文化・芸術

2019年3月23日 (土)

「痛みを分かつこころ」とは。9年目の東日本大震災と原発事故(福島、宮城、岩手3県巡りからPart2。大津波被災地巡り)

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今回は約3年ぶりの岩手県と宮城県の大津波被災地取材だったが、何よりも強く感じたのは、「9年目に入ってやっとここまで来たか」、もしくは、「まだここまでなのか」というある意味、愕然とした思いだ。
大津波被災地は原発事故被災地のように腰の据わった取材ができていない。そのため駆け足取材となりがちだ。とはいえ、震災後からの変化は、現場に立つ機会のない人にとっては、写真などで比較しないとわかりにくい。なので、変貌ぶりの一端を知る目安にはなる。


3月14日、宮城県東松島市、石巻市

宮城県で石巻市、気仙沼市に次いで犠牲者が多かったのが東松島市。犠牲者数は1132人

0182_dsc8448宮城県東松島市野蒜。大津波でなぎ倒された松林。2011年3月撮影。

_yyy4284sumiweb 松林だった公園跡は整備され苗木が植樹されていた。2019年3月。


石巻市門脇地区

全被災地のなかでも、最も犠牲者の多かったのが石巻市犠牲者数は3552人

018web2011年3月撮影。奥の方に門脇小学校校舎が見える。
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大津波と火災の両方で全損した門脇小学校。2011年3月撮影。
_yyy4309sumiweb_12019年3月撮影。


3月15日、盛岡市、岩手県大槌町、陸前高田市

 1286人が犠牲となった岩手県大槌町は旧役場のあった町中心部も吉里吉里も大規模なかさ上げ土木工事の成果とはいえ、8年間の変貌が強烈だ。大槌町役場は解体され更地化されていた。震災遺構として残すかどうかが住民の間でも問われたが、町長と議長が解体に賛成したということだ。

 私たちはあれほどの犠牲と被害の教訓を、これから生まれてくる子どもたちに残すことができるのだろうか?
_aaa0519大槌町中心部。2011年8月撮影
_8ds9515jpgsumijpgweb同、2015年5月撮影。かさ上げ工事が進んでいる。
_yyy4516sumiweb同、2019年3月撮影。表面的には全く新しい街並みが出来つつある。
_aaa3124sumiweb大槌町庁舎、2012年9月撮影。町長はじめ40人の職員が大津波の犠牲となった建物。大津波の教訓を震災遺構として未来世代に残すかと思われたが。
Dsc_0447sumiweb大槌町庁舎跡。2019年3月撮影。
Dsc_0443sumiweb同庁舎解体後の追悼小屋、2019年3月撮影


大槌町吉里吉里

中心部とは異なる湾に面したすり鉢状の吉里吉里も変貌ぶりが激しい。大津波による壊滅ぶりを知らないと、どこがどうなったのかが全く見えない。大津波で浸水し家屋が壊滅した地域のかさ上げはかなり進み、すでに新しい住宅街が形成されつつあった。新築の家屋群を見ていると、どうしても頭の中で比較してしまうのが、原発事故被災地の家屋が解体され、更地化されても、住民が戻ってこない福島県浜通りの光景だ。どちらも残酷な点は変わらないのだが、将来的な展望を考えると、大津波被災地の新築家屋の光景がまぶしく見えてしまうところがある。

_aaa9648web2011年6月
_aaa4823jpgweb2011年4月
_yyy4406sumiweb2019年3月。幹線道路が画面左の海寄り、高くかさ上げした場所に移っているのがわかる。
_8ds9446jpgsumisumiweb高橋英悟住職、2015年5月
_yyy4433sumiweb2019年3月
_yyy4372sumiwev高橋英悟住職、2019年3月
 震災後の4月から不定期だが取材してきている吉里吉里吉祥寺の高橋英悟住職はこう話された。
「被災者の多くがまだ区切りがついていない。住民の命を守る防災に対する備えを考える時期に来ているのに、防潮堤ができてから考えることを止めてしまっている状態です。旧庁舎解体をめぐる感情の対立。20年30年後の子や孫たちに何を残せるか。どう生きるべきかという大人としての背中を見せられない」
こうも指摘した。
「生きるための希望が見えない時代。お金も物もあるのに人の心は満足しない。自分のためだけに生きることではなく、人を大切と思うことで生きる力や希望が湧いてくる」
高橋住職も「他者の痛みを知り共感する心」の重要性を説いていた。
_yyy4471sumiwebかさ上げされ新築住宅が再建された吉里吉里の一部。2019年3月撮影
_yyy4476sumiweb同、2019年3月撮影。

原発事故被災地にも大槌町吉里吉里と似たような光景が広がるが、その意味は正反対だということを想像してほしい。大震災と原発事故から8年。福島県浪江町では地震で壊れた家屋や住民が帰還を諦めた住宅や店舗などが解体工事の真っ最中。常磐線浪江駅前商店街に面した一帯も家屋が次々に解体され、あちらこちらに空地ができていた。元の人口は22000人だった浪江町。避難解除された地域に帰還した住民は約900人。何とも残酷な現実ではないだろうか。
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福島県浪江町。2017年12月撮影。
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2017年12月撮影。


陸前高田市(犠牲者数は1757人)

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2011年3月撮影。震災後の陸前高田市に初めて足を踏み入れた時の見渡す限り破壊され尽くした光景を忘れることはできない。どこをどう撮ればいいのかも見当がつかなった。

壊滅した広大な陸前高田市の復興を想像してみると、瓦礫を徹底して片付け、ゼロから街全体のかさ上げをし、そこからようやく生活に欠かせない建物、商店街、住宅街などなどの再建ということになる。国がオリンピックにかける予算の何倍も必要なのは容易に想像できるのではないだろうか。

_8ds9655jpg2015年5月撮影、左端の三角形の建物が大津波の破壊を多少は免れて残った道の駅。
_yyy4606sumiweb2019年3月撮影。道の駅以外は全体的にかさ上げされている。道路向かいのガソリンスタンド「オカモト」は、元の場所での営業再開は諦めたようで、1キロ以上離れた場所で営業再開していた。
_yyy4582sumiweb五階建てのアパートが震災遺構として残されるようだ。高さ14.5メートルまで津波が到達したことを示す表示が五階部分に取り付けられている。元は「下宿定住促進住宅」だったとある。


被災地の一部を駆け足で見ただけだが、あの大震災から9年目に入っても、「復興」は途上中の途上に過ぎないと感じるのは私だけだろうか。厳しすぎる現実の背景には、大津波被災地が太平洋岸450キロというあまりにも広範囲に及んでいるためだ。大津波で壊滅した街の復旧復興再建は、どこもかしこも前代未聞の超大土木工事の現場となったわけだから、予算も、重機も、作業員も、どれだけつぎ込んでも足りることはない。追い打ちをかけるように原発事故の収束廃炉作業も同時進行という、まさに国難に立ち向かわざるを得なかったはずだ。

しかしだ、大手メディアは諸手を揚げて東京五輪に熱を上げている。安倍晋三(首相)が国際社会にウソをついて五輪を招致したためだ。安倍自公政権に頭を垂れて忖度することに熱心な公共放送のNHKでさえも、東日本大震災から8年の被災者アンケートの結果、「復興五輪」は「誘致名目にすぎず」(約54%)、「被災地での経済効果」は期待できず(60%)、被災地の「復興を後押しする」とは思わない(約58%)との回答を公表している。アンケートの詳細は以下をご覧ください。
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NHKによる東日本大震災8年、被災者アンケートの結果から、「東京オリンピック・パラリンピックで、以下の項目についてどう思いますか?」との設問に対する回答が注目に値する。被災者にとり、「復興五輪」は「誘致名目にすぎず」(約54%)、「被災地での経済効果」は期待できない(60%)、被災地の「復興を後押しする」とは思わない(約58%)と回答し、否定的回答者の51%が「復興のための工事が遅れる」とし、47%が「五輪の開催費用を被災地に使うべきだ」とまで言い切っている。
NHKの調査とはいえ、被災者の心情が色濃く反映されているではないか。大津波被災地の復興の遅れは、膨大な被災者に対する政府の犯罪に等しいとさえ言えるのではないだろうか?というのが私の個人的な見解だ。


