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2022年11月19日 (土)

我が御代田町の、小園拓志町長による深刻極まる町政私物化問題

(写真はクリックすると拡大します)

山際、葉梨と大臣の資質を欠く者が相次いで更迭辞任した。

 私が住む我が浅間山南麓に広がる長野県御代田町では、町長の資質が欠如した小園町長の町政の私物化とルール違反がひどすぎる。
公文書の独断作成、パワハラ、セクハラから周辺自治体首長の集まる公式会議での発言意思の欠如など、多岐にわたる問題が指摘され、
町長失格の烙印を押されても仕方のない事態に至っている。

わかりやすい事例を3点、上げておきたい。(元資料は市村千恵子町議発行のチラシにかわら版と信濃毎日新聞記事)
1:利益誘導:特定の友人の事業を優遇(旧役場跡地利用で活動実績のない法人が5000万円超の助成金を受領)
2:佐久地域の首長会議での発言の欠如(県知事参加のリモート会議)
3:地元の総合病院の名称変更問題(名称から「御代田」が削除され「軽井沢西部」に)

1の利益誘導、町政私物化問題について
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 日本財団の補助金5179万円で「子ども第三の居場所事業」を活動実績ない法人が旧役場庁舎跡地で「みよたの広場」を開始(写真)。
この問題に関し、小園町長が独断で公文書を作成して法人に渡し、日本財団の多額の助成金が担当課も議会も知らないうちに決まった、
という信じがたい流れ。しかもこの法人幹部は小園町長宅で一時同居していた「知人」というではないか。つまり、知人以上の深い交友関係者。
地元紙は「独断で公文書作成」「公印使用記録も残さず」と報道(2022年9月7日朝刊)。
御代田町の恥ずべき町政の実態を町民に明らかにしてくれたのは、ベテラン町議の市村千恵子議員(共産党)。
毎週発行のかわら版で町議会でのやりとりを克明に紹介。その内容をわかりやすく抜粋しA4チラシが最近配布された。(写真参照)
小園町長の町政の私物化の本質はパワハラか。18人の職員が3年余に中途退職。療養休暇も多数。
他にも、「ふるさと大使」に任命した町出身のアイドルグループの女性に同行した出張問題(写真左)なども露呈。

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 写真をみてもらうと誰の目にも明らかだが、「御代田の根」という一般社団法人が運営する「みよたの広場」という空間が旧役場庁舎跡地でオープンしていたが、5000万円超の補助金を活用した空間とはとても思えない。町の積極的な関与、協力も感じられない。
二カ所の入口には「みよたの広場」と書かれた小さな看板あるのみで広い駐車場は未整備。「みよたの広場」の案内看板は隣接するマツキヨ駐車場からしか見えない。

トイレは建設現場の仮設トイレ。これが日本財団から5000万円超の助成金で運営する子どもの遊び場?
日本財団は助成金が適正利用されているか速やかに調査すべき案件に違いない。
利益誘導問題は、小園町長が「御代田の根」(事業申請時は活動実績のない「浅間ネイバーズ」)の事業申請に独断で町長印を押し、
御代田町としてのお墨付きを与えたことから始まっている

2の地元首長会議での発言欠如問題について

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 今年6月9日、佐久地域の首長11人(佐久市、小諸市、軽井沢町、御代田町、佐久穂町、立科町、小海町、南牧村、川上村、北相木村、南相木村の各首長)が佐久市の合同庁舎に集まり、長野県知事と中部横断道路をめぐる意見交換のリモート会議が行われた。
この場で小園町長以外の首長は各自が具体的な要望を述べたが、小園町長は「県知事の音声が聞き取りにくいのがよろしくないので改善してほしい」と述べただけという。町のトップとして何らかの提案や要望を持って首長会議に参加するのは常識だが、小園町長は何も要望も提案もせずに参加しただけとのことだ。(9月の定例会で市村議員の質問に対し、小園町長が答えている)

首長11人が各市町村の要望を出す場で意見表明できない町長って必要か。子どもでもあるまいし。
年収は1000数百万円。前日には自ら入れ込んでいた企業型地域おこし協力隊事業予算案が全額減額され、
修正案がこの日に出されることに怒り心頭だったと。駄々をこねる子のようでは町長の資質はない。
(写真は市村千恵子議員のかわら版より)

ちなみに御代田町のホームページにある「町長の部屋」は2019年就任後の一文掲載後、更新はない。町長はどこで何を発信しているのか。
仕事をしているのか?

3の地元の総合病院の名称変更問題について
この件には個人的には思いが強いが、我が御代田町に愛着を持たない者たちの怪しい動きにしか思えない。

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 町内唯一の総合病院「御代田中央記念病院」が「軽井沢西部総合病院」に名称変更されてしまった。35年前、町の依頼で開設された診療所が前身だという地元に根ざした病院だ。最近の評判は芳しくないが、10年前に他界した私の母親も入院したりリハビリしたり度々世話になった病院だ。
「地域の人々に信頼され利用される病院になる」と公式HPで謳われているが、今、何のための病院名称の変更なのか
まさか、名称を変更すれば患者が増えるとでも思っているのではないだろうな。

病院の清水理事長は小園町長後援会代表であり、2019年の町長選に地元に何のつながりもない北海道の小園氏を落下傘候補として担ぎ上げたのが清水理事長だったことは周知の事実。新聞記事にあるように、軽井沢町には軽井沢病院があり、病院名の類似による混乱を懸念し、軽井沢町長は再検討を要望していたほどだ。

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 病院名は11月1日からの変更だと告知されていたがその数日前には新しい看板に変わっていた。
御代田町は長野県内でも目を見張るほど人口増加中。過去10年で900〜1000人増え、16000人を超えた
自然豊かで生活環境最高。佐久市、軽井沢町、小諸市に3方から囲まれ上田市も車30分の通勤圏。
子育て世代の居住者が確実に増加し、将来的には2万人を超えてもおかしくない高原の町だ。
町に欠かせない拠点病院の必要性は高まるのに「御代田」を削る考え方が理解できない
町は病院名変更に反対しなかったのだろうか?と思わざるをえない。
来年早々に町長選がある。小園町長は再選のための動きに忙しいといわれる。

町長としての資質が著しく欠如する小園町政が続くことに私は強く反対する

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2020年6月16日 (火)

残照館(KAITA EPITAPH)として旧信濃デッサン館が復活

(写真はクリックすると拡大します)

_yyy6687sumiweb_20200613231601 残照館の名と共に生き返った旧信濃デッサン館の建物

Dsc_4164sumiweb_20200614225001 開館にはもってこいの季節。外出自粛の解除もあり、明るさ、希望を感じる。

_yyy7001sumiweb 坂田明さんと談笑する窪島さん。

2年前に一度死んだというか、役割を終えた旧信濃デッサン館が残照館(KAITA EPITAPH)として6月7日に復活した。
転んでもただでは起きない館長の窪島誠一郎さんの手腕はいろんな意味で流石だ。

