戦争マラリアとは何か?( 2005年9月記 山本宗補ホームページよりの復活)
《戦争マラリアとは何か?》 写真・文:山本宗補 (2005年9月記)
・「戦争マラリア」の記憶が風化する前に
日本で唯一の地上戦が戦われた沖縄では、敗戦の年の6月23日に組織的戦闘が終わり、米軍死者12500人を含め、死者231000人を出した。わずか90日間あまりの戦闘により沖縄県民の4人に1人が亡くなったという。この中で、いわゆる「戦争マラリア」の犠牲者は3647人にのぼる。
日本軍が沖縄住民の命など始めから守るつもりのなかった事例は数え切れない。「生きて虜囚の辱めを受けず」と軍国主義の洗脳教育の徹底で、多数の住民が自決を計っただけでなく、隠れていた壕を日本軍に追い出され米軍の攻撃にやられたり、スパイ扱いされて斬り殺されるなどの体験談も多く残されている。
「戦争マラリア」は、戦わずして住民が日本軍に殺された事例のひとつだ。3600人という想像を絶する離島の民が、6月末の沖縄戦の終結にも、8月15日の敗戦にも左右されることなく、八重山の片隅でマラリア地獄の中を死んでいった悲劇は、十分な報道がされてこなかった事実だ。
ここでも、天皇と大本営が敗戦を一ヶ月でも早く受け入れていれば、多くの民間人も兵士も無駄死などせずに済んだのにと、怒りを新たにする。戦後60年、軍部によって起きた悲劇の生き残りの多くが80代、70代の高齢者となった。人の記憶はいづれ風化して消え去ってしまう。そのためにも、戦争マラリアの生存者の話と写真を記録に残しておこうと思う。
・拒否できない軍命と疎開先
戦争マラリアは、地上戦のなかった八重山諸島(石垣島、竹富島、西表島、鳩間島、波照間島、黒島、新城島、仲御神島)で起きた。沖縄の最も南に位置する八重山諸島では、米英軍による空襲は44年10月から始まり艦砲射撃もあったが上陸作戦は行われなかった。45年4月、沖縄中部に上陸した米軍の沖縄侵攻の戦略上、重要でなくなったためだ。
しかし、石垣島の八重山守備軍は、無病地の島民を軍命でマラリア有病地へ疎開させた。石垣島南部一帯の住民は中部や北部の有病地へ、竹富、波照間、黒島、新城、仲御神島の住民は西表島の海岸地帯へと避難させられた。(西表島の疎開先によっては、マラリアの発病と死亡率が大きく異なった)
各島の牛馬や豚、ヤギなどの家畜は屠殺を命じられ、保存肉は日本軍の食糧になったといわれている。
日本軍は44年に八重山郡島各地でマラリアなどの病気調査を終え、有病地帯を把握していた。また、マラリアは明治時代から八重山の風土病としてよく知られてもいた。
軍命による疎開は波照間島では45年4月頃始まり、疎開先での食糧が欠乏し始め抵抗力が落ち始める頃に雨季入りした。石垣島住民の疎開は6月に入って始まった。発病しても、抗マラリア薬などは手に入らないため、発病患者が1人二人と病死し始めた。しかし、本当のマラリア地獄は疎開が解除された7月以降、故郷に帰還してからだった。家に戻っても食糧も薬もないために、ほとんどの住民が発病し生死を彷徨った。
人口31671人のうち、16884人の二人に一人がマラリアを発病し、3647人が病死した。6月から12月までのわずか半年の間の出来事だった。主に10歳以下の幼児と61歳以上の高齢者に死者が多かった。石垣島の日本軍もキニーネなどの抗マラリア薬の欠乏で、680人の将兵が戦わずしてマラリア死した。
・死亡率が高いのは「熱帯熱マラリア」だったから
キニーネさえ手に入れば、衰弱していてもこれだけ多数の人がマラリアで死に至ることはないだろう。例えば、私が取材で10数回訪れたことのあるビルマ・タイ国境周辺は、東南アジアでも有数のマラリア感染地域だが、薬が手に入らない地元住民にこれだけ死亡率が高い話しは聞いたことがない。私自身、これまでに4度マラリアが発病し、一度は熱帯熱マラリアだった。発病による高熱と吐き気と下痢で一気に体力が奪われ、10歳老けたように感じた。手遅れになる前にマラリア薬を服用することで助かってきた。
