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2015年1月16日 (金)

戦後70年、大本営の狂気を物語る戦争遺跡:松代地下壕大本営跡

(写真はクリックすると拡大します)

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松代大本営とは?
 松代大本営地下壕跡は、70年前に敗戦となったアジア太平洋戦争を遂行する最高決定機関の大本営(大元帥である天皇を頂点とする最高統帥機関)の狂気を、静かに後世に物語る戦争遺跡で、その貴重さは他に類がない。
 なぜ、「狂気」と表現するかといえば、それは大本営が、日本本土をくまなく空襲する米軍相手に、勝敗は決したにも関わらず、自分たちの延命だけを図っていたことをわかりやすく示しているからだ。

 戦争末期に本土決戦を想定した大本営は、国民も国土も壊滅しようとも、天皇制だけは死守する「国体護持」を狙い、広島と長崎に原爆投下され、降伏するまでの時間稼ぎをした結果の巨大な地下壕群である

 場所は本州の真ん中。長野市松代の地質の安定した岩盤が強固な一帯。壕は碁盤の目のように張り巡らされ、総延長は10数キロ。掘削開始は1944年11月。敗戦の45年8月までの9ヶ月間に、突貫工事で全体の75%が完成したとされる。

 私的に解説を加えると、44年8月にマリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアム島)が米軍に陥落した時点で、日本の絶対国防圏は失われ、対極的には勝負がついた。米軍はこれら3つの島をB29出撃拠点として整備し、日本本土の大空襲は、44年11月から本格的に開始された。松代大本営地下壕の建造が始まったのはこの時期だ。その後の敗戦までの流れを思い出してほしい。45年3月の東京大空襲を皮切りに、本州の主要都市は敗戦までにことごとく焦土と化す。米軍による本土上陸の時間稼ぎのために沖縄戦が戦われ、6月末に終結。そして広島と長崎に原爆が投下され、その段階でやっと大本営は連合軍に降伏したという流れだ。

 マリアナ諸島の陥落から敗戦までの1年間、大本営は松代に地下壕を掘らせて大本営を移動し、地上ではどんな事態が起きようとも徹底抗戦しようとした、戦争の狂気が地下壕跡となっているということだ。

 壕を管理保存する長野市や、保存運動を続ける市民団体などの解説によると、労働者の中心は6500人はいたとされる朝鮮人で、朝鮮半島から強制連行された者や全国から集められた者などが大半を占める。最盛期には、周辺の大人、勤労報国隊や学童などの日本人を含め、一日1万人が働いていたとされる。

 現在、一般に公開されているのは、イ号(象山)、ロ号(舞鶴山)、ハ号(皆神山)と三ヶ所で掘られたうちの、象山(イ号)地下壕。象山地下壕は総延長5.9キロあり、そのうちの500mが公開されている。写真の壕は、全て象山壕のものだ。広い区間は、幅4m、高さ2.7mもある。

 イ号は政府機関、NHKと中央電話局が移転予定で、ロ号が天皇御座所と大本営の移転先、ハ号は食糧倉庫の予定だったとのことだ。

 松代大本営地下壕は、70年前とまったく変わらずにそのまま残されている。物言わぬ侵略戦争の生き証人そのものだといえる。

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ボランティアで見学ガイドを務める「松代大本営の保存をすすめる会」の小林さん。象山壕に入る前に、松代大本営が掘られる戦争の経緯なども含め、概要を説明してくれる。

_aaa9965jpg象山壕の入口


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_8ds8908jpg削岩機の先端のロッドが岩にめり込んだままの場所で説明する小林さん。

見学できるのは500mの区間だけだが、岩盤の固さ、広いこと、横穴が縦横に掘られていることが十分に実感できる。

 いったい、どうやって、たった9ヶ月で5.9キロも掘ることができたのかと思うと、とても人間業とは思えないほど説得力を感じることだろう。戦争末期の食糧難のとき、国民の命も財産も、将兵の命もまったく顧みることのなかった大本営が、逃げ出すこともできない朝鮮人や、勤労動員を拒否できない日本人にどれほど苛酷な使役労働を強いていたのかは、想像にかたくないと感じるほかはなかった。

