2006年9月22日(宗補雑記帳より復活ブログ):名取洋之助展を見てカメラマンの戦争責任を思う
川崎市民ミュージアムで9月3日まで開催されていた「名取洋之助と日本工房」展のことについて触れておきたい。戦後の日本写真界を築いたカメラマンたち、例えば名取洋之助、土門拳、木村伊兵衛などが、かつての軍国主義の時代に日本軍の戦争にどう協力していたのか、自分があの時代にプロのカメラマンだったらどのような生き方ができたのかを考えざるをえなかった展示だったからだ。
「日本工房は、日本の写真・デザイン界の源流である」とまで評される日本工房は、報道写真とグラフィックデザインの民間会社として1933年に名取が結成した。日本工房で名取と共に活躍した写真家には木村伊兵衛、土門拳、小柳次一、藤本四八などがいて、デザイナーには熊田五郎や亀倉雄策がいる。戦後、名取、木村、土門、藤本の個人名を冠した写真賞があるほど彼らの写真界での存在は不動だ。また熊田は戦後に千佳慕と改名しミツバチの細密画で著名な絵本作家となり、熊倉は日本デザイン界のパイオニアとなり、東京オリンピックのポスターデザインで知られ、デザイン界の賞を総なめにしたほどの人物だ。彼らが組んで手がけたのが「NIPPON」などの斬新なグラフ雑誌だ。一枚の写真の影響力は、現代と比べると、比較のしようもないほど強烈で、国家による国策宣伝手段としての役割を担うものだったと思う。
数年前に古本屋でたまたま見つけた小柳次一「従軍カメラマンの戦争」(石川保昌文・構成、新潮社1993年刊)を読んだ時、中国大陸を1000㌔以上も日本軍に従軍したカメラマン小柳が命を削りながら撮った写真を、名取が自分の名を使って海外に配信した話を知った。それ以来、名取を好きになることはできず、写真を見たいとも思わなくなった経緯があった。名取の戦争への関わりを詳しく知りたいと思い、出かけた展示だった。
資産家の息子だった名取はドイツ留学中の経験を元に、ヒトラーが政権を握ったドイツから帰国後、外国向けグラフ雑誌の制作を手がけた。時代背景は、1932年に満州には日本軍の傀儡政権が誕生し、日本政府は33年に国際連盟を脱退した。そんな中で対外文化宣伝グラフ雑誌として「NIPPON」が名取により34年10月に創刊された。たしかアメリカでLIFE誌が発刊されたのは36年頃だ。日本語版はなく、英・独・仏・西語で印刷された。対外宣伝を担った国際文化振興会が高松宮を総裁として34年に創設され、名取はここから資金補助を得て「NIPPON」の刊行を軌道に乗せたという。
展示は、名取が当初目指した日本文化や産業を海外に紹介する内容が、日本の大東亜共栄圏構想を宣伝し、侵略を正当化する内容にどんどん変わっていったのがよくわかった。「NIPPON」は44年9月の36号まで刊行された。
たとえば3号(35年4月)では「極東に平和をもたらす男」として広田弘毅(36年に首相就任、戦後はA級戦犯として処刑された)が紹介され、4号(35年7月)では満州国皇帝の日本訪問が掲載され、5号(35年11月)の表紙は日の丸のイラストで、名取が撮影した日本軍の写真ルポが「皇軍」と題して載っている。9号(36年11月)には土門拳による海軍の写真が「日本の水兵」として掲載され、19号(39年12月)の表紙は亀倉が構成した満州国の地図が真っ赤にデザイン化され、MANCHOUKUOの文字が目に飛び込んでくる。 29号(42年9月)の表紙は、樺太から日本列島、中国、インドシナ、ビルマからインド、インドネシアなどを地球儀的な地図上に描き、東京を基点に赤い線が大東亜鉄道としてインドネシアまでつながっている。
最終号となった36号(44年9月)の表紙は土門拳による「銃後の護り」と題された写真からの一枚で、短パン姿の若者がさっそうと柔軟体操をするカットがアップで使われている。
