田舎(標高888mの畑)

2014年5月 4日 (日)

標高888mの高原。花と畑とゲルと。内田ボブ&長沢哲夫の「春風めぐる」歌と詩と。

(写真はクリックすると拡大します)

 長野県と群馬県にまたがる活火山浅間山。その南山麓の高原地帯がわが田舎。5月の今頃が山桜は満開で、近所のしだれ桜も満開。空気は澄み切り、緑はあふれ、一年中でもっともさわやかな季節だ。豊かな自然の恩恵で、人は身体も精神もいやされ、生きるエネルギーを頂戴する。暗室小屋の周りの畑で咲く花を紹介しよう。

 ちょうど5月3日(憲法記念日)には、小諸市のエコビレッジで内田ホブさんと詩人の長沢哲夫さんのジョイントコンサートが開かれたので、その模様も紹介したい。
・(トカラ列島の火山島、諏訪之瀬島に住む長沢哲夫詩集「足がある」から

「ぼくたちは地球を愛しているか 地球がぼくらを愛しているほどに」

この小さな土の上に
この小さな緑の中に
ぶらぶら行こう
思い おだやかに
わずかなものを手に
この
小さな土の上に
この小さな緑の中に
ぶらぶら行こう
心静かに
心軽やかに

(以下は小諸エコビレッジの写真に続きます) 

わが浅間山南麓の果樹の花たち
_aaa5238れんぎょう(4月撮影)

_aaa5241_2紅雪やなぎのつぼみ(4月撮影)

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満開の紅雪やなぎ(5月3日撮影)

_aaa5715_2紫モクレン

_aaa5228_2杏の花(4月撮影)

_aaa5734_2満開のアーモンドの花(5月3日撮影)

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毎年なぜか熟すことのないさくらんぼの花(5月3日撮影)

_aaa5691
ラフランスのつぼみ(5月3日撮影)

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シナノゴールドはまだつぼみ状態。

_aaa5689プルーンの花はりんごや梨よりも小ぶり。→→→

 写真はないが、二年目のキウイはメス木はぐんぐん伸びている一方で、オス木は一度枯らしてしまったので、苗木がまだ小さくて頼りない。

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↑↑↑名前は知らないが繊細な花

_aaa5767野原ではおなじみのつくしだが、畑には大敵。スギナ草といえば地下で繁茂し除草剤を使わないと退治できないほどしぶとい。

_aaa5749sumi_2連れ合いが育てる水仙。5月は満開の時期。


野菜畑
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 あわただしく準備して苗を植え種をまき終わった家庭用菜園。残雪はほとんどない浅間山が奥に見える。

_aaa5757標高は900mに近い高原のため、5月に入っても遅霜がある。スイカの畝は寒冷紗で覆った。手前はナスとピーマンの植えたばかりの苗。トマトときゅうりも植えた。

_aaa5678手前はジャガイモ用の畝。種イモを植える前の写真。

_8ds7228手前の細長い畝はとうもろこし用。この後、平らにならして、とうもろこしの種を植えた。早ければ8月のお盆までに収穫できるかもしれない。

_aaa5794ワラを敷いた畝がとうもろこしをまいた後。ペットボトル風車を10数本、畑のあちこちにモグラ対策用に立てた。風車が回ると振動が地中に伝わって、モグラが嫌がるらしい。

内田ボブと長沢哲夫の詩と歌の旅「春風めぐる」ツアー(小諸エコビレッジ)

_aaa5796会場の常設ゲルの概観と自家発電用のソラーパネル。

_8ds7125午後7時ごろのゲルと澄み切った高原の夜空

_8ds7142内田ボブさんの弾き語り
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_8ds7233ナーガこと長沢哲夫さんの詩の朗読。飾りのない、「ぼくとつ」そのもの。
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・(冒頭で一部を紹介した長沢さんの詩「ぼくらは地球を愛しているか 地球がぼくらを愛しているほどに」つづき)

水も空気も地球のもの
この血も肉も地球のもの
この息 この心も地球のもの
気をつけろ
原発でさえ地球のもの
殺しまくるミサイルも
そっと息を引き取る鳥たちも
砂漠をわたるコガネ虫たちも
どかどかと走りすぎてゆく車たちも
ほえまくる電車たちの黄色い眼も
高層ビルを埋めつくすコンピュータたちも
銀河系の渚をころがる
青い火のかたまりの
地球のもの
ぼくらは地球を愛しているか?
地球がぼくらを愛しているほどに

(つづく)

_8ds7236内田さん(右)と長沢さんが、「春風めぐる」ツアーを開始して17人になるという。

 長沢さんは1942年生まれ。1972年に諏訪之瀬島で移住内田さんは1952年生まれ。長野県大鹿村在住のシンガーソングライター。15歳から旅を始め、世界を回り歌う。旅を続行中。

_8ds7201

 お二人の「春風めぐる」詩と歌の旅は4月12日に都内東村山でスタートした。残すところは、5日が長野県戸隠、10日は群馬県高崎市、11日は埼玉県秩父市、そして5月13日の三軒茶屋「カフェ・オハナ」が一月のツアーの締めくくりとなったいる。

・内田さんの最新CD「いのちの道の上 NO NUKES ONE LOVE」に掲載されている内田さん紹介文は鎌中ひとみ監督によるものだ。収録されている代表曲は「おおチェルノブイリ」。「原発葬送歌」という曲も収録されている。CDジャケットには、内田さんの詩のようなエッセイが載っている。以下、冒頭だけを紹介しよう。内田さんの生きる哲学が伺える。
                    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしは小さな島である
野山にさえずる、小さな島である
核被爆者の長い列は、焼けただれ、踏みにじられ、
なぎ倒された、生きとし生けるものの長い列へと連なっている

   非戦を生きる。
   非核を生きる。
   平和を生きる。

恐れるな!そのことによって、
私たちにもたらされるリスクは、
私たちを生かすためのリスクだ。

(つづく)

◯まとめの代わりに
 久しぶりの田舎でのあわただしい二日間。半分は久しぶりの農作業。内田さんと長沢さんの「春風めぐる」は、高原の広い大地に建てられたゲルという最高の空間での、ぴったりのすばらしいものだった。闘いつづける活力を頂戴した。5日、6日と福島県の取材に出かけてくる。

