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2015年4月 5日 (日)

福島県浪江町津島~原発から20キロ以遠の帰還困難区域と開拓入植者~Part1

(写真はクリックすると拡大します)

 原発事故による棄民と、70年前の敗戦で国と関東軍により棄民された開拓者が重なる姿がくっきり浮かびあがるのが福島県浪江町津島地区だ。複雑な部分もあるので、二回に分けて伝えたい。

 浪江町は原発事故により全町が強制的に避難させられた。すでに報じられているように、政府や県、東電などからの情報なきままに、浪江町民は緊急避難した先で高濃度の放射性物質を浴びる不運を負わされた。ここまで逃げれば大丈夫だろうと、一時的に避難したのが原発から20キロ以上北西に離れた津島地区だった。テレビの人気番組のDASH村(ダッシュむら)があったのも津島地区である。津島地区から主な避難先となった二本松市の男女共同参画センターでさえも、当初は空間線量が9マイクロシーベルト(3月16日)あったほどだ。それは、たまたま3月16日に取材していたからわかったことだが。

_dsc8082jpgweb浪江町から大型バスで二本松市の男女共同参画センターに到着早々に、防護服のグループによってスクリーニングを受けている浪江町の住民。(2011年3月16日)

_aaa5128jpgjpgweb津島地区の始まりとなる国道114号線の昼曽根トンネル手前の検問所。イチエフから半径20キロに相当する場所。20マイクロシーベルトまでしか測定できない線量計が簡単に振り切れた。文科省のモニタリングポストの測定値から、少なくとも40マイクロシーベルトを上回る線量があった。深い谷間が始まるこのトンネルから津島地区にかけて、線量が一段と高くなった。(2011年4月末撮影)

 この時、警備をしていたのは神奈川県警だが、取材後に東京に戻ってから神奈川県警に電話して、無防備すぎるのではないかと機動隊員を心配する指摘をした。その時には、すでに交代して現場にはいませんという回答だった。6月に再びここに来てみると、検問所は線量がはるかに低い、同じ津島の原発から約25キロくらいの場所に移動されていた。つまり、事故直後、明らかに線量が高すぎる場所で、若い機動隊員たちが任務を強要されていた。

_aaa6512jpgjpgweb8マイクロシーベルト以上(2015年3月10日撮影)


 2013年4月、警戒区域再編後、浪江町は「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」、「帰還困難区域」に3分割されたが、津島地区は帰還困難区域に指定され、浪江町でもっとも線量が高止まりの地区であり、山間部でもある。

 この津島地区は、1956年(昭和31年)に当時の津島村・大堀村・苅野村が浪江町に合併して現在の浪江町となった。戦後の津島地区の変貌を物語る開拓碑には次のように刻まれている。(文言は原文のまま。句読点のない碑文のため、読みやすいように句点を入れた)

 「昭和二十年八月、大東亜戦争の終結により 民生安定と食糧増産の必要上 国内緊急開拓事業が国の重要施策に沿い 戦災引揚者二男三男が新農家創設すべく 津島の未墾の山野(主として国有地)に裸一貫 陸続として入植 其の戸数三百八十余戸にのぼり 開拓行政の適切な施策、上部系統団体の指導を受けつつ 昭和23年10月、津島開拓農協組合を組織し~~

 あらゆる悪条件を克服 四十年を経て 漸し茲に新しい開拓農家の基を礎き 肥沃な美田畑林千余町歩が拓かれ~開拓四十年 苦闘の歳月を思い開拓者同志の協賛と地域の特別の御厚情により 茲に津島開拓記念碑を建立す

 昭和五十九年五月二十七日 津島開拓記念碑建立委員会 撰文 大塚仙吉」
_8ds4195jpgjpgweb津島開拓記念碑
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関場健治さんの一時帰宅(3月10日)
_8ds4857jpgjpgweb避難生活で6度引越し、一時は雪深い会津坂下町に中古住宅を購入して生活していた関場健治・和代夫妻。二人は50代後半。(2014年3月)

 関場夫妻は、この後に親元を離れている3人の子どもたちが住む茨城県日立市に引っ越した。3月10日、関場さんの一時帰宅に同行した。突風を伴う風雨が吹き荒れた翌日は、風は冷たいが快晴だった。

