「戦争マラリア」の体験談:生存者の記憶集(2005年9月記 山本宗補のホームページ復活から)
2:「戦争マラリア」の体験談:生存者の記憶集
この項では、2005年7月から8月にかけての八重山諸島取材で直接話を聞いた、いわゆる「戦争マラリア」を生き残ったお年寄りの証言の一部を掲載します。1945年、日本軍による軍命でマラリア感染地域に強制的に疎開させられた離島住民約31700人のうち、ほぼ半数が発病し、3647人がマラリアで病死した、「戦争マラリア」の一言で表現されるには余りにも悲惨な歴史の証言者です。沖縄の人にとっては、既知の悲しい事実のひとつかもしれませんが、本土の人間にはショッキングな沖縄戦の隠された一面です。
「マラリア死」と表現してもおかしくない死者の大半は、6月23日に沖縄戦が終結し、敗戦後の9月から11月の三ヶ月間に死者が集中しています。本土では敗戦後の混乱時代とはいえ、すでに「生活再建」や「復興」に取りかかっている頃です。石垣島のマラリア地帯から生還したお年寄りの話を今回の取材では聞いていませんが、八重山平和祈念館の資料では、石垣島島民だけでも2500人が亡くなっています。8月15日に敗戦となったからといっても、八重山島民の戦争は終わらなかったのです。
*石垣島*
◯島村修さん
1926年(大正15年)波照間島生まれ。(旧姓新城)。79歳。石垣市在住。19歳で石垣島防衛の宮崎旅団に現地入隊。米軍の空襲が下火になった6月ごろから部隊内でもマラリア患者が出始め、一個中隊がマラリアで丸倒れした部隊も出たという。武装解除の時、兵器係が菊の御紋をヤスリで削った。9月に除隊し帰島すると、家族みんながマラリアで倒れていたという。自分も感染し発病する。「12月ごろようやく起きあがれた。看病疲れで父と兄の子ども3人がマラリア死。出棺は手を合わせただけだった。自分も弱っていたけど、一度だけ14-5歳の女の子を二人で担いだ。マラリアに罹らなかった長兄は、毎日他の人の葬式に出る人。遺体はムシロにくるんで浜の近くで土を掘って埋めた。戦後の昭和22-3年ごろ、島内と西表の大原で骨を収骨して一気に片づけた。東隣と裏の家族は家族丸倒れで全滅に近かった」。「波照間では500人の人間が死んだ。永遠に忘れてはいけない、風化させないために島の力で将来は慰霊碑を作りたい。」
戦後41年間、小中学校で先生をし、1987年(昭和62年)退職。日本全体の右傾化に危機感をつのらせ、「大臣の半分は憲法を変えようとしている。安部の主張は私の常識では考えられない」と、妻のヤス子さんと石垣から九条を守る運動を始めた。
◯玉城功一さん
1937年(昭和12年)波照間島生まれ。68歳。戦後、島村修さんが担任した初めての教え子。石垣島在住。戦争マラリアによる強制疎開は8歳の頃。仲本村議の計らいで、マラリアの少なかった西表島の由布島に疎開。軍刀を抜いて住民を威嚇し、波照間島民を西表島に強制疎開させた陸軍中野学校出身の山下虎雄軍曹の妾も後から由布島に疎開したという。帰島後、家族全員がマラリアを発病したが助かった。
「食料がないので、ソテツの幹を発酵させ食べた。隣のおばあさんは高熱で頭が狂い、髪の毛をたらしたまま石垣つたいに歩いていた姿が忘れられない。」
1972年、玉城さんは県の依頼で県史編纂の仕事をし、波照間島を一人で担当し、約50人のお年寄りの体験談を聞いた。
「家族17人中、自分一人だけ生き残った大泊ミツフさんに手記を頼んだ。始めは残酷だと断られたけれども、メモを書いてくれた。すごい内容だった。書きながら涙が出たらしい。生の声を生かして原稿用紙に書き直した。」