 松代大本営地下壕は、大本営の狂気が産み落とした負の戦争遺跡そのものだ。

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使役労働の主体となった朝鮮人労働者
_8ds8978jpg_2壕内には、朝鮮人労働者が残した文字や写真があり、非公開部分にある文字が、そのままの大きさで展示されている。崔小岩(チェ・ソアム)という朝鮮人労働者の顔写真を見せながら、朝鮮人労働者の置かれた労働環境について説明する小林さん。

 ちなみに、「大邱」(テグ)は崔さんの出身地に最も近い都市名。

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朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑は、象山壕入口の右脇に建つ。
_aaa9981jpg石碑の裏側には建立の理由が日本語とハングルで刻まれている。

「戦後五十年を期して、松代大本営の建設のために強制連行され、苛酷な労働を強いられて亡くなられた多くの朝鮮人犠牲者を追悼し、過去の戦争・侵略・加害を深く反省し、友好親善と恒久平和を祈念してこの碑を建立する  1995年8月10日 
松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑建立実行委員会」

ちなみに、「碑銘 半田孝淳謹書」とある半田師は、現在は天台宗の最高地位である座主となっている。当時は上田市近郊にある別所温泉の天台宗寺院住職にあったと思われる。

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石碑の説明文は英語、日本語、ハングルで書かれている。下の写真は、日本語部分のみを抜き出し、読みやすく画像調整した。
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 地下壕掘削などの中心的役割を果たしたのは、当時植民地化の朝鮮(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)からの多くの強制連行者を含む約六千人の人々であった。

 その工事は、厳しい監督下での昼夜兼行の強制労働で食料も乏しく、発破や落盤の事故、栄養失調で死亡したり、逃亡した者も少なくない。さらに自殺したり待遇改善を要求して射殺された者もおり、犠牲者は三百人とも推定されているが千人という説もある」

_aaa9972jpgjpg20102010年8月10日に追加設置された解説板。

「この工事での死者数は少なくとも100人から200人前後ではなかったかと推定されるに至った」と、犠牲者数に若干の訂正がされている。
「住民にも強制的な立退き、土地収用、病気蔓延の被害があった事も明らかになった」とも補説されている。

_aaa0004jpgsumi恵明寺の墓地にある通名中野次郎さんの供養塔。中野さんの遺骨は2005年に韓国の「望郷の丘」に移葬されたことは、上の補説板に記されている。

たった一人の証言者、崔小岩(チェ・ソアム)さん
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 戦後も松代に住み続けた崔小岩(チェ・ソアム)さんのお墓は、清水寺(せいすいじ)の墓地にある。奥さんの「田辺」性の墓石が建っている。松代大本営地下壕に労働者の一人として従事した崔さんは、1991年3月17日に亡くなった。71歳だった。
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Photo「松代大本営の保存をすすめる会」が編集発行した、崔さんの聞き取りを丁寧にまとめた貴重な本。発行は1991年11月。
 
・本から崔さんの体験をかいつまんで紹介する。

 崔さんは、慶尚南道の小さな集落で生まれ、家は貧しい小作農だった。創氏改名による通名は催本を名乗った。昭和13年(1938年)ごろ、16歳のとき、日本で土木工事現場で働く兄を頼って日本に来た後、長崎県の炭鉱労働から始まって、大阪、名古屋、静岡、北海道、青森、松島、塩釜、仙台などの飯場や炭鉱労働をしてわたり歩いたのち、昭和19年(1944年)10月、飯場頭にすすめられるままにたどり着いたのが松代での地下壕掘りだった。崔さんの場合は、強制連行ではなかった。若干の賃金も受け取っていた。しかし、労働の実態は半ば強制労働と変わらない

 崔さんは、松代の現場が気に入らなければ、逃げ出して他に移っていけば良いと、楽観的に考えていたが、松代はそれまでと異なった。逃げ出そうにも逃げることができなかったという。最も切なかったこととして、食事のことをあげている。食事はこうりゃんが7割米3割で大豆が少し入ったご飯。おかずは塩だけという内容で、年取った労働者が栄養失調で50~60人くらい死んだと語っている

