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2015年4月の投稿

2015年4月23日 (木)

福島県浪江町津島~原発から20キロ以遠の帰還困難区域と開拓入植者~Part2

(写真はクリックすると拡大します)

 Part2は、国策に乗り、福島県から満蒙開拓団に入植した県民が、たくさんの家族を失うというソ連参戦後の悲劇をくぐりぬけ、辛うじて帰国し、津島に開拓入植し。今度は原発事故により、我が家を追われ、開墾した大地に帰って生活することができなくなった具体例を紹介したい。
 
 大内孝夫さんは家族8人を失い、岸チヨさんは母と姉を失った

 その前に、放射線量の変化を写真で見てみたい。もちろん、私が写真で紹介する空間線量は、「正しい」というよりも大まかな「目安」だと思ってほしい。放射線量は正しいことにこしたことはないが、政府行政機関による情報が全くない緊急時に、線量計でその場の空間線量を測定し、知らせることの意味は重要だ。SPEEDiの情報も隠し、放射線量をできるだけ多くのポイントで測定し公開するのが任務であるはずの文科省が、空間線量を公開しなかった原発事故の初期、そして、福島県各地にモニタリングポストが設置された後も、専門家や取材者、一時帰宅した住民などが測定する線量は、大きな目安として有効だというのが私の捕らえ方だ。

◯空間線量の変化(2011年と2015年)
_aaa5147jpgweb津島小学校、約12マイクロシーベルト。2011年4月26日撮影


_aaa6468jpgjpgweb同、3.5マイクロシーベルト、2015年3月10日撮影

_aaa2784jpgjpgweb門馬牧場前、9マイクロシーベルト強、2011年6月25日撮影


_aaa6353jpgjpgweb同、5.7マイクロシーベルト、2014年10月17日撮影

_aaa5041jpgjpgweb399号線の下り坂中間辺り、20マイクロシーベルト以上で計測不能、2011年4月26日撮影


_aaa6430jpgjpgweb同、3.7マイクロシーベルト、2015年3月10日撮影
_aaa2369jpgjpgweb399号線と114号線の交差点近く、10.2マイクロシーベルト、2011年4月10日撮影


_aaa6437jpgjpgweb同、2マイクロシーベルト、2015年3月10日撮影

◯津島開拓記念碑と建立者名簿碑
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大内孝夫さん(82歳)
Jpgweb大内夫妻が避難生活を送る二本松市の仮設住宅。

 浪江町津島に自宅がある大内孝夫・五月夫婦は、二本松市山中の放射線量の高い、大きな仮設住宅で避難生活を続ける。自宅はイチエフから約23キロも離れているが帰還困難区域だ。

_8ds0684jpgweb仮設住宅で満州での体験を話す大内さん。2014年10月。

 大内さんが8歳の時、現在の二本松市の小集落から一家総出で満州北西部、現黒竜江省の下学田開拓団に入植した。同じ集落から7戸が一緒に渡満。大家族で生活し、広い農地は中国人を雇い、農作業を手伝う苦労は全くなかったという。満蒙開拓団は国策で奨励された。

 敗戦の年の春ごろ、父は「根こそぎ召集」により関東軍の通信兵となった。ソ連が参戦する直前の7月に母が出産したが、出産後の腹膜炎で死亡し、赤ちゃんは1週間後に亡くなった。

 8月9日のソ連参戦に伴う大混乱で、逃げることを観念した開拓団では服毒による集団自決が起きた。開拓団に男手が無かったのは、関東軍が南方戦線へ移動して兵力が足りなくなった穴埋めをするために、40歳前後の男も含む約20万人の在満州日本人男子を敗戦の年の45年に入ってから緊急召集したからだ。
 大内さんは服用する寸前に「飲むのを止めろ」という誰かの声で飲まずに助かったが、自決し家に火をつけ黒焦げになった遺体や、親が子供の首を斬ったケースも見たと話す

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 避難生活の途上で、大内さんは祖父と祖母、父の弟、叔母、それに二人の妹の6人が次々と病死。チチハルの学校に300人ほどが収容された時は、生き残ったのは100人足らずだという。一晩のうちに7~8人死んだという。
 大内家で帰国できたのは大内さんと弟だけだったが、その弟もまもなく病死した。
「一家でこれだけ亡くなった家はあまりないね。50回忌もやった。津島に入植した親父が一代目とすると、息子が3代目。3代目でこういう原発事故が起きてしまったということだね」

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[山本注:満蒙開拓団の全体像と犠牲者数
 国策に従い全国一の開拓団を満州に送出したのは長野県だ。私の故郷である。「長野県満州開拓史」によると、開拓団27万人のうち、死者75000人、残留者4500人。長野県からは33700人(一般開拓団26332人、青少年義勇軍6942人、勤労奉仕隊ほか467人)が送り込まれ、ダントツの全国一だ。
 死者は約15000。死亡率は44パーセントをこえ、死者の5人に1人が長野県出身者である。残留者は884人。送出県二位は山形県で17000人、三位が熊本県で12600人。福島県は四位だ。

 集団自決の事例は、名簿から明らかに判断できるのは、哈達河(ハタホ)開拓団(8月12日、146人)、蓼科郷開拓団(8月20-21日、274人)、瑞穂村開拓団(9月17日、110人)などがある。

 集団自決はソ連軍や地元住民の攻撃から身を守ってくれるはずの軍隊も男たちもいない中、女や子どもが逃げ遅れる大混乱の中で生じたものがほとんど。死者の大半が女と子ども、老人だ。開拓民の平均像は、30代および40代の夫婦に子ども2-3人の家族が多く、一家の大黒柱だった男たちの帰還率は80%近い
「長野県満州開拓史」は、開拓団は「関東軍に守られるのではなく、関東軍を守るための配置だった」と開拓団の隠された狙いを指摘している。

 安倍首相が英雄視する岸信介元首相は、「満州国」産業開発の実力者として、満州国国務院産業部次長を3年間(1936年-39年)務めた。この時期は満蒙開拓移民第二期にあたり、最も多くの開拓移民が国策に乗り大陸に渡った。山本注おわり]
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_aaa6434jpg一時帰宅した大内さんと大地震にびくともしなかった自宅。2014年10月撮影。
   
