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2019年3月23日 (土)

「痛みを分かつこころ」とは。9年目の東日本大震災と原発事故(福島、宮城、岩手3県巡りからPart2。大津波被災地巡り)

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今回は約3年ぶりの岩手県と宮城県の大津波被災地取材だったが、何よりも強く感じたのは、「9年目に入ってやっとここまで来たか」、もしくは、「まだここまでなのか」というある意味、愕然とした思いだ。
大津波被災地は原発事故被災地のように腰の据わった取材ができていない。そのため駆け足取材となりがちだ。とはいえ、震災後からの変化は、現場に立つ機会のない人にとっては、写真などで比較しないとわかりにくい。なので、変貌ぶりの一端を知る目安にはなる。


3月14日、宮城県東松島市、石巻市

宮城県で石巻市、気仙沼市に次いで犠牲者が多かったのが東松島市。犠牲者数は1132人

0182_dsc8448宮城県東松島市野蒜。大津波でなぎ倒された松林。2011年3月撮影。

_yyy4284sumiweb 松林だった公園跡は整備され苗木が植樹されていた。2019年3月。


石巻市門脇地区

全被災地のなかでも、最も犠牲者の多かったのが石巻市犠牲者数は3552人

018web2011年3月撮影。奥の方に門脇小学校校舎が見える。
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大津波と火災の両方で全損した門脇小学校。2011年3月撮影。
_yyy4309sumiweb_12019年3月撮影。


3月15日、盛岡市、岩手県大槌町、陸前高田市

 1286人が犠牲となった岩手県大槌町は旧役場のあった町中心部も吉里吉里も大規模なかさ上げ土木工事の成果とはいえ、8年間の変貌が強烈だ。大槌町役場は解体され更地化されていた。震災遺構として残すかどうかが住民の間でも問われたが、町長と議長が解体に賛成したということだ。

 私たちはあれほどの犠牲と被害の教訓を、これから生まれてくる子どもたちに残すことができるのだろうか?
_aaa0519大槌町中心部。2011年8月撮影
_8ds9515jpgsumijpgweb同、2015年5月撮影。かさ上げ工事が進んでいる。
_yyy4516sumiweb同、2019年3月撮影。表面的には全く新しい街並みが出来つつある。
_aaa3124sumiweb大槌町庁舎、2012年9月撮影。町長はじめ40人の職員が大津波の犠牲となった建物。大津波の教訓を震災遺構として未来世代に残すかと思われたが。
Dsc_0447sumiweb大槌町庁舎跡。2019年3月撮影。
Dsc_0443sumiweb同庁舎解体後の追悼小屋、2019年3月撮影


大槌町吉里吉里

中心部とは異なる湾に面したすり鉢状の吉里吉里も変貌ぶりが激しい。大津波による壊滅ぶりを知らないと、どこがどうなったのかが全く見えない。大津波で浸水し家屋が壊滅した地域のかさ上げはかなり進み、すでに新しい住宅街が形成されつつあった。新築の家屋群を見ていると、どうしても頭の中で比較してしまうのが、原発事故被災地の家屋が解体され、更地化されても、住民が戻ってこない福島県浜通りの光景だ。どちらも残酷な点は変わらないのだが、将来的な展望を考えると、大津波被災地の新築家屋の光景がまぶしく見えてしまうところがある。

_aaa9648web2011年6月
_aaa4823jpgweb2011年4月
_yyy4406sumiweb2019年3月。幹線道路が画面左の海寄り、高くかさ上げした場所に移っているのがわかる。
_8ds9446jpgsumisumiweb高橋英悟住職、2015年5月
_yyy4433sumiweb2019年3月
_yyy4372sumiwev高橋英悟住職、2019年3月
 震災後の4月から不定期だが取材してきている吉里吉里吉祥寺の高橋英悟住職はこう話された。
「被災者の多くがまだ区切りがついていない。住民の命を守る防災に対する備えを考える時期に来ているのに、防潮堤ができてから考えることを止めてしまっている状態です。旧庁舎解体をめぐる感情の対立。20年30年後の子や孫たちに何を残せるか。どう生きるべきかという大人としての背中を見せられない」
こうも指摘した。
「生きるための希望が見えない時代。お金も物もあるのに人の心は満足しない。自分のためだけに生きることではなく、人を大切と思うことで生きる力や希望が湧いてくる」
高橋住職も「他者の痛みを知り共感する心」の重要性を説いていた。
_yyy4471sumiwebかさ上げされ新築住宅が再建された吉里吉里の一部。2019年3月撮影
_yyy4476sumiweb同、2019年3月撮影。

原発事故被災地にも大槌町吉里吉里と似たような光景が広がるが、その意味は正反対だということを想像してほしい。大震災と原発事故から8年。福島県浪江町では地震で壊れた家屋や住民が帰還を諦めた住宅や店舗などが解体工事の真っ最中。常磐線浪江駅前商店街に面した一帯も家屋が次々に解体され、あちらこちらに空地ができていた。元の人口は22000人だった浪江町。避難解除された地域に帰還した住民は約900人。何とも残酷な現実ではないだろうか。
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福島県浪江町。2017年12月撮影。
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2017年12月撮影。


陸前高田市(犠牲者数は1757人)

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2011年3月撮影。震災後の陸前高田市に初めて足を踏み入れた時の見渡す限り破壊され尽くした光景を忘れることはできない。どこをどう撮ればいいのかも見当がつかなった。

壊滅した広大な陸前高田市の復興を想像してみると、瓦礫を徹底して片付け、ゼロから街全体のかさ上げをし、そこからようやく生活に欠かせない建物、商店街、住宅街などなどの再建ということになる。国がオリンピックにかける予算の何倍も必要なのは容易に想像できるのではないだろうか。

_8ds9655jpg2015年5月撮影、左端の三角形の建物が大津波の破壊を多少は免れて残った道の駅。
_yyy4606sumiweb2019年3月撮影。道の駅以外は全体的にかさ上げされている。道路向かいのガソリンスタンド「オカモト」は、元の場所での営業再開は諦めたようで、1キロ以上離れた場所で営業再開していた。
_yyy4582sumiweb五階建てのアパートが震災遺構として残されるようだ。高さ14.5メートルまで津波が到達したことを示す表示が五階部分に取り付けられている。元は「下宿定住促進住宅」だったとある。


被災地の一部を駆け足で見ただけだが、あの大震災から9年目に入っても、「復興」は途上中の途上に過ぎないと感じるのは私だけだろうか。厳しすぎる現実の背景には、大津波被災地が太平洋岸450キロというあまりにも広範囲に及んでいるためだ。大津波で壊滅した街の復旧復興再建は、どこもかしこも前代未聞の超大土木工事の現場となったわけだから、予算も、重機も、作業員も、どれだけつぎ込んでも足りることはない。追い打ちをかけるように原発事故の収束廃炉作業も同時進行という、まさに国難に立ち向かわざるを得なかったはずだ。

