗り、佐々井師の代わりに聖火を持ち続けたダンマボディさんは、佐々井師が自ら得度させた僧侶の中でも、佐々井師も断言するほどにまじめで忠実な弟子だ。一人の人間として、お坊さんとして彼ほどインド社会の下層階級にまつわるエピソードに事欠かない者はいないだろう。お坊さんの生活ぶりを知る上でも貴重なので詳しく紹介したい。

 ダンマボディさんは妻と4人の子どもがいた1993年、夫婦親子の縁を断ち切り、マンセルのマンジュシュリー寺院で佐々井師によって得度。80人が一斉に集団得度したときの一人だった。「社会にお返しをしたい」というのが出家の漠然とした理由だという。
 1歳の時、妊娠中の母親が実の弟に殺害された。自身はコレラに罹って瀕死状態にあり、父親が「私の命に代わって救ってくれ」と祈ると、彼は助かったものの父親が死亡してしまった。彼と8歳上の兄は孤児となり、7歳の時には面倒をみてくれた兄が井戸に身を投げて自殺。その後は伯父伯母夫婦に育てられたが、小学校は満足に通うことなく20歳で結婚。役場の灌漑関係の仕事につき、37歳で夫婦親子の縁を自ら断ち切って出家した。
 得度後、師の言うことを聞かず一人で勝手に森や山を彷徨い、得度から三ヵ月後に佐々井師の前に現れた彼に対し、還俗しろと佐々井師は命じた。それを拒否したダンマボディさん。放浪中には、雨季で増水する川で溺れかけ、「ナモタサ~(仏さま~)」と必死に念じて助かったという。


 3年後、ナグプール市内のイスラム教徒居住区が隣り合い、仏教徒が30戸ほどのヤショーダラナガール(街)に住み付いた。きまじめに朝晩のお勤めし、仏教徒の信頼を得て、小さな仏像があっただけの地区に寄進で寺を建てアンベードカル像も建立。2008年には生まれ育った村にも10万ルピーの大金がかかったというアンベードカル像を佐々井師主導で落慶した。さらにダンマボディさんは大菩提寺奪還闘争にも必ず参加してきた。一度は水だけで13日間の断食を続けたことがある。

 特筆すべきなのが、ダンマボディさんの佐々井師の命を守る役割だ。2008年、マンセル近郊の町で行進中、佐々井師は聖火を握っていた右腕を大火傷した。行進中に車がブレーキを突然踏んだため、溶けたろうそくを右腕に浴び衣には火がついたという。その後の皮膚移植が失敗し佐々井師の後遺症は今も残る。ダンマボディさんは佐々井師の衣の火を消そうし、はずみで車から落ち左腕に大火傷した。火傷はアーユルベーダで治療したと話す。

 二年前、佐々井師の死亡説が飛び交ったときには、ナグプールの病院に付きっ切りとなり、ドクタージェット機で佐々井師がムンバイの大病院に転院後も、佐々井師が女性は回し者として看護師を受付ないので、看護師の代わりに下の世話を率先して引き受けた。翌年、この献身的な奉仕に感激したタイの篤志家が、重さ900キロの大きな仏像をダンマボディさんに寄贈し大きな話題となった。その仏像がお寺に到着後は、佐々井師の主導で仏像のお披露目大行進で周辺の路地を練り歩いた。「微笑みかけているような表情がインドのものと違い気に入っている」とダンマボディさんは話す。

8145ムンバイの病室で寝泊まりし、付きっ切りに介護するダンマボディさん(奥、2014年)。

 ダンマボディさんの日課は、毎朝5時起床、拡声器を通してお経を流し、寺の内外を掃除。6時には信者のいない寺で熱心に30分のお勤め。読経の結びは、「南無妙法蓮華経」「オンマニペメドフン」「ナモブッダ、ナモダンマ、ナモサンガ」「ジャイビーム!」で終わる。夜7時のお勤めは信徒さんたちが20人前後集まる。「信徒が来ても来なくてもまったく気にならない。早朝は信徒は仕事もあり起きるのも大変だからだ」。

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_yyy9994jpgsumijpgweb近所の仏教徒も参加する夜のお勤め。