3月17日、神奈川県茅ケ崎市「萩園いこいの里」にて講演と写真展

東北三県の被災地を取材し、信州に帰る前の締めくくりが茅ケ崎市での講演会と写真展だった。

Dsc_0456sumiweb写真詩集「なじょすべ」からの写真も展示した。

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講演タイトルは「いのちと痛みを分かつこころ~東日本大震災と原発事故から9年目に考える」とした。
福島市、二本松市などの福島県出身者も多かった。今回の全取材を通じ、私が改めて実感し、被災地を取材し続ける者として繰り返し伝えてゆかなければいけないと考えたのは、関さんの代表的な詩「なじょすべ」の結びで表現されていた。
「悩むこころに 沿うてくれ
オレたちに 欲しいのは
痛みを 分かつ こころだよ」


・蛇足として
私たちはどうしたらいいのか、何をしてはならないのか。関さんの詩を基準にすることで自然とわかるのではないだろうか。

PS:東京五輪は被災地の復興に役立つか?Part2(大津波被災地で聞いた)2013年9月25日

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2019年3月21日 (木)

「痛みを分かつこころ」とは。9年目の東日本大震災と原発事故(福島、宮城、岩手3県巡りからPart1)

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イチエフの排気塔やクレーンが見える浪江町請戸海岸で、深々と首を垂れる田中徳雲さん。


3月9日から17日にかけ、東日本大震災と東電福島第一原発事故から8年が経ち9年目に入る福島、宮城、岩手の被災3県を一気に取材し、神奈川県茅ケ崎市で講演と写真展をしてきました。写真は移動順です。写真40点超、動画一本をアップしてあります。動画はスウィング・マサさんの、南相馬市の大津波被災海岸での失われた命への演奏動画です。

私たち1人1人に、被災者に対する「痛みを分かつこころ」があれば、大地震、大津波、原発事故被災者の悲しみや苦悩も緩和され、生活再建が一歩前進する希望となることを改めて強く実感した取材行でした。
それは、社会に蔓延する自分さえ良ければ構わない、自分の会社さえもうかれば良い、自分の国さえ経済が好調であれば良いという現代社会を立て直す処方箋ともいえる生き方だと感じます。


「痛みを分かつこころ」とは、関さんの詩「なじょすべ」の結びの表現です。
「オレたちに欲しいのは 痛みを分かつ こころだよ」
何年経っても、2万人以上の犠牲者を生んだ東日本大震災と原発事故を忘れないことであり、教訓を必ず生かし繰り返しの愚を引き起こさないための生き方を選択する意思の現れだと言い換えることができるといえます。


「痛みを分かつこころ」は表現は多少の違いがありますが、私が取材し発言を書き出したみなさん(南相馬市小高区同慶寺田中徳雲住職、浪江町希望の牧場・ふくしま代表の吉沢正巳さん、飯舘村の元酪農家長谷川健一さん、岩手県大槌町吉里吉里吉祥寺高橋英悟住職)は、それぞれの表現で話していますが、つまるところは同じ意味合いのことを伝えようとしていることがわかります。


3月9日、福島県二本松市。

写真詩集「なじょすべ」が刊行されて初となる関さん主催のイベント「3・11を忘れない、いのちが大事の集い」が二本松市男女共生センターで開かれた。この建物には深い因縁がある。

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関久雄さんと私の写真詩集「なじょすべ」共著者二人組。「なじょすべ」からの初めての写真を10点ほど展示。

_yyy2482sumiweb楽器すべて手作りのへんてこ本物アーティストミュージシャンで絵本作家でなんでも抜群センスのだるま森さん。
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_yyy2383sumiweb写真詩集「なじょすべ」から自作詩を朗読する関久雄さん。

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関久雄さんを真ん中に、「3・11を忘れない、いのちが大事の集い」の参加者とスタッフのみなさん。2019年3月9日、二本松市男女共生センター。

8年前の3月16日、私は田村市の総合体育館に避難した大熊町町民の取材の過程で自衛隊からの情報を得て、フォトジャーナリストの森住卓さんとこの場所に駆け付けた。駐車場では自衛隊が除染テントを開設し、浪江町の住民がバスや車で避難移動してきた。住民は建物に入ると3列に並ばされ、完全な防護服姿の者たちにより、ガイガーカウンターで頭からつま先まで放射能検査を受けていた。あたかも放射能に汚染された迷惑物質扱いだった。中に入って撮影したいと交渉したがダメだったので、森住さんと窓越しに撮影したいろんなことを思い出す建物だった。建物の壁には「放射能ゴミ」と書かれたビニール袋があり、住民の物とも思われる衣類がパンパンに入っていた。駐車場の空間線量は9マイクロシーベルトあった
3月10日、南相馬市小高区同慶寺から海岸沿いの防潮堤の上や下を歩き、浪江町請戸海岸までの「慰霊の行進」が実施された。
(原発事故後はみんなの意識が変わりそうに思えたのに)なぜ私たちは変われないのか?そこで気づいたのが、便利な生活を少なくとも享受してきている私たちの世代はみなそうだと思いますが、自分自身の中に東京電力があるという心の問題です
(南相馬市小高区同慶寺田中徳雲住職)
Dsc_0185sumiweb同慶寺を出発する間際の参加者。 _yyy2707aumiweb海岸沿いを歩き出来たばかりの防潮堤の上も行進。田中徳雲住職が許可を取り付けていたから可能となったコース。長〜い距離となったが参加者の皆さん、本当によく歩いたものだ。 _yyy2748sumioweb _yyy3186sumiweb _yyy2956sumiweb _yyy2878sumiweb _yyy2867web行進参加者は「南無妙法蓮華経」と書かれたお札を海に流す。

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大震災と原発事故で亡くなった諸霊を弔う矢向由季さん。
_yyy3174sumi時には完成したばかりの防潮堤の上を行進し、時には防潮堤の下を歩く。

_yyy3131sumiweb_1
_yyy3158sumiweb南相馬市小高区井田川地区の大津波犠牲者24名の名を刻む慰霊碑で立ち止まり、死者を供養する田中徳雲さんら慰霊の行進一行。

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_yyy3297sumiweb写真詩集「なじょすべ」の共著者で福島弁で詩をつづる関久雄さんも慰霊の行進に参加。
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_yyy3328sumiweb請戸港に到着した一行。

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慰霊の行進目的地の浪江町請戸海岸に到着。請戸港一帯では大津波により182名の死者が出た。8時半にお寺を出発し、午後3時過ぎに着いた。
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イチエフの排気塔やクレーンが見える浪江町請戸海岸で、深々と首を垂れる田中徳雲さん。



3月11日、福島市。「第8回原発いらない地球のつどい」に参加し、「なじょすべ」写真展示。有志による反原発歩きデモ。県庁前で独り街宣する吉沢正巳さんに合流。氷雨降る中、吉沢さんはカウゴジラと化していた。

Dsc_0254sumiweb「第8回原発いらない地球のつどい」の分科会。持参した「なじょすべ」写真は急きょパネルに貼らせてもらった。

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_yyy3602sumiweb3月11日、「第8回原発いらない地球のつどい」の集会終了後、有志が歩き行進をした。気合の入ったスウィング・マサさん。