追記(5月7日)
 5日、6日と足早に福島県の取材をしてきた。中通りの郡山市郊外、浜通りの南相馬市、浪江町、富岡町で取材してきた。福島県も多様な新緑が美しく、水田地帯は田植えの準備に余念のない季節を迎えているが、浅間山山ろくの我が田舎の愛すべき里山風景を見るにつけ、原発事故の罪深さをひときわ実感せざるを得ない。

 原発事故から3年以上の歳月が経っても、福島第一原発周辺自治体の住民の避難生活は続いている。帰還の目処は立っていない。廃炉できるのかさえも定かではない。夜景にボオッと浮かぶ東電福島第一原発と、ゴーストタウンと化し、信号機の明かりのみが点滅する周辺の光景は、何が原発事故によって奪われたのかを静かに物語っている。
_8ds8202web原発から10数キロ離れた川内村の高台から見る福島第一原発と周辺の夜景。5月6日撮影

   「ぼくたちは地球を愛しているか 地球がぼくらを愛しているほどに」(長沢哲夫)


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2013年8月22日 (木)

小諸エコビレッジ祭:「生涯つきあえる ひととの出合い ものとの出合い」

(写真はクリックすると拡大します)

_8ds8339御代田町と小諸市の境に近い標高900mくらいからの浅間山の眺め。西に位置する小諸市に向かうに連れ、浅間山は真ん中の剣ヶ峰の影に隠れて見えにくくなる。エコビレッジ祭の会場は森の中なので浅間山の眺望はない。ということで、この写真でガマンしてもらいたい。

 「生涯つきあえる ひととの出合い ものとの出合い」とのメインタイトルで、小諸エコビレッジ祭が8月17日(土)18日(日)の二日間開催された。会場は標高1000m前後を走る長野県の浅間サンラインを少し上がった森の中。主催は社団法人・小諸エコビレッジ。小学校のグランドくらいの広い平地に大きな常設ゲル(直径は8m)を建て、持続可能な社会のモデルを提示するための拠点として活動する「こもろはす倶楽部」が主催したグランドでのイベントと、50mほど登った会場を使ったオーガニックコットンのアバンティ小諸が主催する「Bio マルシェ」がそれぞれの趣向で開いた祭だ。祭のPDFのチラシ

_8ds8341浅間サンラインからの入り口に立つ看板。

 こもろはす倶楽部のメンバーで、小諸に住み着いて35年になる陶芸家・岡本一道さんに誘われイベントに参加した。というよりも、連れ合いがトンボ玉のブースを出店するので、新刊写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(彩流社)のPRのため、連れ合いの隣で、テーブルに写真集の見本を置いてPRした。実は昨年のエコビレッジ祭では、大震災と原発事故関連の写真展を常設ゲル内で展示していただいたこともあり、岡本さんとは10数年来の友人でもある。
_8ds8553小諸・天池窯」の岡本一道さん(60代なかば)。信州発の産直泥つきマガジン「たぁくらたぁ」の編集執筆も担当している。得意技は「右肩下がりの経済学」。ブースでは大小様々な陶器を展示販売。

 「グランドは100%自然エネルギー。やがてゴミとなる使い捨ての消費文明に代わるこれからの暮らしを提案します」とのモットーにあるように、農村と都会の人が交流する中で、使い捨ての豊かさに代わる、本当に環境にやさしい生き方や自然エネルギーを模索し、特技を持つ人と人とが横につながり、一つの拠点となることをゆるやかに狙ったイベントだったと感じた。電気は太陽光発電でまかなわれ、陶芸、木工、織物などの工芸品が多く、食べ物屋さんもちらほらあり、いつもライブ演奏がある空間だった。
_aaa5222ちなみに、太陽光発電の分野はNPO法人太陽光発電所ネットワーク」が運営していて、「第3回自然エネルギー学校 in エコビレッジ祭」が会期中に予定されていたのだが、日程の都合がつかないということで、8月24日と25日に開催が延期された。祭の会場で予定されていた一つが、「独立系太陽光発電キットの自作」だ。参加者を募集しているので、関心ある人は以下のWebで詳細をごらんください。駐車場に設置されたソーラーパネルでの発電量は13KWで、一般家庭の3件分に相当。自立運転方式で、今はまだ蓄電する形を取っていないとのこと。

_8ds8362モンゴルの家、ゲルは諏訪公司さんが制作。解体すると小型トラックの荷台にきれに収まる。諏訪さんは長野市の北の飯綱町に住む。

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_8ds8420アイリッシュ伝統音楽の屋外演奏。

_aaa5264上田市に工房がある、たけうちふみこさんの羊毛織物。


_aaa5249家具職人の半田光男さんは木工品を展示販売。

_8ds8527木工家具職人の高橋敦さんは割り箸の手作り教室を開催。


_aaa5283「こもろはす食堂」のメニューは800円のカレーセット。

_aaa5303食の地産地消に力を入れる中村正明さん。いづれは道の駅ではない、地元の野菜や果物を大規模に直売する拠点を建てたいと話していた。食の基本は地産地消でなければならないはずだ、というのが中村さんのモットー。また、中村さんは出店用の大小のテントも無償で提供していた。

_8ds8480浅間ケルト楽団によるアイリッシュ伝統音楽の演奏。

_8ds8503福島県郡山市出身で、東京では消防士として働いていたが、大震災直前に小諸市に移住した小宅春樹さん(31歳)。高校では吹奏楽をやっていたという。小諸市内の借家を「招福亭」と命名し、原発事故被災者を受け入れる場としても活用している。

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_8ds8499フィドルを弾く岡本一道さん。

_8ds8591祭のフィナーレに近くなると、参加者の踊りの輪が一気に広がった。

_8ds8541飛び入り参加した女性はクリスタルボールを演奏。

_8ds8398千葉県から来た小谷中清さんの、叩いて延ばした鉄作品。

_8ds8465千葉県我孫子市から参加した書家の河村詩夕(しせき)さん。
_8ds8460参加費一回500円。巨大筆で書く参加者。

_8ds8530漆塗りの作品を出す御代田町の沢田勝彦さん。

_aaa5275太陽光を集光してお湯をわかす器具で鉄瓶のお湯の野立に使う花岡隆さん。夏の太陽光で鉄瓶のお湯は30分で沸くという。花岡さんは「ころもはす倶楽部代表」を務める。本職は小諸市内、菱野温泉の旅館の社長さんであり、茶人でもある。