「山下は島民をマラリア地獄に送り込んだ。強制疎開は牛馬を薫製にして日本軍の食糧にするのが狙いだったといわれている。島の歴史で半年の空白ができた。牛馬の生き地獄、帰島すると人間のマラリア地獄。山下は最期の最期まで住民全員の自決を考えていた。山の中腹に第二避難所を作らせた頃、住民は「崎山ゆんた」を歌って涙を流した」
(注:「崎山ゆんた」とは伝統的な八重山民謡で、一八世紀の半ばに波照間から西表に強制疎開させられた島民が、マラリアという風土病に悩まされながら開拓した苦しい心情を、海のかなたに見える波照間島を思って歌った望郷の歌。)
「軍隊とは誰のものか。その象徴が波照間だった。軍を守るため、国家体制を守るためだった。形は変えても軍隊は本質的には変わらない。」そう玉城さんは話した。
◯親盛長明さん
・1916年(大正5年)生まれ。89歳。石垣市在住。4年前まで竹富島で医介補として開業していた。12歳の時、牛から落ち右腕を骨折。ペニシリンも医療技術もなかったために切断した。戦争中は軍命に従い、医介補として二個中隊の軍人の診察を担当し、強制疎開をせずに済む。昭和27年(1952年)、マラリア撲滅の使命を受け、石垣保健所の西表出張所に赴任。昼は公務、夜は産婆役として多忙だったという。当時は西表島に開拓移民が入植しはじめた時期だ。23年間勤務したのち、開業して17年間西表島で診療生活。40年間で、300人の赤ちゃんを取り上げたという。生まれ故郷の竹富島に移り、9年間住民を診療して86歳で引退した。
*波照間島*
◯大泊ミツフさん
・1922年(大正11年)波照間島生まれ。83歳。昭和20年4月、軍命により西表島の南風見田に強制疎開させられた。西表島は「昔、じいさんたちも強制移民でマラリアで死んだ」島だと大泊さんは話した。当時23歳、子どもが二人いた。疎開先で山下軍曹に棒で叩かれ倒れたことがある。袋がひとつなくなったのが、暴行の理由だという。その時のあざは帰島するまで残っていたそうだ。山下が「軍靴で歩くのが恐かった」と話した。8月に帰島すると、「戦前はハテルマは裕福な島だった」と大泊さんが言う島は、食糧と医薬品の欠乏から「マラリア地獄」だった。「体力の弱い子どもや年寄りが亡くなっていく。家族7人は看取ったが、その後は発病してしまい、自分の子どもも看取ることができなかった。一日たりとも亡くなった人のことを考えないことはないよ。毎朝、手を合わせて祈る。」
家族16人をマラリアで失い、戦後4人の子どもを生み育てた大泊さんだが、我が子には辛い体験を話せなかったという。東京にいる次男が母親の戦争体験を知ったのは、ジャーナリストの書いた本を読んでからだという。
◯浦仲孝子さん
・1931年(昭和6年)波照間島生まれ。74歳。大泊ミツフさんの取材を終え、近所の家を通りかかった時、フェンスに上って垣根を剪定していたのが浦仲さんだった。台風が翌日上陸予定なので、枝を切っているのだと話した。偶然の立ち話から、浦仲さんも大泊さんのように大勢の家族を戦争マラリアで失ったことを知った。「私は家族11人亡くなったよ」。7人兄弟のうち5人がマラリアで死亡。両親も亡くなり、本人と妹だけが生き残ったという。竹富島町誌で浦仲さんの家族9人の名前が確認できる。町誌の波照間島死亡者リストを開いてみると、大泊さんや浦仲さんのように、家族10人以上が死亡した家が2軒だけでないことがわかる。
*西表島*
◯波照間寛さん
・1928年(昭和3年)波照間島生まれ。77歳。15歳のとき少年兵を志願し、身長不足で不合格となり沖縄の水産学校入学。帰省中に沖縄戦が始まり波照間島に帰島する。西表島への強制疎開を指揮した山下軍曹(国民学校の指導員として離島に送り込まれた陸軍中野学校出身の特務兵)の挺身隊に入り、島に残る年寄りを手助けし疎開前に牛馬60頭あまりを屠殺した。牛を屠殺場まで引っ張っていったり、死んだ牛馬を浜辺近くの壕に埋めたりしたという。「戦前は駐在と学校の先生は恐かったよ。ところが、山下は警官さえ叩いたよ」