 朝鮮語の私語も禁じられ、崔さんは口から血を出すほどにこてんぱんに棒で叩かれ、地下壕掘削を請け負った西松組みの現場監督官らによって制裁を加えられ、二度目のリンチで痛めた腰が持病となっで戦後に苦しんだと話す。逃げて捕まった朝鮮人は、見せしめで拷問され、姿が見えなくなった者もいたという。宿舎は雪が吹き込み、布団はボロボロのワラ布団で、寒さがこたえ、自由を奪われた状態は、「豚箱に入れられたようなもの」「カゴに入った鳥」だったと回想している。

 崔さんは発破の仕事もかなりやったと話している。発破は岩に穴を開けてダイナマイトを仕込むため、事故がつきものだった。発破で朝鮮人労働者4人が粉々に吹き飛んだ現場も見たという。一人の首が飛んで岩に刺さっていたと述懐もする。

 朝鮮人と日本人の労働の差別もはっきりしていたという。日本人がサボってタバコを吸っていても、問題にならないが、朝鮮人の場合は、現場監督の手がすぐに飛んでくるか、後でしたたかに痛めつけられるのが普通だったという。

 崔さんは、西松組の監督や用心棒が利用する朝鮮人「慰安婦」を置く慰安所があったことも話している。

 敗戦となって、西松組の所長は責任を逃れるために逃げ出し、倉庫には米が腐るほど備蓄され、地下足袋も、手ぬぐいもタバコも積み上げられていたと話す。本来は労働者に配給されなければならないものが隠匿されていたということだ。

 戦後、強制連行されてきた朝鮮人の多くや、崔さんのような自主渡航者も多くが故郷へ帰還する中、崔さんは松代に留まった。日本人女性と結婚しtげ家庭を持ち、4人の子どもに恵まれた。発破や掘削作業で塵が充満して5~6m先が見えない労働環境特有の病気になっていた。戦後に信大病院で検査してもらったら、「塵肺」だと診断されている

 地元の高校生たちの質問に答えて証言を何度もした崔さんは、こう話していた。 
「戦争なんて、勝っても負けてもいいことなんか全然ないんだ。若い人はそういうことが二度と起こらないように勉強してもらって、やってもらわなければ辛いです」

 崔さんが地元の中学生に向かってこう話したことも記録されている。
 「私ひとつ、みなさんに言いたいのは、朝鮮人にしろ、日本人にしろ、アメリカ人にしろ、ただ顔かたち、言葉、それだけで、みんな変わらないですよ。ただ、もう少しね、そういうのを考えてくれればよかったと。これは、ずっと考えていたね」

長野市による説明板の「強制的に」書き換え問題
・信濃毎日新聞社説(2014年10月22日からの引用)
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 説明板は、市が1990年に壕の一部の一般公開を始めた時に設置した。建設の実態について「延べ三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され」と書かれていた。
 その「強制的に」の部分がテープで隠されているのが今夏、発覚。市が、外部から「朝鮮人の労働は強制ではなかったのではないか」との指摘を受けて、テープを貼っていたことが分かった。深い議論のない安易な対応だった。
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Photo_2説明文書き換え前の看板。(ネットから借用)

Photo_3説明文の「強制的に」を隠した看板(昨年11月に上田市の方が撮影)

 (ちなみに、この説明文書き換え問題を、慰安婦問題はなかったことにしたい産経新聞は、見直しに賛成する視点の記事を書いている)

◯取材後記
 松代大本営地下壕建設に関わる朝鮮人労働者の問題の本質はどこにあるのか。それは、「強制的に」連行されたという記述を改ざんしたとしても揺るがない、半強制的で奴隷状態に等しい苛酷な労働実態にある。長野市が管理保存する地下壕は、昼夜を問わない突貫工事を朝鮮人と日本人に強要した結果を如実に物語る。朝鮮半島からの自主渡航者であったか、強制連行による者であったかを問うこと自体が無意味だということだ。

