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2015年9月の投稿

2015年9月29日 (火)

SASPL(サスプル)からSEALDs(シールズ)へ。反安倍政権の協力な磁石!

(クリックすると拡大する写真もあります)

Mono_8ds6722jpgchousei2014年12月10日、官邸前
_8ds68732jpgchousei12月10日の官邸前。SASPL時代の牽引役でもあった奥田愛基さん。

 昨年12月、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)が最後の官邸前抗議活動を主催してから半年。SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)という新たに結成したグループとして学生たちが国会前で安保法案に反対する抗議活動をスタートしたのは今年5月14日。

 若い世代の参加者の減少などで集会やデモが停滞気味に思えたところ、反安倍政権に対する市民運動は全国規模で活性化され、飛躍的に拡散したのではないだろうか。
  
 「戦争法案」と断じられた違憲立法を止めることはできなかったが、憲法で保障された表現の自由、主権在民を実践する市民が政府の暴走を食い止めようと反対の声を上げ続けた光景は、一縷の希望を日本社会に灯したことは間違いない。

 安倍政権が参議院で戦争法案を強行採決する直前に開かれた中央公聴会(9月15日)での、奥田愛基さん(シールズの屋台骨)の胸のすくような意見陳述を引用しながら、いくつかの場面を焼き付けておきたい。

「『SEALDs』とは、”Students Emergency Action for Liberal Democracy-s”。日本語で言うと、自由と民主主義のための学生緊急行動です。私たちは特定の支持政党を持っていません。無党派の集まりで、保守、革新、改憲、護憲の垣根を超えて繋がっています。最初はたった数十人で立憲主義の危機や民主主義の問題を真剣に考え、5月に活動を開始しました」(奥田公述人)


・衆議院で与野党が招致した3人の憲法学者全員が「法案は違憲」と陳述。(6月4日)

 0612_2国会前のSEALDsの抗議行動、6月12日

「現在、まだ国民のみなさまのご理解が進んでいないのも事実です」(7月15日の安倍首相答弁)

・7月15日、衆議院委員会での強行採決。

07152_2

07151_37月15日


07157月15日

「まず第一にお伝えしたいのは、私たち国民が感じている、安保法制に関する大きな危機感です」
・「指摘されたこともまともに答えることができないその態度に、強い不信感を抱いているのです」
(奥田公述人)

07162_27月16日。激しくコールするのはラッパー学生の牛田さん。専攻は哲学。

071647月16日

「安保法制に関して現在の国会はまともな議論の運営をしているとは言いがたく、あまりにも説明不足だということです。端的に言って、このままでは私たちはこの法案に関して、到底納得することができません」(奥田公述人)

071727月17日
071717月17日


07187月18日、渋谷駅前

・7月27日、参議院で戦争法案の審議開始

0728日比谷野外音楽堂

07311_27月31日

「『政治のことは選挙で選ばれた政治家に任せておけばいい』。この国にはどこか、そういう空気感があったように思います。
 それに対し私、私たちこそがこの国の当事者、つまり主権者であること、私たちが政治について考え、声を上げることは当たり前なんだということ、そう考えています」
(奥田公述人)

08078月7日


「そうした行動の積み重ねが基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、この国の憲法の理念を体現するものだと私は信じています。(奥田公述人)

082828月28日

082818月28日

08302_28月30日。国会周辺、霞ヶ関官庁街、日比谷野外音楽堂などに、主催者発表で12万人が結集。

08304_2

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08306

・「私は、私たち一人ひとりが思考し、何が正しいのかを判断し、声を上げることは、間違っていないと確信しています。また、それこそが民主主義だと考えています」(奥田公述人)

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「今、これだけ不安や反対の声が広がり、説明不足が叫ばれる中での採決は、そうした思いを軽んじるものではないでしょうか。70年の不戦の誓いを裏切るものではないでしょうか。今の反対のうねりは、世代を超えたものです。
 70年間、この国の平和主義の歩みを、先の大戦で犠牲になった方々の思いを引き継ぎ、守りたい。その思いが私たちを繋げています。私は今日、そのうちのたった一人として、ここで話をしています。つまり、国会前の巨大な群像の中の一人として、国会にきています」
(奥田公述人)

09111_29月11日、青井未帆学習院大教授。

09113佐藤学学習院大学教授

09112小森陽一東大教授

09114

「私は毎週、国会前に立ち、この安保法制に対して抗議活動を行ってきました。そして沢山の人々に出会ってきました。その中には自分のおじいちゃんやおばあちゃん世代の人や、親世代の人、そして最近では自分の妹や弟のような人たちもいます」(奥田公述人)

09129月12日

_aaa6278jpgweb9月14日の参議院委員会質疑での首相答弁。

「確かにまだ支持が広がっていないのは事実ですが、時をへていく中において間違いなく理解は広がっていく」

091419月14日

091439月14日

_aaa6761jpgweb9月15日、中央公聴会(国会)での奥田愛基公述人の発言冒頭。

「こんなことをいうのは非常に申し訳ないが、先ほどから寝ていられる方がたくさんおられるので、もしよろしければお話を聞いていただければと思います」

0915_29月15日

「一体なぜ、11個の法案を2つにまとめて審議したか、その理由もよく分かりません。一つひとつ審議しては駄目だったのでしょうか。まったく納得が行きません。

 結局、説明をした結果、しかも国会の審議としては異例の9月末まで延ばした結果、国民の理解を得られなかったのですから、もう、この議論の結論は出ています」(奥田愛基公述人)

_aaa6774jpgweb中央公聴会。

091619月16日、横浜公聴会の会場前での抗議。09162

09163_3国会前。この晩、盛り上がる抗議活動の萎縮効果を狙いすましたかのように、13人が逮捕された。

09165

09164

「今国会での可決は無理です。廃案にするしかありません」(奥田公述人)

09172_29月17日

09171_29月17日

「デモや至るところで行われた集会こそが『不断の努力』です。そうした行動の積み重ねが基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、この国の憲法の理念を体現するものだと私は信じています。
私は、私たち一人ひとりが思考し、何が正しいのかを判断し、声を上げることは、間違っていないと確信しています。また、それこそが民主主義だと考えています」
(奥田公述人)

・9月18日:参議院委員会での強行採決が予想された日。徹夜での強行採決反対集会。

091819月18日

09191

「勇気を振り絞り、ある種、賭けかもしれない、あなたにしかできないその尊い行動を取ってください。日本国憲法はそれを保障し、何より日本国に生きる民、一人ひとり、そして私はそのことを支持します」(奥田公述人)

・「野党はガンバレ!」コールが続いた。

09182_2

09192強行採決後も激しいコールが続いた。

Monosep1819一人牛歩で強行採決に抗議した山本太郎議員。「私たちのいちばん大切なものを取り戻す闘いはこれからだ」と、悔しさを押し殺し、熱く呼びかけた。

09193私の撮影を阻もうとする公安。まるでかつて東南アジアに跋扈した独裁政権下のメディア弾圧のような振舞だ。

09194

・シールズのメインステージ周辺では、最終的には1000人前後の市民が朝方まで残って強行採決に抗議した。

09195午前6時までに解散となった。敗北感は感じられなかった。

_aaa8462jpgweb
_aaa8459jpgweb_2TBS(JNN系列)世論調査では、53%が法案成立を評価せず、76%が法案の国会審議は「不十分」と回答(9月21日)。

・9月23日、戦争法案強行採決後、最初の大集会となる「さようなら原発・さようなら戦争」が開催、デモ行進は二方向に分散して実施された。

0923代々木公園野外音楽堂から渋谷駅前ルートを、安倍政権打倒を叫んで歩く人人。原発再稼働にも、戦争法案強行採決にもへこたれず、闘うことをあきらめない。


この戦争立法が実際に施行されるのを食い止めるには、来年の参議院選挙で、安倍自民公明プラス与党補完勢力を破るしかない。「戦争法案」反対で大同団結できた野党が、徹底した選挙協力をし候補者一本化を計れば、道は残されている。

野党議員に問われているのは、憲法を死守するのか、政党政治にしがみつくのか。民意にそむき、敗れはて、安倍独裁国家へとまいしんする自民公明与党に迎合して生きる議員に成り下がるのか。それだけだ。

 同時に、この違憲立法廃案を叫んだ市民が、民意にまったく聞く耳をもたない安倍政権の政治に対しての怒りと悔しさを持続し、シールズの活動がデモ参加者の門戸を開き、協力な磁石となって政策の異なる野党引き込む力となったことを大いなる教訓とし、無関心層が政治は自分たちが動けば変えられると感じられるようになる活動を地道に展開するほかはないと思う。

「困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します」(奥田公述人)

_aaa9945jpgsumi「高橋源一郎XSEALDs 民主主義ってなんだ?」(河出書房新社)
シールズメンバーの一人一人の思考や性格、得意分野などがじっくりと伝わってくる誰にも読みやすい本。奥田さんがグループの大黒柱的存在となっている理由もわかる。9月20日に刊行されたばかりだ。今の20歳前後の若者の考え方や物の言い方なども学べる優れ本だ。中高年に最適。ぜひ!!!