西表から帰島後にマラリアが発病。「あの時は熱ばかりで覚えていないよ。壺の水をホースで垂らして、水をどんどん流して冷やした。熱のある者は何もわからないよ。長女が石垣から戻り、看病してくれた。うちだけは一人も死ななかった。助かったよ」
戦後、西表島に開拓移民として入植。サトウキビ作りと牧場を経営する。竹富町議を4期務めた。
◯仲底善光さん
・1935年(昭和10年)波照間島生まれ。70歳。強制疎開当時は小学校3年生。「ハエをを取らないことを理由に、怠けたといって青竹がボロボロになるまで手やけつを叩かれた。6年生の冨底はそのために熱発して亡くなった。一生忘れないよ。」南風見田海岸で子どもたちにハエ取りを命じたのは山下軍曹である。マラリア対策で効果があると思ったのだろうか。帰島後、家族全員がマラリアを発病したが、ソテツを食糧にして生き延びたという。戦後の昭和27年、西表島に開拓移民として入植した。
◯ 平田登美さん
1935年(昭和10年)波照間島生まれ。70歳。西表島在住。当時は10歳で小学校4年だった。父と母方の祖父母がマラリアで死亡。疎開先の西表島南風見田で、「三つ上の兄と同級だった冨底さんは、ひどく叩かれて二日後に死亡した。兄も腕を叩かれ、しばらくは腕が自由に動かなくなった。島に帰る前に発病して、ボーとして覚えていない。父がここで死なすより(ハテルマ)島で死なせたいって。身体がものすごく背中から寒くなるので二人で押さえつけても震えがとまらない。」
帰島後は、「遺体を2-3人で担いでいったり、一人でムシロで引っ張ってゆく姿を毎日見ていた。恐いとも悲しいとも思われなかった。自分もいつか死ぬと思っていたのだろうか。」
「食べ物何もない。ソテツは味がない。でもおいしいと思った。」
戦後は学校の検査でお腹の脾臓のある部分がポコッと膨れ、クラスでもいちばんひどかったという。「みんな顔がやせ細り、目が出ていた。もう大丈夫だと思ったのは一年くらいたってから」
◯平田一雄さん
1933年(昭和8年)沖縄本島本部生まれ。73歳。西表島在住。民宿「南風荘」を25年前から開業。平田登美さんの夫。5歳の時に大阪に出る。戦後に沖縄に帰島。昭和49年(1974)に西表島に移る。切手収集家であり新聞へ自然保護や戦争マラリアの継承を訴える投稿マニアでもある。沖縄本島で生まれ育った平田さんだが、波照間島出身の奥さんと結婚し、西表島に移り住んだことで、戦争マラリアと深い関わりが出来た。
平田さんは、波照間国民学校校長だった識名信升先生が、南風見田海岸の石に刻んだ「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」の文字を保存し、戦争マラリアの事実を伝える石碑建立をマスコミを通じても呼びかけた。多くの関係者を取りまとめるのに奔走し、生存者や遺族たちの募金で石碑は1992年に完成した。6月23日と8月15日は慰霊祭を行う。
*竹富島*
◯加治工トヨさん
・1913年(大正2年)竹富島生まれ。92歳。子ども5人、孫15人、ひ孫8人に恵まれた。孫一家と同居し、生後6ヶ月になるひ孫のお守りが生き甲斐。戦前の青春時代は台湾のヒールンで五年間、下駄屋で女中奉公したという。西表島の船浦に疎開中、5歳の娘をマラリアで失った。「薬がない、食料もない、あの頃はかわいそーだったね。今の子は食べ物があり余り、今の子がうらやましいよ」と、加治工さんはひ孫を抱きかかえながら、60年前にマラリアで死なせた我が子のことを申し訳なさそうに話した。
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