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2018年12月の投稿

2018年12月27日 (木)

インド「カーランジー村仏教徒一家殺害事件」について(2006年、宗補ホームページよりの復活ブログ)

 今年9月末にインド中部の村で起きた仏教徒一家4人殺害事件がきっかけで、インド中の仏教徒が抗議デモを各地で展開し、それに対抗したカースト差別事件が頻発し深刻な社会問題が起きている

 この殺害事件は、たまたま私が佐々井秀嶺師を密着取材期間中に起きた。ムンバイ(ボンベイ)でカースト差別の具体例を取材中だった私は、仏教徒の人権活動家からこの殺害事件を知らされ、夜行列車でナグプールに戻り、10月中旬に事件が起きた村とただ一人の生存者である父親を取材した。明らかなカースト差別により起きた殺害事件は、インド仏教徒の聖地であるナグプールとその周辺一帯では珍しく、事態は深刻だったが抗議デモがその後にインド各地で暴動にまで発展するとは誰も想像していなかった。

 私は10月12日に現地取材と生存者取材をしたが、事件のあらましは次の通りだ。

 仏教徒一家4人が殺害されたのは2006年9月29日の夕方、ナグプールから車で2時間のバンダーラからさらに車で30分の田舎町、カーランジー村で起きた。一家4人が多数の村人にリンチされ殺害された。遺体は村の外にある用水路に捨てられているところを発見された。取材当日に町中でクリニックを開業する仏教徒の医師から入手した遺体の記録写真を見ると、母のスーレカ(35歳)は赤いサリーを身につけていた。娘のプリヤンカ(17歳の高校生)は全裸だった。二人の息子、21歳のスディール(身体に障害を持つ)と18歳のローシャン(大学生)は下着のみの状態だった。いづれも、激しい殴打を物語る紫色に変色した痕跡が顔だけでなく体中に見られた

 幸運にも父親のバヤ・スダム・ボッツマンゲ(41歳)だけが一人生き残った。彼はたまたま家を留守だったために、村人に捕まることなく助かったのだった。おぞましい事件は一見静かで平和に見える村の入り口にある広場で起きた。ポンプ付きの井戸、小学校の建物や村のコミュニティセンターもある広場だった。私が村を訪れた時には、村人の姿はほとんど見当たらずに静まり返り、小学生が井戸に集まって水を飲んだり水を汲んでいる状態だった。

 村の中に警察がテントを張り駐留し、被害者のボッツマンゲ一家の家の前にも警察のテントが張られていた。ある種の無言の圧力がかかっているようだった。被害者の家は村の中でも明らかに粗末な作りで、入り口はカギがかけられ、誰もいなかった。生存者のバヤ・ボッツマンゲさんは、身柄の安全のため町にある政府の宿舎に保護されていた。

 その宿舎で仏教徒の人権活動家と地元のメディア関係者を前に、バヤ・ボッツマンゲさんが現れた。彼は数日間一睡もできず、食事も喉をと通らずに憔悴しきっていた。家族全員を失い生きる気力はないようだった。「求めるのは正義だけだ」と、何とか証言してくれた。

 バヤさんの証言によると、出先から村に戻った彼は、村で起きている事態を知ると、隣村の警察まで走って報告し助けを求めた。しかし、警察官が村に到着するまで3-4時間が経過し、村人によるリンチ殺害事件は終わっていた。状況からして、子供らを含む大勢の村人が取り囲む中で、仏教徒一家の4人は棒やチェーンや鉈などで激しく殴打されたようだ。リンチによる惨殺だ。村人は息子たちに妹をその場で犯すように命令したが、息子たちが拒否したために性器を叩きつぶしたともいう。バヤさんは、警察がすぐに村に向かってくれれば、家族4人も殺されずに済んだに違いないと嘆いた

 カーランジー村は農村地帯にある約180家族500名ほどの村で、そのうち160家族がクンディ(クンビ)・カースト(4番目のカースト階級、シュードラに属す)。つまりヒンドゥー教徒だ。仏教徒は3家族だけだった。残りは指定カーストに属する少数民族だという。事件の背景には、不可触民から改宗した仏教徒を、ヒンドゥー教徒がいまでも不可触民扱いするカースト差別感情が明白だった。事件の直接の動機は、村人が仏教徒のボッツマンゲ一家の土地の所有を妬んだことにあるようだった。土地の所有権問題で訴訟があり、別の仏教徒(シッダルダ・ガジビエ一家)の証言により村人15人が逮捕され(実際は一時的に身柄を拘束されただけのようだ)、釈放されたその日に、村人が報復した結果が一家4人殺害事件だった。当初は村人に不利な証言をしたガジビエ一家が報復対象だったらしく、たまたま留守だったのでボッツマンゲ一家が血祭りにあげられたようだ。 

 ボッツマンゲ家のはす向かいに住む少数民族の一家は、事件の一部始終を知っていると言ったが、恐怖心からそれ以上話すのを拒否した。殺害事件に関与した村人が自分に不利な証言をするはずもない。警察の存在は殺害を実行した村の多数派に味方しているかのような存在に思えた。実行犯が特定しにくい惨殺事件で、解決が困難に思われた。また、仏教徒に限定しなければ、下層民衆がカースト差別により殺されたり不利な立場に置かれているのは、他の州では頻繁に起きていると思われるため、この仏教徒一家殺害事件が格別に大きな社会問題になるとは想像できなかった。

 しかし、カーランジー村仏教徒一家殺害事件は、アンベードカル博士による集団改宗50周年を祝うタイミングに起きたため、新聞で初めて報道されるまで10日間ほど経過していた。ナグプールやマハーラシュートラ州のメディアで詳細が報道されると、ふだんからカースト差別に耐えている仏教徒の積もり積もった怒りに火をつけた。犯人がなかなか逮捕されず、明白なカースト差別による虐殺事件に対し、共産主義を掲げる反政府武装勢力ナクサライトが関与しているなどというデマがメディアや政治家によって広まり、そうしたことが相乗効果となって各地での抗議デモが暴動に発展したようだ。加えて警察による鎮圧で死傷者が続出したりで、大きな社会問題となっている。イギリスのBBC放送も、この事件を取材し11月中旬に報道した。

 佐々井師に電話すると、仏教徒に落ち着くようにメディアを通じて呼びかけているそうだ。しかし、仏教徒の抗議デモに対抗するかのようなアンベードカル像の首を切り取るような事件も起き、沈静化には時間がかかる印象を受けた。佐々井師はシン首相に面会し、殺害事件の早期解決を求めるためにデリーで待機していた。

 カーランジー村仏教徒一家殺害事件は、アンベードカルによる集団改宗50周年に起きた、仏教徒に改宗してもカースト差別や下層民衆に対する人権弾圧の根が深いことを証明する、歴史的に象徴的な事件となっていることを物語っている

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2018年12月25日 (火)

舞踏家大野一雄の口上:1999年6月韓国竹山ジョクサン舞踏講演中

 100歳を超えても踊ることを止めなかった世界的舞踏家・大野一雄さんの韓国公演の取材をした時、屋外での舞踏の最中に大野さんの動きが完全にフリーズしてしまい、右腕を挙げたままその場に立ち尽くし、独り言を話始めた時に、舞台の袖まで近づき、思わずメモった時内容をここに紹介したい。

 1999年6月、韓国の竹山(ジョクサン)で開催された舞踏フェスティバルでのことだ。朝鮮戦争時の激戦地となった谷合が会場となり、観客の大半は韓国の人々だった。

                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「太平洋のニューギニアの方に一万人以上の人が流されまして、そして、食べ物も十分でなくて、死の直前に至るまで奥地に奥地に流され、食べ物もなくなってしまったような時、たくさんの人が亡くなりました。私はその責任者で、・・・。

 ・・・下の下の下の置き去りにされまして、・・・。
 毎日毎日たくさんの人が亡くなりました。私はかわいそうでかわいそうで仕方がなかった。しかし、自分の力ではどうにもならなかった

 ・・・の迎えによってくる時、クラゲのような・・・がたくさん集まってきた。太平洋の真ん中で、何とかしてみんな一緒に帰りたいという気持で・・・・。人が死ぬごとにひとりふたりと死んでいった。

 ・・・のまくられて、船の・・・ところから海に向かってドボンと海中に放り出される。ボッと悲しい音を出しながら死んで投下され、その人たちの霊を弔うために、一万トンの船がぐるぐる回ってお別れ・・・

 海に投下された人たちの・・・何とかして日本に帰りたいと思って・・・帰ることができました。

 私は日本に帰って何とかクラゲのダンスを何とかしようと思った。太平洋・・・とともにし、たくさんの人たちが悲しい歌声を聞きながら海の底に沈んでいきました。クラゲのダンスをして失われた命はもとにかえりませんでした

 その回りを3回ぐるぐるお別れして、長い間、命が海の底に死んでいくその人のために弔い行事を。
 悲しくて悲しくてどうにもならなかった、仕方がなかった。というようなことを何度も何度も経験してきました。
 日本に帰ってからもたくさんの人たちと死者を弔いながら、ごめんなさいとお詫びしながら日本に帰ってくることができました

 お詫びのしようもなくて悲しくて悲しくて
 
そんなよう・・・踊りますよ、そろそろ。
私の息子、私に踊れを命令が出てきます。

(・・・部分は解読不能か走り書きない部分)

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(注)大野 一雄(おおの かずお)さんは1906年(明治39年)10月27日の生まれ。 2010年(平成22年)6月1日に没した。
 1938年に召集され、九年間を中国、ニューギニアで送った。

・大野一雄舞踏研究所のホームページから下記のプロフィールを引用させていただく。

「大野一雄の第一回現代舞踊公演は、1949年、東京の神田共立講堂で行われた。このとき43歳、これが最初のリサイタルだった。ニューギニアのマノクワリで終戦となり、1年間の捕虜生活のあと復員し、すぐに舞踊家としての活動を再開した。「クラゲの踊り」という踊りを50年代の公演のときに踊っている。ニューギニアから帰る航海の船上で、栄養失調や病気で亡くなったひとたちを水葬して見送った体験から、そのときの海に浮かぶクラゲの踊りを踊りたかったのだという

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2018年12月16日 (日)

「老いや死を直視する術を見失った日本社会」(神奈川大評論掲載、宗補ホームペーよりの復活ブログ)

年々身近になる死
 ここ数年、喪中はがきを受け取ったり出したりする機会が急に増えた。本人の自覚とは裏腹に昨年五〇歳となった私の回りでも、年を追うごとに死は身近な出来事になってきた。自分自身の老いに対する心の準備もそろそろ必要だが、親や家族親族の死、時には友人の死など、毎年のように避けられなくなってきた。

 私の場合は、昨年末に妹の義父が亡くなり、二年前には連れ合いの父親が病死した。二人共に八〇歳をこえ病院で死を迎えた。実兄はガンとの闘病の末、三年前に四九歳で亡くなった。「老い」や「ホスピス」のテーマをコンビを組んで取材した友人のジャーナリストが五〇歳を目前に長野県の自宅で急逝したのは一年前の三月で、ブッシュとブレアがイラクを一方的に空爆し始める前日だった。『こんな死に方してみたい--幸せな最期を迎えるために--』(角川書店)が彼の最期の著作となった。

 信州の田舎で一人暮らしの母は、腰が九の字に曲がり、押し車が無ければ歩くことがままならない。それでも毎日のように畑に出かけ二〇種類以上の野菜を育てる生活を変えない。老いた母は今年八四歳になり、白内障の手術をしたばかりだが、かなりの電話番号を記憶し、冬季は今でも大正琴を近所の同年代のおばさんたちに教えている。
 長寿大国日本の田舎には多数の老いた男女が、一人暮らしであっても結構元気に暮らしている。とはいえ、身体を動かすことが年々辛くなる母は、「身体が動かなくなったら生きるのはもうたくさん。ポックリ死にたい」と口癖のように言う。本気だ。だが、息子としては呆けていないことに感謝しつつ、その時が来るのはできるだけ延ばしてほしいと願う。

 日々、老いや死を自覚する老人たちよりも、実は回りの者の方が老いや死に対する心の準備が足りないのが現代社会に生きる我々に欠けていることではないのか。それは科学技術の進歩にどっぷりと依存した生活に浸かり、ある単純明解な真理を忘れ始めたためのような気がする。

インド:「死者の家」
 フォトジャーナリストの仕事がら、海外の取材先では様々な死の姿と遺族の反応を取材することが多く、他の人よりも死に対して感覚が鈍くなっているところがあるような気がする。フィリピンの山道で父親の腕に抱かれたまま目の前で静かに息を引き取った少年。町の病院に向かう途中だった。湾岸戦争後のイラク北部のクルド人地域で、下痢が止まず衰弱し老人顔になって死を迎えつつあったクルド難民の赤ちゃん。不条理な死に強い悲しみや怒りを覚えることが多いが、ここでは老いにまつわる死を迎えた事例について触れてみたい。

 一口に「老い」、「死」と言っても、当たり前のことだが十人十様の老い方があり死の迎え方がある。家族の心構えも異なる。それらは、信仰や伝統的な慣習をベースにした価値観、死生観によっても一様ではない。
 たとえば、インドの敬虔なヒンドゥー教徒にとっての死の迎え方はどうだろうか。ヒンドゥー教徒の聖地バーラナシー(ベナレス)では、大河ガンガーの岸辺の焼き場で日々数百人を下らない死者が薪で火葬される。料金の安いボイラーの火葬場も近くにあるが人気は低い。いづれの方式でも遺灰はきれいさっぱりとガンガーに流され、火葬場のすぐ下流では数え切れないヒンドゥー教徒がガンガーの聖なる水に浸かって沐浴し、身も心も清らかになったような表情をしている。

 焼き場に向かう迷路のような細い路地を歩いていると、原色のマリーゴールドの花輪で覆われた遺体が、五-六人の男たちの手によって次から次へと担がれ運ばれてくる光景に出会う。時には大きなかけ声をかけあい、軽そうな遺体を御輿のごとく上下に上げ下げする一団もいる。少なくとも、日本で火葬場に運び込まれる時のような重ぐるしい雰囲気はない。

 かけ声はラーマ神を讃えるものらしいが、勝手な解釈が許されるならば、「ガンガーにもうじき着くよ、やっと着くよ。もう少しの我慢だよ」というようなかけ声が、死者にかけられているような気がするほどだ。バーラナシーで伝統的な火葬にされ、遺灰をガンガーに流してもらうことがヒンドゥー教徒にとって最善の死に方なのだ。

 市内には「ムクティ・バワン(解脱の館)」と呼ばれる「死者の家」がある。バーラナシーで死ぬために地方から来たヒンドゥー教徒の宿泊所のようなところだ。決して裕福には見えない死期を悟ったような老人が、家族や親族の手で運びこまれ最後の日々を送る。

 「来てすぐに亡くなる人が多いが、二週間ぐらい生きている人もいる」と管理人は言う。
 七〇歳になるジャガルパ・デビさんはバーラナシーから一五〇キロ離れた田舎から甥たちが連れてきた。数年前、夫がこの館で死を迎え、デビさんも同じ逝き方を希望したという。粗末なベッドがひとつあるだけの部屋で、静かに横たわる老女。小さな窓から日差しがかろうじて射し込む薄暗い部屋に緊張感は漂うが、大病院のホテルのような病室に不治の病の患者が横たわるような沈鬱な空気とは質が異なる。

 館に着いてからデビさんは一切の食事は摂らない。ほとんど身動きしない叔母に、甥がスプーンで水をのどにたらし込む。ガンガーの水が糸を引くように老女の口の中に注がれる。彼らにとっての聖水は、命の残り火を燃焼させ、雑念を洗い流してくれるのかもしれない。時おり、館につめるバラモン僧の祈祷と鼓を叩いて鳴らす澄んだ音が館内に響き渡る。それ以外は、「ムクティ・バワン」の空気は静かに止まっている。

 デビさんのように、自らの死に場所と死に方を選ぶことができるヒンドゥー教徒はそれほど多くはないだろう。しかし、「死者の家」での死を選ぶ信者にとっては、おそらくそれが最も尊い一生の締めくくり方で、何にも増して大切な儀式となっていると思える。

 火葬された肉体は大河の自然に還る。その一方で、苦しみ多き現世に魂が二度と戻ることのない解脱の時を迎える空間が「ムクティ・バワン」であり、死にゆく本人も、刻々と死に近づく姿を見守る家族にも、その時を迎える心の準備を整える空間となっているのではないだろうか。「ムクティ・バワン」にやって来る者には揺るぎない信心からくる究極の潔さがある。
 
フィリピン:通夜と葬式とばく
 ではカトリック教徒が人口の大半を占めるフィリピンではどうだろうか。ここでは庶民のしたたかな生き方が、独特の死者を追悼する慣習となっている光景がおもしろい。簡単に言うと「葬式とばく」の習慣だ。

 三〇〇年以上に渡りスペインの植民地だったフィリピンは、人口の八割がカトリック教徒。国民の七人に一人が集中する首都圏マニラには、スラム街がそこら中に拡散している。中でも最大のスラム街、トンド地区には約三〇万人が暮らす。

 夜のスラム街。舗装のはがれた路上のあちこには水たまり、ドブの臭いが漂う。ある民家の軒先には裸電球の薄明かりの下に二〇-三〇人の人だかりがあった。日本で言えば縁日の夜店の雰囲気だ。畳一畳ほどの台上には、四つ折りにされた一〇ペソや二〇ペソ、一〇〇ペソ紙幣までもが賭けられ、近所の人々が「サクラ」という呼び名の絵札合わせに興じていた。一ゲーム一〇〇〇ペソ以上の現金が飛び交っていた。ちなみに、取材当時のペソの価値は、国産タバコ一箱二〇ペソ、安食堂での食事は五〇ペソ、一〇〇ペソあれば米が五キロは買えた。