_8ds4041jpgjpgweb開通されたばかりの常磐道富岡IC~浪江IC間を初めて走った。空間線量がもっとも高い場所に電光掲示板が設置され、5.2マイクロシーベルトを表示していた。大熊町と浪江町の境付近で、イチエフの排気塔などが肉眼でも遠望できる辺りだ。

この日は、健治さんだけが一時帰宅した。「津島は浪江のチベットとかチロリン村と呼ばれた」と健治さん。

_8ds4052jpg放流されて雨水もたまっていない大柿ダム。原発事故前は浪江町、南相馬市などの農業用水源となっていた。

_aaa6287jpgjpgweb関場さんの家は、熊の森山入り口の看板出ている場所が入り口で請戸川にかかる橋を渡った川の反対側にある。水量豊かな請戸川の隣に建ち、近所には一軒の家も見えず、自然環境は抜群だ。
_aaa6283jpgjpgweb看板の脇にあるベンチには、原子力規制委員会と書かれた赤いテープがバツ印に貼られていた。定期的に測定する放射線量のモニタリングポストとなっているのだろう。ベンチに置いた線量計は12マイクロシーベルトを示した。

_aaa6326jpgjpgweb請戸川の左手にあるのが関場さんの家。請戸川の河口が大津波で多数の犠牲者が出た請戸港になる。

_aaa6289jpg庭先は10マイクロシーベルトをこえていた。

_aaa6293jpgjpgweb地震により傾き、サルやイノシシが自由に出入りするようになったため、家の中は滅茶苦茶。
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_8ds4095jpgjpgwebベッドの置かれた広い部屋。

_8ds4069jpgjpgweb室内はどこで計っても、屋内とは思えない6~8マイクロシーベルトの高線量を示した。

_8ds4165jpgjpgweb_2自宅裏は飲料水になりそうな澄んだ水が流れる小川。杉林の枯れ枝が積み重なるせいか、15マイクロシーベルト前後ある。奥さんの和代さんは避難先で、「裏の小川ではサンショウウオも獲れたし、庭の池にはモリアオガエルが住んでいた。おいしいキノコの宝庫で、マツタケの産地だった」と懐かしんでいた。


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_aaa6315jpgjpgweb人気がないために、イノシシが畑だった場所や地中に埋めた盆栽を荒らしているという。「山の木を薪にして焚いた風呂が最高だった」と健治さん。

_8ds4111jpgjpgweb関場さん夫婦には、一男二女がいた。3人ともに茨城県で生活している。離れの二階が、三つに分かれた子ども部屋になっていた。
_8ds4141jpgjpgweb三人の子どもの育児記録を見つけた関場さん。持ち帰ることにした。
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 「帰れるものなら帰りたい。でもそれは無理だとわかっているので、新しい場所で生活し直すしかない」(健治さん)

_aaa6360jpgjpgweb原発事故から4年。もはや、水田も畑も荒野と化しつつある津島地区
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戦争と津島住民
 関場さんの父・武さん(大正13年生まれ)は16歳前後で満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し、茨城県内原にある青少年義勇軍訓練所を経て満州の義勇軍開拓団に入団。ハルピンにいたが、その後に現地召集され、ソ連参戦後にシベリア抑留となり、幸運にも帰還できた。平成15年に亡くなったが、生前に感謝状と銀杯が政府から送られてきただけだったようだ。

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 父・武さんの長兄の今野一男(いちお)さん(大正11年生まれ)は、健治さんの伯父にあたる。召集令状を受けてから甲種合格で、昭和17年(1942年)に中支の部隊へ送られた。一男さんは今年2月に92歳で亡くなった。(今野家は津島村赤宇木小阿久登地区の旧家)

 一男さんの戦争体験の一部を、昨年3月に避難生活を続ける古い借り上げ住宅で伺ったことがある。その時の話で、視力が良く射撃の名手だったと話した。背中合わせで戦ったいた時に、戦友が戦死したという体験談とともに、中国人男女を捕まえ、10数人の髪の毛を縛り、火をつけて殺害したという話も出た。これには、隣で聞いていた奥さんもビックリしたようだった
_8ds4923jpgjpgweb今野一男さんと奥さん(2014年3月、郡山市で撮影)

