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2015年9月26日 (土)

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 下(信濃毎日新聞2007年掲載) 抵抗の一粒の種を蒔く

福島菊次郎さんを追悼し、信濃毎日新聞2007年3月5日に掲載した記事を再録します。
交友が続いていた菊次郎さんの人生について、戦争体験者の取材を覚悟を決めて初めて書いた記事でした。

『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 下

抵抗の一粒の種を蒔く               山本宗補

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 一九八二年、福島菊次郎さんは二〇年間の報道カメラマン生活と決別し、東京を離れた。
「メディアが自己規制を始めた。僕の写真は敬遠され、最後の二年は月刊誌にほとんど使われなくなった。ここにいたら、僕も一緒に腐ると思った」

 六十二歳。三人の子どもは自立し、親の務めは果たした。手元には一〇冊の写真集が残った。写真学校などの講師の薦めもあったが断った。左手の指がニコチンに染まるほどのヘビースモーカーだった福島さんは、このときを境にタバコを止め、郷里に近い瀬戸内海の無人島へ渡った。「漁師の子、海に帰ろうという帰巣本能。瀬戸内海で一番きれいな、関鯖がとれる海を探した」という。

 しかし、無人島での暮らしは、体を壊して一年余りで行きづまる。周防大島のミカン畑に囲まれた借家に移り住んだ福島さんは、果樹を植え、野菜を育て、魚を釣る自給自足を目指した。私が福島さんに初めて会った八六年頃、若い同居人の女性と暮らす福島さんは、人を寄せ付けない、気難しそうな雰囲気が漂っていた。ミカン、ブドウ、キウイ、レモンなどの果樹を栽培し、野菜もイチゴも人糞を肥料に育てていた。パンや豆腐、ハムも手作りし、ワインも自分で作った。

 「報道写真家・福島菊次郎」の闘いが再び始まるのは、六十九歳になった八八年だった。その年の秋、福島さんはガンで胃の三分の二を摘出した。手術の五日後、六人部屋のテレビに昭和天皇の顔が映し出された。下血報道が続いた。

「絶対に奴より先に死なんぞと思った」と福島さんは振り返る。著書にはこう書かれている。
「あの悲惨な戦争のなかで、〝殺す者〟と〝殺される者〟として遭遇した相手だけに、『このままトンズラされてたまるか』と思うと、じっとしておれない焦燥と危機感に追い込まれた。僕なりの決着をつけなければならなかった」
(『写らなかった戦後2 菊次郎の海』)

「マスコミは天皇の戦争責任の隠滅に加担している」と福島さんの目には映った。退院を早め、ふらつく身体で二百五十枚の写真を引き伸ばして、「戦争責任展」の写真パネルを自費制作した。パネルを無償で貸し出した巡回展は、各地で右翼の妨害に遭い、発砲事件も起きた。しかし、それがマスコミで報道され、全国から申し込みが殺到した。家には、名を告げない脅迫電話がかかってきた。
「夜道を歩くな」「そんなにこの国が嫌いなら日本から出ていけ」。

 万一に備えて福島さんは、自分の身体に合わせた棺桶をベニヤ板で作り、苦しまずに死ねるように、首から下げるペンダントには青酸カリを忍ばせた。「戦争責任展」は九十年から三年間で百六十カ所を巡回した。
 
 十年間一緒に暮らした女性との関係が破局を迎えたその頃、福島さんは新たに、かつて取材した全テーマの写真をパネル化する「写真で見る日本の戦後」に取りくんでいた。それを「遺作展」にするつもりだった。

 原爆、自衛隊、天皇制、学生運動、公害、原発・・・。三千三百点に及ぶ膨大な写真パネルの制作は完成するまで十一年かかった。年間五十~六十万円の制作費は、東京都写真美術館が収蔵品として買い上げた写真代のほか、東京時代に自己流で始めた彫金で得る収入を充てた。
「彫金やっていなければ、あのパネルはできていない。島で生活をしていたから可能だった」と福島さんは言う。

 戦後日本の暗部を照射する写真パネルは、全国を巡回し、九九年には下関に常設展示館が開館した。翌年柳井に移した展示館は、福島さんの病気入院などで、その後閉館した。だが、写真パネルの貸し出しは続いている。

「僕はこの国の主権者。憲法を守り表現の自由を行使してきた。言いたい放題やりたい放題やってきた。これがボクの一番の財産。自己規制もしていない」。

 そう語る福島さんはいま、写真で伝えられなかったことを文章で補完する『写らなかった戦後』シリーズの三作目を執筆している。仮タイトルは「殺されるな 殺すな」。六十~七十年代の学生運動や市民運動が主題だ。執筆活動も福島さんにとっては、「一人の市民運動」だと福島さんはいう。

「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」

 福島菊次郎さんはもうすぐ八十六歳になる。その生き様を見つめながら私は、命を粗末にする政治や行政を目の前にして、「当事者」の一人であるお前はどうするのか、と自分が問われていることに気づかされていた。(了)

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