田舎(標高888mの畑)

2019年1月 8日 (火)

広河隆一氏の性暴力問題についての個人的見解

 広河隆一氏(現在75歳)と取材現場が一緒だったことが二度ある。
週刊文春で報道された広河氏の性暴力問題と広河氏のジャーナリストとしての実績についての個人的な見解を明らかにしておきたいので、長文になるが最後まで読んでいただきたい

 ようやく最初のテーマとなるフィリピンの継続取材をしている程度の実績のないカメラマンだった私にとり、雲の上の人のような報道写真家の広河隆一氏と初めて取材現場が一緒になったのは湾岸戦争直後のイラク取材だった。1991年のことだ。イラク取材ビザは出なかったため、イラク市民緊急支援を目的とする日本の市民グループのボランティアメンバーの一員として、1991年5月にイラク入国。ボランティアリストには私同様に取材目的で広河隆一氏やテレビ局の記者なども名前を連ねていた。

 広河氏と同じ現場を取材しても、広河氏の知名度や力量には太刀打ちできるわけもないので、イラク戦争直前にパレスチナとパリで取材した国境なき医師団(MSF)のイラク国内で緊急医療活動の取材を試みることにし、ヨルダンとバグダッドのMSFと連絡を取り取材ができるかどうかを探っていた。

 その甲斐あって、バグダッドからは広河氏たちが同行した支援グループと分かれ私は別行動をとり、医薬品や支援食糧物資を満載したMSFの大型トラックの助手席に乗りイラク北部のクルド人居住圏に入った。その結果、クルド人居住圏でのサダム・フセインの軍隊による徹底的な破壊と略奪行為と国連関係者の姿もない中で医療活動活動するMSFによるクルド人国内難民の孤立した状況の取材に成功した。週刊現代や朝日ジャーナル誌のグラビアで報道することができた。中東の取材に慣れない私にとってはできすぎた結果だったといえる。 

 この時の二度の中東取材で私は以下のように結論づけた。
『武力によって国際問題の解決を計ることが、「秩序」とは裏腹に新たな「混乱」をつくりだす事を改めて証明したのが1991年の「湾岸戦争」だった。戦争はパレスチナ問題には消極的な姿勢をとり続けてきた国連と、アメリカをはじめとする西側大国のダブルスタンダードを明らかにした。アメリカや日本も含めた西側大国の価値観に根ざした「国際秩序」や論理に翻弄されてきたアラブ人やイスラム教徒の心に、取り返しのつかない不信感や憎しみを植えつけてしまった。それが湾岸戦争の残したものだった』

 ちなみに、私は広河氏の超広角レンズの付いたカメラとビデオカメラ一台と録音機を首から下げ、同時に取材をすすめる姿にうなった。動画の訴求力を広河氏はすでに多用していた。

 二度目は20年後の福島原発事故直後の取材だった。
 2002年、「9・11」同時多発テロと米国によるアフガニスタンとイラク攻撃という報復攻撃以降、ジャーナリズムの在り方が問われ、ジャーナリストの取材と報道の権利と義務を守ることが困難になってきたことなどの状勢に、広河隆一氏が中心的な発起人となってJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。フリーランスのフォト・ジャーナリストやビデオ・ジャーナリストで構成)が設立された。志を同じくする私もの会員の一人として活動を共にし、JVJA主催でイラク戦争写真展などテーマも異なる数多くの写真展や報告会を開催した。

 2003年に岩波書店から「世界の戦場から」シリーズ全11冊プラス別冊が刊行されたが、広河氏の知名度と影響力抜きには出版されなかった大型企画だと思う。広河隆一氏が総編集となり、パレスチナ、チェチェン、イラク、ハイチ、核汚染、環境破壊など、JVJA各会員が長年取材してきたテーマがわかり易くまとめられた写真集シリーズとなった。「刊行の言葉」としていみじくも広河氏はこう記している。

ジャーナリストは人間の何を守るための存在であるべきなのか』 

 私は長年の取材フィールドとしてきたフィリピンを、「フィリピン~最底辺を生きる」として出版できた。あとがきには、「長年の取材を生かす機会をこの写真集シリーズで与えてくれた広河隆一さんに感謝する」と私自身が記している。

 実はJVJA会員として活動を共にする前には、広河氏の代表的な分厚いルポルタージュ「人間の戦場」(1998年)の書評を信濃毎日新聞に寄稿したこともある。広河氏の報道写真家としての凄さとパレスチナやチェルノブイリの子どもたちの支援活動を立ち上げ、息の長い支援を続ける姿勢に敬服していたからだ。

 2003年に広河氏が責任編集で出版を開始したフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」の出版企画には積極的に賛同し、1986年から親交のあった報道写真家福島菊次郎氏に賛同人になってもらうことを広河氏に提案した。「DAYS JAPAN」出版の賛同人に名を連ねた伝説の報道写真家・福島菊次郎さんの生き様とそのドキュメンタリー写真の連載に読者が触れるきっかけを提供した。

 広河氏のジャーナリストと支援活動の両輪の実績を尊敬していた私だが、広河氏のJVJA代表初期に転機が来た。DAYS JAPAN誌上で広河氏が多用する某著名写真家が、ビルマ(ミャンマー)軍事政権主催の写真展を新宿の著名なフォトギャラリーで開催した事実について私が問題視し、編集長としていかがなものかとJVJA全体会議で問い正したからだ。身の程知らずの若輩者がフォトジャーナリストの「大御所」であり業界の「権威」の広河氏に盾ついた格好になる。その写真展は少数民族と民主化を求める市民を弾圧、逮捕投獄し民主主義を否定する軍事政権による国外向け観光キャンペーンの一環のような内容だった。軍政下における社会問題を取り上げた内容は皆無。著名な写真家の世渡りのうまさと思想信条のかけらもないような姿勢に、長年ビルマ(ミャンマー)の民主化運動と少数民族の自決権問題を取材してきた者として黙ってはいられず、軍事政権に肩入れするような写真家をDAYS JAPAN誌上で多用することは間違っていると指摘した。JVJA会員を辞める覚悟での私の問題提起に対する反論はない曖昧なままでその場は終わった。広河氏と関係が疎遠となったのも自然の成り行きだ。

