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2015年9月25日 (金)

追悼:反骨の報道写真家・福島菊次郎さんが亡くなった。私たちにいま問われているものは何か?

(写真はクリックすると拡大します)

 (注:編集中なので後で追記したり、書き直す予定です)

「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」

 これは福島菊次郎さんが主権者として、ジャーナリストとして残した有名な一言である。

000180(2001年撮影)

 福島菊次郎さんが9月24日に息を引き取ったと、ご家族から聞いた。体重は30キロちょっとしかなかったようなので老衰のようだ。心からご冥福をお祈りするばかりだ。

 ご家族だけで火葬し、葬式はやらないという。

 菊次郎さんが常々怖れていた安倍自民公明政権が、違憲立法である「戦争法案」の強行採決という独裁的手法に及んでまもない時期の訃報は、今日一日降り続く雨のように、気持ちを暗澹とさせ、心を重くする。

 ちょうど2年前、ある一件によって26年間続いた交友関係がこわれ、菊次郎さんとは疎遠になっていた。だが、そんな個人的な一件とは無関係に、菊次郎さんの戦後の生き様を畏敬する気持ちには何ら変わりがない。

 立命館大学国際平和ミュージアムで二ヶ月間の写真展「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」を開催したが、その時のポスターとチラシには福島県南相馬市の大津波被災地を私がご案内したときに撮影した写真を使用した。ポスターは菊次郎さんに送ったところ、アパートに貼ってあるということを人づてに聞いていた。

Photo_1

 ちょうど、二年前に刊行された、朝日新聞社発行の「Journalism 2013.9」誌には、「反骨の報道写真家・福島菊次郎から、フォトジャーナリスト魂を学ぶ」と題した8ページの長文を寄稿した。自分自身がフォトジャーナリズムの世界に入り、ここまでやってくる経緯に、菊次郎さんとの交友関係をからめての記事だ。

 このブログ記事では、福島菊次郎さんのご冥福を念じ、「Journalism」誌掲載前の荒原稿に少し手をいれた文章を追悼の代わりに掲載したい。写真は誌面で使用したものと使用していないものも少し加えたい。(Journalism誌をお持ちの方はもう一度読んでいただけると嬉しい)

 1986年の菊次郎さんとの始めての出会いなどについても触れている。

005(2005年撮影)


反骨の報道写真家・福島菊次郎からフォトジャーナリスト魂を学ぶ

 敗戦から68年の夏。国内外の戦争体験者70人の証言をまとめたA4版のモノクロ写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(彩流社)を出版できた。掲載したうち、18人がすでに鬼籍に入られてしまった。もっと早く出版にこぎ着けたかったが、東日本大震災と原発事故が起きたので、後回しにせざるをえなかった。2011年3月12日から福島県に入り取材を開始し、一年半の継続取材をまとめた全カラーのフォトルポルタージュ「鎮魂と抗い~3・11後の人びと~」(彩流社)を昨年9月に出版。そして民主党の自滅で自民公明連立政権が再登場し、安倍晋三首相の復活となった。危機感を募らせた私は、この写真集を敗戦記念日前の出版にこぎつけようと急いだ。

 写真集のあとがきで触れたが、私が戦争体験者の聞き取りを本格的に開始したのは、2005年夏。日本最南端の八重山諸島が舞台となった「戦争マラリア」を取材したところからだ。それまで沖縄戦のことさえも取材していなかった自分が取り組むには、理由付けが必要だった。
 
その理由を遡ると、約30年前から東南アジアの国々の内戦や貧困などの社会問題を取材しはじめたことに行き着く。取材中に熱帯特有のマラリアやアメーバ赤痢などに何度も罹り、マラリアの症状に関しては熟知していたという自負もあった。日本にもマラリアがあることが本当なのか現地で確かめてみたいとも思った。「戦争マラリア」についての詳細は、拙写真集を手にとっていただくことにして、本題のフォトジャーナリストとしての仕事と、昨年公開された映画「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」で、その存在と生き様が全国的に知られることになった福島菊次郎さんとの関わりについて書いてみたい。ちなみに、「戦後はまだ・・・」に掲載した一人が、92歳で現役報道写真家の福島菊次郎さんだ。