 朝は寺の近くの信徒さんの家でチャイをいただく。朝食の供養は毎日のようにあるので徒歩かオートバイで出かける。食事後には一時間念入りに読経。誕生日祝いや新車の祝福などで毎日が結構忙しい。ある晩、ダンマボディさんを迎え、51歳の誕生日祝いを祝福してもらったのは二人の息子が大学に通う公務員一家だった。食事の供養、1時間の読経が終わると夜10時半を過ぎていた。お布施は500ルピー。日本円で1000円弱。佐々井師にお布施する信徒が100ルピー前後が一般的なことからも高額だ。寝る前には必ず愛読書の「アンベードカルの生涯」を声を上げて読む。ダンマボディさんのすごいところは、独学で学んできたことだ。

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 佐々井師にダンマボディさんについて尋ねると、「指導者になるタイプの僧侶ではないが、インド人の僧侶にしては、私を裏切らずにまじめでよくやってくれる」との評価だった。佐々井師の信頼を、うぬぼれ、お金の問題や女性問題でダメにし、佐々井師に敵対する勢力から担がれているという自覚のない僧侶も多い中、ダンマボディさんは稀有な僧侶だ。佐々井師の多様な大事業を継ぐインド人の弟子はどこにもいないようだ

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 「大菩提寺管理権奪還のための裁判闘争に力を入れるので、みなさん協力してください」と佐々井師は各地で呼びかけていた。全世界の仏教徒の最大聖地が、いまだに仏教徒の手に管理運営する権利がないのだ。

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2016年12月18日 (日)

年越せば、まる6年となる福島県大熊町。富岡町の松村直登さんの近況も。

(写真はクリックすると拡大します)

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大熊町新町のファミリーマート。年越せば丸6年になろうとしているのに、店内は3・11直後のまんま
地震による被害だけならこの状態で残されることはありえないだろう。(注:撮影は全て11月25日~26日)

 定点観測のように毎年一時帰宅に同行している大熊町の木幡ますみさんの一時帰宅に今年も同行した。facebookではすでに紹介済みだが、年内の内にブログにしておきたい。

木幡さんの自宅はイチエフの真西7キロにあり、帰還困難区域内。だが、自宅前を自由往来が許可されている国道288号線が走るため、避難解除された状況に近い。国道288号線は除染土などを運ぶダンプカーが行ったり来たりして、国道6号線よりも交通量が多い印象。それゆえか、空き巣に狙われやすいようだ。

_yyy4459jpgsumijpgweb大きな農家風の自宅前の坂道を登ってゆく木幡さん。


_yyy4494jpgsumijpgweb居間の荒らされ方が尋常ではなかった。ドロボウと動物も走り回ったような散らかり方。


_yyy4476jpgsumijpgweb一番広い部屋で木幡さんが掲げて見せてくれたのが夫の仁さんの弟さんが高校生のときに描いた絵。若い頃は絵描きを目指したというが、半身不随になりかねない病気を克服したばかりだという。


_yyy4531jpgsumijpgweb居間にある扉が閉まったままの仏壇から、夫の母親の遺影を持ち出した木幡さん。なぜか仏壇は荒らされた形跡はなかった。


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_n611038jpgjpgweb庭先の空間線量は3マイクロシーベルト前後だった。線量は明らかに下げ止まりだ。


_yyy4603jpgsumijpgweb土蔵が何者かによって開けられ、重い金属製の扉が閉まらないようにつっかい棒がされていた。


_yyy4634jpgsumijpgweb敷地内にはイチョウの大木が二本ある。銀杏が落ちて腐り始めていた。放射能測定のために、銀杏を収集する木幡さん。

 後日判明した銀杏の放射能汚染の結果は次の通り。
イノシシが大好物?の銀杏の外皮:セシウムの合計861ベクレル(137が716、134が145。カリウム40が596ベクレル)。
人間が好物とする銀杏の実:セシウムの合計574ベクレル(137が485、134が89。カリウム40が504ベクレル)

