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2016年12月の投稿

2016年12月24日 (土)

「あきらめないで、闘う人々」(9条連ニュース11月号から転載)

「あきらめないで、闘う人々」(9条連ニュース2016年11月20日号)
写真は元記事に追加しています。      山本宗補(フォトジャーナリスト)

(無断転載厳禁です。著作権侵害となります)

20158jpgweb戦争法に反対する人々(2015年8月)

 原発も戦争も国策だ。原発推進勢力と戦前回帰に突き進む勢力はピタリと重なる。原発に反対する人も違憲の戦争法に反対する人も自然と重なる

011npajpgweb(フィリピン、反政府ゲリラの新人民軍、1990年)

 私は30年ほど前から「抗う」人びとを取材し始めた。フィリピンやビルマ(ミャンマー)などのような独裁政権下で、政府の軍隊に抵抗する反政府武装勢力、いわゆる反政府ゲリラの従軍取材などを繰り返した。もちろん非暴力の闘いも取材対象だ。異なる政治体制、社会構造の中で、基本的人権や先住の土地を守ろうと、自衛の闘いにまで追い込まれた人たちの、多くの場合が命がけの闘いだ。沖縄の辺野古や高江の米軍基地化を阻止する反対運動と重なる。取材をしていくと、国軍=政府がどれほどの蛮行を自国民に対して行っているか、時には自衛のための武装闘争の選択肢しか残されない理由が実感できる

B003knu1991jpgweb(ビルマ、自決権を求めて闘うカレン民族の部隊、1988年)

Aung_san_suu_kyi_1jpgweb(ビルマ、アウンサンスーチー氏、1995年撮影)

 「抗う」はもちろん「抵抗」の抗、レジスタンス。世界中のどこでも、社会の不正や不条理、政府や軍隊や警察などの大きな権力(「お上」)のいうことに対し、「NO!」と抵抗する個人や人々がいる。「抗う」彼らを取材し伝える役割が私のようなフリーランスの取材者にはある。彼らの「抗い」は、テレビや新聞などの大手メディアで報道されることが敬遠され、自分たちの窮状を発信する独自の媒体を持たないからでもある。

Jpgweb(アフガニスタン東部取材中、2001年)


_aaa1042jpgweb(大津波で壊滅した気仙沼市、2011年)

 東日本大震災発生後は、翌日から福島県に入って原発事故や津波被災地の取材を開始した。1年半の取材を「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」にまとめ、その後も追跡取材をする被災者が何人かいる。彼らの共通項は、電力会社や政府のような、とても太刀打ちできそうもない相手に立ち向かう意思を貫く点だ。天災と人災に襲われ、住まいや生きる糧を奪われた被災者となったとき、自分自身が彼らほどに自分の足で立ち、抵抗できるだろうか。答えは自明だ。ここでは誌面の都合で、「抗う」被災者を一人だけ紹介したい。

不屈--吉澤正巳さん
Jpgweb_2(2016年9月、代々木公園にて)
 
 福島県浪江町の吉澤正巳「希望の牧場・ふくしま」代表のことを国会前に集まったことのある人なら、知らない人はいないだろう。吉澤さんは原発事故後の避難指示を拒否。イチエフから直線で14キロ北西にある牧場に留まり、自らの被ばくを覚悟の上で、被ばくし経済的価値がゼロとなった300頭以上の和牛を生かしてきた。農水省の殺処分指示をも拒否し、牛たちを原発事故の生き証人として生かし続ける畜産農家だ。「東電・国は大損害つぐなえ」と赤字で大書された看板をつけた宣伝カーで、成牛大の彫刻作品を牽引する吉澤さんの拡声器を通したスピーチで、鼓舞された人も多いだろう。

Jpgweb_3(2016年10月、牧場にて)