人生の目標を失い米国で写真を学ぶ

 若い頃は社会の問題やジャーナリズムの世界とは無縁だった私が、フォトジャーナリズムの世界に踏み込むようになった経緯を簡単に記しておきたい。福島菊次郎さんとの縁の偶然性がより浮かび上がるからだ。長野県の田舎町で生まれ育った私は、都内の大学の夜間学部に滑り込んだものの、勉強が嫌いで長続きせずに自主退学。早々に自分の人生も見限り、家出をし、自己嫌悪が増幅し自殺願望にとりつかれた。ただ、自殺するほどの勇気がなく、人生の目標もないまま日本で生きるよりも、物理的に生活環境を変えてしまえば真剣に生きる気持ちになるかもしれないとアメリカに渡った。1978年、25歳だった。カリフォルニア州南端のメキシコ国境の町サンディエゴで生活した。観光ビザから学生ビザに現地で変更できるといわれていたが、ビザ変更ができないまま、サンディエゴ市のコミュニティーカレッジで写真の基本を二年間学んだ。写真を選んだのは、他に興味が湧く職業訓練的な科目がなかったからだ。

14(2011年撮影、福島県南相馬市)

  私が報道写真の世界に魅かれるようになったのは、図書館などで借りたロバート・キャパとかユージン・スミス、LIFE誌やマグナムなどの社会派的写真をたくさん見てからだ。英文写真集のためか、日本人写真家の作品に触れることは稀だった。知った名前はローマ字名で、EIKO HOSOE(細江英公)、HIROSI HAMAYA(濱谷浩)くらいだった。土門拳の名前も本も知らないまま過ごした3年半の滞米生活で身に付いたものは、写真撮影の基礎と日常生活をこなす英会話能力程度だった。自分にとって特筆すべきは、自殺志向を招いた自己嫌悪というネガティブな思考から、アメリカ人特有のポジティブな思考に自分を変えることができるようになったことだろう。

  帰国後、英語も写真も使わなければ無駄になると思い、東南アジアに行き始めたが、社会問題とか歴史を学ぶ姿勢のないまま写真を撮っただけだった。有り難かったのは、撮影の仕事で来日するマグナムなどの世界的に著名なカメラマンの荷物持ち兼通訳としてのアルバイトが時折できたことだ。そうした経験が社会派的な写真に関心を引き寄せる役割を果たしたと思う。

 転機となったのがマルコス政権晩年の85年。飢餓が伝えられたフィリピン中部のネグロス島に入り、地主階級の私兵が労働者に無差別に発砲し、20人以上が殺害された虐殺事件の被害者を取材した。死体も、銃弾による負傷者も、武装した私兵も、私にとっては全てが始めての取材となった。週刊誌などに売り込んだが掲載に至らなかった。取材が不十分で、マルコス政権とは何か、独裁政権末期の虐殺事件をどうとらえるべきか、日本とフィリピンの関係とは何か。私が編集者に説明し説得できるほど状況を把握できていなかった。英字紙にだけは掲載できたものの、取材しても発表できなければ取材したことにならないことを思い知らされた。その後の大統領選挙、無血クーデターなどとフィリピンの政変がテレビ中継で日本のお茶の間にも報道される展開となり、私自身もフィリピン取材にのめりこんで行った。

 今振り返ると、日本との関わりの深いフィリピンは駆け出しのフォトジャーナリストに取材の基礎を学ばせてくれた。貧困、飢餓、内戦、天災、日本人人質事件、日本のODA、日本企業の関わり、日本人中年と若きフィリピナの見合い結婚、日本軍の戦争の傷跡など。英語能力の向上にもつながり、その後のビルマ(ミャンマー)取材や、インドや中東などでの取材にも生かされることになった。日本の大学を卒業し、メディアで記者修行したわけでも、労働組合や市民運動をやってきたわけでもない私の思考や思想形成は、内外の取材現場で培われたものだ
 
報道写真家・福島菊次郎との出会い

20119(2009年撮影。さようなら原発大集会)

 私が福島菊次郎さんに初めてお会いしたのは86年秋。菊次郎さんが瀬戸内海の周防大島で野菜を有機的に作り、果樹も栽培し、自給自足の生活をされている時だった。菊次郎さんは漁師の子どもだったから魚は海に行けば手に入った。当時65歳。その後に破局を迎える若い女性と同居していた。

 チェルノブイリ原発事故が春先に起きた年でもあった。その原発事故の深刻さを十分に認識していなかった私だが、ポーランドの撮影で、放射能の影響を深刻に受け止める話を聞き、多少は身近に感じ始めていた。帰国後、雑誌の仕事で周防大島と橋で結ばれた沖家室島の、高齢でも元気に生きるお年寄りを撮影する仕事で沖家室島に滞在した。人口200数十人の孤島の唯一の寺の住職が、「同業者なら福島菊次郎さんのことは知っているでしょう」と、周防大島に住む菊次郎さんの家に案内してくれた。団塊の世代の住職は大学時代にゲバ棒を手に学生運動に身を投じたことがある世代だった。