しかしだ、大手メディアは諸手を揚げて東京五輪に熱を上げている。安倍晋三(首相)が国際社会にウソをついて五輪を招致したためだ。安倍自公政権に頭を垂れて忖度することに熱心な公共放送のNHKでさえも、東日本大震災から8年の被災者アンケートの結果、「復興五輪」は「誘致名目にすぎず」(約54%)、「被災地での経済効果」は期待できず(60%)、被災地の「復興を後押しする」とは思わない(約58%)との回答を公表している。アンケートの詳細は以下をご覧ください。
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NHKによる東日本大震災8年、被災者アンケートの結果から、「東京オリンピック・パラリンピックで、以下の項目についてどう思いますか?」との設問に対する回答が注目に値する。被災者にとり、「復興五輪」は「誘致名目にすぎず」(約54%)、「被災地での経済効果」は期待できない(60%)、被災地の「復興を後押しする」とは思わない(約58%)と回答し、否定的回答者の51%が「復興のための工事が遅れる」とし、47%が「五輪の開催費用を被災地に使うべきだ」とまで言い切っている。
NHKの調査とはいえ、被災者の心情が色濃く反映されているではないか。大津波被災地の復興の遅れは、膨大な被災者に対する政府の犯罪に等しいとさえ言えるのではないだろうか?というのが私の個人的な見解だ。


3月17日、神奈川県茅ケ崎市「萩園いこいの里」にて講演と写真展

東北三県の被災地を取材し、信州に帰る前の締めくくりが茅ケ崎市での講演会と写真展だった。

Dsc_0456sumiweb写真詩集「なじょすべ」からの写真も展示した。

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講演タイトルは「いのちと痛みを分かつこころ~東日本大震災と原発事故から9年目に考える」とした。
福島市、二本松市などの福島県出身者も多かった。今回の全取材を通じ、私が改めて実感し、被災地を取材し続ける者として繰り返し伝えてゆかなければいけないと考えたのは、関さんの代表的な詩「なじょすべ」の結びで表現されていた。
「悩むこころに 沿うてくれ
オレたちに 欲しいのは
痛みを 分かつ こころだよ」


・蛇足として
私たちはどうしたらいいのか、何をしてはならないのか。関さんの詩を基準にすることで自然とわかるのではないだろうか。

PS:東京五輪は被災地の復興に役立つか?Part2(大津波被災地で聞いた)2013年9月25日

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2019年3月21日 (木)

「痛みを分かつこころ」とは。9年目の東日本大震災と原発事故(福島、宮城、岩手3県巡りからPart1)

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イチエフの排気塔やクレーンが見える浪江町請戸海岸で、深々と首を垂れる田中徳雲さん。


3月9日から17日にかけ、東日本大震災と東電福島第一原発事故から8年が経ち9年目に入る福島、宮城、岩手の被災3県を一気に取材し、神奈川県茅ケ崎市で講演と写真展をしてきました。写真は移動順です。写真40点超、動画一本をアップしてあります。動画はスウィング・マサさんの、南相馬市の大津波被災海岸での失われた命への演奏動画です。

私たち1人1人に、被災者に対する「痛みを分かつこころ」があれば、大地震、大津波、原発事故被災者の悲しみや苦悩も緩和され、生活再建が一歩前進する希望となることを改めて強く実感した取材行でした。
それは、社会に蔓延する自分さえ良ければ構わない、自分の会社さえもうかれば良い、自分の国さえ経済が好調であれば良いという現代社会を立て直す処方箋ともいえる生き方だと感じます。


「痛みを分かつこころ」とは、関さんの詩「なじょすべ」の結びの表現です。
「オレたちに欲しいのは 痛みを分かつ こころだよ」
何年経っても、2万人以上の犠牲者を生んだ東日本大震災と原発事故を忘れないことであり、教訓を必ず生かし繰り返しの愚を引き起こさないための生き方を選択する意思の現れだと言い換えることができるといえます。


「痛みを分かつこころ」は表現は多少の違いがありますが、私が取材し発言を書き出したみなさん(南相馬市小高区同慶寺田中徳雲住職、浪江町希望の牧場・ふくしま代表の吉沢正巳さん、飯舘村の元酪農家長谷川健一さん、岩手県大槌町吉里吉里吉祥寺高橋英悟住職)は、それぞれの表現で話していますが、つまるところは同じ意味合いのことを伝えようとしていることがわかります。


3月9日、福島県二本松市。

写真詩集「なじょすべ」が刊行されて初となる関さん主催のイベント「3・11を忘れない、いのちが大事の集い」が二本松市男女共生センターで開かれた。この建物には深い因縁がある。

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関久雄さんと私の写真詩集「なじょすべ」共著者二人組。「なじょすべ」からの初めての写真を10点ほど展示。

_yyy2482sumiweb楽器すべて手作りのへんてこ本物アーティストミュージシャンで絵本作家でなんでも抜群センスのだるま森さん。
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_yyy2383sumiweb写真詩集「なじょすべ」から自作詩を朗読する関久雄さん。

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関久雄さんを真ん中に、「3・11を忘れない、いのちが大事の集い」の参加者とスタッフのみなさん。2019年3月9日、二本松市男女共生センター。

8年前の3月16日、私は田村市の総合体育館に避難した大熊町町民の取材の過程で自衛隊からの情報を得て、フォトジャーナリストの森住卓さんとこの場所に駆け付けた。駐車場では自衛隊が除染テントを開設し、浪江町の住民がバスや車で避難移動してきた。住民は建物に入ると3列に並ばされ、完全な防護服姿の者たちにより、ガイガーカウンターで頭からつま先まで放射能検査を受けていた。あたかも放射能に汚染された迷惑物質扱いだった。中に入って撮影したいと交渉したがダメだったので、森住さんと窓越しに撮影したいろんなことを思い出す建物だった。建物の壁には「放射能ゴミ」と書かれたビニール袋があり、住民の物とも思われる衣類がパンパンに入っていた。駐車場の空間線量は9マイクロシーベルトあった
3月10日、南相馬市小高区同慶寺から海岸沿いの防潮堤の上や下を歩き、浪江町請戸海岸までの「慰霊の行進」が実施された。
(原発事故後はみんなの意識が変わりそうに思えたのに)なぜ私たちは変われないのか?そこで気づいたのが、便利な生活を少なくとも享受してきている私たちの世代はみなそうだと思いますが、自分自身の中に東京電力があるという心の問題です
(南相馬市小高区同慶寺田中徳雲住職)
Dsc_0185sumiweb同慶寺を出発する間際の参加者。 _yyy2707aumiweb海岸沿いを歩き出来たばかりの防潮堤の上も行進。田中徳雲住職が許可を取り付けていたから可能となったコース。長〜い距離となったが参加者の皆さん、本当によく歩いたものだ。 _yyy2748sumioweb _yyy3186sumiweb _yyy2956sumiweb _yyy2878sumiweb _yyy2867web行進参加者は「南無妙法蓮華経」と書かれたお札を海に流す。

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大震災と原発事故で亡くなった諸霊を弔う矢向由季さん。
_yyy3174sumi時には完成したばかりの防潮堤の上を行進し、時には防潮堤の下を歩く。

_yyy3131sumiweb_1
_yyy3158sumiweb南相馬市小高区井田川地区の大津波犠牲者24名の名を刻む慰霊碑で立ち止まり、死者を供養する田中徳雲さんら慰霊の行進一行。

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_yyy3297sumiweb写真詩集「なじょすべ」の共著者で福島弁で詩をつづる関久雄さんも慰霊の行進に参加。
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_yyy3328sumiweb請戸港に到着した一行。

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慰霊の行進目的地の浪江町請戸海岸に到着。請戸港一帯では大津波により182名の死者が出た。8時半にお寺を出発し、午後3時過ぎに着いた。
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イチエフの排気塔やクレーンが見える浪江町請戸海岸で、深々と首を垂れる田中徳雲さん。



3月11日、福島市。「第8回原発いらない地球のつどい」に参加し、「なじょすべ」写真展示。有志による反原発歩きデモ。県庁前で独り街宣する吉沢正巳さんに合流。氷雨降る中、吉沢さんはカウゴジラと化していた。