 吉澤さんは原発事故後まもなく、国の原発避難民対策は「棄畜棄民」だとスピーチし始めた。吉澤さんにとっての「棄民」は、新潟県出身の両親が満蒙開拓団だったことに直結する。ご両親は国策に従い満州に移民したが、ソ連参戦後に開拓団を守るはずの関東軍に見棄てられ、ソ連軍から逃げきれないと判断した父は、老いた母と三人の幼子に自ら手をかけてしまったという凄惨な体験をくぐりぬけてきた。沖縄戦での集団死と共通する一生のトラウマとして残る戦争体験だ。母は無事帰国できたが、父はシベリア抑留後にやっと帰還。千葉県で営んだ酪農の規模拡大を計り、開拓団時代の伝手を頼って浪江町に広い土地を確保し酪農に取り組んだのが今の牧場の始まりだ。吉澤さんの抗いは畜産農家としての誇りだけではない。「原発の時代に、戦争の時代に逆戻りしてたまるか」という不屈の闘志が掻き立てられている。

反骨--福島菊次郎さん
Jpgweb_7(2011年9月、南相馬市にて)

 昨年94歳で亡くなった反骨の報道写真家・福島菊次郎さんは、「原発は原爆と同義語だ」と早くから断言していた。広島原爆を6日間の違いで免れたことが菊次郎さんの戦後の生き方を決定づけた。被爆者の克明で執拗な取材で菊次郎さんのプロの写真家としての方向性が決まり、自分の息子と同年代の全共闘運動の取材を通じ、「お上」の言うことを鵜呑みにしていた軍隊時代の自分の愚かさを深く悔いた。権力に立ち向かい、昭和天皇の戦争責任を問う表現活動に最期までブレはなかった

Jpgweb_8(2012年12月、山口県柳井市にて)

 私は菊次郎さんとの20数年来の親交があり、原発事故年の9月、放射能汚染が班目状態の福島県各地を、90歳になり心臓も弱った菊次郎さんを案内した。三日目は「さようなら原発」大集会の現場に立つ機会を作った。自分自身の目と体で原発事故の影響を実感してもらった。

 権力に迎合するばかりで、「抗う」個や人々を取材し伝える役割を多くの大手メディアが果たさないいま、フリーランスが伝えるしかない


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2016年12月22日 (木)

佐々井秀嶺師とアンベードカル博士生誕125周年(「大法輪」から転載)

(「大法輪2016年9月号掲載から記事は転載)
(写真はクリックすると拡大します)
(無断転載は著作権違反です。ご遠慮ください)

_n613130jpgsumijpgwebナグプールにて。


佐々井秀嶺師、一年ぶりの一時帰国
 インド仏教徒一億人の最高指導者となった佐々井秀嶺(インド名:アーリア・ナーガルジュナ・シューレイ・ササイ、80歳)が、今年も静養を兼ねて一時帰国し、七夕の日にインドへ帰っていった。高齢となった佐々井師だが、例によって精力的に西や北に行脚した。

 二年前、佐々井師は、本人曰く、「原因不明の病気で三途の川を渡って冥界を彷徨い、悪さを相談している者たちを見た」あげく、不死鳥のごとくに現世に舞い戻った。事実、佐々井師の存在を好ましくないと思っている勢力からは死亡説さえ流された。昨年の一時帰国後は三ヵ月にわたり食事もままならず激痩せした。結果的に糖尿病を克服したかのような精悍さを取り戻した風情で6月初めに母国に一時帰国した。

_yyy7802jpgsumijpgwebナグプール、インドラ寺院にて。

_n616010jpgsumijpgweb佐々井師の尽力で発掘された世界遺産級のマンセル遺跡。

 故郷岡山県新見市では、共生高校で青年時代の悩みについて講演し、京都産業大ではマンセル遺跡の更なる発掘研究を呼びかけ、本州ど真ん中の大地溝帯の中心に位置する長野県大鹿村では、自然環境を大切にした生き方を実践する子育て中の若い世代とゆったりした交流の時を過ごし、青森県では、昭和大仏で知られる青龍寺(高野山真言宗)で北海道や四国などからも遠路はるばると駆け付けた熱心な参加者を前に、50年あまりの布教人生で鍛えぬいた声量で講演した。