しかし、死亡率が異常に高い原因は、戦争マラリアの6割がマラリアの中で最もやっかいで、若くても死に至る「熱帯熱マラリア」だったからのようだ。波照間島生まれで当時10歳の小学生だった平田登美さんの話しは、生存者に共通していた。
「身体がものすごく寒くて、2-3人で押さえつけても震えが止まらない、頭はボーっとして。脾臓が肥大し腹がポコッと膨れた。」
・波照間島の死者が異常に多い理由
波照間島では山下という偽名を使い、国民学校指導員の身分で赴任していた軍のスパイの存在で、疎開が徹底して行われた。その結果、島民1590人中477人がマラリア死だった。10人中3人が死んだことになる。人口1345人の黒島島民が、同じ西表島に疎開(別の海岸地帯)したものの、マラリア死が19人だけだったことと比較すると、波照間島の犠牲者数は異常だ。
当時23歳で現在は83歳になる大泊ミツフさんは、自分の家族と嫁いだ先の家族を合わせると、16人の家族がマラリアで病死した最も不運な方だ。自らも発病し、家族全員の最後を看取ることができなかったことをいまでも申し訳ないことと悔いていた。
「一日たりとも死んだ人のことを考えないことはないよ」
大泊さんと同じ集落に住む浦仲孝子さんは当時13歳。「私は家族11人亡くなったよ」と話し、7人兄弟のうち二人だけ助かったと言った。
疎開先が悪性マラリアが蔓延する地区だったことと、帰島後の食糧難が波照間島民の悲劇に直結した。島の食糧を根絶したのは山下だった。山下は陸軍中野学校出身の特務兵で、牛馬などの家畜の一部を島民に命じて屠殺、遺棄させ、その上残る家畜は屠殺後に島のカツオ工場で薫製にして日本軍の食糧にしたと指摘されている。
本来は豊かな島に帰島後、住民が飢えとマラリア地獄に苦しんだのは疎開中に軍人としての本性を見せた山下軍曹の役割抜きには説明できない。
波照間島から西表島が見渡せる丘に、「学童慰霊碑」が建っている。波照間小学校創立90周年記念として、1984年に建立されたものだ。学童だけでも66人がマラリア死をしたことが記憶されている。
・「忘勿石 ハテルマ シキナ」
西表島(いりおもてじま)は全島が有病地だったが、中でも大泊さんたちが疎開した東部海岸の南風見田海岸は悪性のマラリア地区だった。疎開解除で帰島する8月始めまでに84人が犠牲となった。これらの犠牲者を追悼する慰霊碑が南風見田海岸に建つ。隣にある大岩には、軍命に抵抗できずにマラリアにより多くの生徒を失った無念さを「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」と刻んだ10文字が鮮明に残されている。
当時の波照間国民学校校長だった識名信升先生が、帰島に際して残したものだ。識名校長は島民が疎開先で全滅することを怖れ、石垣島の宮崎旅団長に直接かけあい疎開解除の許可を取り付けたと人物として、生存者の記憶に深く刻まれている。
慰霊碑は生存者や遺族たちの募金で92年に建てられ、八重山の海を挟んで学童慰霊碑と向かい合って建っている。岩に刻まれた10文字と慰霊碑は、日本の最南端のはずれで忘れられてきた戦争マラリアの悲劇を伝える平和教育の発信地となっている。
帰島にただ一人反対した人物が、米軍上陸時の徹底抗戦に備え山中に避難小屋を設営させていた山下虎雄軍曹だ。この山下については別項で触れるが、彼は各離島に送り込まれていたスパイの一人だった。米軍進駐後、民間人になりすまして島を脱出し、戦後も島民に全く謝罪することも戦犯として断罪されることもないままに生き延びた。
・石垣島のマラリア死は全体の7割弱
石垣島民のマラリアによる死者数もおびただしい。当時の石垣島では多数の住民が居住する南部一帯が無病地域で、疎開先の中部や北部のジャングルがよほど悪性マラリアの感染地帯だったに違いない。