 勝負の度に一喜一憂する男たちはTシャツに短パン、女たちはムームー姿の普段着で、子どもたちものぞき込む。本来は法律違反の賭け事だが、フラッシュを使い写真を撮っても、顔を隠す人はいないし怒る者もいない。

 ところが、この人だかりから壁一枚を隔てた民家の居間には、白いりっぱな棺が安置され通夜が営まれていた。棺の蓋は開けられ、ガラス越しには男性の正装であるバロン・タガログ姿で死に化粧を施された白髪の老人が横たわる。八七歳で大往生したビセンテ・ナルシソさんだ。フィリピンではかなり長寿だ。八五歳になる未亡人や孫を含めた家族が狭い部屋で寄り添うが、ビセンテさんが天寿を全うしたためか、厳かではあってもしんみりと塞ぎ込んだ雰囲気ではない。

 二階部分も含めた借家に三世代一一人が同居するというスラムの典型的な家族。棺も含め遺族の記念写真を撮った時も明るい表情で良い記念になるといって喜んだ。ラテンの気質なのか、生まれた時からのカトリック信仰が無意識に刻み込まれているのか、一家の長の死を家族は落ち着いて受け入れていた。まるで死者は必ず約束された天国へ導かれると信じきっているようだった。

 庶民の生活の知恵とはよくしたもので、「葬式とばく」の胴元は警察に賄賂を払い、さらに勝ち分の一割程度を遺族に香典として還元するのが習慣となっている。つまり「葬式とばく」が庶民にとっては大金がかかる葬儀費用を捻出する役割を果たしている。通夜は一週間ほど続き葬式とばくが連日行われるのが一般的で、遺族は二四時間遺体に付き添う。物心ついた幼児の頃からこうした体験を積み重ねると、ある種の覚悟が知らず知らずのうちにインプットされ、信心とともに強化されるのではないか。

日本:「湯灌の儀式」と癒し
 それでは日本ではどうだろうか。身近な事例だが、連れ合いの父である義父は八〇歳を過ぎても昼に夜にどこにでも自転車で出かける人だった。自分の不注意などはお構いなしのタイプだったので、何度か交通事故に会い大ケガもしたが懲りなかった。それでも元気なので家族は安心しきって、遅かれ早かれやってくる時の心構えを怠っていた。しかし、義父は老化による骨折を境に急に出かけることが少なくなり、正月が過ぎてまもなく入院し、三カ月あまりで他界してしまった。家族が死をすんなりと受け入れるには早すぎた。
 
義父が入院後に病状の進行のためか急速に呆け症状が進行した時には、家族は皆うろたえた。お見舞いに行っても、意識が混濁したり妄想状態に陥る回数も増えた。家庭の事情から家族による介護は難しく、夜中にベッドから這い出し看護婦さんに迷惑をかける回数も増えた。「血液のガン」と呼ばれる病気だと診断され、老人専門の病院での治療を奨められ、長期入院で居づらくなった病院から転院することになった。

 都下の広い敷地を持つ老人医療センターへの転院は、暖冬のおかげで桜が満開の季節と重なった。義父に同行し転院先の病院に着くと、敷地は満開の桜の木々で埋め尽くされ、転院を歓迎しているようでもあった。ベッドに寝たまま介護車から運び出された義父を桜の枝の下で止め、義父の鼻先に桜の花をグイと押し下げた。「お父さん、桜の花よ。きれいね」と義母が声をかけた。口数の少なくなっていた義父は目を見開き、かすかに喜んだように見えた。

 転院から一〇日後、治療のための投薬を開始したばかりの義父は、入院治療生活を嫌がるように息を引き取った。八三歳だった。治療の成果に淡い期待をかけた家族は、しかし心の準備ができていなかった。私と義母には満開の桜を鑑賞する義父の姿が残されたが。

 それでも家族が救われたのは、葬儀センターで納棺の前に行われた「湯灌の儀式」があったからだった。誰もが初めての体験で、寝息をたて眠っているような安らかな表情でバスタブにつかる姿勢の義父の身体を、スタッフの手を借り家族が交代でお湯シャワーをかけながらタオルで洗った。現世での悩みやしがらみを義父から洗い落とし、清い肉体に戻してやるような行為は、実際には家族の心を癒した。義父の長男の小学生になる孫が綿棒で義父の唇に水をふくませる光景もやさしさに満ちていた。幸運なことに湯灌や孫の所作が悲しみを癒してくれたが、死を受け入れる心構えを心得ていたわけではなかった。

 身近な人の死を悲しみ慈しむ心に民族の違いも国境も貧富の差もない。それでも、老いや死の受け止め方には大きな違いがあり、貧困層が多数を占めるインドやフィリピンの事例で見る限り、信仰や伝統に根ざした死生観が受け皿として大きな役割を果たしている点は今の日本社会とはかなり異なる。

 健康は永遠ではなく、肉体は必ず老い、死は誰にも等しくやってくる。遠くインドから日本にもたらされた仏教の基本でもあるこの単純な真理を、日本人はいつからか忘れ始めた。経済成長と科学技術に依存する生活は、デジタル空間での擬似体験を積み重ねる世代を生み出し、命の価値を実感させることができない。差し迫った「老い」や「死」を直視する術も見失い、我々は心の拠り所を求め彷徨っている。

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2018年12月11日 (火)

2002年4月:説得力不足でしたので、生の声を~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2002年に書き込んだものです)

 具体的なパレスチナ人の生の声をお伝えしなくては説得力不足でした。

 イスラエル軍が侵略中のヨルダン川西岸の北端にある町がジェニン。イスラエル領に隣り合う地区だ。昨年11月、10年ぶりにパレスチナを取材したときには、ジェニンの郊外にある村に住むサエッド君(25歳)の自宅を訪問した。ジェニンと村の間を結ぶ幹線道路から間近に見える位置に、戦車が2両、畑の土に隠れるように置かれ、銃身は道路に向けられていた。道路は3ヶ月間封鎖され、前日にたまたま障害物が取り除かれたとのことだった。

 私はサエッド君に会ったのは彼が15歳の時。1991年当時の彼は東エルサレムにある「国境なき医師団」ベルギー支部から派遣された理学療法士が指導するリハビリセンターで、上半身の筋肉を使う訓練をしていた。運悪く彼がイスラエル兵の銃弾の直撃を受けたのは、中学生だった14歳の時。村の中にある学校を取り囲んだイスラエル兵が撃ったダムダム弾が、右腕に当たり、右の脇腹に食い込み、心臓近くを貫通し左半身の背中から身体の外へ飛び出した。そのため脊椎の損傷で下半身不随となっていた。(ダムダム弾とはジュネーブ条約で使用が禁止されている破壊力の高い銃弾だ。当時も今もイスラエル軍はダムダム弾の使用を止めていない。)

 リハビリ中の15歳のサエッド少年の瞳は、静かな悲しみをたたえていたのが印象的だった。その時の写真を元に、二つの病院で訪ね歩いて得た結果が、ジェニンに住むという情報だった。エルサレムを出発し、乗り合いタクシーを4度乗り換え、山道ではロバ馬車に乗り換え、ジェニンには6時間以上かかってたどり着いた。本来ならば自動車で2時間程度の距離だと思われるが、幹線道路も山道もイスラエル軍による検問所や障害物などで何カ所も遮断されているため、パレスチナ人の移動や労働の自由が奪われていたためだ。(現在のヨルダン川西岸はイスラエル軍の全面的展開で、移動の自由が利かず、取材が困難と推測します)

 25歳となったサエッド君は車椅子生活。新婚だったが、両親、弟夫婦と4年前に建て替えた家で暮らしていた。彼は細身で物静かな雰囲気は変わらなかった。その晩は彼の家に泊まらせてもらい、ラマダン中の特別夕食をごちそうになり話を聞いた。通訳は村に住み、ジェニンにあるパレスチナ自治病院で医師のインターンをしているサエッド君の友人がやってくれた。

 「戦争は何も解決しない。シンプルなパレスチナ人も、シンプルなイスラエル人も戦いを望まず、平和に暮らしたいと思っている。シャロンのような政治家だけがパレスチナ人と隣り合って暮らすのを嫌がっている。イスラエルの入植地はガンのようなものだ。入植者は元の所へ帰るべきだ。入植地の土地はパレスチナ人に返還されれば、お互いに戦うこともなく暮らすことができる

イスラエル政府もイスラエル軍もイスラエル国民の顔といえる。シャロンは国民によって選出されたのだから、シャロンもイスラエル軍も国民も一つの同じ輪だ

空や地下水が我々の自由にならなければ、国家の意味がどこにあるだろう。自分の土地での移動の自由がないのならば、国家の意味がどこにあるのだろう

 93年のオスロ合意以降、ヨルダン川西岸の主要都市がパレスチナ暫定自治区に組み込まれる一方で、イスラエル人入植地の新設拡張は進み、2万戸を越える新住宅が建設され、入植者数140、入植者数40万人となったという。占領地に入植地を建設することは、国連決議違反。ヨルダン川西岸もガザ地区も、入植地が虫食い状態にある現実のまま恒常的停戦と和平がもたらされるといえるでしょうか。

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2001年11月:パキスタン・ペシャワールから~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 前回、パレスチナの実状を書き込んだエルサレムを24日に離れ、26日からはパキスタンのペシャワールに来ています。ラマダン(断食月)はパレスチナ取材中から始まり、似非イスラム教徒として、朝食後から日没までは水も飲まず、タバコも吸わず、何も食べないで我慢する努力をしているところです。とは言っても、実状は朝食は7時くらいに食べ、さらにこっそりチョコレートやビスケットなどを時折食べたり、水を飲んだりしてしまうので、とてもラマダンを実行しているわけではないのですが。

 アフガン人があふれるペシャワールの宿は、コックやウエイターは全員アフガン人。パシュトゥーン人、タジク人で、経営者はかなり前からペシャワールに出てきたアフガン人。日没直後の食事は、ホテルの食堂にある大テーブルをマネージャーから警備も含めた使用人全員が集まり、モスクから流れるアザーンを合図に、待ってましたとばかりに食べ始めます。今日は金曜日、私も夕食に呼ばれ、みんなと一緒にミルクティー、ポテトのピリ唐揚げ、ナン、果物などをいただきました。今日は朝食後はティーを一杯、それにジュースを一口だけで何とか夕方まで我慢しましたが、どうも私はイスラム教徒にはなれません。

 パレスチナでは豪華なラマダンスペシャルの家庭料理を一度ごちそうになりましたが、ここのアフガン人は果たしてどんな夕食を家族で食べているのかが気になるところです。ついでに、この宿で働くアフガン人の給料は1500ルピー以下。100ドルが6000ルピーの交換レートなので、25ドル以下です。

 27日からはペシャワール会の活動と中村哲医師の取材撮影に取り組んでいます。中村先生は27日から12月3日までが、こちらのPMS病院に詰めながら、アフガン領内での援助活動の指揮をとり計画を練り、残りは日本での講演活動の日々を交互に繰り返すパターンができています。火曜日は疲れと睡眠不足がありありの表情で、言葉にも力がありませんでしたが、今日はかなり元気が回復した表情と雰囲気が感じられました。

 今朝ほど、ジャララバード北部のマラリア流行地域に向け、マラリア用の薬や寝袋などを積んだ車2台でアフガン人スタッフを送り出したところです。緊急食料援助活動は、ジャララバードとその周辺の治安が不安定なため、一時休止状態。通常の医療活動は続いているという話です。カーブルには国連機関などから大量の食料が運び入れられはじめたために、今後の食料援助は大きな援助機関の活動範囲外の地域に力を入れることになるようです。

 今日はようやく中村先生の医師としての現場をしっかりと病院で見せてもらいました。患者一人一人との対話と欠かさず、担当医師の所見なども確認しながら、ゆっくりと時間をかけて見て回る姿は、日本からここまで中村先生の現場の一部を見に来たかいがあることを実感させてくれました。中村先生よりも頭の位置が低いのはベッドの患者さんだけで、アフガン人とパキスタン人医師陣は小柄な中村先生を見下ろして、中村院長の説明に耳を傾けているのです。

 著書で想像した個性の強い人物を時折確認しつつ取材しています。ちなみに、タバコ好きの中村先生は、ラマダン中に外では絶対に吸わないそうですが、院長室はラマダンの時期でも影響されない部屋とされ、ミーティングや人に会う合間にタバコが欠かせないようです

 私は帰国まで10日を切りましたが、ジャララバードとカーブル間の治安が安定すれば、アフガン領内を是非見てこようとは考えています。

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2001年11月:10年ぶりのパレスチナ~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 11月12日からイスラエルに来て、10年ぶりにパレスチナ情勢を取材中です。今回の取材で、誤解を恐れずに極限すれば、イスラエルが国家テロの国だと断定してもおかしくないと改めて実感しています。こう書いても、おそらくこの国に来てパレスチナ人が1948年のイスラエル建国で国土を奪われていらい強要されている暮らしぶりを一目見るまでは、みなさんには信じてもらえない表現だと思っています。

 私は中東の専門家ではありませんが、ひとりのカメラマンとして短期間だけでも撮影、取材したことのほんの一部を紹介して置きます。

 昨日、パレスチナ自治政府が管轄するガザ地区(イスラエル南西部のエジブトとの国境周辺)にあるハンユニス 難民キャンプで、イスラエル軍が発射した砲弾の不発弾が爆発し、登校途中のパレスチナ人の子どもが5人、即死です。12歳から15歳の子どもたちです。その中のひとりが地面にあった爆弾を蹴ったために爆発したようです。

 私は今はエルサレムで取材中なので現場取材には出かけていませんが、地元のアラビア語の新聞は全て一面トップですが、イスラエルの「ハーレーツ」紙でさえ同様です。テレビニュースなどを見ても、地面に直径3メートルはある大きな穴が深く掘られるほどの破壊力です。子どもたちの身体もバッグも吹き飛んでしまったようです。

 現場周辺は先週のガザ取材で二日続けて撮影に出かけた場所です。イスラエル軍が最近は幾度となく深夜攻撃を繰り返し、前日あった国連のテントやパレスチナ人の住宅が跡形もなく壊されてしまうほど、日替わりで光景が変わってしまうほどパレスチナ人に対する攻撃を止めないスポットです。難民キャンプの一角ですが、イスラエル軍は隣接するユダヤ人入植地を守る口実で、あからさまな侵略を繰り返しているわけです

 パレスチナ側は自治警察が治安を守る任務を負っていますが、武器は自動小銃のみ。戦車砲や時には攻撃ヘリも動員し、ロケット砲やマシンガンなど使い放題のイスラエル軍とは最初から勝負になりません。一斉攻撃の仕上げが戦車のようなブルドーザーでパレスチナ人のコンクリートやブロック製の住宅を破壊しての更地化です。エジブトとの国境線のラファは、更地化がより一層進んでいます。イスラエル政府が一方的な戦争をパレスチナ人に仕掛けているのが現実です。

 別の事例をあげましょう。昨日、取材に出かけたのはキリストが誕生したといわれるベツレヘム。エルサレムから南へ20分。ベツレヘムとその周辺にある難民キャンプは、ちょうど一ヶ月前の10月18日から29日までの11日間、イスラエル軍によって包囲され、激しい攻撃を受けたところです。(この前例のない攻撃は前日の10月17日に、シャロン首相よりもタカ派と言われたゼエビ観光大臣がパレスチナ人によって暗殺されたことへの報復攻撃と思われています)

 この間、イスラエル軍は高いビルを占拠して、難民キャンプを包囲し、至近距離で昼も夜も発砲を続け、パレスチナ人を恐怖のどん底に追いやったのです。パレスチナ人の死者は22名、うちパレスチナ人警察官は4人。残りは17歳から57歳までの一般市民です。負傷者は146名。死者と負傷者全員がかつぎこまれたベツレヘム市内の病院の医療責任者の話を聞きましたが、驚きました。死者のほとんどが首、胸、頭への銃弾によるもの。4人の死者は家の中にいたにも関わらず、狙い撃ちされたといいます
「イスラエル軍は殺すために発砲したのは明かだ」と、パレスチナ人でクリスチャンのピーター医師は断言しました。

 昨年9月に第二の インティファーダが始まっていらい、パレスチナ人は再び大きな刑務所に隔離された暮らしです。というのは、パレスチナ自治区の西岸もガザ地区も、イスラエル軍により厳しい検問所がそこら中に設置され、封鎖されてしまったので、それまでイスラエル領内での職場へ通勤していたパレスチナ人が、のきなみ仕事と収入を奪われている状態です。ガザ地区の出入りが可能なのは、国連関係者、パレスチナ自治政府高官、外国人ジャーナリストくらいに限定されているほどです。やはり、現場に来てみないと想像できないほど、基本的人権も存在権さえも奪う占領と弾圧方法が巧妙に敷かれているのです

 中東の和平はパレスチナ問題の解決(ユダヤ人の国家と隣接するパレスチナ人国家建設)抜きには考えられません。国連決議さえ無視したままのイスラエルへの一方的な肩入れをするアメリカが、イスラム教徒の怒りを増幅してきた事実を見落とさずに、アフガン情勢とリンクして考えてください。ちなみに、2-3日前のアメリカ政府の和平への提案を本物と感じているパレスチナ人は見あたりません。いつも口約束でだまされてきた歴史があるからです。