 私はフォトジャーナリストと名乗ってはいたが、30歳を過ぎてもまだ駆け出し同然で、自分自身の取材テーマを持たなかった。実際、菊次郎さんにお会いするのは荷が重すぎた。小柄だが、厳しい顔つきの菊次郎さんとほんの少しだけことばを交わしたくらいで、写真を数枚だけ撮らせてもらったが、他には何も覚えていない。その後も縁が続くとは全く思わなかった。その時だったか、ミカン畑の真ん中にある借家の回りの畑に人糞を肥料にしてイチゴを育てていたところを見たような気がする。田舎の長野県で母親の畑仕事をできるだけ手伝い、作物を作る苦労を身近なものと感じることができるようになったのは、菊次郎さんの自給自足の生き方に影響を受けていた。

  初対面のその時まで、菊次郎さんと私の接点がゼロだったわけでもない。実は、アメリカから帰国後、小さな古本屋で手にしたのが菊次郎さんが78年に出版した『原爆と人間の記録』(78年、社会評論社)だ。土門拳などの名前や作品さえまだ知らない私が、福島菊次郎という並外れた存在を偶然のきっかけで知ったのがこの時だ。あとがきを立ち読みして感動したことは忘れられない。日本にも戦争でなくとも命を張って取材し報道するカメラマンが存在することに敬服した。あの本を古本屋で手にしていなければ、私は福島菊次郎という報道写真家の存在を知ることが無かったような気がする。

菊次郎さんの仕事と生き様を広く伝える

  99年からは「老いの風景」をテーマに、同郷で同い年のジャーナリスト、須田治さんとペンと写真のコンビを組み、全国で「老い」をテーマに取材開始した。「老いの風景」の取材を始めるまでの私はといえば、フィリピンとビルマ(ミャンマー)の取材をそれぞれフォトルポルタージュとして出版するのがやっとだった。視線は国外にだけ向かっていたのだが、海外で長期取材しても掲載できる雑誌がほとんど無くなり、私自身も海外報道から国内問題への転換を迫られていた。その最初の取材で、沖家室島を13年ぶりに訪れ、小さな島の世代交代した島民の老いてもなお元気に一人暮らし続ける姿を撮った。取材後に周防大島の菊次郎さん宅に立ち寄ったところが、私にとっては菊次郎さんの命懸けの仕事と向き合い始めるきっかけとなった。沖家室島の取材に出かける度に、菊次郎さんの借家に泊まらせてもらい、深夜まで菊次郎さんが現役で取材していたころのいろんな話を聞くことが始まった。

 2002年。菊次郎さんが周防大島で自ら制作した膨大な写真パネルを展示する写真展を企画し、さいたま市浦和の知人が経営する日本喫茶ギャラリーで開催した。数年後、菊次郎さんの写真パネルの管理を依頼されることになるのだが、私が初めて関わった写真展だった。二週間を二部構成とし、「瀬戸内離島物語」と「日本の戦後を考える戦争責任展」を展示。「瀬戸内」の時には菊次郎さんの彫金作品も同時に展示販売した。彫金は菊次郎さんの器用さを象徴するもので、彫金作家ベストテンになったこともあるほどの実力だ。写真パネル制作費を稼ぎ出したのも彫金作品だという。菊次郎さんは毎夏、敗戦記念日を初日とする彫金展を都内青山のギャラリーで開催。私は夫婦でギャラリーに挨拶に出かけ、作品を見る程度のおつきあいが長く続いた。蔵を改造したギャラリーの畳部屋で菊次郎さんの講演会も実現した。

200222002年、ギャラリー楽風での写真展

 イラク戦争開戦とほぼ同じ頃、筆のたつ須田さんが49歳の若さで急逝してしまった。菊次郎さんのインタビューを人気の高い月刊誌「サライ」に売り込み掲載するなど、須田さんの筆力に写真を撮る者として頼っていたことを反省し、自分なりの「老いの風景」を取材し続けた。菊次郎さんの生活の場は、この頃までには周防大島から柳井市に移っていた。大島の借家を引き払い、99年には下関市で写真館を一時運営し、翌年には常設写真展会場を柳井駅前に見つけたのを機に柳井市のアパートで独居生活となった。根っからの犬好きの菊次郎さんに同居の犬も欠かせなかった。