_yyy9119jpgsumijpgweb南相馬市小高区。


 一時帰国の度に必ず訪れる原発事故後の福島県浜通り。7月半ばに政府による避難指示が解除される南相馬市小高区同慶寺の田中徳雲住職の案内で、フレコンバッグのピラミッドを見つめ、原町区の海岸では津波で流されガレキとなった住宅の柱などを埋め盛土した森の防潮提を見学し、多数の死者行方不明者が出て復興とは無縁のままの浪江町請戸海岸で、供養のために般若心経を何度も唱えた。

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 福島県三春町の臨済宗福聚寺を訪ねて芥川賞作家として著名な玄侑宗久住職との異色な組み合わせの歓談も実現。玄侑師は妙心寺派管長の河野太通老師が佐々井師の長年の支援者でナグプールにも来ていることを佐々井師から聞き驚いていた。上座部仏教僧として著名で日本語が流暢なスマナサーラ長老とも初顔合わせの対談風トークの会もあった。佐々井師が話している時、下を向いたままの姿勢や、対談相手の話に関心がないというようなポーズをとるスマナサーラ長老の仕草が、話した内容よりも強く印象に残った。

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 都内三鷹市では、公共施設の会場が満席立ち見となるほどの熱気の中、インドで60年前に仏教を復興したB.R.アンベードカル博士について解説し、佐々井師に会うのが初めての参加者と交流した。私は大鹿村、青森青龍寺、三鷹の三ヵ所で、佐々井師講演の前座として、パワーポイントで佐々井師の活動紹介と生き様を参加者に伝えた

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 7月7日、佐々井師は35日間の一時滞在の行脚を終え、国籍取得して28年となるインドの大地に帰って行った。帰国前、佐々井師に滞在中の印象深い出来事を尋ねた。山梨県の日蓮宗内船寺で、大勢の信者さんが団扇太鼓で出迎えられたことと、講和後の講談師神田甲陽さんの創作講談「ヒロシマ・ナガサキ・アンド・ピース」には思わず涙したといわれた。ご住職の奥さんが佐々井師を送り出す際、自ら「ジャイビーム!ジャイビーム!ジャイビーム!」と甲高い声で発声し、信者さんたちの「ジャイビーム!」の唱和で送り出されたことに、とりわけ感動したと話された。

_yyy8949jpgsumijpgweb_2青森市青龍寺


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 ここで登場する「ジャイビーム!(アンベードカルに勝利を!の意味)は、インド人仏教徒のあいさつ代わりのフレーズで、佐々井師が2009年に44年ぶりの一時帰国を果たした時、真言宗や臨済宗の寺院、浄土真宗系大学など宗派の垣根を超え、初めて日本人のみなさんが右手の拳を高く上げながら唱和した新しい真言だ。今回も大鹿村で、青森青龍寺でにぎやかに唱和された。
_yyy8887jpgsumijpgweb_2大鹿村でのイベント。「ジャイビーム!(アンベードカルに勝利を!)」

アンベードカル博士生誕125周年を利用するインドの政党
_yyy0813jpgsumijpgwebアンベードカル博士大学(ナグプール)


_n616264jpgsumijpgweb地方での仏教式典で、アンベードカル博士像に献花する佐々井師。

 佐々井師の一時帰国に先立つ二ヵ月前、私は二年ぶりに佐々井師の活動拠点ナグプールにいた。インドが酷暑期に入って間もない4月14日が、インド憲法起草者となり、インド仏教の復興を果たしたアンベードカル博士の誕生日だからだ。1956年の集団改宗から二か月後に急逝してしまった博士の改宗した聖地ナグプールはもとより、この日はインド各地でアンベードカル博士生誕125周年が盛大に祝われた。