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2001年11月:内なる凶暴な遺伝子~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 10月下旬の宮内さんの海亀日記、「内なる凶暴な(もしくは利己的な)遺伝子」、という表現へのこだわりが気になっていました。

 同時テロのように一気に多数の犠牲者が出る事件や戦争が続くと、死者の数を数字で表すことが空虚になり、実感が希薄になってきていることがかえって心配です。それは犠牲者一人一人の存在感がゼロのごとく扱われているためかもしれない。国政、県政レベルの議員連中も、多くの日本人も同じように現実感に乏しい世界に閉じこもっている。アメリカの同時テロの犠牲者6000人。6年前の阪神淡路大震災の犠牲者約6000人。日本に住んでいる者さえ、あの未曾有の大地震による無数の悲しみと都市の破壊を自分のこととできなかったのではとさえ思ったりもする

 私自身は想像力が鈍い。それゆえ、仕事に選んだ写真を撮る行為で、現場を踏むことで実態を伴わない数字が初めて現実味を帯びてくる。アフリカ内陸部の小国、ルワンダには4年前に取材に行ったことがある。国連の推計では少なくとも80万人が虐殺された。多数派のフツ族が少数派のツチ族隣人を襲い、わずか3ヶ月ほどの間のジェノサイドの結果だった。7年前の出来事である。政権を握るフツ族に影響力のあったフランス軍も、国連も虐殺のエスカレートを止めることのできた立場にあったはずだ。だが・・・・。

 聖域だった教会や、各地の学校に集められたり逃げ込んだツチ族やフツ族穏健派がフツ族政権の操る民兵らにより、銃殺されたり撲殺され、大量殺戮の場と化した。中部の技術学校の立ち並ぶ教室には、掘り出された白骨化したりミイラ化したおびただしい数の遺体が並べられていた。頭髪や衣服が部分的に残っている女性の遺体ものもあった。兄弟とさえ思える子どもの白骨もいくつも置かれていた。おぞましい光景以外の何者でもない。80万人の死者とはそうした遺体が80人分並び、生存者が80万人分の遺骨を処理しなければならないのだということを想像してほしい

 しかし、ルワンダはそんなジェノサイドが似合うような殺伐とした環境の大地では決してない。ルワンダとは「千の丘の国」を意味する国名で、亜熱帯の見渡す限りの斜面が耕された農業国だった。乾燥した砂漠、飢餓の蔓延する飢えたアフリカのイメージとはほど遠い。国名のごとくどこか中国雲南省からビルマのシャン高原に連なる丘陵地帯が続く東南アジア的世界を彷彿とさせる国。南東部は茶のプランテーション地域で、隣国ザイール(現コンゴ共和国)との国境となる湖は、スイスのレマン湖を思わせる自然の美しい一帯、さらに北西部にはマウンテンゴリラの生息するジャングルもある。そうした自然を思い浮かべれば、少しはルワンダに暮らす人々の生活を想像できると思うが。

 中部の町にある民俗博物館には様々な形のスキやクワ、ナタなどの農耕具類が数多く展示されていたのには驚いた。歴史のある農耕文化が存在していたことを証明していたからだ。想像するに、現代的改良を加えられた亜熱帯農業による食糧増産が、狭い国ルワンダの人口増加につながり、返って耕作面積の減少、貧富の格差拡大、土地なし、職なし、教育なしの若者を増産。多数派のフツ族の若者の不満のはけ口が、権力者たちにより操られ、政敵ツチ族にし向けられてきた。

 ただ、その不満の根源は持たざる者が多少は羽振りの良い隣人を羨むという、極めて人間的なねたみの感情が源泉となっているものと思えるのです。経済的な格差の歴然とした国の持たざる者の感情は、日本人には想像できにくいほど根が深く、経済的にしか解消できないものかもしれません。「内なる凶暴な遺伝子」がなせる殺戮とは、どこか違うような気がするのです。もっともっと、指導者層、権力を行使する立場にあるリーダーたちの資質が問われるべきだとも感じているからです。

 ルワンダで歴史的なジェノサイドが起きたとはいっても、アフリカ大陸にヨーロッパ列強が押し掛け、分断し植民地化する以前の部族社会の共同体は、フツ族とツチ族でもおそらく何らかの共存と、ブレーキが働いていたはず。ルワンダの場合は西隣のザイール(現在のコンゴ共和国)ともどもベルギーに統治され、ベルギーは少数派のツチ族を重用し、フツ族をコントロールした。しかも、富の象徴だった牛の所有数でツチ族とフツ族のIDの基準としたという。ある研究者は、ベルギー時代に、牛10頭以上持つ者をツチ族とみなしたという破廉恥な統治政策があったと指摘している。遺伝子とは異なる、ある人為的なすり込みが、世代を経て暴発する引き金となったという側面を見逃してはならないと思います。もっとリーダーの資質、責任を糾す見方もできるのではないでしょうか。

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2000年9月:朗読者」読みました~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 約1ヶ月ぶりに投稿してみました。 盛夏の8月はいろいろと雑用などに追われる一方で、 8月下旬までは全く本を読めず残念でした。夏休みに買い貯めた 本をたくさん読みたいと思っていたのですが。 それでも、気を取り直して、話題の「朗読者」をよみました。重く考えさせる内容とは別に、読みやすかったのには救われました。 それは何よりも前半を占める15歳の主人公と40歳前後と思われる ハンナとの濃密な愛人関係の描写により引き込まれたものでした。

 「朗読者」のポイントは、積山さんが的確にご指摘されているとおり だと思います。日本で読まれる理由のひとつも、「朗読者」という 小説で描き出されているナチスドイツ時代にドイツが犯した罪を、戦後、ドイツという国家やドイツ人個人個人がどのように反省したか、また、どのように責任の所在を明らかにしようとしたのかを振り返ろうとしている意志に驚いたり、多少の違和感を感じながらも我が日本の戦後に置き換えて、考えざるをえない気持ちになるからでしょう。戦後、戦争責任をあいまいに処理した日本人にはどきりとさせられる 小説です。

 朗読者を読んだ勢いで、ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」を読み、「ある憲兵の記録」(朝日新聞山形支局)も読み終えました。キャパはハンガリー生まれのユダヤ人で、ヨーロッパ戦線の幾多の生死を分ける極限で後世に残る報道写真を残した稀にみる人物。カメラマンの職業柄、彼の写真は見慣れているものの、この本を読んでいなかったことを悔やみました。キャパは恋人をロンドンに残したまま、アメリカの写真雑誌「ライフ」 の従軍カメラマンとして、第二次世界大戦中の北アフリカ、イタリア、フランスなどの各最前線をヘルメットにカメラだけで渡り歩きます。目の前では多数のイギリス兵、アメリカ兵、フランス兵などが死んでゆき、仲間のライフ誌従軍カメラマンは沖縄の伊江島で死にます

 同じ頃の中国・満州国では、山形出身の若い農民が憲兵として、天皇を頂点とする大日本帝国のために忠実に働き、国土を外国人である日本人に蹂躙され愛国心を心に秘める無数の中国人を捕らえ、処刑場へと送ります。72歳となった元憲兵の土屋さんが、新聞記者に語り、新聞紙上に長期連載されたものをまとめた本が「ある憲兵の記録」ですが、何年も前に買ったものの、なかなか読む気が起きなかった本でした。

 土屋さんが憲兵として10年以上勤めたのは、海亀の宮内さんが暮らしたハルピンからは遠くない、チチハルというロシアとの国境近辺の街ですが、敗戦後はロシアと中国の収容所に入れられ、帰国するまで11年間の抑留生活を送ります。その間、土屋さんは自ら罪の総量を振り返り、14年間に、328人を直接間接に殺し、1917人を逮捕拷問し刑務所に入れたという恐ろしい数字でした。

 「自分は戦争の加害者であり、中国では鬼だった。再び、あのような侵略戦争を繰り返してはならない」と語る土屋さんは、各地で自らの体験を話し、反戦を訴える活動をしているという。また、1990年には中国に「謝罪の旅」にも出ている。この本には、「善良な地方の一農民を、平気で人を殺す兵や憲兵に仕立て上げ」た当時の日本の時代背景も描かれています

 すでに亡くなった私の父親も中国大陸で憲兵をしていたので、この本はショッキングでした。もし、我が父が元気な頃に憲兵時代に何をしたのかを話したとしても、私はどう対応すれば良いのかわからなかったでしょう。父は戦争体験については完璧に口を閉ざしていました。ただ、昭和天皇が死んだ時、戦争責任を取らなかった
天皇裕仁を非難する私に激しく怒り、勘当だと怒鳴られたことをはっきりを思い出します。

 たまに投稿すると長くなりすぎますね。みなさん、宮内さん、ご容赦ください。

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2000年8月:朗読者、広島、長崎 山本宗補 MAIL~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 先日、新宿の書店で「朗読者」を買ってきました。
何十冊と平積みで売られていたので、探すこともなく見つけました。
今月中には読むのが楽しみです。

 10数年前、ポーランドに残るアウシュビッツ(現地ではオシビェンチムと読んでいる)を訪れたとき、今世紀最大の民族抹殺の歴史的現場と なった強制収容所跡を徹底して当時のままに近い状態で残し、後世の人々に何が行われたのかを伝える意志の力強さの圧倒されたものです。

 一人でゆっくりと写真を撮ったのですが、帰国後にフィルムを現像 した時に驚愕したのです。一本のフィルムには強制収容所に残る殺戮されたユダヤ人の顔写真と、そこに重なるように生きているポーランドの 炭坑夫の一家のポートレート写真が重なるように写りこんでいたのでした

 アウシュビッツを訪れる前日に、近くにある大きな炭坑の町で、一家のポートレートを撮影したフィルムを、完璧なうっかりミスで再び撮影 に使ってしまったためでした。単純にプロカメラマンとしては失格のミスを犯したのですが、振り返ってみると、アウシュビッツの何かが、私の能ミソの判断能力を阻害した ことは間違いないと信じています。

 広島に原爆が落とされてから55年後の8月6日の夜、NHKで広島市内の袋町小学校の壁面に残る55年前の伝言と、それらを書き残した人たちの家族や関係者をドキュメントする番組をみました。 涙があふれてきました。原爆により負傷した人々が避難した小学校の 壁が掲示板として使われ、55年前のままの壁面が残されていたのです。そうした壁面によりかかって、おそらくたくさんの負傷者が息絶えたことでしょう。そうした光景が浮かんでくるような空間が残され、 伝言を書き残した遺族が、初めて壁の前にたち絶句する映像もありました。
 
 番組の最後には、この袋町小学校が老朽化のために解体工事が進行中で、伝言の書かれた壁面が切り取られて保存されるとの説明が付け加えられたのですが、私が愕然としたのは、この原爆の記憶と人々の悲しみが刻み込まれた歴史的な建物を跡形もなく解体するという事実です。

 建物全体を残さず、伝言の書かれた壁面のみを切り取り、おそらく広島の原爆博物館に常設展示するのでしょう。 単にこぎれいで、コンパクトにまとまっただけの近代的原爆博物館(世界中の人類に広島の原爆の被害のすさまじさを伝えようとする意志が薄弱のコンクリート空間)に陳列されるだけで、55年前に書き残された伝言の重みが喪失するだけにすぎないことを懸念します。 (古いビルを利用した長崎市内の原爆博物館の、変に洗練されていない 展示方法の方が、広島よりもはるかに心に響くものです)

 時としてあいまいな人の記憶を補助してくれるのが、袋町小学校などの歴史の証言を残す建物のはず。切り取って博物館の中に閉じこめて、一体どうやって子どもたちや世界中の人々に原爆を破壊力と原爆が 人類にもたらす際限のない悲惨さを、説得力を持って伝えようとする
のだろうか。

まさ君へ 山本宗補 MAIL 2000/07/27

ノーテンキな若者があふれ、無責任な大人や政治家、経営者が あふれる世紀末の日本。
宮内さんの海亀通信には何故か、きまじめな若者が吸い寄せられ てくるようだ。

 「自由の獲得か死か」 カッコイイことばだね。まさ君の年齢はわからないが、そんなにつきつめて考えたいなら、ちょっと外の世界をみてくるのがいい。ぼくのオススメは、近いところでは四国の八十八カ所を めぐるお遍路だ。ちょうど、一週間の撮影・取材に行ってきたところで、様々な年齢の男女が全行程1400キロを歩いていた。
早くても四十日以上はかかり、半端な気持ちでは 太刀打ちできない行程だ。 四国には異質な価値観や幅広い寛容度に根ざした日本人が 生活している。とことばで言ってみても伝わらないだろうが。別の日本社会が現存する。

 ノーテンキな若者も、無責任な大人も、どれほど才能あふれる人も、親の愛をたくさん受ける人でも、この世に生まれたからには 我々には必ず死を迎える時がくる。ひとりひとりの往き方があり、いづれ間違いなくやってくる。 ぼくはその時まで急ごうとは思わない。

君は手塚治虫のマンガ世界を知っているかい。
「火の鳥」「ブラックジャック」「ブッダ」「ファウスト」
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2000年10月:20歳の頃の体験談~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2000年に書き込んだものです)

 衆議院選挙の結果に対する海亀の宮内さんの怒り(日記)に全く同感です。
20歳以上の有権者の約38パーセントの大人が、投票しなかったという事実が
日本人とは全体的にはどんな国民かを反映している点が残念です

国政がとんでもない政治家たちによって、うさんくさい方向へ突き進んでいる時に、
投票しなければどのような選挙結果になっても、国民はそれを受け入れざるをえない
わけですから。

 選挙結果はいつもそうですが、我々が無責任であり、また国会議事堂で眠りこけるために
選ばれた国会議員の顔の総体が、かなり平均的日本人の体質やメンタリティーをかなり
正確に反映していることを認めざるをえないもので、いつもやりきれません。

 大人社会がいかにいい加減にできているのか、大人が無責任な連中だと見限ったのは
私の場合は高校生の頃だったと思います。もう30年も前のことです。多感な年頃の
中高校生は昔も今も、大人社会のうさんくささやいい加減さを早くから見通したような
気になるものです。くだらない大人にはなりたくないと、大人になるのを拒否
したかったものです。

 たくさんの若者が、悩み、心の苦しみなどをストレートに書き込んでいますが、
生きる限りそれも当たり前のこと。すれてしまった昔は若者の大人も、人生に
悩みながら、怒りながら生活しているし、若者はそれ相応の人生の悩みを抱えて
生きている。つまり、生きている限り悩み、迷いはつきもの。不安を抱えていて
当たり前だといいたい。

 20歳前後の自分自身を振り返ってみても、とりたてて何になりたい、こうしたい
という夢も希望も、目的もないまま生きていました。将来を考えるとそれはそれは
不安でした。考えれば考えるほど自己嫌悪に陥るわけです。さりとて勉強が嫌い。
田舎の3流高校を出て、受験勉強という言葉さえ身近ではなかったため、昼間の
大学など合格できるはずもなく、運良く3流大学の夜間学部にひっかかったのです。

 しかし、元来勉強に身が入らないために大学は半年も持たずに、止めました。
その後の精神状態は不安定で、私がしたことは自殺しようと言う決断。遺書を
書いて田舎の自宅を抜け出し、まず考えたのは貨物船に乗り込み、海に身を投げ
る方法。横浜港に行き、貨物船を探したもの実行できず、捨てられているコンテナに
入り込み、寒い夜を何とも心細く過ごしたことを覚えています。貨物船の汽笛が
不安をかき立てるのにうってつけでした。

 その後は上野駅に向かい、九州にするか北海道にするかを切符を買い求めるとき、
ほんの一瞬だけ迷ったような気がします。しかし、自殺をするのだから暖かな南ではなく
北を選ぶべきと思い直し、北海道にむかいました
。途中、仙台で降りて、薬局を2-3件
回り、睡眠薬をくださいといったものの、どの店でも断られました。

 北海道に入ると、時期は11月末だったのですでに、雪がちらつきはじめ、結局は日本の
最北端の稚内までたどりつき、そこから島へフェリーで渡ったのです。
余りの寒さとそびえる雪山の吹雪いている山頂を眺め、結局怖じ気づいてしまって
自殺を実行することはしませんでした。それだけの強い意志が無かったからでしょう。
泊まった民宿で飲んだ冷たい水のうまさが、民宿のおばさんたちの心優しさと
ともに今でも忘れられません。

 ただ、その後の数年間は心の中には常にいつかきっと自殺することでこの世と
おさらばしたいと思い続けていたのは確かです。いつから自殺という言葉が意識の
片隅から消えていったのかは、今となっては覚えていませんが
、それで良かったの
でしょう。私も大人として一人前にすれていったということもあるでしょう。
私が家出をしてから両親に連絡をしたのは約1年後でした。父親はあきらめかけて
いたようでしたが、母親は必ず生きていると信じていました。

 息子が家出をして1年間、両親の悲しみや気苦労、嘆きなどを私が理解するのには
随分と長い年月がかかったように思います。今思えば、自殺を実行できるほどの強い
意志が無かったことに感謝しています。仮に、自ら産んで大きく育てた我が子が自殺
したとしたら、母親の嘆きは尋常ではすまないでしょう。自分自身の責任ととらえ、
拷問を受けるような悲しみを引きずることになったかもしれません。我が子がどれほど
できが悪くてもです。