旧信濃デッサン館は窪島誠一郎さん(現在78歳)が35歳の時に開館し、村山槐多、関根正二、靉光、松本俊介などの若くして夭折した画家たちの作品を長年にわたって常設していた稀有な美術館だった。しかし、2年前に経営難のためと戦没画学生慰霊の無言館の存続に集中するためにと閉館したことは広く知られている。

今回、窪島さんは手元に残しておいた村山槐多や木下晋、エゴン・シーレ、それに100歳の天寿を全うした浜田知明などの作品を展示し、原発事故で廃材の運命をたどることになっていた板材をテーブルに、館内4ヵ所に椅子とセットで用意するなど、入場者が気安く作品を鑑賞できる雰囲気に変えるなどの仕掛けも施した。

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エゴン・シーレの作品も惜し気もなく展示されています。

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木下晋作品の前に置かれたテーブルは南相馬市から運んできました。
テーブル材は南相馬市小高区の田中徳雲同慶寺住職が保管していてくれたもので、元は大熊町の檀家さんの倉庫に保管されていたもの。

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松本俊一などの作品さえ知っている小学生の男の子の入館に窪島さんビックリ。迷わず自著をプレゼント。


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残照館開館についての窪島館長のあいさつ文の一部を紹介したい。

「私は芸術がわかって絵をあつめた人間ではない。「何も誇れるもののない自分」を「画家がのこした絵の魂」のそばに置くことによって、一人前の人間になりたかったというのが動機だ」

「残照館とはいつの間にか日暮れのせまった道を歩く男の感傷から生まれた館名で、KAITA EPITAPHは、私が半生を賭けて愛した大正期の夭折画家村山槐多の「墓碑銘」を意味している」

 

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館内には漆黒の黒塗りされたテーブルが4基、椅子とセットで置かれている。座って鑑賞したり、隣接する喫茶店の飲み物を楽しむこともできるようにと、窪島さんが用意した。実はこれらのテーブルは、福島県大熊町の帰還困難区域の住民の方が倉庫に保管していた板材だ。住民の方は南相馬市小高区同慶寺の檀家さんという経緯から、県内の別の街に移住し、自宅を解体して更地にした際に、田中徳雲住職が檀家さんの許可を得て板材を運び出し保管してくれ、私がそれらを今年2月に南相馬市の倉庫から運びこんだ。当初は喫茶室のテーブルになると聞かされていたが、展示作品の展示台に利用されていたり、残照館の展示物と一体となっていたりで嬉しい驚きとなった。隠された窪島さんのメッセージといえるだろう。

_yyy6840sumiweb 吉岡憲の作品群


_yyy6844sumiweb 101歳まで生きた浜田知明さんの怖い彫刻作品など。


Dsc_4184sumiweb 椅子に腰掛けて作品観賞もできる。

 

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 館内には立原道造記念展示室が二ヵ所に設置されている。


Web_20200613232901 彫刻家舟越保武の作品。

残照館開館を祝い、窪島さんの古くからの友人の坂田明さんが前庭でサックスを演奏し、コロナ自粛から解放されたようなタイミングでのイベントが前庭で開催された。演奏前に先立ち、窪島さんの実にタイムリーなあいさつがあった。

「100年前のスペイン風邪で亡くなったのが村山槐多、関根正二、エゴン・シーレ。シーレは28歳。身籠っていた妻も亡くなった。芸術家だけでも数万人が亡くなった。700年前のペストの時代にはブリューゲル、カルバジオ、ボッカチオなどヨーロッパの名だたる芸術家の若い命が奪われた。疫病の時代にこそ素晴らしい絵画、音楽、文学が生まれた。

人間には苦境や自分では動かしがたい運命が来た時に、人に向かって美しいものを作り上げる力がある。芸術という力がある。いま末端で仕事をしているアーティストはみんな生活に困っている。そんな中で世の中を明るくし光を与える芸術が生まれる。残照館の力を通じ、いまの時代こそ若いアーティストに頑張ってほしい」

 

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坂田さんと窪島さんは東京の明大前駅近くに窪島さんが始めた小ライブハウス「キッド・アイラック」の頃からの長い付き合いという。
ガリ版刷りのライブ案内チラシをハチ公前で配ったがお客さんが全く来ないこともあったと坂田さんは話した。

 

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窪島さんが35歳の時に建てた旧信濃デッサン館の建物。開館日は喫茶室も営業。


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残照館の前庭で入場者が坂田さんの演奏に聞き入った。
坂田さんの演奏のラストはソフィア・ローレン主演映画「ひまわり」の主題歌。坂田さん曰く、チェルノブイリ原発が爆発する前の映像が映画に出てくるという、ドキッとする話がありました。

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残照館開館日は毎週土、日、月。午前11時から午後4時。受付には窪島誠一郎さんができるだけ座ることになるという。
どうか、無言館にお出かけの際は、残照館もご覧ください。

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2020年4月 1日 (水)

「命の行進2020 2020年3月10日」 南相馬市小高区から浪江町請戸海岸まで雨中15キロ 犠牲者追悼行進

(写真はクリックすると拡大します)
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ひたすら「南無妙法蓮華経」と唱え、団扇太鼓を叩きながら歩く15キロだった。冷たい雨降りの中、5時間の行程だった。

 

南相馬市小高区の同慶寺から、慰霊の行進の目的地は、180人をこえる犠牲者を出した浪江町請戸海岸まで。参加者は約20名。同慶寺住職の田中徳雲さんの写真を中心に紹介します。
最終目的地の荒れた海から押し寄せる波に向かい、「南無妙法蓮華経」と手書きされたお札を撒き、犠牲者を弔う田中徳雲同慶寺住職と、「命の行進 2020」の長い行程を歩いてきた日本山妙法寺の佐藤達馬上人(奥の人)。
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「南無妙法蓮華経」と手書きされたお札は、静岡県在住の日本山妙法寺の信者さんが5000枚手書きされたもの。
東日本大震災の大津波で海に流され、彷徨う魂が海を漂うお札をつかんだ瞬間に、時がどんなに経っても犠牲者のことを忘れないでいる人たちがいたことで魂が救われたという実話を元に、海に流す形が定着したという。

 