Dsc_0254sumiweb「第8回原発いらない地球のつどい」の分科会。持参した「なじょすべ」写真は急きょパネルに貼らせてもらった。

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_yyy3602sumiweb3月11日、「第8回原発いらない地球のつどい」の集会終了後、有志が歩き行進をした。気合の入ったスウィング・マサさん。

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200万人県民みんなで後始末の苦しみを連帯責任を負うしかありません。県知事も悪かった。県議も県選出の国会議員も悪かった。県庁も県民も原発を止めることがなかった。みんなで原発事故のこの汚染の苦しみを負っていきましょう。オリンピックはいりません。3・11は終わっていません

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いつまでも福島差別が続くんだったら福島県民はいうべきだと思います。東京湾で火力発電や原発で東京湾で関東の電気を作るんだよと。福井県民、新潟県民のみなさん、再稼働するんだったら、死んでも町がなくなっても家に帰れなくなってもいいんだね。そういう覚悟がなければ再稼働はなりません
(県庁前で雨の中、独りでスピーチする吉沢正巳希望の牧場・ふくしま代表)

3月12日、浪江町希望の牧場、南相馬市
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「ふくしま・考える人の駅」町に帰還する住民が少なすぎるための観光客呼び込み作戦か?希望の牧場に実に怪しげな駅名看板が登場していた。意味深なセリフも書かれていた。「取り返しのつかないものだとわかった原発とサヨナラをする」 原発事故から9年目の朝。
D1bfosovyaawzt2一見、飽食の牛たち。減ったとはいえ、278頭健在とのこと。希望の牧場・ふくしまの9年目 D1brueluyaabmds露出してしまった牛の骨に生花を供えた慰霊の空間も。原発事故から9年目の朝。

_yyy3714synuwev仲の良い姉と弟???ロールえさを牛舎に運ぶお姉さん。野菜くずを落とす吉沢さん。それにしてもエサは不足気味だ。
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「オレたちには力がなかった。プルサーマルを止めることができなかった。言うべきは言ったが止められなかった。実力を持たないと話しにならない。力不足だった」と、原発事故が起きる前のことを振り返る吉沢さん。

D1dfjf6vyaemwgg_1「なじょすべ」のカバー写真で使った馬を飼う相双ファームの田中信一郎さんに写真集をプレゼント。南相馬市小高区にある田中さんの厩舎は津波に襲われたが馬たちは生き延びたものの、原発事故により避難指示が出たため、9頭の馬が餓死したという。写真の馬は原発事故を生き延びたが撮影後に病気で死亡したとのことだった。
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「なじょすべ」でネコ二匹が登場する南相馬市原町区の滝沢昇司さんの牛舎。北海道の畜産大学を卒業した長男・一生くんが手伝っていた。原発事故当時は中学生だった。彼は4月から四国の酪農家で一年修行してくるという。
_yyy4080sumiweb酪農一本だけでは経営難になりかねない現状を見越して、脱原発の意味も込め、滝沢昇司さんは発電事業主として大転換した。牧草地を使って営農型発電を大展開中。現在10数か所に設置済み。さらに増やす予定。現在だけでも総発電量は750キロワットに相当すると言った。南相馬市原町区。
_yyy4028sumiweb南相馬市小高区羽倉地区に立てられた、環境省が目論んでいる「汚染土再利用」反対ののぼり。除染土を常磐自動車道の車線拡幅工事に再利用する環境省の実証事業案に対し、地元の羽倉(はのくら)地区が猛反対している。毎日数百台の除染土を積んだダンプカーが常磐道を走っている。
_yyy4034sumiweb羽倉地区同様に避難指示が解除されている南相馬市小高区大富地区の仮置き場外に置かれたモニタリングポスト。0.425マイクロシーベルトの数値を示している。この線量でも避難指示解除されているのが除染と避難解除の実態。
_yyy4259sumiweb三台、四台と隊列を組み、除染土を積んだダンプカーが常磐自動車道を忙しく走る。
3月13日、浪江町、南相馬市、飯舘村
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「帰村した住民は1300人。100パーセント65歳以上の高齢者だ」
「生き甲斐はない。夢も希望もない。ただ生きているだけだ」
飯舘村の自宅に帰還した元酪農家の長谷川健一さん。自宅前の田畑がフレコンバッグの仮?置き場になっている。
酪農には未練はないと、牛舎跡にはそばの脱穀、製粉関連の一連の機械を補助金を活用して設置した。広大な畑地にはソバに、かつての水田は荒野にしないための除草の仕事は毎年しっかりと取り組んでいるという長谷川さんだが・・・。 長谷川さんは菅野村長のなりふり構わぬ独裁にあきれ返っているとのことだった。まだ60代半ばで、あれほどに元気だった長谷川さんの本音の背景を知ろうとすることが、「痛みを分かつこころ」ということに、遅すぎるかもしれないが私たちは気づく必要がある。
_yyy4123suiweb飯舘村上空をオスプレイが低空で飛んでいった。長谷川健一さんによると、オスプレイを見るのはこれで三回目だといった。オスプレイは日本列島上空を我が物顔で飛び回っている。2019年3月13日。

_yyy4207sumiweb富岡町の常磐線富岡駅隣で稼働していた仮設焼却炉があっという間に解体撤去作業中だった。
Yyy_3329jpgsumijpgweb三菱重工系のJVにより600億円で受注され、富岡町内の可燃性除染ゴミを焼却し濃度の高い灰にしていた施設の一つだが、稼働中に異様を誇った建物は見る影もなくなっていた。
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環境「汚染」省による同様の仮設焼却炉で目につきやすく代表的なものは浪江町請戸海岸に500億円の予算で建設され稼働している仮設焼却炉がある。同様の仮設焼却炉は主に避難指示区域に建設され、28ヵ所で総額は2800億円を超すと指摘されている。富岡駅隣のものはその一例に過ぎないが、先進国といわれる日本の環境保護?の実態だとすればわかり易い。政府にも官僚にも大半の国会議員にも、被災者の痛み悲しみを思いやり、それを政治に行政に反映することができていない。ましてや、復興五輪の美名で1兆円とか2兆円をオリンピックに浪費することは、「犯罪的」と表現しても不十分だといえるのではないか。


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2019年1月 8日 (火)

広河隆一氏の性暴力問題についての個人的見解

 広河隆一氏(現在75歳)と取材現場が一緒だったことが二度ある。
週刊文春で報道された広河氏の性暴力問題と広河氏のジャーナリストとしての実績についての個人的な見解を明らかにしておきたいので、長文になるが最後まで読んでいただきたい

 ようやく最初のテーマとなるフィリピンの継続取材をしている程度の実績のないカメラマンだった私にとり、雲の上の人のような報道写真家の広河隆一氏と初めて取材現場が一緒になったのは湾岸戦争直後のイラク取材だった。1991年のことだ。イラク取材ビザは出なかったため、イラク市民緊急支援を目的とする日本の市民グループのボランティアメンバーの一員として、1991年5月にイラク入国。ボランティアリストには私同様に取材目的で広河隆一氏やテレビ局の記者なども名前を連ねていた。

 広河氏と同じ現場を取材しても、広河氏の知名度や力量には太刀打ちできるわけもないので、イラク戦争直前にパレスチナとパリで取材した国境なき医師団(MSF)のイラク国内で緊急医療活動の取材を試みることにし、ヨルダンとバグダッドのMSFと連絡を取り取材ができるかどうかを探っていた。