◯蛇足(戦争法案反対デモや集会についての参考ブログ記事は以下に。カラー写真です)
7月26日:ゴーマンな安倍晋三(首相)による、民意無視、独裁と「違憲政党政治」の終わりの始まり

9月1日:「戦争法案廃案!」「安倍政権退陣!」のコールが渦巻いた、小雨の中の10万人超国会前抗議フォトルポ

「民主主義って何だ?」 「これだ!」(9月14日から19日まで6日間の戦争法案強行採決反対抗議行(facebook)


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2015年9月27日 (日)

大盛況だった福島菊次郎さんの講演会写真展(2008年9月と2010年8月、雑記帳から転載)

(菊次郎さんの死を追悼し、ブログ開始前の雑記帳での記事を転載します。内容は、2008年と2010年に府中市で菊次郎さんの講演会と写真展を開催した時の報告です)

2008年9月18日  大盛況だった福島菊次郎さんの講演会と写真展

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 敬老の日に87歳になる福島菊次郎さんを「酷使」する講演会と写真展は大成功だった。
私の予想をはるかにこえる大入りで、府中の講演会は400人あまりの参加者があり、広くて天井の高い写真展会場は講演会直後は身動きできない空間となり、まるで近代美術館のゴッホ展のような大混雑ぶりだった。ピークの時間帯は福島さんの写真と写真説明をしっかりと観ていただくことができなかった入場者が多数いたことを想像すると、混雑もプラスばかりとはいえない。主催者の積極的なPR攻勢が実を結び、朝日と毎日に大きく講演会が福島さんの代表作とともに紹介され、ネット上での講演会告知も徹底していた。

 展示したのは「写真で見る戦争責任」パネル20数枚、「ある被爆者の記録」10枚、兵器産業など10枚だ。午前10時の開場から夜7時までの一日写真展だったが、入場者は600名を楽にこえてしまった。

Hukushimahuchuexhbitcatalogue2008この講演会写真展のために製作されたミニ写真集。

 今回のために印刷したA4版16ページのモノクロミニ写真集は、200~300部販売できれば上出来と予想していたが、印刷の良さと500円という格安さに、講演参加者数を上回る部数が販売された。何よりも写真の力強さであり、時代を反映する優れたドキュメンタリー写真だからで、全てが絶版となっている福島さんの写真集の中身の濃密さを彷彿とさせるからなのだろう。主催者の判断で印刷を重視したものにした甲斐があった。

 同様の印刷で72ページ、定価2000円の本格的写真集を制作し販売することも十分採算が取れると思えるほど良い仕上がりだ。

 敬老の日の翌日は、疲労困憊しているはずの福島さんを連れだし、お茶の水にあるJVJAの事務所で私も含めて12名の現役フォトジャーナリスト、ビデオジャーナリスト、映画監督、新聞記者、テレビ番組制作会社経営者などと福島さんとの交流会をもった。

_dsc5015jpg「がらんどう」さん一家のみなさんと。

 交流会の前に、神田の古本やアンティーク雑貨店「がらんどう」さんに立ち寄る。オーナーが福島さんの大ファンで、昨年は瀬戸内離島物語の写真パネルを展示したお店だ。福島さんの希望で急遽、友人知人に声をかけた内輪の会だった。私のリード役の不手際で、福島節は出たものの、出席者の遠慮からか活発な質疑応答までにいたらずにお開きの時間となった。体重が35キロに落ちた福島さんの疲労度からしてもそれ以上続けるのは健康的にまずいと判断した。福島さんがあと2~3年若かったら、二次会で議論が盛り上がったはずなのだが。

_dsc5038jpgJVJA事務所での交流会。

 「天皇を(そのまま)残したのが諸悪の根源だった」という一言が、福島さんの交流会での総括だった。福島さんが昭和天皇に対する怒り、天皇の戦争責任を追求する私的怨念を抱くきっかけの最たるものが、60年代の天皇の記者会見での回答を聞いた時だったと話された(注:正確には1975年の天皇記者会見)。中国新聞記者の「広島の原爆に対してどう思うか」という質問に対し、「戦争だから仕方がなかった」と答え、英国の通信社記者の「戦争責任についての考えは」との質問に対し、「そのような言葉の文に対する文学方面の研究はしていないのでわからない」と返答した会見をテレビに釘づけになって見ていたそうだ。翌日の新聞は会見の内容を伝えはしたが、全く論評しない扱いに、天皇に対する恨みがこみ上げてきたと話された。

 電車を乗り継ぎ、府中のホテルまで送り、駅前のラーメン点で二人で遅い夕食を食べた。さすがに福島さんも空腹だったとみえ、おいしそうにラーメンを食べていた。

 翌日、福島さんは親友で、上関原発反対運動の写真集「中電さん、さようなら -山口県祝島原発とたたかう島人の記録」(創史社)を出した那須圭子さんとともに柳井に帰っていった。この本には福島さんが撮影した戦後まもない祝島漁民の生活と、原発反対運動の写真も収録されている合作本でもある。

 福島菊次郎さん、たいへんお疲れさまでした。「写らなかった戦後」シリーズ第三弾の執筆が早く校了し、書店に並ぶことを願っています。

元の雑記帳はこちら

2010年8月24日  『遺言 Part3』 福島菊次郎最終講演会in府中

Kikujiro5august2010

 府中での福島菊次郎最終講演会&写真展は盛況のうちに幕を閉じた。私にとっての今夏のメインイベントは終わった。主催者は私を含め、2年前の講演会と同じ顔ぶれの実行委員会。5ヶ月前に執筆中の「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな」の出版が講演会に間に合うことを確認し、会場を仮押さえしたことで準備正式開始となった。
Kikujiro3august2010著書にサインを求める人人。

 同じホールでの講演会は前回を下回るがまずまずの入り。客層は予想した中高年よりも若い世代、とりわけ女性層が多かった印象

Kikujiro9kamanakaaugust2010鎌仲ひとみ映画監督と。
 
(中略)

 写真展は今回3日間開催した。前回は講演日だけでギュウギュウ詰めとなり、じっくりと写真を観てもらうことができなかった反省を踏まえた。会場の広さと至便さで、胃ガン手術後の福島さんが命を削ってまで制作に没頭した写真パネルを70数枚展示できた。写真点数にして350点をこえる。前回の倍近いパネル数となった。最長1時間程度で見終えるには丁度いい分量だったかもしれない。

Kikujiro4august2010

 続きは雑記帳でごらんください

Kikujiro11august2010「写らなかった戦後」シリーズを刊行する現代人文社の成澤社長と。

以下はブログ以前の雑記帳の菊次郎さんに関しての記事

2003年8月6日  報道写真家、福島菊次郎著「ヒロシマの嘘」のススメ
2005年7月6日  福島菊次郎さんの緊急講演会が決まる
・2005年7月20日 「戦後60年 戦争が始まる」福島菊次郎講演会が大盛況だった
2007年6月25日  福島菊次郎講演会の終了、山本宗補写真展の開始
・2008年9月18日  大盛況だった福島菊次郎さんの講演会と写真展
2010年3月25日  松江、柳井、光、祝島、大久野島
・2010年8月24日  『遺言 Part3』 福島菊次郎最終講演会in府中
                    

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2015年9月26日 (土)

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 下(信濃毎日新聞2007年掲載) 抵抗の一粒の種を蒔く

福島菊次郎さんを追悼し、信濃毎日新聞2007年3月5日に掲載した記事を再録します。
交友が続いていた菊次郎さんの人生について、戦争体験者の取材を覚悟を決めて初めて書いた記事でした。

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 下

抵抗の一粒の種を蒔く               山本宗補

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 一九八二年、福島菊次郎さんは二〇年間の報道カメラマン生活と決別し、東京を離れた。
「メディアが自己規制を始めた。僕の写真は敬遠され、最後の二年は月刊誌にほとんど使われなくなった。ここにいたら、僕も一緒に腐ると思った」

 六十二歳。三人の子どもは自立し、親の務めは果たした。手元には一〇冊の写真集が残った。写真学校などの講師の薦めもあったが断った。左手の指がニコチンに染まるほどのヘビースモーカーだった福島さんは、このときを境にタバコを止め、郷里に近い瀬戸内海の無人島へ渡った。「漁師の子、海に帰ろうという帰巣本能。瀬戸内海で一番きれいな、関鯖がとれる海を探した」という。

 しかし、無人島での暮らしは、体を壊して一年余りで行きづまる。周防大島のミカン畑に囲まれた借家に移り住んだ福島さんは、果樹を植え、野菜を育て、魚を釣る自給自足を目指した。私が福島さんに初めて会った八六年頃、若い同居人の女性と暮らす福島さんは、人を寄せ付けない、気難しそうな雰囲気が漂っていた。ミカン、ブドウ、キウイ、レモンなどの果樹を栽培し、野菜もイチゴも人糞を肥料に育てていた。パンや豆腐、ハムも手作りし、ワインも自分で作った。

 「報道写真家・福島菊次郎」の闘いが再び始まるのは、六十九歳になった八八年だった。その年の秋、福島さんはガンで胃の三分の二を摘出した。手術の五日後、六人部屋のテレビに昭和天皇の顔が映し出された。下血報道が続いた。

「絶対に奴より先に死なんぞと思った」と福島さんは振り返る。著書にはこう書かれている。
「あの悲惨な戦争のなかで、〝殺す者〟と〝殺される者〟として遭遇した相手だけに、『このままトンズラされてたまるか』と思うと、じっとしておれない焦燥と危機感に追い込まれた。僕なりの決着をつけなければならなかった」
(『写らなかった戦後2 菊次郎の海』)

「マスコミは天皇の戦争責任の隠滅に加担している」と福島さんの目には映った。退院を早め、ふらつく身体で二百五十枚の写真を引き伸ばして、「戦争責任展」の写真パネルを自費制作した。パネルを無償で貸し出した巡回展は、各地で右翼の妨害に遭い、発砲事件も起きた。しかし、それがマスコミで報道され、全国から申し込みが殺到した。家には、名を告げない脅迫電話がかかってきた。
「夜道を歩くな」「そんなにこの国が嫌いなら日本から出ていけ」。

 万一に備えて福島さんは、自分の身体に合わせた棺桶をベニヤ板で作り、苦しまずに死ねるように、首から下げるペンダントには青酸カリを忍ばせた。「戦争責任展」は九十年から三年間で百六十カ所を巡回した。
 
 十年間一緒に暮らした女性との関係が破局を迎えたその頃、福島さんは新たに、かつて取材した全テーマの写真をパネル化する「写真で見る日本の戦後」に取りくんでいた。それを「遺作展」にするつもりだった。

 原爆、自衛隊、天皇制、学生運動、公害、原発・・・。三千三百点に及ぶ膨大な写真パネルの制作は完成するまで十一年かかった。年間五十~六十万円の制作費は、東京都写真美術館が収蔵品として買い上げた写真代のほか、東京時代に自己流で始めた彫金で得る収入を充てた。
「彫金やっていなければ、あのパネルはできていない。島で生活をしていたから可能だった」と福島さんは言う。

 戦後日本の暗部を照射する写真パネルは、全国を巡回し、九九年には下関に常設展示館が開館した。翌年柳井に移した展示館は、福島さんの病気入院などで、その後閉館した。だが、写真パネルの貸し出しは続いている。

「僕はこの国の主権者。憲法を守り表現の自由を行使してきた。言いたい放題やりたい放題やってきた。これがボクの一番の財産。自己規制もしていない」。

 そう語る福島さんはいま、写真で伝えられなかったことを文章で補完する『写らなかった戦後』シリーズの三作目を執筆している。仮タイトルは「殺されるな 殺すな」。六十~七十年代の学生運動や市民運動が主題だ。執筆活動も福島さんにとっては、「一人の市民運動」だと福島さんはいう。

「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」

 福島菊次郎さんはもうすぐ八十六歳になる。その生き様を見つめながら私は、命を粗末にする政治や行政を目の前にして、「当事者」の一人であるお前はどうするのか、と自分が問われていることに気づかされていた。(了)