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200万人県民みんなで後始末の苦しみを連帯責任を負うしかありません。県知事も悪かった。県議も県選出の国会議員も悪かった。県庁も県民も原発を止めることがなかった。みんなで原発事故のこの汚染の苦しみを負っていきましょう。オリンピックはいりません。3・11は終わっていません

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いつまでも福島差別が続くんだったら福島県民はいうべきだと思います。東京湾で火力発電や原発で東京湾で関東の電気を作るんだよと。福井県民、新潟県民のみなさん、再稼働するんだったら、死んでも町がなくなっても家に帰れなくなってもいいんだね。そういう覚悟がなければ再稼働はなりません
(県庁前で雨の中、独りでスピーチする吉沢正巳希望の牧場・ふくしま代表)

3月12日、浪江町希望の牧場、南相馬市
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「ふくしま・考える人の駅」町に帰還する住民が少なすぎるための観光客呼び込み作戦か?希望の牧場に実に怪しげな駅名看板が登場していた。意味深なセリフも書かれていた。「取り返しのつかないものだとわかった原発とサヨナラをする」 原発事故から9年目の朝。
D1bfosovyaawzt2一見、飽食の牛たち。減ったとはいえ、278頭健在とのこと。希望の牧場・ふくしまの9年目 D1brueluyaabmds露出してしまった牛の骨に生花を供えた慰霊の空間も。原発事故から9年目の朝。

_yyy3714synuwev仲の良い姉と弟???ロールえさを牛舎に運ぶお姉さん。野菜くずを落とす吉沢さん。それにしてもエサは不足気味だ。
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「オレたちには力がなかった。プルサーマルを止めることができなかった。言うべきは言ったが止められなかった。実力を持たないと話しにならない。力不足だった」と、原発事故が起きる前のことを振り返る吉沢さん。

D1dfjf6vyaemwgg_1「なじょすべ」のカバー写真で使った馬を飼う相双ファームの田中信一郎さんに写真集をプレゼント。南相馬市小高区にある田中さんの厩舎は津波に襲われたが馬たちは生き延びたものの、原発事故により避難指示が出たため、9頭の馬が餓死したという。写真の馬は原発事故を生き延びたが撮影後に病気で死亡したとのことだった。
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「なじょすべ」でネコ二匹が登場する南相馬市原町区の滝沢昇司さんの牛舎。北海道の畜産大学を卒業した長男・一生くんが手伝っていた。原発事故当時は中学生だった。彼は4月から四国の酪農家で一年修行してくるという。
_yyy4080sumiweb酪農一本だけでは経営難になりかねない現状を見越して、脱原発の意味も込め、滝沢昇司さんは発電事業主として大転換した。牧草地を使って営農型発電を大展開中。現在10数か所に設置済み。さらに増やす予定。現在だけでも総発電量は750キロワットに相当すると言った。南相馬市原町区。
_yyy4028sumiweb南相馬市小高区羽倉地区に立てられた、環境省が目論んでいる「汚染土再利用」反対ののぼり。除染土を常磐自動車道の車線拡幅工事に再利用する環境省の実証事業案に対し、地元の羽倉(はのくら)地区が猛反対している。毎日数百台の除染土を積んだダンプカーが常磐道を走っている。
_yyy4034sumiweb羽倉地区同様に避難指示が解除されている南相馬市小高区大富地区の仮置き場外に置かれたモニタリングポスト。0.425マイクロシーベルトの数値を示している。この線量でも避難指示解除されているのが除染と避難解除の実態。
_yyy4259sumiweb三台、四台と隊列を組み、除染土を積んだダンプカーが常磐自動車道を忙しく走る。
3月13日、浪江町、南相馬市、飯舘村
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「帰村した住民は1300人。100パーセント65歳以上の高齢者だ」
「生き甲斐はない。夢も希望もない。ただ生きているだけだ」
飯舘村の自宅に帰還した元酪農家の長谷川健一さん。自宅前の田畑がフレコンバッグの仮?置き場になっている。
酪農には未練はないと、牛舎跡にはそばの脱穀、製粉関連の一連の機械を補助金を活用して設置した。広大な畑地にはソバに、かつての水田は荒野にしないための除草の仕事は毎年しっかりと取り組んでいるという長谷川さんだが・・・。 長谷川さんは菅野村長のなりふり構わぬ独裁にあきれ返っているとのことだった。まだ60代半ばで、あれほどに元気だった長谷川さんの本音の背景を知ろうとすることが、「痛みを分かつこころ」ということに、遅すぎるかもしれないが私たちは気づく必要がある。
_yyy4123suiweb飯舘村上空をオスプレイが低空で飛んでいった。長谷川健一さんによると、オスプレイを見るのはこれで三回目だといった。オスプレイは日本列島上空を我が物顔で飛び回っている。2019年3月13日。

_yyy4207sumiweb富岡町の常磐線富岡駅隣で稼働していた仮設焼却炉があっという間に解体撤去作業中だった。
Yyy_3329jpgsumijpgweb三菱重工系のJVにより600億円で受注され、富岡町内の可燃性除染ゴミを焼却し濃度の高い灰にしていた施設の一つだが、稼働中に異様を誇った建物は見る影もなくなっていた。
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環境「汚染」省による同様の仮設焼却炉で目につきやすく代表的なものは浪江町請戸海岸に500億円の予算で建設され稼働している仮設焼却炉がある。同様の仮設焼却炉は主に避難指示区域に建設され、28ヵ所で総額は2800億円を超すと指摘されている。富岡駅隣のものはその一例に過ぎないが、先進国といわれる日本の環境保護?の実態だとすればわかり易い。政府にも官僚にも大半の国会議員にも、被災者の痛み悲しみを思いやり、それを政治に行政に反映することができていない。ましてや、復興五輪の美名で1兆円とか2兆円をオリンピックに浪費することは、「犯罪的」と表現しても不十分だといえるのではないか。


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2019年1月 8日 (火)

広河隆一氏の性暴力問題についての個人的見解

 広河隆一氏(現在75歳)と取材現場が一緒だったことが二度ある。
週刊文春で報道された広河氏の性暴力問題と広河氏のジャーナリストとしての実績についての個人的な見解を明らかにしておきたいので、長文になるが最後まで読んでいただきたい

 ようやく最初のテーマとなるフィリピンの継続取材をしている程度の実績のないカメラマンだった私にとり、雲の上の人のような報道写真家の広河隆一氏と初めて取材現場が一緒になったのは湾岸戦争直後のイラク取材だった。1991年のことだ。イラク取材ビザは出なかったため、イラク市民緊急支援を目的とする日本の市民グループのボランティアメンバーの一員として、1991年5月にイラク入国。ボランティアリストには私同様に取材目的で広河隆一氏やテレビ局の記者なども名前を連ねていた。

 広河氏と同じ現場を取材しても、広河氏の知名度や力量には太刀打ちできるわけもないので、イラク戦争直前にパレスチナとパリで取材した国境なき医師団(MSF)のイラク国内で緊急医療活動の取材を試みることにし、ヨルダンとバグダッドのMSFと連絡を取り取材ができるかどうかを探っていた。

 その甲斐あって、バグダッドからは広河氏たちが同行した支援グループと分かれ私は別行動をとり、医薬品や支援食糧物資を満載したMSFの大型トラックの助手席に乗りイラク北部のクルド人居住圏に入った。その結果、クルド人居住圏でのサダム・フセインの軍隊による徹底的な破壊と略奪行為と国連関係者の姿もない中で医療活動活動するMSFによるクルド人国内難民の孤立した状況の取材に成功した。週刊現代や朝日ジャーナル誌のグラビアで報道することができた。中東の取材に慣れない私にとってはできすぎた結果だったといえる。 