 その甲斐あって、バグダッドからは広河氏たちが同行した支援グループと分かれ私は別行動をとり、医薬品や支援食糧物資を満載したMSFの大型トラックの助手席に乗りイラク北部のクルド人居住圏に入った。その結果、クルド人居住圏でのサダム・フセインの軍隊による徹底的な破壊と略奪行為と国連関係者の姿もない中で医療活動活動するMSFによるクルド人国内難民の孤立した状況の取材に成功した。週刊現代や朝日ジャーナル誌のグラビアで報道することができた。中東の取材に慣れない私にとってはできすぎた結果だったといえる。 

 この時の二度の中東取材で私は以下のように結論づけた。
『武力によって国際問題の解決を計ることが、「秩序」とは裏腹に新たな「混乱」をつくりだす事を改めて証明したのが1991年の「湾岸戦争」だった。戦争はパレスチナ問題には消極的な姿勢をとり続けてきた国連と、アメリカをはじめとする西側大国のダブルスタンダードを明らかにした。アメリカや日本も含めた西側大国の価値観に根ざした「国際秩序」や論理に翻弄されてきたアラブ人やイスラム教徒の心に、取り返しのつかない不信感や憎しみを植えつけてしまった。それが湾岸戦争の残したものだった』

 ちなみに、私は広河氏の超広角レンズの付いたカメラとビデオカメラ一台と録音機を首から下げ、同時に取材をすすめる姿にうなった。動画の訴求力を広河氏はすでに多用していた。

 二度目は20年後の福島原発事故直後の取材だった。
 2002年、「9・11」同時多発テロと米国によるアフガニスタンとイラク攻撃という報復攻撃以降、ジャーナリズムの在り方が問われ、ジャーナリストの取材と報道の権利と義務を守ることが困難になってきたことなどの状勢に、広河隆一氏が中心的な発起人となってJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。フリーランスのフォト・ジャーナリストやビデオ・ジャーナリストで構成)が設立された。志を同じくする私もの会員の一人として活動を共にし、JVJA主催でイラク戦争写真展などテーマも異なる数多くの写真展や報告会を開催した。

 2003年に岩波書店から「世界の戦場から」シリーズ全11冊プラス別冊が刊行されたが、広河氏の知名度と影響力抜きには出版されなかった大型企画だと思う。広河隆一氏が総編集となり、パレスチナ、チェチェン、イラク、ハイチ、核汚染、環境破壊など、JVJA各会員が長年取材してきたテーマがわかり易くまとめられた写真集シリーズとなった。「刊行の言葉」としていみじくも広河氏はこう記している。

ジャーナリストは人間の何を守るための存在であるべきなのか』 

 私は長年の取材フィールドとしてきたフィリピンを、「フィリピン~最底辺を生きる」として出版できた。あとがきには、「長年の取材を生かす機会をこの写真集シリーズで与えてくれた広河隆一さんに感謝する」と私自身が記している。

 実はJVJA会員として活動を共にする前には、広河氏の代表的な分厚いルポルタージュ「人間の戦場」(1998年)の書評を信濃毎日新聞に寄稿したこともある。広河氏の報道写真家としての凄さとパレスチナやチェルノブイリの子どもたちの支援活動を立ち上げ、息の長い支援を続ける姿勢に敬服していたからだ。

 2003年に広河氏が責任編集で出版を開始したフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」の出版企画には積極的に賛同し、1986年から親交のあった報道写真家福島菊次郎氏に賛同人になってもらうことを広河氏に提案した。「DAYS JAPAN」出版の賛同人に名を連ねた伝説の報道写真家・福島菊次郎さんの生き様とそのドキュメンタリー写真の連載に読者が触れるきっかけを提供した。

 広河氏のジャーナリストと支援活動の両輪の実績を尊敬していた私だが、広河氏のJVJA代表初期に転機が来た。DAYS JAPAN誌上で広河氏が多用する某著名写真家が、ビルマ(ミャンマー)軍事政権主催の写真展を新宿の著名なフォトギャラリーで開催した事実について私が問題視し、編集長としていかがなものかとJVJA全体会議で問い正したからだ。身の程知らずの若輩者がフォトジャーナリストの「大御所」であり業界の「権威」の広河氏に盾ついた格好になる。その写真展は少数民族と民主化を求める市民を弾圧、逮捕投獄し民主主義を否定する軍事政権による国外向け観光キャンペーンの一環のような内容だった。軍政下における社会問題を取り上げた内容は皆無。著名な写真家の世渡りのうまさと思想信条のかけらもないような姿勢に、長年ビルマ(ミャンマー)の民主化運動と少数民族の自決権問題を取材してきた者として黙ってはいられず、軍事政権に肩入れするような写真家をDAYS JAPAN誌上で多用することは間違っていると指摘した。JVJA会員を辞める覚悟での私の問題提起に対する反論はない曖昧なままでその場は終わった。広河氏と関係が疎遠となったのも自然の成り行きだ。

 その後、広河氏はDAYS JAPAN編集長に専念することを主な理由にJVJA代表を退き、JVJAは共同代表制となった。広河氏がJVJAから正式に脱会したのは2008年。

 広河氏とは顔を合わすこともほとんどなくなったが、少しでも原稿料を稼ぐためにDAYS JAPANにも写真を売り込み、「老い~生きる達人」(6ページ、2007年2月号)、「証言者たちの戦争」(8ページ、2007年10月号)、「産む歓び」(8ページ、2008年7月号)などの特集が掲載された。

 そうした中で起きたのが東日本大震災と福島原発事故だ。発災日夜にJVJA仲間のメーリングリストに福島取材向かうことを提案。翌早朝、JVJAの野田雅也(以下敬称略)を新宿駅前で拾い、3月12日夜には福島県田村市の小学校に緊急避難したばかりの大熊町町民の取材を二人で開始。その晩には郡山市内のホテルに森住卓、豊田直己、綿井健陽、野田雅也と私をいれた5名のJVJA会員と広河DAYS JAPAN編集長が合流。

 翌13日は車3台、6人の共同取材を開始。福島第一原発から3.5キロの双葉町役場、双葉厚生病院、常磐線双葉駅界隈などを取材。町から住民の姿は消え、双葉厚生病院前では広河氏、森住、豊田が持参した三台のガイガーカウンターで空間線量を測定し、1000マイクロシーベルト毎時(1ミリシーベルト)以上という異常に高い放射線量を測定した。その事実はテレビなどでは全く報道されていない原発事故の怖ろしい現実を伝える内容だった。その日の夕方までにはネットを通じて共同取材の結果を拡散した。6人の合同取材はイラク取材をまとめた映画製作で知られる綿井氏が撮影し、You-Tubeに公開され再生回数7万回を超えているので既知の人も多いだろう。三日間の共同取材を通じ、広河氏からは無視されていることを痛感したことを覚えている。

 その後は広河氏と取材現場が一緒になることはなかった。そして今回の週刊文春報道で明らかにされた広河氏の著名度と「権威」を利用した、あまりにもひどい性暴力問題だ。「7人の女性が証言」と報道された。あってはならない女性の人権無視だ。JVJAは昨年12月31日に広河氏の性暴力問題についての緊急声明を出した。全文はJVJAのホームページで目を通していただきたいが、一部だけをここに抜粋しておきたい。

私たち自身、これまでに写真展や報告会などを広河氏と一緒に開催しておきながら、重大な人権侵害に気づくことが出来なかったことは、深く反省しています。「彼がそんな行為をするはずはない」とする権威主義に陥り、加担していたと言わざるを得ません。
 広河氏はまず、被害女性一人ひとりにきちんと謝罪し、その罪を償うべきです。さらに公の場で自らの言葉でもって、事実関係を説明し、その社会的な責任をとるべきです

