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2016年12月24日 (土)

「あきらめないで、闘う人々」(9条連ニュース11月号から転載)

「あきらめないで、闘う人々」(9条連ニュース2016年11月20日号)
写真は元記事に追加しています。      山本宗補(フォトジャーナリスト)

(無断転載厳禁です。著作権侵害となります)

20158jpgweb戦争法に反対する人々(2015年8月)

 原発も戦争も国策だ。原発推進勢力と戦前回帰に突き進む勢力はピタリと重なる。原発に反対する人も違憲の戦争法に反対する人も自然と重なる

011npajpgweb(フィリピン、反政府ゲリラの新人民軍、1990年)

 私は30年ほど前から「抗う」人びとを取材し始めた。フィリピンやビルマ(ミャンマー)などのような独裁政権下で、政府の軍隊に抵抗する反政府武装勢力、いわゆる反政府ゲリラの従軍取材などを繰り返した。もちろん非暴力の闘いも取材対象だ。異なる政治体制、社会構造の中で、基本的人権や先住の土地を守ろうと、自衛の闘いにまで追い込まれた人たちの、多くの場合が命がけの闘いだ。沖縄の辺野古や高江の米軍基地化を阻止する反対運動と重なる。取材をしていくと、国軍=政府がどれほどの蛮行を自国民に対して行っているか、時には自衛のための武装闘争の選択肢しか残されない理由が実感できる

B003knu1991jpgweb(ビルマ、自決権を求めて闘うカレン民族の部隊、1988年)

Aung_san_suu_kyi_1jpgweb(ビルマ、アウンサンスーチー氏、1995年撮影)

 「抗う」はもちろん「抵抗」の抗、レジスタンス。世界中のどこでも、社会の不正や不条理、政府や軍隊や警察などの大きな権力(「お上」)のいうことに対し、「NO!」と抵抗する個人や人々がいる。「抗う」彼らを取材し伝える役割が私のようなフリーランスの取材者にはある。彼らの「抗い」は、テレビや新聞などの大手メディアで報道されることが敬遠され、自分たちの窮状を発信する独自の媒体を持たないからでもある。

Jpgweb(アフガニスタン東部取材中、2001年)


_aaa1042jpgweb(大津波で壊滅した気仙沼市、2011年)

 東日本大震災発生後は、翌日から福島県に入って原発事故や津波被災地の取材を開始した。1年半の取材を「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」にまとめ、その後も追跡取材をする被災者が何人かいる。彼らの共通項は、電力会社や政府のような、とても太刀打ちできそうもない相手に立ち向かう意思を貫く点だ。天災と人災に襲われ、住まいや生きる糧を奪われた被災者となったとき、自分自身が彼らほどに自分の足で立ち、抵抗できるだろうか。答えは自明だ。ここでは誌面の都合で、「抗う」被災者を一人だけ紹介したい。

不屈--吉澤正巳さん
Jpgweb_2(2016年9月、代々木公園にて)
 
 福島県浪江町の吉澤正巳「希望の牧場・ふくしま」代表のことを国会前に集まったことのある人なら、知らない人はいないだろう。吉澤さんは原発事故後の避難指示を拒否。イチエフから直線で14キロ北西にある牧場に留まり、自らの被ばくを覚悟の上で、被ばくし経済的価値がゼロとなった300頭以上の和牛を生かしてきた。農水省の殺処分指示をも拒否し、牛たちを原発事故の生き証人として生かし続ける畜産農家だ。「東電・国は大損害つぐなえ」と赤字で大書された看板をつけた宣伝カーで、成牛大の彫刻作品を牽引する吉澤さんの拡声器を通したスピーチで、鼓舞された人も多いだろう。

Jpgweb_3(2016年10月、牧場にて)

 吉澤さんは原発事故後まもなく、国の原発避難民対策は「棄畜棄民」だとスピーチし始めた。吉澤さんにとっての「棄民」は、新潟県出身の両親が満蒙開拓団だったことに直結する。ご両親は国策に従い満州に移民したが、ソ連参戦後に開拓団を守るはずの関東軍に見棄てられ、ソ連軍から逃げきれないと判断した父は、老いた母と三人の幼子に自ら手をかけてしまったという凄惨な体験をくぐりぬけてきた。沖縄戦での集団死と共通する一生のトラウマとして残る戦争体験だ。母は無事帰国できたが、父はシベリア抑留後にやっと帰還。千葉県で営んだ酪農の規模拡大を計り、開拓団時代の伝手を頼って浪江町に広い土地を確保し酪農に取り組んだのが今の牧場の始まりだ。吉澤さんの抗いは畜産農家としての誇りだけではない。「原発の時代に、戦争の時代に逆戻りしてたまるか」という不屈の闘志が掻き立てられている。

反骨--福島菊次郎さん
Jpgweb_7(2011年9月、南相馬市にて)

 昨年94歳で亡くなった反骨の報道写真家・福島菊次郎さんは、「原発は原爆と同義語だ」と早くから断言していた。広島原爆を6日間の違いで免れたことが菊次郎さんの戦後の生き方を決定づけた。被爆者の克明で執拗な取材で菊次郎さんのプロの写真家としての方向性が決まり、自分の息子と同年代の全共闘運動の取材を通じ、「お上」の言うことを鵜呑みにしていた軍隊時代の自分の愚かさを深く悔いた。権力に立ち向かい、昭和天皇の戦争責任を問う表現活動に最期までブレはなかった

Jpgweb_8(2012年12月、山口県柳井市にて)

 私は菊次郎さんとの20数年来の親交があり、原発事故年の9月、放射能汚染が班目状態の福島県各地を、90歳になり心臓も弱った菊次郎さんを案内した。三日目は「さようなら原発」大集会の現場に立つ機会を作った。自分自身の目と体で原発事故の影響を実感してもらった。

 権力に迎合するばかりで、「抗う」個や人々を取材し伝える役割を多くの大手メディアが果たさないいま、フリーランスが伝えるしかない


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