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 アンベードカル博士といえばマハトマ・ガンジーと同時代の政治家で、上位カースト出身のガンジーとは対立した才能豊かな人物。しかもカースト外で奴隷扱いされていたアンタッチャブル(不可触民)出身。博士が著した「ブッダとそのダンマ」は仏教徒のバイブルとして広く読み継がれている。今年が特別だったのは、与党も野党もアンベードカル博士を称賛し、有権者の関心を引き付け選挙で有利になるための計算高い動きが際立った点にある。

 ヒンドゥー原理主義団体・民族義勇団(RSS)を母体とし、ヒンドゥー至上主義で知られるインド人民党(BJP)政権のモディ首相は、マディヤプラデッシュ州のアンベードカル誕生の地を生誕日に訪問するパフォーマンスを演じた。それに遡る3月、インド人民党は全国幹部総会で、「イスラム教徒は荷物を担いで好きな国へ出ていけ」発言で知られる党創立者のシャヤマ・プラサド・ムカジー氏とアンベードカル博士を同格に扱うようにという通達を出したほどの節操のなさだ。カースト差別から抜け出そうとインド古来の仏教を選び、ヒンドゥー教を棄て仏教に改宗したアンベードカル博士を、ヒンドゥー教が世の中で最高であるとするBJP創始者と同格に扱うという、日本では考えられないウルトラC的発想だ。

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 実際、生誕祭1週間前、佐々井師のインドラ寺院でも、佐々井師を無視する出来事があった。10数名の若い僧侶が寺院に集合し、本尊を拝んで佐々井師には挨拶することもなくブッダガヤ大菩提寺奪還闘争のために車で出発しようとした。佐々井師に断りのない生誕祭直前の動きにRSSの陰謀を嗅ぎ取った佐々井師は、僧侶たちを怒鳴り喝を入れた。「インドラにはもう来るな」と。「ジャイビーム!という合言葉を、「そんな言い方は止めなさい」と別の僧侶をたしなめる中年の坊さんもいたほどだ。この僧侶は一人の仏教徒から「お前はRSSだ」と指さされていたほどだ。

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 一方、2年前の総選挙で惨敗した国民会議派(コングレス党)も、仏教徒や下層民衆票の巻き返しにアンベードカル生誕祭を利用した。生誕記念日数日前、ナグプール市内の広場を貸し切って開催されたコングレス党の全国集会では、10万人規模の会場を埋め尽くした女性参加者の一人一人にアンベードカル博士の肖像をデザインした帽子を配った。特設中央ステージには、ガンジーの肖像画と在野民衆指導者として名高いマハトマ・プーレーの肖像画の真ん中にアンベードカル博士の肖像画を掲げた。

交代に演説する党幹部の背景の巨大なスクリーンには、アンベードカル博士の偉業を写真で次々と上映する凝りよう。メインスピーカーのソニア・ガンジー総裁(暗殺されたラジブ・ガンジー首相未亡人)は、BJPとRSSがアンベードカル博士を称賛しながら、実際には博士が起草した憲法を台無しにしようとしていると非難したほどだ。

 東京のインド大使館も、在日インド人仏教徒などを多数招いて盛大な生誕祭を開催。出席したゲストには、「ビムラオ・アンベードカル博士の生涯と時代」と題された15ページにわたる文章が掲載された日本語の「インド展望」(2016年1~2月号)が配布された。

アンベードカル博士生誕125周年パレード
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 4月13日、夜8時すぎ、アンベードカル博士生誕125周年を盛大に祝うパレードが、佐々井師によるインドラ寺院前のアンベードカル像への顕花で始まった。「バガワン・ブッダ・キー・ジャイ(ブッダ万歳)」、「アンベードカル・キー・ジャイ(アンベードカル万歳!)」と佐々井師は叫んだ。寺院前に用意された馬車風の山車に佐々井師が乗り込み聖火を受け取ると、夜の大行進が出発。重いものが握れない佐々井師から、聖火は弟子のダンマボディ(60歳)さんに渡った。(ダンマボディさんについては後述)