 週刊文春の記事は、広河氏がジャーナリストとして長年積み上げてきた裾野の広い山を自らの行為でぶち壊してしまうほどの内容で、パレスチナ問題であれ原発事故であれ、弱者の側に立ち世間に訴えてきた姿勢とは真逆だ。活動を一時期共にした者としては俄かに信じがたいものだったが、広河氏とは疎遠のせいか記事内容に近い女性問題を私自身が耳にしたことも、JVJAの仲間から噂を聞くこともなかった。言い訳になるかもしれないが、福島菊次郎さんのような人間的魅力を広河氏に感じていなかったから、広河氏のプライバシーに関心がなかったからかもしれない。

 今回の報道がなければ、いずれはその名を関した写真賞が創設されることは間違いないほどの実績と知名度と影響力を持つのが広河氏だ。40冊を下らない著書。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、土門拳賞、日本写真家協会賞年度賞などジャーナリズムと写真関係の賞を総なめにもしている。個人的には、「写真記録 チェルノブイリ消えた458の村」の、放射能汚染により住民が二度と住むことが不可能となり、土砂で埋められる村々のスティール写真は鳥肌が立つほどに凄まじかった

 広河氏の権威と信頼の失墜、ジャーナリズム全体への信頼の失墜は測りしれないが、広河氏に触発されパレスチナ問題などをテーマにフォトジャーナリズムの世界に身を投じてきた同業者の失望感は尋常ではないだろう。私の失望感はそこまでではないかもしれないが、残念極まることには変わりない。

 ただ、ここで何よりも重要なのは、広河氏がジャーナリズム界で果たしてきた大きな役割を知らない一般の人の視点だろう。一般的には広河氏の実績がどう扱われるのかよりも、広河氏が被害者に対しどう責任を取るのかということだけに関心が集まるのが自然だ

 今年は敗戦から74年。国策の侵略戦争中、軍部の予算を利用して対外宣伝雑誌を次々と創刊した写真家がいる。彼の名前を冠した写真賞まで創設された名取洋之助だ。名取はLIFE誌のように洗練された日本のフォトルポルタージュの草分け的写真雑誌「NIPPON」を1934年に創刊。当初は日本文化や産業を海外に紹介する内容を目指したようだが、侵略を正当化する内容に変わり、「NIPPON」は44年の36号まで刊行された。軍部との関係を強めた名取は、プロパガンダ目的の広報雑誌6誌を創刊。陸軍による謀略雑誌「SHANGHAI」(1938年)や関東軍報道部出資の「MANCHOUKUO」(1940年)などを刊行した。

 戦後、名取が自らの戦争責任を総括した様子は残念ながらない。その点は、昭和天皇をはじめ、殺生を禁じる伝統仏教の各宗派や高名な僧侶も、侵略戦争を支持しながら戦後は贖罪の意識をあいまいにしたのが日本社会なので、名取だけを責めることもできない。

 写真界での名取の戦後の功績は、1950年から刊行された岩波写真文庫全286作の編集責任者として能力を発揮したことだろう。名取は1962年に53歳で没したが、日本写真家協会により新進写真家の発掘と活動を奨励するため、2005年に名取洋之助賞が創設された。戦争への積極的な関わりなどとは無関係に、「名取洋之助」の名を冠した賞は高く評価されている。だからといって、名取の戦争への積極的な加担をあいまいにすることは、後に続く後輩たちが同じ過ちを繰り返す言い訳を残すようなものだ

 写真は一度発表されると、撮影者の意図とは裏腹に一人歩きする。すでに評価が定着した広河氏の作品、著作、映画などを全否定する動きが今後あるかもしれない。しかし、10年、20年の長いスパンで見れば、性暴力被害者の女性たちの心情とは切り離された形で、訴求力があり忘れがたい作品は残るのではないか。それは広河氏の潔い責任の取り方次第でもあるといえる。

 自戒を込め、ジャーナリストに対する信頼の低下をどう回復するかは残された者が努力する他はないと覚悟している。


 

 

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2018年12月27日 (木)

インド「カーランジー村仏教徒一家殺害事件」について(2006年、宗補ホームページよりの復活ブログ)

 今年9月末にインド中部の村で起きた仏教徒一家4人殺害事件がきっかけで、インド中の仏教徒が抗議デモを各地で展開し、それに対抗したカースト差別事件が頻発し深刻な社会問題が起きている

 この殺害事件は、たまたま私が佐々井秀嶺師を密着取材期間中に起きた。ムンバイ(ボンベイ)でカースト差別の具体例を取材中だった私は、仏教徒の人権活動家からこの殺害事件を知らされ、夜行列車でナグプールに戻り、10月中旬に事件が起きた村とただ一人の生存者である父親を取材した。明らかなカースト差別により起きた殺害事件は、インド仏教徒の聖地であるナグプールとその周辺一帯では珍しく、事態は深刻だったが抗議デモがその後にインド各地で暴動にまで発展するとは誰も想像していなかった。

 私は10月12日に現地取材と生存者取材をしたが、事件のあらましは次の通りだ。

 仏教徒一家4人が殺害されたのは2006年9月29日の夕方、ナグプールから車で2時間のバンダーラからさらに車で30分の田舎町、カーランジー村で起きた。一家4人が多数の村人にリンチされ殺害された。遺体は村の外にある用水路に捨てられているところを発見された。取材当日に町中でクリニックを開業する仏教徒の医師から入手した遺体の記録写真を見ると、母のスーレカ(35歳)は赤いサリーを身につけていた。娘のプリヤンカ(17歳の高校生)は全裸だった。二人の息子、21歳のスディール(身体に障害を持つ)と18歳のローシャン(大学生)は下着のみの状態だった。いづれも、激しい殴打を物語る紫色に変色した痕跡が顔だけでなく体中に見られた

 幸運にも父親のバヤ・スダム・ボッツマンゲ(41歳)だけが一人生き残った。彼はたまたま家を留守だったために、村人に捕まることなく助かったのだった。おぞましい事件は一見静かで平和に見える村の入り口にある広場で起きた。ポンプ付きの井戸、小学校の建物や村のコミュニティセンターもある広場だった。私が村を訪れた時には、村人の姿はほとんど見当たらずに静まり返り、小学生が井戸に集まって水を飲んだり水を汲んでいる状態だった。

 村の中に警察がテントを張り駐留し、被害者のボッツマンゲ一家の家の前にも警察のテントが張られていた。ある種の無言の圧力がかかっているようだった。被害者の家は村の中でも明らかに粗末な作りで、入り口はカギがかけられ、誰もいなかった。生存者のバヤ・ボッツマンゲさんは、身柄の安全のため町にある政府の宿舎に保護されていた。

 その宿舎で仏教徒の人権活動家と地元のメディア関係者を前に、バヤ・ボッツマンゲさんが現れた。彼は数日間一睡もできず、食事も喉をと通らずに憔悴しきっていた。家族全員を失い生きる気力はないようだった。「求めるのは正義だけだ」と、何とか証言してくれた。