_8ds8379「こもろはす食堂」の脇では、小諸に移住した人を対象にしたアンケートをとっていた。黄色いTシャツの青年が小宅さん。小宅さんによると、二日間で、都会から4組の移住希望者が見学に来たという。

_8ds8367連れ合いが出店したトンボ玉アクセサリーのテント。

_8ds8357和製インディアンのティピ。製作者は日橋深雪さん。

_aaa5285アイヌのイナウを立てて踊る若者たち。
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小貫雅男先生の講演会(常設ゲル内部で) 仮題は「田舎への移住について、農的暮らしを学ぼう!」

 17日の夜、常設ゲルで小貫雅男先生の講演かあった。小貫先生は1935年、中国東北(旧満州)、内モンゴル・鄭家屯生まれ。滋賀県立大学名誉教授で里山研究庵Nomad主宰する。専門はモンゴル近現代史、遊牧地域論、地域未来学。映像作品に、モンゴルの村に一年間住んで記録撮影したドキュメンタリー映画、 『四季・遊牧 ―ツェルゲルの人々―』三部作・全6巻(共同制作、大日、1998年)がある。最新刊に「グローバル市場原理に抗する 静かなるレボリューション  ―自然循環型共生社会への道―」(御茶の水書房がある。

_aaa5234直径8mの広々としたゲルを会場に開かれた小貫雅男先生の講演会。ちなみに、ゲルは約17坪の広さがあり、50人弱が入ることができる。モンゴルのゲルにはない窓がつけられていて換気もいい。夜の照明はゲル専用のソーラーパネルで蓄電された電力を使い、消費電力4WのLEDが最大8灯で十二分に明るい。

_8ds8448小貫先生は78歳。

 小貫先生の講演内容をかいつまんで報告することは、正直いって今の私には難しいので、最新刊の「静かなるレボルーション」の宣伝コピーを以下に引用したい。小貫メッセージのキーワードのようなものだ:

 「21世紀 人々は、大地への回帰と人間復活の 
 高度自然社会への壮大な道を歩み始める。
 週休五日制の「菜園家族」型ワークシェアリングのもと
 家族を、そして地域を基盤に築く
 市場原理に抗する免疫的自律世界
 大地に根ざした精神性豊かな生活世界の創造」

 以下は「暮らしの足もとから未来への芽を育む」と見出しされた本の要旨:
「かつて人々は、現実社会の自らの生産と生活の足もとから未来へつながる小さな芽を慈しみ、一つ一つ育み、しかも自らのためには多くを望まず、ただひたすらその小さな可能性を社会の底から忍耐強く静かに積み上げてきた。人間は、このこと自体に生きがいと喜びを感じてきたのである。本来これこそが、生きるということではなかったのか。
 大地に生きる人間のこの素朴で楽天主義とも思える明るさの中に、明日への希望が見えてくる。これはまさに「静かなるレボリューション」の真髄にほかならない」

_8ds8437

 以下は、講演の聞き取り。
「静かなレボルーションとは何かというと、コツコツとできるところからゆっくりと積み上げるという長い道のりが必要」。「菜園家族とは、自分の足元に職場を作ることと同じ」。

「お金がなかったら生きてゆけない時代になっている。家族の中で間に合っていた育児、教育、大工仕事、介護もすべて放棄してお金で全部買うことになってしまった。市場はお金で買う場。自分自身が本来持っていた機能を失ったために回復するには週5日働いていたら機能回復しないから、週に三日、四日と家にいる時間を多くして菜園をやる。要するに自給する能力を増やしてゆく。自己の免疫力を高めるとは、自分の自給自足度を高めることを意味する。市場という病気が邪魔しようとしても平気になる」

「人間には自然治癒力が備わっている。自然治癒力を整えてゆくことが、社会においても家族が自給自足度を高めてゆくことにつながる。自己の免疫力を高めた家族の集まる地域社会を形成してゆくことになる。一人一人の努力で免疫力を高めてゆくと、知らないうちに市場に対する抵抗力を高めることになる。免疫力をつけないと、自己の尊厳を守ることはできない時代だ」

「せめて孫の時代に苦労をかけないような状況を少しでも作ってゆくことが、我々に残された仕事かと思う」。

◯まとめにならないまとめ
 陶芸家の岡本さんたちが本業の腕を磨き、「ころもはす倶楽部」や「小諸エコビレッジ」を通じて実践している生き方は、小貫先生が講演で話す「菜園家族」的な地域社会の理想像を先取りしているということだ、と思った。原発に依存しない、TPPにあたふたしない生き方を見せてくれている。


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2013年8月20日 (火)

母の新盆と農的生活

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92歳で亡くなった母親の新盆
 昨年以来、久しぶりに我が田舎に1週間滞在した。12年11月末に母が92歳で永眠して以来だ。
ちょうど、昨年のお盆に病院での治療をあきらめ、最期の日々を自宅で送ってもらうために母を病院から引き取ったことを思い出す。母は8月15日に退院し、1週間もつかどうかのギリギリの状況だったことも。昨年9月に出版できた「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」(彩流社)のあとがきは8月15日に書いたものだった。早いもので、あれから1年が過ぎた。田舎も日中は暑かったが、滞在の前半は母の新盆、後半は田舎の農的生活と小諸エコビレッジ祭で、毎日が忙しかった。

 新刊写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(彩流社)の出版のために、今年の2月からはずっと突っ走ってきたので、久しぶりにのんびりした気分を味わった。というわけで、新盆と暗室小屋の回りの畑の写真を紹介したい。

_8ds8004しなの鉄道の線路脇で刈った葦でお盆のお供え用に、ゴザを編んだ。太い葦だったので、例年よりも大きなゴザができた。8月12日。

_8ds8075母とご先祖様の位牌をまつったお盆用の祭壇。母の写真は昨年の最期の日々に飾った一部を、妹が残したままつかった。写真を見ると母がまだ健在のような錯覚もする。

_8ds80468月13日の新盆の初日。不思議な偶然だが、この日の信濃毎日新聞朝刊に、新刊写真集「戦後はまだ・・・」(彩流社)のインタビュー記事が大きく掲載された。写真集のあとがきには、「昨年末に92歳で旅だった母親にこの本を献上したい」と私は書いていた。