 その後、広河氏はDAYS JAPAN編集長に専念することを主な理由にJVJA代表を退き、JVJAは共同代表制となった。広河氏がJVJAから正式に脱会したのは2008年。

 広河氏とは顔を合わすこともほとんどなくなったが、少しでも原稿料を稼ぐためにDAYS JAPANにも写真を売り込み、「老い~生きる達人」(6ページ、2007年2月号)、「証言者たちの戦争」(8ページ、2007年10月号)、「産む歓び」(8ページ、2008年7月号)などの特集が掲載された。

 そうした中で起きたのが東日本大震災と福島原発事故だ。発災日夜にJVJA仲間のメーリングリストに福島取材向かうことを提案。翌早朝、JVJAの野田雅也(以下敬称略)を新宿駅前で拾い、3月12日夜には福島県田村市の小学校に緊急避難したばかりの大熊町町民の取材を二人で開始。その晩には郡山市内のホテルに森住卓、豊田直己、綿井健陽、野田雅也と私をいれた5名のJVJA会員と広河DAYS JAPAN編集長が合流。

 翌13日は車3台、6人の共同取材を開始。福島第一原発から3.5キロの双葉町役場、双葉厚生病院、常磐線双葉駅界隈などを取材。町から住民の姿は消え、双葉厚生病院前では広河氏、森住、豊田が持参した三台のガイガーカウンターで空間線量を測定し、1000マイクロシーベルト毎時(1ミリシーベルト)以上という異常に高い放射線量を測定した。その事実はテレビなどでは全く報道されていない原発事故の怖ろしい現実を伝える内容だった。その日の夕方までにはネットを通じて共同取材の結果を拡散した。6人の合同取材はイラク取材をまとめた映画製作で知られる綿井氏が撮影し、You-Tubeに公開され再生回数7万回を超えているので既知の人も多いだろう。三日間の共同取材を通じ、広河氏からは無視されていることを痛感したことを覚えている。

 その後は広河氏と取材現場が一緒になることはなかった。そして今回の週刊文春報道で明らかにされた広河氏の著名度と「権威」を利用した、あまりにもひどい性暴力問題だ。「7人の女性が証言」と報道された。あってはならない女性の人権無視だ。JVJAは昨年12月31日に広河氏の性暴力問題についての緊急声明を出した。全文はJVJAのホームページで目を通していただきたいが、一部だけをここに抜粋しておきたい。

私たち自身、これまでに写真展や報告会などを広河氏と一緒に開催しておきながら、重大な人権侵害に気づくことが出来なかったことは、深く反省しています。「彼がそんな行為をするはずはない」とする権威主義に陥り、加担していたと言わざるを得ません。
 広河氏はまず、被害女性一人ひとりにきちんと謝罪し、その罪を償うべきです。さらに公の場で自らの言葉でもって、事実関係を説明し、その社会的な責任をとるべきです

 週刊文春の記事は、広河氏がジャーナリストとして長年積み上げてきた裾野の広い山を自らの行為でぶち壊してしまうほどの内容で、パレスチナ問題であれ原発事故であれ、弱者の側に立ち世間に訴えてきた姿勢とは真逆だ。活動を一時期共にした者としては俄かに信じがたいものだったが、広河氏とは疎遠のせいか記事内容に近い女性問題を私自身が耳にしたことも、JVJAの仲間から噂を聞くこともなかった。言い訳になるかもしれないが、福島菊次郎さんのような人間的魅力を広河氏に感じていなかったから、広河氏のプライバシーに関心がなかったからかもしれない。

 今回の報道がなければ、いずれはその名を関した写真賞が創設されることは間違いないほどの実績と知名度と影響力を持つのが広河氏だ。40冊を下らない著書。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、土門拳賞、日本写真家協会賞年度賞などジャーナリズムと写真関係の賞を総なめにもしている。個人的には、「写真記録 チェルノブイリ消えた458の村」の、放射能汚染により住民が二度と住むことが不可能となり、土砂で埋められる村々のスティール写真は鳥肌が立つほどに凄まじかった

 広河氏の権威と信頼の失墜、ジャーナリズム全体への信頼の失墜は測りしれないが、広河氏に触発されパレスチナ問題などをテーマにフォトジャーナリズムの世界に身を投じてきた同業者の失望感は尋常ではないだろう。私の失望感はそこまでではないかもしれないが、残念極まることには変わりない。

 ただ、ここで何よりも重要なのは、広河氏がジャーナリズム界で果たしてきた大きな役割を知らない一般の人の視点だろう。一般的には広河氏の実績がどう扱われるのかよりも、広河氏が被害者に対しどう責任を取るのかということだけに関心が集まるのが自然だ

 今年は敗戦から74年。国策の侵略戦争中、軍部の予算を利用して対外宣伝雑誌を次々と創刊した写真家がいる。彼の名前を冠した写真賞まで創設された名取洋之助だ。名取はLIFE誌のように洗練された日本のフォトルポルタージュの草分け的写真雑誌「NIPPON」を1934年に創刊。当初は日本文化や産業を海外に紹介する内容を目指したようだが、侵略を正当化する内容に変わり、「NIPPON」は44年の36号まで刊行された。軍部との関係を強めた名取は、プロパガンダ目的の広報雑誌6誌を創刊。陸軍による謀略雑誌「SHANGHAI」(1938年)や関東軍報道部出資の「MANCHOUKUO」(1940年)などを刊行した。

 戦後、名取が自らの戦争責任を総括した様子は残念ながらない。その点は、昭和天皇をはじめ、殺生を禁じる伝統仏教の各宗派や高名な僧侶も、侵略戦争を支持しながら戦後は贖罪の意識をあいまいにしたのが日本社会なので、名取だけを責めることもできない。