  写真集「また、あした 日本列島老いの風景」のタイトルで出版したのは2006年。「老い」にまつわる総論的な構成で、第1章は「大往生の島」と題して沖家室島を取り上げ、第4章は「記憶を撮る」と題して戦争体験者の肖像写真とその体験の一部を紹介する形だ。一人目が、私が自慢したい01年に撮影した菊次郎さんの横顔だ。キャプションの代わりに菊次郎さん特有の表現を掲載した。「靖国神社こそは若者を死地に駆り立て、ボロ布のように使い捨てた軍国主義の『大量殺人装置』以外の何ものでもなかったのだ。僕も何度か靖国の生贄にされそうになった」

Dsc_01352006年撮影

  狭いアパート生活で菊次郎さんは、写真だけでは伝えきれなかった現場のやりとりを活字にまとめる執筆に集中した。「写らなかった戦後」(現代人文社)シリーズとなり、第一段は「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘」と題されて2003年7月に刊行された。シリーズ第二弾の「菊次郎の海」出版に合わせた講演会を、2005年に都内で開催した。この時から菊次郎さんの講演の進行役を自ら務めるようにした。話始めたら途切れることのない菊次郎さんの話を、時間内に引き出すためのブレーキ役と舵取りに過ぎないが。

  講演の締めくくりに84歳の菊次郎さんは言った。

「戦後、ジャーナリストも国民も言ったことだが、ああいう馬鹿
な戦争をやったのは、ジャーナリズムがペンを折ったから。こういう事態が再び来たのはジャーナリズムと個々のジャーナリストがその志を放棄したから。戦前と同じで大政翼賛化し、戦後をきちんと照らして導いていくべきジャーナリズムの怠慢が作ったんだ。僕もジャーナリストの一人として、そういう内省をし、今日も田舎から出てきてジャーナリストとしての役目をちゃんとやろうとしている」

 小泉政権下でアメリカのイラク戦争に加担し、靖国問題で日中関係が一気に悪化していった時期だ。

  信濃毎日新聞紙上で、「『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎」と題した福島菊次郎論を三回に分けて掲載したのは2007年だ。菊次郎さんのすさまじい生き様を少しでも伝えたかった。昭和天皇の下血報道に際し、「このままとんずらされてたまるか。絶対に奴より先に死なんぞ」と決意し、退院を早めて「戦争責任展」と題した写真パネルを自費制作し、無償で全国巡回させたことを読者に伝えた。昭和天皇の下血報道は菊次郎さんが67歳で、胃がん摘出手術を終えて入院中の時だった。爆弾を抱えて自爆攻撃をさせられる訓練中に戦争が終わった福島菊次郎元二等兵の、最高責任者に対する責任の問いかけだった。

112(2011年9月撮影、さようなら原発デモ)

福島菊次郎講演会と写真展開催
  2007年6月に御茶ノ水の明治大学の教室を会場に、「戦争がはじまる」福島菊次郎「遺言」講演会を開催した。講演会は会場に入りきれない50人ほどにあきらめてもらうほど大盛況だった。私も所属するフリーランス仲間の集まりであるJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。02年に広河隆一さんを代表として結成。その後、DAYS JAPANを発行した広河さんは退会し、現在の会員は16名で共同代表制)主催で開催したが、菊次郎さんの名前も仕事も知らない若い世代を中心に、14歳の中学生から70代の高齢者まで、幅広い参加者が集まった。企画した私が司会進行役をし、菊次郎さんが撮影した主要作品をスクリーンに上映して紹介した。講演会のアンケートが反響の大きさと重みを物語っている。

  「自衛隊や三里塚闘争などの、戦後の問題を示した写真の迫力がすごいと感じました。また、それ以上に天皇問題や日本の将来に対し語られる福島先生のすごさにも圧倒されてしまいました。(男性・44歳)」「初めて話を聴くが、すごい人だと感じ入る。「戦場体験」「戦争体験」「裕仁の戦争犯罪」「大本営発表」「権力のウソ」「ジャーナリズムの堕落」「被害者立場のみ主張」「加害者意識の欠如」(男性・74歳)」

 「戦争責任というのは戦場責任のことのみを指すのではない。戦争とは戦前―開戦―戦中―終戦―時には戦後までのすべての局面を言うのであって、すべての局面に責任は生ずるとのメッセージが印象に残りました。既に「戦前」の局面に入っていると思われる現在、主権者たる我々一人一人の「戦争責任」が既に問われ始めているのですね。(男性・34歳)」