_n611061jpgsumijpgweb定点観測の場所に立ってもらっての写真。昨年までと比べると、坂道をふさぐ雑草や雑木が刈り払われている印象。木幡さんによると、同野上地区の住民の希望を東電が聞いたようで、住民サービスとして社員が家に通じる道や庭先などの雑草刈りに今年から開始したようだ。


◯木幡家の農地
_yyy4687jpgsumijpgweb国道288号線から枝分かれして大熊町町内に向かう道路端に立つ看板。「熊川海水浴場」の案内板が痛々しい。


_yyy4670jpgsumijpgwebこの道路の両サイドは、木幡家の水田だったが、いまはセイタカアワダチソウとススキの荒野と化して久しい。道路端5ⅿほどの雑草が刈り取られている。


イチエフの周辺と中間貯蔵施設予定地の現状
_yyy4763jpgsumijpgweb(財)福島県栽培漁業協会のカマボコ屋根が見えるが、イチエフと隣接しているヒラメやアワビの養殖場。


_n611127jpgsumijpgweb当然のことだが、いつ来てもここは高線量だ。この建物の周辺で撮影したり測定したりして、30分少々いるだけで頭が重く感じる


_yyy4866jpgsumijpgweb大津波により、養殖場の全ての建物は壊滅的被害を受けた。どれも、手付かずのまま放置されている。


_yyy4878jpgsumijpgweb配管もズタズタのまま。


_n611150jpgsumijpgweb養殖場裏手は太平洋が見渡す限り広がる。8.5マイクロシーベルト前後の空間線量を示した。

・カマボコ型の養殖場の脇に生い茂っていた野バラの蕾を木幡さんは収集し、放射能測定に出した。
その結果は以下の通りだった。
セシウムの合計が452ベクレル(137が370、134が82)。カリウム40は807ベクレル検出した。


_n611221jpgsumijpgweb運用されている中間貯蔵施設の一角。養殖場からは数百メートルしか離れていない元工業団地。放射線量が元々高い一帯だ。数値は10マイクロシーベルト近い

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_yyy4713jpgsumijpgweb津波により全壊した民家が手付かずで残されたままの熊川一帯も中間貯蔵施設予定地だが、現状は仮置き場として運用されているようだ。ダンプカーが頻繁に出入りしている。
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_yyy4956jpgsumijpgweb3・11の地震大津波により大きな被害を受けた太平洋岸450キロ沿線の中で、全壊家屋がいまも放置されたままの場所は、おそらく大熊町のこの一帯だけではないだろうか。原発事故による放射能汚染の怖ろしさを象徴しているのではないだろうか

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_n611245jpgsumijpgwebこの新興住宅街も中間貯蔵施設予定地。各地権者の同意なしには、貯蔵施設のための整備も開始できないわけだから、一年後もこの住宅街はおそらくそのままだろうと推測する。放射線量は7マイクロシーベルト前後を指す。
地震に耐えても放射能に汚染され、もはや人が住むことが憚れる瀟洒な住宅。これらも物言わぬ原発事故の生き証人ではないのだろうか。


_yyy4712jpgsumijpgweb熊町小学校も予定地に入る。写真は校舎前の校庭との境となる道路。もはや森状態だ。


_yyy4709jpgjpgweb_2原発事故前から建つ看板。「福島原子力企業協議会」の会員企業を列記しているようだ。東芝、日立、鹿島建設などの企業名が見える。東電のロゴが古いままだ。


大熊町復興拠点計画

Photo大熊町復興拠点計画図。
福島民報2016年11月26日から

・荒唐無稽というべきか、笑止千万というべきか、狂気と評するべきか。大熊町はイチエフから8キロの大川原地区を復興拠点に町役場の新設や広大なゴルフ場建設(ゲートボール場にしては広すぎるが)などの「復興」計画を公表した。

 この計画図にはないが、木幡ますみさんによると、大熊町は32億円の予算でイチゴの水耕栽培をこの地区で展開する計画になっているという。住民のほとんと帰還しない場所に役場を新設するとか、販売の見通しが立ちそうにないイチゴ栽培に手を出すとか、住民の税金や復興予算を活用するには全うな感性と理性的判断ができているとは思えない計画が目白押し。


_n611265jpgjpgweb自宅から持ち出した遺影をスクリーニング会場のスタッフが測定した。問題なく持ち出せた。

木幡さんのブログは「真澄の空」。原発に反対する大熊町町会議員として奮闘する木幡さんに注目!


