佐々井秀嶺師とアンベードカル博士生誕125周年(「大法輪」から転載)
(「大法輪2016年9月号掲載から記事は転載)
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◯佐々井秀嶺師、一年ぶりの一時帰国
インド仏教徒一億人の最高指導者となった佐々井秀嶺(インド名:アーリア・ナーガルジュナ・シューレイ・ササイ、80歳)が、今年も静養を兼ねて一時帰国し、七夕の日にインドへ帰っていった。高齢となった佐々井師だが、例によって精力的に西や北に行脚した。
二年前、佐々井師は、本人曰く、「原因不明の病気で三途の川を渡って冥界を彷徨い、悪さを相談している者たちを見た」あげく、不死鳥のごとくに現世に舞い戻った。事実、佐々井師の存在を好ましくないと思っている勢力からは死亡説さえ流された。昨年の一時帰国後は三ヵ月にわたり食事もままならず激痩せした。結果的に糖尿病を克服したかのような精悍さを取り戻した風情で6月初めに母国に一時帰国した。
故郷岡山県新見市では、共生高校で青年時代の悩みについて講演し、京都産業大ではマンセル遺跡の更なる発掘研究を呼びかけ、本州ど真ん中の大地溝帯の中心に位置する長野県大鹿村では、自然環境を大切にした生き方を実践する子育て中の若い世代とゆったりした交流の時を過ごし、青森県では、昭和大仏で知られる青龍寺(高野山真言宗)で北海道や四国などからも遠路はるばると駆け付けた熱心な参加者を前に、50年あまりの布教人生で鍛えぬいた声量で講演した。
一時帰国の度に必ず訪れる原発事故後の福島県浜通り。7月半ばに政府による避難指示が解除される南相馬市小高区同慶寺の田中徳雲住職の案内で、フレコンバッグのピラミッドを見つめ、原町区の海岸では津波で流されガレキとなった住宅の柱などを埋め盛土した森の防潮提を見学し、多数の死者行方不明者が出て復興とは無縁のままの浪江町請戸海岸で、供養のために般若心経を何度も唱えた。
福島県三春町の臨済宗福聚寺を訪ねて芥川賞作家として著名な玄侑宗久住職との異色な組み合わせの歓談も実現。玄侑師は妙心寺派管長の河野太通老師が佐々井師の長年の支援者でナグプールにも来ていることを佐々井師から聞き驚いていた。上座部仏教僧として著名で日本語が流暢なスマナサーラ長老とも初顔合わせの対談風トークの会もあった。佐々井師が話している時、下を向いたままの姿勢や、対談相手の話に関心がないというようなポーズをとるスマナサーラ長老の仕草が、話した内容よりも強く印象に残った。
都内三鷹市では、公共施設の会場が満席立ち見となるほどの熱気の中、インドで60年前に仏教を復興したB.R.アンベードカル博士について解説し、佐々井師に会うのが初めての参加者と交流した。私は大鹿村、青森青龍寺、三鷹の三ヵ所で、佐々井師講演の前座として、パワーポイントで佐々井師の活動紹介と生き様を参加者に伝えた。
7月7日、佐々井師は35日間の一時滞在の行脚を終え、国籍取得して28年となるインドの大地に帰って行った。帰国前、佐々井師に滞在中の印象深い出来事を尋ねた。山梨県の日蓮宗内船寺で、大勢の信者さんが団扇太鼓で出迎えられたことと、講和後の講談師神田甲陽さんの創作講談「ヒロシマ・ナガサキ・アンド・ピース」には思わず涙したといわれた。ご住職の奥さんが佐々井師を送り出す際、自ら「ジャイビーム!ジャイビーム!ジャイビーム!」と甲高い声で発声し、信者さんたちの「ジャイビーム!」の唱和で送り出されたことに、とりわけ感動したと話された。