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翌日の3月11日は、同慶寺で東日本大震災追悼イベントとそれに先立ってのマンダラカフェのまとめが行われた。 あの日から丸9年が経過した節目の日の行事が終わってから、田中徳雲師にこの一年間を振り返っての気持ちを聞いた。 「この一年は良いことも悪いことも多かった。元気に活動していた人が亡くなったり、会を解散したり。みんな疲れていた。私も疲れていた。9年間を振り返って一番強く感じるのは、人とのつながり。忘れさせることはさせられない。仲間と呼べる人たちが、足を運んでくれる。声をかけてくれる。今日じゃなくても、顔を見に来てくれる。そういう人が大勢いる。あの震災がなければ、得られることはなかった、人とのつながり。失ったものはたくさんあるけれども、いただいたものも同じようにたくさんある」

今年の「命の行進、慰霊の行進」も、得られるものがたくさんあった。

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2020年3月30日 (月)

東京五輪の是非を8人と1頭から聞きました(取材は3月7日から16日まで)

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東京五輪についての意見を、8人とイノシシ一頭から聞きました。 (3月22日にFacebookに投稿した内容を転載します。なお、安倍政権が五輪開催をあきらめ、来年に延期することを正式に決めたのは3月24日)
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テレビ新聞は「復興五輪」のまやかしをまだ続け、安倍自公政権の悪政の共犯者となり続けるのだろうか!?
まるで「井の中の蛙大海を知らず」かのように、コロナ禍がここまで世界中も問題となっても、まだ五輪を開催しよういう安倍自公政権は、日本人だけが参加する国体を開催すれば良い。新型コロナウイルスが登場する前から、テレビ新聞などの大手メディアは視聴者・読者に伝える義務がある。「五輪には反対だ!」という、被災者の反対意見を。
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_yyy5260sumiweb 「安倍オリンピックが炎上して崩れていくんだ。安倍オリンピックを倒すタイミングが来た。3・11は終わっていない。原発事故はまた起きる。首都圏直下の地震も起きるだろう。そしてコロナがきっかけとなる。このまま行ったら国民もろとも玉砕の道をたどることになる。これまでの大きな筋書きは間違っていなかった。赤いボールは五輪を中止させるための時限爆弾だ(注:手にしているのは請戸海岸で拾った漁業用のブイ)。浪江町は4000棟が解体され更地になる。サヨウナラ浪江町だ。広大な帰還困難区域は荒廃する」(希望の牧場・ふくしまの吉沢正巳代表。浪江町


_yyy3733sumiweb 「アベさんは被災者福島県を利用して、五輪開催の意義があると訴えて招致した。中央の政治家が五輪を政治利用して「復興五輪」と表現するのはわかるが、地元の政治家や県全体までが福島の「復興五輪」だと盛り上げる感覚が解せないし、許せない。
原発事件の前と後。あの頃の故郷と今の故郷が同じだと思っている人は一人もいないだろう」(阿部光裕住職。福島市

_yyy3377sumiweb 「国は五輪開催することで福島の原発事故は解決しましたと世界に発信しているが、それは違う。多くの問題があるにも関わらず、五輪で日本は大丈夫と何事もなかったかのような偏ったイメージが広まる。住民はそうじゃないと思っている。いずれ自分のところに原発事故の被害が及ぶ。手放しで喜べる五輪ではない。五輪のために使う金は原発廃炉などに使うべきだったと思っている」(米野菜専業農家の中村喜代さん。郡山市

_yyy3655web 「首相があれほどウソこき恥こき言って誘致してる。言語道断だ。福島県人を愚弄している。人の命と五輪とどっちが大事だ。五輪はご破算だとIOCに直訴したい」(米野菜専業農家の故中村和夫さん。郡山市。2017年4月に急病により68歳で旅立った。五輪反対の意見は2014年にインタビューした時のもの

_yyy4339sumiweb 「五輪どころではないはずです。日本には真剣に向き合わなければいけない問題が山積みなのに。五輪にかけるお金も労力も時間もかけるどころではないと思っています。エネルギーをかけて大きなことをやった後のダメージは大きく、日本社会は疲弊します。五輪はやらなければ良いとずっと思っています」(田中徳雲住職。南相馬市

_yyy5070sumiweb_20200330221401 「イノシシのオレからも意見を聞きたいってかい!?9年前のあの原発事故による放射能汚染で大熊町は人間が一人もいない街になり、オレたちは食べ放題、荒らし放題の楽園になった。オレたちが獣のなかで一番放射能汚染されていることも知っているが、どうにもならないさ。駅と鉄道が再開されるようだが、常磐線界隈をねぐらとしていたオレだが、住民が戻って来れるわけではないので、あまり心配していないさ。五輪が開催されようとされまいと、オレたちの関心事は食い物が手に入るかどうかだよ」(大野駅前の駐車場を散歩していた雄イノシシ。大熊町

_yyy5727sumiweb 「元々、招致する際に、五輪やりたいのは山々ですが、今は辞退します、他所の国がお先にどうぞと譲るのが筋。オリンピックなんてお祭り騒ぎやっている時じゃないっぺ。「復興」、復興」って大金が動いているが、オリンピック終わったら一気に減速するって」
被ばく牛を生かす、元建設業で養蜂家でもあった松村直登さん。富岡町

_n613012sumiweb 「被災地復興が最優先なのに五輪をやろうとする。被災者や国民の視点ではない。経団連や一部のための政策だ。安倍は物事の道理を理解せず、好き勝手にやっている。その一つが五輪。国民は大きな力になびいていることに気づいてない。立ち止まって考える必要がある」
大津波で自宅1階が壊滅したが、リフォーム中の小野寺雅之さん。宮城県気仙沼市本吉町
(自宅下の線路はJR気仙沼線。まだ手付かずだ)


_yyy3649sumiweb「私がオリンピックに反対する理由は、「復興オリンピックと銘打って、避難者を切り捨てる政策を取っていることです。『福島県民はオリンピックどごでねえ!』」というのが正直な気持ちです。」
(子どもたちの保養キャンプ、佐渡へっついの家を主宰する関久雄さん。写真は郡山駅前にて)


 

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2020年3月29日 (日)

ようやく延期されたとはいえ、いつまで「復興五輪」に騙されているのか。

(クリックすると画像が拡大します)

2020114dsc_2569sumiweb_20200330202001Dsc_2568sumiweb_20200330202501 東京電力福島第一原発事故から丸9年。地元紙の福島民報によると、福島県民の県内外への避難者数は今でも41000を超し、県外への避難者数は31000人を超す。東北以外では、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の順で多い。この現実を前にしても、自民党公明党政府は、「復興五輪」を強行しようとした。

 

「復興五輪」がコロナウイルスによって蹴散らされた。当然至極すぎて驚かないが、安倍自公政権による「五輪ありき」政治により、新型コロナウイルス対策が手遅れになっているのではないかという心配が日本社会を覆い始めた。以下に紹介する写真群は、国民の命を軽視しても、今年7月に東京五輪を強行しようとしていた安倍「復興五輪」が、負のイメージを報道しようとしないテレビなど大手メディアを利用して、国民の目から隠そうとした東電原発事故から10年目の本当の姿だ。