富岡町の自宅に住み続ける松村直登さん
 富岡町の松村直登さんを半年ぶりに訪ねた。、

_n611323jpgsumijpgweb牛の囲い込みは除染のために空っぽだった。牛たちはどこへ行ったのだろうか?


_yyy5052jpgsumijpgweb川の反対側の水田が囲い込みとなり、牛たちは健在だった。この日は朝の冷え込みが厳しく、田んぼの水の表面は薄氷が覆っていた。
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_yyy5087jpgjpgwebエサやりをする松村さん。


Sumi_yyy5099jpgwebポニーのヤマは牛たちと共にピンピンしている。身体が二倍以上もある牛たちにいじめられることなく、エサを食うヤマは牛よりも生命力が強いのだろうか?


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_yyy5191jpgsumijpgweb松村さんは、来年は養蜂を本格的に開始したいと話していた。


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 これは富岡町の福島第二原発。先日の地震により1ⅿの津波が襲来したと報道された。(11月26日撮影)
問題は11月22日の福島県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震で、福島県は震度5弱だったが、その程度の揺れにより、3号機の使用済み燃料プールの冷却装置が1時間半ストップした事実の重みだ。
東電はこの第二原発の廃炉を決断せずに、虎視眈々と再稼働を目論んでいる
ことも併せて知っておく必要がある。_yyy5223jpgsumijpgweb

◯蛇足:一年前の大熊町は以下のブログ記事でごらんくささい。
大熊町・双葉町・浪江町 帰還困難区域の現状とは?


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2016年11月20日 (日)

「日韓『合意』は解決ではない!~アジアの被害者たちは訴える~」

(写真はクリックすると拡大します)

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 11月5日に開催された、「日韓『合意』は解決ではない!~アジアの被害者たちは訴える~」について、重要なメモとして報告し、シェアしておきたい。

 2日の大阪での集会に引き続いての集会で、250席ほどのホールは、立ち見のスペースがないほどに参加者が多かった。

主催者を代表して開会あいさつした坪川宏子さんによる集会趣旨説明
 「日韓合意は解決ではない」ことが集会趣旨。「合意」は被害者が25年求めてきた要求に応答する解決ではなく、日米韓の軍事的政治的な戦略のためになされたものだと断言。 

 加えて、「政府はこの合意で全ての慰安婦問題に終止符を打とうとしている。日韓合意後、台湾の要求を一蹴し、アジア女性基金対象外の中国、東ティモールの元「慰安婦」に対して補償を考える意思はないと政府は国際的に公言した

 戦時中の重大な人権侵害の被害者に対する補償に国籍や地域別の差別があってはならない。今回はそのことを被害者とともに外務省に訴えることになっている」と説明した。


そもそも「日韓合意」とは
 日韓合意とは何だったのか、合意後の経過をおさらいしておこう。
昨年12月28日、日韓両政府は、旧日本軍「慰安婦」問題で「最終的かつ不可逆的」と喧伝する「合意」が成立したと発表した。岸田外相は声明でこう述べている。

「安倍内閣総理大臣は日本の内閣総理大臣として、慰安婦としてあまたの苦痛を経験され、心身にわたり癒やし難い傷を負われた全ての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちをお伝えします」。「韓国政府が元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し、これを日本政府の予算で一括で供出し、日韓政府が協力し、全ての元慰安婦の方の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行うこととします」

 直接の当事者にも歓迎できる内容に思えるが、しかし、「財団は日韓が協力して行う事業だが、賠償ではありません」と岸田外相は記者会見で断言した。ということは、支給される現金は政府からの公式賠償金ではないことを意味する

 肝心なのは当事者の元「慰安婦」の女性たちが当初から相談されて同意した「日韓合意」だったのかどうかという点だ。
この点、元慰安婦支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」や、元慰安婦が共同生活する「ナヌムの家」関係者は、「被害者不在」の日韓合意の受け入れを拒否
した。