 写真界での名取の戦後の功績は、1950年から刊行された岩波写真文庫全286作の編集責任者として能力を発揮したことだろう。名取は1962年に53歳で没したが、日本写真家協会により新進写真家の発掘と活動を奨励するため、2005年に名取洋之助賞が創設された。戦争への積極的な関わりなどとは無関係に、「名取洋之助」の名を冠した賞は高く評価されている。だからといって、名取の戦争への積極的な加担をあいまいにすることは、後に続く後輩たちが同じ過ちを繰り返す言い訳を残すようなものだ

 写真は一度発表されると、撮影者の意図とは裏腹に一人歩きする。すでに評価が定着した広河氏の作品、著作、映画などを全否定する動きが今後あるかもしれない。しかし、10年、20年の長いスパンで見れば、性暴力被害者の女性たちの心情とは切り離された形で、訴求力があり忘れがたい作品は残るのではないか。それは広河氏の潔い責任の取り方次第でもあるといえる。

 自戒を込め、ジャーナリストに対する信頼の低下をどう回復するかは残された者が努力する他はないと覚悟している。


 

 

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2018年12月16日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論掲載、宗補ホームペーよりの復活ブログ)

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。

 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。

 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。

 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。
 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。

 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重ぐるしい雰囲気はない。

 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。

 「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。

 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。

 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。

 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。

 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。

 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。

 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。

 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。

 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 
義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。

 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。

 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。

 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている。

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2018年12月11日 (火)

2002年4月:説得力不足でしたので、生の声を~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2002年に書き込んだものです)

 具体的なパレスチナ人の生の声をお伝えしなくては説得力不足でした。

 イスラエル軍が侵略中のヨルダン川西岸の北端にある町がジェニン。イスラエル領に隣り合う地区だ。昨年11月、10年ぶりにパレスチナを取材したときには、ジェニンの郊外にある村に住むサエッド君(25歳)の自宅を訪問した。ジェニンと村の間を結ぶ幹線道路から間近に見える位置に、戦車が2両、畑の土に隠れるように置かれ、銃身は道路に向けられていた。道路は3ヶ月間封鎖され、前日にたまたま障害物が取り除かれたとのことだった。

 私はサエッド君に会ったのは彼が15歳の時。1991年当時の彼は東エルサレムにある「国境なき医師団」ベルギー支部から派遣された理学療法士が指導するリハビリセンターで、上半身の筋肉を使う訓練をしていた。運悪く彼がイスラエル兵の銃弾の直撃を受けたのは、中学生だった14歳の時。村の中にある学校を取り囲んだイスラエル兵が撃ったダムダム弾が、右腕に当たり、右の脇腹に食い込み、心臓近くを貫通し左半身の背中から身体の外へ飛び出した。そのため脊椎の損傷で下半身不随となっていた。(ダムダム弾とはジュネーブ条約で使用が禁止されている破壊力の高い銃弾だ。当時も今もイスラエル軍はダムダム弾の使用を止めていない。)

 リハビリ中の15歳のサエッド少年の瞳は、静かな悲しみをたたえていたのが印象的だった。その時の写真を元に、二つの病院で訪ね歩いて得た結果が、ジェニンに住むという情報だった。エルサレムを出発し、乗り合いタクシーを4度乗り換え、山道ではロバ馬車に乗り換え、ジェニンには6時間以上かかってたどり着いた。本来ならば自動車で2時間程度の距離だと思われるが、幹線道路も山道もイスラエル軍による検問所や障害物などで何カ所も遮断されているため、パレスチナ人の移動や労働の自由が奪われていたためだ。(現在のヨルダン川西岸はイスラエル軍の全面的展開で、移動の自由が利かず、取材が困難と推測します)

 25歳となったサエッド君は車椅子生活。新婚だったが、両親、弟夫婦と4年前に建て替えた家で暮らしていた。彼は細身で物静かな雰囲気は変わらなかった。その晩は彼の家に泊まらせてもらい、ラマダン中の特別夕食をごちそうになり話を聞いた。通訳は村に住み、ジェニンにあるパレスチナ自治病院で医師のインターンをしているサエッド君の友人がやってくれた。

 「戦争は何も解決しない。シンプルなパレスチナ人も、シンプルなイスラエル人も戦いを望まず、平和に暮らしたいと思っている。シャロンのような政治家だけがパレスチナ人と隣り合って暮らすのを嫌がっている。イスラエルの入植地はガンのようなものだ。入植者は元の所へ帰るべきだ。入植地の土地はパレスチナ人に返還されれば、お互いに戦うこともなく暮らすことができる

イスラエル政府もイスラエル軍もイスラエル国民の顔といえる。シャロンは国民によって選出されたのだから、シャロンもイスラエル軍も国民も一つの同じ輪だ

空や地下水が我々の自由にならなければ、国家の意味がどこにあるだろう。自分の土地での移動の自由がないのならば、国家の意味がどこにあるのだろう

 93年のオスロ合意以降、ヨルダン川西岸の主要都市がパレスチナ暫定自治区に組み込まれる一方で、イスラエル人入植地の新設拡張は進み、2万戸を越える新住宅が建設され、入植者数140、入植者数40万人となったという。占領地に入植地を建設することは、国連決議違反。ヨルダン川西岸もガザ地区も、入植地が虫食い状態にある現実のまま恒常的停戦と和平がもたらされるといえるでしょうか。

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2001年11月:パキスタン・ペシャワールから~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 前回、パレスチナの実状を書き込んだエルサレムを24日に離れ、26日からはパキスタンのペシャワールに来ています。ラマダン(断食月)はパレスチナ取材中から始まり、似非イスラム教徒として、朝食後から日没までは水も飲まず、タバコも吸わず、何も食べないで我慢する努力をしているところです。とは言っても、実状は朝食は7時くらいに食べ、さらにこっそりチョコレートやビスケットなどを時折食べたり、水を飲んだりしてしまうので、とてもラマダンを実行しているわけではないのですが。