 バヤさんの証言によると、出先から村に戻った彼は、村で起きている事態を知ると、隣村の警察まで走って報告し助けを求めた。しかし、警察官が村に到着するまで3-4時間が経過し、村人によるリンチ殺害事件は終わっていた。状況からして、子供らを含む大勢の村人が取り囲む中で、仏教徒一家の4人は棒やチェーンや鉈などで激しく殴打されたようだ。リンチによる惨殺だ。村人は息子たちに妹をその場で犯すように命令したが、息子たちが拒否したために性器を叩きつぶしたともいう。バヤさんは、警察がすぐに村に向かってくれれば、家族4人も殺されずに済んだに違いないと嘆いた

 カーランジー村は農村地帯にある約180家族500名ほどの村で、そのうち160家族がクンディ(クンビ)・カースト(4番目のカースト階級、シュードラに属す)。つまりヒンドゥー教徒だ。仏教徒は3家族だけだった。残りは指定カーストに属する少数民族だという。事件の背景には、不可触民から改宗した仏教徒を、ヒンドゥー教徒がいまでも不可触民扱いするカースト差別感情が明白だった。事件の直接の動機は、村人が仏教徒のボッツマンゲ一家の土地の所有を妬んだことにあるようだった。土地の所有権問題で訴訟があり、別の仏教徒(シッダルダ・ガジビエ一家)の証言により村人15人が逮捕され(実際は一時的に身柄を拘束されただけのようだ)、釈放されたその日に、村人が報復した結果が一家4人殺害事件だった。当初は村人に不利な証言をしたガジビエ一家が報復対象だったらしく、たまたま留守だったのでボッツマンゲ一家が血祭りにあげられたようだ。 

 ボッツマンゲ家のはす向かいに住む少数民族の一家は、事件の一部始終を知っていると言ったが、恐怖心からそれ以上話すのを拒否した。殺害事件に関与した村人が自分に不利な証言をするはずもない。警察の存在は殺害を実行した村の多数派に味方しているかのような存在に思えた。実行犯が特定しにくい惨殺事件で、解決が困難に思われた。また、仏教徒に限定しなければ、下層民衆がカースト差別により殺されたり不利な立場に置かれているのは、他の州では頻繁に起きていると思われるため、この仏教徒一家殺害事件が格別に大きな社会問題になるとは想像できなかった。

 しかし、カーランジー村仏教徒一家殺害事件は、アンベードカル博士による集団改宗50周年を祝うタイミングに起きたため、新聞で初めて報道されるまで10日間ほど経過していた。ナグプールやマハーラシュートラ州のメディアで詳細が報道されると、ふだんからカースト差別に耐えている仏教徒の積もり積もった怒りに火をつけた。犯人がなかなか逮捕されず、明白なカースト差別による虐殺事件に対し、共産主義を掲げる反政府武装勢力ナクサライトが関与しているなどというデマがメディアや政治家によって広まり、そうしたことが相乗効果となって各地での抗議デモが暴動に発展したようだ。加えて警察による鎮圧で死傷者が続出したりで、大きな社会問題となっている。イギリスのBBC放送も、この事件を取材し11月中旬に報道した。

 佐々井師に電話すると、仏教徒に落ち着くようにメディアを通じて呼びかけているそうだ。しかし、仏教徒の抗議デモに対抗するかのようなアンベードカル像の首を切り取るような事件も起き、沈静化には時間がかかる印象を受けた。佐々井師はシン首相に面会し、殺害事件の早期解決を求めるためにデリーで待機していた。

 カーランジー村仏教徒一家殺害事件は、アンベードカルによる集団改宗50周年に起きた、仏教徒に改宗してもカースト差別や下層民衆に対する人権弾圧の根が深いことを証明する、歴史的に象徴的な事件となっていることを物語っている

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2018年12月 7日 (金)

2005年11月10日:火葬場で焼身自殺した福井の老夫婦に思う(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 夕食後、近くの店でビギンの中古CDを買い、「涙そうそう」を聴いたら涙があふれてきた。ラジオで聴いてもなぜだか条件反射のように目頭が熱くなってしまう素晴らしい曲だが、今日は2-3日前の老夫婦の自殺のことが思い浮かんで仕方がなかった。7日の午後、福井県大野市の火葬場で焼身自殺した80歳と82歳の老夫婦のことだ。

 テレビのニュースでショッキングな内容に息もつまりそうだった。「老老介護」の果ての無理心中に、あまりのやるせなさと悲しみに、連れ合いと線香を焚いて老夫婦の冥福を祈った。しかし、すこし心が落ち着いてみると、単なる自殺では片づけられない、夫の逝き方への強い意志が感じられ気になりはじめた。

 今朝の日刊スポーツによる続報では、子どもも身寄りもない夫婦で、夫が妻を近くの病院によく連れていったり、オムツの取り替え、掃除洗濯を全部やっていたようだ。妻は数年前から痴呆の症状が出ていて、夫も体調をくずし病院通いだったという。地元の警察は、妻の介護生活に疲れた夫が、将来を悲観して覚悟の心中だったと見ているとあった。

 「遺産は全て市に寄付します」と夫が署名した遺言状は、8日に大野市役所に届いたが、約1年前に作成されていたという。用意周到な準備と夫婦そろっての死に方を選んだ決意が、最初から揺るぎないものだったことがうかがわれる。

 それにしても、火葬場の焼却炉を内側から閉めて焼身自殺を実行するとは、そのための準備をする夫の一連の行動を想像するだけでも、胸が詰まってくる。意識がしっかりしたままの二人が、熱い炎で身体が焼かれ意識がなくなるまで耐えることができたのだろうか。まるで葬送曲を流して心を静めるかのように、車からはクラシック音楽が大音量で聞こえるようにしてあったという。 

 優れた小説家でも思いつかない方法で老夫婦は向こうの世界に渡る方法を実行してしまった。
 子どもも身寄りもない老夫婦には、頼れる友人もいない「孤立した」ような生活を送っていたのかもしれない。それにしても、最期の時の迎え方の潔さには、何か強い信念のようなものさえ感じることができる。自分の最期は自分でコントロールし、誰にも迷惑をかけないぞというような

 今朝、ヨルダンでは自爆テロで60名近くの人が殺された。一週間前のイスラエルでは、12歳のパレスチナ人の少年がイスラエル兵に頭を撃たれて殺害された。先月のパキスタンの大地震では8万人が亡くなった。どれも自分の意志で選び取った死に方ではない。

 福井の老夫婦の焼身自殺は、追いつめられた結果として選んだ死槐に方とは思えないのだ。強い意志で決断し、潔く実行しているところにすさまじいものを感じてしまう。

 二人は60年前の戦争を生き残ってきた、最も苦労してきた世代だ。青春時代を戦地にかりだされたかもしれない夫は、どんな体験をくぐり抜けてきたのだろうか・・・

 大野市のホームページを見たら、二人が彼岸に渡った日は、大野市と和泉村が合併して新大野市が誕生した日だった。

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2005年4月13日:親近感を感じるヨハネ・パウロ2世とネグロス島との深い繋がり(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 84歳で死去したヨハネ・パウロ二世には会ったことはないが、クリスチャンではない私も親近感を感じる。ローマ法王が生まれ育ったポーランドを取材し、アウシュビッツも撮影したことがあるのもひとつの理由だが、私がフォトジャーナリストの仕事を始める大きなきっかけとなったフィリピンと法王とが切り離せないからでもある。

 1981年に被爆地広島を訪問した法王は、その旅の行程で東アジアで最もカトリック教徒の多いフィリピンも訪問している。独裁者のマルコス大統領が権力を握っていた時代のことで、とりわけ注目に値するのが法王のネグロス島訪問だ。島国フィリピンで、よりによって法王は何故ネグロス島を訪問したのか。日本の広島を選んだのと同様に、そこには法王の強い意志があったのだろう。