 さらに、10月3日の衆議院予算委員会で、元「慰安婦」被害者への「おわびの手紙」を出すかを問われた安倍首相は、「毛頭考えていない」と答弁した。日韓合意の声明内容はウソだったのかと思わせるほどのお詫びの意思のなさを内外に発信する内容だ

 今回の集会開催の背景として、「日韓合意」とは当事者の元慰安婦にとっては何かを理解しておく必要がある。

インドネシアの元兵補・慰安婦中央協議会のムハマド・ダルマウィ・ラジャマさん
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 インドネシア元兵補・慰安婦中央協議会代表、南スラウェシ元従軍慰安婦協会代表。
ダルマウィさんの父親は元兵補だった。兵補とは旧日本軍の軍政時代に兵力不足を補うためにリクルートされた現地兵のことで、連合軍と戦うために武器を使った訓練を受けた。3万~4万人の若者が兵補となったという
 1995年にインドネシアの元慰安婦の実態調査をし、2万人の名簿がリストアップされたという。ダルマウィさんは元兵補の未払い給与の支払いを求める運動をしながら、2001年からは元慰安婦に対する支援や補償を求める運動も開始。元兵補のネットワークを通じて、元慰安婦の探し出しや聞き取り、リストアップ作業がはかどったと、インドネシア語の通訳を務めた鈴木武史さん(桃山学院大兼任講師)が紹介した。

 鈴木さんは、5年前から南スラウェシを中心に元慰安婦の調査聞き取りを始めたが、鈴木さんの調査では、39人の被害者が判明し、うち8人が亡くなったという。チンダさんは鈴木さんの調査で見つかった被害者の一人。名乗りを挙げた人だけでも259人存在するとした
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 チンダさんが勇気を持って発言したことで名乗り出てきた人がたくさんいるとのこと。
「いまやらないと生きた人たちがいなくなってしまう。遅きに失するということではない」と鈴木さんは話す。


インドネシアのチンダ・レンゲさんの証言
_yyy4090jpgsumijpgwebチンダさんは85歳。

 「日本軍による被害者の一人です。真実を求めるためにやってきました。日本政府は私たちに注目しきっちりと賠償してほしいです。すでに年老いています。仕事のために動くこtができなくなりました。たった一人で他人の家に間借りして生きてきました。お菓子を売りながら一人で暮らして来ました。家族もいません。夫もいません。父母は亡くなっています。
 日本軍に強姦された女と結婚したいという男はいませんでした。「お前は日本軍の残りかす」と周囲の人に言われました。

 12歳の時に強制的に仕事をさせられました。綿から糸をつむぐ作業です。給料を約束された糸をつむぐ仕事でした。1年働いていました。日本兵がやってきてオケダの前に連れ出されました。14歳の時にオケダという将校に強姦されました。給料を渡すといわれたら強姦された。別の兵隊の前に連れ出されました

 以下は配布資料からの引用。
オケダは彼女に服を脱ぐように命じ、それに従った。初潮もまだだった。拒否すると軍刀をちらつかせて首を落とすぞと脅した。毎日のように敷地内の建物にあった部屋で何人もの日本兵に強姦され続けた。生理のときも日本兵はやってきて彼女を犯した。性器は破れ、今でもそのままだという。医者はいなかったために兵補が持ってきてくれた薬草などで治療した」という。


 「政府に求めます。年を取り働けません。正式な謝罪と真実の究明を求めます。何ももっていない私にこれ以上どうしろというのですか。働くこともできません。私は賠償を求めたいと思っています


東ティモールのイネス・マガリャンイス・ゴンサルベスさんの証言
 東ティモールは2002年にインドネシアの占領下から独立。イネスさんの証言の前に、東ティモール人権協会(HAK)のマリアさんが全体状況について説明。日本軍占領中に多くいの人が処刑されたり病死し、強制労働があり、女性は慰安婦とにさせられ、日本軍兵士の性奴隷とさせられたと解説。
 2005年から日本のグループと東ティモールで元慰安婦の調査開始。各地に元慰安婦が生存することを確認。20人の被害者を特定し、現在10人が存命と話す。インドネシアが受け入れたアジア女性基金については、東ティモールの場合は対象とされなかった。