 大内さんは、敗戦の翌年に父が復員でき、昭和23年9月に浪江町津島に父子二人だけで入植した。場所はテレビ番組となったダッシュ村の隣の山中。生い茂る松林の開墾が始まった。18歳で大内さんは結婚したが、奥さんが嫁に来た頃は「賽の河原」と呼ばれるほど、人の住みそうにない貧相な一帯だったという。子供4人(3男1女)とも自宅出産。開墾時の苦労話が多々ある。

_aaa6415jpgsumijpgweb木材加工工場

_aaa6422jpgsumijpgweb2014年2月の大雪で倒壊した倉庫

 昨年秋、大内夫妻の一時帰宅に同行させてもらった。二階建ての自宅は、工務店を経営した息子と20年ほど前に建てたがっちりとした作りで、大地震ではびくともせず、いつでも住むことができる状態だった。しかし、庭先の線量は5マイクロシーベルト前後。秋の紅葉で囲まれた自宅に帰って生活することはもうできない。独立した子供たち4人も生活はバラバラとなっている。

安斎一信さん
 大内さんの自宅の向かいにある広大な敷地には、大小様々な植木が色づいている。植木職人だった安斎一信(63歳)さんの庭だ。安斎さんは原発事故後に、もう帰ることができないと判断し、大玉村に平屋の家を建て引っ越した。

_aaa6428jpgjpgweb安斎さんの広い庭を案内する大内さん。


_aaa6429jpgsumijpgweb安斎さんの家。

 明治43年生まれの安斎さんの父、一永さんも、大内一家同様に下学田開拓団に入植した一人だった。福島県安達郡安達町出身の父は2000年に91歳で死亡。昭和17年頃に満蒙開拓団で下学田開拓団(黒竜江省)に入植。避難中に妻が死亡し、残された幼児が中国人に預けられて残留孤児となった。父はシベリア抑留を経て帰国。いわきの炭鉱で働き、昭和25年に浪江町津島に入植した。昭和57年ごろ、残留孤児の娘の顔をテレビで見て、父が洋子と名づけていたわが子と顔立ちで確認し、親娘が再会し帰国できた。津島で1ヶ月ほど生活し、現在は都内に住む。

 再婚した父の相手(一信さんの母)は大正13年生まれ。避難前は一人で身の回りのことができたが、避難後に体調を崩し、グループホームに入居した。
 一信さんは長男で、男兄弟は5人。末っ子は昭和38年生まれ。造園業を営み、32歳の頃に脚立から落下した事故による脊椎損傷で下半身不随となった。 

 原発事故は南相馬市で買い物中に被災した。家に電話したら大丈夫なので帰宅。13日に避難し、14日には母の実家のある松川町へ避難。その後はアパート、マンションと何度も引っ越した。娘は泣きながら車椅子がOKのアパートを探した。6回目が現在住む大玉村の平屋。妻は6回の引越しでストレスがひどく心療内科に通う
 「津島の自宅の修理の必要はないくらい。一時帰宅してもただ見てくるだけ。自宅はご飯と洗濯さえやってもらえれば何でも一人でできるように改造したので生活に問題はなかった。「車椅子の人はもうどうしようもなくなってしまう。行政も議員も新聞投稿もどれも駄目だった」

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 2013年3月、もう帰れないと判断した。
「車椅子でみんなに負担がかかるので、家内もおかしくなるし、この大玉村ならば野菜を作って家内も落ち着くと決めた。これから先は考えていない。できるだけ早くここに引っ越すことしか頭になかった。すぐに落ち着きたいとあせった。家内が少しづつよくなってきている」

 _8ds2266jpgsumijpgweb安斎さんの庭に歩ツンと咲いていた山野草のリンドウ。観賞する人は誰もいない。

岸チヨさん(85歳)
_aaa3287jpgsumijpgweb岸さんが避難生活を続ける福島市内の仮設住宅。

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 福島県内の別の村から大内さんと同じ開拓団に入植した岸チヨさん(85歳)さんも、福島市内の仮設住宅で避難生活を送る。大内さんの奥さんが岸さんの従妹にあたる親戚関係にある。

 岸さんの旧姓は菅野。現二本松市、旧安達郡上川崎(村)生まれ。昭和17年3月に一家8人、両親と6人の兄弟姉妹で渡満した。12歳だった。第8次下学田開拓団に入植した。

 岸さんの場合は、看護婦だった姉と母が服毒自殺した。「私の姉と母は自殺なんです。姉は向こうで看護婦として診療所で働いていた」。二件長屋で開拓団幹部や医者夫婦など17~18人が一緒に、すぐに死ねる薬とねだったので、薬を姉たちが渡した」という

 猛毒の塩化水銀の昇汞(しょうこう)が配られたと岸さんは話す。死に切れないで苦しむ母に解毒剤を与えようとしたが、母は拒否し、15日間苦しんで死んでいったという。母と姉たちが集団自決しようとした時、岸さんは別のところにいたので命拾いした。

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 岸さんは、避難する移動の貨物車の中で、フランス人形のようにかわいかった少女がロシア兵に強姦され、親はどうにもできなかった光景も見たという。

 帰国は年内だったようで、津島村赤宇木地区の下学田開拓団の人たちが先に入植した地区に入った。昭和29年に営林署で働く男性と結婚し、長女の高校入学に合わせて浪江町中心部に引っ越した。その浪江町の自宅は地震の影響もあり、建て直さないと住めないほど被害がひどく、ネズミ害も目立つという。
 避難生活で骨折も経験し、眼の手術もした岸さんは、仮設でギリギリまで生活し、その後はどこかの施設に入るかどうかを思案している

◯取材後記
 敗戦後、津島村には約380戸が開拓入植した。そのうちの何軒が満蒙開拓団の引き揚げ者なのかははっきりした数字はない。ただ、誰もが多かれ少なかれ、長く続いた戦争の犠牲者でもある。

 国策で進められた戦争に従い、国策で推進された満蒙開拓団に家族で入植し、関東軍に見捨てられ、国家により棄民された負の歴史を、後世にしっかりと伝え続けなければならないのは、不条理が繰り返されないためである。だが、残念ながら、東日本大震災で発生したイチエフの原発事故により、国策により国民に犠牲が降りかかる不条理が、再び繰り返されてしまった。