登野城地区住民3804人中633人が死亡。大川地区住民2465人中226人が死亡。真栄里地区住民239人中88人が死亡。平得地区住民613人中264人が死亡。大浜地区住民1866人中479人が死亡。
資料から引用すると、当時10歳で真栄里地区住民だった村福長英さんは、石垣島中部の白水に避難し、母、長女、次女、三女の家族四人をマラリアにより失っている。石垣島だけで約2500人がマラリア死したとみられる。
9月に八重山に進駐した米軍が、マラリア対策として抗マラリア薬のアテブリンを患者に配り始めたのは12月下旬になってからだった。マラリアの流行から半年、ようやくマラリア地獄が収束に向かうことになった。
戦後、6年間で約6000人の計画移民が沖縄本島などから入植した石垣島では、1954年から57年まで、「移民マラリア」が流行ったこともある。現在も石垣島の一部の河川には、マラリアを媒介とするハマダラ蚊の生息が確認されている。
・国家賠償請求の政治的解決
戦争マラリアの遺族による国家補償の請求は、結果からいうと曖昧な政治的解決で1999年にピリオドがうたれている。遺族への見舞金もない。
国家補償を請求する動きは戦後44年が過ぎてから起きた。遺族らが「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成し、国に補償を求める活動を始めた。石垣市議会、竹富町議会が県と国へ補償を要請し、沖縄県議会は県と国へ意見書を提出した。
1995年、政府(村山内閣)は石垣島と波照間島の軍命による住民の強制避難を認めた。与党戦後五〇年問題プロジェクトチームは、石垣、波照間、黒島、新城、鳩間島の五島での軍命による住民の強制避難を認め、政治的解決策を狙った。その結果、二億円が八重山地域の慰しゃ事業として政府に要求されたが、見舞金は保留とされた。
この年の12月、95年度予算で総額三億円のマラリア慰しゃ事業経費が認められた。事業の内容は、慰霊碑建立、マラリア記念館の建設、マラリア死没者資料収集・編集作業、死没者追悼事業からなり、遺族に対する見舞金はなかった。
「八重山戦争マラリア犠牲者追悼・慰霊碑」が石垣市のバンナ公園内に建てられた(97年)。犠牲者を追悼する資料・証言集の「悲しみをのり越えて」が発刊された(98年)。戦争マラリアに関する常設展示施設として「八重山平和祈念館」が石垣市にオープンした(99年)。
遺族の「援護会」は解散し(99年)、「八重山戦争マラリア遺族会」が発足した(2001年)。島民477人が戦争マラリアの犠牲になった波照間島の遺族は、慰しゃ事業で波照間島にも慰霊碑が建立される計画も含まれていたと指摘したが、慰しゃ事業は完了しているようだ。
・戦争マラリアは軍隊の役割をいまに伝える
波照間島生まれで当時8歳だった玉城功一さん(68歳)は、1970年代に沖縄県史の編纂に関わり、50人くらいの波照間島民からマラリア体験談を集めて回った。島民の証言から、山下軍曹が住民をマラリア地獄へ送り込んだ人だと確信した。
「島の歴史の中で半年の空白を作った。空白の6ヶ月は牛馬の生き地獄となり、島民が帰ったら人間のマラリア地獄だった。まだ、島には屠殺された家畜の慰霊碑もない。ムシャマー(先祖供養)の行事にも戦争マラリアの証言を含めた慰霊祭もない。島でも風化して子どもたちの父母も戦争マラリアの実相を知らない。かつての戦争体験を確認し、いまの政治の動きを考えてみる必要がある。かつての日本軍はどうだったか。山下の役割が象徴的だ。シマンチュを守らなかっただけでなく、食糧確保のために死地へ住民を追いやった。軍は誰のものか。形を変えても軍隊は本質的には変わらない。わかりやすいのが波照間の戦争マラリアだ。」
(戦争マラリアを生き残ったお年寄りの証言は次項で紹介する)
(注:オリジナルのホームページでは写真も掲載していましたが、このブログは本文のみの復活です)
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