誠実のかけらも、倫理感も道徳も持ち合わせず、口から出まかせ的な幼稚話法しか持ち合わせない安倍晋三(首相)が、「アンダーコントロール」と国際社会にウソ八百をついて、おそらく大金をちらつかせながら誘致した東京五輪。その始まりのうさん臭さから、今日の事態が来ることは筋書きができていたのではないだろうか。見えない神の手による懲らしめとして。

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双葉厚生病院の隣に建つ双葉郡医師会と双葉准看護学院の建物玄関。

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双葉町の双葉厚生病院真向かいに建つデイケアセンター裏口の下駄箱。9年前にスタッフが使っていた時のまま空気が止まっているようだ。大熊町にある小学校の教室のように。近くにある双葉町役場とこの厚生病院は、東電福島第一原発の北西約3.5キロの至近距離にある。

 

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9年前の3月13日午前10時半ごろ、緊急脱出の跡が残る双葉厚生病院玄関前に立ったことを思い出す。一度は除染されたと思われるいわくつきの病院だが、空間線量はいまだ高いままだ。何が問題かというと、この病院の敷地も近くの双葉町役場も、避難指示が解除された事実。3月14日に、常磐線が全線開通されるので、そのためだけに双葉駅とその周辺の除染も建物の解体更地化も進行途上の広範囲な一帯が、住民でも私のようなよそ者でも誰でも、歩き回ることが可能となったことだ。

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2011年3月13日午前10時半ごろの双葉厚生病院玄関前。空間線量が1ミリシーベルト(1000マイクロシーベルト)を超えた場所だ。平常値の約2万倍を示す放射線量だ。
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安倍晋三率いる自公政権を政権与党に押し上げ、お上のいうことを素直に聞いている多くの愚かしい有権者と、五輪招致以来、短期間のお祭り騒ぎに便乗し、五輪バブルを積み上げることに熱心だったテレビ新聞などの国民への影響力が巨大な大手メディアが共犯し、「復興」の実態のない東京五輪を玄関口までたぐり寄せることに成功したのはまぎれもない事実だ。
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双葉厚生病院の隣にある双葉青年婦人会館の駐車場は、自動車が放置されたまま10年目に入っている。何度ここに立ち寄ってもシュールさを感じてしまう光景。建物から急に誰かが出てきて、止めてある車に乗り込むんじゃないだろうか、という感覚だ。

9年前の東日本大震災と福島原発事故直後から被災地の取材を不定期ながら続けてきたカメラマンとして、五輪開催に反対の旗印を鮮明にして取材を続けてきた。
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希望の牧場・ふくしまの吉澤正巳代表:「福島県の被災地を置き去りにした大都会東京のエゴだ。勝手にやればと思う。五輪の最中に関東大震災と東海の大津波、浜岡原発がどうなるかを現実の問題としてみなさんでシュミレーションをした方がいいのではないかと言いたい」(2013年)
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五輪招致は復興に役立つわけがない。逆に足を引っ張ると話す阿部光裕常円寺住職。(2014年、福島市山口)

現場に何度か出かけて、「復興」ということばの誤魔化しとまやかしに気が付かない取材者はいないのではないか。そんな思いを持ち続けながら、あれから9年後、10年目に入る原発事故被災地、3月に入って早々と避難指示が解除された常磐線双葉駅周辺の現状をお知らせしたい。以下の原稿は3月12日にFacebookに投稿した内容に加筆修正した。

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3月14日、双葉駅ホームで開通を祝う横断幕を掲げる人たち。

加えて、3月14日の常磐線全線開通のお祝い写真も追加した。避難指示の解除の実態にそぐわないにも関わらず、「復興五輪」のイメージアップ策として挙行されたからだ。
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◯「復興五輪」と簡単に騙されていいのか?


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2020年東日本大震災と福島原発事故10年目の取材から。
第一弾は常磐線全線開通のために避難指示解除された双葉町の双葉駅周辺など。撮影は3月9日。

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春になると桜並木が素晴らしいこの場所には、以前、原発推進アーケードが建っていたが、跡形もないので、今では知る人ぞしる場所となっていた。ところが、画面左下には、その原発推進標語を考案した大沼勇治さんが貼ったと思われるポスターが残されていた。

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2015年12月21日。大沼さんが小学生の時に考案し、双葉町に採用された標語看板「原子力 明るい 未来のエネルギー」が報道陣を前に撤去された。大沼さんと奥さんは防護服姿で、「撤去が復興?」「過去は消せず」と記されたプラカードを掲げて抗議した。

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原発推進標語アーケードの裏側は、「原子力 正しい理解で 豊かなくらし」とあった。この日、大沼さんたちの抗議も空しく、双葉町の予算を使って看板は撤去され、役場の倉庫に保管された。

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新しくなった双葉駅。駅前には駐車場スペースもあるが、この駅前広場を使い聖火リレーが予定されていたと思われる。26日には、「聖火」が臨時列車で大野駅から双葉駅に運ばれ、駅前の約500メートルでランナーが聖火リレーすることまで予定されていた。(注:3月24日夜にやっと、やっと五輪開催延期となり、聖火リレーは中止となった)

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駅舎に隣接する「ふたばコミュニティセンター」内は全くの手付かずにも見える。五輪招致が復興事業の足かせになってきたことを物語っているともいえるのではないか?常磐線双葉駅と大熊町の大野駅は3月14日に9年ぶりに営業再開し、全線開通となる。

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駅前商店街や隣接する地区は、住宅の解体更地化の真っ最中。9年経ってやっとここを痛感する。

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加えて、大地震により店内が足の踏み場もないほどに商品などが倒壊し、あの日のままの建物側は、平常値の20~30倍の1~2マイクロシーベルトまで一気に線量が上がる。

 

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地震で崩れたまま廃屋となった建物。

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電気屋さん。

また、今回の避難指示解除と同時に、双葉町役場と双葉厚生病院のある6号線海側も一部が避難指示解除された。役場も病院も9年前にフリーランスの仲間6人で3月13日朝にたどり着いた場所だ。三人が手にする三種類の線量計が振り切れ、1ミリシーベルト(1000マイクロシーベルト)を超えたことを初めて知ったいわくつきの場所でもある。

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9年前の3月13日午前10時頃にこの場所に辿りついたが、その時のままに感じられる

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役場や厚生病院の裏手は縄一本で中間貯蔵施設地域と隣り合っていて、除染土を運び込むダンプカーが次々に入ってきていた。線量はなおさら高い。