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 市内大通りの片側車線が通行止めとなり、老若男女の行列が8キロ続く大行進。例年にない盛り上がりだという。佐々井師の馬車の後をブッダやアンベードカルを讃える山車が続々と続き、若者や家族連れがぞろぞろ歩いた。ろうそくを手に静かに行進する女性たちに加え、プロの太鼓隊も登場。普段はお寺に参拝しないような若者層がパレードの中心だ。行進は深夜12時を回っても続いた。

 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」の阿波踊りを見ているようでもあった。折り返し地点は、アンベードカル像の建つ「憲法交差点」。群集で埋め尽くされ身動きができないほど。人々は熱気に身を任せ、博士を称賛しながら仏教旗を大きく振った。12時過ぎきっかりに佐々井師は、アンベードカル像に顕花し、生誕125年を祝うケーキカットを例年のように行った

弟子のダンマボディさんと「アンベードカルの生涯」  

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_yyy0234jpgaumijpgweb_2早朝のお寺のそうじ。

 パレードの先頭を進んだ馬車に乗り、佐々井師の代わりに聖火を持ち続けたダンマボディさんは、佐々井師が自ら得度させた僧侶の中でも、佐々井師も断言するほどにまじめで忠実な弟子だ。一人の人間として、お坊さんとして彼ほどインド社会の下層階級にまつわるエピソードに事欠かない者はいないだろう。お坊さんの生活ぶりを知る上でも貴重なので詳しく紹介したい。

 ダンマボディさんは妻と4人の子どもがいた1993年、夫婦親子の縁を断ち切り、マンセルのマンジュシュリー寺院で佐々井師によって得度。80人が一斉に集団得度したときの一人だった。「社会にお返しをしたい」というのが出家の漠然とした理由だという。
 1歳の時、妊娠中の母親が実の弟に殺害された。自身はコレラに罹って瀕死状態にあり、父親が「私の命に代わって救ってくれ」と祈ると、彼は助かったものの父親が死亡してしまった。彼と8歳上の兄は孤児となり、7歳の時には面倒をみてくれた兄が井戸に身を投げて自殺。その後は伯父伯母夫婦に育てられたが、小学校は満足に通うことなく20歳で結婚。役場の灌漑関係の仕事につき、37歳で夫婦親子の縁を自ら断ち切って出家した。
 得度後、師の言うことを聞かず一人で勝手に森や山を彷徨い、得度から三ヵ月後に佐々井師の前に現れた彼に対し、還俗しろと佐々井師は命じた。それを拒否したダンマボディさん。放浪中には、雨季で増水する川で溺れかけ、「ナモタサ~(仏さま~)」と必死に念じて助かったという。


 3年後、ナグプール市内のイスラム教徒居住区が隣り合い、仏教徒が30戸ほどのヤショーダラナガール(街)に住み付いた。きまじめに朝晩のお勤めし、仏教徒の信頼を得て、小さな仏像があっただけの地区に寄進で寺を建てアンベードカル像も建立。2008年には生まれ育った村にも10万ルピーの大金がかかったというアンベードカル像を佐々井師主導で落慶した。さらにダンマボディさんは大菩提寺奪還闘争にも必ず参加してきた。一度は水だけで13日間の断食を続けたことがある。

 特筆すべきなのが、ダンマボディさんの佐々井師の命を守る役割だ。2008年、マンセル近郊の町で行進中、佐々井師は聖火を握っていた右腕を大火傷した。行進中に車がブレーキを突然踏んだため、溶けたろうそくを右腕に浴び衣には火がついたという。その後の皮膚移植が失敗し佐々井師の後遺症は今も残る。ダンマボディさんは佐々井師の衣の火を消そうし、はずみで車から落ち左腕に大火傷した。火傷はアーユルベーダで治療したと話す。