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『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 中(信濃毎日新聞2007年掲載) 自ら権力に挑んだ闘い

福島菊次郎さんを追悼し、信濃毎日新聞2007年3月5日に掲載した記事を再録します。
交友が続いていた菊次郎さんの人生について、戦争体験者の取材を覚悟を決めて初めて書いた記事でした。

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 中

自ら権力に挑んだ闘い               山本宗補

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 戦後、郷里の山口県下松市で時計店を営んでいた福島菊次郎さんは、原爆投下の一年後に、広島の原爆ドームに草が生えたという新聞記事を読み、時計部品の仕入れを兼ねて、写真を撮りに行った。それが広島での初めての撮影だった。被爆者の撮影に本格的に取り組みはじめたのは、原爆犠牲者慰霊碑の除幕式があった一九五二年の夏。原爆症に苦しみ、極度の困窮のなかにあった中村杉松さん一家を紹介されてからだ。「そっとしておいてください」と語る被爆者が多いなかで、中村さんは違っていた。

「わしの写真を撮って世界中の人に見てもらってください。ピカに遭うた者がどれだけ苦しんでいるか伝えてください」

 そう頼まれた福島さんは、広島に毎週通い、一家の生活を克明に撮影した。六〇年夏、東京で写真展を開催。翌年、最初の写真集「ピカドン」を出版した。そのリアリズムは高く評価され、あるカメラ雑誌は「この恐ろしい事実の背後に、心ある人は深く戦争否定の精神を読み取るだろう」と評した。福島さんは「アマチュア時代の原爆取材が、その後のすべての仕事のバックボーンになっている」と話す。

 プロの写真家への道を開いた「ピカドン」はしかし、大きな代償をも伴った。苦しさでのたうち回る中村さんにカメラを向ける自身の冷徹さに悩みながら撮影を続けるなかで、生業の時計屋は傾き、夫婦関係は壊れた。福島さんは一時、精神病院に入院し、自殺を妄想するまで追いつめられたという。妻と別れて上京する決断をしたのも、その苦境を打開するためだった。明治生まれの母親は、「ワシは街を歩けん」と嘆いたそうだ。

 三人の育ち盛りの子どもを抱え、上京後は生活のために石油会社の広報誌の写真を撮った。しかし、その撮影中、ふと自問した。「オレは何のために上京したのか」。広報誌の撮影は止め、サンドイッチマンのアルバイトなどしながら、被爆者の取材を続けた。

 ベトナム反戦運動、三里塚闘争、学生運動が高揚した戦後日本の激動期。機動隊に立ち向かう若者たちに、福島さんは共感以上のあこがれを感じ、夢中でカメラを向けるようになる。「若い頃、国のいうことを鵜呑みにしていた自分がどれだけ阿呆だったかを思い知らされた」からだという。
「学生運動は国家権力に対する反乱であり、市民運動は海をこえた反戦運動」だった。

 組織には属さず写真を発表した。そして「自衛隊は憲法違反だ」という信念から、自衛隊と兵器産業の撮影に取り組む。それは、カメラを武器に自ら国家権力に挑んだ闘いだった。福島さんはまず、防衛庁広報課に広報用の写真撮るカメラマンとして自分を売り込んだ。写真掲載誌を見せ、「これを撮ったカメラマンです。学生運動を取材して、こんなことでは日本は終わりになると思った。自衛隊の若者は税金泥棒といわれながら国を守る仕事についている。使える写真は無償で提供します」

 江田島の海上自衛隊幹部候補生の撮影を頼まれたのは二週間ほどたってからだったという。徐々に信用を得た福島さんは、自衛隊の軍事演習を撮り、兵器産業をつぶさに撮影した。そして、「自衛隊告発」キャンペーンを雑誌で始めたのだ。撮影したネガを、家が建つような高額でネガを買い取る話もあったが断った。暴漢に襲われた福島さんは、尾骨と前歯を折られ、顔を十針以上縫う大けがを負う。東京・目黒の借家は不審火で延焼し、焼け出された。 
「もうお終いだと思った。ところが全国紙が写真付きで報道し、カンパが集まった。町内会からも二十万円。僕は元気が出た」

 ネガだけは高校生の娘が運び出していた。煤けたそのネガを日大芸術学部の学生らが手分けして洗ってくれた。福島さんはカンパで、ニコンのカメラ三台を買いそろえた。当時、作家の井上ひさしさんが、当時の福島さんの人物ルポを雑誌に書いている。
「福島氏が豪(えら)いのは、外出すると尾行がつくことである。つまり家庭では優しい父親である氏が、いったん玄関の戸をあけて足を一歩外に踏み出すと、体制側の要注意人物になってしまうわけだ」(「芸術生活」)

 上京した母が、「お前、食えるのか」と心配するので、福島さんが掲載誌を見せると、母は驚いて「お前、お上にはむこうてええのか」と言った。「福島の家系から縄付きが出る」ことを心配したのだ。その母親の危篤の報を、三里塚闘争の取材中に受けた。死に目にはあえなかった。

 八二年、福島さんは東京を捨て、郷里に近い瀬戸内海の無人島に移り住む。六十二歳のときだった。

(下に続く)

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『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 上(信濃毎日新聞2007年掲載) 人生方向づけた「戦争」

福島菊次郎さんを追悼し、信濃毎日新聞2007年3月5日に掲載した記事を再録します。
交友が続いていた菊次郎さんの人生について、戦争体験者の取材を覚悟を決めて初めて書いた記事でした。

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 上

人生方向づけた「戦争」
                  山本宗補
Photo

 江戸時代の白壁の商家が残る山口県柳井市。中心街から離れ、寂れた歓楽街の一角にあるアパートの一室で、八五歳の独居老人がワープロに向かっている。胃ガンの摘出や胆のうの手術などで満身創痍の老人は、体重三七㌔。視力は落ち、耳も遠い。だが、小泉首相、安倍首相と続く政治の流れが、老人の反骨心の残り火を燃え立たせる。六畳間の片隅では、愛犬のロクが寝そべり、部屋の隅には、周防大島で暮らした時期に自作した棺桶が置かれている。

 報道写真家、福島菊次郎。一九六〇年代初頭から二〇年間、フォトジャーナリズムの第一線で活躍し、学生運動、あさま山荘事件、三里塚闘争、被爆者、公害問題、若者の風俗など多岐に渡るテーマをルポ。「文芸春秋」「現代の眼」などの月刊総合誌を中心に、一時は年間一五〇ページ以上発表した。これまでに刊行した写真集は一二冊に上る。

 その反骨精神を物語るエピソードの最たるものは、六〇年代後半、防衛庁広報課を欺いて、自衛隊と兵器産業の実態を撮影し、雑誌に発表したことだろう。「国家権力を相手に、取材にモラル云々をいっていたら、権力に都合のいい写真しか撮れない」と福島さんはいう。暴漢に襲われて重傷を負い、不審火で家が焼けたが、屈しなかった。

 写真集『原爆と人間の記録』を出版した七八年、テレビ番組「徹子の部屋」に出演した際には、「『天皇制批判はしないで』と釘を刺されたので、『終戦』という言葉を使ったらその場で席を立つことを約束させた」という。 

 その福島さんはここ何年か、写真で表現できなかったことを文章で補完しようと、自分史を追うように取材現場の記憶をたぐり、一人称で書き残している。『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』(現代人文社、二〇〇三年)には、多くの被爆者が見捨てられ、死んでいった〝平和都市広島〟の暗部を、『写らなかった戦後2 菊次郎の海』(同、二〇〇五年)では、六二歳で東京を捨て、郷里に近い瀬戸内海の島に移り住んでからの生活を中心に綴った。

 「『菊次郎の海」』のあとがきには、こう書かれている。
「靖国神社こそは若者を死地にかりたて、ボロ布のように使い捨てた軍国主義の大量殺人装置以外の何ものでもなかったのだ。ボクも何度か靖国の生け贄になりそうになった」。

 その戦争体験が、福島さんの戦後の生き方を方向づけた。

 福島さんは一九二一(大正十)年、周防灘に面する山口県下松市の漁村の網元の家に生まれた。小学校の遠足で隣接する光市の伊藤博文の家を見学した後、一九二三年の虎ノ門事件(摂政時代の昭和天皇の暗殺未遂事件)で処刑された難波大助の家を回り、「国家に背くと死刑になる」という教師の説明に震え上がったそうだ。

 四四(唱和十九)年四月に召集され、広島西部第一〇部隊輜重(しちょう)部隊に入隊した福島さんは、馬に蹴られ骨折し、そのおかげで死を免れる。入院中に沖縄へ向かった所属部隊の輸送船は、米軍の攻撃を受けて沈んだ。沖縄戦終結後の二度目の召集では、原爆が投下される六日前、広島から貨物列車で宮崎の海岸に送られた。グラマンの空襲に脅えながら、米軍上陸に備え、爆雷を抱えて戦車に飛び込む自爆訓練に明け暮れていたとき、広島に原爆が落とされ、原隊は全滅した。わずか「六日」が生死の運命を分けた。

「同級生の半分近くが戦死した。命は天皇陛下からいただいたものだから、天皇陛下にお返ししなければいけないという固定観念があった。戦争で死ぬことと、敵を殺すしか考えなかった狂気の青年時代だった」と福島さんは振り返る。

 小学生のとき、中国人五〇人は殺さないと、と思っていたという。「仲の良かった同級生は上海戦、南京戦を戦い残虐行為をやった。もし戦争に行っていたら、僕も相当悪いことをしただろう。戦争に行けば死ぬのはわかっていたから。戦後は、ほおかむりして反戦平和を唱えたと思う」

 復員後、福島さんは郷里で時計店を営みながら広島に通い、行政に見捨てられた被爆者の苦しみを撮り続けた。最初の写真集『ピカドン』を出版したのは六一年のことだった。

(中、下に続く)


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2015年9月25日 (金)

追悼:反骨の報道写真家・福島菊次郎さんが亡くなった。私たちにいま問われているものは何か?

