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2014年5月の投稿

2014年5月 4日 (日)

標高888mの高原。花と畑とゲルと。内田ボブ&長沢哲夫の「春風めぐる」歌と詩と。

(写真はクリックすると拡大します)

 長野県と群馬県にまたがる活火山浅間山。その南山麓の高原地帯がわが田舎。5月の今頃が山桜は満開で、近所のしだれ桜も満開。空気は澄み切り、緑はあふれ、一年中でもっともさわやかな季節だ。豊かな自然の恩恵で、人は身体も精神もいやされ、生きるエネルギーを頂戴する。暗室小屋の周りの畑で咲く花を紹介しよう。

 ちょうど5月3日(憲法記念日)には、小諸市のエコビレッジで内田ホブさんと詩人の長沢哲夫さんのジョイントコンサートが開かれたので、その模様も紹介したい。
・(トカラ列島の火山島、諏訪之瀬島に住む長沢哲夫詩集「足がある」から

「ぼくたちは地球を愛しているか 地球がぼくらを愛しているほどに」

この小さな土の上に
この小さな緑の中に
ぶらぶら行こう
思い おだやかに
わずかなものを手に
この
小さな土の上に
この小さな緑の中に
ぶらぶら行こう
心静かに
心軽やかに

(以下は小諸エコビレッジの写真に続きます) 

わが浅間山南麓の果樹の花たち
_aaa5238れんぎょう(4月撮影)

_aaa5241_2紅雪やなぎのつぼみ(4月撮影)

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満開の紅雪やなぎ(5月3日撮影)

_aaa5715_2紫モクレン

_aaa5228_2杏の花(4月撮影)

_aaa5734_2満開のアーモンドの花(5月3日撮影)

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毎年なぜか熟すことのないさくらんぼの花(5月3日撮影)

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ラフランスのつぼみ(5月3日撮影)

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シナノゴールドはまだつぼみ状態。

_aaa5689プルーンの花はりんごや梨よりも小ぶり。→→→

 写真はないが、二年目のキウイはメス木はぐんぐん伸びている一方で、オス木は一度枯らしてしまったので、苗木がまだ小さくて頼りない。

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↑↑↑名前は知らないが繊細な花

_aaa5767野原ではおなじみのつくしだが、畑には大敵。スギナ草といえば地下で繁茂し除草剤を使わないと退治できないほどしぶとい。

_aaa5749sumi_2連れ合いが育てる水仙。5月は満開の時期。


野菜畑
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 あわただしく準備して苗を植え種をまき終わった家庭用菜園。残雪はほとんどない浅間山が奥に見える。

_aaa5757標高は900mに近い高原のため、5月に入っても遅霜がある。スイカの畝は寒冷紗で覆った。手前はナスとピーマンの植えたばかりの苗。トマトときゅうりも植えた。

_aaa5678手前はジャガイモ用の畝。種イモを植える前の写真。

_8ds7228手前の細長い畝はとうもろこし用。この後、平らにならして、とうもろこしの種を植えた。早ければ8月のお盆までに収穫できるかもしれない。

_aaa5794ワラを敷いた畝がとうもろこしをまいた後。ペットボトル風車を10数本、畑のあちこちにモグラ対策用に立てた。風車が回ると振動が地中に伝わって、モグラが嫌がるらしい。

内田ボブと長沢哲夫の詩と歌の旅「春風めぐる」ツアー(小諸エコビレッジ)

_aaa5796会場の常設ゲルの概観と自家発電用のソラーパネル。

_8ds7125午後7時ごろのゲルと澄み切った高原の夜空

_8ds7142内田ボブさんの弾き語り
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_8ds7233ナーガこと長沢哲夫さんの詩の朗読。飾りのない、「ぼくとつ」そのもの。
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・(冒頭で一部を紹介した長沢さんの詩「ぼくらは地球を愛しているか 地球がぼくらを愛しているほどに」つづき)