ここで登場する「ジャイビーム!(アンベードカルに勝利を!の意味)は、インド人仏教徒のあいさつ代わりのフレーズで、佐々井師が2009年に44年ぶりの一時帰国を果たした時、真言宗や臨済宗の寺院、浄土真宗系大学など宗派の垣根を超え、初めて日本人のみなさんが右手の拳を高く上げながら唱和した新しい真言だ。今回も大鹿村で、青森青龍寺でにぎやかに唱和された。
大鹿村でのイベント。「ジャイビーム!(アンベードカルに勝利を!)」
◯アンベードカル博士生誕125周年を利用するインドの政党
アンベードカル博士大学(ナグプール)
地方での仏教式典で、アンベードカル博士像に献花する佐々井師。
佐々井師の一時帰国に先立つ二ヵ月前、私は二年ぶりに佐々井師の活動拠点ナグプールにいた。インドが酷暑期に入って間もない4月14日が、インド憲法起草者となり、インド仏教の復興を果たしたアンベードカル博士の誕生日だからだ。1956年の集団改宗から二か月後に急逝してしまった博士の改宗した聖地ナグプールはもとより、この日はインド各地でアンベードカル博士生誕125周年が盛大に祝われた。
アンベードカル博士といえばマハトマ・ガンジーと同時代の政治家で、上位カースト出身のガンジーとは対立した才能豊かな人物。しかもカースト外で奴隷扱いされていたアンタッチャブル(不可触民)出身。博士が著した「ブッダとそのダンマ」は仏教徒のバイブルとして広く読み継がれている。今年が特別だったのは、与党も野党もアンベードカル博士を称賛し、有権者の関心を引き付け選挙で有利になるための計算高い動きが際立った点にある。
ヒンドゥー原理主義団体・民族義勇団(RSS)を母体とし、ヒンドゥー至上主義で知られるインド人民党(BJP)政権のモディ首相は、マディヤプラデッシュ州のアンベードカル誕生の地を生誕日に訪問するパフォーマンスを演じた。それに遡る3月、インド人民党は全国幹部総会で、「イスラム教徒は荷物を担いで好きな国へ出ていけ」発言で知られる党創立者のシャヤマ・プラサド・ムカジー氏とアンベードカル博士を同格に扱うようにという通達を出したほどの節操のなさだ。カースト差別から抜け出そうとインド古来の仏教を選び、ヒンドゥー教を棄て仏教に改宗したアンベードカル博士を、ヒンドゥー教が世の中で最高であるとするBJP創始者と同格に扱うという、日本では考えられないウルトラC的発想だ。
実際、生誕祭1週間前、佐々井師のインドラ寺院でも、佐々井師を無視する出来事があった。10数名の若い僧侶が寺院に集合し、本尊を拝んで佐々井師には挨拶することもなくブッダガヤ大菩提寺奪還闘争のために車で出発しようとした。佐々井師に断りのない生誕祭直前の動きにRSSの陰謀を嗅ぎ取った佐々井師は、僧侶たちを怒鳴り喝を入れた。「インドラにはもう来るな」と。「ジャイビーム!という合言葉を、「そんな言い方は止めなさい」と別の僧侶をたしなめる中年の坊さんもいたほどだ。この僧侶は一人の仏教徒から「お前はRSSだ」と指さされていたほどだ。
一方、2年前の総選挙で惨敗した国民会議派(コングレス党)も、仏教徒や下層民衆票の巻き返しにアンベードカル生誕祭を利用した。生誕記念日数日前、ナグプール市内の広場を貸し切って開催されたコングレス党の全国集会では、10万人規模の会場を埋め尽くした女性参加者の一人一人にアンベードカル博士の肖像をデザインした帽子を配った。特設中央ステージには、ガンジーの肖像画と在野民衆指導者として名高いマハトマ・プーレーの肖像画の真ん中にアンベードカル博士の肖像画を掲げた。