 この時の二度の中東取材で私は以下のように結論づけた。
『武力によって国際問題の解決を計ることが、「秩序」とは裏腹に新たな「混乱」をつくりだす事を改めて証明したのが1991年の「湾岸戦争」だった。戦争はパレスチナ問題には消極的な姿勢をとり続けてきた国連と、アメリカをはじめとする西側大国のダブルスタンダードを明らかにした。アメリカや日本も含めた西側大国の価値観に根ざした「国際秩序」や論理に翻弄されてきたアラブ人やイスラム教徒の心に、取り返しのつかない不信感や憎しみを植えつけてしまった。それが湾岸戦争の残したものだった』

 ちなみに、私は広河氏の超広角レンズの付いたカメラとビデオカメラ一台と録音機を首から下げ、同時に取材をすすめる姿にうなった。動画の訴求力を広河氏はすでに多用していた。

 二度目は20年後の福島原発事故直後の取材だった。
 2002年、「9・11」同時多発テロと米国によるアフガニスタンとイラク攻撃という報復攻撃以降、ジャーナリズムの在り方が問われ、ジャーナリストの取材と報道の権利と義務を守ることが困難になってきたことなどの状勢に、広河隆一氏が中心的な発起人となってJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。フリーランスのフォト・ジャーナリストやビデオ・ジャーナリストで構成)が設立された。志を同じくする私もの会員の一人として活動を共にし、JVJA主催でイラク戦争写真展などテーマも異なる数多くの写真展や報告会を開催した。

 2003年に岩波書店から「世界の戦場から」シリーズ全11冊プラス別冊が刊行されたが、広河氏の知名度と影響力抜きには出版されなかった大型企画だと思う。広河隆一氏が総編集となり、パレスチナ、チェチェン、イラク、ハイチ、核汚染、環境破壊など、JVJA各会員が長年取材してきたテーマがわかり易くまとめられた写真集シリーズとなった。「刊行の言葉」としていみじくも広河氏はこう記している。

ジャーナリストは人間の何を守るための存在であるべきなのか』 

 私は長年の取材フィールドとしてきたフィリピンを、「フィリピン~最底辺を生きる」として出版できた。あとがきには、「長年の取材を生かす機会をこの写真集シリーズで与えてくれた広河隆一さんに感謝する」と私自身が記している。

 実はJVJA会員として活動を共にする前には、広河氏の代表的な分厚いルポルタージュ「人間の戦場」(1998年)の書評を信濃毎日新聞に寄稿したこともある。広河氏の報道写真家としての凄さとパレスチナやチェルノブイリの子どもたちの支援活動を立ち上げ、息の長い支援を続ける姿勢に敬服していたからだ。

 2003年に広河氏が責任編集で出版を開始したフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」の出版企画には積極的に賛同し、1986年から親交のあった報道写真家福島菊次郎氏に賛同人になってもらうことを広河氏に提案した。「DAYS JAPAN」出版の賛同人に名を連ねた伝説の報道写真家・福島菊次郎さんの生き様とそのドキュメンタリー写真の連載に読者が触れるきっかけを提供した。

 広河氏のジャーナリストと支援活動の両輪の実績を尊敬していた私だが、広河氏のJVJA代表初期に転機が来た。DAYS JAPAN誌上で広河氏が多用する某著名写真家が、ビルマ(ミャンマー)軍事政権主催の写真展を新宿の著名なフォトギャラリーで開催した事実について私が問題視し、編集長としていかがなものかとJVJA全体会議で問い正したからだ。身の程知らずの若輩者がフォトジャーナリストの「大御所」であり業界の「権威」の広河氏に盾ついた格好になる。その写真展は少数民族と民主化を求める市民を弾圧、逮捕投獄し民主主義を否定する軍事政権による国外向け観光キャンペーンの一環のような内容だった。軍政下における社会問題を取り上げた内容は皆無。著名な写真家の世渡りのうまさと思想信条のかけらもないような姿勢に、長年ビルマ(ミャンマー)の民主化運動と少数民族の自決権問題を取材してきた者として黙ってはいられず、軍事政権に肩入れするような写真家をDAYS JAPAN誌上で多用することは間違っていると指摘した。JVJA会員を辞める覚悟での私の問題提起に対する反論はない曖昧なままでその場は終わった。広河氏と関係が疎遠となったのも自然の成り行きだ。

 その後、広河氏はDAYS JAPAN編集長に専念することを主な理由にJVJA代表を退き、JVJAは共同代表制となった。広河氏がJVJAから正式に脱会したのは2008年。

 広河氏とは顔を合わすこともほとんどなくなったが、少しでも原稿料を稼ぐためにDAYS JAPANにも写真を売り込み、「老い~生きる達人」(6ページ、2007年2月号)、「証言者たちの戦争」(8ページ、2007年10月号)、「産む歓び」(8ページ、2008年7月号)などの特集が掲載された。

 そうした中で起きたのが東日本大震災と福島原発事故だ。発災日夜にJVJA仲間のメーリングリストに福島取材向かうことを提案。翌早朝、JVJAの野田雅也(以下敬称略)を新宿駅前で拾い、3月12日夜には福島県田村市の小学校に緊急避難したばかりの大熊町町民の取材を二人で開始。その晩には郡山市内のホテルに森住卓、豊田直己、綿井健陽、野田雅也と私をいれた5名のJVJA会員と広河DAYS JAPAN編集長が合流。

 翌13日は車3台、6人の共同取材を開始。福島第一原発から3.5キロの双葉町役場、双葉厚生病院、常磐線双葉駅界隈などを取材。町から住民の姿は消え、双葉厚生病院前では広河氏、森住、豊田が持参した三台のガイガーカウンターで空間線量を測定し、1000マイクロシーベルト毎時(1ミリシーベルト)以上という異常に高い放射線量を測定した。その事実はテレビなどでは全く報道されていない原発事故の怖ろしい現実を伝える内容だった。その日の夕方までにはネットを通じて共同取材の結果を拡散した。6人の合同取材はイラク取材をまとめた映画製作で知られる綿井氏が撮影し、You-Tubeに公開され再生回数7万回を超えているので既知の人も多いだろう。三日間の共同取材を通じ、広河氏からは無視されていることを痛感したことを覚えている。

 その後は広河氏と取材現場が一緒になることはなかった。そして今回の週刊文春報道で明らかにされた広河氏の著名度と「権威」を利用した、あまりにもひどい性暴力問題だ。「7人の女性が証言」と報道された。あってはならない女性の人権無視だ。JVJAは昨年12月31日に広河氏の性暴力問題についての緊急声明を出した。全文はJVJAのホームページで目を通していただきたいが、一部だけをここに抜粋しておきたい。

私たち自身、これまでに写真展や報告会などを広河氏と一緒に開催しておきながら、重大な人権侵害に気づくことが出来なかったことは、深く反省しています。「彼がそんな行為をするはずはない」とする権威主義に陥り、加担していたと言わざるを得ません。
 広河氏はまず、被害女性一人ひとりにきちんと謝罪し、その罪を償うべきです。さらに公の場で自らの言葉でもって、事実関係を説明し、その社会的な責任をとるべきです

 週刊文春の記事は、広河氏がジャーナリストとして長年積み上げてきた裾野の広い山を自らの行為でぶち壊してしまうほどの内容で、パレスチナ問題であれ原発事故であれ、弱者の側に立ち世間に訴えてきた姿勢とは真逆だ。活動を一時期共にした者としては俄かに信じがたいものだったが、広河氏とは疎遠のせいか記事内容に近い女性問題を私自身が耳にしたことも、JVJAの仲間から噂を聞くこともなかった。言い訳になるかもしれないが、福島菊次郎さんのような人間的魅力を広河氏に感じていなかったから、広河氏のプライバシーに関心がなかったからかもしれない。

