福島県浪江町津島~原発から20キロ以遠の帰還困難区域と開拓入植者~Part2
(写真はクリックすると拡大します)
Part2は、国策に乗り、福島県から満蒙開拓団に入植した県民が、たくさんの家族を失うというソ連参戦後の悲劇をくぐりぬけ、辛うじて帰国し、津島に開拓入植し。今度は原発事故により、我が家を追われ、開墾した大地に帰って生活することができなくなった具体例を紹介したい。
大内孝夫さんは家族8人を失い、岸チヨさんは母と姉を失った。
その前に、放射線量の変化を写真で見てみたい。もちろん、私が写真で紹介する空間線量は、「正しい」というよりも大まかな「目安」だと思ってほしい。放射線量は正しいことにこしたことはないが、政府行政機関による情報が全くない緊急時に、線量計でその場の空間線量を測定し、知らせることの意味は重要だ。SPEEDiの情報も隠し、放射線量をできるだけ多くのポイントで測定し公開するのが任務であるはずの文科省が、空間線量を公開しなかった原発事故の初期、そして、福島県各地にモニタリングポストが設置された後も、専門家や取材者、一時帰宅した住民などが測定する線量は、大きな目安として有効だというのが私の捕らえ方だ。
◯空間線量の変化(2011年と2015年)
津島小学校、約12マイクロシーベルト。2011年4月26日撮影
門馬牧場前、9マイクロシーベルト強、2011年6月25日撮影
399号線の下り坂中間辺り、20マイクロシーベルト以上で計測不能、2011年4月26日撮影
同、3.7マイクロシーベルト、2015年3月10日撮影
399号線と114号線の交差点近く、10.2マイクロシーベルト、2011年4月10日撮影
◯大内孝夫さん(82歳)
大内夫妻が避難生活を送る二本松市の仮設住宅。
浪江町津島に自宅がある大内孝夫・五月夫婦は、二本松市山中の放射線量の高い、大きな仮設住宅で避難生活を続ける。自宅はイチエフから約23キロも離れているが帰還困難区域だ。
大内さんが8歳の時、現在の二本松市の小集落から一家総出で満州北西部、現黒竜江省の下学田開拓団に入植した。同じ集落から7戸が一緒に渡満。大家族で生活し、広い農地は中国人を雇い、農作業を手伝う苦労は全くなかったという。満蒙開拓団は国策で奨励された。
敗戦の年の春ごろ、父は「根こそぎ召集」により関東軍の通信兵となった。ソ連が参戦する直前の7月に母が出産したが、出産後の腹膜炎で死亡し、赤ちゃんは1週間後に亡くなった。
8月9日のソ連参戦に伴う大混乱で、逃げることを観念した開拓団では服毒による集団自決が起きた。開拓団に男手が無かったのは、関東軍が南方戦線へ移動して兵力が足りなくなった穴埋めをするために、40歳前後の男も含む約20万人の在満州日本人男子を敗戦の年の45年に入ってから緊急召集したからだ。
大内さんは服用する寸前に「飲むのを止めろ」という誰かの声で飲まずに助かったが、自決し家に火をつけ黒焦げになった遺体や、親が子供の首を斬ったケースも見たと話す。
避難生活の途上で、大内さんは祖父と祖母、父の弟、叔母、それに二人の妹の6人が次々と病死。チチハルの学校に300人ほどが収容された時は、生き残ったのは100人足らずだという。一晩のうちに7~8人死んだという。
大内家で帰国できたのは大内さんと弟だけだったが、その弟もまもなく病死した。
「一家でこれだけ亡くなった家はあまりないね。50回忌もやった。津島に入植した親父が一代目とすると、息子が3代目。3代目でこういう原発事故が起きてしまったということだね」
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[山本注:満蒙開拓団の全体像と犠牲者数:
国策に従い全国一の開拓団を満州に送出したのは長野県だ。私の故郷である。「長野県満州開拓史」によると、開拓団27万人のうち、死者75000人、残留者4500人。長野県からは33700人(一般開拓団26332人、青少年義勇軍6942人、勤労奉仕隊ほか467人)が送り込まれ、ダントツの全国一だ。
