広河隆一氏(現在75歳)と取材現場が一緒だったことが二度ある。
週刊文春で報道された広河氏の性暴力問題と広河氏のジャーナリストとしての実績についての個人的な見解を明らかにしておきたいので、長文になるが最後まで読んでいただきたい。
ようやく最初のテーマとなるフィリピンの継続取材をしている程度の実績のないカメラマンだった私にとり、雲の上の人のような報道写真家の広河隆一氏と初めて取材現場が一緒になったのは湾岸戦争直後のイラク取材だった。1991年のことだ。イラク取材ビザは出なかったため、イラク市民緊急支援を目的とする日本の市民グループのボランティアメンバーの一員として、1991年5月にイラク入国。ボランティアリストには私同様に取材目的で広河隆一氏やテレビ局の記者なども名前を連ねていた。
広河氏と同じ現場を取材しても、広河氏の知名度や力量には太刀打ちできるわけもないので、イラク戦争直前にパレスチナとパリで取材した国境なき医師団(MSF)のイラク国内で緊急医療活動の取材を試みることにし、ヨルダンとバグダッドのMSFと連絡を取り取材ができるかどうかを探っていた。
その甲斐あって、バグダッドからは広河氏たちが同行した支援グループと分かれ私は別行動をとり、医薬品や支援食糧物資を満載したMSFの大型トラックの助手席に乗りイラク北部のクルド人居住圏に入った。その結果、クルド人居住圏でのサダム・フセインの軍隊による徹底的な破壊と略奪行為と国連関係者の姿もない中で医療活動活動するMSFによるクルド人国内難民の孤立した状況の取材に成功した。週刊現代や朝日ジャーナル誌のグラビアで報道することができた。中東の取材に慣れない私にとってはできすぎた結果だったといえる。
この時の二度の中東取材で私は以下のように結論づけた。
『武力によって国際問題の解決を計ることが、「秩序」とは裏腹に新たな「混乱」をつくりだす事を改めて証明したのが1991年の「湾岸戦争」だった。戦争はパレスチナ問題には消極的な姿勢をとり続けてきた国連と、アメリカをはじめとする西側大国のダブルスタンダードを明らかにした。アメリカや日本も含めた西側大国の価値観に根ざした「国際秩序」や論理に翻弄されてきたアラブ人やイスラム教徒の心に、取り返しのつかない不信感や憎しみを植えつけてしまった。それが湾岸戦争の残したものだった』
ちなみに、私は広河氏の超広角レンズの付いたカメラとビデオカメラ一台と録音機を首から下げ、同時に取材をすすめる姿にうなった。動画の訴求力を広河氏はすでに多用していた。
二度目は20年後の福島原発事故直後の取材だった。
2002年、「9・11」同時多発テロと米国によるアフガニスタンとイラク攻撃という報復攻撃以降、ジャーナリズムの在り方が問われ、ジャーナリストの取材と報道の権利と義務を守ることが困難になってきたことなどの状勢に、広河隆一氏が中心的な発起人となってJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。フリーランスのフォト・ジャーナリストやビデオ・ジャーナリストで構成)が設立された。志を同じくする私もの会員の一人として活動を共にし、JVJA主催でイラク戦争写真展などテーマも異なる数多くの写真展や報告会を開催した。
2003年に岩波書店から「世界の戦場から」シリーズ全11冊プラス別冊が刊行されたが、広河氏の知名度と影響力抜きには出版されなかった大型企画だと思う。広河隆一氏が総編集となり、パレスチナ、チェチェン、イラク、ハイチ、核汚染、環境破壊など、JVJA各会員が長年取材してきたテーマがわかり易くまとめられた写真集シリーズとなった。「刊行の言葉」としていみじくも広河氏はこう記している。
『ジャーナリストは人間の何を守るための存在であるべきなのか』
私は長年の取材フィールドとしてきたフィリピンを、「フィリピン~最底辺を生きる」として出版できた。あとがきには、「長年の取材を生かす機会をこの写真集シリーズで与えてくれた広河隆一さんに感謝する」と私自身が記している。
実はJVJA会員として活動を共にする前には、広河氏の代表的な分厚いルポルタージュ「人間の戦場」(1998年)の書評を信濃毎日新聞に寄稿したこともある。広河氏の報道写真家としての凄さとパレスチナやチェルノブイリの子どもたちの支援活動を立ち上げ、息の長い支援を続ける姿勢に敬服していたからだ。