 二年前、佐々井師の死亡説が飛び交ったときには、ナグプールの病院に付きっ切りとなり、ドクタージェット機で佐々井師がムンバイの大病院に転院後も、佐々井師が女性は回し者として看護師を受付ないので、看護師の代わりに下の世話を率先して引き受けた。翌年、この献身的な奉仕に感激したタイの篤志家が、重さ900キロの大きな仏像をダンマボディさんに寄贈し大きな話題となった。その仏像がお寺に到着後は、佐々井師の主導で仏像のお披露目大行進で周辺の路地を練り歩いた。「微笑みかけているような表情がインドのものと違い気に入っている」とダンマボディさんは話す。

8145ムンバイの病室で寝泊まりし、付きっ切りに介護するダンマボディさん(奥、2014年)。

 ダンマボディさんの日課は、毎朝5時起床、拡声器を通してお経を流し、寺の内外を掃除。6時には信者のいない寺で熱心に30分のお勤め。読経の結びは、「南無妙法蓮華経」「オンマニペメドフン」「ナモブッダ、ナモダンマ、ナモサンガ」「ジャイビーム!」で終わる。夜7時のお勤めは信徒さんたちが20人前後集まる。「信徒が来ても来なくてもまったく気にならない。早朝は信徒は仕事もあり起きるのも大変だからだ」。

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_yyy9994jpgsumijpgweb近所の仏教徒も参加する夜のお勤め。

 朝は寺の近くの信徒さんの家でチャイをいただく。朝食の供養は毎日のようにあるので徒歩かオートバイで出かける。食事後には一時間念入りに読経。誕生日祝いや新車の祝福などで毎日が結構忙しい。ある晩、ダンマボディさんを迎え、51歳の誕生日祝いを祝福してもらったのは二人の息子が大学に通う公務員一家だった。食事の供養、1時間の読経が終わると夜10時半を過ぎていた。お布施は500ルピー。日本円で1000円弱。佐々井師にお布施する信徒が100ルピー前後が一般的なことからも高額だ。寝る前には必ず愛読書の「アンベードカルの生涯」を声を上げて読む。ダンマボディさんのすごいところは、独学で学んできたことだ。

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 佐々井師にダンマボディさんについて尋ねると、「指導者になるタイプの僧侶ではないが、インド人の僧侶にしては、私を裏切らずにまじめでよくやってくれる」との評価だった。佐々井師の信頼を、うぬぼれ、お金の問題や女性問題でダメにし、佐々井師に敵対する勢力から担がれているという自覚のない僧侶も多い中、ダンマボディさんは稀有な僧侶だ。佐々井師の多様な大事業を継ぐインド人の弟子はどこにもいないようだ

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 「大菩提寺管理権奪還のための裁判闘争に力を入れるので、みなさん協力してください」と佐々井師は各地で呼びかけていた。全世界の仏教徒の最大聖地が、いまだに仏教徒の手に管理運営する権利がないのだ。

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2016年12月18日 (日)

年越せば、まる6年となる福島県大熊町。富岡町の松村直登さんの近況も。

(写真はクリックすると拡大します)

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大熊町新町のファミリーマート。年越せば丸6年になろうとしているのに、店内は3・11直後のまんま
地震による被害だけならこの状態で残されることはありえないだろう。(注:撮影は全て11月25日~26日)

 定点観測のように毎年一時帰宅に同行している大熊町の木幡ますみさんの一時帰宅に今年も同行した。facebookではすでに紹介済みだが、年内の内にブログにしておきたい。