 今回の報道がなければ、いずれはその名を関した写真賞が創設されることは間違いないほどの実績と知名度と影響力を持つのが広河氏だ。40冊を下らない著書。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、土門拳賞、日本写真家協会賞年度賞などジャーナリズムと写真関係の賞を総なめにもしている。個人的には、「写真記録 チェルノブイリ消えた458の村」の、放射能汚染により住民が二度と住むことが不可能となり、土砂で埋められる村々のスティール写真は鳥肌が立つほどに凄まじかった

 広河氏の権威と信頼の失墜、ジャーナリズム全体への信頼の失墜は測りしれないが、広河氏に触発されパレスチナ問題などをテーマにフォトジャーナリズムの世界に身を投じてきた同業者の失望感は尋常ではないだろう。私の失望感はそこまでではないかもしれないが、残念極まることには変わりない。

 ただ、ここで何よりも重要なのは、広河氏がジャーナリズム界で果たしてきた大きな役割を知らない一般の人の視点だろう。一般的には広河氏の実績がどう扱われるのかよりも、広河氏が被害者に対しどう責任を取るのかということだけに関心が集まるのが自然だ

 今年は敗戦から74年。国策の侵略戦争中、軍部の予算を利用して対外宣伝雑誌を次々と創刊した写真家がいる。彼の名前を冠した写真賞まで創設された名取洋之助だ。名取はLIFE誌のように洗練された日本のフォトルポルタージュの草分け的写真雑誌「NIPPON」を1934年に創刊。当初は日本文化や産業を海外に紹介する内容を目指したようだが、侵略を正当化する内容に変わり、「NIPPON」は44年の36号まで刊行された。軍部との関係を強めた名取は、プロパガンダ目的の広報雑誌6誌を創刊。陸軍による謀略雑誌「SHANGHAI」(1938年)や関東軍報道部出資の「MANCHOUKUO」(1940年)などを刊行した。

 戦後、名取が自らの戦争責任を総括した様子は残念ながらない。その点は、昭和天皇をはじめ、殺生を禁じる伝統仏教の各宗派や高名な僧侶も、侵略戦争を支持しながら戦後は贖罪の意識をあいまいにしたのが日本社会なので、名取だけを責めることもできない。

 写真界での名取の戦後の功績は、1950年から刊行された岩波写真文庫全286作の編集責任者として能力を発揮したことだろう。名取は1962年に53歳で没したが、日本写真家協会により新進写真家の発掘と活動を奨励するため、2005年に名取洋之助賞が創設された。戦争への積極的な関わりなどとは無関係に、「名取洋之助」の名を冠した賞は高く評価されている。だからといって、名取の戦争への積極的な加担をあいまいにすることは、後に続く後輩たちが同じ過ちを繰り返す言い訳を残すようなものだ

 写真は一度発表されると、撮影者の意図とは裏腹に一人歩きする。すでに評価が定着した広河氏の作品、著作、映画などを全否定する動きが今後あるかもしれない。しかし、10年、20年の長いスパンで見れば、性暴力被害者の女性たちの心情とは切り離された形で、訴求力があり忘れがたい作品は残るのではないか。それは広河氏の潔い責任の取り方次第でもあるといえる。

 自戒を込め、ジャーナリストに対する信頼の低下をどう回復するかは残された者が努力する他はないと覚悟している。


 

 

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2018年12月27日 (木)

インド「カーランジー村仏教徒一家殺害事件」について(2006年、宗補ホームページよりの復活ブログ)

 今年9月末にインド中部の村で起きた仏教徒一家4人殺害事件がきっかけで、インド中の仏教徒が抗議デモを各地で展開し、それに対抗したカースト差別事件が頻発し深刻な社会問題が起きている

 この殺害事件は、たまたま私が佐々井秀嶺師を密着取材期間中に起きた。ムンバイ(ボンベイ)でカースト差別の具体例を取材中だった私は、仏教徒の人権活動家からこの殺害事件を知らされ、夜行列車でナグプールに戻り、10月中旬に事件が起きた村とただ一人の生存者である父親を取材した。明らかなカースト差別により起きた殺害事件は、インド仏教徒の聖地であるナグプールとその周辺一帯では珍しく、事態は深刻だったが抗議デモがその後にインド各地で暴動にまで発展するとは誰も想像していなかった。

 私は10月12日に現地取材と生存者取材をしたが、事件のあらましは次の通りだ。

 仏教徒一家4人が殺害されたのは2006年9月29日の夕方、ナグプールから車で2時間のバンダーラからさらに車で30分の田舎町、カーランジー村で起きた。一家4人が多数の村人にリンチされ殺害された。遺体は村の外にある用水路に捨てられているところを発見された。取材当日に町中でクリニックを開業する仏教徒の医師から入手した遺体の記録写真を見ると、母のスーレカ(35歳)は赤いサリーを身につけていた。娘のプリヤンカ(17歳の高校生)は全裸だった。二人の息子、21歳のスディール(身体に障害を持つ)と18歳のローシャン(大学生)は下着のみの状態だった。いづれも、激しい殴打を物語る紫色に変色した痕跡が顔だけでなく体中に見られた

 幸運にも父親のバヤ・スダム・ボッツマンゲ(41歳)だけが一人生き残った。彼はたまたま家を留守だったために、村人に捕まることなく助かったのだった。おぞましい事件は一見静かで平和に見える村の入り口にある広場で起きた。ポンプ付きの井戸、小学校の建物や村のコミュニティセンターもある広場だった。私が村を訪れた時には、村人の姿はほとんど見当たらずに静まり返り、小学生が井戸に集まって水を飲んだり水を汲んでいる状態だった。

 村の中に警察がテントを張り駐留し、被害者のボッツマンゲ一家の家の前にも警察のテントが張られていた。ある種の無言の圧力がかかっているようだった。被害者の家は村の中でも明らかに粗末な作りで、入り口はカギがかけられ、誰もいなかった。生存者のバヤ・ボッツマンゲさんは、身柄の安全のため町にある政府の宿舎に保護されていた。

 その宿舎で仏教徒の人権活動家と地元のメディア関係者を前に、バヤ・ボッツマンゲさんが現れた。彼は数日間一睡もできず、食事も喉をと通らずに憔悴しきっていた。家族全員を失い生きる気力はないようだった。「求めるのは正義だけだ」と、何とか証言してくれた。

 バヤさんの証言によると、出先から村に戻った彼は、村で起きている事態を知ると、隣村の警察まで走って報告し助けを求めた。しかし、警察官が村に到着するまで3-4時間が経過し、村人によるリンチ殺害事件は終わっていた。状況からして、子供らを含む大勢の村人が取り囲む中で、仏教徒一家の4人は棒やチェーンや鉈などで激しく殴打されたようだ。リンチによる惨殺だ。村人は息子たちに妹をその場で犯すように命令したが、息子たちが拒否したために性器を叩きつぶしたともいう。バヤさんは、警察がすぐに村に向かってくれれば、家族4人も殺されずに済んだに違いないと嘆いた

 カーランジー村は農村地帯にある約180家族500名ほどの村で、そのうち160家族がクンディ(クンビ)・カースト(4番目のカースト階級、シュードラに属す)。つまりヒンドゥー教徒だ。仏教徒は3家族だけだった。残りは指定カーストに属する少数民族だという。事件の背景には、不可触民から改宗した仏教徒を、ヒンドゥー教徒がいまでも不可触民扱いするカースト差別感情が明白だった。事件の直接の動機は、村人が仏教徒のボッツマンゲ一家の土地の所有を妬んだことにあるようだった。土地の所有権問題で訴訟があり、別の仏教徒(シッダルダ・ガジビエ一家)の証言により村人15人が逮捕され(実際は一時的に身柄を拘束されただけのようだ)、釈放されたその日に、村人が報復した結果が一家4人殺害事件だった。当初は村人に不利な証言をしたガジビエ一家が報復対象だったらしく、たまたま留守だったのでボッツマンゲ一家が血祭りにあげられたようだ。 