(写真はクリックすると拡大します)

 (注:編集中なので後で追記したり、書き直す予定です)

「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」

 これは福島菊次郎さんが主権者として、ジャーナリストとして残した有名な一言である。

000180(2001年撮影)

 福島菊次郎さんが9月24日に息を引き取ったと、ご家族から聞いた。体重は30キロちょっとしかなかったようなので老衰のようだ。心からご冥福をお祈りするばかりだ。

 ご家族だけで火葬し、葬式はやらないという。

 菊次郎さんが常々怖れていた安倍自民公明政権が、違憲立法である「戦争法案」の強行採決という独裁的手法に及んでまもない時期の訃報は、今日一日降り続く雨のように、気持ちを暗澹とさせ、心を重くする。

 ちょうど2年前、ある一件によって26年間続いた交友関係がこわれ、菊次郎さんとは疎遠になっていた。だが、そんな個人的な一件とは無関係に、菊次郎さんの戦後の生き様を畏敬する気持ちには何ら変わりがない。

 立命館大学国際平和ミュージアムで二ヶ月間の写真展「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」を開催したが、その時のポスターとチラシには福島県南相馬市の大津波被災地を私がご案内したときに撮影した写真を使用した。ポスターは菊次郎さんに送ったところ、アパートに貼ってあるということを人づてに聞いていた。

Photo_1

 ちょうど、二年前に刊行された、朝日新聞社発行の「Journalism 2013.9」誌には、「反骨の報道写真家・福島菊次郎から、フォトジャーナリスト魂を学ぶ」と題した8ページの長文を寄稿した。自分自身がフォトジャーナリズムの世界に入り、ここまでやってくる経緯に、菊次郎さんとの交友関係をからめての記事だ。

 このブログ記事では、福島菊次郎さんのご冥福を念じ、「Journalism」誌掲載前の荒原稿に少し手をいれた文章を追悼の代わりに掲載したい。写真は誌面で使用したものと使用していないものも少し加えたい。(Journalism誌をお持ちの方はもう一度読んでいただけると嬉しい)

 1986年の菊次郎さんとの始めての出会いなどについても触れている。

005(2005年撮影)


反骨の報道写真家・福島菊次郎からフォトジャーナリスト魂を学ぶ

 敗戦から68年の夏。国内外の戦争体験者70人の証言をまとめたA4版のモノクロ写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(彩流社)を出版できた。掲載したうち、18人がすでに鬼籍に入られてしまった。もっと早く出版にこぎ着けたかったが、東日本大震災と原発事故が起きたので、後回しにせざるをえなかった。2011年3月12日から福島県に入り取材を開始し、一年半の継続取材をまとめた全カラーのフォトルポルタージュ「鎮魂と抗い~3・11後の人びと~」(彩流社)を昨年9月に出版。そして民主党の自滅で自民公明連立政権が再登場し、安倍晋三首相の復活となった。危機感を募らせた私は、この写真集を敗戦記念日前の出版にこぎつけようと急いだ。

 写真集のあとがきで触れたが、私が戦争体験者の聞き取りを本格的に開始したのは、2005年夏。日本最南端の八重山諸島が舞台となった「戦争マラリア」を取材したところからだ。それまで沖縄戦のことさえも取材していなかった自分が取り組むには、理由付けが必要だった。
 
その理由を遡ると、約30年前から東南アジアの国々の内戦や貧困などの社会問題を取材しはじめたことに行き着く。取材中に熱帯特有のマラリアやアメーバ赤痢などに何度も罹り、マラリアの症状に関しては熟知していたという自負もあった。日本にもマラリアがあることが本当なのか現地で確かめてみたいとも思った。「戦争マラリア」についての詳細は、拙写真集を手にとっていただくことにして、本題のフォトジャーナリストとしての仕事と、昨年公開された映画「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」で、その存在と生き様が全国的に知られることになった福島菊次郎さんとの関わりについて書いてみたい。ちなみに、「戦後はまだ・・・」に掲載した一人が、92歳で現役報道写真家の福島菊次郎さんだ。

人生の目標を失い米国で写真を学ぶ

 若い頃は社会の問題やジャーナリズムの世界とは無縁だった私が、フォトジャーナリズムの世界に踏み込むようになった経緯を簡単に記しておきたい。福島菊次郎さんとの縁の偶然性がより浮かび上がるからだ。長野県の田舎町で生まれ育った私は、都内の大学の夜間学部に滑り込んだものの、勉強が嫌いで長続きせずに自主退学。早々に自分の人生も見限り、家出をし、自己嫌悪が増幅し自殺願望にとりつかれた。ただ、自殺するほどの勇気がなく、人生の目標もないまま日本で生きるよりも、物理的に生活環境を変えてしまえば真剣に生きる気持ちになるかもしれないとアメリカに渡った。1978年、25歳だった。カリフォルニア州南端のメキシコ国境の町サンディエゴで生活した。観光ビザから学生ビザに現地で変更できるといわれていたが、ビザ変更ができないまま、サンディエゴ市のコミュニティーカレッジで写真の基本を二年間学んだ。写真を選んだのは、他に興味が湧く職業訓練的な科目がなかったからだ。

14(2011年撮影、福島県南相馬市)

  私が報道写真の世界に魅かれるようになったのは、図書館などで借りたロバート・キャパとかユージン・スミス、LIFE誌やマグナムなどの社会派的写真をたくさん見てからだ。英文写真集のためか、日本人写真家の作品に触れることは稀だった。知った名前はローマ字名で、EIKO HOSOE(細江英公)、HIROSI HAMAYA(濱谷浩)くらいだった。土門拳の名前も本も知らないまま過ごした3年半の滞米生活で身に付いたものは、写真撮影の基礎と日常生活をこなす英会話能力程度だった。自分にとって特筆すべきは、自殺志向を招いた自己嫌悪というネガティブな思考から、アメリカ人特有のポジティブな思考に自分を変えることができるようになったことだろう。

  帰国後、英語も写真も使わなければ無駄になると思い、東南アジアに行き始めたが、社会問題とか歴史を学ぶ姿勢のないまま写真を撮っただけだった。有り難かったのは、撮影の仕事で来日するマグナムなどの世界的に著名なカメラマンの荷物持ち兼通訳としてのアルバイトが時折できたことだ。そうした経験が社会派的な写真に関心を引き寄せる役割を果たしたと思う。

 転機となったのがマルコス政権晩年の85年。飢餓が伝えられたフィリピン中部のネグロス島に入り、地主階級の私兵が労働者に無差別に発砲し、20人以上が殺害された虐殺事件の被害者を取材した。死体も、銃弾による負傷者も、武装した私兵も、私にとっては全てが始めての取材となった。週刊誌などに売り込んだが掲載に至らなかった。取材が不十分で、マルコス政権とは何か、独裁政権末期の虐殺事件をどうとらえるべきか、日本とフィリピンの関係とは何か。私が編集者に説明し説得できるほど状況を把握できていなかった。英字紙にだけは掲載できたものの、取材しても発表できなければ取材したことにならないことを思い知らされた。その後の大統領選挙、無血クーデターなどとフィリピンの政変がテレビ中継で日本のお茶の間にも報道される展開となり、私自身もフィリピン取材にのめりこんで行った。

 今振り返ると、日本との関わりの深いフィリピンは駆け出しのフォトジャーナリストに取材の基礎を学ばせてくれた。貧困、飢餓、内戦、天災、日本人人質事件、日本のODA、日本企業の関わり、日本人中年と若きフィリピナの見合い結婚、日本軍の戦争の傷跡など。英語能力の向上にもつながり、その後のビルマ(ミャンマー)取材や、インドや中東などでの取材にも生かされることになった。日本の大学を卒業し、メディアで記者修行したわけでも、労働組合や市民運動をやってきたわけでもない私の思考や思想形成は、内外の取材現場で培われたものだ
 
報道写真家・福島菊次郎との出会い

20119(2009年撮影。さようなら原発大集会)

 私が福島菊次郎さんに初めてお会いしたのは86年秋。菊次郎さんが瀬戸内海の周防大島で野菜を有機的に作り、果樹も栽培し、自給自足の生活をされている時だった。菊次郎さんは漁師の子どもだったから魚は海に行けば手に入った。当時65歳。その後に破局を迎える若い女性と同居していた。

 チェルノブイリ原発事故が春先に起きた年でもあった。その原発事故の深刻さを十分に認識していなかった私だが、ポーランドの撮影で、放射能の影響を深刻に受け止める話を聞き、多少は身近に感じ始めていた。帰国後、雑誌の仕事で周防大島と橋で結ばれた沖家室島の、高齢でも元気に生きるお年寄りを撮影する仕事で沖家室島に滞在した。人口200数十人の孤島の唯一の寺の住職が、「同業者なら福島菊次郎さんのことは知っているでしょう」と、周防大島に住む菊次郎さんの家に案内してくれた。団塊の世代の住職は大学時代にゲバ棒を手に学生運動に身を投じたことがある世代だった。

 私はフォトジャーナリストと名乗ってはいたが、30歳を過ぎてもまだ駆け出し同然で、自分自身の取材テーマを持たなかった。実際、菊次郎さんにお会いするのは荷が重すぎた。小柄だが、厳しい顔つきの菊次郎さんとほんの少しだけことばを交わしたくらいで、写真を数枚だけ撮らせてもらったが、他には何も覚えていない。その後も縁が続くとは全く思わなかった。その時だったか、ミカン畑の真ん中にある借家の回りの畑に人糞を肥料にしてイチゴを育てていたところを見たような気がする。田舎の長野県で母親の畑仕事をできるだけ手伝い、作物を作る苦労を身近なものと感じることができるようになったのは、菊次郎さんの自給自足の生き方に影響を受けていた。

  初対面のその時まで、菊次郎さんと私の接点がゼロだったわけでもない。実は、アメリカから帰国後、小さな古本屋で手にしたのが菊次郎さんが78年に出版した『原爆と人間の記録』(78年、社会評論社)だ。土門拳などの名前や作品さえまだ知らない私が、福島菊次郎という並外れた存在を偶然のきっかけで知ったのがこの時だ。あとがきを立ち読みして感動したことは忘れられない。日本にも戦争でなくとも命を張って取材し報道するカメラマンが存在することに敬服した。あの本を古本屋で手にしていなければ、私は福島菊次郎という報道写真家の存在を知ることが無かったような気がする。

菊次郎さんの仕事と生き様を広く伝える

  99年からは「老いの風景」をテーマに、同郷で同い年のジャーナリスト、須田治さんとペンと写真のコンビを組み、全国で「老い」をテーマに取材開始した。「老いの風景」の取材を始めるまでの私はといえば、フィリピンとビルマ(ミャンマー)の取材をそれぞれフォトルポルタージュとして出版するのがやっとだった。視線は国外にだけ向かっていたのだが、海外で長期取材しても掲載できる雑誌がほとんど無くなり、私自身も海外報道から国内問題への転換を迫られていた。その最初の取材で、沖家室島を13年ぶりに訪れ、小さな島の世代交代した島民の老いてもなお元気に一人暮らし続ける姿を撮った。取材後に周防大島の菊次郎さん宅に立ち寄ったところが、私にとっては菊次郎さんの命懸けの仕事と向き合い始めるきっかけとなった。沖家室島の取材に出かける度に、菊次郎さんの借家に泊まらせてもらい、深夜まで菊次郎さんが現役で取材していたころのいろんな話を聞くことが始まった。