_8ds8067新盆は近所の人、親戚や同級生がお焼香に来てくれるので、縁側に焼香用のテーブルをセットし、待機する。葬儀で使った母の遺影をそのまま飾った。手ぬぐいを頭にまき、サツマイモの収穫をしている時の一枚だ。毎日のように畑に通った母をよく知る近所の人は、「あたさんがいる」と嬉しそうに思い出してくれた。母の名前が「山本あた」。13日と14日で50人をこえるお焼香があった。

_8ds80778月14日の朝、真楽寺の副住職が新盆の回向のためのお経を上げた。若いが読経の声はいい。短い法話もわかり易い。家は御代田町塩野にある真楽寺(真言宗智山派)の檀家。この日、副住職は10数件の檀家を回るという。

_8ds8319送り火、8月16日

_8ds8328近くの山にお供えを置き、線香を焚き、お供えを自然に返す。田舎ならではの風習。

我が暗室小屋の回りの畑
 _8ds8285妹が取り残したジャガイモを掘った。写真はアンデス系の皮が赤ピンクのイモ。収穫時期は一月以上も遅れたが腐りもなかった。8月15日。
_8ds8291

_8ds8087暑さのせいか、実になる途中で落ちたザクロの花や実
_8ds8618順調に大きくなるザクロの実

_8ds5307ちなみに、ザクロのつぼみはこんな形。7月12日撮影。花はたくさん咲いたが、実になるのは数少ない。

_8ds8631毎年びっしりと成るナツメの実。晩秋には焦げ茶色になり、収穫はそれから。

_8ds8610養分も日光も不足しているせいか、が小ぶりのまま色づき始めた。8月19日。
_8ds8609

_8ds53577月12日に撮影した桃。

_8ds5301道路端のアンズの枝に作られていた鳥の巣と卵。7月12日撮影。残念ながら、卵は孵化しなかったようで、そのまま残っていた。ネットで検索しても鳥の種類は特定できない。

_8ds5340畑の中を流れる用水路の脇にある房スグリの葉に見つけたオニヤンマのヤゴ。7月12日撮影。これも不思議なことだが、8月14日の朝、祭壇を置いた部屋で待機していると、外から一匹のオニヤンマが室内に入ってきた。ぐるりと一回りしてすぐに庭に出ていった。母が熱心に畑仕事をした脇の用水路は、オニヤンマのヤゴの抜け殻を毎年必ず見つけることができた。畑に母の姿がないので、オニヤンマが探してきたのかもしれないと、勝手に思いこんだ。

_8ds8634順調に伸びるキウイのメスの木に、小さなカエルを見つけた。ただそれだけなのだが。

 浅間山の南麓にある私の田舎の自然は、福島第一原発から250㌔は離れていて、原発事故による放射性物質が確実に降り注いだが、おそらくその分量は通常の生活を脅かすほどではないために、幸運にも、原発事故以前の自然環境や景色を満喫することができる。福島県の自然も里山も美しいことを私は取材で体感してきた。しかし、福島県は広範囲にわたって汚染され、除染しても事故の前の自然を取り戻すことはできないことが明らかとなっている。放射性物質の脅威は目に見えない。そのため、人は汚染を忘れようと無意識の努力をしてしまう。
原発事故はほんとうに残酷だ。

PS:母の旅立ちについてのブログはこちらをどうぞ→→「我が母の旅立ちと母の回想」

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2013年5月 8日 (水)

我が田舎の畑は花盛り(浅間山南麓標高888m)

(写真はクリックすると拡大します)

 連休中に日帰りで帰省し、畑仕事を少しやった。というか、スイカ3本とメロン1本を植え、乾燥がひどかったので用水路の水を汲んで、花盛りの果樹やバラなどにまいただけで終わった。残念ながら写真を撮り忘れた。

 というわけなので、久しぶりに我が田舎の畑の現状を写真で紹介したい。

_8ds0009雪の少ない浅間山(5月4日)

◯果樹
_8ds0018桃の花

Photoサクランボの花

Photo_2アーモンドの花

Photo_3ブルーベリー

Photo_4ラフランス

Photo_5プルーン

Photo_6リンゴ(フジ)

Photo_7カリン

 昨年植えた雌雄のキウイは、かろうじて生きている段階で葉もまだ伸びてこない状態だった。

◯野菜や小花類

_8ds0053成育快調なタマネギたち

_8ds0066畑のまん中を流れる、浅間山の伏流水を源流とする用水路。

_8ds0072ツクシ

_8ds0028花名不詳?

_8ds0084ムスカリ

_8ds0091水仙

_8ds0087チューリップ

_8ds0094雪柳

◯アースデイin佐久の新聞記事(4月21日)
 畑仕事よりも重要だったのが、4月20日に佐久市駒場公園で開催された「第11回アースデイin佐久」でお世話になった主催者スタッフのみなさんとの歓談。私の福島取材の写真展を開催してくれ、拙著「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」(彩流社)の販売をやってくれたみなさんだ。写真パネルを送ってお任せしたのだが、地元紙に写真付き記事になってイベントが紹介され、若干お役に立てたのだった。
 主に原発周辺と警戒区域の写真展を会場内に設営されたゲル(モンゴルハウス)で開催していただいた。
Photo_8

◯蛇足
 我が長野県の田舎町・御代田町の自然環境を全体的に知っていただくには、「標高1000㍍にある苗畑跡地」にゴミ焼却場計画が持ち上がり、その反対運動を後押しするため、私がホームページに書いた写真記事を見ていただくと、浅間山の恩恵で成り立つ自然と観光名物と農業用水などがわかると思います。ゴミ焼却場問題は、もっとも身近な環境問題です。良かったらクリックしてご覧ください。(なお、2007年にゴミ焼却場建設反対派の町長誕生と共に、建設計画は白紙となりました)。以下をクリックしてください。

 写真で見る、「なぜ苗畑跡地にゴミ焼却場を建設してはいけないのか」(2005年10月4日掲載)

 原発事故により福島第一原発周辺の自然、大地、里山の風景が、住民の手から奪われた悲しみや憤りを、都会育ちの人よりも身近に感じることができるのは、ひとえに私自身が浅間山山麓の自然の恵み豊かな田舎で生まれ育ったことが大きいからだ。

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2012年12月 6日 (木)

我が母の旅立ちと母の回想

(写真はクリックすると拡大します)