 ここまで読んでいただいた読者はすでに気づいているだろう。侵略戦争の責任を取るべき戦争指導者の多くが責任を免れたことと、70年後のいま、原発事故の責任者が責任を問われないままに、ずるずると原発行政が事故前に回帰しつつある日本社会には、根深い共通項があることを。
 
 安倍首相が侵略戦争の歴史を改ざんしようとすることと、原発事故など無かったかのように、原発再稼動にまい進する姿勢は実に一貫していることにも読者は気づいている。それは、国のトップを務める資格が欠如していることをはっきりと示しているのではないか。

 前編にあたるPart1はこちらをクリックしてください。


◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
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2015年4月13日 (月)

シンポジウム「朝日新聞問題を通して考える「慰安婦」問題と日本社会・メディア」報告

(写真はクリックすると拡大します)
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 「慰安婦」問題を考える前に、まずこの写真群を見つめてほしい。写真はアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の入口の壁を埋め尽くした、旧日本軍により「慰安婦」とさせられた性奴隷被害者だ。研究者や市民活動家、写真家などにより、戦争中の性奴隷被害体験を名乗り出た女性たちの顔写真。彼女たちの国籍や居住地は中国、韓国、フィリピン、台湾、インドネシア、東ティモール、オランダ、日本など広範囲にわたる。この女性たちは、氷山の一角に過ぎないということも想像する必要もあるだろう。

  拙著「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」に4人の元「慰安婦」=性奴隷被害者を収録しているが、旧日本軍「慰安婦」の実態は性奴隷だったということは否定のしようがない。「慰安婦」問題は、戦時中の重大な人権侵害であり、朝日新聞が削除した吉田清治証言の否定に左右されることもない。日本の植民地支配、侵略戦争による占領政策が生んだ人間無視であり、日本軍将兵も国民も使い捨てた戦争指導者による犠牲を負わされた女性たちということだ。

日本軍「慰安婦」被害者の記憶をつなぐ写真展と映画上映会
 シンポジウムの本題に入る前に、旧日本軍「慰安婦」被害者の記憶をつなぐ写真展と映画上映会が、なかのゼロで開催された(3月19日~25日)。展示された多数の写真を紹介するところから始めたい。

_8ds5040jpgweb中国の性奴隷被害者コーナー


_8ds5003jpgweb海南島の性奴隷被害者コーナー

 主催は写真展&上映会実行委員会、後援は戦時性暴力問題連絡協議会。会場の壁面は、主催者の女性たちが、これまでに韓国、中国、海南島、台湾、フィリピンなどの現地で、日本軍により性奴隷被害者とさせられた女性たちをインタビューした時の写真などで埋められた。◎

_8ds5014jpgweb各国で女性たちに会い、証言を集め、撮影した主催者、スタッフのみなさん


_8ds5005jpgjpgwebフィリピンの性奴隷被害者のコーナー


_8ds5766jpgweb韓国のハルモニ、姜徳景(カン・ドッキョン)さんが、「慰安婦」とさせられたトラウマを癒す一環で描いた、体験を元にした作品(コピー)も展示された。オリジナルは、90年代に、東京YWCAで展示公開された時に見たことがある。日本軍将兵、桜の木、裸の女性に見事に「慰安婦」問題の本質が描かれている。

 韓国済州島の女性を強制連行したとする「吉田清治証言」が全否定されても、「慰安婦」問題全体を否定するものではない、という最低限の合理的な判断が、常識的にできる写真展だった。数名の性奴隷被害者の体験の一部を読むだけでも、旧日本軍「慰安婦」問題の醜い本質がどこにあるのかを、認識できていなかった人にも実感できる場となっていた。主催者の20年以上にわたる、地道な活動の成果は否定のしようもない。

 映画は別会場で日替わりで上映された。私が見たのは、中国山西省の性奴隷被害者を訪ねてインタビューした「ガイサンシーとその姉妹たち」(班忠義監督)と、在日朝鮮人の宋神道さんの、政府に公式な謝罪を要求して提訴する10年間の裁判闘争を描いた「オレの心は負けない」(安海龍監督)の二本。どちらも「慰安婦」問題のの奥深さ、底なしさを見る者に考えさせる素晴らしいドキュメンタリー映画だった。他に9本が上映されたが、私は一日しか見ることができなかったのが残念だった。「ガイサンシーとその姉妹たち」は、班監督が丁寧な現地取材を克明に活字にした340ページをこえる著書を読んでいたので、とりわけ強い説得力で迫ってきた。
_dsc8149jpg宋神道さん。(2008年11月の第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議にて、山本宗補撮影)

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シンポジウム「朝日新聞問題を通して考える「慰安婦」問題と日本社会・メディア」
 ここから本題。4月5日、東京外国語大のプロメテウスホールで、慰安婦報道問題で激しい朝日バッシングが起きたが、「慰安婦」問題の本質についてのシンポジウムが開催された。500席の会場は立ち見が出るほど。予想された妨害もないまま、桜が散り始めた季節の会場は熱気に満ちた。

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主催 呼びかけ人(50音順):内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)・大森典子(弁護士)・川上詩朗(弁護士)・金富子(東京外国語大学教授)・坂元ひろ子(一橋大学特任教授)・田中宏(一橋大学名誉教授)・中野敏男(東京外国語大学教授)・林博史(関東学院大学教授)

