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2018年12月16日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論掲載、宗補ホームペーよりの復活ブログ)

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。

 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。

 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。

 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。
 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。

 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重ぐるしい雰囲気はない。

 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。

 「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。

 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。

 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。

 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。

 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。

 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。

 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。

 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。

 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 
義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。

 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。

 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。

 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている。

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