 ボッツマンゲ家のはす向かいに住む少数民族の一家は、事件の一部始終を知っていると言ったが、恐怖心からそれ以上話すのを拒否した。殺害事件に関与した村人が自分に不利な証言をするはずもない。警察の存在は殺害を実行した村の多数派に味方しているかのような存在に思えた。実行犯が特定しにくい惨殺事件で、解決が困難に思われた。また、仏教徒に限定しなければ、下層民衆がカースト差別により殺されたり不利な立場に置かれているのは、他の州では頻繁に起きていると思われるため、この仏教徒一家殺害事件が格別に大きな社会問題になるとは想像できなかった。

 しかし、カーランジー村仏教徒一家殺害事件は、アンベードカル博士による集団改宗50周年を祝うタイミングに起きたため、新聞で初めて報道されるまで10日間ほど経過していた。ナグプールやマハーラシュートラ州のメディアで詳細が報道されると、ふだんからカースト差別に耐えている仏教徒の積もり積もった怒りに火をつけた。犯人がなかなか逮捕されず、明白なカースト差別による虐殺事件に対し、共産主義を掲げる反政府武装勢力ナクサライトが関与しているなどというデマがメディアや政治家によって広まり、そうしたことが相乗効果となって各地での抗議デモが暴動に発展したようだ。加えて警察による鎮圧で死傷者が続出したりで、大きな社会問題となっている。イギリスのBBC放送も、この事件を取材し11月中旬に報道した。

 佐々井師に電話すると、仏教徒に落ち着くようにメディアを通じて呼びかけているそうだ。しかし、仏教徒の抗議デモに対抗するかのようなアンベードカル像の首を切り取るような事件も起き、沈静化には時間がかかる印象を受けた。佐々井師はシン首相に面会し、殺害事件の早期解決を求めるためにデリーで待機していた。

 カーランジー村仏教徒一家殺害事件は、アンベードカルによる集団改宗50周年に起きた、仏教徒に改宗してもカースト差別や下層民衆に対する人権弾圧の根が深いことを証明する、歴史的に象徴的な事件となっていることを物語っている

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2018年12月25日 (火)

舞踏家大野一雄の口上:1999年6月韓国竹山ジョクサン舞踏講演中

 100歳を超えても踊ることを止めなかった世界的舞踏家・大野一雄さんの韓国公演の取材をした時、屋外での舞踏の最中に大野さんの動きが完全にフリーズしてしまい、右腕を挙げたままその場に立ち尽くし、独り言を話始めた時に、舞台の袖まで近づき、思わずメモった時内容をここに紹介したい。

 1999年6月、韓国の竹山(ジョクサン)で開催された舞踏フェスティバルでのことだ。朝鮮戦争時の激戦地となった谷合が会場となり、観客の大半は韓国の人々だった。

                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「太平洋のニューギニアの方に一万人以上の人が流されまして、そして、食べ物も十分でなくて、死の直前に至るまで奥地に奥地に流され、食べ物もなくなってしまったような時、たくさんの人が亡くなりました。私はその責任者で、・・・。

 ・・・下の下の下の置き去りにされまして、・・・。
 毎日毎日たくさんの人が亡くなりました。私はかわいそうでかわいそうで仕方がなかった。しかし、自分の力ではどうにもならなかった

 ・・・の迎えによってくる時、クラゲのような・・・がたくさん集まってきた。太平洋の真ん中で、何とかしてみんな一緒に帰りたいという気持で・・・・。人が死ぬごとにひとりふたりと死んでいった。

 ・・・のまくられて、船の・・・ところから海に向かってドボンと海中に放り出される。ボッと悲しい音を出しながら死んで投下され、その人たちの霊を弔うために、一万トンの船がぐるぐる回ってお別れ・・・

 海に投下された人たちの・・・何とかして日本に帰りたいと思って・・・帰ることができました。

 私は日本に帰って何とかクラゲのダンスを何とかしようと思った。太平洋・・・とともにし、たくさんの人たちが悲しい歌声を聞きながら海の底に沈んでいきました。クラゲのダンスをして失われた命はもとにかえりませんでした

 その回りを3回ぐるぐるお別れして、長い間、命が海の底に死んでいくその人のために弔い行事を。
 悲しくて悲しくてどうにもならなかった、仕方がなかった。というようなことを何度も何度も経験してきました。
 日本に帰ってからもたくさんの人たちと死者を弔いながら、ごめんなさいとお詫びしながら日本に帰ってくることができました

 お詫びのしようもなくて悲しくて悲しくて
 
そんなよう・・・踊りますよ、そろそろ。
私の息子、私に踊れを命令が出てきます。

(・・・部分は解読不能か走り書きない部分)

                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(注)大野 一雄(おおの かずお)さんは1906年(明治39年)10月27日の生まれ。 2010年(平成22年)6月1日に没した。
 1938年に召集され、九年間を中国、ニューギニアで送った。

・大野一雄舞踏研究所のホームページから下記のプロフィールを引用させていただく。

「大野一雄の第一回現代舞踊公演は、1949年、東京の神田共立講堂で行われた。このとき43歳、これが最初のリサイタルだった。ニューギニアのマノクワリで終戦となり、1年間の捕虜生活のあと復員し、すぐに舞踊家としての活動を再開した。「クラゲの踊り」という踊りを50年代の公演のときに踊っている。ニューギニアから帰る航海の船上で、栄養失調や病気で亡くなったひとたちを水葬して見送った体験から、そのときの海に浮かぶクラゲの踊りを踊りたかったのだという

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2018年12月16日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論掲載、宗補ホームペーよりの復活ブログ)

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。

 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。

 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。

 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。
 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。

 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重ぐるしい雰囲気はない。

 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。

 「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。

 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。

 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。

 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。

 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。

 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。

 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。

 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。

 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 
義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。

 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。

 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。

 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている。

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2018年12月11日 (火)

2002年4月:説得力不足でしたので、生の声を~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2002年に書き込んだものです)

 具体的なパレスチナ人の生の声をお伝えしなくては説得力不足でした。

 イスラエル軍が侵略中のヨルダン川西岸の北端にある町がジェニン。イスラエル領に隣り合う地区だ。昨年11月、10年ぶりにパレスチナを取材したときには、ジェニンの郊外にある村に住むサエッド君(25歳)の自宅を訪問した。ジェニンと村の間を結ぶ幹線道路から間近に見える位置に、戦車が2両、畑の土に隠れるように置かれ、銃身は道路に向けられていた。道路は3ヶ月間封鎖され、前日にたまたま障害物が取り除かれたとのことだった。

 私はサエッド君に会ったのは彼が15歳の時。1991年当時の彼は東エルサレムにある「国境なき医師団」ベルギー支部から派遣された理学療法士が指導するリハビリセンターで、上半身の筋肉を使う訓練をしていた。運悪く彼がイスラエル兵の銃弾の直撃を受けたのは、中学生だった14歳の時。村の中にある学校を取り囲んだイスラエル兵が撃ったダムダム弾が、右腕に当たり、右の脇腹に食い込み、心臓近くを貫通し左半身の背中から身体の外へ飛び出した。そのため脊椎の損傷で下半身不随となっていた。(ダムダム弾とはジュネーブ条約で使用が禁止されている破壊力の高い銃弾だ。当時も今もイスラエル軍はダムダム弾の使用を止めていない。)