 今回のシンポジウム開催の経緯は、その朝日新聞報道がきっかけだ。主催者がこう記している。

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 「昨年8月、朝日新聞に検証記事「慰安婦問題を考える」が掲載されて以来、常軌を逸した朝日バッシング、理不尽きわまる「慰安婦」問題バッシングが繰り広げられています。
 私たち呼びかけ人は、朝日新聞社が10月に立ち上げた第三者委員会のメンバー構成に問題があるとして同社に申し入れをおこない、またその報告書が出されたのを受けて、今年1月22日にも申し入れをおこなってきました。第三者委員会の報告書や朝日新聞社の対応、さらには日本社会の状況にはきわめて憂慮すべきものがあります。
 そうした取り組みの中で、この問題は朝日新聞だけの問題に留まらず、日本社会とメディア全体に関わる問題であることを確認し、広く各界に呼びかけて、歴史学研究者、法律家、メディア関係者の立場から共同でシンポジウムを開催し、社会にアピールしたいと考えました」
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 朝日新聞バッシングと、元朝日記者の植村さん攻撃を憂慮したメディア関係者によるシンポは、昨年秋に続けて開催された。10月15日に開催されたシンポ「朝日バッシングとジャーナリズムの危機」(主催は「創」編集部、アジアプレスインターナショナル、アジア記者クラブ、週刊金曜日編集部ほか。司会進行は篠田博之「創」編集長)も500人以上が集まり盛況だったことは、すでにブログにお伝えした。10人をこえる登壇者の発言も詳しく報じた。この報告と合わせてご覧ください。

 今回は、慰安婦問題や日本の戦争加害の問題を長年研究してきた研究者、それに週刊誌報道やネトウヨによる個人攻撃により、内定していた神戸の大学教授のポストが白紙になるなどの批判の矢面に立たされた植村隆さんも登場する、注目される重要なイベントとなった。

 このブログで紹介する各登壇者の発言などの文責は、山本個人にあることをまずお断りしておきたい。登壇者順にポイントを紹介していきます。

司会進行:中野敏男、金富子(二人とも東京外国語大学教授)
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1:基調報告:林博史(呼びかけ人、関東学院大教授・現代史)
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 林先生は呼びかけ人代表として、安倍政権が登場してからの慰安婦問題の動きについて説明し、昨年、朝日新聞が検証記事を出し、慰安婦問題の専門家が一人も含まれない第三者委員会設置されたことを危惧し、研究者・弁護士の要望書を10月9日に提出したこと、そして第三者委員会の報告書発表を受け、呼びかけ人として朝日新聞に申し入れを行ったことを説明した。詳細な申し入れ内容は配布資料で配られた。

 また、林先生らが、「日本軍「慰安婦」問題の解決をめざし、日本軍「慰安婦」制度に関する歴史的な事実関係と責任の所在を、資料や証言など明確な出典・根拠をもって、提供する」ことを目的で開始した、「Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任」のホームページ上に公開されている。

 この時の要望者のポイント1:1990年代から積み上げられてきた日本軍「慰安婦」問題に関する研究は、吉田清治証言に依拠しない。よって、朝日の吉田証言取り消し記事によってまったく揺るがない。2:朝日の特集記事を根拠に、河野談話の見直しする理由はない
3:第三者委員会の委員に、学術的成果を挙げてきた研究者f一人もいない。女性に対する重大な人権侵害問題なのに、7人の委員中、女性が一人だけのバランスを欠いた構成

・「朝日新聞の慰安婦報道について検証する第三者委員会」への要望者
「朝日新聞の慰安婦報道について検証する第三者委員会」についての研究者・弁護士の要望書を10月9日に提出しました。同日午前中に、呼びかけ人のうち5人で朝日新聞社を訪問し、第三者委員会事務局長と朝日新聞社広報部長代理らに対して、要望書を渡しながら約1時間にわたって、質問をすると同時に要望を伝えました。この時点で、204名のみなさんの署名も渡してきました(その後寄せられた方を合わせて、計237名)。さらに 同日午後2時からは、衆議院議員会館にて記者会見をおこないました。27人のメディア関係者が集まりました。

「慰安婦」報道に関する朝日新聞社第三者委員会報告書と朝日新聞社の「改革の取り組み」に対する申し入れ(2015年1月22日)のご報告
 「朝日新聞への申し入れには、内海、大森、金、田中、中野、林の6人が参加しました。また同時に、歴史学研究会から委員長の久保亨さんが参加されました。~中身のある議論をしたいと考え、編集局長あるいはそれに代わる編集局の方の出席を求めましたが、残念ながら広報部長代理を含め広報部の方しか出てきませんでした」

 この問題は朝日新聞だけではなくメディア全般に関わる問題であり、元朝日新聞記者への脅迫はメディアの問題のみならず大学の学問教育の自由にも関わる問題です。そこで開催されたのがこの日のシンポジウムだった

林博史氏がレジュメにした朝日新聞に渡した申入れ書のポイント。
1:慰安婦問題の本質そのものを否定し、第三者委員会の記事検証という役割から逸脱。
2:女性の人権の視点が欠落。この論点が取り上げられなかった。
3:国際社会に与えた影響についての報告書の結論が間違っている。林香里委員による定量的、客観的な調査の結果が結論として採用されるべきだったが、他の2本の主観的な報告を採用。
4:個別意見の問題点として、北岡委員と波多野委員が、朝日慰安婦報道によって日韓関係がこじれ、和解を困難にしたとする政治的見解を取り入れている事などが、客観的な記事検証といえない。
5:報告書を受けた朝日新聞渡辺雅隆社長の対応は、8月5日、6日の特集内容と比べて大きく後退。

朝日新聞に申し入れた文書はクリックしてご覧ください。

2:歴史学研究者の立場から:松原宏之(『「慰安婦」問題を/から考える』編者、立教大教授)
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「慰安婦制度、あるいは慰安婦は存在しなかったという論点は、公文書など確認できる歴史学研究の観点からは成り立たないことは断言できる」

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・松原氏のポイントの一つは、日常にまで進行する植民地支配の影響抜きに、朝鮮人女性が「慰安婦」にさせられていった構造的背景を理解することは無理がある。戦時の話として限定しまうのではなく、はるか以前からそういう状況が作られていった。さらに、戦後に冷戦構造が終わるまで、「慰安婦」とさせられた女性たちの発言が許されないような社会状況があったことも考える必要があると指摘。
71lkkwexttl松原氏が薦める本

3:法律家の立場から:伊藤和子(弁護士、ヒューマンライツ・ナウ事務局長)
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・韓国の一つの島での「強制連行」に関する一人の日本兵の証言が否定されたことで、朝鮮半島から一人の女性も「強制連行」されなかったといえるのだろうか?
・一つの島での否定により、なぜ強制連行を主張する慰安婦とされた女性たちの証言全てが虚偽だと評価できるのだろうか?
・仮に「強制連行」が否定されたとしても、「甘言、強圧」などの意に反する徴用という実態を否定できるのだろうか?
・[リクルート⇒移送⇒慰安所]での生活という全てのプロセスにおける人権侵害としての実態を否定できるのだろうか?

