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2014年8月25日 (月)

死線を彷徨い、生還した佐々井秀嶺師(インド・ムンバイにて)

(写真はクリックすると拡大します)

8月10日
 さいたま市での写真展を一日残し、エアインディアでインドに飛んだ。デリーのインディラ・ガンジー国際空港でムンバイ便の航空券を購入し、ムンバイに到着したのはインド時間8月10日午後10時頃。ナグプールから佐々井師に付き添っているアミット氏と連絡を取り、佐々井師転院先のボンベイ病院(古いが大きい)にタクシーを飛ばす。

 病院入り口で待っていたアミット氏に案内され、そのままICU病棟の佐々井師の病室に向かった。佐々井師は元気なくベッドに横たわっていた。顔を見て挨拶をするが、佐々井師は声が出ない。7月下旬以降、アミット氏からメールや電話で佐々井師の危機的な容態の変化を聞き、案じるばかりで落ち着かない日々と送っていたが、ご本人の入院姿を見て、もっと早く来るべきだったのかもしれないと思った。

佐々井師の病状悪化の経緯
 かいつまんでいうとこうなる。食事が食べられなくなった佐々井師は、7月中旬に体調悪化で活動の本拠地ナグプールの病院に一時入院。お弟子の埼玉県の宮本龍勝氏がお見舞いに行った。龍勝氏は大丈夫の感触で帰国。佐々井師は一旦退院したものの、別の大きな病院に再入院し、7月30日にアミット氏から届いたメールは、「佐々井師の病状は深刻」というものだった。31日のメールはさらに深刻で、「佐々井師の容態は重大」となった。

 メールによる情報だけでは不安が募るばかりなので、アミット氏に電話して問い合わせることにした。8月1日の電話では、佐々井師の入院している病院名、病状などがわかり、酸素吸入器に呼吸を頼っていたのが、少しづつ自力呼吸ができるようになったとのこと。2日は主治医に直接電話して病状を聞いた。「クリティカルだが、回復が順調ならば、1週間で退院可能」との話でほっとする。

 2日夜に日本からディレクターの小林三旅さんと、岡山長泉寺の宮本光研前住職の二人がナグプールに到着し、佐々井師に面会。三旅さん情報では、危機を脱出し、笑顔あり、血色良くなり、流動食摂っているとの安心する情報が入る。二人は大丈夫と判断して滞在二日で帰国の途へ。

 ところが、7日のアミット情報では、佐々井師の熱がぶりかえし、食事も摂らないという。医師団は8日には佐々井師をムンバイの大病院に転院させる方針とのこと。インドに行く必要は低そうだと安心しはじめていたのだが、これは相当に深刻だと受け止めた私は、急遽、航空券を手配し、運よく10日出発の便が確保できたので、ムンバイへ向かったというわけだ。以下は、ムンバイに滞在し、主に佐々井師の食事の世話をしたときのものである。

8月10日(転院2日目)
 81018月10日午後10時半過ぎ。
 転院2日目。病院側は翌日には佐々井師を別棟の13階の広い病室に移す予定という。しかし、佐々井師は医師や看護師らの指示を拒否する極めて頑なな姿勢を見せる。看護婦に殺されそうになったんだというような、頭の中が朦朧としているかのようなことを、聞き取るのがやっとの声で話そうとする。

 日本から飛んできた私の顔も立ててくれと哀願するが、佐々井師はいうことを素直に聞こうとしない。病室を移る前に点滴ができるように別の管を指しておきたいという医師の希望をはねつけた。なるようにしかならない。

8110佐々井師はナグプールからドクター飛行機(アンビュランス)で8月9日にムンバイに移動した。この写真はその時のもので、佐々井師を飛行機に乗せる瞬間だ。ちなみに、佐々井師の容態を心底心配するマハーラシュトラ州(人口は1億人をこす。ムンバイが人口1000万人をこす州都)のチーフ閣僚らの計らいだという。

8月11日(転院3日目)
8111ムンバイの高層ビル街が一望できる新党13階VIP病室に移動した佐々井師。朝、病室に顔を出すと、笑顔を見せた。病室の移動は問題なく行われ、佐々井師は医師や看護婦らの指示に柔軟な姿勢を見せ始めた。VIP病室は、広くて待合室も大きく、キッチンとトイレスペースも付いている便利なものだ。

8112私が日本から持参した、佐々井師を大きく紹介する共同通信配信の新聞記事を広げる佐々井師。5月に取材したもので、撮影を担当した。元気を出してもらおうと思ったが、この段階では食欲ゼロ。


81132夕方になって初めて梅干とお粥と味噌汁をカップに半分ほど口にした。
 お粥などの日本食は7月にナグプールにお見舞いに行った佐々井師のお弟子さんの宮本龍勝さんが持ち込んだものを、私がキッチンで味を加減したりして、私が持参した梅干で食べてもらうようにした。佐々井師はインド食は病気の時はまったく受け付けないためだ。