 リハビリ中の15歳のサエッド少年の瞳は、静かな悲しみをたたえていたのが印象的だった。その時の写真を元に、二つの病院で訪ね歩いて得た結果が、ジェニンに住むという情報だった。エルサレムを出発し、乗り合いタクシーを4度乗り換え、山道ではロバ馬車に乗り換え、ジェニンには6時間以上かかってたどり着いた。本来ならば自動車で2時間程度の距離だと思われるが、幹線道路も山道もイスラエル軍による検問所や障害物などで何カ所も遮断されているため、パレスチナ人の移動や労働の自由が奪われていたためだ。(現在のヨルダン川西岸はイスラエル軍の全面的展開で、移動の自由が利かず、取材が困難と推測します)

 25歳となったサエッド君は車椅子生活。新婚だったが、両親、弟夫婦と4年前に建て替えた家で暮らしていた。彼は細身で物静かな雰囲気は変わらなかった。その晩は彼の家に泊まらせてもらい、ラマダン中の特別夕食をごちそうになり話を聞いた。通訳は村に住み、ジェニンにあるパレスチナ自治病院で医師のインターンをしているサエッド君の友人がやってくれた。

 「戦争は何も解決しない。シンプルなパレスチナ人も、シンプルなイスラエル人も戦いを望まず、平和に暮らしたいと思っている。シャロンのような政治家だけがパレスチナ人と隣り合って暮らすのを嫌がっている。イスラエルの入植地はガンのようなものだ。入植者は元の所へ帰るべきだ。入植地の土地はパレスチナ人に返還されれば、お互いに戦うこともなく暮らすことができる

イスラエル政府もイスラエル軍もイスラエル国民の顔といえる。シャロンは国民によって選出されたのだから、シャロンもイスラエル軍も国民も一つの同じ輪だ

空や地下水が我々の自由にならなければ、国家の意味がどこにあるだろう。自分の土地での移動の自由がないのならば、国家の意味がどこにあるのだろう

 93年のオスロ合意以降、ヨルダン川西岸の主要都市がパレスチナ暫定自治区に組み込まれる一方で、イスラエル人入植地の新設拡張は進み、2万戸を越える新住宅が建設され、入植者数140、入植者数40万人となったという。占領地に入植地を建設することは、国連決議違反。ヨルダン川西岸もガザ地区も、入植地が虫食い状態にある現実のまま恒常的停戦と和平がもたらされるといえるでしょうか。

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2001年11月:パキスタン・ペシャワールから~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 前回、パレスチナの実状を書き込んだエルサレムを24日に離れ、26日からはパキスタンのペシャワールに来ています。ラマダン(断食月)はパレスチナ取材中から始まり、似非イスラム教徒として、朝食後から日没までは水も飲まず、タバコも吸わず、何も食べないで我慢する努力をしているところです。とは言っても、実状は朝食は7時くらいに食べ、さらにこっそりチョコレートやビスケットなどを時折食べたり、水を飲んだりしてしまうので、とてもラマダンを実行しているわけではないのですが。

 アフガン人があふれるペシャワールの宿は、コックやウエイターは全員アフガン人。パシュトゥーン人、タジク人で、経営者はかなり前からペシャワールに出てきたアフガン人。日没直後の食事は、ホテルの食堂にある大テーブルをマネージャーから警備も含めた使用人全員が集まり、モスクから流れるアザーンを合図に、待ってましたとばかりに食べ始めます。今日は金曜日、私も夕食に呼ばれ、みんなと一緒にミルクティー、ポテトのピリ唐揚げ、ナン、果物などをいただきました。今日は朝食後はティーを一杯、それにジュースを一口だけで何とか夕方まで我慢しましたが、どうも私はイスラム教徒にはなれません。

 パレスチナでは豪華なラマダンスペシャルの家庭料理を一度ごちそうになりましたが、ここのアフガン人は果たしてどんな夕食を家族で食べているのかが気になるところです。ついでに、この宿で働くアフガン人の給料は1500ルピー以下。100ドルが6000ルピーの交換レートなので、25ドル以下です。

 27日からはペシャワール会の活動と中村哲医師の取材撮影に取り組んでいます。中村先生は27日から12月3日までが、こちらのPMS病院に詰めながら、アフガン領内での援助活動の指揮をとり計画を練り、残りは日本での講演活動の日々を交互に繰り返すパターンができています。火曜日は疲れと睡眠不足がありありの表情で、言葉にも力がありませんでしたが、今日はかなり元気が回復した表情と雰囲気が感じられました。

 今朝ほど、ジャララバード北部のマラリア流行地域に向け、マラリア用の薬や寝袋などを積んだ車2台でアフガン人スタッフを送り出したところです。緊急食料援助活動は、ジャララバードとその周辺の治安が不安定なため、一時休止状態。通常の医療活動は続いているという話です。カーブルには国連機関などから大量の食料が運び入れられはじめたために、今後の食料援助は大きな援助機関の活動範囲外の地域に力を入れることになるようです。

 今日はようやく中村先生の医師としての現場をしっかりと病院で見せてもらいました。患者一人一人との対話と欠かさず、担当医師の所見なども確認しながら、ゆっくりと時間をかけて見て回る姿は、日本からここまで中村先生の現場の一部を見に来たかいがあることを実感させてくれました。中村先生よりも頭の位置が低いのはベッドの患者さんだけで、アフガン人とパキスタン人医師陣は小柄な中村先生を見下ろして、中村院長の説明に耳を傾けているのです。

 著書で想像した個性の強い人物を時折確認しつつ取材しています。ちなみに、タバコ好きの中村先生は、ラマダン中に外では絶対に吸わないそうですが、院長室はラマダンの時期でも影響されない部屋とされ、ミーティングや人に会う合間にタバコが欠かせないようです

 私は帰国まで10日を切りましたが、ジャララバードとカーブル間の治安が安定すれば、アフガン領内を是非見てこようとは考えています。

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2001年11月:10年ぶりのパレスチナ~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 11月12日からイスラエルに来て、10年ぶりにパレスチナ情勢を取材中です。今回の取材で、誤解を恐れずに極限すれば、イスラエルが国家テロの国だと断定してもおかしくないと改めて実感しています。こう書いても、おそらくこの国に来てパレスチナ人が1948年のイスラエル建国で国土を奪われていらい強要されている暮らしぶりを一目見るまでは、みなさんには信じてもらえない表現だと思っています。

 私は中東の専門家ではありませんが、ひとりのカメラマンとして短期間だけでも撮影、取材したことのほんの一部を紹介して置きます。

 昨日、パレスチナ自治政府が管轄するガザ地区(イスラエル南西部のエジブトとの国境周辺)にあるハンユニス 難民キャンプで、イスラエル軍が発射した砲弾の不発弾が爆発し、登校途中のパレスチナ人の子どもが5人、即死です。12歳から15歳の子どもたちです。その中のひとりが地面にあった爆弾を蹴ったために爆発したようです。

 私は今はエルサレムで取材中なので現場取材には出かけていませんが、地元のアラビア語の新聞は全て一面トップですが、イスラエルの「ハーレーツ」紙でさえ同様です。テレビニュースなどを見ても、地面に直径3メートルはある大きな穴が深く掘られるほどの破壊力です。子どもたちの身体もバッグも吹き飛んでしまったようです。

 現場周辺は先週のガザ取材で二日続けて撮影に出かけた場所です。イスラエル軍が最近は幾度となく深夜攻撃を繰り返し、前日あった国連のテントやパレスチナ人の住宅が跡形もなく壊されてしまうほど、日替わりで光景が変わってしまうほどパレスチナ人に対する攻撃を止めないスポットです。難民キャンプの一角ですが、イスラエル軍は隣接するユダヤ人入植地を守る口実で、あからさまな侵略を繰り返しているわけです