交代に演説する党幹部の背景の巨大なスクリーンには、アンベードカル博士の偉業を写真で次々と上映する凝りよう。メインスピーカーのソニア・ガンジー総裁(暗殺されたラジブ・ガンジー首相未亡人)は、BJPとRSSがアンベードカル博士を称賛しながら、実際には博士が起草した憲法を台無しにしようとしていると非難したほどだ。
東京のインド大使館も、在日インド人仏教徒などを多数招いて盛大な生誕祭を開催。出席したゲストには、「ビムラオ・アンベードカル博士の生涯と時代」と題された15ページにわたる文章が掲載された日本語の「インド展望」(2016年1~2月号)が配布された。
4月13日、夜8時すぎ、アンベードカル博士生誕125周年を盛大に祝うパレードが、佐々井師によるインドラ寺院前のアンベードカル像への顕花で始まった。「バガワン・ブッダ・キー・ジャイ(ブッダ万歳)」、「アンベードカル・キー・ジャイ(アンベードカル万歳!)」と佐々井師は叫んだ。寺院前に用意された馬車風の山車に佐々井師が乗り込み聖火を受け取ると、夜の大行進が出発。重いものが握れない佐々井師から、聖火は弟子のダンマボディ(60歳)さんに渡った。(ダンマボディさんについては後述)
市内大通りの片側車線が通行止めとなり、老若男女の行列が8キロ続く大行進。例年にない盛り上がりだという。佐々井師の馬車の後をブッダやアンベードカルを讃える山車が続々と続き、若者や家族連れがぞろぞろ歩いた。ろうそくを手に静かに行進する女性たちに加え、プロの太鼓隊も登場。普段はお寺に参拝しないような若者層がパレードの中心だ。行進は深夜12時を回っても続いた。
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」の阿波踊りを見ているようでもあった。折り返し地点は、アンベードカル像の建つ「憲法交差点」。群集で埋め尽くされ身動きができないほど。人々は熱気に身を任せ、博士を称賛しながら仏教旗を大きく振った。12時過ぎきっかりに佐々井師は、アンベードカル像に顕花し、生誕125年を祝うケーキカットを例年のように行った。
◯弟子のダンマボディさんと「アンベードカルの生涯」
パレードの先頭を進んだ馬車に乗り、佐々井師の代わりに聖火を持ち続けたダンマボディさんは、佐々井師が自ら得度させた僧侶の中でも、佐々井師も断言するほどにまじめで忠実な弟子だ。一人の人間として、お坊さんとして彼ほどインド社会の下層階級にまつわるエピソードに事欠かない者はいないだろう。お坊さんの生活ぶりを知る上でも貴重なので詳しく紹介したい。
ダンマボディさんは妻と4人の子どもがいた1993年、夫婦親子の縁を断ち切り、マンセルのマンジュシュリー寺院で佐々井師によって得度。80人が一斉に集団得度したときの一人だった。「社会にお返しをしたい」というのが出家の漠然とした理由だという。
1歳の時、妊娠中の母親が実の弟に殺害された。自身はコレラに罹って瀕死状態にあり、父親が「私の命に代わって救ってくれ」と祈ると、彼は助かったものの父親が死亡してしまった。彼と8歳上の兄は孤児となり、7歳の時には面倒をみてくれた兄が井戸に身を投げて自殺。その後は伯父伯母夫婦に育てられたが、小学校は満足に通うことなく20歳で結婚。役場の灌漑関係の仕事につき、37歳で夫婦親子の縁を自ら断ち切って出家した。
得度後、師の言うことを聞かず一人で勝手に森や山を彷徨い、得度から三ヵ月後に佐々井師の前に現れた彼に対し、還俗しろと佐々井師は命じた。それを拒否したダンマボディさん。放浪中には、雨季で増水する川で溺れかけ、「ナモタサ~(仏さま~)」と必死に念じて助かったという。
