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2019年8月の投稿

2019年8月28日 (水)

92歳の岡部仁子さん、満蒙開拓団、ソ連参戦、八路軍行軍の戦争体験を語る。

(写真はクリックすると拡大します)

_yyy9060web 平和のための佐久戦争展が無事に終了したことは昨日の投稿でお伝えしましたが、「あの夏を語る」企画で講演された92歳の岡部仁子さんの極めて稀な戦争体験と今の社会情勢についてのコメントは独立した投稿として扱った方が多くのみなさんの目に止まる可能性が高いので、写真も追加して改めて掲載しますので、ぜひお読みください。
(岡部さんは軽井沢町在住。なお、聞き手は望月町在住で長野県高齢者生活協同組合東信ブロックの東誠子さん)

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 体験談の前に予備知識として以下のことは知っていて損はありません。
国策として関東軍が占領し国土とした満州(中国東北部)の大地に全国から送り込まれた満蒙開拓団・青少年義勇軍総数は約27万人。死者は約8万人。死者の多くが女、子ども、老人だ。送出県としてダントツの長野県は33741人を送り、死者は約15000人。死亡率は約45パーセント。

 岡部仁子さんは11歳の時に両親と共に長野県の東信地域にある佐久穂町の大日向村分村移民として満州に渡り、開拓団で葉タバコを作っていた。16歳の時にハルピンにいた姉の姉の元に行き、関東軍の軍属として就職し敗戦まで二年間働いた。

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 苦難な人生は1945年8月9日のソ連参戦後から始まった。日本軍はソ連軍の参戦を予想した布陣として、主要部隊を朝鮮半島の付け根まで下げていたことと、兵隊不足を補うために日本軍は開拓団の主な男子を敗戦の年に入ると根こそぎ動員したため、男手が開拓団にほとんどなかったことが悲劇を生んだ。

 ソ連軍が都市部占領後、岡部さんは前途を悲観したある軍人一家が凄惨な自決を図ったのを聞いた。その将校は家族の首を斬ってから自分は銃で自決したという。また別の母と三人の子どもの家族は母親が嫌がる子どもたちにも青酸カリを含ませて自決を図ったところ、小学校5年の兄が自分の口と弟の口から青酸カリをかきだして死ぬことを思いとどまったが母と妹の二人は苦しんだ末に死んでしまったという。

 ハルピンに入城してきたソ連兵は囚人の集団だったという。略奪が目的で、武器を集めた後は楽器、お金を集め、夜になると目をつけていた女性を連れ去りに来たという。岡部さんのいた寮では3人の女性が連れ出され、一人は妊婦さんだったという。別のところでは一人の女性がみんなの身代わりになり、自らソ連兵について行った人もいるという。岡部さんもソ連兵に襲われ連れ出される寸前まで追い詰められたことがあり、その時は隠してある時計とお金を差し出してかろうじて難を逃れたそうだ。

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 また、生き延びるためにソ連兵のためのアルコール製造の仕事もしたという。長屋がインチキな酒屋となっていて、昼に夜にアルコールを瓶詰したという。

 ソ連撤退後にはハルピン郊外で二ヵ月の約束で八路軍の看護婦見習いとして傷病兵を介護したが、数か月後には正看護婦にされ、中国共産党(八路軍)と蒋介石率いる国民党との国共内戦の前線を従軍することになり、マイナーな傷を処置する役割を果たしたという。

 二ヵ月だけという約束が守られずに脱走する計画もあったというが、計画は発覚。その後にストライキがあり、日本人の待遇が改善され、白米と天ぷらが付き、軍票も出ることになった。八路軍との行軍は中国南部の南寧まで続いたそうだ。南部では日本人を優遇してくれ白米が毎日出たという 岡部さんは敗戦から帰国するまで8年間を中国共産党の軍隊と共に行軍する生活を送り、結婚することになる山梨県出身の男性とも巡りあった。

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「戦争はいちばん醜いこと。国と国とが争い、人と人が争い、殺したり殺されたり。満州に渡った私たちは軍国主義の手先として使われた」
「戦争は二度としたくないです。今の政府のお偉いさんは戦争の経験がないので、第9条をなくすとか何とか言ってますが、それには断固反対です。どうしても平和な日本を作っていきたいです。その一人として及ばずながら頑張っていきたいです。今日はこの場をいただいたのでありがたく感謝します」

 

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 なお、長野県満州開拓誌名簿編によると、大日向村分村移民の戸数は216戸、人員は796人となっている。岡部さんのお名前も両親のお名前と共に確認できた。お母さんは発疹チフスで敗戦翌年二月に病死したことになっている。
ちなみに、同名簿から死亡及び戦死者数を数えると398人となった。大日向村分村移民の五割が死亡したことになる。長野県の開拓団の死亡率は大日向村よりもひどいところもたくさんあることは知っておいた方がいいだろう。それほどまでに集団自決死に追い込まれた開拓団は多く、その多くがソ連国境に近い一帯に配置されていたことから、「開拓団は関東軍に守られるのではなく、関東軍を守るための配置だった」と長野県満州開拓史は総括している。

 

 岡部仁子さんのお話は、まさに平和のための佐久戦争展に相応しいものだった。講演終了後、岡部さんは立ったまま、参加者に向かって深く手を合わせて感謝の気持ちを込めお辞儀した。

 

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