空爆を考える基礎知識(宗補雑記帳からの復活ブログ)
2009年1月31日 空爆を考える基礎知識
この時期、火事で焼け跡から家族4人の遺体が発見されたというニュースで胸が締めつけられることが多い。昨夜は強風が吹き荒れ、近くで火事でも起きたら誰しも延焼が心配で気が気でないだろう。かつて東京大空襲により推定10万人が一晩で焼け死んだ夜も、風速10mをこえる北風が吹き荒れる日だったようだ。
先日、江東区にある東京大空襲・戦災資料センターに初めて出かけた。公共施設だろうと思いこんでいたのだが、民間の施設だと知って驚いた。受付で300円の入場料を払うと、一人の若者が丁寧にガイドしてくれた。いろいろ話しているうちに、まだ20代としか思えない若者がアジア・太平洋戦争全般についても、やたらと詳しいことに驚いた。ガイドというよりも、博物館のキュレーターのような役割だ。
私は写真を仕事にしているためか、ビジュアルに情報が入ることで物事の深刻さをようやく理解する傾向がある。資料館は広いスペースとはいえないが、地図、写真、遺品、生存者による絵画、米軍が投下した焼夷弾の実物などが効果的に展示されていて、ビジュアル的に大いに刺激され、東京大空襲の際だった残酷さと、想像を絶する規模の大量殺戮に考え込まざるをえなかった。
孤高の前衛書家である井上有一が東京大空襲を奇跡的に生き延びたことについては、以前に雑記帳で触れたが、彼が書いた畳一枚くらいの大きさの作品コピーも展示してあった。「噫(ああ)横川国民学校」と題した書で、1945年3月10日の「江東一帯焦熱地獄」を書きなぐった内容だ。井上有一の書が東京大空襲をビジュアルに伝えるものとして堂々と展示されていることに親近感を覚え、展示の方向性に共感した。公立ではないことによる視点の確かさ、人間味なのかもしれない。
数多くの遺品を収めたガラスケースの中に、一際目に飛び込んできたのが、巻物状の死者リストだった。縁の一部がネズミに食われたようにボロボロになっているが、冒頭には「南無阿弥陀仏」と書かれ、死者一人一人の名前を墨で丁寧に書き出してある。一つの苗字で4人5人と名が連ねられてあることが状況の深刻さを想像させた。
ガイドの若者と戦争や空爆についての論議をしているうちに閉館時間が迫り、展示を充分見ないままいくつかの資料を購入した。戦災資料センター発行の資料や館長を務める作家の早乙女勝元氏が編著した「写真版 東京大空襲の記録」と「東京大空襲 訴状」(東京大空襲訴訟原告団・東京大空襲訴訟弁護団発行)などを買い、受付の方から東京大空襲の遺族で両親を含む家族4人を失い、自らは助かったものの米軍機の機銃掃射により右腕をもぎ取られた豊村恵玉さん著の「みたびのいのち 戦禍とともに六十年」(文芸社)を無料でいただいた。
ここで東京大空襲についての基礎知識を、早乙女さんの著書や戦災資料センターが発行した資料から簡単に整理し記憶しておきたい。今日まで持ち越されている日本の姿がよく見えてくるからでもある。
1944年8月までにマリアナ諸島の日本軍を全滅させた米軍は、サイパン、グアム、テニアンの3島を日本本土の空襲の出撃基地として整備し、準備を整えた。航続距離5000㌔、6~7㌧の爆弾を搭載できるB29の大編隊で本格的な空襲を開始したのは11月24日からだ。当初の攻撃目標は武蔵野にあった中島飛行機工場などの軍需工場が主で、日中に上空1万㍍の高度からの爆弾や焼夷弾の投下した。11月中に3回、12月中に12回、1月中には8回空襲している。
しかし、3月10日の東京大空襲は異なった。風速10mをこえる北風が吹いていた。防空体制が機能しない夜間を狙いすましたように、高度3000㍍以下の超低空で進入した325機のB29は、皇居の東側の下町で人口超過密地帯をターゲットにし、焼夷弾の雨を降らせた。零時8分に始まった、2時間半の空襲により、現在の墨田区と江東区、それに台東区と荒川区の大半を焼き尽くした。約26万7千戸が焼失し、罹災者数は100万名をこえ、推定10万名が焼死した。
広島の原爆に匹敵するほどの被害をキーワードで拾うとこうなる。大火流、火災旋風、とてつもなく大きな火のるつぼ、白熱地獄、死体の炭化などだ。夥しい数の黒こげとなった死体が累々と横たわる写真が残されている。空襲後に引き上げるB29の乗員が約240㌔離れた上空から真紅の光芒を見ることができたそうだ。
米軍による無差別の空襲は8月15日の敗戦の日まで執拗に繰り返され、東京に空襲があった日を合わせると99日。死者総数は116911名(東京新聞1994年8月の調査による)を数える。
日本全国での空襲による死者合計は、広島と長崎の原爆死者数33万4千名を含めると、約56万名となる。これは東京大空襲規模の空襲が5回繰り返されるまで、天皇をトップとする大本営の戦争指導者が戦争が徒に引き延ばした狂気を表す数字だ。
室蘭436名、青森906名、仙台1066名、日立1578名、前橋538名、千葉945名、横浜8000名、長岡1460名、福井1584名、甲府1127名、静岡2010名、浜松3239名、名古屋7858名、豊川2477名、津4000名、大阪12000名、神戸8414名、明石1464名、和歌山1212名、岡山1737名、呉2071名、徳山982名、岩国917名、徳島1700名、高松1359名、高知487名、福岡2000名、八幡2251名、大牟田1291名、佐世保1030名、熊本599名、鹿児島3329名、那覇548名。
これらは東京と広島・長崎を除く、主要都市の米軍空襲による死者数である。米軍による戦争犯罪を問うだけでなく、何故これほどまでに空襲が続いたのか、米軍が日本本土を自由自在に空爆できた戦況に、原爆投下まで敗戦を決断しなかったのは何故なのかを疑問に思わない人はいないだろう。
政府は国民の命を見殺しにしただけではなく、戦後、東京大空襲の被害と犠牲者の正式調査もせず、公式慰霊碑を建立せず、被爆者とは異なって民間空襲戦災者は援護対象外としてきた。「みたびのいのち」を書いた豊村さんは、「落下爆弾が違うだけで、犠牲の尊さが違うのですか」と政府の姿勢を問いただしている。3月24日の名古屋大空襲により左目を失い、左手に後遺症を負った名古屋の杉山千佐子さんは、37年前から「戦災障害者援護法」の制定を国に訴えかけてきたが、実現していない。
東京大空襲をはじめ、日本本土の焦土作戦を立案・指揮したのはカーチス・E・ルメイ将軍ということはよく知られている。しかし、ここに日本政府と日本人のあり方を問うポイントがある。1964年の12月、東京オリンピック終了後の時期に、天皇と日本政府(佐藤栄作首相)は、ルメイ将軍に勲一等旭日大綬賞を授与したのだ。「航空自衛隊の育成に貢献した」からだという。この勲章受賞者は、主に湯川秀樹、朝永 振一郎、小柴昌俊などのノーベル賞受賞者や、本田宗一郎、豊田 章一郎などの面々が受けている。
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