 いつの間にか、50歳が間近に迫るこの年齢になって、私もようやく親心のようなものを
理解できるようになったようです

 若者が生きる目的や夢が見つけられない、生きている価値がないなどと深刻に
悩み、心の苦しみに時には押しつぶされそうになっているのは、極めて自然であり、
私からすれば健全とさえ思える。

 今回もだいぶ長くなってしまいましたね。ただ、30年ほど前に似たような心の
迷いをやりすごした者の体験談として読んでもらえれば結構です。
フィリピンの先住民取材での赤ちゃん誕生撮影に関する話を書くつもりでいた
のですが、この次にしますよ。

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2018年12月 7日 (金)

2005年11月10日:火葬場で焼身自殺した福井の老夫婦に思う(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 夕食後、近くの店でビギンの中古CDを買い、「涙そうそう」を聴いたら涙があふれてきた。ラジオで聴いてもなぜだか条件反射のように目頭が熱くなってしまう素晴らしい曲だが、今日は2-3日前の老夫婦の自殺のことが思い浮かんで仕方がなかった。7日の午後、福井県大野市の火葬場で焼身自殺した80歳と82歳の老夫婦のことだ。

 テレビのニュースでショッキングな内容に息もつまりそうだった。「老老介護」の果ての無理心中に、あまりのやるせなさと悲しみに、連れ合いと線香を焚いて老夫婦の冥福を祈った。しかし、すこし心が落ち着いてみると、単なる自殺では片づけられない、夫の逝き方への強い意志が感じられ気になりはじめた。

 今朝の日刊スポーツによる続報では、子どもも身寄りもない夫婦で、夫が妻を近くの病院によく連れていったり、オムツの取り替え、掃除洗濯を全部やっていたようだ。妻は数年前から痴呆の症状が出ていて、夫も体調をくずし病院通いだったという。地元の警察は、妻の介護生活に疲れた夫が、将来を悲観して覚悟の心中だったと見ているとあった。

 「遺産は全て市に寄付します」と夫が署名した遺言状は、8日に大野市役所に届いたが、約1年前に作成されていたという。用意周到な準備と夫婦そろっての死に方を選んだ決意が、最初から揺るぎないものだったことがうかがわれる。

 それにしても、火葬場の焼却炉を内側から閉めて焼身自殺を実行するとは、そのための準備をする夫の一連の行動を想像するだけでも、胸が詰まってくる。意識がしっかりしたままの二人が、熱い炎で身体が焼かれ意識がなくなるまで耐えることができたのだろうか。まるで葬送曲を流して心を静めるかのように、車からはクラシック音楽が大音量で聞こえるようにしてあったという。 

 優れた小説家でも思いつかない方法で老夫婦は向こうの世界に渡る方法を実行してしまった。
 子どもも身寄りもない老夫婦には、頼れる友人もいない「孤立した」ような生活を送っていたのかもしれない。それにしても、最期の時の迎え方の潔さには、何か強い信念のようなものさえ感じることができる。自分の最期は自分でコントロールし、誰にも迷惑をかけないぞというような

 今朝、ヨルダンでは自爆テロで60名近くの人が殺された。一週間前のイスラエルでは、12歳のパレスチナ人の少年がイスラエル兵に頭を撃たれて殺害された。先月のパキスタンの大地震では8万人が亡くなった。どれも自分の意志で選び取った死に方ではない。

 福井の老夫婦の焼身自殺は、追いつめられた結果として選んだ死槐に方とは思えないのだ。強い意志で決断し、潔く実行しているところにすさまじいものを感じてしまう。

 二人は60年前の戦争を生き残ってきた、最も苦労してきた世代だ。青春時代を戦地にかりだされたかもしれない夫は、どんな体験をくぐり抜けてきたのだろうか・・・

 大野市のホームページを見たら、二人が彼岸に渡った日は、大野市と和泉村が合併して新大野市が誕生した日だった。

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2005年4月13日:親近感を感じるヨハネ・パウロ2世とネグロス島との深い繋がり(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 84歳で死去したヨハネ・パウロ二世には会ったことはないが、クリスチャンではない私も親近感を感じる。ローマ法王が生まれ育ったポーランドを取材し、アウシュビッツも撮影したことがあるのもひとつの理由だが、私がフォトジャーナリストの仕事を始める大きなきっかけとなったフィリピンと法王とが切り離せないからでもある。

 1981年に被爆地広島を訪問した法王は、その旅の行程で東アジアで最もカトリック教徒の多いフィリピンも訪問している。独裁者のマルコス大統領が権力を握っていた時代のことで、とりわけ注目に値するのが法王のネグロス島訪問だ。島国フィリピンで、よりによって法王は何故ネグロス島を訪問したのか。日本の広島を選んだのと同様に、そこには法王の強い意志があったのだろう。

 フィリピン中部のネグロス島は、別名「砂糖の島」といわれるほど、サトウキビ生産に依存し、少数の大地主が労働者を安い賃金で搾取するという封建主義的な経済構造が強固で、「フィリピンの縮図」ともいわれた島である。私はこの砂糖の島を85年から取材を始め、サトウキビ産業で働く労働者は農奴と感じるほどのショックを受けた。91年にようやく「ネグロス---嘆きの島(フィリピンの縮図)」(第三書館)のタイトルでルポルタージュを出版できたが、取材の中でローマ法王のネグロス島の州都バコロドでのスピーチを本で読み、感動した。会場には10万人が集まったという。その一部を以下に引用しよう。

土地はすべての者への神の賜物です。それがごく少数の利益のためにのみ使われ、残る大多数の人々が大地の生み出す豊かな富から締め出されているのはまことに許しがたいことです。限られた者が富と権力を手中にし、他方、工場やプランテーションで長時間激しい労働に従事している多くの者が家族さえ養いかねているのは、不正義が世を支配しているからです。教会は、力弱く、声をあげてもなお聞かれることのない貧しい人たちの側に立ち、慈善ではなく、正義を求めることをためらってはなりません

 拙著「ネグロス---嘆きの島」で私が引用したヨハネ・パウロ二世の、ネグロス島でのスピーチの一部だ。話し手が法王と知らなければ、搾取される側に身を置こうとする政治家のアジテーションともとれる内容だ。広大なサトウキビのプランテーション経営で富と権力を握り、マルコス政権を支えた地主勢力を鋭く批判している。ローマ法王の影響かどうかはわからないが、マルコス大統領はこの年、戒厳令を解除した。

 「これからは教会とプランター(農園主)は敵同志だ」と、法王のスピーチにネグロスの地方政治を牛耳る大地主が怒ったのも頷ける。ローマ法王に勇気づけられた労働者は、カトリック教会の神父やシスターたちの後押しも受け、労働組合の組織化が急激に進むきっかけともなったはずだ。

 4年後の85年9月、ネグロス島北部では、農園主が雇った民兵と警察らの発砲で、ゼネスト中の無防備の砂糖労働者ら20名が殺され負傷者50名をこえる虐殺事件が発生した。後に「エスカランテ虐殺事件」として知られ、マルコス政権が崩壊する端緒となった。そのニュースを聞き、マニラからネグロス島に入ったのが私にとっては初めてのネグロス取材だった。

 虐殺事件から6日後、不穏な空気が残る現場で行われた追悼ミサには、テレビ局も通信社のカメラマンもいなかった。地主勢力の脅しにも関わらず、カトリックの司教と神父合わせて74名に多数のシスターも出席し厳かに行われたが、著名なアメリカ人のフォトジャーナリストと私の他にカメラマンはいなかった。

 「解放の神学」の存在を知ったのもネグロス島での取材からだ。神父やシスターたちが民衆の側に入って活動する「解放の神学」が生まれた中南米の国々で、アメリカは共産主義に対抗する名目で専制的な政権をあからさまに支えた。フィリピンでも同様でマルコス独裁体制を支えていた。ネグロスでの法王のスピーチを読み返すと、「解放の神学」を奨励しているとしか思えない

 しかし、先日の毎日新聞の中米特派員が書いていた記事では、ヨハネ・パウロ二世は「解放の神学」を否定したため、中南米では80年代末までに解放の神学は影響力を失ったとあった。法王のスピーチと矛盾しているように思えてならないのだが、他紙にはない視点からの記事だったので印象深い。

 ローマ法王の死亡関連記事と写真はどの新聞でも似たり寄ったりで物足りなかったが、東京新聞に掲載された一枚の写真が記憶に残った。横たわる法王に向かって跪くアメリカ政府を代表する面々を撮ったニュース写真だ。左からブッシュ大統領と夫人、パパブッシュ、クリントン前大統領、ライス国務長官の5人が法王の遺体を見つめている。相反する価値観を実践してきた両者が居並ぶ写真だ

 武力を信奉し、イラク攻撃したブッシュ親子とライス国務長官、セックススキャンダルにまみれたクリントン。一方のヨハネ・パウロ二世は、ナチスドイツとソ連によって母国が分割統治され、肥沃な国土が蹂躙されたポーランドの歴史的な悲哀を体現した人だ。戦争や武力を否定し、社会的な不正義に敏感だったのは宗教者となる以前からのポーランドの歴史を背負っているからだと思う

 死に際まで命の尊厳を、自分自身の逝き方で最期まで見せつけた。植物人間を政府が関与してまで延命させようとしたブッシュ大統領とは対極にある。撮影した通信社のカメラマンがどんな思いを込めて撮ったのかはわからない。だが、皮肉が満載したこの写真を選んで掲載した東京新聞の意志に私は深く共感した
 
{注:ヨハネ・パウロ二世のネグロス島でのスピーチの原本は、三好亜矢子著の名著「フィリピン・レポート」(女子パウロ会)からの抜粋です。全文を読むには古本で探すしかないでしょう}

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2004年3月2日:インドの日本人僧、佐々井秀嶺上人の取材に出かけます(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 先週、山際素男先生にお会いした。初対面だったがゆっくりとしたペースで、数時間にわたって居酒屋でお話を伺った。とっても楽しい時間だった。私が最終のバスに乗るために失礼する頃には、20本くらいの吸い殻で山際先生の灰皿はあふれていた。あまりに多くの事を短時間に際限のある脳味噌に詰めようとしたが、帰る頃には頭が破裂しそうなほど刺激が強く、かつおもしろいお話だった。

 山際先生といえば名著の「不可触民」がある。インドのヒンドゥー教社会のカースト制度で、最底辺に位置し様々な職業についているが上位カーストからは人間扱いされない人たちのことだ。ダライラマ自伝などの翻訳も多数あるインド研究者であり作家だ。近著では「不可触民と現代インド」(光文社新書)がある。

 3年前には444ページという分厚い「破天 一億の魂を掴んだ男」(南風社)本を出され、インドに渡って30数年、インド仏教徒のリーダーとして仏教復興のために闘い続ける破天荒な日本人僧、佐々井秀嶺上人の生涯を書かれている数百万人、数千万人のヒンドゥー教徒が仏教に改宗しているのは、この日本人僧の力によるというのだ。想像を絶する活躍ぶりで、これが革命的でないとしたらどう表現すればいいのだろう。とにかく、インド人さえできないようなとんでもないことを実現しているのが佐々井上人という印象だ

 山際先生は、「まだ生きているのに自伝を書いてしまった。彼の結末をそろそろ考えておかなければ」などと冗談ぽい話をしていた。 

山際先生の著作や話を聞き、これは佐々井秀嶺上人にお会いする他はない、取材する他はないという気持ちになり、私は3日からインドに出かけることにした。約1ヶ月の滞在予定だ。不可触民からインド憲法の草案を書き、独立インドの初代法務大臣を務め、あの非暴力と平和主義で知られているガンジーとまっこうから対立したというアンベードカル博士がインド社会に与えた影響についても探ってきたいという魂胆もある。山際先生はダナン・ジャイ・キール著の「不可触民の父 アンベードカルの生涯」(三一書房)を翻訳されていて、アンベードカル博士の業績を日本人に様々な方法で紹介しようとしてきた唯一のインド研究者のようだ

 正直なところ、私はアンベードカル博士の名前は山際先生の本を読んで初めて知った。それまではガンジーの非暴力主義や平和主義のことをもっと知らなければいけないと少々焦っていたところだ。この佐々井秀嶺師の実践してきたことはアンベードカル博士の遺志を引き継いでいることを意味しているという。佐々井師やアンベードカル博士のことを少しでも知った以上は、取材してくるしかない。現実はどうなのかをこの目でできるだけ見てくるしかない

 若輩者に親切にいろいろ教えてくれた山際先生のご期待にそえるかどうかはわからないが。

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2018年12月 4日 (火)

2004年7月1日 一匹の蛍を見た(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 一匹の蛍が飛んでいた。6月半ば、年老いたオフクロが、急に入院したため、田舎に帰った日だった。暗室小屋と畑の間を一匹の蛍が舞っていた。驚いた。心がなごむ驚きだった。田舎で蛍を目にした記憶が最近はなかったからだ。川がきれいになってきたのだろうか。

 浅間山の中腹あたりを水源とする小川が、畑の間の幅50センチほどの用水路を流れている。水量は昔から変わらない。小さい頃は赤カエルを食用に捕まえたものだが、最近は生活用水なども流されているのでカエルさえも見かけない。裏山の水田がある谷間を流れる川とその周辺が少しは浄化されてきたのかもしれない。

 蛍といえば、ビルマ山中のカレン民族の生活圏や、フィリピン先住民のピナトゥボ・アエタの住む山中ではたくさんお目にかかった。インドネシアのジャワ島東端の粗放エビの養殖場が集中する河川では、ものすごい数の蛍が川岸の木々に止まっている光景も忘れがたい。

 そんな光景を思い出していた矢先、数日前の朝日新聞に、ニューギニアの蛍の集まる木が忘れられないとの読者投稿があった。福岡に住む80歳をすぎた元日本兵の方だった。太平洋戦争中のニューギニア戦線では、10数万人の日本兵が玉砕し、その多くは餓死や病死だったといわれ、奇跡的に生き残った日本兵は1割に満たないようだ

 福岡の方は、敗戦後にニューギニアから復員する際に、おびただしい数の蛍が一本の木に集まる光景が忘れられず、二度と帰国できなくなった日本兵が集まってきているようだったと書いていた。この投稿を読んで数年前に見たテレビのドキュメンタリー番組を即座に思い出した。奇跡的に生還した元日本兵たちの忘れられない光景を、地方局が映像化した番組で、ギャラクシー賞受賞作だったと思う。

 ニューギニアのジャングルにある一本の背の高い木に、ランプを灯したようにおびただしい数の蛍が止まるシーンをブラウン管の向こうに見た時に、涙が溢れて止まらなかったことをよく覚えている。無念の死を遂げたおびただしい数の日本兵の魂が、蛍となって点滅していると思えて仕方がないからだ。戦争が作り出す言葉では言い尽くせない悲しみを映像化した、素晴らしいドキュメンタリー番組だった。

 中東世界のイスラーム教徒は、死後、魂が地上を彷徨うことがあるのかどうかは知らない。もし仮に、蛍が生息する環境があるとすれば、イラク戦争で不条理にも命を奪われた人々は、万をこえる蛍に姿を変え、チグリス・ユーフラテス河流域の木々の集まり、光を放ち、蛍の数は増える一方だと我々に警告しているのではないだろうか。 

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2004年5月18日(火) 須田治追悼集「まなざしの向こう側へ」が刊行された(宗補雑記帳よりの復活ブログ

 軍事政権下のビルマ(ミャンマー)では、憲法制定のための「国民会議」が17日開始された。アウンサンスーチー書記長とティンウー副議長が自宅軟禁とされたままの野党NLD(国民民主連盟)は、会議をボイコットした。選択肢のない結論だろう。あらかじめ軍政による結論が出ている会議は「茶番」でしかないからだ。

 ビルマ情勢のことはこの次雑記することにして、今日は友人のジャーナリストで昨年3月に急逝した須田治さんの「須田治追悼集」が刊行されたことをお知らせしたい。今年2月20日の雑記ですでにお知らせした文集が16日に長野市の出版社オフィスエムから刊行された。

 タイトルは「まなざしの向こう側へーー須田治追悼集」。須田さんの視点に相応しい実に良いタイトルだ。本はB5版270ページ、定価1500円。私が撮影した須田さんが取材中の写真を表紙のほかに10点使われています。ご家族を含め友人知人の追悼文が50点以上収録され、須田さんの主な著作を網羅した年表もあります。

 圧巻は二点の未発表原稿。ひとつは「ジャーナリストの仕事とは」と題された原稿用紙130枚をこえる長文です。須田さんが13年前に東京の出版社を退職してフリーランスのジャーナリストになる決意を込めて書かれたもので、彼のジャーナリズム論と日本のジャーナリズムに関する危機意識がひしひしと伝わってくるものに仕上がっている。

 もう一点は、満州の引揚者である母親のソ連軍から逃げる際の残酷な戦争体験を聞き書きした「母と戦争体験」だが、こちらは読むだけで痛ましい。ジャーナリストとしての須田さんが何を大切にしたきたか、その原点に巡り会ったような文章だ。この二点の原稿を読んだだけでも須田さんの力量が伝わってくるはず。追悼集の詳細はタイトルをクリックし、出版社のホームページで確認できます。 また、以下に本書に収録されている私の追悼文をコピーしました。

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2004年9月2日(木) 浅間山が噴火、大地のエネルギーは人間の予知能力をこえる(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 故郷の浅間山が噴火した。活火山だから当たり前だ。ただ、約21年振りくらいの噴火の規模のようで、しばらくぶりの印象は我が地元の御代田(みよた)町でも強いようだ。浅間山の南麓に広がる御代田町では火山灰は少し降ったという他に被害は報告されていない。