今回の避難指示解除はインフラ整備はまだなため、住民に帰還してくださいという避難解除ではないというものの、「五輪招致」ありきで、現状を都合よく無視し、常磐線を開通させ、聖火リレーを大々的に実施して復興のイメージ作りというシナリオが出来ていた。あまりにも無責任ではないか。

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双葉海岸に近い一帯は、かさ上げや造成工事の真っただ中。大津波で流された墓地跡には、墓石が並べて置かれている光景も9年後の現実だということしっかりと見つめる必要があるだろう。

これらの写真群は、あなたが、私が生活し、底なしに劣化した国会議員や官僚たちも生活する日本の国土の一部で起きている現在進行形の出来事であることを忘れないでいたい。「復興五輪」の実態である。

 

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3月14日。双葉駅舎で開催された特急列車出迎え式でスピーチする内堀福島県知事。「五輪で常磐線が利用される予定だ」と祝辞を述べた。
原発事故までの利用客や地元住民には嬉しいことかもしれない。だが、線量が高いままの双葉駅周辺は解体更地化を待つ家屋が立ち並び、避難指示が解除されたといってもインフラ未整備のため、2022年3月の住民帰還を目指すのが実情。

 

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富岡町名物の桜並木、夜の森がある夜ノ森駅ホーム。

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3月12日、夜ノ森駅前通りは帰還困難区域のままなので、バリケードで封鎖されていた。

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大熊町の大野駅ホーム。

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3月12日、開通前の常磐線大野駅前駐車場は雄イノシシが一頭、のんびりと散歩していた。

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大野駅前商店街もバリケードで分断されている。

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3月14日、双葉駅に停車し、仙台へ向かう最初の特急列車。写真に写る建物は、ほとんどが解体待ちで誰一人住んでいない無人地帯。

逆説的だが、コロナウイルスにより、安倍「復興五輪」開催は、1年先延ばしされ、被災者の生活再建が軌道にのりはじめたというような本当の復興とは無縁の実態が、海外メディアを通じて国際社会にあぶり出される機会が少しだけ先送りされたということかもしれない。
来年3月は原発事故から丸10年の節目の年。県内外へ避難した住民の動きはさらに小さくなり、ゴーストタウンはより顕著になってるだろう。原発事故による放射能汚染は、住民から「帰還」の選択肢を奪った。

 

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2020年1月 7日 (火)

いまこそ、痛みを分かち合う心を取り戻すとき

(画像はクリックすると拡大します)

 2020年となりました。希望を見つけにくい不安な船出を強く感じています。

信濃毎日新聞に掲載された中村哲さんについての寄稿(2019年12月11日朝刊)と、2020年の寒中お見舞いハガキを読者のみなさんと共有したいので掲載します。

 凶弾に倒れた中村哲さんは、2001年に一度だけパキスタンのペシャワールで直接取材させていただいた取材者として、また、数多の命が無駄に死に急ぎさせられた日本の国策による戦争の結果、戦後に産み落とされた日本国憲法9条の、国際紛争を武力で解決することを禁じた非戦と平和を基調とする憲法の改悪を阻止したい同志としても、追悼の気持ちを込めて書かせていただきました。

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 昨年は台風15号、19号と続き、東日本の広範囲に前例のないような大きな被害を引き起こしました。地球温暖化による気候変動は、大型化した台風などの大災害を発災場所を変えて繰り返すことを覚悟して生きなければならない時代となってしまいました。中村哲さんの生き方の柱である「目の前で困っている人を見捨てるわけにはいかない」が、国(政府)はもとより、個人のレベルでいまほど「痛みを分かち合う心を取り戻す」ことが日本社会に求められているときはないと思います。

「軍事費は削減し 防災減災に 自衛隊は再編し 災害救助組織に」

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2019年12月17日 (火)

カモフラージュする国、抗う個、止まらぬ気候変動(原発事故被災地のいま)

(写真はクリックすると拡大します)

来年は安倍晋三(無能で無責任で幼稚な首相)が国際社会に大うそをつき、招致した東京五輪がある。そのためのカモフラージュに多忙な実態が見えるのが原発事故を起こしたイチエフ周辺だ。

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原発事故を起こしたイチエフの南側に隣接する、ヒラメなどを原発の温排水を利用して養殖していた施設。約15mの大津波でコンクリート製の建物も全壊となったが、朽ち果てるにまかされたままだ。海側の空間線量は10マイクロシーベルトを超えていた。この施設では二人の職員が大津波で亡くなっている。

 

12月9日と10日の二日間、福島県大熊町、浪江町、南相馬市を駆け足で取材してきた。大熊町は町会議員の木幡ますみさんの一時帰宅に同行取材した。ちなみに木幡さんは11月に実施された町議会議員選挙でトップ当選を果たし、議会唯一といっていい反原発派議員。12人の議員中、唯一の女性議員として二期目が始まったばかり。8年前の2011年12月の今頃、初めて木幡仁・ますみさん夫妻の一時帰宅に同行して以来、ほぼ毎年のように同行してきが、今回は約2年ぶり。8年前の取材は以下のブログでご覧ください。大熊町の放射線量の恐ろしいばかりの高さを実感できると思います。

2011年12月29日 (木)どこを計っても高い大熊町内(警戒区域)の放射線量

 

木幡さんの案内で、事故原発のあるイチエフ側、つまり国道6号線東側の中間貯蔵施設の現状を垣間見てから、国道6号線西側の大熊駅前商店街と常磐線大野駅の周辺、それから木幡さんの自宅のある野上地区(イチエフから西7キロに位置)の現状を見て回った写真レポートです。

国道6号線海側

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駐車場に生えてきた松の葉を集め、線量計測に出すという木幡ますみさん。この場所では、以前は野ばらの実を測定していた。

 

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海側にあるボイラー関係の建物だろうか。大津波のより破壊されたままの姿が残されている。

 

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養魚場の建物脇に、一台の車がそのまま残されていた。モニタリングポストは二基設置され、一台だけが稼働していた。

 

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中間貯蔵施設として整備された敷地に、普通のダンプカーの倍の大きさの車両が、機械的に線量が選別された汚染土をピストン輸送している。

 

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中間貯蔵施設関連施設。線量によって振り分けられた汚染土が、ベルトコンベアーで運ばれていくシステムになっているようだ。大津波被災地の陸前高田市の大規模なベルトコンベアー方式を思い出した。

 

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ダンプカーが大熊町町外から汚染土を中間貯蔵施設に運び入れるため、渋滞が起きている。国道6号線も幹線道路も、軒並み、ダンプカーの車列が続き、行き交う車両の半分がダンプカーを占める印象だ。

 

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熊町小学校に設置されたモニタリングポストは稼働しているが、実際の線量との開きが異なることが明白。今回は見なかったが、熊町小の各教室は2011・3・11にタイムスリップしたまま、机の上は教科書やノートが広げられ、小学生が慌ただしく逃げ出したそのままの状態で密閉されているといえる。

 

◯大熊町駅前商店街
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大熊町駅前商店街は廃墟となった街同然。ゴーストタウンと化して8年9ヵ月。店舗内は大地震で崩れ、建物も壊れたままで、いまだに手付かず。

 

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大熊町商店街の中の店舗。地震や水害や大津波の被災地で、災害から8年9年後に住宅がこうした廃墟の状態を、あなたは想像できるでしょうか?手を加えることもないままに、大地震と原発事故により、ずっとずっと撃ち棄てられたままだという事実を。放射能汚染の怖ろしさを想像できるでしょうか?