_aaa2338_292歳と10ヶ月で旅だった母の遺影写真。晩年は畑仕事を生きがいにする母だった。

◯退院と旅立ち
 さる11月28日午前9時50分、「お母さん、息が止まっているみたい」の妹の一言で、母の隣でうつらうつらしていた私は、起きあがって母の口元を見た。つい先ほどまでかろうじて動いていた上唇の動きが止まっていた。92年と10ヶ月動きっぱなしの母の心臓の動きが止まったようだった。

 今度はいよいよかもしれないと覚悟し、東京から田舎の母の元に着いて9時間後のことだった。心拍数がだんだんと減り、酸素マスクしていても酸素の吸入量が確実に減っていたので、その時は近いのかもしれないとは思っていたが。

 それにしても8月15日に退院後の母はほんとうによく辛抱した。誤えん性肺炎により食べることも薬の服用も困難になり、点滴に頼る二週間の入院を切り上げ、管につながれたままよりも自宅の方がと退院を選んだ。あと1週間持つか持たないかとさえ思えたほど切羽詰まっていた。9月後半に出版することになっていた新刊「鎮魂と抗い」(彩流社)のあとがきは、たまたま退院した日に書くことになり、結びを「終末期を迎えた母親のいる田舎にて」と締めくくったほどだった。

 母が自宅で3ヶ月半を過ごし、自宅で理想的な逝き方ができたのは、何より妹のつきっきりの介護の賜だった。弁膜症を抱えていた心臓そのものが頑丈にできていたこともあるだろう。退院後に一月半続いた点滴の交換やもれなどのトラブルは病院の訪問看護師さんチームが心強い対応をしてくれ、危機を何度か脱し、介護ヘルパーさんたちの手も借り、自宅での穏やかな日々が過ぎていった。一月くらいは酸素吸入なしで大丈夫だったほど回復する傾向にあった。私もできる限り帰郷して妹の介護を交代した。
 8月末には、「死ぬってことは楽じゃない」とはっきりと話したかと思えば、「今、死ぬ真っ最中なんです」と、笑顔でヘルパーさんに話したりした。
 11月始めには、玉子プリンを一口食べて、「うまいなあ」という代わりに、「当分死なないな」と笑ったほどだった。その後は口からの水分や栄養補給が序序に困難となり、点滴の入る血管はなくなり、最後は衰弱するばかりとなった。
 
  私の兄の長男が早死しているため、私は喪主として12月1日に葬祭センターでお通夜、2日に葬儀・告別式を終え、3日に納骨を済ませた。いつかこの時が巡ってくることを覚悟してはいたものの、いざとなると、親類縁者と葬祭場の担当者にいろいろと伺わないと何も片付かないものだ。慌ただしい一週間がすぎた。
 
◯母の青春時代
_aaa1520母22歳のころ。

 母は大正9年(1920年)1月、佐久市岩村田で生まれた。妹が出してきた母のアルバムに若い頃の写真があった。母の世代の青春時代は戦争中だった。22歳の頃に家族で撮った写真は、兄が出征するために記念で撮影したものだ。
_aaa1555右から3人目が母。長寿の家系か。左の二人は妹で、二人ともに上田市で健在。

 母も家族も戦争に翻弄された時代を生き抜いてきた。兄の一人は復員したが、戦後まもなく結核で病死した。もう一人の兄(家族写真の右端。今年5月に98歳を前に自宅で逝く)はベトナムのカムラン湾で米軍の魚雷で船が沈められたが泳ぎが達者だったために生き延びることができた。戦争中に結婚した相手は上田市の男性だが、敗戦の年にフィリピン戦線に送られ、コレヒドール島の米軍との戦闘で戦死した。戦争未亡人となった母が戦後に結婚したのが私の御代田町の父親だった。泳ぎの得意な母の兄と中学の同級生だった縁だという。我が両親は二男一女をもうけた。農家として米を作り、ブドウを栽培し、野菜を少しやっていた。二人の息子は農家を継ぐ意思はなかった。

 私が中学に通うころから料理の得意な母が調理師として、国道18号線沿いでドライブインを始めた。焼肉、そば、うなぎ、カツ丼などが人気メニューだった。努力家の母のおかげでドライブインの経営は採算が取れたようだが、働き過ぎで手首の腱鞘炎となり、閉店することになった。

◯母の晩年
_aaa153660歳代の母。料理の腕を生かして、軽井沢の別荘のまかないに通った頃。

_aaa1544若い頃習ったという大正琴の師範免状を取ってから大正琴を教えた70代の母。

 途中は割愛するが、夫は23年前に肺のガンで先だった。76歳だった。その頃、母は大正琴を町内各集落のグループに教えていた。両足の股関節の手術をしたのもその頃だった。11年前には私の兄の長男が49歳で闘病の末、ガンで早死にした。当時81歳の母は落胆して弱気になったが、畑仕事に生きがいを見つけ毎日のように野菜作りに励んだ。苦労のせいか、早くから腰が曲がってしまったが、自宅から畑まで押し車を頼りに往復する姿が母のトレードマークとなった。長男の死から立ち直った母は、「88歳までは生きるかな」と言い始めた。
 夏は巨人時代から好きだった松井秀樹選手の背番号55のTシャツを着込んで畑に出た。暑い日はガリガリ君を食べるのが母の楽しみだった。