木幡さんの自宅はイチエフの真西7キロにあり、帰還困難区域内。だが、自宅前を自由往来が許可されている国道288号線が走るため、避難解除された状況に近い。国道288号線は除染土などを運ぶダンプカーが行ったり来たりして、国道6号線よりも交通量が多い印象。それゆえか、空き巣に狙われやすいようだ。

_yyy4459jpgsumijpgweb大きな農家風の自宅前の坂道を登ってゆく木幡さん。


_yyy4494jpgsumijpgweb居間の荒らされ方が尋常ではなかった。ドロボウと動物も走り回ったような散らかり方。


_yyy4476jpgsumijpgweb一番広い部屋で木幡さんが掲げて見せてくれたのが夫の仁さんの弟さんが高校生のときに描いた絵。若い頃は絵描きを目指したというが、半身不随になりかねない病気を克服したばかりだという。


_yyy4531jpgsumijpgweb居間にある扉が閉まったままの仏壇から、夫の母親の遺影を持ち出した木幡さん。なぜか仏壇は荒らされた形跡はなかった。


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_n611038jpgjpgweb庭先の空間線量は3マイクロシーベルト前後だった。線量は明らかに下げ止まりだ。


_yyy4603jpgsumijpgweb土蔵が何者かによって開けられ、重い金属製の扉が閉まらないようにつっかい棒がされていた。


_yyy4634jpgsumijpgweb敷地内にはイチョウの大木が二本ある。銀杏が落ちて腐り始めていた。放射能測定のために、銀杏を収集する木幡さん。

 後日判明した銀杏の放射能汚染の結果は次の通り。
イノシシが大好物?の銀杏の外皮:セシウムの合計861ベクレル(137が716、134が145。カリウム40が596ベクレル)。
人間が好物とする銀杏の実:セシウムの合計574ベクレル(137が485、134が89。カリウム40が504ベクレル)

_n611061jpgsumijpgweb定点観測の場所に立ってもらっての写真。昨年までと比べると、坂道をふさぐ雑草や雑木が刈り払われている印象。木幡さんによると、同野上地区の住民の希望を東電が聞いたようで、住民サービスとして社員が家に通じる道や庭先などの雑草刈りに今年から開始したようだ。


◯木幡家の農地
_yyy4687jpgsumijpgweb国道288号線から枝分かれして大熊町町内に向かう道路端に立つ看板。「熊川海水浴場」の案内板が痛々しい。


_yyy4670jpgsumijpgwebこの道路の両サイドは、木幡家の水田だったが、いまはセイタカアワダチソウとススキの荒野と化して久しい。道路端5ⅿほどの雑草が刈り取られている。


イチエフの周辺と中間貯蔵施設予定地の現状
_yyy4763jpgsumijpgweb(財)福島県栽培漁業協会のカマボコ屋根が見えるが、イチエフと隣接しているヒラメやアワビの養殖場。


_n611127jpgsumijpgweb当然のことだが、いつ来てもここは高線量だ。この建物の周辺で撮影したり測定したりして、30分少々いるだけで頭が重く感じる


_yyy4866jpgsumijpgweb大津波により、養殖場の全ての建物は壊滅的被害を受けた。どれも、手付かずのまま放置されている。


_yyy4878jpgsumijpgweb配管もズタズタのまま。


_n611150jpgsumijpgweb養殖場裏手は太平洋が見渡す限り広がる。8.5マイクロシーベルト前後の空間線量を示した。

・カマボコ型の養殖場の脇に生い茂っていた野バラの蕾を木幡さんは収集し、放射能測定に出した。
その結果は以下の通りだった。
セシウムの合計が452ベクレル(137が370、134が82)。カリウム40は807ベクレル検出した。


_n611221jpgsumijpgweb運用されている中間貯蔵施設の一角。養殖場からは数百メートルしか離れていない元工業団地。放射線量が元々高い一帯だ。数値は10マイクロシーベルト近い