 2002年。菊次郎さんが周防大島で自ら制作した膨大な写真パネルを展示する写真展を企画し、さいたま市浦和の知人が経営する日本喫茶ギャラリーで開催した。数年後、菊次郎さんの写真パネルの管理を依頼されることになるのだが、私が初めて関わった写真展だった。二週間を二部構成とし、「瀬戸内離島物語」と「日本の戦後を考える戦争責任展」を展示。「瀬戸内」の時には菊次郎さんの彫金作品も同時に展示販売した。彫金は菊次郎さんの器用さを象徴するもので、彫金作家ベストテンになったこともあるほどの実力だ。写真パネル制作費を稼ぎ出したのも彫金作品だという。菊次郎さんは毎夏、敗戦記念日を初日とする彫金展を都内青山のギャラリーで開催。私は夫婦でギャラリーに挨拶に出かけ、作品を見る程度のおつきあいが長く続いた。蔵を改造したギャラリーの畳部屋で菊次郎さんの講演会も実現した。

200222002年、ギャラリー楽風での写真展

 イラク戦争開戦とほぼ同じ頃、筆のたつ須田さんが49歳の若さで急逝してしまった。菊次郎さんのインタビューを人気の高い月刊誌「サライ」に売り込み掲載するなど、須田さんの筆力に写真を撮る者として頼っていたことを反省し、自分なりの「老いの風景」を取材し続けた。菊次郎さんの生活の場は、この頃までには周防大島から柳井市に移っていた。大島の借家を引き払い、99年には下関市で写真館を一時運営し、翌年には常設写真展会場を柳井駅前に見つけたのを機に柳井市のアパートで独居生活となった。根っからの犬好きの菊次郎さんに同居の犬も欠かせなかった。

  写真集「また、あした 日本列島老いの風景」のタイトルで出版したのは2006年。「老い」にまつわる総論的な構成で、第1章は「大往生の島」と題して沖家室島を取り上げ、第4章は「記憶を撮る」と題して戦争体験者の肖像写真とその体験の一部を紹介する形だ。一人目が、私が自慢したい01年に撮影した菊次郎さんの横顔だ。キャプションの代わりに菊次郎さん特有の表現を掲載した。「靖国神社こそは若者を死地に駆り立て、ボロ布のように使い捨てた軍国主義の『大量殺人装置』以外の何ものでもなかったのだ。僕も何度か靖国の生贄にされそうになった」

Dsc_01352006年撮影

  狭いアパート生活で菊次郎さんは、写真だけでは伝えきれなかった現場のやりとりを活字にまとめる執筆に集中した。「写らなかった戦後」(現代人文社)シリーズとなり、第一段は「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘」と題されて2003年7月に刊行された。シリーズ第二弾の「菊次郎の海」出版に合わせた講演会を、2005年に都内で開催した。この時から菊次郎さんの講演の進行役を自ら務めるようにした。話始めたら途切れることのない菊次郎さんの話を、時間内に引き出すためのブレーキ役と舵取りに過ぎないが。

  講演の締めくくりに84歳の菊次郎さんは言った。

「戦後、ジャーナリストも国民も言ったことだが、ああいう馬鹿
な戦争をやったのは、ジャーナリズムがペンを折ったから。こういう事態が再び来たのはジャーナリズムと個々のジャーナリストがその志を放棄したから。戦前と同じで大政翼賛化し、戦後をきちんと照らして導いていくべきジャーナリズムの怠慢が作ったんだ。僕もジャーナリストの一人として、そういう内省をし、今日も田舎から出てきてジャーナリストとしての役目をちゃんとやろうとしている」

 小泉政権下でアメリカのイラク戦争に加担し、靖国問題で日中関係が一気に悪化していった時期だ。

  信濃毎日新聞紙上で、「『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎」と題した福島菊次郎論を三回に分けて掲載したのは2007年だ。菊次郎さんのすさまじい生き様を少しでも伝えたかった。昭和天皇の下血報道に際し、「このままとんずらされてたまるか。絶対に奴より先に死なんぞ」と決意し、退院を早めて「戦争責任展」と題した写真パネルを自費制作し、無償で全国巡回させたことを読者に伝えた。昭和天皇の下血報道は菊次郎さんが67歳で、胃がん摘出手術を終えて入院中の時だった。爆弾を抱えて自爆攻撃をさせられる訓練中に戦争が終わった福島菊次郎元二等兵の、最高責任者に対する責任の問いかけだった。

112(2011年9月撮影、さようなら原発デモ)

福島菊次郎講演会と写真展開催
  2007年6月に御茶ノ水の明治大学の教室を会場に、「戦争がはじまる」福島菊次郎「遺言」講演会を開催した。講演会は会場に入りきれない50人ほどにあきらめてもらうほど大盛況だった。私も所属するフリーランス仲間の集まりであるJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会。02年に広河隆一さんを代表として結成。その後、DAYS JAPANを発行した広河さんは退会し、現在の会員は16名で共同代表制)主催で開催したが、菊次郎さんの名前も仕事も知らない若い世代を中心に、14歳の中学生から70代の高齢者まで、幅広い参加者が集まった。企画した私が司会進行役をし、菊次郎さんが撮影した主要作品をスクリーンに上映して紹介した。講演会のアンケートが反響の大きさと重みを物語っている。

  「自衛隊や三里塚闘争などの、戦後の問題を示した写真の迫力がすごいと感じました。また、それ以上に天皇問題や日本の将来に対し語られる福島先生のすごさにも圧倒されてしまいました。(男性・44歳)」「初めて話を聴くが、すごい人だと感じ入る。「戦場体験」「戦争体験」「裕仁の戦争犯罪」「大本営発表」「権力のウソ」「ジャーナリズムの堕落」「被害者立場のみ主張」「加害者意識の欠如」(男性・74歳)」

 「戦争責任というのは戦場責任のことのみを指すのではない。戦争とは戦前―開戦―戦中―終戦―時には戦後までのすべての局面を言うのであって、すべての局面に責任は生ずるとのメッセージが印象に残りました。既に「戦前」の局面に入っていると思われる現在、主権者たる我々一人一人の「戦争責任」が既に問われ始めているのですね。(男性・34歳)」

 「先日20歳になったばかりで、まだまだ子どもつもりでいましたが、もう自分も責任を負う人間なのだと思いました。自分の子どもや孫の世代に胸を張って生きて欲しい、戦争のある世界を残したくない。今の自分にできること、しなければならないことを考え、行動に移していきたいと思います。(女性・20歳)」

 「日本は戦争を終えると同時に再び新たな戦争へと歩んで来たような気がした。この国がいかに表面的な国であり、いかに危険な状態であるかわかった。いままでは、「国が悪い」という意識で何かと批判してきたが、その責任の源流が国民にあったのだということを思い知らされるような講義だった。このまま恐ろしい未来が訪れるのをただじっと待っているだけというのも非常にむなしいことだと思うが、正直な気持ちとしては、未来は変えられない気がした。(男性・18歳)」

 「誰かがなんとかしてくれるだろう、という考えでは(憲法改正までの)時間は権力者のいいように利用されるだけ」との言葉にギクリとさせられました。福島さんが言うとおり、今、多くの人が、主権者としての能力を失いつつある、というよりその事実自体に無自覚になっているにかもしれません。講演会パート2を是非やってください。(男性・24歳)」

  6年前の講演のアンケート内容だが、まるで昨日今日開催した講演に対する反応のようで、戦中派の体験を持つ菊次郎さんが時代の行く先を読み取っていることがわかる。

20002000年撮影
  
  2008年と2010年には、国立市の市民グループが立ち上げた実行委員会が主催し、府中市のサポーターの力も借りて府中市駅前の広い講演会場で、「遺言」講演会Part2、Part3と開催。2010年は、「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな」の出版に合わせ、本格的な写真展を三日間開催。福島さんが命を削ってまで制作に没頭した一辺90㎝の写真パネルを70数枚展示できた。写真点数にして400点ほどだ。幅広い世代に大きな反響を呼んだ。

 この時の福島さんの「遺言」講演のポイントを紹介しておきたい。

 「日本はポツダム宣言受諾の通告を受けても無条件降伏を即座に受け入れなかった。広島と長崎の原爆は天皇制を救うための代償となった」「日本人は戦争を語る場合には被害しか語らなかった。それでは日本の侵略の対象となったアジアの人々は納得しないだけでなく不信を募らせるだけ。強盗に押し入って殺人した者が、自分が受けた傷を強調しても誰も認めないのと同じこと。日本の平和運動は世界の平和運動に貢献しなかったのは、被害者自身もやられたことばかり言ってきたため。足を踏んだ人は忘れても、踏まれた人は絶対忘れられない」

 「日本は急激に体制翼賛化するでしょう。9条の破棄、国民主権を変える、天皇批判が不敬罪となった戦前の天皇の地位と権力を思わせるような法律も出てくると思う。憲法改正問題も含め、我々自身の良心と尊厳を問われる大事な問題に直面している。どうか矛盾することをやらないように考えてください」「国民の半数以上が憲法を護る投票の結果が出たならば、断固として自衛隊の存続に反対します。私の立場は写真でも明らかなように再軍備反対ですから当然です。お前はどうするかと問われたならば、前回の集会で話したように、自衛隊がなおも存続するならば、そのような大間違いの国でこれ以上生きることを拒否します」 

 まるで参議院選後の今を先取りして警告する内容だ。

原発事故と脱原発運動の取材

 冒頭で触れたが、大震災と大津波の発生、福島第一原発の未曾有の過酷事故直後から、私はJVJAの有志と福島県で取材を始め、3月13日午前10時には、広河隆一さんを含む合計6人で、原発から3.5㎞の双葉町役場と双葉厚生病院に着き、三台の放射線量計で測定した。測定値は1ミリシーベルトを越え、平常時の2万倍の異常さだった。詳細は拙著「鎮魂と抗い~」に書いたが、私の「3・11」取材はそうして一気に高まった。大震災と原発事故は、JVJAがオンラインマガジン「fotgazet」を創刊して一月後だった。合同取材による放射線量や写真はfotgazetニュースで発信し、本体のfotgazetでも定期的にまとめて刊行した。菊次郎さんの広島の被爆者をテーマにした写真も、10数ページに渡ってfotgazet本体に掲載させていただいた。「3・11」後はブログを開始し、取材した記事と写真を逐次発信してきた。