2003年に広河氏が責任編集で出版を開始したフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」の出版企画には積極的に賛同し、1986年から親交のあった報道写真家福島菊次郎氏に賛同人になってもらうことを広河氏に提案した。「DAYS JAPAN」出版の賛同人に名を連ねた伝説の報道写真家・福島菊次郎さんの生き様とそのドキュメンタリー写真の連載に読者が触れるきっかけを提供した。
広河氏のジャーナリストと支援活動の両輪の実績を尊敬していた私だが、広河氏のJVJA代表初期に転機が来た。DAYS JAPAN誌上で広河氏が多用する某著名写真家が、ビルマ(ミャンマー)軍事政権主催の写真展を新宿の著名なフォトギャラリーで開催した事実について私が問題視し、編集長としていかがなものかとJVJA全体会議で問い正したからだ。身の程知らずの若輩者がフォトジャーナリストの「大御所」であり業界の「権威」の広河氏に盾ついた格好になる。その写真展は少数民族と民主化を求める市民を弾圧、逮捕投獄し民主主義を否定する軍事政権による国外向け観光キャンペーンの一環のような内容だった。軍政下における社会問題を取り上げた内容は皆無。著名な写真家の世渡りのうまさと思想信条のかけらもないような姿勢に、長年ビルマ(ミャンマー)の民主化運動と少数民族の自決権問題を取材してきた者として黙ってはいられず、軍事政権に肩入れするような写真家をDAYS JAPAN誌上で多用することは間違っていると指摘した。JVJA会員を辞める覚悟での私の問題提起に対する反論はない曖昧なままでその場は終わった。広河氏と関係が疎遠となったのも自然の成り行きだ。
その後、広河氏はDAYS JAPAN編集長に専念することを主な理由にJVJA代表を退き、JVJAは共同代表制となった。広河氏がJVJAから正式に脱会したのは2008年。
広河氏とは顔を合わすこともほとんどなくなったが、少しでも原稿料を稼ぐためにDAYS JAPANにも写真を売り込み、「老い~生きる達人」(6ページ、2007年2月号)、「証言者たちの戦争」(8ページ、2007年10月号)、「産む歓び」(8ページ、2008年7月号)などの特集が掲載された。
そうした中で起きたのが東日本大震災と福島原発事故だ。発災日夜にJVJA仲間のメーリングリストに福島取材向かうことを提案。翌早朝、JVJAの野田雅也(以下敬称略)を新宿駅前で拾い、3月12日夜には福島県田村市の小学校に緊急避難したばかりの大熊町町民の取材を二人で開始。その晩には郡山市内のホテルに森住卓、豊田直己、綿井健陽、野田雅也と私をいれた5名のJVJA会員と広河DAYS JAPAN編集長が合流。
翌13日は車3台、6人の共同取材を開始。福島第一原発から3.5キロの双葉町役場、双葉厚生病院、常磐線双葉駅界隈などを取材。町から住民の姿は消え、双葉厚生病院前では広河氏、森住、豊田が持参した三台のガイガーカウンターで空間線量を測定し、1000マイクロシーベルト毎時(1ミリシーベルト)以上という異常に高い放射線量を測定した。その事実はテレビなどでは全く報道されていない原発事故の怖ろしい現実を伝える内容だった。その日の夕方までにはネットを通じて共同取材の結果を拡散した。6人の合同取材はイラク取材をまとめた映画製作で知られる綿井氏が撮影し、You-Tubeに公開され再生回数7万回を超えているので既知の人も多いだろう。三日間の共同取材を通じ、広河氏からは無視されていることを痛感したことを覚えている。
その後は広河氏と取材現場が一緒になることはなかった。そして今回の週刊文春報道で明らかにされた広河氏の著名度と「権威」を利用した、あまりにもひどい性暴力問題だ。「7人の女性が証言」と報道された。あってはならない女性の人権無視だ。JVJAは昨年12月31日に広河氏の性暴力問題についての緊急声明を出した。全文はJVJAのホームページで目を通していただきたいが、一部だけをここに抜粋しておきたい。