 パレスチナ側は自治警察が治安を守る任務を負っていますが、武器は自動小銃のみ。戦車砲や時には攻撃ヘリも動員し、ロケット砲やマシンガンなど使い放題のイスラエル軍とは最初から勝負になりません。一斉攻撃の仕上げが戦車のようなブルドーザーでパレスチナ人のコンクリートやブロック製の住宅を破壊しての更地化です。エジブトとの国境線のラファは、更地化がより一層進んでいます。イスラエル政府が一方的な戦争をパレスチナ人に仕掛けているのが現実です。

 別の事例をあげましょう。昨日、取材に出かけたのはキリストが誕生したといわれるベツレヘム。エルサレムから南へ20分。ベツレヘムとその周辺にある難民キャンプは、ちょうど一ヶ月前の10月18日から29日までの11日間、イスラエル軍によって包囲され、激しい攻撃を受けたところです。(この前例のない攻撃は前日の10月17日に、シャロン首相よりもタカ派と言われたゼエビ観光大臣がパレスチナ人によって暗殺されたことへの報復攻撃と思われています)

 この間、イスラエル軍は高いビルを占拠して、難民キャンプを包囲し、至近距離で昼も夜も発砲を続け、パレスチナ人を恐怖のどん底に追いやったのです。パレスチナ人の死者は22名、うちパレスチナ人警察官は4人。残りは17歳から57歳までの一般市民です。負傷者は146名。死者と負傷者全員がかつぎこまれたベツレヘム市内の病院の医療責任者の話を聞きましたが、驚きました。死者のほとんどが首、胸、頭への銃弾によるもの。4人の死者は家の中にいたにも関わらず、狙い撃ちされたといいます
「イスラエル軍は殺すために発砲したのは明かだ」と、パレスチナ人でクリスチャンのピーター医師は断言しました。

 昨年9月に第二の インティファーダが始まっていらい、パレスチナ人は再び大きな刑務所に隔離された暮らしです。というのは、パレスチナ自治区の西岸もガザ地区も、イスラエル軍により厳しい検問所がそこら中に設置され、封鎖されてしまったので、それまでイスラエル領内での職場へ通勤していたパレスチナ人が、のきなみ仕事と収入を奪われている状態です。ガザ地区の出入りが可能なのは、国連関係者、パレスチナ自治政府高官、外国人ジャーナリストくらいに限定されているほどです。やはり、現場に来てみないと想像できないほど、基本的人権も存在権さえも奪う占領と弾圧方法が巧妙に敷かれているのです

 中東の和平はパレスチナ問題の解決(ユダヤ人の国家と隣接するパレスチナ人国家建設)抜きには考えられません。国連決議さえ無視したままのイスラエルへの一方的な肩入れをするアメリカが、イスラム教徒の怒りを増幅してきた事実を見落とさずに、アフガン情勢とリンクして考えてください。ちなみに、2-3日前のアメリカ政府の和平への提案を本物と感じているパレスチナ人は見あたりません。いつも口約束でだまされてきた歴史があるからです。

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2001年11月:内なる凶暴な遺伝子~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 10月下旬の宮内さんの海亀日記、「内なる凶暴な(もしくは利己的な)遺伝子」、という表現へのこだわりが気になっていました。

 同時テロのように一気に多数の犠牲者が出る事件や戦争が続くと、死者の数を数字で表すことが空虚になり、実感が希薄になってきていることがかえって心配です。それは犠牲者一人一人の存在感がゼロのごとく扱われているためかもしれない。国政、県政レベルの議員連中も、多くの日本人も同じように現実感に乏しい世界に閉じこもっている。アメリカの同時テロの犠牲者6000人。6年前の阪神淡路大震災の犠牲者約6000人。日本に住んでいる者さえ、あの未曾有の大地震による無数の悲しみと都市の破壊を自分のこととできなかったのではとさえ思ったりもする

 私自身は想像力が鈍い。それゆえ、仕事に選んだ写真を撮る行為で、現場を踏むことで実態を伴わない数字が初めて現実味を帯びてくる。アフリカ内陸部の小国、ルワンダには4年前に取材に行ったことがある。国連の推計では少なくとも80万人が虐殺された。多数派のフツ族が少数派のツチ族隣人を襲い、わずか3ヶ月ほどの間のジェノサイドの結果だった。7年前の出来事である。政権を握るフツ族に影響力のあったフランス軍も、国連も虐殺のエスカレートを止めることのできた立場にあったはずだ。だが・・・・。

 聖域だった教会や、各地の学校に集められたり逃げ込んだツチ族やフツ族穏健派がフツ族政権の操る民兵らにより、銃殺されたり撲殺され、大量殺戮の場と化した。中部の技術学校の立ち並ぶ教室には、掘り出された白骨化したりミイラ化したおびただしい数の遺体が並べられていた。頭髪や衣服が部分的に残っている女性の遺体ものもあった。兄弟とさえ思える子どもの白骨もいくつも置かれていた。おぞましい光景以外の何者でもない。80万人の死者とはそうした遺体が80人分並び、生存者が80万人分の遺骨を処理しなければならないのだということを想像してほしい

 しかし、ルワンダはそんなジェノサイドが似合うような殺伐とした環境の大地では決してない。ルワンダとは「千の丘の国」を意味する国名で、亜熱帯の見渡す限りの斜面が耕された農業国だった。乾燥した砂漠、飢餓の蔓延する飢えたアフリカのイメージとはほど遠い。国名のごとくどこか中国雲南省からビルマのシャン高原に連なる丘陵地帯が続く東南アジア的世界を彷彿とさせる国。南東部は茶のプランテーション地域で、隣国ザイール(現コンゴ共和国)との国境となる湖は、スイスのレマン湖を思わせる自然の美しい一帯、さらに北西部にはマウンテンゴリラの生息するジャングルもある。そうした自然を思い浮かべれば、少しはルワンダに暮らす人々の生活を想像できると思うが。

 中部の町にある民俗博物館には様々な形のスキやクワ、ナタなどの農耕具類が数多く展示されていたのには驚いた。歴史のある農耕文化が存在していたことを証明していたからだ。想像するに、現代的改良を加えられた亜熱帯農業による食糧増産が、狭い国ルワンダの人口増加につながり、返って耕作面積の減少、貧富の格差拡大、土地なし、職なし、教育なしの若者を増産。多数派のフツ族の若者の不満のはけ口が、権力者たちにより操られ、政敵ツチ族にし向けられてきた。

 ただ、その不満の根源は持たざる者が多少は羽振りの良い隣人を羨むという、極めて人間的なねたみの感情が源泉となっているものと思えるのです。経済的な格差の歴然とした国の持たざる者の感情は、日本人には想像できにくいほど根が深く、経済的にしか解消できないものかもしれません。「内なる凶暴な遺伝子」がなせる殺戮とは、どこか違うような気がするのです。もっともっと、指導者層、権力を行使する立場にあるリーダーたちの資質が問われるべきだとも感じているからです。

 ルワンダで歴史的なジェノサイドが起きたとはいっても、アフリカ大陸にヨーロッパ列強が押し掛け、分断し植民地化する以前の部族社会の共同体は、フツ族とツチ族でもおそらく何らかの共存と、ブレーキが働いていたはず。ルワンダの場合は西隣のザイール(現在のコンゴ共和国)ともどもベルギーに統治され、ベルギーは少数派のツチ族を重用し、フツ族をコントロールした。しかも、富の象徴だった牛の所有数でツチ族とフツ族のIDの基準としたという。ある研究者は、ベルギー時代に、牛10頭以上持つ者をツチ族とみなしたという破廉恥な統治政策があったと指摘している。遺伝子とは異なる、ある人為的なすり込みが、世代を経て暴発する引き金となったという側面を見逃してはならないと思います。もっとリーダーの資質、責任を糾す見方もできるのではないでしょうか。

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