  原発事故の初期報道で不思議だったのは、事件事故天災の発生となれば、先を争って現場に駆けつけるテレビ局や新聞社通信社などの大手メディアに現場で出会わなかったことだ。ジャーナリズムとは、報道機関とは何のために存在するのかを考える上でしつこく指摘しておきたい。住民の安全のために、原発に近づこうとする車輌を止め検問体制を敷くことが職務の警察の姿もなかった。後になり、テレビ新聞各社の取材の自己規制は政府が指示したのではないことにさらに驚いた。住民が自宅に残り、または決死の思いで原発に近い自宅に貴重品を取りに向かっているにも関わらず、記者が現場に入ることを止めたことは驚きだ。
   
 政府や東電に頼らず、自分たちで放射線量を計測する機材と人材を確保し、現場のデータを視聴者や読者に提供できたはずでもある。SPEEDYよりも実測データが貴重な情報源となったはずだ。ジャーナリズムとは何か?菊次郎さんとの対比で指摘すればこういうことだ。70年代に菊次郎さんは、「自衛隊は憲法違反」という信念から、防衛庁(当時)をうまく欺き、政府が国民の目から隠す自衛隊と軍需産業に入り込んで撮影した。国民の知る権利の行使でもある。菊次郎さんは自衛隊広報課の圧力をはねのけ、雑誌媒体で次々と報道した。暴漢に襲われて重傷を負い、不審火で自宅を焼け出されてもひるむことはなかった。

 2011年9月、私は菊次郎さんを福島県内を二日間案内し、三日目は東京の脱原発大集会とデモの現場に立てるように日程を組んだ。菊次郎さんの体調を考慮し、誰から頼まれたわけでもなく、三日間だけの日程で案内したところを映画製作班は撮影したものが「ニッポンの嘘」に生かされた。

 福島県の現場に入る前から菊次郎さんが注目したのは、広島の被爆者が国や行政に見捨てられたままに再建された「平和都市広島の虚構」の構図を見抜こうとした。結論を下すには時期尚早なのかもしれないが。

 報道写真家・福島菊次郎のぶれない生き様と、大手メディアで報道されることの少なかった写真群から、私はジャーナリストの果たすべき役割を学んできた。
 2013年9月、上京した菊次郎さんに新著「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(2013年、彩流社)の感想を聞いてみた。「今度の本が一番いいね」と言われ、嬉しくなったことを思い出す。菊次郎さんとの出会いが縁で、フォトジャーナリスト魂を学んできた一人として、ようやく使命のいくらかを果たせた気がした思いだった。

9(2009年撮影。写真展を終え、東京から山口県柳井市のアパートに向かう電車内には、菊次郎さんの唯一の弟子である那須さんが同行)

 菊次郎さんが、『戦争がはじまる―福島菊次郎全仕事集』 (社会評論社)を出版したのは1987年。およそ30年前にさかのぼる。かつて跋扈した東南アジアの独裁政権と化しつつある安倍自民公明政権が、「戦争法案」を参議院で強行採決したのは先週のことだ。菊次郎さんは、広島の原爆を6日間の違いで免れた戦争体験と、戦後の報道写真家としての生き様から、日本が平和憲法をないがしろにすることのないように、自衛隊の海外派兵がないようにと警告を発し続けてくれた。

 体重30キロ余の94歳の老いた肉体に、ようやく休息のときがやってきたことを思うと、「菊次郎さん、お疲れさまでした。向こうの世界に渡ったら、どうか私たちの社会が、安倍晋三とその取り巻きがのぞむ戦前に回帰することを世代をこえた協力で、踏みとどまる力を発揮できるように見守っていてください。後は私たちにまかせて、どうかゆっくりお休みください」と話しかけたい気持ちになる。

合掌                                   2015年9月25日  山本宗補

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2015年9月10日 (木)

2015年写真展「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」巡回途中経過・開催希望者募集中

(写真はクリックすると拡大します) 

 昨年は、全国各地10ヶ所以上で開催できた写真展「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」。今年の開催日程と途中経過を報告し、昨年同様に、開催の希望を募集します。昨年の巡回展の詳細な内容は以下のブログ記事をクリックしてください。

2014年8月20日:更新・写真展巡回途中経過報告 「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」 開催希望者募集中

◯姫路市真宗山陽教区同朋会館での写真展(9月4日~6日)
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 姫路市での写真展は今回で二度目。昨年8月に市民会館で開催していただいた。好評だったこともあり、兵庫県内の真宗住職や門徒のみなさんの尽力で、新築されて間もない同朋会館の講堂で開催された。

 102歳の河野さんも車イスで来られた。戦争中に赤紙が来た夫を送り出したという。召集令状の赤紙は「汚い色だった」という記憶が忘れられないようだ。

_8ds1918jpgsumijpgweb新作5点(手前のテーブル)も展示した。展示枚数は70点をこえた。元々は展示室として作られていない広い部屋だが、70歳を過ぎた門徒さんたちが大勢手伝ってくれたので、一見、理想的な写真展空間となっている。


Dsc_0942jpgsumijpgweb手前の新築部分が山陽教区同朋会館。

Dsc_0830jpgsumijpgweb元々は姫路船場別院本徳寺の広い境内の一角に建てられているのが同朋会館。

Dsc_0945jpgsumijpgweb9月6日の日曜日は、本徳寺境内で開催される恒例の楽市楽座。雨天だが、多数の市民が参加し、廊下一つでつながる写真展会場にも足を運んでくれた。

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 写真展期間中、二度スライドトークを開催した。初日はよくない出来だったが、二日目はまずまずの内容になったと思う。私と同年齢の男性数名と戦中に子どもだった女性から親の戦争体験にまつわる話を聞くことができたのが大きな収穫となった

 ・姫路の部隊から中国戦線に送られ、陸軍戦車部隊で南支から内蒙古まで、広い大陸各地で父親が戦闘した体験をかなり詳細に聞いている男性、父親が海軍主計科に属し、戦艦大和に乗り込む予定だったが急きょ乗り込まずに生き残った男性、姫路空襲で赤ちゃんを背負っていた母が気づいた時には、赤ちゃんの頭が破片でざっくりとザクロのように割れていたが、赤ちゃんのおかげで母は死なずに済んだと話す女性など。

 両親の戦争体験を直接間接的に聞いている世代は、戦争の残酷さは自分のことのようにわかっているのではないかと感じる良い機会となった。 

◯立命館大学国際平和ミュージアム展(5月3日~7月4日)7月7日追記
 二ヶ月間という長期の写真展は、主催者によると入場者数約9700人で、ここ数年で一番入った展示となったとのことでした。写真集も期間中に40冊売れたとのことでした。
 何よりも嬉しいのは、立命館大生などの学生や若い世代がたくさん見にきてくれ、70年前の戦争のことを真剣に考える機会となったことでした。

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 講演会後のギャラリートークを含め、期間中、3度のギャラリートークを実施し、一人でも多くの参加者に直接解説しました。

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55_2京都新聞に掲載された記事(5月5日)

 写真展期間中の詳細な報告などはこちらのブログ記事をごらんください。
「始まりました、京都での長期写真展。戦後70年平和企画 山本宗補写真展 「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」

◯京都市東本願寺展(3月27日~4月27日、参拝接待所ギャラリー1階・地下1階)7月7日追記
 真宗大谷派のギャラリーでの写真展は、会期を前後に分け、70点のうち、35点づつを入れ替えて展示することで70点全点の展示となりました。

_aaa0539jpgjpgweb今回の写真展のためのパンフレット。真宗大谷派が戦後50年に出した「不戦決議」いらい、専門部署を設け、展示や出版活動に取り組んできたこともわかる充実した内容。

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 丸木位里・俊作の「原爆の図」はレプリカだが、同時展示という懲りようだ。

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◯都内三鷹展(2015年1月23日~25日)三鷹市武蔵野芸術劇場にて開催。40点展示。
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_aaa0778jpgjpgweb三鷹駅前の便利で広い会場。

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・私の講演は24日に開催し、夕方には鳥居靖さん(人骨問題を究明する会事務局長)の「人骨問題と陸軍軍医学校」をテーマにした講演もあった。25日は、竹見智恵子監督の、フィリピンで性奴隷被害者とさせられたロラたちを描いた『カタロゥガン!ロラたちに正義を!』の上映会も開催された。

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_aaa1043jpgjpgweb主催した三多摩ロラネットの山田久仁子さんが手にするのは、ソウルの日本大使館前に設置された少女像のミニチュア像。抱いてみると存在感を感じるという。

_aaa1032jpgjpgwebフィリピン地図と性奴隷被害者となったロラたちの顔写真が配置された「慰安所」マップ。長辺は約2mの特大サイズ。


_aaa1024jpgjpgwebソウルの日本大使館前での水曜デモ1000回開催を記念して集められたキルトの余りで作られたキルト。

朝鮮新報の記事(1月29日掲載
 「戦争の生き証人がいなくなる時代に、それでも私たちは愚かな戦争の実相を未来の世代に継承していかなければならない。未清算の戦後を終わらせ、自らの加害者としての役割に歯止めをかける時が来ている」。写真展の入口に書かれた山本さんの言葉だ。

 日本軍「慰安婦」をはじめとする日本軍によって蹂躙された国々の被害者の証言の横には、日本軍将兵の加害者としての証言や連合軍捕虜の証言、東京大空襲や原爆を経験した人々の証言が並ぶ。被害と加害の歴史を記録し、伝えたいものは何なのか。

 「30数年前、東南アジアの取材を行う過程で現地の人々から日本軍がそこでどんなことを行ったかという証言を聞いた」。そのことをきっかけに、戦争体験の取材に取りくみ始めた山本さん。その根底には「両親の世代の戦争というのは私たちも当事者だ」という認識があった。

 (中略)

 そして「戦争の記憶を次世代にしっかりと伝えなかったために日本社会における70年前の戦争の捉え方が『私たちは被害者だ』という風に、脆くも反対にひっくり返っている。この数々の写真をみていただければ、日本がいかに加害者だったかということがわかる。そこからスタートして被害者になる。両方です。むごい話だ」と戦後日本の歴史認識の欠如を鋭く指摘する」
  