『私たち自身、これまでに写真展や報告会などを広河氏と一緒に開催しておきながら、重大な人権侵害に気づくことが出来なかったことは、深く反省しています。「彼がそんな行為をするはずはない」とする権威主義に陥り、加担していたと言わざるを得ません。
広河氏はまず、被害女性一人ひとりにきちんと謝罪し、その罪を償うべきです。さらに公の場で自らの言葉でもって、事実関係を説明し、その社会的な責任をとるべきです』
週刊文春の記事は、広河氏がジャーナリストとして長年積み上げてきた裾野の広い山を自らの行為でぶち壊してしまうほどの内容で、パレスチナ問題であれ原発事故であれ、弱者の側に立ち世間に訴えてきた姿勢とは真逆だ。活動を一時期共にした者としては俄かに信じがたいものだったが、広河氏とは疎遠のせいか記事内容に近い女性問題を私自身が耳にしたことも、JVJAの仲間から噂を聞くこともなかった。言い訳になるかもしれないが、福島菊次郎さんのような人間的魅力を広河氏に感じていなかったから、広河氏のプライバシーに関心がなかったからかもしれない。
今回の報道がなければ、いずれはその名を関した写真賞が創設されることは間違いないほどの実績と知名度と影響力を持つのが広河氏だ。40冊を下らない著書。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、土門拳賞、日本写真家協会賞年度賞などジャーナリズムと写真関係の賞を総なめにもしている。個人的には、「写真記録 チェルノブイリ消えた458の村」の、放射能汚染により住民が二度と住むことが不可能となり、土砂で埋められる村々のスティール写真は鳥肌が立つほどに凄まじかった
広河氏の権威と信頼の失墜、ジャーナリズム全体への信頼の失墜は測りしれないが、広河氏に触発されパレスチナ問題などをテーマにフォトジャーナリズムの世界に身を投じてきた同業者の失望感は尋常ではないだろう。私の失望感はそこまでではないかもしれないが、残念極まることには変わりない。
ただ、ここで何よりも重要なのは、広河氏がジャーナリズム界で果たしてきた大きな役割を知らない一般の人の視点だろう。一般的には広河氏の実績がどう扱われるのかよりも、広河氏が被害者に対しどう責任を取るのかということだけに関心が集まるのが自然だ。
今年は敗戦から74年。国策の侵略戦争中、軍部の予算を利用して対外宣伝雑誌を次々と創刊した写真家がいる。彼の名前を冠した写真賞まで創設された名取洋之助だ。名取はLIFE誌のように洗練された日本のフォトルポルタージュの草分け的写真雑誌「NIPPON」を1934年に創刊。当初は日本文化や産業を海外に紹介する内容を目指したようだが、侵略を正当化する内容に変わり、「NIPPON」は44年の36号まで刊行された。軍部との関係を強めた名取は、プロパガンダ目的の広報雑誌6誌を創刊。陸軍による謀略雑誌「SHANGHAI」(1938年)や関東軍報道部出資の「MANCHOUKUO」(1940年)などを刊行した。
戦後、名取が自らの戦争責任を総括した様子は残念ながらない。その点は、昭和天皇をはじめ、殺生を禁じる伝統仏教の各宗派や高名な僧侶も、侵略戦争を支持しながら戦後は贖罪の意識をあいまいにしたのが日本社会なので、名取だけを責めることもできない。
写真界での名取の戦後の功績は、1950年から刊行された岩波写真文庫全286作の編集責任者として能力を発揮したことだろう。名取は1962年に53歳で没したが、日本写真家協会により新進写真家の発掘と活動を奨励するため、2005年に名取洋之助賞が創設された。戦争への積極的な関わりなどとは無関係に、「名取洋之助」の名を冠した賞は高く評価されている。だからといって、名取の戦争への積極的な加担をあいまいにすることは、後に続く後輩たちが同じ過ちを繰り返す言い訳を残すようなものだ。
写真は一度発表されると、撮影者の意図とは裏腹に一人歩きする。すでに評価が定着した広河氏の作品、著作、映画などを全否定する動きが今後あるかもしれない。しかし、10年、20年の長いスパンで見れば、性暴力被害者の女性たちの心情とは切り離された形で、訴求力があり忘れがたい作品は残るのではないか。それは広河氏の潔い責任の取り方次第でもあるといえる。
自戒を込め、ジャーナリストに対する信頼の低下をどう回復するかは残された者が努力する他はないと覚悟している。