死者は約15000。死亡率は44パーセントをこえ、死者の5人に1人が長野県出身者である。残留者は884人。送出県二位は山形県で17000人、三位が熊本県で12600人。福島県は四位だ。
集団自決の事例は、名簿から明らかに判断できるのは、哈達河(ハタホ)開拓団(8月12日、146人)、蓼科郷開拓団(8月20-21日、274人)、瑞穂村開拓団(9月17日、110人)などがある。
集団自決はソ連軍や地元住民の攻撃から身を守ってくれるはずの軍隊も男たちもいない中、女や子どもが逃げ遅れる大混乱の中で生じたものがほとんど。死者の大半が女と子ども、老人だ。開拓民の平均像は、30代および40代の夫婦に子ども2-3人の家族が多く、一家の大黒柱だった男たちの帰還率は80%近い。
「長野県満州開拓史」は、開拓団は「関東軍に守られるのではなく、関東軍を守るための配置だった」と開拓団の隠された狙いを指摘している。
安倍首相が英雄視する岸信介元首相は、「満州国」産業開発の実力者として、満州国国務院産業部次長を3年間(1936年-39年)務めた。この時期は満蒙開拓移民第二期にあたり、最も多くの開拓移民が国策に乗り大陸に渡った。山本注おわり]
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一時帰宅した大内さんと大地震にびくともしなかった自宅。2014年10月撮影。
大内さんは、敗戦の翌年に父が復員でき、昭和23年9月に浪江町津島に父子二人だけで入植した。場所はテレビ番組となったダッシュ村の隣の山中。生い茂る松林の開墾が始まった。18歳で大内さんは結婚したが、奥さんが嫁に来た頃は「賽の河原」と呼ばれるほど、人の住みそうにない貧相な一帯だったという。子供4人(3男1女)とも自宅出産。開墾時の苦労話が多々ある。
昨年秋、大内夫妻の一時帰宅に同行させてもらった。二階建ての自宅は、工務店を経営した息子と20年ほど前に建てたがっちりとした作りで、大地震ではびくともせず、いつでも住むことができる状態だった。しかし、庭先の線量は5マイクロシーベルト前後。秋の紅葉で囲まれた自宅に帰って生活することはもうできない。独立した子供たち4人も生活はバラバラとなっている。
◯安斎一信さん
大内さんの自宅の向かいにある広大な敷地には、大小様々な植木が色づいている。植木職人だった安斎一信(63歳)さんの庭だ。安斎さんは原発事故後に、もう帰ることができないと判断し、大玉村に平屋の家を建て引っ越した。
明治43年生まれの安斎さんの父、一永さんも、大内一家同様に下学田開拓団に入植した一人だった。福島県安達郡安達町出身の父は2000年に91歳で死亡。昭和17年頃に満蒙開拓団で下学田開拓団(黒竜江省)に入植。避難中に妻が死亡し、残された幼児が中国人に預けられて残留孤児となった。父はシベリア抑留を経て帰国。いわきの炭鉱で働き、昭和25年に浪江町津島に入植した。昭和57年ごろ、残留孤児の娘の顔をテレビで見て、父が洋子と名づけていたわが子と顔立ちで確認し、親娘が再会し帰国できた。津島で1ヶ月ほど生活し、現在は都内に住む。
再婚した父の相手(一信さんの母)は大正13年生まれ。避難前は一人で身の回りのことができたが、避難後に体調を崩し、グループホームに入居した。
一信さんは長男で、男兄弟は5人。末っ子は昭和38年生まれ。造園業を営み、32歳の頃に脚立から落下した事故による脊椎損傷で下半身不随となった。
原発事故は南相馬市で買い物中に被災した。家に電話したら大丈夫なので帰宅。13日に避難し、14日には母の実家のある松川町へ避難。その後はアパート、マンションと何度も引っ越した。娘は泣きながら車椅子がOKのアパートを探した。6回目が現在住む大玉村の平屋。妻は6回の引越しでストレスがひどく心療内科に通う。