 「先日20歳になったばかりで、まだまだ子どもつもりでいましたが、もう自分も責任を負う人間なのだと思いました。自分の子どもや孫の世代に胸を張って生きて欲しい、戦争のある世界を残したくない。今の自分にできること、しなければならないことを考え、行動に移していきたいと思います。(女性・20歳)」

 「日本は戦争を終えると同時に再び新たな戦争へと歩んで来たような気がした。この国がいかに表面的な国であり、いかに危険な状態であるかわかった。いままでは、「国が悪い」という意識で何かと批判してきたが、その責任の源流が国民にあったのだということを思い知らされるような講義だった。このまま恐ろしい未来が訪れるのをただじっと待っているだけというのも非常にむなしいことだと思うが、正直な気持ちとしては、未来は変えられない気がした。(男性・18歳)」

 「誰かがなんとかしてくれるだろう、という考えでは(憲法改正までの)時間は権力者のいいように利用されるだけ」との言葉にギクリとさせられました。福島さんが言うとおり、今、多くの人が、主権者としての能力を失いつつある、というよりその事実自体に無自覚になっているにかもしれません。講演会パート2を是非やってください。(男性・24歳)」

  6年前の講演のアンケート内容だが、まるで昨日今日開催した講演に対する反応のようで、戦中派の体験を持つ菊次郎さんが時代の行く先を読み取っていることがわかる。

20002000年撮影
  
  2008年と2010年には、国立市の市民グループが立ち上げた実行委員会が主催し、府中市のサポーターの力も借りて府中市駅前の広い講演会場で、「遺言」講演会Part2、Part3と開催。2010年は、「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな」の出版に合わせ、本格的な写真展を三日間開催。福島さんが命を削ってまで制作に没頭した一辺90㎝の写真パネルを70数枚展示できた。写真点数にして400点ほどだ。幅広い世代に大きな反響を呼んだ。

 この時の福島さんの「遺言」講演のポイントを紹介しておきたい。

 「日本はポツダム宣言受諾の通告を受けても無条件降伏を即座に受け入れなかった。広島と長崎の原爆は天皇制を救うための代償となった」「日本人は戦争を語る場合には被害しか語らなかった。それでは日本の侵略の対象となったアジアの人々は納得しないだけでなく不信を募らせるだけ。強盗に押し入って殺人した者が、自分が受けた傷を強調しても誰も認めないのと同じこと。日本の平和運動は世界の平和運動に貢献しなかったのは、被害者自身もやられたことばかり言ってきたため。足を踏んだ人は忘れても、踏まれた人は絶対忘れられない」

 「日本は急激に体制翼賛化するでしょう。9条の破棄、国民主権を変える、天皇批判が不敬罪となった戦前の天皇の地位と権力を思わせるような法律も出てくると思う。憲法改正問題も含め、我々自身の良心と尊厳を問われる大事な問題に直面している。どうか矛盾することをやらないように考えてください」「国民の半数以上が憲法を護る投票の結果が出たならば、断固として自衛隊の存続に反対します。私の立場は写真でも明らかなように再軍備反対ですから当然です。お前はどうするかと問われたならば、前回の集会で話したように、自衛隊がなおも存続するならば、そのような大間違いの国でこれ以上生きることを拒否します」 

 まるで参議院選後の今を先取りして警告する内容だ。

原発事故と脱原発運動の取材

 冒頭で触れたが、大震災と大津波の発生、福島第一原発の未曾有の過酷事故直後から、私はJVJAの有志と福島県で取材を始め、3月13日午前10時には、広河隆一さんを含む合計6人で、原発から3.5㎞の双葉町役場と双葉厚生病院に着き、三台の放射線量計で測定した。測定値は1ミリシーベルトを越え、平常時の2万倍の異常さだった。詳細は拙著「鎮魂と抗い~」に書いたが、私の「3・11」取材はそうして一気に高まった。大震災と原発事故は、JVJAがオンラインマガジン「fotgazet」を創刊して一月後だった。合同取材による放射線量や写真はfotgazetニュースで発信し、本体のfotgazetでも定期的にまとめて刊行した。菊次郎さんの広島の被爆者をテーマにした写真も、10数ページに渡ってfotgazet本体に掲載させていただいた。「3・11」後はブログを開始し、取材した記事と写真を逐次発信してきた。