_aaa9541jpgjpgwen法廷で認定された強制連行=スマラン事件

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_aaa9543jpg国際社会の慰安婦問題に関する評価:クマラスワミ報告とマクドゥーガル報告

_aaa9552jpg国連拷問禁止委員会の日本政府に対する勧告
・締約国による条約上の義務のさらなる違反を防止する手段として、この問題について公衆を教育し、あらゆる歴史教科書にこれらの事件を記載すること。←←伊藤弁護士は国際社会の流れに沿う当然の勧告だが、日本政府は無視し続けていることを指摘。


伊藤弁護士のまとめ:「ウソも100回言えば、真実となるのが今の状況。日本が全体主義に近づいている状況にある。正しいことは正しいと言い続ける必要がある」


4:メディア関係者の立場から:ジャーナリスト 青木理(『抵抗の拠点からー朝日新聞「慰安婦」報道の核心』
著者)
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「誤解を恐れずにいうと、時間との戦いのメディアに誤報はつきもの。オレは誤報などしたことがないと言いきれる人はよほどのうそつきか、仕事をしていないかのどちらか。私にもほおかむりしたい誤報が何本かある。日本に限らないことだと思う。ただし、誤報は訂正し謝罪しなくていはいけないのが大原則。朝日が吉田証言を訂正し、取り消したことが遅きに失したならば批判されて当然」

「朝日新聞という特性もある。日本を代表するメディアがどこかといわれたら、部数では読売かもしれないが、朝日だと思うでしょう。朝日の記者は偉そうな人も多い。実際に紙面に影響力も持っているし、給料も待遇も良いし、取材力もトップクラス。自他ともに認める日本を代表するメディア。朝日がミスを犯した場合、他の新聞よりもことさら批判されるのも止むをえない」


「ただ今回、週刊誌メディアが「売国奴」「国賊」「反日」などという言葉で朝日バッシングをした。「国益を損ねた」と一部の新聞が論評した。ジャーナリズムがメディアを批判するのは構わないが、「売国奴」「国賊」「反日」などとは絶対に使ってはならないというのが最低限の矜持だったはず。それが今回は「国賊」「反日」が平然と飛び交ってしまった」

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「たとえば、イラク戦争で大量破壊兵器があるとして侵略戦争を繰り広げた。しかし、そんなものはなかった。米国の一部メディアがある程度検証し批判したが、日本のメディアは米高官や欧米メディアを喧伝するような形で、山のように大量破壊兵器があるという記事を書いたのに、検証したり訂正したことなど一つもない」

「問題の本質は何か。今回、これだけ朝日新聞がパッシングされたのは、朝日新聞だから、慰安婦問題だから。だからこそこれだけの批判を浴びた」

「知識人の転向はジャーナリズムの転向から始まる」と丸山真男さんは言ったことを引用し、朝日バッシング、植村さんバッシングは、「この国のメディアとジャーナリズムが総転向に入りつつあるという、歴史的事件ではないか」と青木さんは提起した。


5:研究者の立場から:林香里(東京大学大学院教授、朝日新聞第三者委員会委員)
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_aaa9560jpgsumijpgweb_3欧米主要メディアで慰安婦報道を約600本チェックした、その内訳表。

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 林氏は国内メディアも同様にチェック。「国際報道でも国内報道でも、2007年の第一次安倍政権と2012年12月以降の第二次安倍政権以降で報道量が明らかに上がっている。慰安婦報道とは吉田清治氏のことかと思っていたところが、実は安倍晋三氏についての報道なのだとわかった」

_aaa9561jpgjpgweb2007年と2013年のピークぶりから、安倍首相の登場により慰安婦問題が国内、海外での報道が異常に急増していることが明白。

_8ds6135jpgjpgwebjpgweb_3慰安婦に関する記事で引用された公人発言では、安倍首相が圧倒的に多い。第二位が橋下大阪市長。第三位が村山元首相。安倍首相の発言が圧倒的に注目を集めていることがいえる。

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「慰安婦問題は日韓関係が問題だと思っていたところ、必ずしも欧米の報道では、韓国以外の中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダなどの慰安婦だった人が割と頻繁に引用されていることがわかった。」

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「性奴隷(Sex Slave)という言葉は焦点になった。欧米では慰安婦はSex Slaveと言葉が使われ、定着していることがわかる。昨年11月に読売新聞が突然に「性奴隷」という表現を不適切な表現として撤回すると報じたにも関わらず、大きなニュースにはならなかったことに驚いたことを指摘。

・林香里氏のまとめ:「慰安婦報道について、国内議論と国際議論には大きな違いがあることがわかった。なぜこれほどの違いがあるのかは議論され検証される必要があると思った」

◯6:特別発言:植村隆(元朝日新聞記者、北星学園大非常勤講師、名誉毀損裁判原告)
 20分で私の苦悩と日本社会の抱える問題を話すのは厳しい、と笑いを取ってから開始。身振り手振りも豊かに、壇上を行ったり来たりしてのジェスチャー交えた話しぶり。普段から大学生を飽きさせない講義の工夫を彷彿とさせる印象を強く受けた。
_8ds6294jpgjpgweb植村さんを標的にする一例として、あるヘイトスピーチ本が植村さんをモンスター扱いにし、大学に抗議することを指示する内容の漫画をスクリーンで紹介。「植村隆は万死に値する」とか、犯罪を誘発するような内容だと批判。韓国の日本軍「慰安婦」名乗りで第1号となった金学順(キム・ハクスン)さんに関する署名記事を書いたことの経緯や、朝日以外の同業他紙も同様に金さんの記事を熱心に書いた事実を指摘した。