 フィリピン中部のネグロス島は、別名「砂糖の島」といわれるほど、サトウキビ生産に依存し、少数の大地主が労働者を安い賃金で搾取するという封建主義的な経済構造が強固で、「フィリピンの縮図」ともいわれた島である。私はこの砂糖の島を85年から取材を始め、サトウキビ産業で働く労働者は農奴と感じるほどのショックを受けた。91年にようやく「ネグロス---嘆きの島(フィリピンの縮図)」(第三書館)のタイトルでルポルタージュを出版できたが、取材の中でローマ法王のネグロス島の州都バコロドでのスピーチを本で読み、感動した。会場には10万人が集まったという。その一部を以下に引用しよう。

土地はすべての者への神の賜物です。それがごく少数の利益のためにのみ使われ、残る大多数の人々が大地の生み出す豊かな富から締め出されているのはまことに許しがたいことです。限られた者が富と権力を手中にし、他方、工場やプランテーションで長時間激しい労働に従事している多くの者が家族さえ養いかねているのは、不正義が世を支配しているからです。教会は、力弱く、声をあげてもなお聞かれることのない貧しい人たちの側に立ち、慈善ではなく、正義を求めることをためらってはなりません

 拙著「ネグロス---嘆きの島」で私が引用したヨハネ・パウロ二世の、ネグロス島でのスピーチの一部だ。話し手が法王と知らなければ、搾取される側に身を置こうとする政治家のアジテーションともとれる内容だ。広大なサトウキビのプランテーション経営で富と権力を握り、マルコス政権を支えた地主勢力を鋭く批判している。ローマ法王の影響かどうかはわからないが、マルコス大統領はこの年、戒厳令を解除した。

 「これからは教会とプランター(農園主)は敵同志だ」と、法王のスピーチにネグロスの地方政治を牛耳る大地主が怒ったのも頷ける。ローマ法王に勇気づけられた労働者は、カトリック教会の神父やシスターたちの後押しも受け、労働組合の組織化が急激に進むきっかけともなったはずだ。

 4年後の85年9月、ネグロス島北部では、農園主が雇った民兵と警察らの発砲で、ゼネスト中の無防備の砂糖労働者ら20名が殺され負傷者50名をこえる虐殺事件が発生した。後に「エスカランテ虐殺事件」として知られ、マルコス政権が崩壊する端緒となった。そのニュースを聞き、マニラからネグロス島に入ったのが私にとっては初めてのネグロス取材だった。

 虐殺事件から6日後、不穏な空気が残る現場で行われた追悼ミサには、テレビ局も通信社のカメラマンもいなかった。地主勢力の脅しにも関わらず、カトリックの司教と神父合わせて74名に多数のシスターも出席し厳かに行われたが、著名なアメリカ人のフォトジャーナリストと私の他にカメラマンはいなかった。

 「解放の神学」の存在を知ったのもネグロス島での取材からだ。神父やシスターたちが民衆の側に入って活動する「解放の神学」が生まれた中南米の国々で、アメリカは共産主義に対抗する名目で専制的な政権をあからさまに支えた。フィリピンでも同様でマルコス独裁体制を支えていた。ネグロスでの法王のスピーチを読み返すと、「解放の神学」を奨励しているとしか思えない

 しかし、先日の毎日新聞の中米特派員が書いていた記事では、ヨハネ・パウロ二世は「解放の神学」を否定したため、中南米では80年代末までに解放の神学は影響力を失ったとあった。法王のスピーチと矛盾しているように思えてならないのだが、他紙にはない視点からの記事だったので印象深い。

 ローマ法王の死亡関連記事と写真はどの新聞でも似たり寄ったりで物足りなかったが、東京新聞に掲載された一枚の写真が記憶に残った。横たわる法王に向かって跪くアメリカ政府を代表する面々を撮ったニュース写真だ。左からブッシュ大統領と夫人、パパブッシュ、クリントン前大統領、ライス国務長官の5人が法王の遺体を見つめている。相反する価値観を実践してきた両者が居並ぶ写真だ

 武力を信奉し、イラク攻撃したブッシュ親子とライス国務長官、セックススキャンダルにまみれたクリントン。一方のヨハネ・パウロ二世は、ナチスドイツとソ連によって母国が分割統治され、肥沃な国土が蹂躙されたポーランドの歴史的な悲哀を体現した人だ。戦争や武力を否定し、社会的な不正義に敏感だったのは宗教者となる以前からのポーランドの歴史を背負っているからだと思う

 死に際まで命の尊厳を、自分自身の逝き方で最期まで見せつけた。植物人間を政府が関与してまで延命させようとしたブッシュ大統領とは対極にある。撮影した通信社のカメラマンがどんな思いを込めて撮ったのかはわからない。だが、皮肉が満載したこの写真を選んで掲載した東京新聞の意志に私は深く共感した
 
{注:ヨハネ・パウロ二世のネグロス島でのスピーチの原本は、三好亜矢子著の名著「フィリピン・レポート」(女子パウロ会)からの抜粋です。全文を読むには古本で探すしかないでしょう}

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2018年12月 4日 (火)

2004年7月1日 一匹の蛍を見た(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 一匹の蛍が飛んでいた。6月半ば、年老いたオフクロが、急に入院したため、田舎に帰った日だった。暗室小屋と畑の間を一匹の蛍が舞っていた。驚いた。心がなごむ驚きだった。田舎で蛍を目にした記憶が最近はなかったからだ。川がきれいになってきたのだろうか。

 浅間山の中腹あたりを水源とする小川が、畑の間の幅50センチほどの用水路を流れている。水量は昔から変わらない。小さい頃は赤カエルを食用に捕まえたものだが、最近は生活用水なども流されているのでカエルさえも見かけない。裏山の水田がある谷間を流れる川とその周辺が少しは浄化されてきたのかもしれない。

 蛍といえば、ビルマ山中のカレン民族の生活圏や、フィリピン先住民のピナトゥボ・アエタの住む山中ではたくさんお目にかかった。インドネシアのジャワ島東端の粗放エビの養殖場が集中する河川では、ものすごい数の蛍が川岸の木々に止まっている光景も忘れがたい。

 そんな光景を思い出していた矢先、数日前の朝日新聞に、ニューギニアの蛍の集まる木が忘れられないとの読者投稿があった。福岡に住む80歳をすぎた元日本兵の方だった。太平洋戦争中のニューギニア戦線では、10数万人の日本兵が玉砕し、その多くは餓死や病死だったといわれ、奇跡的に生き残った日本兵は1割に満たないようだ

 福岡の方は、敗戦後にニューギニアから復員する際に、おびただしい数の蛍が一本の木に集まる光景が忘れられず、二度と帰国できなくなった日本兵が集まってきているようだったと書いていた。この投稿を読んで数年前に見たテレビのドキュメンタリー番組を即座に思い出した。奇跡的に生還した元日本兵たちの忘れられない光景を、地方局が映像化した番組で、ギャラクシー賞受賞作だったと思う。

 ニューギニアのジャングルにある一本の背の高い木に、ランプを灯したようにおびただしい数の蛍が止まるシーンをブラウン管の向こうに見た時に、涙が溢れて止まらなかったことをよく覚えている。無念の死を遂げたおびただしい数の日本兵の魂が、蛍となって点滅していると思えて仕方がないからだ。戦争が作り出す言葉では言い尽くせない悲しみを映像化した、素晴らしいドキュメンタリー番組だった。

