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2018年12月25日 (火)

舞踏家大野一雄の口上:1999年6月韓国竹山ジョクサン舞踏講演中

 100歳を超えても踊ることを止めなかった世界的舞踏家・大野一雄さんの韓国公演の取材をした時、屋外での舞踏の最中に大野さんの動きが完全にフリーズしてしまい、右腕を挙げたままその場に立ち尽くし、独り言を話始めた時に、舞台の袖まで近づき、思わずメモった時内容をここに紹介したい。

 1999年6月、韓国の竹山(ジョクサン)で開催された舞踏フェスティバルでのことだ。朝鮮戦争時の激戦地となった谷合が会場となり、観客の大半は韓国の人々だった。

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 「太平洋のニューギニアの方に一万人以上の人が流されまして、そして、食べ物も十分でなくて、死の直前に至るまで奥地に奥地に流され、食べ物もなくなってしまったような時、たくさんの人が亡くなりました。私はその責任者で、・・・。

 ・・・下の下の下の置き去りにされまして、・・・。
 毎日毎日たくさんの人が亡くなりました。私はかわいそうでかわいそうで仕方がなかった。しかし、自分の力ではどうにもならなかった

 ・・・の迎えによってくる時、クラゲのような・・・がたくさん集まってきた。太平洋の真ん中で、何とかしてみんな一緒に帰りたいという気持で・・・・。人が死ぬごとにひとりふたりと死んでいった。

 ・・・のまくられて、船の・・・ところから海に向かってドボンと海中に放り出される。ボッと悲しい音を出しながら死んで投下され、その人たちの霊を弔うために、一万トンの船がぐるぐる回ってお別れ・・・

 海に投下された人たちの・・・何とかして日本に帰りたいと思って・・・帰ることができました。

 私は日本に帰って何とかクラゲのダンスを何とかしようと思った。太平洋・・・とともにし、たくさんの人たちが悲しい歌声を聞きながら海の底に沈んでいきました。クラゲのダンスをして失われた命はもとにかえりませんでした

 その回りを3回ぐるぐるお別れして、長い間、命が海の底に死んでいくその人のために弔い行事を。
 悲しくて悲しくてどうにもならなかった、仕方がなかった。というようなことを何度も何度も経験してきました。
 日本に帰ってからもたくさんの人たちと死者を弔いながら、ごめんなさいとお詫びしながら日本に帰ってくることができました

 お詫びのしようもなくて悲しくて悲しくて
 
そんなよう・・・踊りますよ、そろそろ。
私の息子、私に踊れを命令が出てきます。

(・・・部分は解読不能か走り書きない部分)

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(注)大野 一雄(おおの かずお)さんは1906年(明治39年)10月27日の生まれ。 2010年(平成22年)6月1日に没した。
 1938年に召集され、九年間を中国、ニューギニアで送った。

・大野一雄舞踏研究所のホームページから下記のプロフィールを引用させていただく。

「大野一雄の第一回現代舞踊公演は、1949年、東京の神田共立講堂で行われた。このとき43歳、これが最初のリサイタルだった。ニューギニアのマノクワリで終戦となり、1年間の捕虜生活のあと復員し、すぐに舞踊家としての活動を再開した。「クラゲの踊り」という踊りを50年代の公演のときに踊っている。ニューギニアから帰る航海の船上で、栄養失調や病気で亡くなったひとたちを水葬して見送った体験から、そのときの海に浮かぶクラゲの踊りを踊りたかったのだという

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