・植村さんの話のポイントは、1:故吉田清治証言の記事は1本も書いていない。2:旧日本軍「慰安婦」に関する記事は、韓国で元従軍「慰安婦」を名乗り出た最初の金学順(キム・ハクスン)さんについての署名記事を2本書いただけ。3:当時の韓国では、「挺身隊」は「従軍慰安婦」を指した。4:植村さんの朝日の記事の後に、産経も読売も金学順さんを直接取材し、同様の内容の「慰安婦」報道をした。北海道新聞も同様の記事を書いた。5:キーセンと書かなかったのは、キーセンは元々は芸者になるための学校で、「売春婦」ではないからと解説した。

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「産経新聞も91年に金学順さんを取材して、北京に強制連行されたと書いている。被害者に寄り添った記事なんです。読売新聞も同様に「挺身隊」を使った記事を書いている。キーセンとは80年代は韓国の売春観光を指したのですが、元来、キーセンとは韓国の芸者さんのことで、金学順さんは学校に行っていただけ。

 産経も読売も私をバッシングしている代表的新聞ですが、90年代は被害者を取材して被害者に寄り添った記事を書いている。共通しているのは、金さんが意に反して日本軍の性の相手をさせられたということ。90年代はそういう時代でした。金学順さんというカミングアウト第1号が登場し、勇気ある声が世界に伝わった。北海道新聞の記者も「女子挺身隊」の美名の元にと書いた。

 にもかかわらず、私が「挺身隊」ということばを使ったからと標的にされている。これはフェアではない。ジャーナリズムではない。当時のことを今の記者は全く省みないで私を標的にしている。天に唾をはくようなものです」

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 私が朝日記者で署名記事で書いたが、吉田証言は私は一本も書いていません。朝日のリベラリズムへの嫌悪。朝日新聞は戦後は侵略戦争に反対し、アジアとの和解、共存を大きな言論の柱にしたのは事実です。それが好きで私は朝日に入った。

「確かに朝日は恵まれた大きな組織だが、私に関する報道はフェアではない。家族、大学にまで不当で激しい攻撃。私をバッシングするということは、金学順さんをバッシングするということです。被害者の彼女たちの証言が信用できないとか、きちんと聞こうとしない。こうした異常な報道で、世界の常識とかけ離れた大きな報道をしている。慰安婦問題の解決の大きな障害になっていることに気づかないといけない」

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「みなさん、私は捏造記者ではありません。不当なバッシングには決して屈しません」
(会場から大きな拍手)

_aaa0074jpgsumi植村さんを応援する資料集。編集発行は植村応援隊。500円。
 植村さんが朝日紙上に書いた日本の金学順さんの記事から始まり、週刊誌や新聞報道による植村バッシングの内容、北星学園大学への脅迫の内容と経緯などが網羅されている。
 今年初め、植村さんが西岡力氏と週刊文春を名誉毀損で告訴した訴状、櫻井よしこ氏と新潮社などを名誉毀損で訴えた訴状も付いている。
 
 植村さんの書いた2本の署名記事を徹底的に攻撃し、植村バッシングすることで朝日新聞自体を総攻撃する、極端に政治的な動きの中での、植村さんバッシングであることがよくわかった発言だった。


◯7:質疑応答(一部のみ)
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・林博史氏:日本のメディア、知識人とか研究者のあり方を考えるとき、「パク・ユハ現象(筆者注は質疑応答の末尾に)」をどう考えるのかは重大な問題。戦後、革新勢力、護憲派を含め、植民地主義の問題を理解してこなかったという致命的欠点が、彼女の議論が受け入れられてしまうのというのが今の日本の状況だという問題意識を持っている。「慰安婦」の平均年齢は25歳などという、根拠のないデータを出してまで、なぜ彼女は日本を弁護するのだろうか。

 20年の取り組みの中で韓国の運動も変わってきている。日本に対して主張するだけではない普遍的な女性の人権問題という視点を持ってきている。安倍政権が20年来の研究成果、見つかった公文書などをまったく無視してしていることと同じだ。日本人が植民地主義の問題を明らかに理解していないことが、否定派の攻撃が容認されてしまうことにつながっている。

・青木氏:「政権がこれほど公然と露骨にメディア介入したことは戦後初めてだ」「メディアの人間は震え上がったのではないか。これほど徹底的にやられるのかと」「メディアが政権とファイティングポーズを取ろうとする当たり前の姿勢だが、安全運転をしているところは何も言われない。さらに萎縮や自粛が進行する」

・植村氏:「どこの新聞社にも慰安婦問題に飛び込もうとする記者がいたのです。被害者を直接取材した産経の記者も読売の記者も署名記事じゃないから、私のようにどこまでも追いかけられない」
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・(筆者注)パク・ユハ現象とは?
 パク・ユハ氏(朴裕河)氏が2014年に朝日新聞社から「帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い」を出版し、日本の知識人が高く評価していること。朝日紙上でも特集された。
 パク・ユハ氏(朴裕河 @parkyuha) のプロフィール(アマゾンから引用)
 1957年、ソウル生まれ。現在、世宗大学校日本文学科教授。慶應義塾大学文学部を卒業後、早稲田大学大学院で日本近代文学を専攻、博士号取得。韓国に帰国後、夏目漱石、大江健三郎、柄谷行人の翻訳など、日本近現代の文学・思想を紹介。『和解のために―教科書・慰安婦・靖国・独島』で第7回(2007年度)大佛次郎論壇賞を受賞)
 本人のfacebookへの投稿<帝国の慰安婦ー植民地支配と記憶の闘い>要約からの矛盾極まる部分を引用しておきたい。いったい彼女は朝鮮半島の「慰安婦」とさせられた女性たちの証言を否定しようとしているのか、何なのか?「日本軍は詐欺や誘拐によって連れてこられた場合返したり、別の就職先を斡旋するように業者に指示したケースがあり、軍として詐欺や誘拐を組織として容認したとは言いがたい。それでも、日本が宗主国として、植民地の女性を差別と強姦と搾取の対象にしたのは間違いない」
              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◯7:大森典子弁護士閉会のことば
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「今の日本社会の現状が浮き彫りになったと思います。日本社会が世界から孤立し、孤立していこうと向かう先は非常に危険なかつての戦争ではないかと。これにどう闘うか、次のステップにしたい。ありがとうございます」
_aaa1330jpgsumijpgweb大森弁護士の著書「司法が認定した日本軍「慰安婦」」(かもがわブックレット、600円)手軽な資料になります。