8月12日(転院4日目)
8120おとなしく看護師の処置を邪魔しない佐々井師。


8121食欲のない佐々井師。


81211少しでも食べてもらおうと、お粥などを用意するがあまり手をつけない。

81231医師に歩行訓練を始めるように指示され、補助器を使って初めて廊下に出ようとする。


81237月半ばに寝たきりの病院となっていらい、初めて歩いた佐々井師。

8125病院からのインド最大都市ムンバイの街並み。

8124エレベーター前の待合室で、お見舞いの僧侶たちから早期回復を祈ってもらう。

8月13日(転院5日目)
8131窓側のソファで診察を受ける佐々井師。


8132ベッドの上よりもソファが気に入ったと横になる佐々井師。気力は前日よりも後退。

8月14日(転院6日目)
8141胸部レントゲンを撮りに向かう佐々井師。

8142病院スタッフに仏教徒が多いことがわかった。入れ替わり立ち代わり、挨拶に立ち寄るようになった。

 この日、佐々井師はようやく二度目の歩行訓練をした。食欲は序序に回復しつつある。

8145X線撮影の結果を見る。ナグプールで深刻な事態に陥った肺炎は問題ないとの医師の判断。

8146インド独立記念日67周年前夜。ビクトリア駅(CST駅)のライトアップ。

8月15日(転院7日目)
8151インド独立記念日で祝日。街頭で売られていたインド国旗のバッジ。

 この日、佐々井師の右肩下に差し込まれていた点滴用の管が取り除かれた。点滴は必要ないとの医師の判断。薬は錠剤か時たまの注射に限定された。

8月16日(転院8日目)
8161早朝、伸びた頭の毛を床屋さんに剃ってもらってからの佐々井師は、元の元気な佐々井師に戻ったような表情となった。佐々井秀嶺の復活だ。

8163気合の入った佐々井師本来の顔つきが急に戻ってきた。

8164頭を剃ってからの佐々井師には、大きな転機が訪れた。歩行訓練も気合が違った。早く元気になって、病院を出たい、ナグプールに戻りたいという積極的な気持ちに変わった。


8166左膝周辺の痛みを我慢して歩いた佐々井師。付き添いのインド人にほぐしてもらう。

8月17日(転院9日目)
8172佐々井師独特の腹の底から吠えるような声も復活した。


8173


8174ベランダからムンバイの高層ビル街を眺め、デカン高原に早く帰りたい気持ちを募らせる佐々井師。


8171仁王立ちして、「ジャイビーム!(アンベードカルに勝利を!)」


8175佐々井師の早期回復を願って、読経するアンベードカル正義と平和センターの幹部たち。

8月18日(転院10日目)
 17日から18日の深夜、日本の岡山から原田正道曹源寺住職一行がお見舞いに立ち寄られたと聞いた。私は宿に戻っていたのでお会いすることはなかった。付き人のゴウタマ氏の話によると、原田老師と空手家の松尾氏は佐々井師に回復を願う言葉をかけたものの、曹源寺で20年以上修行する同行のボディ・ダルマは、佐々井師に声をかけることもしない不遜な態度が目に余ったという。ボディ・ダルマを日本に修行のために送り込んだのは佐々井師である。

 義理と人情を何よりも重んじてインドで生きてきた佐々井師の心情は察するに余りある。

8181マハーラシュトラ州の閣僚を勤めるニティン・ラウ氏がお見舞いに来た。医療費などは州のチーフ閣僚が面倒を見るから心配しないでしっかり回復してほしいと伝えた。

 佐々井師が急速に回復しつつあり、自ら早く退院したい意思を見せるようになったことを見届け、私はこの日の夕方ムンバイを出る寝台特急に乗りデリーに向かい、帰国の途に着いた。

佐々井師の日本の支援者のみなさんへの御礼メッセージ(動画)


・結局、佐々井師は8月22日に退院してナグプールへ帰った。 

佐々井秀嶺師とはどんな人物なのか?
・アエラ:「現代の肖像」(2005年2月21日号)掲載:「佐々井秀嶺 一億人導くバンテージー」(文・写真山本宗補)

◇山本宗補HP:インド:佐々井秀嶺・アンベードカル・インド仏教◇

・南天会(佐々井師の活動を支援するために設立された会。私は賛同人の一人です)

「大震災被災地で読経し、原発廃止が死者の真の回向と実感した日本人僧」(2011年6月30日)


◯取材活動支援のお願い
フォトジャーナリスト 山本宗補活動支援
ジャーナリストの活動を支えてください。

・郵便振替口座(加入者名 山本宗補)
00180-1-572729

・銀行振込
城南信用金庫
店番036 普通口座 ヤマモトムネスケ 口座番号340130

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