 このホームページのタイトルに「標高888㍍からの浅間山ろく通信」とあるように、私は浅間山麓の御代田町で生まれ育ち、浅間山を誇りに思っている。暗室小屋から外の畑に一歩出れば、浅間山の雄志が目の前に広がり、海外取材中も浅間山のライブ映像をインターネット上で時折チェックする。

 浅間山の噴火で今も忘れない光景は、40年以上も前の夜の噴火だった。すでに寝静まった頃、ドーンという大きな音で目を覚まし外に出て見ると、浅間山が噴火していた。それは壮大な花火を見ているような光景だった。季節がいつなのかも忘れたが、空気が澄み渡っていたのだろう。真っ赤な噴石が次々と空に吹き飛ばされ、花火のように火口周辺の山麓に落下してゆく映像は、いくつになっても私の脳裏から消えることはない。火山灰などによる農作物などへの被害はかなりなものだったと思うが、小さい頃の記憶は、全てをプラスのイメージとしてとらえている。

 不思議な話だが、実は8月21日に「浅間山との共生」をテーマにしたシンポジウムが御代田町の浅間縄文ミュージアムであり、私はパネラーの一人として出席したばかりだ。他のパネラーは荒牧重雄氏(火山学者、東大名誉教授)、関俊明氏(考古学、群馬県埋蔵文化調査事業部)、大浦瑞代氏(歴史地理学、お茶の水女子大大学院)の3名。この組み合わせでは私だけが場違いだが、地元出身ということと、フィリピンのピナトゥボ火山の大噴火とその被害を取材した経験を買われての起用だった。

 シンポジウムの中では、大きな噴火が起きる予想はなかった。昨日の噴火で予知が外れたとも思わない。というのも、浅間山を長年研究しその性格を知る火山学者は、昨日の噴火は規模の大きなものではないと認識していると思うからだ。個人的にも、都会人のように騒ぎ立てるほど驚きはしない。つまり、毎日噴煙を上げる浅間山を見慣れ、噴火を体験してきた地元住民としては、小規模の噴火をときおりやってくれた方が、爆発エネルギーが蓄積されずにすむと素人的にも考えるからだ。日本有数の活火山の麓で生活する以上、火山灰による被害は避けられない。被害が最小限に食い止められることにこしたことはないが、自然の恩恵を受けつつ火山と共生するためには覚悟を決めて生きる必要がある。

  ピナトゥボ火山の噴火を取材し、火山の深呼吸という地球の営みが、人間の想像力を寄せつけないことを体感した者として改めて思う

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2004年5月28日(金) 二人のジャーナリストの殺害、気が重い悲しくなる日だった(宗補雑記帳よりの復活ブログ

 ベテランの橋田さんと若い小川さんがイラクで殺害された。

 長年バンコクをベースに取材活動をしてきた橋田さんとは、東南アジアのどこかの現場でお会いし挨拶はしているが、きちんと話したことはない。二人ともフリーランスで危険を覚悟の上での取材だったとはいえ、同業者の一人としては、やりきれない気持ちだ。ニュースで見る燃え尽きた車体と生き残ったドライバーの証言を見ると、ますます胸が締め付けられる。もし自分が犠牲者だとしたらと、置き換えて想像しやすいからだ。避けようがなかった襲撃なのかもしれないが、占領軍を狙う代わりに、無防備で攻撃しやすいジャーナリスト、民間人を標的にする卑怯な連中には怒りを覚える。

 TBSラジオに橋田さんが出演した時の音声がTBSニュース23で流された。イラク取材で最も怒りを覚えることは何ですか、と問われた橋田さんは答えていた。「わかりやすく言えば、アメリカのブッシュですね」

昨日発表されたばかりのアムネスティ・インターナショナルによるアメリカ政府を厳しく批判した報告書を思い出す。「他国での虐待から目をつぶり、場所と時期を選んで先制攻撃をしかけることで、米国は正義と自由に打撃を与
え、世界をより危険な場所にした

 ベテラン戦場ジャーナリストの一言には本質を捕らえた重みがある

 先日は友人でコンビを組んで仕事をしたジャーナリスト、須田治さんの一周忌と追悼集出版を記念した集まりが長野市であったばかりだ。追悼集「まなざしの向こう側へ」に収録された須田さんの未発表原稿を読み、改めて彼のジャーナリストとしての秀でた感性と、力量に圧倒され、失われた才能の大きさと貴重さに気づかされた。人は時間がたってようやく失われたものに気づくのか、それとも私が鈍感なのか

 個人的には、今日は嬉しい一日になるはずだった。10日前に開腹手術をした連れ合いが、術後の経過も良好で退院する日で、車で病院まで迎えに行って来たからだ。個人的には明るい一日のはずだったが。

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2004年5月1日(土) 「反日的分子」発言、時代はすでに戦前戦中に逆戻りか(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

人質になった日本人は反日的分子」と言った自民党国会議員の発言(4月26日)が、「年金問題」の影でうやむやになろうとしている。時代はすでに戦前戦中と変わらぬほどファッショになっていることを象徴するような事態だ。より深刻なのは民主主義を否定するような発言を国会議員がしているのに、野党もマスメディアが本気で問題視していないことだ

 この国会議員は、「反日的分子のために数十億円もの血税を用いることに強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」。また中国人による犯罪増加を指摘して、「中国なんかはろくな裁判もないし、刑務所の中にも外にも人権なんておそらくないんでしょ」と発言したと報道された。(毎日新聞)

 戦後の新憲法も民主主義をも否定するような暴言を吐いたのは、自民党の柏村武昭参議院議員。彼のホームページを見るとヒロシマに人類最初の原爆が落とされた前年に広島県内で生まれた広島市選出の元民放のキャスターという経歴の議員だ。わずか一発の核爆弾によって、太平洋戦争を指揮した軍部と天皇の責任を取らされ、殺された20万人あまりのヒロシマの被爆者とその事実を全く感じないで育った人間なのだろうか。テレビ界出身の議員でここまで右翼的発言をする人間が国会議員をやっている時代なのか。広島の有権者は、被爆者は黙っているのだろうか

 柏村議員によると「国の方針に逆らってイラクに行ったのは『反日的』」だそうだ。
「反日的分子」という言葉は、日本軍の憲兵が太平洋戦争中に日本軍の占領に対して抵抗する抗日ゲリラなどを「反日的分子」として捕まえ、拷問したうえで殺害したり、人体実験の「標本」にした歴史的事実を連想させる。以前読んだ「ある憲兵の記録」(朝日新聞山形支局、朝日文庫)には、満州に送られた山形県出身の憲兵が「反日的分子」をどう日本軍が扱ったのか、自らの体験を元に懺悔の気持ちを込めてつづられている。

 柏村発言は、イラクで人質になった日本人は拷問され殺害されるのが相応しいと言っているようにとることもできる。少なくとも柏村発言の真意は、国の方針に逆らうことは全て「反日的」で国家からは許されるものではない、ということだ。民主主義を否定するファシズムそのものだ

 1万人をこえるイラクの人々が、理由もなく殺戮されている「イラク戦争」が間違っている、その戦争に直接加担する日本政府の政策が間違っていると感じる日本人の若者と、柏村議員とを比べるもの変だが、どちらが日本と言う国を本来あるべき平和国家にしようと努力しているかは明白だ。

 柏村議員の発言が正しければ、国の方針に従わないテレビ局や新聞社、雑誌は存在理由がない。NHKテレビラジオ、読売新聞と産経新聞、「諸君」のようなメディアだけが報道出版を許可された社会をちょっと想像してみるといい。そのような社会は私が長年取材してきた軍事政権下のビルマ(ミャンマー)の言論も出版の自由もない軍国主義的社会を彷彿とさせる。民主化運動の不屈の闘士であるアウンサンスーチーを自宅軟禁に置き、民主化活動家を投獄し、その家族や友人を不安におののかせる秘密警察網を全国に張り巡らす封建的社会を想像させる。ビルマは、国軍と軍幹部と癒着した民間人らが幅を利かせる社会で、教育システムが破壊され、若者や子どもの将来が台無しにされている社会だ。
 柏村議員の「反日的分子」発言はそうした社会を望む国会議員がいることの証明だ。

私は国家を誇ることも愛することもできない
 国が行政がいつも正しいと思う日本人がいるだろうか。なぜ裁判で国が敗訴することもあるのか。国も行政も過ちを犯すから「薬害エイズ」が起き、水俣病が起きたのではないか。ハンセン病者を隔離する政策が「らい予防法」の名のもとに数年前まで継続されていたのではないか。必要のない高速道や公共施設が建設され、膨大な赤字を生み出しているのではないか。

国家が、政府が間違ったことをやるのに黙っているのは正しい民主主義とはいえない。反対の意思表示し、変革しようとするのが民主主義体制で生きる国民の権利であり義務でもあると信じている。仮に5割を越える有権者が小泉政権、与党の政策を支持していても、反対意見を様々なかたちで行動し表現する市民は恥じることは何もない。

 私は仕事柄、海外での取材がこれまでは多かった。日本独自の伝統や文化、食生活などを誇りに思うことはあっても、日本という国家とその政治を誇ることはできない。いつも恥ずかしいとさえ思ってきた。3月から4月にかけてインドで日本人僧の佐々井秀嶺師を取材してきたが、振り返ってみると、日本の今の危険度を知るうえで欠かせない人物に出会う取材だったと思う。

 インド取材では「不可触民の父」として仏陀と同格に信仰されるアンベードカル博士の存在を実感した。アンベードカル博士とは、カースト・ヒンドゥー社会のインドにおいて、人間扱いされないカースト外のアンタッチャブル(不可触民)として生まれ育ち、ある藩王の支援により米英の大学で法律や経済学をマスター後、生涯を不可触民の解放と向上に賭けたインド近代史の偉人だ。博士はネール首相からの要請で独立インドの初代法務大臣に就任し、インド憲法の創設者となった人物でもある。

 1931年、独立運動のリーダーとされていたマハトマ・ガンジーと初対面で対立した時のやり取りが二人の関係を物語り、二人の本質的な立場の異なりを後世に残している。アンベードカルは40歳、ガンジーは63歳だった。若輩者のアンベードカルはガンジーに言った

 「自尊心のある不可触民なら誰一人としてこの国を誇りに思うものはありません。この国が私たちに与える不正、虐待は余りに大きく、意識的、無意識的にこの国に反逆するようなことになったとしても、その罪はこの国にあるのです。裏切り者と罵られても私は構いませんその責任はこの国にあるのですから」(「不可触民の父 アンベードカルの生涯」ダナンジャイ・キール著、山際素男訳、三一書房より)

補足すると、「ガンジーが不可触民の解放に尽くした」というイメージは明らかな間違いだ。カースト・ヒンドゥーの支配者層に生まれ育ったガンジーは、不可触民を「ハリジャン(神の子)」と呼んだだけで、生涯を通じて不可触民制の廃止には消極的な態度を貫いた

 公共井戸の使用やヒンドゥー寺院に立ち入る許可を認めさせる不可触民の大衆運動に対してもガンジーは冷淡で反対さえした。ロンドンの円卓会議で、不可触民階級を代表するアンベードカル博士を無視し、ガンジーは私がインドの全ての国民各層を代表するとイギリス政府に発言し、少数派を軽視した。

 アンベードカルが指導した農奴制の廃止、地主制度の廃止、小作農の地代の軽減要求などの労働運動に対してもガンジーと支配者層からなる会議派は非協力的だった。つまりガンジーのハリジャン政策は呼称のみで中身を伴っていなかったのだ。

 不可触民を代表するアンベードカル博士の至った結論は、ガンジーに代表されるヒンドゥー・カースト支配者層が、不可触民の社会的平等と経済的平等を手に入れる闘いには絶望的なほど非協力で、ヒンドゥーとは訣別するしか方法が残されていないというものだった。

 その結果、アンベードカル博士は30万とも50万ともされる不可触民同胞を伴い、1956年に仏教に集団改宗し、ヒンドゥーの神々に対する信仰を否定することを誓った。永く衰退していたインド仏教はこうして復活し、その後は仏教に帰依する不可触民層、貧民層が急増、今では少なくとも5000万人の仏教徒がいるといわれている。仏教徒に改宗し高等教育の機会を手に入れた人々の躍進は目覚しく、政治家、医師や弁護士、大学教授や会社社長など、幅広い分野に進出している。インドに渡って36年の佐々井秀嶺師は、アンベードカル博士の偉業を引き継いだ外国人僧侶だが、現在は市民権も取り仏教界の押しも押されぬリーダーだ。佐々井師の取材に専念したのだが、個人的には、ガンジーを手放しで偉大な指導者と思い込んでいたことを根底から見直す機会を与えられたことを感謝している。

 ガンジーと激しく対立したアンベードカル博士の生き方から私が得たものは当たり前の結論だ。政権与党が間違った方向に国民を向わせている時、例え政府に逆らう行動を国民が取っても、その責任は国家にあるのだ。
 日本は太平洋戦争に突入し、アメリカはベトナムに介入し、ソ連はアフガニスタンを占領した。国策に反対した人々は間違っていたと振り返る人はいない。
「反日的分子」と発言して国民を恫喝する国会議員は永田町にいる資格はない、と私は信じる

 

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2004年4月20日(火) 「自己責任」論という名の情報操作・ゴマカシ・検閲(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

 イラクの武装グループにより拘束された5人の日本人が解放され喜んでいたら、彼らが帰国する前から問題のすり替えが政府とマスメディアによって始まった。その結果、「自己責任」論(岡本行夫前首相補佐官)や「自業自得」なる言い方(石原慎太郎都知事)が強調され、解放された5人や彼らの家族に対するバッシングは当然のような論調がまかり通っている。在外公館の最も重要な役割は邦人の保護だということを忘れたのだろうか。

拘束された5人とその家族は「みなさんにご迷惑をおかけして申し訳ありません」と何度も謝罪させられている。しかし、彼らはそんな謝り方をする必要はさらさらない。私自身は彼らによって迷惑させられたとは全く感じていないからだ。イラクの人々が自衛隊の撤退を望んでいるということを改めて実感できたことからしても、彼らに感謝する方が筋だと思っている。

 彼らをバッシングする日本人に聞いてみたい。あなたは一体どんな迷惑を具体的に被ったというのか。人質救出のために奔走しなければならなかった政府首脳、外務官僚、国会議員、政府職員、関係者で迷惑したと感じている人が一体どのくらいいるのだろう。フジサンケイ・グループの新聞は数億円の税金がかかったと、人質や家族を暗に非難する記事を書くことに熱を上げている。しかし、よく考えてみよう。小学生にもよくわかる物事の順番があり、こうした「自己責任」論が本質のすり替えでありゴマカシだとわかる。

 日本人5人が身柄を拘束され、生命に危害が及ぶ可能性があったのは、小泉首相が自衛隊をイラクに派兵した事実によって引き起こされた誘拐事件ではないのか。自衛隊という名の武装した軍隊(武装した相手を武力によって倒す軍事訓練を受けた兵力)が、イラクという外国の領土に派兵され、駐屯することで日本人のNGO活動家、報道陣、外交官などの生命が不必要に危険にさらされることになった結果なのは明らかではないか。

 マスメディアが批判するべき相手は、危機管理能力の無さから、昨年二人の日本人外交官を殺されても何の責任も取らない政府首脳と外務省の方ではないのか。奥参事官と井ノ上書記官の死は、小泉首相のアメリカ追髄外交が生んだ避けることのできた死ではなかったのか。

 さらに言えば、真の友人としてアメリカ政府の国際法を無視した身勝手な他国の侵略を諭し、米英軍によるイラク人の無差別殺戮に日本が直接間接に加担するために最大の努力を払い、 1万人をこえるといわれるイラク国民の無駄死にを避ける努力をしなかったためではないのだろうか。

 日本政府の外交で迷惑千万、本質的な損害を被ったのは日本国民であり、これから大人になる子どもたちの方だろう。誤った外交政策は、金額に換算不能なほど将来的に致命的で取り返しのつかない禍根を残しつつある。例えば、自衛隊を中東に派兵したことで、「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆被爆国日本に対して同情し、友好的だったイスラム教徒の反感を買い、いままでの中東外交を台無しにしたことではないのだろうか。10億人をこえるイスラム教徒を敵に回すようなアメリカ追随外交に終始し、「反テロ戦争」に協力した結果、世界は以前よりも安全になったのかを自問するといい

 9・11以降のアフガニスタン、パレスチナ、イラクの人々に対する米英やイスラエルによる「国家テロ」が、ブッシュやブレア、シャロンに似た狭くて過激な考えを持つ大勢のムスリムの若者を世界各地で生み出している。市民を巻き込んでも平気な第二第三のビン・ラーディンを育てる土壌を作り出しているだけではないのか。小泉政権のアメリカ追随無策外交が、「国家テロ」に積極的に協力し、その結果日本も含めた世界全体がより不安定でテロの不安におののく日常に陥いっている。それが世界の現実だ。

 自衛隊派兵についてもう一度見直してみよう。日本政府がイラクの人々に対し、「復興支援」「人道支援」のために自衛隊が駐留しているなどと説明しても信用するイラク人がいると思うのが不思議だ。例えば、太平洋戦争による敗戦後の日本に置き換えてみればわかりやすい。米軍主導の進駐軍が日本各地に展開し戦後数年を統治した。その間に、例えばイギリス軍500名(ソ連軍と仮定してもよい)が九州の熊本に「復興支援」「人道支援」の目的で駐屯地を作ったと仮定しよう。このイギリス軍が進駐軍の一部隊だと思わない日本人が一人でもいるだろうか。