◯まとめの代わりに、集会の最後にアピールとして会場に呼びかけた、「植村応援隊事務局長・今川かおる」さんの訴えが、安倍政権登場後の日本社会の危機的状況を的確に言い当てているので、今川さんの訴えを以下に引用したい。

「植村さんに関わる理由が二つあります。植村さんに起こっている非難、攻撃は根拠のない言いがかりだからです。私は怒っています。一人の市民としてこの植村問題を見過ごすことができませんでした。いまあちこちの自治体が、憲法をテーマにした集会の名義後援を断るようになりました。原発震災の被害者がいないかのように政府は再稼動に舵を切りました。沖縄で日々起きていることもそうです。
 すべての根っ子は同じだと思います。ここで押し返さなければ、やがて私たちも植村さんと同じように理不尽な闘いを強いられることになると思います。専門家だけに任せていてはいけないと思います」


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2015年4月 5日 (日)

福島県浪江町津島~原発から20キロ以遠の帰還困難区域と開拓入植者~Part1

(写真はクリックすると拡大します)

 原発事故による棄民と、70年前の敗戦で国と関東軍により棄民された開拓者が重なる姿がくっきり浮かびあがるのが福島県浪江町津島地区だ。複雑な部分もあるので、二回に分けて伝えたい。

 浪江町は原発事故により全町が強制的に避難させられた。すでに報じられているように、政府や県、東電などからの情報なきままに、浪江町民は緊急避難した先で高濃度の放射性物質を浴びる不運を負わされた。ここまで逃げれば大丈夫だろうと、一時的に避難したのが原発から20キロ以上北西に離れた津島地区だった。テレビの人気番組のDASH村(ダッシュむら)があったのも津島地区である。津島地区から主な避難先となった二本松市の男女共同参画センターでさえも、当初は空間線量が9マイクロシーベルト(3月16日)あったほどだ。それは、たまたま3月16日に取材していたからわかったことだが。

_dsc8082jpgweb浪江町から大型バスで二本松市の男女共同参画センターに到着早々に、防護服のグループによってスクリーニングを受けている浪江町の住民。(2011年3月16日)

_aaa5128jpgjpgweb津島地区の始まりとなる国道114号線の昼曽根トンネル手前の検問所。イチエフから半径20キロに相当する場所。20マイクロシーベルトまでしか測定できない線量計が簡単に振り切れた。文科省のモニタリングポストの測定値から、少なくとも40マイクロシーベルトを上回る線量があった。深い谷間が始まるこのトンネルから津島地区にかけて、線量が一段と高くなった。(2011年4月末撮影)

 この時、警備をしていたのは神奈川県警だが、取材後に東京に戻ってから神奈川県警に電話して、無防備すぎるのではないかと機動隊員を心配する指摘をした。その時には、すでに交代して現場にはいませんという回答だった。6月に再びここに来てみると、検問所は線量がはるかに低い、同じ津島の原発から約25キロくらいの場所に移動されていた。つまり、事故直後、明らかに線量が高すぎる場所で、若い機動隊員たちが任務を強要されていた。

_aaa6512jpgjpgweb8マイクロシーベルト以上(2015年3月10日撮影)


 2013年4月、警戒区域再編後、浪江町は「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」、「帰還困難区域」に3分割されたが、津島地区は帰還困難区域に指定され、浪江町でもっとも線量が高止まりの地区であり、山間部でもある。

 この津島地区は、1956年(昭和31年)に当時の津島村・大堀村・苅野村が浪江町に合併して現在の浪江町となった。戦後の津島地区の変貌を物語る開拓碑には次のように刻まれている。(文言は原文のまま。句読点のない碑文のため、読みやすいように句点を入れた)

 「昭和二十年八月、大東亜戦争の終結により 民生安定と食糧増産の必要上 国内緊急開拓事業が国の重要施策に沿い 戦災引揚者二男三男が新農家創設すべく 津島の未墾の山野(主として国有地)に裸一貫 陸続として入植 其の戸数三百八十余戸にのぼり 開拓行政の適切な施策、上部系統団体の指導を受けつつ 昭和23年10月、津島開拓農協組合を組織し~~

 あらゆる悪条件を克服 四十年を経て 漸し茲に新しい開拓農家の基を礎き 肥沃な美田畑林千余町歩が拓かれ~開拓四十年 苦闘の歳月を思い開拓者同志の協賛と地域の特別の御厚情により 茲に津島開拓記念碑を建立す

 昭和五十九年五月二十七日 津島開拓記念碑建立委員会 撰文 大塚仙吉」
_8ds4195jpgjpgweb津島開拓記念碑
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関場健治さんの一時帰宅(3月10日)
_8ds4857jpgjpgweb避難生活で6度引越し、一時は雪深い会津坂下町に中古住宅を購入して生活していた関場健治・和代夫妻。二人は50代後半。(2014年3月)

 関場夫妻は、この後に親元を離れている3人の子どもたちが住む茨城県日立市に引っ越した。3月10日、関場さんの一時帰宅に同行した。突風を伴う風雨が吹き荒れた翌日は、風は冷たいが快晴だった。

_8ds4041jpgjpgweb開通されたばかりの常磐道富岡IC~浪江IC間を初めて走った。空間線量がもっとも高い場所に電光掲示板が設置され、5.2マイクロシーベルトを表示していた。大熊町と浪江町の境付近で、イチエフの排気塔などが肉眼でも遠望できる辺りだ。

この日は、健治さんだけが一時帰宅した。「津島は浪江のチベットとかチロリン村と呼ばれた」と健治さん。

_8ds4052jpg放流されて雨水もたまっていない大柿ダム。原発事故前は浪江町、南相馬市などの農業用水源となっていた。

_aaa6287jpgjpgweb関場さんの家は、熊の森山入り口の看板出ている場所が入り口で請戸川にかかる橋を渡った川の反対側にある。水量豊かな請戸川の隣に建ち、近所には一軒の家も見えず、自然環境は抜群だ。
_aaa6283jpgjpgweb看板の脇にあるベンチには、原子力規制委員会と書かれた赤いテープがバツ印に貼られていた。定期的に測定する放射線量のモニタリングポストとなっているのだろう。ベンチに置いた線量計は12マイクロシーベルトを示した。