 アフガン人があふれるペシャワールの宿は、コックやウエイターは全員アフガン人。パシュトゥーン人、タジク人で、経営者はかなり前からペシャワールに出てきたアフガン人。日没直後の食事は、ホテルの食堂にある大テーブルをマネージャーから警備も含めた使用人全員が集まり、モスクから流れるアザーンを合図に、待ってましたとばかりに食べ始めます。今日は金曜日、私も夕食に呼ばれ、みんなと一緒にミルクティー、ポテトのピリ唐揚げ、ナン、果物などをいただきました。今日は朝食後はティーを一杯、それにジュースを一口だけで何とか夕方まで我慢しましたが、どうも私はイスラム教徒にはなれません。

 パレスチナでは豪華なラマダンスペシャルの家庭料理を一度ごちそうになりましたが、ここのアフガン人は果たしてどんな夕食を家族で食べているのかが気になるところです。ついでに、この宿で働くアフガン人の給料は1500ルピー以下。100ドルが6000ルピーの交換レートなので、25ドル以下です。

 27日からはペシャワール会の活動と中村哲医師の取材撮影に取り組んでいます。中村先生は27日から12月3日までが、こちらのPMS病院に詰めながら、アフガン領内での援助活動の指揮をとり計画を練り、残りは日本での講演活動の日々を交互に繰り返すパターンができています。火曜日は疲れと睡眠不足がありありの表情で、言葉にも力がありませんでしたが、今日はかなり元気が回復した表情と雰囲気が感じられました。

 今朝ほど、ジャララバード北部のマラリア流行地域に向け、マラリア用の薬や寝袋などを積んだ車2台でアフガン人スタッフを送り出したところです。緊急食料援助活動は、ジャララバードとその周辺の治安が不安定なため、一時休止状態。通常の医療活動は続いているという話です。カーブルには国連機関などから大量の食料が運び入れられはじめたために、今後の食料援助は大きな援助機関の活動範囲外の地域に力を入れることになるようです。

 今日はようやく中村先生の医師としての現場をしっかりと病院で見せてもらいました。患者一人一人との対話と欠かさず、担当医師の所見なども確認しながら、ゆっくりと時間をかけて見て回る姿は、日本からここまで中村先生の現場の一部を見に来たかいがあることを実感させてくれました。中村先生よりも頭の位置が低いのはベッドの患者さんだけで、アフガン人とパキスタン人医師陣は小柄な中村先生を見下ろして、中村院長の説明に耳を傾けているのです。

 著書で想像した個性の強い人物を時折確認しつつ取材しています。ちなみに、タバコ好きの中村先生は、ラマダン中に外では絶対に吸わないそうですが、院長室はラマダンの時期でも影響されない部屋とされ、ミーティングや人に会う合間にタバコが欠かせないようです

 私は帰国まで10日を切りましたが、ジャララバードとカーブル間の治安が安定すれば、アフガン領内を是非見てこようとは考えています。

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2001年11月:10年ぶりのパレスチナ~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 11月12日からイスラエルに来て、10年ぶりにパレスチナ情勢を取材中です。今回の取材で、誤解を恐れずに極限すれば、イスラエルが国家テロの国だと断定してもおかしくないと改めて実感しています。こう書いても、おそらくこの国に来てパレスチナ人が1948年のイスラエル建国で国土を奪われていらい強要されている暮らしぶりを一目見るまでは、みなさんには信じてもらえない表現だと思っています。

 私は中東の専門家ではありませんが、ひとりのカメラマンとして短期間だけでも撮影、取材したことのほんの一部を紹介して置きます。

 昨日、パレスチナ自治政府が管轄するガザ地区(イスラエル南西部のエジブトとの国境周辺)にあるハンユニス 難民キャンプで、イスラエル軍が発射した砲弾の不発弾が爆発し、登校途中のパレスチナ人の子どもが5人、即死です。12歳から15歳の子どもたちです。その中のひとりが地面にあった爆弾を蹴ったために爆発したようです。

 私は今はエルサレムで取材中なので現場取材には出かけていませんが、地元のアラビア語の新聞は全て一面トップですが、イスラエルの「ハーレーツ」紙でさえ同様です。テレビニュースなどを見ても、地面に直径3メートルはある大きな穴が深く掘られるほどの破壊力です。子どもたちの身体もバッグも吹き飛んでしまったようです。

 現場周辺は先週のガザ取材で二日続けて撮影に出かけた場所です。イスラエル軍が最近は幾度となく深夜攻撃を繰り返し、前日あった国連のテントやパレスチナ人の住宅が跡形もなく壊されてしまうほど、日替わりで光景が変わってしまうほどパレスチナ人に対する攻撃を止めないスポットです。難民キャンプの一角ですが、イスラエル軍は隣接するユダヤ人入植地を守る口実で、あからさまな侵略を繰り返しているわけです

 パレスチナ側は自治警察が治安を守る任務を負っていますが、武器は自動小銃のみ。戦車砲や時には攻撃ヘリも動員し、ロケット砲やマシンガンなど使い放題のイスラエル軍とは最初から勝負になりません。一斉攻撃の仕上げが戦車のようなブルドーザーでパレスチナ人のコンクリートやブロック製の住宅を破壊しての更地化です。エジブトとの国境線のラファは、更地化がより一層進んでいます。イスラエル政府が一方的な戦争をパレスチナ人に仕掛けているのが現実です。

 別の事例をあげましょう。昨日、取材に出かけたのはキリストが誕生したといわれるベツレヘム。エルサレムから南へ20分。ベツレヘムとその周辺にある難民キャンプは、ちょうど一ヶ月前の10月18日から29日までの11日間、イスラエル軍によって包囲され、激しい攻撃を受けたところです。(この前例のない攻撃は前日の10月17日に、シャロン首相よりもタカ派と言われたゼエビ観光大臣がパレスチナ人によって暗殺されたことへの報復攻撃と思われています)