 自衛隊がイラクのどこで展開しようと、自衛隊はイラクの人々にとっては占領軍の一部にしか受け取れないのが現実だろう。自衛隊はイラクの米英占領当局(CPA)で地方に展開する占領軍の一部隊であり、占領を受け入れないイラク人が占領軍に対してレジスタンス活動の対象となっても自然だ。民間人を無差別に狙った攻撃をレジスタンスではなくテロ行為として非難されるべきだ。しかし、占領軍を派遣する国の民間人による取材活動もボランティア活動も結果として危険にさらされてしまう。

 ちょっと考えて見るがいい。イラクの場合は日本と違い敗戦国となる理由が最初から存在しない。イラク軍がアメリカやイギリスを直接攻撃したこともなく、米英の市民を大量に殺戮したこともないからだ。つまり、米英軍から最新兵器によって無差別に攻撃され、何千人という市民を殺戮される理由も、外国軍によって国土を蹂躙される理由もない。イラク攻撃の大義とされた大量破壊兵器さえ見つかっていない。今はっきりしているのは、80年代末から米の言うなりになることを拒否したサダム・フセインをブッシュ(ジュニア)政権が理由もなく潰したかったということだ。イラクをクウェートから撤退させるという国際的大義名分のあった湾岸戦争で、サダム・フセイン政権を弱体化したが温存したのはパパブッシュだ。チェイニー副大統領は当時は国防長官だった。チェイニーはサダムを余程嫌悪したか、イラクの利権を手に入れたかったのだろう。
 
 話を人質救出に戻そう。米軍や日本政府の方針とは反対の意志を持つ人質と実行犯との意志疎通が、短期間での解放の要因でもあるだろう。邦人救出の義務と責任を負う日本政府・外務省が、市民やNGOなどのネットワークによる人質解放を求める活動ほど緊急に効果を上げる救出活動ができたかは疑問だ。外務省は情報の入手もできなかったのはほぼ間違いない。その結果、「外務省は3人の人質家族に全く情報を提供せず(できなかった)、情報操作までした」と、JVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)仲間の豊田直巳氏は言っていた。

 そうした政府・外務省の対応を批判することなく、新聞社、テレビ局、通信社などのマスメディアは、NGO活動家やフリーのジャーナリストの「自己責任」論を叫びはじめている。そのあげくに外務省によるイラクからの退避勧告に「素直」に従い、自衛隊輸送機で記者をサマワからクウェートに退避させたと(朝日新聞)恥ずかしくもなく書いている。それが国民の知る権利を代表する報道機関の取るべき姿勢なのだろうか。

 広大なイラクの中のひとつの町であるサマワに何のために大勢の記者を派遣しているのか。自衛隊が莫大な予算を使いイラク人からの攻撃に身構えながら、NGOが低予算で短期間に地元住民に提供できる支援活動さえ自衛隊にできていないだろう。今後は自衛隊広報の提供する情報と映像に頼ることに異議はないのだろうか。大本営発表の時代に逆戻りすることに大手報道機関が自ら手を貸していることと同じ行為ではないのかと国民の一人として憂慮する。バグダッドに記者を置き、サマワから記者を退避させることは、サマワの方が危険度が高いということを意味していないのか。

 ほんの一年前、米英軍による空爆が続くバグダッドに留まり、日本のテレビ、新聞、通信社に現場からレポートし映像や写真を送ったのは全てフリーランスのフォトジャーナリストやビデオジャーナリストだった。(私自身は日本という安全圏にいたものの、バグダッドではJVJAの仲間が5人取材していた。その後も4人は繰り返しイラクに入って取材を続けてきている)大手マスコミは自社の記者はイラク隣国に退避させ、バグダッドからの情報をフリーランスや海外メディアの報道に全面的に頼ったことを忘れたのだろうか。

 マスメディアの社員記者カメラマンがバグダッドに入ったのはサダム・フセイン政権が崩壊してからだ。現場から報道する責任を回避したマスメディアが、今回のようにフリーランスのジャーナリストが捕まったことで「自己責任」を強調する政府・外務省に一転して同調している姿からは、政府や行政を監視し、弱者の側から報道する独立した報道機関の責任を放棄し、日本国憲法さえも軽んじる意志を強く感じる。

 首相が何と言おうと外務省が何と言おうと、国会議員が何といおうと、憲法に準じていなければ無視すればいいだけだ。無責任な連中の言い分に耳を傾けるより、憲法に保障された権利を行使することが国民の知る権利を守ることにつながる。そうしたマスメディアの使命を自ら放棄することは、自己検閲であり、政府の情報操作に積極的に加担していることになる。

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2018年12月 3日 (月)

沖縄タイムスか琉球新報を全国紙の代わりに月一回配達してみたら!?(2005年8月20日 山本宗補雑記帳より復活ブログ)

 初めての沖縄取材から帰ってきて、琉球新報の8月16日の朝刊に福島菊次郎さんの、「靖国神社は軍国主義の『大量殺人装置』だった」という表現が誇張ではないことを沖縄取材で実感したと書いた。

 沖縄取材での強い印象は、国民が天皇の赤子であり、命は天皇のためにあり、天皇のために死んで靖国神社に祀られることが最高の名誉であると信じ込まされた、いわゆる「皇民化教育」が浸透していたことが、沖縄県民の4人に1人にあたる12万人以上の死者が出る沖縄戦の悲劇に結びついたという、深い反省の声を戦争体験者のお年寄りたちから聞いたことだった。(本土出身軍人の死者は約6万6千人、米軍死者は1万2千人以上)

 わずか60年前、本土の日本人同様に沖縄の男も女も、誰もがそう信じて疑わず、日本軍(皇軍=天皇の軍隊)と共に戦い、共に避難し、あげくは日本軍に騙され、切り捨てられ、食糧を横取りされたり無惨に殺され、圧倒的な米軍の前に放り出されたりした。

 本土決戦前の沖縄戦のそうした状況は、新聞、本、インターネットなどの情報からわかっているつもりだったが、想像力の欠ける自分には現地での実感体感作業が必要だった。実際、自分は沖縄戦の悲惨さをあまりにも知らなすぎたことを実感した。

 私が八重山諸島で取材した「戦争マラリア」では、軍命によるマラリア蔓延地域への強制疎開で、16884人の住民がマラリアを発病、少なくとも3647人がマラリアで病死した事実が好例だろう。戦争マラリアの生き残り取材については後日に雑記したい。
 
 もうひとつは、沖縄の地方紙(沖縄タイムスと琉球新報)の視点が力強く新鮮で、健全だなと感じた点だ。私は東京都内に住むいまは毎日新聞を購読。暗室のある田舎の信州では、地方紙では滅多にない国際面を2ページ持つ信濃毎日新聞を読む。

 実際、読者の声は沖縄県民の声をストレートに伝えていて、全国紙のようにオブラートにくるんだようなものと異なる。いくつかの例を引こう。(注:引用文は全文ではなく全体の一部)

 「鉄の暴風が去って六十年の歳月が流れましたが、今なお沖縄の土地の大半は米軍基地が占め、基地がある故に発生するさまざまな事件が起こっています。東洋一とか極東一といわれている沖縄の基地は、出撃、通信、訓練、偵察と分けられ沖縄全体を完全に要塞化しているような感じがします。」(7月24日付け沖縄タイムス、嘉手納町の女性) 

 「私立青山学院高等部の英語の入試問題に、元ひめゆり学徒が体験した沖縄戦の証言を「退屈」したと英文を記述し、出題したことは言語道断で、甚だ軽率な発言であり、元ひめゆり学徒隊員に対するぶしつけな態度でモラルに欠けていて無礼である。」(同沖縄タイムス、那覇市の75歳男性)

 「小泉内閣の大臣や幹部には、南京大虐殺、「慰安婦」問題などはでっちあげであり、先の戦争は侵略戦争ではなかった、と主張する人物がいる。前述の中山文科相、町村信孝外相、安部晋三氏ら。彼らは例の「つくる会」と全面的に提携して、歴史的事実を書く教科書を偏向教科書として攻撃しているのである。このような政治家がいる限り、韓国、中国、近隣諸国との友好平和は進展しない。」(6月22日の沖縄タイムス、那覇市の76歳男性)

 そこで提案したいのが、全国紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)と沖縄の新聞を差し替えて読者に配達するシステムだ。毎月一回でも、全国紙の読者宅に沖縄タイムスか琉球新報が代わりに配達されることを考えてみてはどうだろうか。そうすれば、正常な住民生活の邪魔となる米軍基地問題の記事から、平和憲法改悪の怖さまで、本土生活者でも気づくことになると思われるからだ。沖縄独自の文化伝統に関する記事から、遺族が何十人と名前を連ねた死亡・葬儀告知欄も新鮮に感じられること請け合いだ。

 沖縄県民の視点と自分の視点の大きなズレに気づくことが貴重だと信じる

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戦争マラリアとは何か?( 2005年9月記  山本宗補ホームページよりの復活)

《戦争マラリアとは何か?》     写真・文:山本宗補          (2005年9月記)

・「戦争マラリア」の記憶が風化する前に
 日本で唯一の地上戦が戦われた沖縄では、敗戦の年の6月23日に組織的戦闘が終わり、米軍死者12500人を含め、死者231000人を出した。わずか90日間あまりの戦闘により沖縄県民の4人に1人が亡くなったという。この中で、いわゆる「戦争マラリア」の犠牲者は3647人にのぼる。

 日本軍が沖縄住民の命など始めから守るつもりのなかった事例は数え切れない。「生きて虜囚の辱めを受けず」と軍国主義の洗脳教育の徹底で、多数の住民が自決を計っただけでなく、隠れていた壕を日本軍に追い出され米軍の攻撃にやられたり、スパイ扱いされて斬り殺されるなどの体験談も多く残されている。
 「戦争マラリア」は、戦わずして住民が日本軍に殺された事例のひとつだ。3600人という想像を絶する離島の民が、6月末の沖縄戦の終結にも、8月15日の敗戦にも左右されることなく、八重山の片隅でマラリア地獄の中を死んでいった悲劇は、十分な報道がされてこなかった事実だ。

 ここでも、天皇と大本営が敗戦を一ヶ月でも早く受け入れていれば、多くの民間人も兵士も無駄死などせずに済んだのにと、怒りを新たにする。戦後60年、軍部によって起きた悲劇の生き残りの多くが80代、70代の高齢者となった。人の記憶はいづれ風化して消え去ってしまう。そのためにも、戦争マラリアの生存者の話と写真を記録に残しておこうと思う。

・拒否できない軍命と疎開先
 戦争マラリアは、地上戦のなかった八重山諸島(石垣島、竹富島、西表島、鳩間島、波照間島、黒島、新城島、仲御神島)で起きた。沖縄の最も南に位置する八重山諸島では、米英軍による空襲は44年10月から始まり艦砲射撃もあったが上陸作戦は行われなかった。45年4月、沖縄中部に上陸した米軍の沖縄侵攻の戦略上、重要でなくなったためだ。

 しかし、石垣島の八重山守備軍は、無病地の島民を軍命でマラリア有病地へ疎開させた。石垣島南部一帯の住民は中部や北部の有病地へ、竹富、波照間、黒島、新城、仲御神島の住民は西表島の海岸地帯へと避難させられた。(西表島の疎開先によっては、マラリアの発病と死亡率が大きく異なった)

 各島の牛馬や豚、ヤギなどの家畜は屠殺を命じられ、保存肉は日本軍の食糧になったといわれている
 日本軍は44年に八重山郡島各地でマラリアなどの病気調査を終え、有病地帯を把握していた。また、マラリアは明治時代から八重山の風土病としてよく知られてもいた

 軍命による疎開は波照間島では45年4月頃始まり、疎開先での食糧が欠乏し始め抵抗力が落ち始める頃に雨季入りした。石垣島住民の疎開は6月に入って始まった。発病しても、抗マラリア薬などは手に入らないため、発病患者が1人二人と病死し始めた。しかし、本当のマラリア地獄は疎開が解除された7月以降、故郷に帰還してからだった。家に戻っても食糧も薬もないために、ほとんどの住民が発病し生死を彷徨った。
 人口31671人のうち、16884人の二人に一人がマラリアを発病し、3647人が病死した。6月から12月までのわずか半年の間の出来事だった
。主に10歳以下の幼児と61歳以上の高齢者に死者が多かった。石垣島の日本軍もキニーネなどの抗マラリア薬の欠乏で、680人の将兵が戦わずしてマラリア死した。

・死亡率が高いのは「熱帯熱マラリア」だったから
 キニーネさえ手に入れば、衰弱していてもこれだけ多数の人がマラリアで死に至ることはないだろう。例えば、私が取材で10数回訪れたことのあるビルマ・タイ国境周辺は、東南アジアでも有数のマラリア感染地域だが、薬が手に入らない地元住民にこれだけ死亡率が高い話しは聞いたことがない。私自身、これまでに4度マラリアが発病し、一度は熱帯熱マラリアだった。発病による高熱と吐き気と下痢で一気に体力が奪われ、10歳老けたように感じた。手遅れになる前にマラリア薬を服用することで助かってきた。

 しかし、死亡率が異常に高い原因は、戦争マラリアの6割がマラリアの中で最もやっかいで、若くても死に至る「熱帯熱マラリア」だったからのようだ。波照間島生まれで当時10歳の小学生だった平田登美さんの話しは、生存者に共通していた。
「身体がものすごく寒くて、2-3人で押さえつけても震えが止まらない、頭はボーっとして。脾臓が肥大し腹がポコッと膨れた。」

・波照間島の死者が異常に多い理由
 波照間島では山下という偽名を使い、国民学校指導員の身分で赴任していた軍のスパイの存在で、疎開が徹底して行われた。その結果、島民1590人中477人がマラリア死だった。10人中3人が死んだことになる。人口1345人の黒島島民が、同じ西表島に疎開(別の海岸地帯)したものの、マラリア死が19人だけだったことと比較すると、波照間島の犠牲者数は異常だ。
 当時23歳で現在は83歳になる大泊ミツフさんは、自分の家族と嫁いだ先の家族を合わせると、16人の家族がマラリアで病死した最も不運な方だ。自らも発病し、家族全員の最後を看取ることができなかったことをいまでも申し訳ないことと悔いていた。

一日たりとも死んだ人のことを考えないことはないよ」
 大泊さんと同じ集落に住む浦仲孝子さんは当時13歳。「私は家族11人亡くなったよ」と話し、7人兄弟のうち二人だけ助かったと言った

 疎開先が悪性マラリアが蔓延する地区だったことと、帰島後の食糧難が波照間島民の悲劇に直結した。島の食糧を根絶したのは山下だった。山下は陸軍中野学校出身の特務兵で、牛馬などの家畜の一部を島民に命じて屠殺、遺棄させ、その上残る家畜は屠殺後に島のカツオ工場で薫製にして日本軍の食糧にしたと指摘されている。

 本来は豊かな島に帰島後、住民が飢えとマラリア地獄に苦しんだのは疎開中に軍人としての本性を見せた山下軍曹の役割抜きには説明できない。 
 波照間島から西表島が見渡せる丘に、「学童慰霊碑」が建っている。波照間小学校創立90周年記念として、1984年に建立されたものだ。学童だけでも66人がマラリア死をしたことが記憶されている。

・「忘勿石 ハテルマ シキナ」
西表島(いりおもてじま)は全島が有病地だったが、中でも大泊さんたちが疎開した東部海岸の南風見田海岸は悪性のマラリア地区だった。疎開解除で帰島する8月始めまでに84人が犠牲となった。これらの犠牲者を追悼する慰霊碑が南風見田海岸に建つ。隣にある大岩には、軍命に抵抗できずにマラリアにより多くの生徒を失った無念さを「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」と刻んだ10文字が鮮明に残されている。 

 当時の波照間国民学校校長だった識名信升先生が、帰島に際して残したものだ。識名校長は島民が疎開先で全滅することを怖れ、石垣島の宮崎旅団長に直接かけあい疎開解除の許可を取り付けたと人物として、生存者の記憶に深く刻まれている。

 慰霊碑は生存者や遺族たちの募金で92年に建てられ、八重山の海を挟んで学童慰霊碑と向かい合って建っている。岩に刻まれた10文字と慰霊碑は、日本の最南端のはずれで忘れられてきた戦争マラリアの悲劇を伝える平和教育の発信地となっている。 

 帰島にただ一人反対した人物が、米軍上陸時の徹底抗戦に備え山中に避難小屋を設営させていた山下虎雄軍曹だ。この山下については別項で触れるが、彼は各離島に送り込まれていたスパイの一人だった。米軍進駐後、民間人になりすまして島を脱出し、戦後も島民に全く謝罪することも戦犯として断罪されることもないままに生き延びた。  

・石垣島のマラリア死は全体の7割弱
石垣島民のマラリアによる死者数もおびただしい。当時の石垣島では多数の住民が居住する南部一帯が無病地域で、疎開先の中部や北部のジャングルがよほど悪性マラリアの感染地帯だったに違いない。
 登野城地区住民3804人中633人が死亡。大川地区住民2465人中226人が死亡。真栄里地区住民239人中88人が死亡。平得地区住民613人中264人が死亡。大浜地区住民1866人中479人が死亡

