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2015年9月26日 (土)

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 中(信濃毎日新聞2007年掲載) 自ら権力に挑んだ闘い

福島菊次郎さんを追悼し、信濃毎日新聞2007年3月5日に掲載した記事を再録します。
交友が続いていた菊次郎さんの人生について、戦争体験者の取材を覚悟を決めて初めて書いた記事でした。

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 中

自ら権力に挑んだ闘い               山本宗補

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 戦後、郷里の山口県下松市で時計店を営んでいた福島菊次郎さんは、原爆投下の一年後に、広島の原爆ドームに草が生えたという新聞記事を読み、時計部品の仕入れを兼ねて、写真を撮りに行った。それが広島での初めての撮影だった。被爆者の撮影に本格的に取り組みはじめたのは、原爆犠牲者慰霊碑の除幕式があった一九五二年の夏。原爆症に苦しみ、極度の困窮のなかにあった中村杉松さん一家を紹介されてからだ。「そっとしておいてください」と語る被爆者が多いなかで、中村さんは違っていた。

「わしの写真を撮って世界中の人に見てもらってください。ピカに遭うた者がどれだけ苦しんでいるか伝えてください」

 そう頼まれた福島さんは、広島に毎週通い、一家の生活を克明に撮影した。六〇年夏、東京で写真展を開催。翌年、最初の写真集「ピカドン」を出版した。そのリアリズムは高く評価され、あるカメラ雑誌は「この恐ろしい事実の背後に、心ある人は深く戦争否定の精神を読み取るだろう」と評した。福島さんは「アマチュア時代の原爆取材が、その後のすべての仕事のバックボーンになっている」と話す。

 プロの写真家への道を開いた「ピカドン」はしかし、大きな代償をも伴った。苦しさでのたうち回る中村さんにカメラを向ける自身の冷徹さに悩みながら撮影を続けるなかで、生業の時計屋は傾き、夫婦関係は壊れた。福島さんは一時、精神病院に入院し、自殺を妄想するまで追いつめられたという。妻と別れて上京する決断をしたのも、その苦境を打開するためだった。明治生まれの母親は、「ワシは街を歩けん」と嘆いたそうだ。

 三人の育ち盛りの子どもを抱え、上京後は生活のために石油会社の広報誌の写真を撮った。しかし、その撮影中、ふと自問した。「オレは何のために上京したのか」。広報誌の撮影は止め、サンドイッチマンのアルバイトなどしながら、被爆者の取材を続けた。

 ベトナム反戦運動、三里塚闘争、学生運動が高揚した戦後日本の激動期。機動隊に立ち向かう若者たちに、福島さんは共感以上のあこがれを感じ、夢中でカメラを向けるようになる。「若い頃、国のいうことを鵜呑みにしていた自分がどれだけ阿呆だったかを思い知らされた」からだという。
「学生運動は国家権力に対する反乱であり、市民運動は海をこえた反戦運動」だった。

 組織には属さず写真を発表した。そして「自衛隊は憲法違反だ」という信念から、自衛隊と兵器産業の撮影に取り組む。それは、カメラを武器に自ら国家権力に挑んだ闘いだった。福島さんはまず、防衛庁広報課に広報用の写真撮るカメラマンとして自分を売り込んだ。写真掲載誌を見せ、「これを撮ったカメラマンです。学生運動を取材して、こんなことでは日本は終わりになると思った。自衛隊の若者は税金泥棒といわれながら国を守る仕事についている。使える写真は無償で提供します」

 江田島の海上自衛隊幹部候補生の撮影を頼まれたのは二週間ほどたってからだったという。徐々に信用を得た福島さんは、自衛隊の軍事演習を撮り、兵器産業をつぶさに撮影した。そして、「自衛隊告発」キャンペーンを雑誌で始めたのだ。撮影したネガを、家が建つような高額でネガを買い取る話もあったが断った。暴漢に襲われた福島さんは、尾骨と前歯を折られ、顔を十針以上縫う大けがを負う。東京・目黒の借家は不審火で延焼し、焼け出された。 
「もうお終いだと思った。ところが全国紙が写真付きで報道し、カンパが集まった。町内会からも二十万円。僕は元気が出た」

 ネガだけは高校生の娘が運び出していた。煤けたそのネガを日大芸術学部の学生らが手分けして洗ってくれた。福島さんはカンパで、ニコンのカメラ三台を買いそろえた。当時、作家の井上ひさしさんが、当時の福島さんの人物ルポを雑誌に書いている。
「福島氏が豪(えら)いのは、外出すると尾行がつくことである。つまり家庭では優しい父親である氏が、いったん玄関の戸をあけて足を一歩外に踏み出すと、体制側の要注意人物になってしまうわけだ」(「芸術生活」)

 上京した母が、「お前、食えるのか」と心配するので、福島さんが掲載誌を見せると、母は驚いて「お前、お上にはむこうてええのか」と言った。「福島の家系から縄付きが出る」ことを心配したのだ。その母親の危篤の報を、三里塚闘争の取材中に受けた。死に目にはあえなかった。

 八二年、福島さんは東京を捨て、郷里に近い瀬戸内海の無人島に移り住む。六十二歳のときだった。

(下に続く)

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