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2018年12月11日 (火)

2001年11月:10年ぶりのパレスチナ~宮内勝典海亀通信掲示板書き込み(宗補雑記帳よりの復活ブログ)

(注:この文章は尊敬しその作品が好きな作家宮内勝典さんのホームページ掲示板に2001年に書き込んだものです)

 11月12日からイスラエルに来て、10年ぶりにパレスチナ情勢を取材中です。今回の取材で、誤解を恐れずに極限すれば、イスラエルが国家テロの国だと断定してもおかしくないと改めて実感しています。こう書いても、おそらくこの国に来てパレスチナ人が1948年のイスラエル建国で国土を奪われていらい強要されている暮らしぶりを一目見るまでは、みなさんには信じてもらえない表現だと思っています。

 私は中東の専門家ではありませんが、ひとりのカメラマンとして短期間だけでも撮影、取材したことのほんの一部を紹介して置きます。

 昨日、パレスチナ自治政府が管轄するガザ地区(イスラエル南西部のエジブトとの国境周辺)にあるハンユニス 難民キャンプで、イスラエル軍が発射した砲弾の不発弾が爆発し、登校途中のパレスチナ人の子どもが5人、即死です。12歳から15歳の子どもたちです。その中のひとりが地面にあった爆弾を蹴ったために爆発したようです。

 私は今はエルサレムで取材中なので現場取材には出かけていませんが、地元のアラビア語の新聞は全て一面トップですが、イスラエルの「ハーレーツ」紙でさえ同様です。テレビニュースなどを見ても、地面に直径3メートルはある大きな穴が深く掘られるほどの破壊力です。子どもたちの身体もバッグも吹き飛んでしまったようです。

 現場周辺は先週のガザ取材で二日続けて撮影に出かけた場所です。イスラエル軍が最近は幾度となく深夜攻撃を繰り返し、前日あった国連のテントやパレスチナ人の住宅が跡形もなく壊されてしまうほど、日替わりで光景が変わってしまうほどパレスチナ人に対する攻撃を止めないスポットです。難民キャンプの一角ですが、イスラエル軍は隣接するユダヤ人入植地を守る口実で、あからさまな侵略を繰り返しているわけです

 パレスチナ側は自治警察が治安を守る任務を負っていますが、武器は自動小銃のみ。戦車砲や時には攻撃ヘリも動員し、ロケット砲やマシンガンなど使い放題のイスラエル軍とは最初から勝負になりません。一斉攻撃の仕上げが戦車のようなブルドーザーでパレスチナ人のコンクリートやブロック製の住宅を破壊しての更地化です。エジブトとの国境線のラファは、更地化がより一層進んでいます。イスラエル政府が一方的な戦争をパレスチナ人に仕掛けているのが現実です。

 別の事例をあげましょう。昨日、取材に出かけたのはキリストが誕生したといわれるベツレヘム。エルサレムから南へ20分。ベツレヘムとその周辺にある難民キャンプは、ちょうど一ヶ月前の10月18日から29日までの11日間、イスラエル軍によって包囲され、激しい攻撃を受けたところです。(この前例のない攻撃は前日の10月17日に、シャロン首相よりもタカ派と言われたゼエビ観光大臣がパレスチナ人によって暗殺されたことへの報復攻撃と思われています)

 この間、イスラエル軍は高いビルを占拠して、難民キャンプを包囲し、至近距離で昼も夜も発砲を続け、パレスチナ人を恐怖のどん底に追いやったのです。パレスチナ人の死者は22名、うちパレスチナ人警察官は4人。残りは17歳から57歳までの一般市民です。負傷者は146名。死者と負傷者全員がかつぎこまれたベツレヘム市内の病院の医療責任者の話を聞きましたが、驚きました。死者のほとんどが首、胸、頭への銃弾によるもの。4人の死者は家の中にいたにも関わらず、狙い撃ちされたといいます
「イスラエル軍は殺すために発砲したのは明かだ」と、パレスチナ人でクリスチャンのピーター医師は断言しました。

 昨年9月に第二の インティファーダが始まっていらい、パレスチナ人は再び大きな刑務所に隔離された暮らしです。というのは、パレスチナ自治区の西岸もガザ地区も、イスラエル軍により厳しい検問所がそこら中に設置され、封鎖されてしまったので、それまでイスラエル領内での職場へ通勤していたパレスチナ人が、のきなみ仕事と収入を奪われている状態です。ガザ地区の出入りが可能なのは、国連関係者、パレスチナ自治政府高官、外国人ジャーナリストくらいに限定されているほどです。やはり、現場に来てみないと想像できないほど、基本的人権も存在権さえも奪う占領と弾圧方法が巧妙に敷かれているのです

 中東の和平はパレスチナ問題の解決(ユダヤ人の国家と隣接するパレスチナ人国家建設)抜きには考えられません。国連決議さえ無視したままのイスラエルへの一方的な肩入れをするアメリカが、イスラム教徒の怒りを増幅してきた事実を見落とさずに、アフガン情勢とリンクして考えてください。ちなみに、2-3日前のアメリカ政府の和平への提案を本物と感じているパレスチナ人は見あたりません。いつも口約束でだまされてきた歴史があるからです。

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