 

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こちらも大熊町商店街の店舗。2011年3月11日で時間が止まったままだ。

 

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大熊町商店街にある店舗の名前は、「アトム観光」「ブックス アトム」。木幡さんは商店街の要所要所で空間線量を測る。来年3月に常磐線が全線再開される予定に合わせ、駅と駅前商店街一帯の避難指示を解除する動きがあるというので、木幡さんは避難指示を解除する状態ではないことを議会で訴え、何とか阻止したいと話す。

 

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大熊町駅前商店街の空間線量は3マイクロシーベルト前後ある。平常値の60~70倍だ。8年前、この商店街の放射線量を測定した時は11マイクロシーベルトあった。確かにこの間に線量が下がったことは確かだが、この一帯は住民の帰還を容認するほどの安全な場所ではない。

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大熊町の常磐線大野駅前の四つ角にあった建物は解体が終わったばかりだった。

 

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建て直された常磐線大野駅駅舎。駅前は整備工事中だったが、若い作業員は防護服着用だが、マスクなしで仕事に熱中していた。駅前の空間線量は3マイクロシーベルトある。

 

◯イチエフ西7キロの野上地区にある木幡さんの自宅
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イチエフから西7キロにある木幡さんの自宅。野上地区は帰還困難区域。9月に一時帰宅した際は、雑木と雑草で庭先は覆われていて、見るのも嫌だったという。夫の仁さんが除染を依頼し、東電関係者が太くなった雑木も含め、きれいに片づけてくれたようだ。東電が、木幡さんは町議会唯一の反原発議員だということを意識していることは間違いないだろう。

 

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雑草も雑木もきれいに刈り取られた庭先の空間線量は3マイクロシーベルト以上。木幡さん一家がこの自宅に帰還して生活を取り戻す選択はどうみてもないと実感する。

 

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木幡家の室内の様子は、以前の何倍もぐちゃぐちゃになっている印象が強い。ドロボウなにか、獣なのか・・・・・。

 

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自宅前に広がる農地は大半が水田地帯だった。木幡家は手広く米を作っていたというが、水田地帯は荒れ果てたまま。もちろん、農業が再開できるわけでもないが。

 

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原発推進の反省も原発事故の責任も何ら不問とされたまま町長を引退した渡辺利綱前町長の再建された自宅。前町長の自宅を中心とした大川原地区だけが徹底除染され、大熊町新庁舎が建設され、今年4月10日に避難指示が解除され、住民帰還が推奨された。そして8ヵ月。帰還した大熊町民は60~70名だと木幡さんはいう。

 

◯浪江町の希望の牧場の牛たちは?
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冬到来にも関わらず、原発事故を生き延びてきた被ばく牛たちがノンビリと太陽光を浴びる「希望の牧場・ふくしま」は、不思議な存在感を保つ。

 

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週3回、レタス県から大型トラックで運び込まれるレタスやキャベツなどのカット野菜の廃棄物。被ばく牛たちは、我先にと食べつ、ご満悦の様子
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希望の牧場・ふくしまの吉沢正巳代表。原発事故に、殺処分に、国の原発推進や自衛隊海外へ県政策などに、身体を張って抗う畜産農家。原発事故年の今頃、初めて牧場の取材をさせてもらったが、短くみても20年分くらいの出来事のあったこの歳月を、風貌に刻んでいると改めて思った。

 

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外国人訪問客に原発事故の自身の体験談を語る吉沢さん。アドレナリンが出て、吉沢節はハイテンションになる。
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希望の牧場で健在の牛は264頭。原発事故後にたくさんの子牛が生まれ息絶えていった。成牛も一頭また一頭と亡くなっていった。いつの間にか、原発事故後の死んでいった牛たちを弔うお墓が建てられていた。成仏できない牛たちの魂は、浮遊しているのかもしれない。

 

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「除染  解除しても サヨナラ 浪江町」
牧場入口には吉沢さんの本音が込められた新しい立て看がある。

 

◯フランシスコ教皇に被災者の思いを語った南相馬市の田中徳雲住職
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南相馬市小高区にある曹洞宗同慶寺。イチエフから17キロにある、相馬藩の菩提寺でもある。

 

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田中徳雲さんは南相馬市小高区同慶寺住職。来日したフランシスコ教皇に直接、原発事故被災体験を語る3人に選ばれた。話す予定の元原稿が、バチカン外務省により改変されて、手元に届いた。肝心な部分が改変されていた。どうしようか、当日は欠席しようか、と迷ったが、自分で用意した元の原稿を読み上げようと決めたと話す。

 

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バチカン外務省により削除されていた肝心な部分は以下の通りだという。

 

「そして便利な時代の恩恵を受けて生活してきたこと、つまり「被害者であるが、同時に加害者でもある」ことを自覚し、反省しています」
私たちは、原発による電力の便利さの恩恵を享受してきたことは否定できない。つまり加害者でもあるという、痛みを伴う見解を、徳雲さんは堂々と主張したかったのだという。

 

この部分は、今年3月の徳雲さんの「命の行進」の取材時に、徳雲さんはこう表現していた。
(原発事故後はみんなの意識が変わりそうに思えたのに)なぜ私たちは変われないのか?そこで気づいたのが、便利な生活を少なくとも享受してきている私たちの世代はみなそうだと思いますが、自分自身の中に東京電力があるという心の問題です

 

実際のところ、教皇の前で、徳雲さんはご自分の見解を読み上げたそうだが、日本語の達者なバチカン側の通訳が教皇に正しく通訳したのかは定かではない。

 

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同慶寺境内。境内に立つと空気感が変わることを実感する、清掃の行き届いた素晴らしいお寺だ。

 

台風19号の被害(南相馬市小高区)
台風19号による甚大な被害は長野県だけではない。福島県の阿武隈川流域の中通りも、太平洋側の南相馬市などでも、原発事故による放射能汚染をより複雑にする新たな被害を起こしているのではないかと思えた。