 戦中に勤労動員され軍需工場などで働いたことのある戦中派の体験談で、誰一人として動員先での労働のを楽しいものだったとして記憶している日本人に会ったことがない。ましてや、日本の植民地下に置かれ、表向きは「日本国民」として扱われたとしても、「朝鮮人」と蔑視された朝鮮半島の働き手には、北海道や全国の炭鉱労働などのさらに厳しい強制労働の現場が待ち受けていた時代だ。


 「慰安婦」問題も同じだが、「強制的に」連行されたかどうかを問う前に、朝鮮半島は日本の侵略戦争の結果、植民地下に置かれていた史実を無視して戦争中の史実を語る、大いなる間違いに気づく必要があるのではないか。

 象山壕入口脇に建つ「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」に刻まれた、建立の目的は、その点に曇りのない素晴らしい石碑だといえる。長野市による説明文の「改ざん」などがあっても、まったく動じないという意味で、ほっとする慰霊碑でもある。まだ現地を見ていない方、ぜひ一度お出かけください。

_8ds9081jpg今回の取材で同行した韓国の映像ジャーナリスト、安海龍(アン・ヘリョン)さん。ハングルの説明文が彼にはありがたかったようだ。

◯追記(1月19日)
 長野市の友人が市に情報公開請求し、市から友人に届いた公開資料を見せてもらった。
今回の説明文改ざん問題は、8月8日の信毎で報道されたことがきっかけだが、
①「強制的に」を問題視する苦情が2年前に寄せられていた。
②信毎の記事後、長野市に50件弱の意見がメール、電話、はがきなどで届いたこと。
③このうちの10件は、「強制的」の改ざんに明確に反対意見。また、「強制的に」を削除する意見の人は、「他の軍需工場・炭鉱と何ら変わらず、国の存亡の危機に国民全体でがんばったに過ぎない」との意見を送っている。

 私の視点から、強く同感する方の意見の一部を紹介しておきたい。
 「国民も朝鮮の人々も、否応なしに戦争に駆立てられたものであり、動員は日本国民および朝鮮の人々にとっても強制的なものであったのは、動かしがたい歴史的事実であったと判断できる。長野市が世界平和を声高に唱えるのであれば、目先のことに動ぜず、先の大戦の日本の過ちの責任を自らのものとして背負い、「松代大本営地下壕」を戦争遺産として後世に伝え平和を希求する自治体であってほしい」

 「強制的」の表現を削除させたい人たちの動きは、「はだしのゲン」の閲覧を禁止させる運動や、「慰安婦」問題をなかったことにしたい動きと連動していることも見逃してはいけない。


◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729

・銀行振込
城南信用金庫
店番036 普通口座 ヤマモトムネスケ 口座番号340130

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コメント

この春に東京より松代に移住した者です。

戦没者遺骨収集事業に関わってきたこともあり、松代大本営などの存在もこの地を選ぶ上で大きかったです。

自身の経験を大本営の平和利用や後世のために活かせないかと模索しているところ。
このように発信されている方のブログを拝見し心強く感じます。

ありがとうございます。

投稿: satoko | 2015年6月23日 (火) 03:57

この春に東京より松代に移住した者です。

戦没者遺骨収集事業に関わってきたこともあり、松代大本営などの存在もこの地を選ぶ上で大きかったです。

自身の経験を大本営の平和利用や後世のために活かせないかと模索しているところ。
このように発信されている方のブログを拝見し心強く感じます。

ありがとうございます。

投稿: satoko | 2015年6月23日 (火) 03:59

之こそ正に世界遺産だが、敗戦の象徴として貴重なものだ。自虐史観と嘲笑する他虐的な戦争勢力の提灯持ちの自称文化人にとっては松下村塾の方がいいのかな、今の政経塾と似たり寄ったりかな、おなじ穴の狢かな、因みに象山壕なんてのが在るんですね。

投稿: いがわ | 2015年7月13日 (月) 20:23

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