「たった10人に対する支援がどうしてできないのか。これは正義を求める闘い。個人として若い世代の一人の人間として、正義と真実を勝ち取るために闘ってゆく」と誓った。

_yyy4209jpgsumijpgwebイネスさんは80代後半。

はるばる日本に来たのは、飛行機に乗りたいためでもなく、見物したいためでもなく、一人の被害者として来ました。日本軍占領時代はいろいろとひどいことをさせられました。牛や馬やブタなどを飼う家畜の小屋の脇に住まわせられました。昼間は労働させられ、夜は家に閉じ込められ、一晩に4人5人の相手をさせられ暴行されました。逃げたら殺されると脅されていました

 私の住むアッツアベではもう一人の被害者が存命です。私たち以外にたくさんの被害者がいると思いますが、ほとんとの人が亡くなってしまいました。犠牲者は二人だけでなく他の場所でも同胞が被害にあっています。私は妊娠し、女の子の赤ちゃんを産み、カイブティと名付けました。この赤ちゃんは家に帰る途中で日本軍に取り上げられてしまいました」

 当時私は慰安所で死んでしまってもおかしくなかったのですが何とか逃げ出しました。いま80歳をこえています。私の話をこうして聞いていただきたいと思って来ました。日本政府には正式に誤ってもらいたい補償してほしい。真実を正義を求めるために来たのです」

以下は、配布資料から要約し転載。
私は慰安所に約6ヶ月いました。妊娠し、慰安所で子どもを出産しました。女の子で「カイブティ」と名付けました。その子が生後3ヶ月になったころ、その子を連れて家に帰ろうとしたが、途中で日本軍に抱いていた子を取り上げられました。その後にその子がどうなったのかわかりません。
 兵士たちは傍若無人に私たちに乗り降りし、ひどく野蛮で、動物でさえ私たちよりましな扱いを受けていたと思います。私の経験を知るのは両親だけで、亡くなった夫にも話せませんでした


フィリピンのエステリータ・ディさんの証言
_yyy4283jpgsumijpgwebエステリータさんは86歳。
 
エステリータさんは、私が30年前に取材に通い始めたネグロス島の出身だ。日本軍に占領される前は、砂糖農園の労働者だったようだ。

_8ds7836jpgsumijpgweb2013年に来日して証言した時の写真。比べると、この3年で「老い」が一気に進行している印象を受ける。

「1943年~44年、山中で疎開生活していた頃、飛行場の整備工事についた。バコロド近くのバゴに日本軍は飛行場を整備していた。川の石を拾って運び上げる力仕事でした。男たちが穴だらけの飛行場を石で埋めていました。この作業に対し、日本軍はお金の代わりに500グラムほどの米をくれました。44年のある日、上空の飛行機から紙がまかれ、飛行場で働いてはいけない、何kがが起きるという警告でした。手伝うのは危ないと疎開先に帰り、米や作物を畑で作る生活に戻った。父親の判断でやめました。

 11月になって 家で作った野菜や卵を市場に売りにいくようになり、ある日、突然に日本軍のトラックがフィリピン人男性らを載せて市場に来ました。広場で男たちを井戸の近くに並ば、日本軍は一人一人首を斬った。ゲリラ容疑で男性たちが一人一人殺されていくところを柱の陰で観ていました。私に気づいた日本兵が私に近づいてきたので逃げたが転んでしまい、日本兵は私の髪の毛をつかんで引っ張りあげ、トラックに載せられ日本軍駐屯地に連れていかれました。
 駐屯地内にある建物の部屋に連れていかれ、部屋に入ってきた日本兵はいきなり抱きつきキスをしてきた。嫌がってもレイプされ、その後には別の日本兵がやってきてレイプされ、また別の日本兵がやってきたので抵抗したら、私の両耳を手でつかみ頭をテーブルに打ち付けられ、私は気を失いました
私は駐屯地で毎日、日本兵によりレイプされつづけ、3週間ほど続きました