_dsc53642008年

_aaa46772010年。ピーナッツの収穫。

_aaa94902010年。長ネギに土をかぶせる。

_aaa30842010年。松井の55番を着て、アンデス系じゃがいもの収穫。

_aaa23002011年。サツマイモの収穫。

015dsc_075222008年。

Photo2008年。仲の良い兄妹。隣の佐久市に住む伯父は毎月、車を運転して妹である母に会いに来る。

_aaa05452010年。仲の良い兄と妹。

_aaa23902010年。病院の理学療法室でリハビリの練習。

_aaa06342010年

_aaa47292011年。介護ヘルパーの仕事を長年積んだ妹(右)が、母の生活支援のために都会から田舎に引っ越してまもなく。

_aaa2609_22011年12月。被災地での取材でご縁のできた被災者家族に送るための豆餅を伸ばす。

_aaa02472012年5月。家の前の駐車場で花見をする。

_aaa30452012年7月。家の縁の下で見つかった子猫との写真。

◯旅立ち
 _aaa81028月。付きっきりで介護する妹。母の部屋の襖を50点ほどの写真で飾った。

_aaa78718月。娘がドライシャンプーしてくれて気持ちよさそうな母。

_aaa1577_211月30日。母が3ヶ月過ごした部屋を写真で飾った。

_aaa151111月30日。生前、母が最も世話になった隣近所のおばさんたちがお焼香に来てくれた。古いアルバムで思い思いの母の思い出を語るおばさんたち。

_aaa1657葬儀場のロビーにパネルを置き、母のミニ写真展。
Img_0540母が大正琴を教えた「生徒」さんたちが写真に見入る。重田学氏撮影。

_aaa1726_212月2日。葬儀の祭壇。

◯結び 
 毎年、私が臼で餅をつくのが年末恒例の家族行事となっている。東日本大震災と原発事故が起きた昨年の末は、母に10数軒の被災者の家族に豆餅や野菜を送ろうと思うがと話すと、母はそれじゃあ頑張るかといって、一生懸命に餅を伸ばしてくれた。母の自慢の豆餅はとくに喜んでもらった。私は本当に自慢できる母を持ったものだ。今年は餅をつく楽しみがなくなったのが何とも寂しい。こんな母の子どもに生まれた私は幸せものである。

 ちなみに母の戒名は「快阿栄澄大姉」(かいあえいちょうだいし)です。

 合掌  山本宗補


 

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2011年10月30日 (日)

収穫の秋 クルミと里芋は豊作で、茗荷には真っ赤な花が?

(写真はクリックすると拡大します)
_aaa2241秋にも甘い実をつけるラズベリー

_aaa2253前回収穫し、窓側に干してあったクルミ。乾燥はバッチリ。

 収穫の秋だが、長野県でもとうとう放射性セシウムが野生のきのこから検出されてしまった。
県のwebサイトにも掲載されている。「野生きのこから暫定規制値を超える放射性物質が検出されました」
しかも軽井沢町では雨樋の下や側溝などの放射線量が高かったために、大賀ホール、幼稚園、軽井沢高校などで除染されたというニュースも重なり驚きというか、いよいよ出てきたかという気持ちにさせられた。(早速現場に測定に行ったので、写真は次回のブログで紹介する予定)

「念のため、当分の間、佐久市及び群馬県に接する市町村においても、野生きのこの採取、出荷及び摂取を控えるようお願いします」とあるので、佐久市の北側に位置する我が御代田町も「摂取自粛」に含まれることになる。
地図を見ると、きのこが採取されたのは、群馬県との県境といってもいいくくらいの山中のようだ。

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「佐久市の野生きのこが・・・」と報道されたのは10月26日で、一時帰郷で御代田に帰った私が久しぶりに育ったシイタケを収穫したのは24日のこと。シイタケを食品検査に出して測定してもらおうと思って東京に持って帰ったのは25日。帰京してから佐久市のきのこの報道となった。ますます検査に出したいと思ったのは良いのだが、JVJA仲間の森住卓さんに聞いてみると、最低でも1㌔の検体がないと正確な測定ができないことがわかった。残念なことに、シイタケが採れたといってもたったの4個で100gにも満たない。そこでシイタケの測定はあきらめ、例年になく生育の良かった里芋を測定に出そうと思っている。

 今年もオフクロさんが91歳になりながら、サツマイモと里芋を頑張って収穫してくれたので写真で紹介しよう。
_aaa2300サツマイモの出来は芳しくなかった。種類は金時系とイモ干し用の太白の二種類。
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_aaa2437例年にないほど背丈が伸びた里芋の畝で収穫を始めたオフクロさん。

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Photoオフクロさんがいままで見たこともないくらいに里芋が沢山の子イモをつけた。天候がとりわけ良かったとも思えない。

 これは時期はずれの茗荷。採ってみたら、中はスカスカ。1つだけ真っ赤なものを発見した。
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_aaa2651真っ赤な茗荷を接写してみたら、白い粒がついていた。朱色がどぎつい。突然変異かと思い、twitterに写真を掲載して誰か知っている人がいないか聞いてみた。まもなく正答がいくつか届いた。結局、とても珍しい「茗荷の実」だということが判明した。そこで検索してみると、ここ数年では本州各地でかなりの頻度で見つかっていることがわかった。残念ながら、50年ぶりとか60年ぶりとかの珍事ではないことのようです。地震や放射能と関係することでもなさそう。
 そこで1つリンクを張って紹介しよう。越後丘陵公園の「里山フィールドミュージアム」がプレスリリースまで出して広報している。赤い茗荷の実のことはいろんな人がブログに載せているが、中には天変地異の兆候として捉えている人もいるので読んでみるのもいいだろう。今年は例年の数倍も茗荷が豊作だった。家の畑でも食べきれないほど茗荷が育ったので、一二度キムチにして食べてみたこともある。

 オフクロさんが沢山作って被災地に送りたいと取り組んだ落花生のことだが、帰郷した前日に妹とオフクロが収穫し、畑の真ん中を流れる用水路脇に洗って置いていたところ、なんと3時間ほどの昼休みをはさんで、きれいになくなっていたとのことだ。空っぽのビニールの袋だけが残っていたと妹がいっていた。集落で時折姿が目撃されているタヌキやキツネの仕業ではないようだ。彼らが袋を詰め替えて持ち去るとは考えられないからだ。

 というわけで、落花生は採れたものの送るほどの分量がなくなってしまった。そこで、クルミ、落花生、サツマイモ、里芋などを少しづつまとめて段ボールに入れて、取材でお世話になった被災者の方々へ送ってみようかと思っている。11月中に発送したいものだ。


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2011年10月 5日 (水)

我が田舎・信州御代田町の秋本番

(写真はクリックすると拡大します)

 写真展の展示替えを控えていたので、3週間ぶりに帰郷した。朝方は12月を思わせるひんやり感だったが、快晴の秋空。実り多き収穫の秋を迎えていた。放射能汚染を心配せずに、事故前と変わらぬ秋の当たり前の風景が、今年は心に沁み入り感慨深い。原発事故で人間の想像をはるかに超える放射性物質で汚染されてしまった福島県各地の取材をしてきたから、なお一層実感する。

_aaa7171暗室小屋の北側にある畑から見える我が浅間山。おとなしい構えだ。10月3日撮影

_aaa7175小豆の収穫をするオフクロさんは91歳。元気で畑仕事に生きがいをもってくれていることが何よりもありがたい。背景は里芋。例年以上に伸びたが堆肥が良かったのかは不明。10月3日撮影