 この間、イスラエル軍は高いビルを占拠して、難民キャンプを包囲し、至近距離で昼も夜も発砲を続け、パレスチナ人を恐怖のどん底に追いやったのです。パレスチナ人の死者は22名、うちパレスチナ人警察官は4人。残りは17歳から57歳までの一般市民です。負傷者は146名。死者と負傷者全員がかつぎこまれたベツレヘム市内の病院の医療責任者の話を聞きましたが、驚きました。死者のほとんどが首、胸、頭への銃弾によるもの。4人の死者は家の中にいたにも関わらず、狙い撃ちされたといいます
「イスラエル軍は殺すために発砲したのは明かだ」と、パレスチナ人でクリスチャンのピーター医師は断言しました。

 昨年9月に第二の インティファーダが始まっていらい、パレスチナ人は再び大きな刑務所に隔離された暮らしです。というのは、パレスチナ自治区の西岸もガザ地区も、イスラエル軍により厳しい検問所がそこら中に設置され、封鎖されてしまったので、それまでイスラエル領内での職場へ通勤していたパレスチナ人が、のきなみ仕事と収入を奪われている状態です。ガザ地区の出入りが可能なのは、国連関係者、パレスチナ自治政府高官、外国人ジャーナリストくらいに限定されているほどです。やはり、現場に来てみないと想像できないほど、基本的人権も存在権さえも奪う占領と弾圧方法が巧妙に敷かれているのです

 中東の和平はパレスチナ問題の解決(ユダヤ人の国家と隣接するパレスチナ人国家建設)抜きには考えられません。国連決議さえ無視したままのイスラエルへの一方的な肩入れをするアメリカが、イスラム教徒の怒りを増幅してきた事実を見落とさずに、アフガン情勢とリンクして考えてください。ちなみに、2-3日前のアメリカ政府の和平への提案を本物と感じているパレスチナ人は見あたりません。いつも口約束でだまされてきた歴史があるからです。

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2001年11月:内なる凶暴な遺伝子~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 10月下旬の宮内さんの海亀日記、「内なる凶暴な(もしくは利己的な)遺伝子」、という表現へのこだわりが気になっていました。

 同時テロのように一気に多数の犠牲者が出る事件や戦争が続くと、死者の数を数字で表すことが空虚になり、実感が希薄になってきていることがかえって心配です。それは犠牲者一人一人の存在感がゼロのごとく扱われているためかもしれない。国政、県政レベルの議員連中も、多くの日本人も同じように現実感に乏しい世界に閉じこもっている。アメリカの同時テロの犠牲者6000人。6年前の阪神淡路大震災の犠牲者約6000人。日本に住んでいる者さえ、あの未曾有の大地震による無数の悲しみと都市の破壊を自分のこととできなかったのではとさえ思ったりもする

 私自身は想像力が鈍い。それゆえ、仕事に選んだ写真を撮る行為で、現場を踏むことで実態を伴わない数字が初めて現実味を帯びてくる。アフリカ内陸部の小国、ルワンダには4年前に取材に行ったことがある。国連の推計では少なくとも80万人が虐殺された。多数派のフツ族が少数派のツチ族隣人を襲い、わずか3ヶ月ほどの間のジェノサイドの結果だった。7年前の出来事である。政権を握るフツ族に影響力のあったフランス軍も、国連も虐殺のエスカレートを止めることのできた立場にあったはずだ。だが・・・・。

 聖域だった教会や、各地の学校に集められたり逃げ込んだツチ族やフツ族穏健派がフツ族政権の操る民兵らにより、銃殺されたり撲殺され、大量殺戮の場と化した。中部の技術学校の立ち並ぶ教室には、掘り出された白骨化したりミイラ化したおびただしい数の遺体が並べられていた。頭髪や衣服が部分的に残っている女性の遺体ものもあった。兄弟とさえ思える子どもの白骨もいくつも置かれていた。おぞましい光景以外の何者でもない。80万人の死者とはそうした遺体が80人分並び、生存者が80万人分の遺骨を処理しなければならないのだということを想像してほしい

 しかし、ルワンダはそんなジェノサイドが似合うような殺伐とした環境の大地では決してない。ルワンダとは「千の丘の国」を意味する国名で、亜熱帯の見渡す限りの斜面が耕された農業国だった。乾燥した砂漠、飢餓の蔓延する飢えたアフリカのイメージとはほど遠い。国名のごとくどこか中国雲南省からビルマのシャン高原に連なる丘陵地帯が続く東南アジア的世界を彷彿とさせる国。南東部は茶のプランテーション地域で、隣国ザイール(現コンゴ共和国)との国境となる湖は、スイスのレマン湖を思わせる自然の美しい一帯、さらに北西部にはマウンテンゴリラの生息するジャングルもある。そうした自然を思い浮かべれば、少しはルワンダに暮らす人々の生活を想像できると思うが。

 中部の町にある民俗博物館には様々な形のスキやクワ、ナタなどの農耕具類が数多く展示されていたのには驚いた。歴史のある農耕文化が存在していたことを証明していたからだ。想像するに、現代的改良を加えられた亜熱帯農業による食糧増産が、狭い国ルワンダの人口増加につながり、返って耕作面積の減少、貧富の格差拡大、土地なし、職なし、教育なしの若者を増産。多数派のフツ族の若者の不満のはけ口が、権力者たちにより操られ、政敵ツチ族にし向けられてきた。

 ただ、その不満の根源は持たざる者が多少は羽振りの良い隣人を羨むという、極めて人間的なねたみの感情が源泉となっているものと思えるのです。経済的な格差の歴然とした国の持たざる者の感情は、日本人には想像できにくいほど根が深く、経済的にしか解消できないものかもしれません。「内なる凶暴な遺伝子」がなせる殺戮とは、どこか違うような気がするのです。もっともっと、指導者層、権力を行使する立場にあるリーダーたちの資質が問われるべきだとも感じているからです。