「米軍が近づいているということで日本軍は狂暴になっていました。ゲリラにより日本兵が襲撃だれ殺される事件も起きていたので。日本兵は物を運び出し山へ逃げ出しました」

「戦後、小学校6年の教育を受け終わると、日本兵により私の身に起きたことが忘れられず、故郷に残っていることが辛くなりマニラに出稼ぎに出ることにしました」。

「私は日本政府に伝えたい。最近、韓国政府と合意したといいますが私たちは認められません。きちんと戦争犯罪の責任を取るべきです。被害国は11か国に及んでいます。全ての被害者に対して日韓合意は破棄してほしいと思っています。

 被害者が日本政府に求めているのは、正式な国会による謝罪。手紙によるおわびの文章では十分ではありまえん。二つ目は歴史教科書にきちんと慰安婦問題を載せること。三つ目はきちんと補償を支払うべきです」

韓国の李容洙(イ・ヨンス)さんの証言
_yyy4365jpgsumijpgwebイ・ヨンスさんは87歳。

(何度も来日して証言してきたイ・ヨンスさんの略歴は2008年の集会資料から:
1928年12月生まれ。1944年秋に日本軍人に連行されて汽車に乗せられテグから慶州、慶州から平城・安州へ、安州から大連へ。大連からは日本軍がたくさん乗船した船で台湾へ。船上で日本兵に強姦された。台湾の慰安所に入れられた。45年春、16歳の時、慰安所が爆撃に遭い、建物の下敷きに。二人の姉さんが死亡。8月の敗戦で解放され、収容所へ。46年春に帰還船で故郷に帰国。92年に被害者を名乗り出た。95年、国民基金は拒否した。2007年、米下院会議公聴会で証言

 イ・ヨンスさんは、2008年に今回と同ホールで開催された、「第9回 日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議~世界と連帯し、日本政府に即時解決を要求する!~」集会でも証言。翌日、国会議員会館前で実施されたスタンディング・デモにも、もう一人のハルモニの吉元玉(キル・ウオノク)さん、それに中国人元慰安婦の郭喜翠さんと共に参加した。8年前ともなるとずっと若く感じる。
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このスタンディング・デモの最中、100名以上が抗議活動をするすぐ隣で、在特会の桜井誠が、日本軍の性奴隷とさせられた元「慰安婦」3名が聞こえるほどの拡声器の大音量で、元「慰安婦」を売春婦呼ばわりするヘイトスピーチをまき散らしていたことを私は録音している。その一部は以下の通りだ。

「慰安婦稼業を強姦だ、強制連行だと言ってますが、完全に商売です。従軍慰安婦はただの売春婦です」

 桜井誠とは、都知事選の候補者として立候補したあの桜井誠のことだ。新大久保界隈を、「朝鮮人は出ていけ」「朝鮮人は殺せ」と人種差別そのもののヘイトスピーチをした当人だ。立候補者としての資格が都の選管から与えられること自体が過ちだ

 元「慰安婦」の女性たちが、拡声器での桜井誠のヘイトスピーチをその場で聞き取ることになったら、腸が煮えくりかえるだけでなく、正気を保てないほどの口惜しさだったと思う。2008年の国会前で平然と「売春婦」呼ばわりする桜井誠が、今年7月の都知事選の候補者として街宣したことは、日本社会そのものが安倍自公政権下で、坂道を転げ落ちるように右傾化している象徴のようなものだ。


歴史の生き証人・イヨンスです。25年間、日本大使館の前でハルモニが求めてきたものがあります。日本は公式に謝罪し法的に賠償しなさいと言い続けてきました。この要求は千年万年変わることはありません。みなさん聞いてください。悔しくてやりきれなくて辛い話です。合意は仮ににするならば本人としなければなりません。しかし本人の私は知らされていませんでした合意はしたことも判を押したことも聞いたことありませんでした

 「私たちはひたすら公式謝罪と法的賠償を求めていただけです。10億円は汚らしいと思います。7月28日に和解癒し財団を作ったそうです。ここに来る前に議員とともにナヌムの家で記者会見をしました。10億円は日本に帰し、財団は中断しろとはっきりいいました」