_aaa6326jpgjpgweb請戸川の左手にあるのが関場さんの家。請戸川の河口が大津波で多数の犠牲者が出た請戸港になる。

_aaa6289jpg庭先は10マイクロシーベルトをこえていた。

_aaa6293jpgjpgweb地震により傾き、サルやイノシシが自由に出入りするようになったため、家の中は滅茶苦茶。
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_8ds4095jpgjpgwebベッドの置かれた広い部屋。

_8ds4069jpgjpgweb室内はどこで計っても、屋内とは思えない6~8マイクロシーベルトの高線量を示した。

_8ds4165jpgjpgweb_2自宅裏は飲料水になりそうな澄んだ水が流れる小川。杉林の枯れ枝が積み重なるせいか、15マイクロシーベルト前後ある。奥さんの和代さんは避難先で、「裏の小川ではサンショウウオも獲れたし、庭の池にはモリアオガエルが住んでいた。おいしいキノコの宝庫で、マツタケの産地だった」と懐かしんでいた。


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_aaa6315jpgjpgweb人気がないために、イノシシが畑だった場所や地中に埋めた盆栽を荒らしているという。「山の木を薪にして焚いた風呂が最高だった」と健治さん。

_8ds4111jpgjpgweb関場さん夫婦には、一男二女がいた。3人ともに茨城県で生活している。離れの二階が、三つに分かれた子ども部屋になっていた。
_8ds4141jpgjpgweb三人の子どもの育児記録を見つけた関場さん。持ち帰ることにした。
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 「帰れるものなら帰りたい。でもそれは無理だとわかっているので、新しい場所で生活し直すしかない」(健治さん)

_aaa6360jpgjpgweb原発事故から4年。もはや、水田も畑も荒野と化しつつある津島地区
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戦争と津島住民
 関場さんの父・武さん(大正13年生まれ)は16歳前後で満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し、茨城県内原にある青少年義勇軍訓練所を経て満州の義勇軍開拓団に入団。ハルピンにいたが、その後に現地召集され、ソ連参戦後にシベリア抑留となり、幸運にも帰還できた。平成15年に亡くなったが、生前に感謝状と銀杯が政府から送られてきただけだったようだ。

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 父・武さんの長兄の今野一男(いちお)さん(大正11年生まれ)は、健治さんの伯父にあたる。召集令状を受けてから甲種合格で、昭和17年(1942年)に中支の部隊へ送られた。一男さんは今年2月に92歳で亡くなった。(今野家は津島村赤宇木小阿久登地区の旧家)

 一男さんの戦争体験の一部を、昨年3月に避難生活を続ける古い借り上げ住宅で伺ったことがある。その時の話で、視力が良く射撃の名手だったと話した。背中合わせで戦ったいた時に、戦友が戦死したという体験談とともに、中国人男女を捕まえ、10数人の髪の毛を縛り、火をつけて殺害したという話も出た。これには、隣で聞いていた奥さんもビックリしたようだった
_8ds4923jpgjpgweb今野一男さんと奥さん(2014年3月、郡山市で撮影)

 奥さんの和代さんの父・志田市治さん(大正11年生まれ)は、田村市船引町出身で、10代で志願入隊し日中戦争に駆り出され、負傷。戦後に開拓入植として津島村白追地区に入った。衛生兵の知識があり、身体には銃弾の破片が残っていたそうだ。母は原発事故前に亡くなっていたが、市治さんは避難して3年目の2014年に病死した。震災関連死と認定されている。
_aaa4437jpgjpgweb避難後に入院中に撮影された和代さんと父・市治さんの写真。

「戦争ほど馬鹿馬鹿しいことはない。お国のためにとはいえ、人殺しをさせられた」と、父が口癖のように話していたと和代さんは言った。

_aaa6451jpgjpgweb70年前に敗戦となったアジア太平洋戦争で戦没した者たちの名前が彫られた津島招魂碑。約100人の名が確認できる。(建立は1964年=昭和39年5月)

閉鎖された飯舘村との境・国道399号線
 _aaa6411jpgjpgweb鉄骨バリケードで封鎖された浪江町と飯舘村の境

G00713jpgweb空間線量は20マイクロシーベルトを超えていた。(2011年4月下旬)
_aaa6405jpgjpgweb現在でも6マイクロシーベルトを越える。(3月10日)

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 関場さんの案内で、津島地区の一番奥辺りの高台からイチエフの建屋が遠望できる場所に立った。望遠レンズで撮ると、建屋らしきものが確認できた。つまり、イチエフの北西方向に向かう谷筋が津島地区だということがわかる。津島の山間を抜けると、飯舘村長泥地区となる。飯舘村で唯一の帰還困難区域だ。津島地区は、普段から海風が抜けていくルートになっているということだろう。事故を起こした原発からの距離に関係なく、放射能に深く汚染されてしまった深い悲しみを実感する。

◯取材後記
 浪江町の人口は原発事故当時、約22000人。請戸漁港のある平坦な海側から、この山間部に集落が点在する津島地区までは東西に広い。国道114号線は福島市から浪江町中心部に至る幹線道路だが、津島地区はほとんどが森の中を抜ける一帯で、支道に入ってみないと集落があることさえも気づかないほどだ。戦後の開拓入植前を想像すると、森と山しかなかったような山奥だったことが伺える。70年の人生を費やした開墾の成果を、一瞬にして奪い取ってしまうのが原発事故だということを想像してみてほしい。そこには、戦争に翻弄された個々の人生史があることも。

(注)請戸港から中心部の汚染状況や被害などのルポはこちらのブログ記事がおススメ。避難区域再編後の地図を見ると、津島地区全体もわかる。原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前後の人動物模様。Part 5・浪江町編(2013年4月)

 Part2は、戦争中に満蒙開拓移民として、日本軍が勝手に占領して統治した満州(中国東北部)の開拓団に一家で入植し、ソ連参戦後の混乱の中、関東軍に棄民され、親兄弟をたくさん失った津島住民を取り上げる。


◯取材活動支援のお願い
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