3年後、ナグプール市内のイスラム教徒居住区が隣り合い、仏教徒が30戸ほどのヤショーダラナガール(街)に住み付いた。きまじめに朝晩のお勤めし、仏教徒の信頼を得て、小さな仏像があっただけの地区に寄進で寺を建てアンベードカル像も建立。2008年には生まれ育った村にも10万ルピーの大金がかかったというアンベードカル像を佐々井師主導で落慶した。さらにダンマボディさんは大菩提寺奪還闘争にも必ず参加してきた。一度は水だけで13日間の断食を続けたことがある。
特筆すべきなのが、ダンマボディさんの佐々井師の命を守る役割だ。2008年、マンセル近郊の町で行進中、佐々井師は聖火を握っていた右腕を大火傷した。行進中に車がブレーキを突然踏んだため、溶けたろうそくを右腕に浴び衣には火がついたという。その後の皮膚移植が失敗し佐々井師の後遺症は今も残る。ダンマボディさんは佐々井師の衣の火を消そうし、はずみで車から落ち左腕に大火傷した。火傷はアーユルベーダで治療したと話す。
二年前、佐々井師の死亡説が飛び交ったときには、ナグプールの病院に付きっ切りとなり、ドクタージェット機で佐々井師がムンバイの大病院に転院後も、佐々井師が女性は回し者として看護師を受付ないので、看護師の代わりに下の世話を率先して引き受けた。翌年、この献身的な奉仕に感激したタイの篤志家が、重さ900キロの大きな仏像をダンマボディさんに寄贈し大きな話題となった。その仏像がお寺に到着後は、佐々井師の主導で仏像のお披露目大行進で周辺の路地を練り歩いた。「微笑みかけているような表情がインドのものと違い気に入っている」とダンマボディさんは話す。
ムンバイの病室で寝泊まりし、付きっ切りに介護するダンマボディさん(奥、2014年)。
ダンマボディさんの日課は、毎朝5時起床、拡声器を通してお経を流し、寺の内外を掃除。6時には信者のいない寺で熱心に30分のお勤め。読経の結びは、「南無妙法蓮華経」「オンマニペメドフン」「ナモブッダ、ナモダンマ、ナモサンガ」「ジャイビーム!」で終わる。夜7時のお勤めは信徒さんたちが20人前後集まる。「信徒が来ても来なくてもまったく気にならない。早朝は信徒は仕事もあり起きるのも大変だからだ」。
朝は寺の近くの信徒さんの家でチャイをいただく。朝食の供養は毎日のようにあるので徒歩かオートバイで出かける。食事後には一時間念入りに読経。誕生日祝いや新車の祝福などで毎日が結構忙しい。ある晩、ダンマボディさんを迎え、51歳の誕生日祝いを祝福してもらったのは二人の息子が大学に通う公務員一家だった。食事の供養、1時間の読経が終わると夜10時半を過ぎていた。お布施は500ルピー。日本円で1000円弱。佐々井師にお布施する信徒が100ルピー前後が一般的なことからも高額だ。寝る前には必ず愛読書の「アンベードカルの生涯」を声を上げて読む。ダンマボディさんのすごいところは、独学で学んできたことだ。
佐々井師にダンマボディさんについて尋ねると、「指導者になるタイプの僧侶ではないが、インド人の僧侶にしては、私を裏切らずにまじめでよくやってくれる」との評価だった。佐々井師の信頼を、うぬぼれ、お金の問題や女性問題でダメにし、佐々井師に敵対する勢力から担がれているという自覚のない僧侶も多い中、ダンマボディさんは稀有な僧侶だ。佐々井師の多様な大事業を継ぐインド人の弟子はどこにもいないようだ。
「大菩提寺管理権奪還のための裁判闘争に力を入れるので、みなさん協力してください」と佐々井師は各地で呼びかけていた。全世界の仏教徒の最大聖地が、いまだに仏教徒の手に管理運営する権利がないのだ。
◯取材活動支援のお願い
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