開戦から二年目の42年、ミッドウウェー海戦での敗北で日本が敗戦への坂道を下り始めた本当の戦況を隠す日中戦争に突入すると、名取は軍部との関係をますます強め、プロパガンダ目的の6種類の新雑誌を次々と創刊する。
「COMMERCE JAPAN」(38年4月)、「SHANGHAI」(38年12月)は陸軍による謀略雑誌で蒋介石に対すネガティブ・キャンペーンが狙いだった。「CANTON」(39年)、「華南画報」(39年)と続き、「MANCHOUKUO」(1940年)は関東軍報道部の出資で創刊され、「EASTERN ASIA」(40年)は満鉄の広報誌だった。まるで軍部御用達ビジネスマンのような仕事ぶりだ。
この間、日本工房は39年には国際報道工芸株式会社と改組し大きくなり、名取は中国大陸に拠点が必要となり、38年に中支軍報道部写真班の役割を担う上海プレス・ユニオンと、写真配信機関のプレス・ユニオン・フォトサービスを作り、広東にサウス・チャイナ・フォト・サービスを設立した。39年には満州にマンチュウコウ・フォトサービスを設立し、40年には上海に移住した。41年からはタイ語の「カウパアブ・タワンオーク」を創刊した。これは内閣情報局の指導と資金での仕事だという。
展示を見て、初めて名取洋之助が果たした重要な役割を認識できた。小柳や土門らが撮影した写真をNatori名で海外に配信するだけではなく、これほどまでに積極的に軍部と手を組み写真の力を国策プロパガンダに発揮したことに愕然とした。木村や土門などもそれなりの戦争協力を果たしたことも知った。60年以上も前のカメラもフイルムも格段に劣る道具を使いながら、彼らの写真が素晴らしいものであるだけに、余計暗い気持にもなった。
画壇では藤田嗣治が、戦争協力を仲間うちで問われ、そんな日本人社会を嫌ってパリへ帰っていった藤田のことは知られている。しかし、もしかしたら写真界は誰も戦争に加担した責任を取ろうとしなかったのではないかと。
しかしだ。考えても見よう、天皇を神として崇拝し、天皇と国家のために命を投げ出すことを何とも思わせないマインド・コントロールで国民が縛られていた時代に、生きるため、家族を養うため、職を得るために選ぶ道は他にあったのだろうか。
もし仮に、あの時代に自分が写真を職業とし、日本工房のような会社で仕事ができる機会が与えられたらどうするだろうか。周囲と協調して、編集路線に添って良い仕事をやり残そうと頑張るだけだろう。しかも戦争に協力し国民を騙す政府に加担しているという意識も薄いまま。それも確かだろうが、名取の果たした役割というものは別扱いの必要があるだろうとも思う。
また、一番悪い者は誰なのだろうかと考えてみると、自分の信条や信念までも殺して生きるしか道がない天皇制軍国主義の社会そのものが悪なのだということがわかってくる。天皇や軍部に対する批判や非難を許さず、命の軽さしか教え込まない社会に変質することを国民が食い止めなかったことがそもそもの問題だと見えてくる。 たかだか皇室に男の赤ちゃんが産まれたことに号外を出し、「奉祝」などという文句で飾り立て大騒ぎする今の日本社会と、戦前とはどこがどう違うのだろうかとも考えてしまう。侵略戦争の総括さえできない男が次期首相となることを、六割近い国民が支持する社会と、戦前がどれほどの違いがあるのかということも考えざるをえない。
戦前、日の丸、君が代が果たした役割について全く無知な男が首相を務める現在の日本社会が、戦前と比べてどれほど健全な社会なのかをついつい比べたくもなってしまう。
名取は戦後に刊行された全286作の人気シリーズ、岩波写真文庫という写真集シリーズに編集責任者として能力を発揮した。名取が亡くなったのは62年、52歳だった。いまは名取が戦争協力を自ら潔く総括したことがあると思いたい。
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