 

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南相馬市小高区を流れる小高川が、台風19号で氾濫し、上流域では水田地帯に倒木や土砂が大量に押し流されていた。

 

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ダンプカーが走るのは高速道路の常磐道。小高川の氾濫による土砂や流木は、水田地帯を広い範囲でばらまいた。台風19号から約二ヵ月後、一帯は手付かずのままだ。

 

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上流から運ばれてきたフレコンバッグが15袋、土砂とともに水田を埋め尽くしていた。(南相馬市の小高川流域)
この場所での事例から、汚染土の詰まったフレコンバッグが仮置きされている福島県内の広い範囲で、同様な被害が出ていることが容易に想像できる。
また、浪江町の請戸川上流にある大柿ダムは台風時に放流され、ダム湖底に堆積していた汚染土も下流域に押し流されたのではないかと指摘されている。大柿ダムの水源は、高濃度に汚染され、除染されることのない浪江町津島地区の深い渓谷。農水省によると、大柿ダムは灌漑用水専用のダムとして、南相⾺市⼩⾼区、浪江町及び双葉町の⽔⽥約3,500haへかんがい⽤⽔を供給する目的で建てられた。激しい台風の度に放射性セシウムがダムに流入すると農水省は公表。「湖底の底質中の放射性セシウム濃度は、2016年夏頃までは、20万Bq/kg前後でしたが、2016年夏以降は10〜15万Bq/kg前後で推移」とホームページで公開もしている。湖底に堆積していた放射性物質が大型台風の度に流出されるようでは、下流域の田畑を除染しても再汚染されてしまうことになる。小高区は避難指示は解除され、浪江町下流域も一部の避難指示は解除されている。大柿ダムの灌漑用水を利用した農業の再開には、放射能汚染問題の心配が付きまとうということだ。

 

国は五輪を招致し、原発事故をなかったことにカモフラージュする。抗う個はあちこちに存在し、ブレることはない。気候変動は被災地だけでなく、必ず私たちを襲う。被災者となって気づくのは手遅れになることに気づくべきだ。

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2019年11月14日 (木)

国防よりも、今こそ被災者支援、減災のための防災を優先するのが政府の責務だろう

(写真はクリックすると拡大します)

世間は「桜を見る会」のスキャンダルで大騒ぎだ。野党から突っ込まれ、「来年の「桜を見る会」は私の判断で中止しました」と責任逃れをしようとした安倍晋三(首相)は、戦後から長きにわたって続く恒例の政府公式行事を一存で中止する判断こそが、「桜を見る会」の私物化だと証明することがわからない政治家だ。とても国会議員の資格があるとはいえない。

 

それはさておき、台風19号から一ヵ月が過ぎた。当事者の被災者ににとっては現在進行形で忘れることはできないが、直接の被災者とならなかった者が忘れたくても忘れていけないこともある。幸運にも当事者とならなかったことに感謝しながら、台風19号による被害の現実を取材した記録と記憶を共有しておきたい。

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長野市の千曲川決壊による水没地域は、津波が通り過ぎたように見えるほど、幹線道路沿いでは自動車がひっくり返ったり流されたりしている光景が濁流の脅威を物語っていた。10月14日撮影。

 

_yyy1558sumiweb堤防決壊場所から遠くない津野地区は、被害の発生から一ヵ月が過ぎても凄惨な現場そのものだった。津波被災地と同レベルの被害だと痛感。豪雨による大河の堤防からの越水と決壊は、津波が被害を引き起こす仕組みと何ら変わらないという水害のとらえ方が欠かせないと思うようになった。11月17日撮影。

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同じく長野市の広範囲に水没した地域に軒を並べるリンゴ園は秋の収穫を目前にしながら深く水没していた。10月14日撮影

 

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長野県佐久市中込の千曲川の支流が本流と合流する直前で堤防が決壊し、水田40枚超が砂に埋まり、河原の砂利を敷き詰めたような状態だった。米は未収穫の水田ばかりだった。10月23日撮影。長野県佐久市中込、

 

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  福島県須賀川市前田川地区を流れる阿武隈川の越水氾濫により水没した果樹園地帯。写真は桃園。濁流により木は折れたり流されたりしている。11月3日撮影。

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「こんなひどい被害は88年生きてるきたが初めてだ」福島県須賀川市前田川で、梨やリンゴや柿などの果樹を幅広く栽培し、長男が跡を継いで専業農家として頑張ってきた鈴木昭一さんは言った。

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同須賀川市前田川地区の阿武隈川沿いに広がる果樹園地帯のリンゴ園。水没したリンゴや枝には上流域から流されてきた稲わらが厚くまとわりついていた。未収穫の稲穂も混在している。須賀川市も福島県内では果樹栽培が盛んな農村地帯だ。11月3日撮影」

 

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福島県本宮市の台風19号により被災した住民が廃棄した、通称「災害ゴミ」。昨日まで住民の生活の一部として愛用されてきた身の回りの品物を「災害ゴミ」と呼ぶには無理があるだろう。東日本大震災や熊本大震災の現場を思い出させる光景は悲しみと無念さが詰まっている。11月4日撮影。

 

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これから冬を迎えるのに、大量のストーブが廃棄処分となっていた。(同本宮市の集積所)11月4日撮影。

 

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福島県郡山市田村町徳定の床上浸水のため、ピアノを含めほとんどの家財道具を廃棄せざるをえなかった石塚さん(50代)。泥出しは16~17人のボランティアさんたちにより二日間でかきだしてもらったという。年老いた両親と、夫と長男の5人が暮らしていた二階建ての自宅の一階部分は空っぽとなり、日常生活を送る状態ではない。 11月4日撮影。

 

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日没後の石塚さんの家も周辺も住民の避難生活が続くために灯りはない。市が回収するという廃棄処分のピアノが家の前に出されている。11月4日撮影。

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台風19号による15都県の主な被害を示した信濃毎日新聞記事(11月10日)。被害が長野県だけ突出しているわけではないことがよくわかる。主な被害内容は、死者行方不明者は95人。住宅の全半壊が11685棟。住宅の床上床下浸水が64300棟。堤防の決壊が71河川140ヵ所に及ぶ。

11月12日のNHKニュースによると、台風19号とその後の大雨による農林水産関係の被害額は2500億円を超え、9月の台風15号による被害額と合わせると3000億円を上回って」いる。「コメやりんごなど農作物の被害は1万8900ヘクタールに及び、被害額は135億円」とのことだ。

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長野県の被害総額は2318億円(信濃毎日新聞11月12日)

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行方不明者の捜索活動が続けられていた。(長野市赤沼地区、10月14日)

 