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_yyy4713jpgsumijpgweb津波により全壊した民家が手付かずで残されたままの熊川一帯も中間貯蔵施設予定地だが、現状は仮置き場として運用されているようだ。ダンプカーが頻繁に出入りしている。
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_yyy4956jpgsumijpgweb3・11の地震大津波により大きな被害を受けた太平洋岸450キロ沿線の中で、全壊家屋がいまも放置されたままの場所は、おそらく大熊町のこの一帯だけではないだろうか。原発事故による放射能汚染の怖ろしさを象徴しているのではないだろうか

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_n611245jpgsumijpgwebこの新興住宅街も中間貯蔵施設予定地。各地権者の同意なしには、貯蔵施設のための整備も開始できないわけだから、一年後もこの住宅街はおそらくそのままだろうと推測する。放射線量は7マイクロシーベルト前後を指す。
地震に耐えても放射能に汚染され、もはや人が住むことが憚れる瀟洒な住宅。これらも物言わぬ原発事故の生き証人ではないのだろうか。


_yyy4712jpgsumijpgweb熊町小学校も予定地に入る。写真は校舎前の校庭との境となる道路。もはや森状態だ。


_yyy4709jpgjpgweb_2原発事故前から建つ看板。「福島原子力企業協議会」の会員企業を列記しているようだ。東芝、日立、鹿島建設などの企業名が見える。東電のロゴが古いままだ。


大熊町復興拠点計画

Photo大熊町復興拠点計画図。
福島民報2016年11月26日から

・荒唐無稽というべきか、笑止千万というべきか、狂気と評するべきか。大熊町はイチエフから8キロの大川原地区を復興拠点に町役場の新設や広大なゴルフ場建設(ゲートボール場にしては広すぎるが)などの「復興」計画を公表した。

 この計画図にはないが、木幡ますみさんによると、大熊町は32億円の予算でイチゴの水耕栽培をこの地区で展開する計画になっているという。住民のほとんと帰還しない場所に役場を新設するとか、販売の見通しが立ちそうにないイチゴ栽培に手を出すとか、住民の税金や復興予算を活用するには全うな感性と理性的判断ができているとは思えない計画が目白押し。


_n611265jpgjpgweb自宅から持ち出した遺影をスクリーニング会場のスタッフが測定した。問題なく持ち出せた。

木幡さんのブログは「真澄の空」。原発に反対する大熊町町会議員として奮闘する木幡さんに注目!


富岡町の自宅に住み続ける松村直登さん
 富岡町の松村直登さんを半年ぶりに訪ねた。、

_n611323jpgsumijpgweb牛の囲い込みは除染のために空っぽだった。牛たちはどこへ行ったのだろうか?


_yyy5052jpgsumijpgweb川の反対側の水田が囲い込みとなり、牛たちは健在だった。この日は朝の冷え込みが厳しく、田んぼの水の表面は薄氷が覆っていた。
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_yyy5087jpgjpgwebエサやりをする松村さん。


Sumi_yyy5099jpgwebポニーのヤマは牛たちと共にピンピンしている。身体が二倍以上もある牛たちにいじめられることなく、エサを食うヤマは牛よりも生命力が強いのだろうか?


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_yyy5191jpgsumijpgweb松村さんは、来年は養蜂を本格的に開始したいと話していた。


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 これは富岡町の福島第二原発。先日の地震により1ⅿの津波が襲来したと報道された。(11月26日撮影)
問題は11月22日の福島県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震で、福島県は震度5弱だったが、その程度の揺れにより、3号機の使用済み燃料プールの冷却装置が1時間半ストップした事実の重みだ。
東電はこの第二原発の廃炉を決断せずに、虎視眈々と再稼働を目論んでいる
ことも併せて知っておく必要がある。_yyy5223jpgsumijpgweb

◯蛇足:一年前の大熊町は以下のブログ記事でごらんくささい。
大熊町・双葉町・浪江町 帰還困難区域の現状とは?


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