 ルワンダで歴史的なジェノサイドが起きたとはいっても、アフリカ大陸にヨーロッパ列強が押し掛け、分断し植民地化する以前の部族社会の共同体は、フツ族とツチ族でもおそらく何らかの共存と、ブレーキが働いていたはず。ルワンダの場合は西隣のザイール(現在のコンゴ共和国)ともどもベルギーに統治され、ベルギーは少数派のツチ族を重用し、フツ族をコントロールした。しかも、富の象徴だった牛の所有数でツチ族とフツ族のIDの基準としたという。ある研究者は、ベルギー時代に、牛10頭以上持つ者をツチ族とみなしたという破廉恥な統治政策があったと指摘している。遺伝子とは異なる、ある人為的なすり込みが、世代を経て暴発する引き金となったという側面を見逃してはならないと思います。もっとリーダーの資質、責任を糾す見方もできるのではないでしょうか。

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2000年9月:朗読者」読みました~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 約1ヶ月ぶりに投稿してみました。 盛夏の8月はいろいろと雑用などに追われる一方で、 8月下旬までは全く本を読めず残念でした。夏休みに買い貯めた 本をたくさん読みたいと思っていたのですが。 それでも、気を取り直して、話題の「朗読者」をよみました。重く考えさせる内容とは別に、読みやすかったのには救われました。 それは何よりも前半を占める15歳の主人公と40歳前後と思われる ハンナとの濃密な愛人関係の描写により引き込まれたものでした。

 「朗読者」のポイントは、積山さんが的確にご指摘されているとおり だと思います。日本で読まれる理由のひとつも、「朗読者」という 小説で描き出されているナチスドイツ時代にドイツが犯した罪を、戦後、ドイツという国家やドイツ人個人個人がどのように反省したか、また、どのように責任の所在を明らかにしようとしたのかを振り返ろうとしている意志に驚いたり、多少の違和感を感じながらも我が日本の戦後に置き換えて、考えざるをえない気持ちになるからでしょう。戦後、戦争責任をあいまいに処理した日本人にはどきりとさせられる 小説です。

 朗読者を読んだ勢いで、ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」を読み、「ある憲兵の記録」(朝日新聞山形支局)も読み終えました。キャパはハンガリー生まれのユダヤ人で、ヨーロッパ戦線の幾多の生死を分ける極限で後世に残る報道写真を残した稀にみる人物。カメラマンの職業柄、彼の写真は見慣れているものの、この本を読んでいなかったことを悔やみました。キャパは恋人をロンドンに残したまま、アメリカの写真雑誌「ライフ」 の従軍カメラマンとして、第二次世界大戦中の北アフリカ、イタリア、フランスなどの各最前線をヘルメットにカメラだけで渡り歩きます。目の前では多数のイギリス兵、アメリカ兵、フランス兵などが死んでゆき、仲間のライフ誌従軍カメラマンは沖縄の伊江島で死にます

 同じ頃の中国・満州国では、山形出身の若い農民が憲兵として、天皇を頂点とする大日本帝国のために忠実に働き、国土を外国人である日本人に蹂躙され愛国心を心に秘める無数の中国人を捕らえ、処刑場へと送ります。72歳となった元憲兵の土屋さんが、新聞記者に語り、新聞紙上に長期連載されたものをまとめた本が「ある憲兵の記録」ですが、何年も前に買ったものの、なかなか読む気が起きなかった本でした。

 土屋さんが憲兵として10年以上勤めたのは、海亀の宮内さんが暮らしたハルピンからは遠くない、チチハルというロシアとの国境近辺の街ですが、敗戦後はロシアと中国の収容所に入れられ、帰国するまで11年間の抑留生活を送ります。その間、土屋さんは自ら罪の総量を振り返り、14年間に、328人を直接間接に殺し、1917人を逮捕拷問し刑務所に入れたという恐ろしい数字でした。

 「自分は戦争の加害者であり、中国では鬼だった。再び、あのような侵略戦争を繰り返してはならない」と語る土屋さんは、各地で自らの体験を話し、反戦を訴える活動をしているという。また、1990年には中国に「謝罪の旅」にも出ている。この本には、「善良な地方の一農民を、平気で人を殺す兵や憲兵に仕立て上げ」た当時の日本の時代背景も描かれています

 すでに亡くなった私の父親も中国大陸で憲兵をしていたので、この本はショッキングでした。もし、我が父が元気な頃に憲兵時代に何をしたのかを話したとしても、私はどう対応すれば良いのかわからなかったでしょう。父は戦争体験については完璧に口を閉ざしていました。ただ、昭和天皇が死んだ時、戦争責任を取らなかった
天皇裕仁を非難する私に激しく怒り、勘当だと怒鳴られたことをはっきりを思い出します。

 たまに投稿すると長くなりすぎますね。みなさん、宮内さん、ご容赦ください。

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2000年8月:朗読者、広島、長崎 山本宗補 MAIL~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 先日、新宿の書店で「朗読者」を買ってきました。
何十冊と平積みで売られていたので、探すこともなく見つけました。
今月中には読むのが楽しみです。

 10数年前、ポーランドに残るアウシュビッツ(現地ではオシビェンチムと読んでいる)を訪れたとき、今世紀最大の民族抹殺の歴史的現場と なった強制収容所跡を徹底して当時のままに近い状態で残し、後世の人々に何が行われたのかを伝える意志の力強さの圧倒されたものです。

 一人でゆっくりと写真を撮ったのですが、帰国後にフィルムを現像 した時に驚愕したのです。一本のフィルムには強制収容所に残る殺戮されたユダヤ人の顔写真と、そこに重なるように生きているポーランドの 炭坑夫の一家のポートレート写真が重なるように写りこんでいたのでした