 以下はWebで読めます。会場写真も数点掲載され、長い記事です。クリックしてください

_8ds0085jpgjpgweb写真展最終日のボランティアのみなさんの意志表示


今後の開催日程(7月時点の日程)
佐久アースデイ(4月25日、20点展示予定、モンゴル式ゲル内部)
京都市東本願寺展(3月27日~4月27日、35点展示、参拝接待所ギャラリー1階・地下1階)終了しました
立命館大学京都国際平和ミュージアム展(5月3日~7月4日、70点全点展示、初日に講演あり)

注:5月以降、写真パネルは立命大国際平和ミュージアム展からは2セットに増やしますので、5月以降も貸し出しできます

(・熊本県水俣市にて原発事故に関する写真展開催(5月29日~6月4日

トーク:福岡市内(2月24日) 終了
トーク:千葉市美浜区 cafeどんぐりの木にて(3月1日)13:30~。原発事故取材のミニ写真展も開催(2月27日から3月10日まで)
講演会:岡山市にて(5月28日)
スライドトーク:早稲田奉仕園(7月11日)
熊本県八代市、やつしろハーモニーホール二階で原発事故取材の写真展開催(8月7日~9日)(8月追記)
姫路「戦後はまだ・・・」展(9月4日~6日)。会場は真宗大谷派山陽教区同朋会館ホール

講演会:千葉県曹洞宗施設にて(11月5日)
・写真展と対談:鎌倉で12月12日、13日。原発事故に関する写真展と吉澤正巳希望の牧場代表との対談。


◯以下は昨年2014年に開催した写真展概要
 講演をした東京母親大会では、一日写真展を開催(12月7日、調布グリーンホール)
_8ds5866jpgjpgweb写真は女性弁護士さんの講演

_8ds5870jpgjpgweb写真展会場。約30点展示


函館展(9月19日~21日、70点全展。会場は函館市まちづくりセンター)
 主催は函館YWCA・ピースプラニング委員会。講演は20日午後開催。広くて使い易い理想的なすばらしい会場だった。

・朝日新聞函館版9月18日:「国内外の戦争体験者らの取材を続けるフォトジャーナリスト、山本宗補さんの写真展「戦後はまだ…刻まれた加害と被害の記憶」が19~21日、函館市末広町の地域交流まちづくりセンターで開かれる。戦争体験者の肖像写真と証言を通して、加害と被害が複雑に絡み合う戦争の実像に迫る写真展だ」

_8ds7849jpgjpgseb写真展会場の函館市地域交流まちづくりセンターは、元は丸井今井デパートだったという。市電の便も最高のロケーション。

_aaa3839jpgjpgweb長時間、くいいるように解説文を読むみなさん。


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_aaa3710jpgjpgweb会場の右手のスペースには、「鎮魂と抗い」とその後の原発事故取材の写真を20点展示した。

大阪府高槻市展(8月29日~31日、70点全点、高槻現代劇場2F展示室)
 主催は写真展実行委員会。ちなみに、会場の隣はマニラで没したキリシタン大名高山右近記念聖堂
 講演会は30日午後に開催。

_8ds5819jpgjpgwebモダンで立派な高槻現代劇場。


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兵庫県姫路展(8月22日・23日、70点全点、姫路市民会館展示室
 主催は山本宗補「戦後はまだ・・・」写真展実行委員会。実行委員会の後藤由美子さん(脱原発はりまアクション)がまとめてくれた写真展開催の総括ブログ(syaku-yuiren)。会場で二度講演。写真集20冊、ほぼ完売。

_8ds5605jpg昨年10月以来、久しぶりに70点全部が展示された空間。たくさんのボランティアさんの協力で、広くて見やすい会場となった。

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・姫路空襲の体験を語る黒田権大さん(85歳)、総合工作芸術家「だるま森+えりこ」さんによる、トークの合間の演奏、山田悦子さんの、「国家無答責」についての講演も会場で開催された。

さいたま市浦和区ギャラリー楽風展(8月1日~10日、50点展示)
 楽風さんとは10数年来のおつきあいがある。写真集を出版するたびに写真展を開催していただく。明治以来の倉の土壁や梁の空間は、どんなテーマの写真を展示しても似合う。
・会場で一式戦闘機「隼」操縦士だった関利雄さん(90)と対談。最終日には緊急事態でインド取材へ。

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_8ds3267jpgjpgweb本人と会場写真。

東京新聞埼玉版に掲載された記事。以下が記事本文。

 「東京都東久留米市のフォトジャーナリスト山本宗補(むねすけ)さん(61)が九年をかけて取材した戦争体験者の顔と声が紹介されている。山本さんは二〇〇五年から戦争犠牲者の遺族らのほか、旧日本軍の元兵士を取材。昨年、全七十人の記録を本にまとめ出版した。

 今回の写真展では、上官に命令され「捕虜を刺殺した」と語る元兵士や、「日本軍に家族を殺され、孤児になった」と話すマレーシア人など五十三人の写真と証言を展示した。
 中国で生体解剖をしたという日本人の元軍医が「生きたまま人を切ると聞いたら、とんでもないことをと思うでしょう。でも、その時の私はひどいという気持ちにはならなかった」と話す生々しい言葉も伝えている。山本さんは「戦争には加害者としての側面があることを、まず知ってほしい」と話す。


「平和のための奈良市戦争展」(7月24日~27日、43点展示)
 会場は奈良市生涯学習センターロビーギャラリースペースにて。
_8ds2837jpgjpgweb奈良市生涯学習センター

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・講演は26日の午後、会場二階の学習室で開催し、写真集5冊完売。

平塚市「平和のかたち展」(第12回「平和を語りつぐ」)、7月16日~20日、40数点展示)
 会場は平塚市中央公民館2F市民ギャラリー。講演日は7月19日(土)に開催

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長野県佐久市アースデイin佐久展(4月11日、11点展示)
_aaa5494webゲルの外見。

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ゲル(モンゴル式)の中での写真展。モノクロパネルは11点のみの展示。
 
ゲルでの写真展は初めてではないが、こうした屋外の自然な空間で、一度は全70点を展示してみたいと思ったほど素敵な空間となった。

山梨県山梨市・街の駅やまなし展(3月25日~29日、45点展示)
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・「戦争写真から平和説く 山梨市で山本宗補さん作品展」(山梨日日新聞掲載記事転載・3月28日(金))
 市内の護憲団体「山梨市9条の会」が企画した。山本さんが、太平洋戦争を体験した国内外70人に取材した写真集「戦後はまだ…刻まれた加害と被害の記憶」から45点を紹介。同写真集は第19回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞している。

 戦争体験者の証言では、中国人を生体解剖したという東京生まれの元軍医の男性の告白を紹介。「生きている人を切ると聞いたら、とんでもないことだと思う。でも、その時はそうは思わなかった」として、「私のような愚かな人間はつくらないように」とつづられている。

 山本さんは「憲法9条改正の議論や秘密保護法が成立するなど、戦争が忘れられつつあると感じられる今だからこそ、写真を通じて、平和の意義を考えてほしい」と話している。

長野県御代田町エコールみよた展(2014年1月29日~2月11日、50点展示)
_aaa2715sumiweb_2講演は最終日に開催

・信濃毎日新聞記事(1月31日)
 御代田町出身のフォトジャーナリスト山本宗補さん(60)=東京都東久留米市=が取材した日中戦争や太平洋戦争体験者の写真展が30日、同町エコールみよたで始まった。憲法9条を守ろうと町内の有志を中心に運動する「御代田9条の会」が主催。安倍政権下で集団的自衛権の行使容認への検討がされており、「(行使容認の是非を)現実の歴史を知った上でみんなに考えてほしい」と企画した。2月11日まで。

 ~~旧ソ連によるシベリア抑留の体験者は、飢えや重労働で「毎日誰かが死んだ」と語り、長崎で被爆した男性はやけどで溶けて腐った皮膚を「アリが引っ張ってゆく」と振り返る。

 日本側の加害も伝える。ある元日本兵は、中国で仲間の古参兵が、村の女性を強姦しようとし、抵抗されて井戸に投げ込んだ―と証言。シンガポールの華僑の男性は、日本の軍人に「何をしたいのですか」と尋ねただけのいとこなど家族や親族21人を殺されたと話す。

 山本さんは「若い政治家の間で『あれは侵略戦争ではなかった』という声がまかり通っている。日本人は単なる戦争の被害者ではなかったことも認識し、愚かな戦争をしてはいけないと若い人にも思ってほしい」と話している。

キッド・アイラック・アート・ホール展(2013年10月18日~27日開催)
 写真集刊行を記念した最初の写真展となったキッド展では、二階、三階、四階の各フロアを使って、70点のパネル全部と畳一畳分に近い特大の3点も展示した

ブログでご覧ください
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終了した写真展日程(古い方から下へ)
・長野県御代田町展(1月29日~2月11日)
・山梨県山梨市展(3月25日~29日)
・長野県佐久市展(4月11日)
・山梨県富士吉田市(6月22日) 講演と同時開催
・神奈川県平塚展(7月16日~20日) 
・奈良県奈良市展(7月24日~27日)
・東京杉並ピースフォーラム展(8月1日~3日) パネル貸出のみ
・埼玉県さいたま市浦和区展(8月1日~10日
・兵庫県姫路市展(8月22日、23日)
・大阪府高槻市展(8月29日~31日)
・函館展(9月19日~21日)
・東京母親大会展(12月7日) 講演と同時開催
・三鷹市展(2015年1月23日~25日) 会場は武蔵野芸能劇場


「戦後はまだ…」の写真展 開催希望者を募集中
・開催条件はニ案あります。

1:モノクロ写真70点を全部展示
貸出料金は6万円。1日でも三日でも1週間でも料金は同じです。輸送費は主催者負担。
写真パネルのサイズは一点が長辺56cm×短辺42cm。縦写真は高さ56cmで横42cmと なります。
軽装です。縦写真が44点、横写真が26点です。

写真集本文を約半分程度にまとめたものが解説文(大きさはA3とA4)として各写真に付きます。
70点全部展示するには、かなり広いスペースが必要です。

2:モノクロ写真35点展示
貸出料金は3万円。他は上記と同じです。
こちらの点数の方が、一般的な展示スペースに合うかもしれません。

講演も写真展開催するしないに関係なくお引き受けいたします。

・以下のサイトに詳細がありますのでご覧ください。

フォトジャーナリスト 山本宗補 巡回写真展 開催希望者 募集
あなたの手で、「終わらない記憶」を伝えてゆきませんか

写真集の新聞紹介記事や書評はこちらをクリックしてください(東京新聞、毎日新聞、朝日新聞、琉球新報、信濃毎日新聞など)