 中東世界のイスラーム教徒は、死後、魂が地上を彷徨うことがあるのかどうかは知らない。もし仮に、蛍が生息する環境があるとすれば、イラク戦争で不条理にも命を奪われた人々は、万をこえる蛍に姿を変え、チグリス・ユーフラテス河流域の木々の集まり、光を放ち、蛍の数は増える一方だと我々に警告しているのではないだろうか。 

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2004年5月18日(火) 須田治追悼集「まなざしの向こう側へ」が刊行された(宗補雑記帳よりの復活ブログ

 軍事政権下のビルマ(ミャンマー)では、憲法制定のための「国民会議」が17日開始された。アウンサンスーチー書記長とティンウー副議長が自宅軟禁とされたままの野党NLD(国民民主連盟)は、会議をボイコットした。選択肢のない結論だろう。あらかじめ軍政による結論が出ている会議は「茶番」でしかないからだ。

 ビルマ情勢のことはこの次雑記することにして、今日は友人のジャーナリストで昨年3月に急逝した須田治さんの「須田治追悼集」が刊行されたことをお知らせしたい。今年2月20日の雑記ですでにお知らせした文集が16日に長野市の出版社オフィスエムから刊行された。

 タイトルは「まなざしの向こう側へーー須田治追悼集」。須田さんの視点に相応しい実に良いタイトルだ。本はB5版270ページ、定価1500円。私が撮影した須田さんが取材中の写真を表紙のほかに10点使われています。ご家族を含め友人知人の追悼文が50点以上収録され、須田さんの主な著作を網羅した年表もあります。

 圧巻は二点の未発表原稿。ひとつは「ジャーナリストの仕事とは」と題された原稿用紙130枚をこえる長文です。須田さんが13年前に東京の出版社を退職してフリーランスのジャーナリストになる決意を込めて書かれたもので、彼のジャーナリズム論と日本のジャーナリズムに関する危機意識がひしひしと伝わってくるものに仕上がっている。

 もう一点は、満州の引揚者である母親のソ連軍から逃げる際の残酷な戦争体験を聞き書きした「母と戦争体験」だが、こちらは読むだけで痛ましい。ジャーナリストとしての須田さんが何を大切にしたきたか、その原点に巡り会ったような文章だ。この二点の原稿を読んだだけでも須田さんの力量が伝わってくるはず。追悼集の詳細はタイトルをクリックし、出版社のホームページで確認できます。 また、以下に本書に収録されている私の追悼文をコピーしました。

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2004年9月2日(木) 浅間山が噴火、大地のエネルギーは人間の予知能力をこえる(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 故郷の浅間山が噴火した。活火山だから当たり前だ。ただ、約21年振りくらいの噴火の規模のようで、しばらくぶりの印象は我が地元の御代田(みよた)町でも強いようだ。浅間山の南麓に広がる御代田町では火山灰は少し降ったという他に被害は報告されていない。

 このホームページのタイトルに「標高888㍍からの浅間山ろく通信」とあるように、私は浅間山麓の御代田町で生まれ育ち、浅間山を誇りに思っている。暗室小屋から外の畑に一歩出れば、浅間山の雄志が目の前に広がり、海外取材中も浅間山のライブ映像をインターネット上で時折チェックする。

 浅間山の噴火で今も忘れない光景は、40年以上も前の夜の噴火だった。すでに寝静まった頃、ドーンという大きな音で目を覚まし外に出て見ると、浅間山が噴火していた。それは壮大な花火を見ているような光景だった。季節がいつなのかも忘れたが、空気が澄み渡っていたのだろう。真っ赤な噴石が次々と空に吹き飛ばされ、花火のように火口周辺の山麓に落下してゆく映像は、いくつになっても私の脳裏から消えることはない。火山灰などによる農作物などへの被害はかなりなものだったと思うが、小さい頃の記憶は、全てをプラスのイメージとしてとらえている。

 不思議な話だが、実は8月21日に「浅間山との共生」をテーマにしたシンポジウムが御代田町の浅間縄文ミュージアムであり、私はパネラーの一人として出席したばかりだ。他のパネラーは荒牧重雄氏(火山学者、東大名誉教授)、関俊明氏(考古学、群馬県埋蔵文化調査事業部)、大浦瑞代氏(歴史地理学、お茶の水女子大大学院)の3名。この組み合わせでは私だけが場違いだが、地元出身ということと、フィリピンのピナトゥボ火山の大噴火とその被害を取材した経験を買われての起用だった。

 シンポジウムの中では、大きな噴火が起きる予想はなかった。昨日の噴火で予知が外れたとも思わない。というのも、浅間山を長年研究しその性格を知る火山学者は、昨日の噴火は規模の大きなものではないと認識していると思うからだ。個人的にも、都会人のように騒ぎ立てるほど驚きはしない。つまり、毎日噴煙を上げる浅間山を見慣れ、噴火を体験してきた地元住民としては、小規模の噴火をときおりやってくれた方が、爆発エネルギーが蓄積されずにすむと素人的にも考えるからだ。日本有数の活火山の麓で生活する以上、火山灰による被害は避けられない。被害が最小限に食い止められることにこしたことはないが、自然の恩恵を受けつつ火山と共生するためには覚悟を決めて生きる必要がある。

  ピナトゥボ火山の噴火を取材し、火山の深呼吸という地球の営みが、人間の想像力を寄せつけないことを体感した者として改めて思う

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2004年5月28日(金) 二人のジャーナリストの殺害、気が重い悲しくなる日だった(宗補雑記帳よりの復活ブログ

 ベテランの橋田さんと若い小川さんがイラクで殺害された。

 長年バンコクをベースに取材活動をしてきた橋田さんとは、東南アジアのどこかの現場でお会いし挨拶はしているが、きちんと話したことはない。二人ともフリーランスで危険を覚悟の上での取材だったとはいえ、同業者の一人としては、やりきれない気持ちだ。ニュースで見る燃え尽きた車体と生き残ったドライバーの証言を見ると、ますます胸が締め付けられる。もし自分が犠牲者だとしたらと、置き換えて想像しやすいからだ。避けようがなかった襲撃なのかもしれないが、占領軍を狙う代わりに、無防備で攻撃しやすいジャーナリスト、民間人を標的にする卑怯な連中には怒りを覚える。

 TBSラジオに橋田さんが出演した時の音声がTBSニュース23で流された。イラク取材で最も怒りを覚えることは何ですか、と問われた橋田さんは答えていた。「わかりやすく言えば、アメリカのブッシュですね」

昨日発表されたばかりのアムネスティ・インターナショナルによるアメリカ政府を厳しく批判した報告書を思い出す。「他国での虐待から目をつぶり、場所と時期を選んで先制攻撃をしかけることで、米国は正義と自由に打撃を与
え、世界をより危険な場所にした

 ベテラン戦場ジャーナリストの一言には本質を捕らえた重みがある

 先日は友人でコンビを組んで仕事をしたジャーナリスト、須田治さんの一周忌と追悼集出版を記念した集まりが長野市であったばかりだ。追悼集「まなざしの向こう側へ」に収録された須田さんの未発表原稿を読み、改めて彼のジャーナリストとしての秀でた感性と、力量に圧倒され、失われた才能の大きさと貴重さに気づかされた。人は時間がたってようやく失われたものに気づくのか、それとも私が鈍感なのか

 個人的には、今日は嬉しい一日になるはずだった。10日前に開腹手術をした連れ合いが、術後の経過も良好で退院する日で、車で病院まで迎えに行って来たからだ。個人的には明るい一日のはずだったが。

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