「津島の自宅の修理の必要はないくらい。一時帰宅してもただ見てくるだけ。自宅はご飯と洗濯さえやってもらえれば何でも一人でできるように改造したので生活に問題はなかった。「車椅子の人はもうどうしようもなくなってしまう。行政も議員も新聞投稿もどれも駄目だった」
2013年3月、もう帰れないと判断した。
「車椅子でみんなに負担がかかるので、家内もおかしくなるし、この大玉村ならば野菜を作って家内も落ち着くと決めた。これから先は考えていない。できるだけ早くここに引っ越すことしか頭になかった。すぐに落ち着きたいとあせった。家内が少しづつよくなってきている」
安斎さんの庭に歩ツンと咲いていた山野草のリンドウ。観賞する人は誰もいない。
◯岸チヨさん(85歳)
岸さんが避難生活を続ける福島市内の仮設住宅。
福島県内の別の村から大内さんと同じ開拓団に入植した岸チヨさん(85歳)さんも、福島市内の仮設住宅で避難生活を送る。大内さんの奥さんが岸さんの従妹にあたる親戚関係にある。
岸さんの旧姓は菅野。現二本松市、旧安達郡上川崎(村)生まれ。昭和17年3月に一家8人、両親と6人の兄弟姉妹で渡満した。12歳だった。第8次下学田開拓団に入植した。
岸さんの場合は、看護婦だった姉と母が服毒自殺した。「私の姉と母は自殺なんです。姉は向こうで看護婦として診療所で働いていた」。二件長屋で開拓団幹部や医者夫婦など17~18人が一緒に、すぐに死ねる薬とねだったので、薬を姉たちが渡した」という。
猛毒の塩化水銀の昇汞(しょうこう)が配られたと岸さんは話す。死に切れないで苦しむ母に解毒剤を与えようとしたが、母は拒否し、15日間苦しんで死んでいったという。母と姉たちが集団自決しようとした時、岸さんは別のところにいたので命拾いした。
岸さんは、避難する移動の貨物車の中で、フランス人形のようにかわいかった少女がロシア兵に強姦され、親はどうにもできなかった光景も見たという。
帰国は年内だったようで、津島村赤宇木地区の下学田開拓団の人たちが先に入植した地区に入った。昭和29年に営林署で働く男性と結婚し、長女の高校入学に合わせて浪江町中心部に引っ越した。その浪江町の自宅は地震の影響もあり、建て直さないと住めないほど被害がひどく、ネズミ害も目立つという。
避難生活で骨折も経験し、眼の手術もした岸さんは、仮設でギリギリまで生活し、その後はどこかの施設に入るかどうかを思案している。
◯取材後記
敗戦後、津島村には約380戸が開拓入植した。そのうちの何軒が満蒙開拓団の引き揚げ者なのかははっきりした数字はない。ただ、誰もが多かれ少なかれ、長く続いた戦争の犠牲者でもある。
国策で進められた戦争に従い、国策で推進された満蒙開拓団に家族で入植し、関東軍に見捨てられ、国家により棄民された負の歴史を、後世にしっかりと伝え続けなければならないのは、不条理が繰り返されないためである。だが、残念ながら、東日本大震災で発生したイチエフの原発事故により、国策により国民に犠牲が降りかかる不条理が、再び繰り返されてしまった。
ここまで読んでいただいた読者はすでに気づいているだろう。侵略戦争の責任を取るべき戦争指導者の多くが責任を免れたことと、70年後のいま、原発事故の責任者が責任を問われないままに、ずるずると原発行政が事故前に回帰しつつある日本社会には、根深い共通項があることを。
安倍首相が侵略戦争の歴史を改ざんしようとすることと、原発事故など無かったかのように、原発再稼動にまい進する姿勢は実に一貫していることにも読者は気づいている。それは、国のトップを務める資格が欠如していることをはっきりと示しているのではないか。
◯取材活動支援のお願い
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・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729
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