 アウシュビッツを訪れる前日に、近くにある大きな炭坑の町で、一家のポートレートを撮影したフィルムを、完璧なうっかりミスで再び撮影 に使ってしまったためでした。単純にプロカメラマンとしては失格のミスを犯したのですが、振り返ってみると、アウシュビッツの何かが、私の能ミソの判断能力を阻害した ことは間違いないと信じています。

 広島に原爆が落とされてから55年後の8月6日の夜、NHKで広島市内の袋町小学校の壁面に残る55年前の伝言と、それらを書き残した人たちの家族や関係者をドキュメントする番組をみました。 涙があふれてきました。原爆により負傷した人々が避難した小学校の 壁が掲示板として使われ、55年前のままの壁面が残されていたのです。そうした壁面によりかかって、おそらくたくさんの負傷者が息絶えたことでしょう。そうした光景が浮かんでくるような空間が残され、 伝言を書き残した遺族が、初めて壁の前にたち絶句する映像もありました。
 
 番組の最後には、この袋町小学校が老朽化のために解体工事が進行中で、伝言の書かれた壁面が切り取られて保存されるとの説明が付け加えられたのですが、私が愕然としたのは、この原爆の記憶と人々の悲しみが刻み込まれた歴史的な建物を跡形もなく解体するという事実です。

 建物全体を残さず、伝言の書かれた壁面のみを切り取り、おそらく広島の原爆博物館に常設展示するのでしょう。 単にこぎれいで、コンパクトにまとまっただけの近代的原爆博物館(世界中の人類に広島の原爆の被害のすさまじさを伝えようとする意志が薄弱のコンクリート空間)に陳列されるだけで、55年前に書き残された伝言の重みが喪失するだけにすぎないことを懸念します。 (古いビルを利用した長崎市内の原爆博物館の、変に洗練されていない 展示方法の方が、広島よりもはるかに心に響くものです)

 時としてあいまいな人の記憶を補助してくれるのが、袋町小学校などの歴史の証言を残す建物のはず。切り取って博物館の中に閉じこめて、一体どうやって子どもたちや世界中の人々に原爆を破壊力と原爆が 人類にもたらす際限のない悲惨さを、説得力を持って伝えようとする
のだろうか。

まさ君へ 山本宗補 MAIL 2000/07/27

ノーテンキな若者があふれ、無責任な大人や政治家、経営者が あふれる世紀末の日本。
宮内さんの海亀通信には何故か、きまじめな若者が吸い寄せられ てくるようだ。

 「自由の獲得か死か」 カッコイイことばだね。まさ君の年齢はわからないが、そんなにつきつめて考えたいなら、ちょっと外の世界をみてくるのがいい。ぼくのオススメは、近いところでは四国の八十八カ所を めぐるお遍路だ。ちょうど、一週間の撮影・取材に行ってきたところで、様々な年齢の男女が全行程1400キロを歩いていた。
早くても四十日以上はかかり、半端な気持ちでは 太刀打ちできない行程だ。 四国には異質な価値観や幅広い寛容度に根ざした日本人が 生活している。とことばで言ってみても伝わらないだろうが。別の日本社会が現存する。

 ノーテンキな若者も、無責任な大人も、どれほど才能あふれる人も、親の愛をたくさん受ける人でも、この世に生まれたからには 我々には必ず死を迎える時がくる。ひとりひとりの往き方があり、いづれ間違いなくやってくる。 ぼくはその時まで急ごうとは思わない。

君は手塚治虫のマンガ世界を知っているかい。
「火の鳥」「ブラックジャック」「ブッダ」「ファウスト」
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2000年10月:20歳の頃の体験談~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 衆議院選挙の結果に対する海亀の宮内さんの怒り(日記)に全く同感です。
20歳以上の有権者の約38パーセントの大人が、投票しなかったという事実が
日本人とは全体的にはどんな国民かを反映している点が残念です

国政がとんでもない政治家たちによって、うさんくさい方向へ突き進んでいる時に、
投票しなければどのような選挙結果になっても、国民はそれを受け入れざるをえない
わけですから。

 選挙結果はいつもそうですが、我々が無責任であり、また国会議事堂で眠りこけるために
選ばれた国会議員の顔の総体が、かなり平均的日本人の体質やメンタリティーをかなり
正確に反映していることを認めざるをえないもので、いつもやりきれません。

 大人社会がいかにいい加減にできているのか、大人が無責任な連中だと見限ったのは
私の場合は高校生の頃だったと思います。もう30年も前のことです。多感な年頃の
中高校生は昔も今も、大人社会のうさんくささやいい加減さを早くから見通したような
気になるものです。くだらない大人にはなりたくないと、大人になるのを拒否
したかったものです。

 たくさんの若者が、悩み、心の苦しみなどをストレートに書き込んでいますが、
生きる限りそれも当たり前のこと。すれてしまった昔は若者の大人も、人生に
悩みながら、怒りながら生活しているし、若者はそれ相応の人生の悩みを抱えて
生きている。つまり、生きている限り悩み、迷いはつきもの。不安を抱えていて
当たり前だといいたい。

 20歳前後の自分自身を振り返ってみても、とりたてて何になりたい、こうしたい
という夢も希望も、目的もないまま生きていました。将来を考えるとそれはそれは
不安でした。考えれば考えるほど自己嫌悪に陥るわけです。さりとて勉強が嫌い。
田舎の3流高校を出て、受験勉強という言葉さえ身近ではなかったため、昼間の
大学など合格できるはずもなく、運良く3流大学の夜間学部にひっかかったのです。

 しかし、元来勉強に身が入らないために大学は半年も持たずに、止めました。
その後の精神状態は不安定で、私がしたことは自殺しようと言う決断。遺書を
書いて田舎の自宅を抜け出し、まず考えたのは貨物船に乗り込み、海に身を投げ
る方法。横浜港に行き、貨物船を探したもの実行できず、捨てられているコンテナに
入り込み、寒い夜を何とも心細く過ごしたことを覚えています。貨物船の汽笛が
不安をかき立てるのにうってつけでした。