 資料から引用すると、当時10歳で真栄里地区住民だった村福長英さんは、石垣島中部の白水に避難し、母、長女、次女、三女の家族四人をマラリアにより失っている。石垣島だけで約2500人がマラリア死したとみられる。
 9月に八重山に進駐した米軍が、マラリア対策として抗マラリア薬のアテブリンを患者に配り始めたのは12月下旬になってからだった。マラリアの流行から半年、ようやくマラリア地獄が収束に向かうことになった。

戦後、6年間で約6000人の計画移民が沖縄本島などから入植した石垣島では、1954年から57年まで、「移民マラリア」が流行ったこともある。現在も石垣島の一部の河川には、マラリアを媒介とするハマダラ蚊の生息が確認されている。

・国家賠償請求の政治的解決
 戦争マラリアの遺族による国家補償の請求は、結果からいうと曖昧な政治的解決で1999年にピリオドがうたれている。遺族への見舞金もない

 国家補償を請求する動きは戦後44年が過ぎてから起きた。遺族らが「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成し、国に補償を求める活動を始めた。石垣市議会、竹富町議会が県と国へ補償を要請し、沖縄県議会は県と国へ意見書を提出した。

 1995年、政府(村山内閣)は石垣島と波照間島の軍命による住民の強制避難を認めた。与党戦後五〇年問題プロジェクトチームは、石垣、波照間、黒島、新城、鳩間島の五島での軍命による住民の強制避難を認め、政治的解決策を狙った。その結果、二億円が八重山地域の慰しゃ事業として政府に要求されたが、見舞金は保留とされた。
 この年の12月、95年度予算で総額三億円のマラリア慰しゃ事業経費が認められた。事業の内容は、慰霊碑建立、マラリア記念館の建設、マラリア死没者資料収集・編集作業、死没者追悼事業からなり、遺族に対する見舞金はなかった

 「八重山戦争マラリア犠牲者追悼・慰霊碑」が石垣市のバンナ公園内に建てられた(97年)。犠牲者を追悼する資料・証言集の「悲しみをのり越えて」が発刊された(98年)。戦争マラリアに関する常設展示施設として「八重山平和祈念館」が石垣市にオープンした(99年)。

遺族の「援護会」は解散し(99年)、「八重山戦争マラリア遺族会」が発足した(2001年)。島民477人が戦争マラリアの犠牲になった波照間島の遺族は、慰しゃ事業で波照間島にも慰霊碑が建立される計画も含まれていたと指摘したが、慰しゃ事業は完了しているようだ。

・戦争マラリアは軍隊の役割をいまに伝える
 波照間島生まれで当時8歳だった玉城功一さん(68歳)は、1970年代に沖縄県史の編纂に関わり、50人くらいの波照間島民からマラリア体験談を集めて回った。島民の証言から、山下軍曹が住民をマラリア地獄へ送り込んだ人だと確信した。

島の歴史の中で半年の空白を作った。空白の6ヶ月は牛馬の生き地獄となり、島民が帰ったら人間のマラリア地獄だった。まだ、島には屠殺された家畜の慰霊碑もない。ムシャマー(先祖供養)の行事にも戦争マラリアの証言を含めた慰霊祭もない。島でも風化して子どもたちの父母も戦争マラリアの実相を知らない。かつての戦争体験を確認し、いまの政治の動きを考えてみる必要がある。かつての日本軍はどうだったか。山下の役割が象徴的だ。シマンチュを守らなかっただけでなく、食糧確保のために死地へ住民を追いやった。軍は誰のものか。形を変えても軍隊は本質的には変わらない。わかりやすいのが波照間の戦争マラリアだ。

(戦争マラリアを生き残ったお年寄りの証言は次項で紹介する)
(注:オリジナルのホームページでは写真も掲載していましたが、このブログは本文のみの復活です)

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「戦争マラリア」の体験談:生存者の記憶集(2005年9月記   山本宗補のホームページ復活から) 

2:「戦争マラリア」の体験談:生存者の記憶集

 この項では、2005年7月から8月にかけての八重山諸島取材で直接話を聞いた、いわゆる「戦争マラリア」を生き残ったお年寄りの証言の一部を掲載します。1945年、日本軍による軍命でマラリア感染地域に強制的に疎開させられた離島住民約31700人のうち、ほぼ半数が発病し、3647人がマラリアで病死した、「戦争マラリア」の一言で表現されるには余りにも悲惨な歴史の証言者です。沖縄の人にとっては、既知の悲しい事実のひとつかもしれませんが、本土の人間にはショッキングな沖縄戦の隠された一面です。

「マラリア死」と表現してもおかしくない死者の大半は、6月23日に沖縄戦が終結し、敗戦後の9月から11月の三ヶ月間に死者が集中しています。本土では敗戦後の混乱時代とはいえ、すでに「生活再建」や「復興」に取りかかっている頃です。石垣島のマラリア地帯から生還したお年寄りの話を今回の取材では聞いていませんが、八重山平和祈念館の資料では、石垣島島民だけでも2500人が亡くなっています。8月15日に敗戦となったからといっても、八重山島民の戦争は終わらなかったのです

*石垣島*
島村修さん
 1926年(大正15年)波照間島生まれ。(旧姓新城)。79歳。石垣市在住。19歳で石垣島防衛の宮崎旅団に現地入隊。米軍の空襲が下火になった6月ごろから部隊内でもマラリア患者が出始め、一個中隊がマラリアで丸倒れした部隊も出たという。武装解除の時、兵器係が菊の御紋をヤスリで削った。9月に除隊し帰島すると、家族みんながマラリアで倒れていたという。自分も感染し発病する。「12月ごろようやく起きあがれた。看病疲れで父と兄の子ども3人がマラリア死。出棺は手を合わせただけだった。自分も弱っていたけど、一度だけ14-5歳の女の子を二人で担いだ。マラリアに罹らなかった長兄は、毎日他の人の葬式に出る人。遺体はムシロにくるんで浜の近くで土を掘って埋めた。戦後の昭和22-3年ごろ、島内と西表の大原で骨を収骨して一気に片づけた。東隣と裏の家族は家族丸倒れで全滅に近かった」。「波照間では500人の人間が死んだ。永遠に忘れてはいけない、風化させないために島の力で将来は慰霊碑を作りたい。」

 戦後41年間、小中学校で先生をし、1987年(昭和62年)退職。日本全体の右傾化に危機感をつのらせ、「大臣の半分は憲法を変えようとしている。安部の主張は私の常識では考えられない」と、妻のヤス子さんと石垣から九条を守る運動を始めた。

玉城功一さん
 1937年(昭和12年)波照間島生まれ。68歳。戦後、島村修さんが担任した初めての教え子。石垣島在住。戦争マラリアによる強制疎開は8歳の頃。仲本村議の計らいで、マラリアの少なかった西表島の由布島に疎開。軍刀を抜いて住民を威嚇し、波照間島民を西表島に強制疎開させた陸軍中野学校出身の山下虎雄軍曹の妾も後から由布島に疎開したという。帰島後、家族全員がマラリアを発病したが助かった。
「食料がないので、ソテツの幹を発酵させ食べた。隣のおばあさんは高熱で頭が狂い、髪の毛をたらしたまま石垣つたいに歩いていた姿が忘れられない。」
 1972年、玉城さんは県の依頼で県史編纂の仕事をし、波照間島を一人で担当し、約50人のお年寄りの体験談を聞いた。
「家族17人中、自分一人だけ生き残った大泊ミツフさんに手記を頼んだ。始めは残酷だと断られたけれども、メモを書いてくれた。すごい内容だった。書きながら涙が出たらしい。生の声を生かして原稿用紙に書き直した。」

「山下は島民をマラリア地獄に送り込んだ。強制疎開は牛馬を薫製にして日本軍の食糧にするのが狙いだったといわれている。島の歴史で半年の空白ができた。牛馬の生き地獄、帰島すると人間のマラリア地獄。山下は最期の最期まで住民全員の自決を考えていた。山の中腹に第二避難所を作らせた頃、住民は「崎山ゆんた」を歌って涙を流した」
(注:「崎山ゆんた」とは伝統的な八重山民謡で、一八世紀の半ばに波照間から西表に強制疎開させられた島民が、マラリアという風土病に悩まされながら開拓した苦しい心情を、海のかなたに見える波照間島を思って歌った望郷の歌
。)

「軍隊とは誰のものか。その象徴が波照間だった。軍を守るため、国家体制を守るためだった。形は変えても軍隊は本質的には変わらない。」そう玉城さんは話した。

親盛長明さん
・1916年(大正5年)生まれ。89歳。石垣市在住。4年前まで竹富島で医介補として開業していた。12歳の時、牛から落ち右腕を骨折。ペニシリンも医療技術もなかったために切断した。戦争中は軍命に従い、医介補として二個中隊の軍人の診察を担当し、強制疎開をせずに済む。昭和27年(1952年)、マラリア撲滅の使命を受け、石垣保健所の西表出張所に赴任。昼は公務、夜は産婆役として多忙だったという。当時は西表島に開拓移民が入植しはじめた時期だ。23年間勤務したのち、開業して17年間西表島で診療生活。40年間で、300人の赤ちゃんを取り上げたという。生まれ故郷の竹富島に移り、9年間住民を診療して86歳で引退した。

*波照間島*
大泊ミツフさん
・1922年(大正11年)波照間島生まれ。83歳。昭和20年4月、軍命により西表島の南風見田に強制疎開させられた。西表島は「昔、じいさんたちも強制移民でマラリアで死んだ」島だと大泊さんは話した。当時23歳、子どもが二人いた。疎開先で山下軍曹に棒で叩かれ倒れたことがある。袋がひとつなくなったのが、暴行の理由だという。その時のあざは帰島するまで残っていたそうだ。山下が「軍靴で歩くのが恐かった」と話した。8月に帰島すると、「戦前はハテルマは裕福な島だった」と大泊さんが言う島は、食糧と医薬品の欠乏から「マラリア地獄」だった。「体力の弱い子どもや年寄りが亡くなっていく。家族7人は看取ったが、その後は発病してしまい、自分の子どもも看取ることができなかった。一日たりとも亡くなった人のことを考えないことはないよ。毎朝、手を合わせて祈る。」
 家族16人をマラリアで失い、戦後4人の子どもを生み育てた大泊さんだが、我が子には辛い体験を話せなかったという。東京にいる次男が母親の戦争体験を知ったのは、ジャーナリストの書いた本を読んでからだという。

浦仲孝子さん
・1931年(昭和6年)波照間島生まれ。74歳。大泊ミツフさんの取材を終え、近所の家を通りかかった時、フェンスに上って垣根を剪定していたのが浦仲さんだった。台風が翌日上陸予定なので、枝を切っているのだと話した。偶然の立ち話から、浦仲さんも大泊さんのように大勢の家族を戦争マラリアで失ったことを知った。「私は家族11人亡くなったよ」。7人兄弟のうち5人がマラリアで死亡。両親も亡くなり、本人と妹だけが生き残ったという。竹富島町誌で浦仲さんの家族9人の名前が確認できる。町誌の波照間島死亡者リストを開いてみると、大泊さんや浦仲さんのように、家族10人以上が死亡した家が2軒だけでないことがわかる。

*西表島*
波照間寛さん
・1928年(昭和3年)波照間島生まれ。77歳。15歳のとき少年兵を志願し、身長不足で不合格となり沖縄の水産学校入学。帰省中に沖縄戦が始まり波照間島に帰島する。西表島への強制疎開を指揮した山下軍曹(国民学校の指導員として離島に送り込まれた陸軍中野学校出身の特務兵)の挺身隊に入り、島に残る年寄りを手助けし疎開前に牛馬60頭あまりを屠殺した。牛を屠殺場まで引っ張っていったり、死んだ牛馬を浜辺近くの壕に埋めたりしたという。「戦前は駐在と学校の先生は恐かったよ。ところが、山下は警官さえ叩いたよ
西表から帰島後にマラリアが発病。「あの時は熱ばかりで覚えていないよ。壺の水をホースで垂らして、水をどんどん流して冷やした。熱のある者は何もわからないよ。長女が石垣から戻り、看病してくれた。うちだけは一人も死ななかった。助かったよ」
戦後、西表島に開拓移民として入植。サトウキビ作りと牧場を経営する。竹富町議を4期務めた。

仲底善光さん
・1935年(昭和10年)波照間島生まれ。70歳。強制疎開当時は小学校3年生。「ハエをを取らないことを理由に、怠けたといって青竹がボロボロになるまで手やけつを叩かれた。6年生の冨底はそのために熱発して亡くなった。一生忘れないよ。」南風見田海岸で子どもたちにハエ取りを命じたのは山下軍曹である。マラリア対策で効果があると思ったのだろうか。帰島後、家族全員がマラリアを発病したが、ソテツを食糧にして生き延びたという。戦後の昭和27年、西表島に開拓移民として入植した。

平田登美さん
1935年(昭和10年)波照間島生まれ。70歳。西表島在住。当時は10歳で小学校4年だった。父と母方の祖父母がマラリアで死亡疎開先の西表島南風見田で、「三つ上の兄と同級だった冨底さんは、ひどく叩かれて二日後に死亡した。兄も腕を叩かれ、しばらくは腕が自由に動かなくなった。島に帰る前に発病して、ボーとして覚えていない。父がここで死なすより(ハテルマ)島で死なせたいって。身体がものすごく背中から寒くなるので二人で押さえつけても震えがとまらない。」
帰島後は、「遺体を2-3人で担いでいったり、一人でムシロで引っ張ってゆく姿を毎日見ていた。恐いとも悲しいとも思われなかった。自分もいつか死ぬと思っていたのだろうか。」
「食べ物何もない。ソテツは味がない。でもおいしいと思った。」
 戦後は学校の検査でお腹の脾臓のある部分がポコッと膨れ、クラスでもいちばんひどかったという。「みんな顔がやせ細り、目が出ていた。もう大丈夫だと思ったのは一年くらいたってから」

平田一雄さん
1933年(昭和8年)沖縄本島本部生まれ。73歳。西表島在住。民宿「南風荘」を25年前から開業。平田登美さんの夫。5歳の時に大阪に出る。戦後に沖縄に帰島。昭和49年(1974)に西表島に移る。切手収集家であり新聞へ自然保護や戦争マラリアの継承を訴える投稿マニアでもある。沖縄本島で生まれ育った平田さんだが、波照間島出身の奥さんと結婚し、西表島に移り住んだことで、戦争マラリアと深い関わりが出来た。
平田さんは、波照間国民学校校長だった識名信升先生が、南風見田海岸の石に刻んだ「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」の文字を保存し、戦争マラリアの事実を伝える石碑建立をマスコミを通じても呼びかけた。多くの関係者を取りまとめるのに奔走し、生存者や遺族たちの募金で石碑は1992年に完成した。6月23日と8月15日は慰霊祭を行う。

*竹富島*
加治工トヨさん
・1913年(大正2年)竹富島生まれ。92歳。子ども5人、孫15人、ひ孫8人に恵まれた。孫一家と同居し、生後6ヶ月になるひ孫のお守りが生き甲斐。戦前の青春時代は台湾のヒールンで五年間、下駄屋で女中奉公したという。西表島の船浦に疎開中、5歳の娘をマラリアで失った。「薬がない、食料もない、あの頃はかわいそーだったね。今の子は食べ物があり余り、今の子がうらやましいよ」と、加治工さんはひ孫を抱きかかえながら、60年前にマラリアで死なせた我が子のことを申し訳なさそうに話した。

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2018年12月 2日 (日)

2006年9月22日(宗補雑記帳より復活ブログ):名取洋之助展を見てカメラマンの戦争責任を思う

 川崎市民ミュージアムで9月3日まで開催されていた「名取洋之助と日本工房」展のことについて触れておきたい。戦後の日本写真界を築いたカメラマンたち、例えば名取洋之助、土門拳、木村伊兵衛などが、かつての軍国主義の時代に日本軍の戦争にどう協力していたのか、自分があの時代にプロのカメラマンだったらどのような生き方ができたのかを考えざるをえなかった展示だったからだ

  「日本工房は、日本の写真・デザイン界の源流である」とまで評される日本工房は、報道写真とグラフィックデザインの民間会社として1933年に名取が結成した。日本工房で名取と共に活躍した写真家には木村伊兵衛、土門拳、小柳次一、藤本四八などがいて、デザイナーには熊田五郎や亀倉雄策がいる。戦後、名取、木村、土門、藤本の個人名を冠した写真賞があるほど彼らの写真界での存在は不動だ。また熊田は戦後に千佳慕と改名しミツバチの細密画で著名な絵本作家となり、熊倉は日本デザイン界のパイオニアとなり、東京オリンピックのポスターデザインで知られ、デザイン界の賞を総なめにしたほどの人物だ。彼らが組んで手がけたのが「NIPPON」などの斬新なグラフ雑誌だ。一枚の写真の影響力は、現代と比べると、比較のしようもないほど強烈で、国家による国策宣伝手段としての役割を担うものだったと思う。

 数年前に古本屋でたまたま見つけた小柳次一「従軍カメラマンの戦争」(石川保昌文・構成、新潮社1993年刊)を読んだ時、中国大陸を1000㌔以上も日本軍に従軍したカメラマン小柳が命を削りながら撮った写真を、名取が自分の名を使って海外に配信した話を知った。それ以来、名取を好きになることはできず、写真を見たいとも思わなくなった経緯があった。名取の戦争への関わりを詳しく知りたいと思い、出かけた展示だった。