私からのお願い
 国内外の途方もない死者と、国土の焦土化という、最も愚かで無謀な侵略戦争を深く反省し、二度とふたたび同じ道を歩まぬことを誓って成立した日本国憲法。
せん
 その憲法さえも勝手に解釈し、海外に自衛隊という軍隊を派兵することができるように、戦前に回帰しようとする安倍政権の人の道にはずれたことを再認識できる写真展です。

 各地の9条の会などが主催者となって写真展は開催されました。どうか若い世代に約70年前の戦争のほんとうの姿を知ってもらう機会をつくってください。


◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729

・銀行振込
城南信用金庫
店番036 普通口座 ヤマモトムネスケ 口座番号340130


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2015年9月 1日 (火)

「戦争法案廃案!」「安倍政権退陣!」のコールが渦巻いた、小雨の中の10万人超国会前抗議フォトルポ

(写真はクリックすると拡大します)

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 主催者発表12万人。小雨など意に介さない、ありとあらゆる階層の市民が国会前に集い、熱い熱い「安倍自公政権NO!」を叫んだ。

 これらの写真には、圧倒的な説得力を持つ空撮はありません。この日スピーチした坂本龍一さんや森村誠一さん、沖縄米軍基地建設に一貫した反対闘争を闘ってきている安次富浩さんも写っていません。日比谷野音での大集会と霞ヶ関官庁街での不特定多数の参加者の姿は一枚も入っていません。

 前日までは、国会前だけでなく、周辺の人の集まり状況を自分の目で確かめたいと思っていたのですが、国会正門前は、抗議集会開始前で、国会前の大通りは参加者に開放されて埋め尽くされ、自由に身動きできない状態になっていたからです。(警備の警察があまりの参加者数に、通常の鉄柵で道路封鎖をすることが、かえって通行の危険になると判断したのかもしれません。)

 しかし、国会前と周辺に参加した12万人の名もなき老若男女の一部が登場します。私が話した人では、仙台や大阪など遠方からわざわざ駆けつけた参加者も多数います。ソウルフラワーユニオンの中川さんや漫画家の石坂啓さんのような著名人が「安倍は辞めろ!」コールに参加している写真もあるが、自分自身の頭で考え、憲法違反の「戦争法案」を廃案に持ち込もうという意気込みを持って集まった人人だ。

(60年安保を体験した人は、当時の参加はいろいろな組織が動員した結果の参加者だったが、今は個人の意思でこれだけ集まっているということに感激したという話も人づてに聞いた)

 これらの写真は、ともかくも、12万人の一部に過ぎない。身動きできないなかでの撮影範囲が限られてもいるので。それだけはお断りしておきたい。

 これらの写真群で、全国の圧倒的多数の市民の民意を背景にした、国会前での主権在民の姿を共有したい。

 「民主主義って何だ?」
 「民主主義って これだ!」
シールズ(Students Emergency Action for Liberal Democracy - s。自由と民主主義のための学生緊急行動)メンバーが必ずコールするフレーズが、まさしくここにあるからだ。

 「戦争法案」を何が何でも強行採決したい政治家やその取り巻き、戦争法案を利用して、利権の甘い汁を求める者たちには、見たくない事実だろうが。
 
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仙台から手製のプラカードを10種ほど用意して駆けつけた老齢のご夫婦。国会正門前に向かいながら意思表示。


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国会正面の大通りが決壊し、参加者があふれだした後、すでに参加者で身動きが取れないスピーチが行われる本部周辺から、大通りに出ようとする参加者と、危険な鉄柵をおいたまま参加者を押しとめようとする警察。
過剰警備により参加者にけが人が出そうな状況だった

_aaa2941jpgsumijpgweb大通りの真ん中に陣取ったシールズの周りを埋め尽くす参加者。

参加者はシールズを守るように円陣を組むような形で座り込み、動かない意志を明確にした。左右からも後方からも続々と参加者が押し寄せ、大通りが完全に開放された空間となった。この場所を市民が埋め尽くしたのは、2012年7月の再稼動反対を求める抗議以来だ。

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「今こういう状況で民主主義が壊されようとしている、憲法が壊されようとしている。ここに来て民主主義を取り戻す、憲法の精神を取り戻すということは、まさに憲法を自分たちで血肉化すること。とても大事な時期だと思います」(坂本龍一さん。東京新聞からの引用。以下、森村さん、安次富さんのスピーチも同)

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_aaa3477jpgsumijpgweb山梨県の大学1年生の小林君。スピーチがうまいだけでなく、ラップのノリも抜群だ。

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_aaa3646jpgsumijpgweb高校生のタクヤくん。「今日は達成感がありました」

 家では父親が政治の話題を話しているので、中学生のころから政治に関心を持つようになっていたという。同級生と政治のことを話題にすることはほとんどなかったが、メディアで報道されるようになって、話しかけてくる同級生も出てきたと話した。


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「戦争になれば女性に一番大切な美しさを守ることがふみにじられます。もんぺというみにくい衣服を着て、パーマをした女性は髪をそがれ、振り袖を着た女性は袖を切られた。竹やりでわら人形を刺し貫く訓練をさせられた。それを見て私は戦争を絶対にやってはいけないと思った。女性が壊されることは、子どもが生まれなくなり、人生が破壊され、地球が滅びるということです。

安倍政権は(日本を)再び戦争可能な国家にしようとしているが、絶対にいけない。私たちの責任であり、使命であり、義務でもある。今日の雨を共有した女性たちは忘れないようにお願いしたい」(森村誠一さん)

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_8ds1676jpgdsumijpgweb_2漫画家の石坂啓さんは、「アベ政治を許さない!!」プラカードを持参。


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_8ds1631jpgsumijpgwebソウル・フラワー・ユニオンの中川敬さんもいてもたってもいられずに駆けつけたと話した。


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山梨県から参加した男性の手作り。米国製ミサイルを手に、戦車で憲法を蹴散らす安倍首相?頭には米国旗をつけている図。「独裁者かお前は 安倍晋三」の決め言葉。ウマイ!!!


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「民意を聞こうとしない安倍政権、戦争法案反対の国民の声を聞こうとしない安倍政権は、まさに国民に敵対する政権です。戦争法案反対、新基地建設反対、原発の再稼働を絶対に止めていく。これが安倍政権打倒のトライアングル~国民の大結集で闘い抜きましょう」(辺野古新基地建設反対運動の安次富浩さん)

_aaa3009jpgsumijpgweb福島原発告訴団でもおなじみの、「原発いらない福島の女たち」も数名駆けつけていた。


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 坂本龍一さんは国会前を埋め尽くした市民に向かってこうも話している。
「僕たちにとって、イギリス人にとってのマグナ・カルタ、フランス人にとってのフランス革命に近いことが、ここで起こっているんじゃないかと強く思っております。
 一過性のものにしないで、あるいは仮に安保法案が通っても終わりにしないで、行動を続けてほしいと思いますし、僕も皆さんと一緒に行動してまいります」

◯安倍政権の反応(31日のテレビニュースから)
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 記者から国会前で大規模な反対集会が開催されたことを問われた菅官房長官のコメントだ。
「一部の野党やマスコミから「戦争法案」だとか「徴兵制の復活」などという宣伝がなされており、大きな誤解が生じており極めて残念だ。こうした点については審議を通じて政府として誤解を解く努力を行っていきたい」

 11の法案を一括して審議を始めてすでにまる二ヶ月が過ぎた。誤解などどこにもなく、政府のうそつき、詐欺的答弁が審議が進むたびに明らかになっているからに過ぎない。


◯蛇足 
 民意に聞く耳を持たないのが最大の特徴である安倍自民公明政権による「戦争法案」に反対し、集会やデモなどに参加する人には蛇足かもしれない。しかし、参議院で審議開始後に新たにわかった安倍政権の詐欺的答弁を二点だけ再確認しておきたい。

1:米艦船で避難する邦人が乗船しているかどうかは、自衛隊による米艦防護の絶対条件ではない。(8月26日)(安倍首相が昨年7月1日に閣議決定した際、集団的自衛権行使容認の必要事例として使用した、あのイラストボードで示したケース)

中谷大臣の答弁は安倍首相の理由付けを国会答弁で否定したに等しい。
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_aaa2642jpgweb8月26日の国会審議での質疑
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中谷防衛大臣:「邦人が輸送されていることは判断基準の一つではあるが絶対的なものではない」


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2:核兵器の輸送も法文上は後方支援で可能。(8月5日)
 広島に原爆が投下されて70周年の前日での国会審議で、中谷大臣は「核兵器も法文上は輸送が可能だ」と答弁した。

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 広島原爆慰霊祭で安倍首相が、「非核三原則」をスピーチから自ら削ったというあるまじき失態など、自民党が墓穴を掘る事例がほかにも続出しているが、この二点だけでも、安保法案の本質は、「戦争法案」であり、政府答弁は国民をだます詐欺に等しいこともよくわかるといえる。

 蛇足3として詳述したいポイントは、必要もなくマイナスとしかならない「安倍70年談話」。
予想通り、一人称で「侵略戦争」も「植民地支配」も認めず、一人称で「お詫び」を語ることが無かった。つまり、自分自身の気持ちは全く語らず、最後は「具体的にどのような行為が侵略に当たるか否かは、歴史家の議論に委ねるべきだ」と、8月24日の国会答弁でも逃げたことに明白だ。

 首相の安倍晋三は、過去の歴史を学び教訓を生かそうとしない、国会議員の中でも最も不誠実な議員の一人だということが、この「戦争法案」以前に皮膚感覚で嫌われていることにも触れて置く必要がある。

 国会とその周辺だけでなく、350ヶ所といわれる全国各地で同時実施された「戦争法案」の廃案を求めるデモや集会参加者は、安倍首相自身や、安倍政権の体質や本質を見抜いているということだ。

 国会正門前では、こういうプラカードも高く掲げられていた
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 最後にやはり空撮写真がないと、全体状況は伝わりにくいので、毎日新聞Webから借用した空撮写真をコピーさせていただきました。

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 大手メディアの空撮だけでは伝わらない日比谷公園から霞ヶ関官庁街を抜け、国会へ向かう「群集」がわかりやすい動画がYou tubeで公開されています。以下をクリックしてください。
「8月30日、安保法制反対の抗議活動/日比谷公園から国会前へ」

◯付記:衆議院での審議中の、安倍自公政権のデタラメぶりをまとめたブログは以下をクリックしてください。
「ゴーマンな安倍晋三(首相)による、民意無視、独裁と「違憲政党政治」の終わりの始まり」

◯取材活動支援のお願い
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