  原発事故の初期報道で不思議だったのは、事件事故天災の発生となれば、先を争って現場に駆けつけるテレビ局や新聞社通信社などの大手メディアに現場で出会わなかったことだ。ジャーナリズムとは、報道機関とは何のために存在するのかを考える上でしつこく指摘しておきたい。住民の安全のために、原発に近づこうとする車輌を止め検問体制を敷くことが職務の警察の姿もなかった。後になり、テレビ新聞各社の取材の自己規制は政府が指示したのではないことにさらに驚いた。住民が自宅に残り、または決死の思いで原発に近い自宅に貴重品を取りに向かっているにも関わらず、記者が現場に入ることを止めたことは驚きだ。
   
 政府や東電に頼らず、自分たちで放射線量を計測する機材と人材を確保し、現場のデータを視聴者や読者に提供できたはずでもある。SPEEDYよりも実測データが貴重な情報源となったはずだ。ジャーナリズムとは何か?菊次郎さんとの対比で指摘すればこういうことだ。70年代に菊次郎さんは、「自衛隊は憲法違反」という信念から、防衛庁(当時)をうまく欺き、政府が国民の目から隠す自衛隊と軍需産業に入り込んで撮影した。国民の知る権利の行使でもある。菊次郎さんは自衛隊広報課の圧力をはねのけ、雑誌媒体で次々と報道した。暴漢に襲われて重傷を負い、不審火で自宅を焼け出されてもひるむことはなかった。

 2011年9月、私は菊次郎さんを福島県内を二日間案内し、三日目は東京の脱原発大集会とデモの現場に立てるように日程を組んだ。菊次郎さんの体調を考慮し、誰から頼まれたわけでもなく、三日間だけの日程で案内したところを映画製作班は撮影したものが「ニッポンの嘘」に生かされた。

 福島県の現場に入る前から菊次郎さんが注目したのは、広島の被爆者が国や行政に見捨てられたままに再建された「平和都市広島の虚構」の構図を見抜こうとした。結論を下すには時期尚早なのかもしれないが。

 報道写真家・福島菊次郎のぶれない生き様と、大手メディアで報道されることの少なかった写真群から、私はジャーナリストの果たすべき役割を学んできた。
 2013年9月、上京した菊次郎さんに新著「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(2013年、彩流社)の感想を聞いてみた。「今度の本が一番いいね」と言われ、嬉しくなったことを思い出す。菊次郎さんとの出会いが縁で、フォトジャーナリスト魂を学んできた一人として、ようやく使命のいくらかを果たせた気がした思いだった。

9(2009年撮影。写真展を終え、東京から山口県柳井市のアパートに向かう電車内には、菊次郎さんの唯一の弟子である那須さんが同行)

 菊次郎さんが、『戦争がはじまる―福島菊次郎全仕事集』 (社会評論社)を出版したのは1987年。およそ30年前にさかのぼる。かつて跋扈した東南アジアの独裁政権と化しつつある安倍自民公明政権が、「戦争法案」を参議院で強行採決したのは先週のことだ。菊次郎さんは、広島の原爆を6日間の違いで免れた戦争体験と、戦後の報道写真家としての生き様から、日本が平和憲法をないがしろにすることのないように、自衛隊の海外派兵がないようにと警告を発し続けてくれた。

 体重30キロ余の94歳の老いた肉体に、ようやく休息のときがやってきたことを思うと、「菊次郎さん、お疲れさまでした。向こうの世界に渡ったら、どうか私たちの社会が、安倍晋三とその取り巻きがのぞむ戦前に回帰することを世代をこえた協力で、踏みとどまる力を発揮できるように見守っていてください。後は私たちにまかせて、どうかゆっくりお休みください」と話しかけたい気持ちになる。

合掌                                   2015年9月25日  山本宗補

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コメント

菊次郎さんの「表に出ないものを叩きだしてやる」あの言葉大好きでした。映画では、敵を取れなかったと墓前にひざまずいて泣き崩れていた菊次郎さん、単車に乗ってメガネ屋さんで補聴器交換してる菊次郎さんが、大好きでした。心からご冥福お祈り申し上げます。

投稿: furahafuru | 2015年9月27日 (日) 08:56

福島さんといえば、殺処分前にとった犬の写真が忘れらません。気骨、反骨の骨のあるジャーナリストが絶滅しようとしている今、清貧で純粋なジャーナリストの死に哀悼の意を表します。お疲れ様でした。さようなら

投稿: む | 2015年9月27日 (日) 16:08

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