こうした15都県に及ぶほどの激甚災害に対し、政府が10月16日に決定したのは、「今年度予算の予備費から7億694万円を支出する」だ。福島県郡山市の自宅浸水した被災者はこの金額にあきれはてていた。

 さらに時事通信によると、「政府は11月8日、台風15号と19号などによる被災地の再建支援として、2019年度予算で計上した予備費のうち1316億円の支出を閣議決定した」。被災者の生活と生業再建にむけた「対策パッケージ」に基づき、中小企業支援(501億円)、農業支援(151億円)などが柱だという。

 

Dsc_1099sumiweb深さ2m以上の浸水のため、リンゴは廃棄処分される。リンゴ農家が廃棄するために落としたリンゴは、被災したリンゴ農家のやるせない気持ちを代弁しているように感じるのは、私だけではないだろう。

 

1300億円程度で膨大な被災者の何を支援するつもりだろうか?自宅再建資金か?農地復活支援か?工場に欠かせない精密機械の購入か?農林水産業関係だけの被害だけでも3000億円を超し、長野県の被害総額にも満たない。被災者を愚弄する子ども騙しか?それもと、安倍晋三(首相)率いる自民公明(僧が学会)与党は、被害の深刻さをいまだに認識できないでいるということか?

 

安倍自民党公明党(創価学会)政権となってからは、防衛予算は急増する一方で2019年度は総額5兆2574億円となった。安倍・トランプ会談で安倍晋三(首相)はトランプから最新鋭戦闘機F35を105機、爆買いすることを約束したことはよく知られている。1機100億円以上。安くみても1兆2000億円だといわれる。

 

閣議決定した1300億円の台風や強風被害への政府支援額は、戦闘機13機分。50機分の購入を止めれば、6000億円ほどを被災者支援に割り当てることは簡単至極だ。戦闘機1機分のお金で90の認可型保育所を新設できるという試算もある。 要するに政府の意思の問題だ。国民生活の安定を優先する気持ちが少しでもあるならば、戦闘機の購入を止めて、被災者支援、減災のための防災用に貴重な税金を使います、という当たり前の配慮があれば、優先順位は判断できることだ。

 

郡山市の被災者、石塚さんはこうつぶやいた。「気候変動が起きていて、いままでは大丈夫だったけどもうダメですよね。踏みとどまって防衛費を減らして防災に優先して、自衛隊を編成しなおして、災害救助隊のように防災とかに特化してほしい。鉄砲なんか持たなくていいから。歓迎しますよ。(災害救助隊は)ありがたいと」

 

税金を国防費に浪費するよりも、気候変動により毎年必ず起きる自然災害(人災要素の高いものも含め)の減災のための防災と被災者支援こそが、政府=国が、県が、市町村が今こそ最優先すべき課題なのは明らかだ。 

 

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2019年9月22日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論2004年掲載)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論2004年掲載)

 

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。
 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。
 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

 

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。
 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。

 

 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。
 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重苦しい雰囲気はない。
 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。
「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。
 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。
 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。
 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。
 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。
 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。
 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。
 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。
 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

 

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。
 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。
 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。
 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている

 

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2019年9月15日 (日)

雲水牧師・釈弘元師と富士山弘願寺(白頭山聖霊教会)25周年(宗補雑記帳からの復活ブログ)

2004年9月23日(木) 雲水牧師・釈弘元師と富士山弘願寺(白頭山聖霊教会)25周年

 12日(日)に富士山の麓にある富士山弘願寺(富士宮市)に行って来た。最近は白頭山聖霊教会とも呼ばれる。昨年末に、住職管長牧師の釈弘元師と清僧さんたちの托鉢を撮影していらいだから9カ月ぶりになる。4ー5年前から取材をはじめ、6-7回は通ったことになるだろうか。

 この日は創立25周年記念行事と新著「我が魂を三八度線に埋めよ」(同時代社刊)の出版記念が行われたが、今回は管長の釈弘元師のインタビューをすることが主な目的だった。来年中には、朝鮮半島の38度線に弘願寺が移転され、今回が最期の創立記念行事になる可能性もあったからだ。

 弘願寺はいわゆる既成教団に属する仏教寺院ではなく、キリスト教会でもない。おそらく世界に一つしかないユニークなものだ。第一本尊はお釈迦さま、イエス・キリスト、老子の3人、第二本尊は清僧さんとなっている。清僧さんとは、心の清らかな僧侶の意味で、実際は知的障害者の人たちだ。祭壇には三体の仏像があり、十字架が柱の梁にかかり、老子も祀られている。本堂などの敷地を取り巻く垣根には、韓国の国花である真っ白なムクゲ(無窮花)が満開だ。
 
「お釈迦さまだけでも、イエスさまだけでもちょっと寂しい。老子も大好きである。こんな宗教のデパートみたいののは聞いたこともないと言われたが、私の直感できめた」

 著書「韓日求道放浪60年」--両眼具備・本当の牧師になります--(2000年、燦葉出版社刊)でこう言っているのが、富士山弘願寺を創立した釈弘元師。82歳だ。希有の放浪人生を歩んできた癖の強いキャラクターだ。仏教僧侶であり牧師でもある。日本人以上に日本語が巧みで、日本語文字はきれいで、文章表現も秀でている。

 釈師のインタビューやフォトストーリーはいづれ雑誌に掲載できると思うので、ここではごく簡単に釈師のプロフィールを紹介しておこう。師の人生が放浪に継ぐ放浪の人生だということがよくわかる。

 1922年に日本統治下の朝鮮半島の白頭山の麓、今の北朝鮮(本人は共和国と表現する)で生まれた。父親は漢方医だった。中学時代に満州に出てから単身日本に渡り都内の中学校を卒業、東京大空襲を体験する。その後、満州でいろんな仕事につくが、日本の敗戦で一時帰郷する。思想的な対立が深まり、南北分断前に南に渡る。戦後はソウルの大学を卒業し、台湾に留学。東京大学大学院時代には、日本国内の新興宗教を研究した。帰国後に釜山で出家してから再々来日し、駒沢大学仏教学博士コースで学ぶ。1979年に知的障害者のために「精薄寺院弘願寺」を富士山の麓に創立する。89年には渡米し、69歳で牧師の資格をとり帰国。2003年に富士山弘願寺に戻り、住職に還る。

 釈師は、「私は流れる水だ。この80年間荒波にたくさんぶつかった。大海がやっと見えてきた」と話した。来年は38度線に教会を建て、富士山弘願寺・白頭山聖霊教会を移転する計画に取りかかると抱負を語った。清僧さんたちも一緒に移り住むという。

 釈弘元師を知れば知るほど、インドで活躍している佐々井秀嶺師の生き様が重なってみえる。

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