_aaa7135クルミは例年以上に豊作だった。というか、収穫のタイミングを逃すと、拾うまでに痛んでしまうのが通常。クルミは用水路でしっかりと洗い、しばらくの間、日干しする。今では中国産などが安く出回り、クルミを貴重品と誰も思わない時代だ。10月2日撮影

_aaa7229小諸市に住む伯母から数年前にいただいたコルチカム。毎年、花が増えている。

_aaa7305これはビッシリと実をつけた山法師。真っ赤でおいしそうなのだが、渋さもあり種だらけ。昨年、大喜びで収穫したのだが、ジャムにするのは面倒だった。実は山モモの実と勘違いしていたことを知った。

_aaa7241山本宗補写真展第二弾「また、あした 日本列島老いの風景」の展示。モノクロの全紙と全倍作品40点を展示しています。妹が8月にオープンした「ミニギャラリーはやみ」の企画展。10月4日~16日。午前11時~午後6時。期間中無休。隣接するフリーマーケット開催日は火木土。連絡先は0267-41-0724(fax兼)。
_aaa7262全倍(60cmX90cm)の作品。

_aaa7438御代田町馬瀬口、しなの鉄道沿線南側の水田地帯。10月4日撮影

_aaa7341御代田町の稲刈りは10月初旬。私も高校生の時までは鎌で稲刈りしていた。自家用米だったが、その後、親も手放したので、水田はもうない。
_aaa7404稲刈りを終わった農家のおばさんに聞くと、御代田町の米は「あきたこまち」とのこと。放射能汚染の心配は町役場が検査して大丈夫とのことだったので、ほっとしたとおばさん。丹誠込めて作った米が基準値こえのセシウムが含まれていて出荷もできない、食べることもできないことほど農家にとって悲しくて辛いことはないとおばさん。農家だからこそ、福島県の農家の痛みが想像できる。

_aaa7376遠景は浅間山の連山。この水田地帯は浅間山南麓の伏流水を水源とする用水路が、江戸時代から整備されていたと思われる。もっと遡れば、古墳時代の竪穴住居跡も発掘されている一帯。古くから生活しやすい理想的な環境だったと思われる。御代田町には縄文時代の遺跡も火焔土器も掘り出されている。浅間山が冠雪するのは11月半ば。10月4日撮影

 日本を代表する活火山の1つ、浅間山。その南麓に広がる我が田舎町は、原発から直線距離で270㌔弱。それでも、福島第一原発からの放射能は微量でも確実に飛散してきている。「遠いから安心」ということは、空間線量を、土壌を、食品をできるだけ数多い地点で測定してみなければいえない。それが目に見えない放射性物質拡散の恐ろしさ。

 仮想敵国からのミサイルで原発が攻撃される必要もない。大江健三郎さんの言うように、私たちは広島、長崎につづいて、3発目の核爆弾を自分たちの頭の上に落としてしまった。大切なものは、失ってから初めてきづくものだが、山や森や川や大地が放射能に濃く汚染されてしまっては、末代まで取り返しがつかない。


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2011年8月26日 (金)

稼働57年の水車発電(小水力発電所)を見た

 再生可能エネルギーの中でも、古くから利用されている水力発電。大規模な環境破壊のイメージとは全くことなる「小水力発電」という分野の実用例は、知られていないか、活用されていないだけで潜在的実用化は幅広い。そこで身近な平根水力発電所を紹介する。出力が数十~数千キロワット程度の小型の水力発電を総称して「小水力発電」と呼ぶという。

 我が田舎の隣町である佐久市に50年以上前から稼働し発電している水車発電所を見学してきた。場所は佐久市平根。平尾山の北側斜面にあるスキーガーデン「PARADA」近くにあり、浅間山系を水源とする湯川の脇にあった。湯川から取水した農業用水を利用し、湯川に放流する。湯川は我が御代田町を流れ、この地点から数㌔下流で千曲川に注ぎ込むので千曲川の支流の一つだ。
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 佐久市農業協同組合自家発電所の看板のかかる平根発電所。平屋の建物も木造で古いまま。
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 この平根発電所は落差33mを利用して水車を回して発電する、実に単純明快な方式。稼働したのは1954年(昭和29年)と古く、すでに57年間発電しつづけているアナログ時代の優れ物だ。当時の平根村長の先見も明によって建設したという。この辺りの経緯とこの小水力発電所の生み出す電力量、電力の使われ方などが毎日新聞7月14日地方版に載っている。とてもわかりやすくて良い記事だ。リンクを張ったが新聞記事なのでまもなく読めなくなるかもしれない。要点を記事から以下に抜粋してみる。
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「最大出力は550キロワット。2000年から平尾山公園のエスカレーターやレストラン、昆虫体験学習館、
冬のスキーガーデン「パラダ」の各施設の電力に活用」。
「市建設部によると、10年度の年間発電量は約270万キロワット時。公園全体の需要の98%を賄った
上に、余剰電力145万キロワット時を中部電力に売電し、約713万円の収入があった。
公園の全電力を購入した場合と比較して、約200万円の黒字」。
「現在、発電所は佐久浅間農協の所有。市が施設を借り、第三セクター・平尾山開発に事業委託」。
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 常駐している管理人の方によると、夏場は平均300~400㌔ワットの発電実績とのこと。管理のやっかいな点は、落ち葉も水と共に水車に飛び込んでくるため、水路を定期的に清掃したり雑草刈りしたりする必要があるという。予想外に冬場に水量が減り、夏場の農業用水としての利用量が少ない時期に発電用の水量が安定し、安定して売電できるということのようだ。

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_aaa2089一目で年代物の骨董品のようで、丸みを帯びたフォルムが美しい。石川島芝浦タービン株式会社と書かれた銘板が決まっている。

3・11以後は見学者が増えたようだ。発電の流れを写真とイラストで解説した説明書きがありがたい。
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 平根発電所は「電力の地産地消」の古くからの実例。小水力発電は日本列島に相応しい地域御用達の発電システムの一例ではないだろうか。

 毎日新聞8月26日朝刊の記事に驚くべき試算が載っている。小水力発電が本格的に実用化されると、原発10基分の電力が供給可能だというのだ。【注:再生可能エネルギー固定価格買い取り法(再生エネ法)施行で売電価格が高くなることが、普及促進に欠かせない】
「経済産業省の調査によると、水力発電に適した一般河川は全国で約2700地点あり、大半が小水力発電向け。これらの河川全部に水力発電設備を設ければ、発電容量は計1200万キロワットに達し、原発10基分以上に相当するという」。