 その後は上野駅に向かい、九州にするか北海道にするかを切符を買い求めるとき、
ほんの一瞬だけ迷ったような気がします。しかし、自殺をするのだから暖かな南ではなく
北を選ぶべきと思い直し、北海道にむかいました
。途中、仙台で降りて、薬局を2-3件
回り、睡眠薬をくださいといったものの、どの店でも断られました。

 北海道に入ると、時期は11月末だったのですでに、雪がちらつきはじめ、結局は日本の
最北端の稚内までたどりつき、そこから島へフェリーで渡ったのです。
余りの寒さとそびえる雪山の吹雪いている山頂を眺め、結局怖じ気づいてしまって
自殺を実行することはしませんでした。それだけの強い意志が無かったからでしょう。
泊まった民宿で飲んだ冷たい水のうまさが、民宿のおばさんたちの心優しさと
ともに今でも忘れられません。

 ただ、その後の数年間は心の中には常にいつかきっと自殺することでこの世と
おさらばしたいと思い続けていたのは確かです。いつから自殺という言葉が意識の
片隅から消えていったのかは、今となっては覚えていませんが
、それで良かったの
でしょう。私も大人として一人前にすれていったということもあるでしょう。
私が家出をしてから両親に連絡をしたのは約1年後でした。父親はあきらめかけて
いたようでしたが、母親は必ず生きていると信じていました。

 息子が家出をして1年間、両親の悲しみや気苦労、嘆きなどを私が理解するのには
随分と長い年月がかかったように思います。今思えば、自殺を実行できるほどの強い
意志が無かったことに感謝しています。仮に、自ら産んで大きく育てた我が子が自殺
したとしたら、母親の嘆きは尋常ではすまないでしょう。自分自身の責任ととらえ、
拷問を受けるような悲しみを引きずることになったかもしれません。我が子がどれほど
できが悪くてもです。

 いつの間にか、50歳が間近に迫るこの年齢になって、私もようやく親心のようなものを
理解できるようになったようです

 若者が生きる目的や夢が見つけられない、生きている価値がないなどと深刻に
悩み、心の苦しみに時には押しつぶされそうになっているのは、極めて自然であり、
私からすれば健全とさえ思える。

 今回もだいぶ長くなってしまいましたね。ただ、30年ほど前に似たような心の
迷いをやりすごした者の体験談として読んでもらえれば結構です。
フィリピンの先住民取材での赤ちゃん誕生撮影に関する話を書くつもりでいた
のですが、この次にしますよ。

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2018年12月 7日 (金)

2005年11月10日:火葬場で焼身自殺した福井の老夫婦に思う(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 夕食後、近くの店でビギンの中古CDを買い、「涙そうそう」を聴いたら涙があふれてきた。ラジオで聴いてもなぜだか条件反射のように目頭が熱くなってしまう素晴らしい曲だが、今日は2-3日前の老夫婦の自殺のことが思い浮かんで仕方がなかった。7日の午後、福井県大野市の火葬場で焼身自殺した80歳と82歳の老夫婦のことだ。

 テレビのニュースでショッキングな内容に息もつまりそうだった。「老老介護」の果ての無理心中に、あまりのやるせなさと悲しみに、連れ合いと線香を焚いて老夫婦の冥福を祈った。しかし、すこし心が落ち着いてみると、単なる自殺では片づけられない、夫の逝き方への強い意志が感じられ気になりはじめた。

 今朝の日刊スポーツによる続報では、子どもも身寄りもない夫婦で、夫が妻を近くの病院によく連れていったり、オムツの取り替え、掃除洗濯を全部やっていたようだ。妻は数年前から痴呆の症状が出ていて、夫も体調をくずし病院通いだったという。地元の警察は、妻の介護生活に疲れた夫が、将来を悲観して覚悟の心中だったと見ているとあった。

 「遺産は全て市に寄付します」と夫が署名した遺言状は、8日に大野市役所に届いたが、約1年前に作成されていたという。用意周到な準備と夫婦そろっての死に方を選んだ決意が、最初から揺るぎないものだったことがうかがわれる。

 それにしても、火葬場の焼却炉を内側から閉めて焼身自殺を実行するとは、そのための準備をする夫の一連の行動を想像するだけでも、胸が詰まってくる。意識がしっかりしたままの二人が、熱い炎で身体が焼かれ意識がなくなるまで耐えることができたのだろうか。まるで葬送曲を流して心を静めるかのように、車からはクラシック音楽が大音量で聞こえるようにしてあったという。 

 優れた小説家でも思いつかない方法で老夫婦は向こうの世界に渡る方法を実行してしまった。
 子どもも身寄りもない老夫婦には、頼れる友人もいない「孤立した」ような生活を送っていたのかもしれない。それにしても、最期の時の迎え方の潔さには、何か強い信念のようなものさえ感じることができる。自分の最期は自分でコントロールし、誰にも迷惑をかけないぞというような

 今朝、ヨルダンでは自爆テロで60名近くの人が殺された。一週間前のイスラエルでは、12歳のパレスチナ人の少年がイスラエル兵に頭を撃たれて殺害された。先月のパキスタンの大地震では8万人が亡くなった。どれも自分の意志で選び取った死に方ではない。

 福井の老夫婦の焼身自殺は、追いつめられた結果として選んだ死槐に方とは思えないのだ。強い意志で決断し、潔く実行しているところにすさまじいものを感じてしまう。

 二人は60年前の戦争を生き残ってきた、最も苦労してきた世代だ。青春時代を戦地にかりだされたかもしれない夫は、どんな体験をくぐり抜けてきたのだろうか・・・

 大野市のホームページを見たら、二人が彼岸に渡った日は、大野市と和泉村が合併して新大野市が誕生した日だった。

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