2006年4月25日(宗補雑記帳から復活ブログ):藤田嗣治の戦争画を観た(宗補雑記帳より)
藤田嗣治展を観てきた。日曜日だったので、混雑を避けるため、開場30分前に着いた。ゴッホ展と比べると、あまり待たずに入場でき、思ったよりも時間をかけて作品を観ることができた。テレビでの紹介以外は、ほとんと藤田の作品を気にして見たことがなかったので、少ない先入観で素直に感じることができた気がする。
藤田はまぎれもない巨匠だった。どんな題材であろうと、独自のスタイルで最高の作品を数多残したことを実感した。藤田が戦争画を描くことで軍部に協力した画家だということは知っていたが、彼の戦争画を観るのは初めてだった。では藤田はどのくらい日本軍の宣伝工作に貢献したのだろうか。展示されていた戦争画は4点のみ。ここではそれらを観て判断するしかない。
作品の油絵はどれも写実的な大作で畳3枚程度のものから5-6枚はあった。太平洋戦争に突入したばかりのシンガポール攻略、アッツ島玉砕、戦局を変えたガダルカナル島玉砕、米軍の自由な本土攻撃を可能にしたサイパン島激戦の結末であるサイパン自決を題材にした四つの作品だった。アッツ島とサイパンの作品の前にして、身動きできなくなった。アッツ島の作品から最も強く感じたものは、恐ろしいまでの戦争の残酷さであり、醜さだった。普遍的な戦争の本質だった。人殺しに狂った人間が描かれ、戦争写真以上の衝撃だった。藤田の描いたアッツ島玉砕は、あたかも戦国時代の両軍が刀で敵兵を切り裂いたり、突き刺したりするように、日本軍と米軍がごちゃごちゃに入り乱れ殺し合う非現実的な肉弾戦が展開する。
銃剣を米兵の胸に突き下ろそうとすっくと立つ日本兵のすぐとなりに腹這いになる米兵は、1-2メートル目前の日本兵に向け拳銃の引き金を引こうとする。その米兵に日本刀の矛先を向ける日本兵は、眉間をすでに撃ち抜かれたように呼吸が止まったような表情をしている。日本刀で背後からバッサリと切られて、後ろにのけぞる米兵もいる。牙をむき出し鬼の形相をした日本兵が中央に仁王立ちする。画の周辺は身動きしない両軍の屍が大地を覆い隠すように積み重なっているように見える。画面中央下の、わずかに残す大地に、藤田は可憐な花を咲かせる雑草を2-3本描いている。
この作品が描かれた63年前、戦争が日々の現実だった当時の人の視点と現代人の見方感じ方が異なるのは当然だが、藤田がアッツ島の作品で米軍の攻撃から島を死守しようとする日本軍の勇猛果敢さを賛美する作品に仕立てようとしたとは、私には感じられなかった。
作品からは、彼は純粋に馬鹿げた戦争の実相を、人間の内面を表現できる画家として描写したとしか感じられなかったのだ。そんなことを感じながら、見に来て良かったと思っている時だった。すぐ後ろから中年のおばさん二人組の声がした。一人が言った。「イナバウアーみたいね」。日本刀で切られ後ろにのけぞって倒れそうな米兵のことを指しての会話だった。その瞬間、思わず心が凍り付いた。戦争のことなど想像もできない中高生じゃあるまいし、あまりの軽い表現に圧倒されてしまった。単なる平和呆けとも思えなかった。5年前の小泉首相の登場を、諸手で支持した女性層と重なると思えて仕方がなかった。
サイパン島の民間人の自決を描いた画は、藤田がその場にいたか、米軍が撮影した映像を見て描いたような現実感にあふれていた。バンザイクリフから飛び降りる女性たち、断崖絶壁に飛び込む寸前の髪を振り乱して何かにとりつかれたような女たち、赤ちゃんを背負い、飛び込むことに迷いを見せる母親、銃口を口にくわえ、足の指で引き金を引こうとする日本兵など。あの東条英機が発令した、生きて捕虜としての辱めを受けるなと教える「戦陣訓」を忠実に守ろうとするかのように、自らの命を絶とうとする日本兵と民間人の夥しい死の虚しさを藤田の画から感じてしまうのだった。
敗戦後まもなく、フランスに帰っていった藤田は、飽食に興じる動物たちの晩餐会を描いている。10数匹の猫が狂った表情で組んず解れつの殺し合いのけんかをする名高い画は、1940年に描かれたものだ。どちらの画も人間の醜い本質を描写しているとしか思えなかった。さらに付け加えれば、「アージュ・メカニック」と題された1958年ごろの作品で、20数名の子どもたちが、おもちゃやロボットなどを手に思い思いの遊びを楽しんでいる作品は、純粋無垢な子どもたちがそのまま大人に成長してくれることを願うようなものに思えた。
晩年期の宗教画没頭した背景にも、醜い戦争の時代の体験が藤田の創造力を駆り立てたと感じた。それぞれの時代に、藤田の描いた動物画、戦争画、子ども世界、それに宗教画、全く異なる藤田独自のスタイルだが、一本で繋がる必然性が浮かび上がってくる展示だった。
それにしても、入場券と一緒に渡される作品解説の幼稚さには呆れ果てた。高校生による殺人事件が二件続いた。全く無防備の弱者である中学生の女の子と71歳の老人が犠牲になった。中年女性が戦争画を前に平然と言う社会が生み落とした少年たちだ。人間の心を思いやる感性を持たない輩を首相にまつりあげ続ける社会が、念入りに醸成している結末にほかならない。
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