先人の水力の活用法、進んだ技術で水を効率的に利用すればできるのではないか。

実用例が不十分だが、長野県の取り組みが伺える県のホームページはこちら。
長野県内の 農業用水を利用した小水力発電施設

環境省の小水力発電普及促進のためのアクションプラン(注:政府の考え方の現状を知るには良いかも)

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97歳の伯父の絵画展と妹のミニギャラリー・フリーマーケット開店

 田舎の実家で妹がフリーマーケットとミニギャラリー「はやみ」をお盆前に開店した。フリーマーケットが充実するのはまだこれからだが、ギャラリーオープン記念に、97歳の伯父・白井安秀絵画展を開催している(~9月4日)。伯父は雑記帳で度々掲載してきた自動車を今でも運転する現役ドライバーで、我が母親(91歳)の実兄。8月の誕生日には免許証の更新も果たしたので、100歳まで運転が可能だ。そこで開店祝いに紹介したい。

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 今回は大小の作品約30点を展示販売している。伯父の得意な作品のほとんとが浅間山だ。軽井沢、佐久、御代田、小諸などの様々なアングルと異なる季節で描いてきた。ところが、花とか果物などの静物を描いた小ぶりの作品がピカリと光るところがまた良いのだ。この日は年配の友人たちが見に来た。

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 伯父の顔は数年前から撮らせてもらっているが、100歳が近づくにつれて味わいが増している。痩せてきているのも確かだが。
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 伯父は書道の達人でもあり、もしかしたら書の腕のほうが評価されてしかるべきなのだろう。
幸運の持ち主で、戦争中は本土から輸送船で仏印インドシナに向かい、現ベトナムのカムラン湾で米軍の
魚雷を受けたために船が沈没。泳ぎの達者な伯父はほぼ一日漂流して助け出され、書の腕を買われて
日本軍総司令部での事務的任務を与えられたために、最前線に送られずに生還できた戦争体験者。
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 こちらがフリーマーケットのスペース。かつては母親が何でも料理したドライブインだった店舗。母親の老齢のため、妹が今年になって田舎に戻って生活し始め、そこで思いついた改装がフリーマーケットとギャラリー。_aaa1678

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フリーマーケット・ミニギャラリー「はやみ」の連絡先は0267-41-0724(fax兼)。
フリーマーケットの出展者を募集しているので、出展したい人、詳細を知りたい人は連絡してください。
なおフリーマーケットの開催日は火木土の三日間。ミニギャラリーは毎週月曜日を定休予定。
両方の開店時間は午前11時~午後6時。
9月中旬からは私の写真展を約一月開催予定です。前期が東日本大震災の写真。
後期が「また、あした 日本列島老いの風景」から。
場所は御代田町馬瀬口の国道18号線添い。御代田駅からはタクシー6分。
車の方は、佐久インターからは10分。軽井沢インターからは30分。

我が御代田町の観光スポットは多々ありますが、特にオススメなのは、
浅間縄文ミューアムメルシャン軽井沢美術館です。

軽井沢、佐久、小諸などに来られたついでにお立ち寄りください。

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2011年7月13日 (水)

信州の隣町(軽井沢、佐久)で測定

先週、田舎に滞在したついでに隣近所で放射線量を測定してみた。その時の写真を掲載したい。読者にあらかじめわかっていただきたいのは、数値はあくまで目安、傾向として理解していただきたいという注意点だ。

ウクライナ製のマイ・ガイガーカウンターの傾向は、毎時999マイクロシーベルトまで測定可能なためか、低線量には鈍い印象。私が森住卓さんから借用していた19.99マイクロシーベルトまで測定可能なシンチレーションタイプと比べると若干高めに出る傾向がある。(逆に、福島県内などの20マイクロシーベルトをこえるスポットのある高線量地帯では頼りになる)。ちなみに福島第一原発から軽井沢町役場までの直線距離は南西方向に約250㌔。測定日は全て7月5日。晴天の午後から夕方の時間帯。

_aaa4417標高1000mをこす軽井沢町追分。練馬区所有の保養施設。浅間山の噴火活動の際は、臨場感のある写真が撮れるお気に入りのスポット。平均値は毎時0.15マイクロシーベルト。

_aaa4423軽井沢町のJR中軽井沢駅前。毎時0.12マイクロシーベルト平均。

_aaa4430中軽井沢にある軽井沢町役場前。毎時0.12マイクロシーベルト平均。

_aaa4441JR軽井沢駅北側口。毎時0.12マイクロシーベルト平均。

_aaa4502軽井沢72ゴルフ場の駐車場にて。毎時0.15マイクロシーベルト平均。土や芝、植え込みなどは舗装道路よりも若干高い傾向。

_aaa4457群馬県側。碓井峠、旧信越本線の碓井第三アーチ。毎時0.15マイクロシーベルト平均。ちなみに、軽井沢から碓井峠を下りはじめて若干下がった辺りが、毎時0.19マイクロシーベルトと、この日測定した場所ではもっとも高い数値だった。碓井峠を下りきった松井田町では毎時0.10マイクロシーベルト平均と下がった。

_aaa4487碓井バイパスの群馬県側、妙義山の峰を見下ろす地点。毎時0.16マイクロシーベルト。

_aaa4527JR長野新幹線佐久平駅前。毎時0.10マイクロシーベルト平均。

_aaa4522これが私の出身地のJR御代田駅前。毎時0.10マイクロシーベルト平均。

大まかな傾向としてははっきりわかるのは、毎時0.10~0.13マイクロシーベルトは、都心や都下(東久留米市)にある自宅周辺の数値とほぼ一緒だ。おそらくだが、日立アロカ社のシンチレーション線量計で計ると若干下がって、0.10以下の数値になるのではないかと思う。

比較のために軽井沢町役場のWeb長野県公式Web群馬県公式Web上で明らかにされている放射線量をご覧ください。長野市での3月15日~18日の空間放射線量などからも、一つはっきりいえるのは、放射性物質が確実に長野県にも達し、軽井沢町周辺は今でも平常値よりも上がっている点だ。(測定機種によっても開きがあることを前提にご理解を)

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