 奥さんの和代さんの父・志田市治さん(大正11年生まれ)は、田村市船引町出身で、10代で志願入隊し日中戦争に駆り出され、負傷。戦後に開拓入植として津島村白追地区に入った。衛生兵の知識があり、身体には銃弾の破片が残っていたそうだ。母は原発事故前に亡くなっていたが、市治さんは避難して3年目の2014年に病死した。震災関連死と認定されている。
_aaa4437jpgjpgweb避難後に入院中に撮影された和代さんと父・市治さんの写真。

「戦争ほど馬鹿馬鹿しいことはない。お国のためにとはいえ、人殺しをさせられた」と、父が口癖のように話していたと和代さんは言った。

_aaa6451jpgjpgweb70年前に敗戦となったアジア太平洋戦争で戦没した者たちの名前が彫られた津島招魂碑。約100人の名が確認できる。(建立は1964年=昭和39年5月)

閉鎖された飯舘村との境・国道399号線
 _aaa6411jpgjpgweb鉄骨バリケードで封鎖された浪江町と飯舘村の境

G00713jpgweb空間線量は20マイクロシーベルトを超えていた。(2011年4月下旬)
_aaa6405jpgjpgweb現在でも6マイクロシーベルトを越える。(3月10日)

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 関場さんの案内で、津島地区の一番奥辺りの高台からイチエフの建屋が遠望できる場所に立った。望遠レンズで撮ると、建屋らしきものが確認できた。つまり、イチエフの北西方向に向かう谷筋が津島地区だということがわかる。津島の山間を抜けると、飯舘村長泥地区となる。飯舘村で唯一の帰還困難区域だ。津島地区は、普段から海風が抜けていくルートになっているということだろう。事故を起こした原発からの距離に関係なく、放射能に深く汚染されてしまった深い悲しみを実感する。

◯取材後記
 浪江町の人口は原発事故当時、約22000人。請戸漁港のある平坦な海側から、この山間部に集落が点在する津島地区までは東西に広い。国道114号線は福島市から浪江町中心部に至る幹線道路だが、津島地区はほとんどが森の中を抜ける一帯で、支道に入ってみないと集落があることさえも気づかないほどだ。戦後の開拓入植前を想像すると、森と山しかなかったような山奥だったことが伺える。70年の人生を費やした開墾の成果を、一瞬にして奪い取ってしまうのが原発事故だということを想像してみてほしい。そこには、戦争に翻弄された個々の人生史があることも。

(注)請戸港から中心部の汚染状況や被害などのルポはこちらのブログ記事がおススメ。避難区域再編後の地図を見ると、津島地区全体もわかる。原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前後の人動物模様。Part 5・浪江町編(2013年4月)

 Part2は、戦争中に満蒙開拓移民として、日本軍が勝手に占領して統治した満州(中国東北部)の開拓団に一家で入植し、ソ連参戦後の混乱の中、関東軍に棄民され、親兄弟をたくさん失った津島住民を取り上げる。


◯取材活動支援のお願い
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コメント

手七郎の山林を事故の4ヶ月前に購入し、田畑の造成、井戸の掘削も終了し、丸太小屋を雪が融け始めたら建てよう、種まきの準備をしていたらの原発事故。

住民票移転はそれからと考えていたので、住民になれない被害者になってしまった。

そのため、紛争処理センターは、補償について門前払い。最後の開拓者にはなれなかった。皆さんのこれからの健闘を祈念します。

郡山に義父を訪ねて行くと遠くに見える山並みの麓に私が住めなかった手七郎が眼に浮かぶ。悔しさと悲しさがあるのみ。

投稿: 金杉 公夫 | 2017年1月27日 (金) 08:05

金杉さま

辛いお気持ちの投稿ありがとうございます。
「無念」の一言ですね。

津島地区への開拓入植、それだけでも一生かかるところを、
原発事故で我が家、我が里山に帰れず。
賠償の門前払い。むごい話です。

山本

投稿: 山本 | 2017年1月28日 (土) 09:29

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