 「被害者が初めて申告したときはまだ60代でした。日本に謝罪と賠償を求めることを明確にしました。私は日韓の取り決め「合意」は無視します

「歴史の生き証人のイ・ヨンスは平和を願う女性人権活動家として世界中を飛び回っています。必ず日本から謝罪と賠償を勝ち取って見せます。私に力をください。いま89歳です。この年は活動するのに運動するのにピッタリの年です

WAM(女たちの戦争と平和資料館」館長池田さんから脅迫状が届いた報告
 集会の終わりに、WAM館長の池田さんから、先月に届いた脅迫状についての報告があった。

10月5日、爆破予告の脅迫状が届きました。「爆破する、戦争展示を撤去せよ。朝日赤報隊」と書いてありました。WAMがオープンする前後からいやがらせとか、脅迫めいたメールとか、右翼団体が来たことかありましたが、このような爆破予告の脅迫状は初めてだったので緊張しました。警察に被害届を出したのですが、はがきの指紋鑑定もしたがまだ犯人は誰なのかわかっていません

 今年6月に、日本含め8ヵ国でリストを作ってユネスコの世界記憶遺産に被害者の声を登録申請し、その後に事務局的役割もしているWAMに対する攻撃が、事務局長を名指しで攻撃してくるとか目につくようになったという。
元議員の杉田水脈(みお。日本維新の会から次世代の党に党名変更)が変装して偵察に来たり、桜井よしこ氏がWAMを中傷する記事を産経新聞や正論に度々書いてきたことも指摘。

 「いまの安倍政権のように慰安婦問題をなきものにしようとしている政治の元で、メディアが率先してある種の攻撃目標を特定のところに書くということは、集中的な攻撃対象になりやすい。身の安全を守るために最大限警戒しながら仕事を続けていきたい。今日の被害者声を聞いても、このような声や資料をさらにもっと集めて保存公開していくことは日本人の責務だと改めて感じた。決してひるむことはない。励ましの声が届いたことはありがたい

梁澄子(全国行動共同代表ヤンチンジャ)さんの閉会あいさつと外務省への要請行動について
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 「サバイバー、家族、支援のみなさん全員そろって外務省に行くことになっていました。が、外務省が10人にしろと昨日言ってきたのです。日韓合意前は、私たちが要請書をもっていくとどうぞどうぞ、何人でも記者でも何時間でもどうぞと手厚い対応でした。これが本当に外務省かと驚いていたのですが、日韓合意後、被害者と家族が行くことに対し、10人にしろと手の平を返した態度です。サバイバーと通訳がいくとそれだけで10人です。間をとっていくれている議員さんが何を言ってもだめなんですね。受け入れる気がないことを示しています」

 「日韓合意の中では「責任を痛感しお詫びと反省を申し上げる」と言っているのですが、韓国国籍を持ち、「和解・癒やし財団」のお金、日韓合意を受け入れる被害者の人にだけ責任を感じてお詫びを申し上げ反省をするということでしょうか。

 子どもが考えても、誰が考えてもおかしい。常識ですよねということを去年12月いらいからずっと言ってきた。日本国内には、子どもが考えても非常識なことを受け入れ、何とかこれで政治的に外交的にこの問題を終わらせたい、二度と聞きたくないという人が意外に多い。メディアがまずそうでしょう

「日本のメディアが政府に対する批判精神を失っています。官僚が記事書いているように思えます。彼らからは私たちはいなくなってほしい存在なんでしょう。しかし、みなさんは被害者の声を聞きました。真実の究明と正義の回復を求める。公式謝罪と法的賠償を求める。歴史教科書に記述される記録されることを求めるとエステリータさんは言いました。
 日本政府がするべきことは、責任を負うべき対象に対し、何らの差別なくすべての被害者が受け入れられる案を提示すること。事実をありのままに認め、被害者が許すまで何度でも謝罪し、再発防止のための取り組みを続けていくことが日本政府に求められています
」。

市民がこの立場に立ち返らないといけません。市民が官僚でもないのに国と一緒になって被害者に対し政府との間で決着つけたんだから黙れよなどという情けない姿をさらさないように、隣の人に語りかけていくことが必要です。また一から始めましょう。それが日本の市民の使命だと改めて思いました。全国行動は今後も取り組みを続けていきますので一緒に続けていきましょう」


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