 資産家の息子だった名取はドイツ留学中の経験を元に、ヒトラーが政権を握ったドイツから帰国後、外国向けグラフ雑誌の制作を手がけた。時代背景は、1932年に満州には日本軍の傀儡政権が誕生し、日本政府は33年に国際連盟を脱退した。そんな中で対外文化宣伝グラフ雑誌として「NIPPON」が名取により34年10月に創刊された。たしかアメリカでLIFE誌が発刊されたのは36年頃だ。日本語版はなく、英・独・仏・西語で印刷された。対外宣伝を担った国際文化振興会が高松宮を総裁として34年に創設され、名取はここから資金補助を得て「NIPPON」の刊行を軌道に乗せたという。

 展示は、名取が当初目指した日本文化や産業を海外に紹介する内容が、日本の大東亜共栄圏構想を宣伝し、侵略を正当化する内容にどんどん変わっていったのがよくわかった。「NIPPON」は44年9月の36号まで刊行された。

 たとえば3号(35年4月)では「極東に平和をもたらす男」として広田弘毅(36年に首相就任、戦後はA級戦犯として処刑された)が紹介され、4号(35年7月)では満州国皇帝の日本訪問が掲載され、5号(35年11月)の表紙は日の丸のイラストで、名取が撮影した日本軍の写真ルポが「皇軍」と題して載っている。9号(36年11月)には土門拳による海軍の写真が「日本の水兵」として掲載され、19号(39年12月)の表紙は亀倉が構成した満州国の地図が真っ赤にデザイン化され、MANCHOUKUOの文字が目に飛び込んでくる。 29号(42年9月)の表紙は、樺太から日本列島、中国、インドシナ、ビルマからインド、インドネシアなどを地球儀的な地図上に描き、東京を基点に赤い線が大東亜鉄道としてインドネシアまでつながっている。

 最終号となった36号(44年9月)の表紙は土門拳による「銃後の護り」と題された写真からの一枚で、短パン姿の若者がさっそうと柔軟体操をするカットがアップで使われている。

 開戦から二年目の42年、ミッドウウェー海戦での敗北で日本が敗戦への坂道を下り始めた本当の戦況を隠す日中戦争に突入すると、名取は軍部との関係をますます強め、プロパガンダ目的の6種類の新雑誌を次々と創刊する

 「COMMERCE JAPAN」(38年4月)、「SHANGHAI」(38年12月)は陸軍による謀略雑誌で蒋介石に対すネガティブ・キャンペーンが狙いだった。「CANTON」(39年)、「華南画報」(39年)と続き、「MANCHOUKUO」(1940年)は関東軍報道部の出資で創刊され、「EASTERN ASIA」(40年)は満鉄の広報誌だった。まるで軍部御用達ビジネスマンのような仕事ぶりだ。

 この間、日本工房は39年には国際報道工芸株式会社と改組し大きくなり、名取は中国大陸に拠点が必要となり、38年に中支軍報道部写真班の役割を担う上海プレス・ユニオンと、写真配信機関のプレス・ユニオン・フォトサービスを作り、広東にサウス・チャイナ・フォト・サービスを設立した。39年には満州にマンチュウコウ・フォトサービスを設立し、40年には上海に移住した。41年からはタイ語の「カウパアブ・タワンオーク」を創刊した。これは内閣情報局の指導と資金での仕事だという。

 展示を見て、初めて名取洋之助が果たした重要な役割を認識できた。小柳や土門らが撮影した写真をNatori名で海外に配信するだけではなく、これほどまでに積極的に軍部と手を組み写真の力を国策プロパガンダに発揮したことに愕然とした。木村や土門などもそれなりの戦争協力を果たしたことも知った。60年以上も前のカメラもフイルムも格段に劣る道具を使いながら、彼らの写真が素晴らしいものであるだけに、余計暗い気持にもなった。

 画壇では藤田嗣治が、戦争協力を仲間うちで問われ、そんな日本人社会を嫌ってパリへ帰っていった藤田のことは知られている。しかし、もしかしたら写真界は誰も戦争に加担した責任を取ろうとしなかったのではないかと

  しかしだ。考えても見よう、天皇を神として崇拝し、天皇と国家のために命を投げ出すことを何とも思わせないマインド・コントロールで国民が縛られていた時代に、生きるため、家族を養うため、職を得るために選ぶ道は他にあったのだろうか。

 もし仮に、あの時代に自分が写真を職業とし、日本工房のような会社で仕事ができる機会が与えられたらどうするだろうか。周囲と協調して、編集路線に添って良い仕事をやり残そうと頑張るだけだろう。しかも戦争に協力し国民を騙す政府に加担しているという意識も薄いまま。それも確かだろうが、名取の果たした役割というものは別扱いの必要があるだろうとも思う

 また、一番悪い者は誰なのだろうかと考えてみると、自分の信条や信念までも殺して生きるしか道がない天皇制軍国主義の社会そのものが悪なのだということがわかってくる。天皇や軍部に対する批判や非難を許さず、命の軽さしか教え込まない社会に変質することを国民が食い止めなかったことがそもそもの問題だと見えてくる。 たかだか皇室に男の赤ちゃんが産まれたことに号外を出し、「奉祝」などという文句で飾り立て大騒ぎする今の日本社会と、戦前とはどこがどう違うのだろうかとも考えてしまう。侵略戦争の総括さえできない男が次期首相となることを、六割近い国民が支持する社会と、戦前がどれほどの違いがあるのかということも考えざるをえない

 戦前、日の丸、君が代が果たした役割について全く無知な男が首相を務める現在の日本社会が、戦前と比べてどれほど健全な社会なのかをついつい比べたくもなってしまう。

 名取は戦後に刊行された全286作の人気シリーズ、岩波写真文庫という写真集シリーズに編集責任者として能力を発揮した。名取が亡くなったのは62年、52歳だった。いまは名取が戦争協力を自ら潔く総括したことがあると思いたい。

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2018年12月 1日 (土)

2008年3月26日(宗補雑記帳より復活ブログ):アメリカ政府嫌いのフォトジャーナリストの死

 フィリップ・ジョーンズ・グリフィス氏がロンドンの自宅で19日にガンで亡くなったという。72歳だった。ロバート・キャパたちが創設した個性あふれる写真家集団マグナムMAGNUMのメンバーで会長も務めた人物だ。 ちょうど発売中のDAYS JAPAN 4月号に、彼の写真が10ページにわたって特集されている。

 ガンで闘病中の死の床にあるグリフィス氏に敬意を表して特集されたものと思われが、雑誌の刊行日に彼は旅立ったことになる。たまたま私の写真も掲載されている号なので光栄だ。

 「Vietnam Inc.」。70年代の終わりに遊学中のアメリカで見た彼の代表的な写真集だ。ベトナム戦争の一連の作品群が、アメリカ政府批判の独自の精神に根ざした視点で貫かれていて、アメリカによるベトナム侵略戦争の犯罪をたった一人で告発する闘いを挑んでいる印象を受けたほどだ。

 朝鮮戦争でのアメリカ海兵隊の悲壮感あふれる写真で有名になり、米軍によるベトナムの「ソンミ村虐殺事件」はなかったとする論陣を張ったデイビッド・ダグラス・ダンカン氏のような米軍の肩を持つ報道写真家とは対極にある人だ。

 いまグリフィス氏の写真を改めて見直すと、写真のうまさではなく、写真によって何を伝えなければならないのかという冷徹な視点に徹し、戦場で求める被写体に遭遇していたように思われる。反骨心あふれ、独自の哲学のある偉大なフォトジャーナリストの一人だった

 帰国後の80年代始め、アルバイトをしながら生活している頃、多国籍企業のアニュアル・リポート(年次報告書)のための撮影に来日した著名なマグナムのカメラマン数人の荷物担ぎ兼ガイド的なありがたい仕事が時折入ってきた。彼らの日本での撮影料は一日1000ドルくらいの破格なものだった。私にとっても率の良い収入で、お金をもらって彼らの撮影ぶりを勉強させてもらう一石二鳥の仕事だった。何よりも写真集でしか知らない彼らのアシストのような仕事ができることが光栄だった。グリフィス氏もその一人で、そうした収入が彼らの個人的な撮影テーマの資金になっていることも知った。

 その時の印象は、ずば抜けた長身の大柄な体格で、イギリス人的なシニカルな比喩を好む、ユーモアのセンスのある人だった。イギリスといっても、ウェールズ人であることを誇りにしていた。少し短期なところがあったが、持ち前の批判精神は長年の戦場や紛争地取材で身につけた感性だと思われた。

 MAGNUMのサイトで、グリフィス氏がベトナム戦争で米軍が無差別に投下した猛毒の枯葉剤(Agent Orange)を原因とする奇形児を取材する姿を追ったドキュメンタリー番組の一部を見ることができる。放射能や劣化ウランによる影響を数十倍にしたかと思われるほどすさまじい。

 眼球がない、両腕がない、肥大した頭などの子どもたち無数にいる。枯葉剤の被害者が三世代目に入っていることも驚きだった。とにかく圧倒される映像だ。ベトナム戦争が終結して30年。戦争が全く終わってもいないし片づいてもいないことに気づかされる子供たちの存在に気が動転した。

 グリフィス氏はベトナム戦争の追跡取材を長年続けていたことを知った。番組の中で、大勢の奇形児が生活する施設が主にドイツやフランスからの援助によって運営されているが、アメリカ政府からの援助がゼロであることを語っていた。彼はスティール写真の力をまだ信じている姿も見えた

 たった一人でもすごい仕事ができることを教え、ベトナム戦争を知らない世代でも戦争の醜さを感じ取ることができる記録写真群を後世に残してくれたことを感謝し、グリフィス氏の冥福を祈りたい

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2006年4月25日(宗補雑記帳から復活ブログ):藤田嗣治の戦争画を観た(宗補雑記帳より)

 藤田嗣治展を観てきた。日曜日だったので、混雑を避けるため、開場30分前に着いた。ゴッホ展と比べると、あまり待たずに入場でき、思ったよりも時間をかけて作品を観ることができた。テレビでの紹介以外は、ほとんと藤田の作品を気にして見たことがなかったので、少ない先入観で素直に感じることができた気がする。

 藤田はまぎれもない巨匠だった。どんな題材であろうと、独自のスタイルで最高の作品を数多残したことを実感した。藤田が戦争画を描くことで軍部に協力した画家だということは知っていたが、彼の戦争画を観るのは初めてだった。では藤田はどのくらい日本軍の宣伝工作に貢献したのだろうか。展示されていた戦争画は4点のみ。ここではそれらを観て判断するしかない。

 作品の油絵はどれも写実的な大作で畳3枚程度のものから5-6枚はあった。太平洋戦争に突入したばかりのシンガポール攻略、アッツ島玉砕、戦局を変えたガダルカナル島玉砕、米軍の自由な本土攻撃を可能にしたサイパン島激戦の結末であるサイパン自決を題材にした四つの作品だった。アッツ島とサイパンの作品の前にして、身動きできなくなった。アッツ島の作品から最も強く感じたものは、恐ろしいまでの戦争の残酷さであり、醜さだった。普遍的な戦争の本質だった。人殺しに狂った人間が描かれ、戦争写真以上の衝撃だった。藤田の描いたアッツ島玉砕は、あたかも戦国時代の両軍が刀で敵兵を切り裂いたり、突き刺したりするように、日本軍と米軍がごちゃごちゃに入り乱れ殺し合う非現実的な肉弾戦が展開する。

 銃剣を米兵の胸に突き下ろそうとすっくと立つ日本兵のすぐとなりに腹這いになる米兵は、1-2メートル目前の日本兵に向け拳銃の引き金を引こうとする。その米兵に日本刀の矛先を向ける日本兵は、眉間をすでに撃ち抜かれたように呼吸が止まったような表情をしている。日本刀で背後からバッサリと切られて、後ろにのけぞる米兵もいる。牙をむき出し鬼の形相をした日本兵が中央に仁王立ちする。画の周辺は身動きしない両軍の屍が大地を覆い隠すように積み重なっているように見える。画面中央下の、わずかに残す大地に、藤田は可憐な花を咲かせる雑草を2-3本描いている。

 この作品が描かれた63年前、戦争が日々の現実だった当時の人の視点と現代人の見方感じ方が異なるのは当然だが、藤田がアッツ島の作品で米軍の攻撃から島を死守しようとする日本軍の勇猛果敢さを賛美する作品に仕立てようとしたとは、私には感じられなかった。

 作品からは、彼は純粋に馬鹿げた戦争の実相を、人間の内面を表現できる画家として描写したとしか感じられなかったのだ。そんなことを感じながら、見に来て良かったと思っている時だった。すぐ後ろから中年のおばさん二人組の声がした。一人が言った。「イナバウアーみたいね」。日本刀で切られ後ろにのけぞって倒れそうな米兵のことを指しての会話だった。その瞬間、思わず心が凍り付いた。戦争のことなど想像もできない中高生じゃあるまいし、あまりの軽い表現に圧倒されてしまった。単なる平和呆けとも思えなかった。5年前の小泉首相の登場を、諸手で支持した女性層と重なると思えて仕方がなかった。

 サイパン島の民間人の自決を描いた画は、藤田がその場にいたか、米軍が撮影した映像を見て描いたような現実感にあふれていた。バンザイクリフから飛び降りる女性たち、断崖絶壁に飛び込む寸前の髪を振り乱して何かにとりつかれたような女たち、赤ちゃんを背負い、飛び込むことに迷いを見せる母親、銃口を口にくわえ、足の指で引き金を引こうとする日本兵など。あの東条英機が発令した、生きて捕虜としての辱めを受けるなと教える「戦陣訓」を忠実に守ろうとするかのように、自らの命を絶とうとする日本兵と民間人の夥しい死の虚しさを藤田の画から感じてしまうのだった。

 敗戦後まもなく、フランスに帰っていった藤田は、飽食に興じる動物たちの晩餐会を描いている。10数匹の猫が狂った表情で組んず解れつの殺し合いのけんかをする名高い画は、1940年に描かれたものだ。どちらの画も人間の醜い本質を描写しているとしか思えなかった。さらに付け加えれば、「アージュ・メカニック」と題された1958年ごろの作品で、20数名の子どもたちが、おもちゃやロボットなどを手に思い思いの遊びを楽しんでいる作品は、純粋無垢な子どもたちがそのまま大人に成長してくれることを願うようなものに思えた。

 晩年期の宗教画没頭した背景にも、醜い戦争の時代の体験が藤田の創造力を駆り立てたと感じた。それぞれの時代に、藤田の描いた動物画、戦争画、子ども世界、それに宗教画、全く異なる藤田独自のスタイルだが、一本で繋がる必然性が浮かび上がってくる展示だった。

 それにしても、入場券と一緒に渡される作品解説の幼稚さには呆れ果てた。高校生による殺人事件が二件続いた。全く無防備の弱者である中学生の女の子と71歳の老人が犠牲になった。中年女性が戦争画を前に平然と言う社会が生み落とした少年たちだ。人間の心を思いやる感性を持たない輩を首相にまつりあげ続ける社会が、念入りに醸成している結末にほかならない。

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2006年3月10日(宗補雑記帳から復活ブログ):東京大空襲の恐怖は井上有一の書で実感

 広島、長崎の原爆投下と同様に、アメリカ政府の人種差別を感じる東京大空襲から61年。
戦後に信州で生まれた私が、この日の恐怖を身近に想像できたのは、井上有一という前衛的書家の作品展を見た時だった。井上は20年ほど前に70歳くらいで没しているが、「貧」や「花」などの一字だけをまったく型にはまらない書で現したことで知られ、書道界の枠ではおさまらない独立独歩の人だったようだ。

 10年以上前に作品展を見る機会があったが、書に圧倒され、ビデオ映像に圧倒され、彼の生き方にもしびれた。 
とりわけ気に入ったのは、「貧」の一字シリーズだった。いま思うと彼の書の世界には、禅の修行者がたどり着いたような無駄をまったくそぎ落とした世界が感じられた。生き方も清貧だったと想像する

 その時の展示で見たのか、別の展示で知ったのか覚えていないが、井上有一は61年前の大空襲でほとんど焼け死ぬ寸前の状況を生き延びた。本当に紙一重だったようだ。彼は下町の小学校の校長先生か何かで、学校も焼け尽くされ、壁一枚で猛火から身を守った。その時の体験も日記風に書にしていたと記憶する。彼の本が手元にないので確かめられないが、戦後の井上有一の書での表現は、東京大空襲の原体験が底流にあるのは間違いない

 私には一人の書家の体験記で、東京大空襲が身近に感じられるようになった。井上の晩年の頃の写真で記憶に強く残ったものがある。繰上和美という著名な広告写真家が撮影したモノクロ写真で、書道半紙を小脇に抱える頭を剃った井上有一の後ろ姿をとらえたものだ。ハッセルブラッドで撮影したと思われるが、存在感、気迫、強靱な意志がこれほど伝わってくる写真は他にない。見えない井上の引き締まった表情を見る者に想像させる写真にもしびれた。

 フィリピンとタイで腐敗した強権体質の政権を打倒しようとする市民の動きが同時進行で続いている。同じアセアン加盟国のビルマでは、まったく起きる余地のないデモや集会が連日続き、テレビや新聞などでの自由な報道もされている。ビルマの軍政の崩壊と民主的政権の誕生を望む者からすれば、マニラもバンコクともに多少の危なっかしさはあっても、羨ましい限りだ。どちらも目を離せないほど盛り上がり、今年が政治の熱い年になることを予感させてくれる。

 わが国の政治の変化を諦めているような民主主義からすれば、より健全な民主主義が機能しつつあると思えるほどで、政治家も国民も半ば命がけの本気度モードだ。(了)

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