水も空気も地球のもの
この血も肉も地球のもの
この息 この心も地球のもの
気をつけろ
原発でさえ地球のもの
殺しまくるミサイルも
そっと息を引き取る鳥たちも
砂漠をわたるコガネ虫たちも
どかどかと走りすぎてゆく車たちも
ほえまくる電車たちの黄色い眼も
高層ビルを埋めつくすコンピュータたちも
銀河系の渚をころがる
青い火のかたまりの
地球のもの
ぼくらは地球を愛しているか?
地球がぼくらを愛しているほどに

(つづく)

_8ds7236内田さん(右)と長沢さんが、「春風めぐる」ツアーを開始して17人になるという。

 長沢さんは1942年生まれ。1972年に諏訪之瀬島で移住内田さんは1952年生まれ。長野県大鹿村在住のシンガーソングライター。15歳から旅を始め、世界を回り歌う。旅を続行中。

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 お二人の「春風めぐる」詩と歌の旅は4月12日に都内東村山でスタートした。残すところは、5日が長野県戸隠、10日は群馬県高崎市、11日は埼玉県秩父市、そして5月13日の三軒茶屋「カフェ・オハナ」が一月のツアーの締めくくりとなったいる。

・内田さんの最新CD「いのちの道の上 NO NUKES ONE LOVE」に掲載されている内田さん紹介文は鎌中ひとみ監督によるものだ。収録されている代表曲は「おおチェルノブイリ」。「原発葬送歌」という曲も収録されている。CDジャケットには、内田さんの詩のようなエッセイが載っている。以下、冒頭だけを紹介しよう。内田さんの生きる哲学が伺える。
                    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしは小さな島である
野山にさえずる、小さな島である
核被爆者の長い列は、焼けただれ、踏みにじられ、
なぎ倒された、生きとし生けるものの長い列へと連なっている

   非戦を生きる。
   非核を生きる。
   平和を生きる。

恐れるな!そのことによって、
私たちにもたらされるリスクは、
私たちを生かすためのリスクだ。

(つづく)

◯まとめの代わりに
 久しぶりの田舎でのあわただしい二日間。半分は久しぶりの農作業。内田さんと長沢さんの「春風めぐる」は、高原の広い大地に建てられたゲルという最高の空間での、ぴったりのすばらしいものだった。闘いつづける活力を頂戴した。5日、6日と福島県の取材に出かけてくる。

追記(5月7日)
 5日、6日と足早に福島県の取材をしてきた。中通りの郡山市郊外、浜通りの南相馬市、浪江町、富岡町で取材してきた。福島県も多様な新緑が美しく、水田地帯は田植えの準備に余念のない季節を迎えているが、浅間山山ろくの我が田舎の愛すべき里山風景を見るにつけ、原発事故の罪深さをひときわ実感せざるを得ない。

 原発事故から3年以上の歳月が経っても、福島第一原発周辺自治体の住民の避難生活は続いている。帰還の目処は立っていない。廃炉できるのかさえも定かではない。夜景にボオッと浮かぶ東電福島第一原発と、ゴーストタウンと化し、信号機の明かりのみが点滅する周辺の光景は、何が原発事故によって奪われたのかを静かに物語っている。
_8ds8202web原発から10数キロ離れた川内村の高台から見る福島第一原発と周辺の夜景。5月6日撮影

   「ぼくたちは地球を愛しているか 地球がぼくらを愛しているほどに」(長沢哲夫)


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2014年5月 1日 (木)

日本軍幹部の責任を肩代わりさせられたBC級戦犯裁判の不条理(韓国・朝鮮人元BC級戦犯と遺書) Unsolved issues of Korean B/C class War Criminals and their Last Will

(写真はクリックすると拡大します)

◯シンガポール チャンギー慰霊碑
_aaa1325広大な墓地を持つ池上本門寺(日蓮宗大本山)。墓地の一角には力道山の銅像とお墓もある。

Dsc_9645墓地の一角にある「シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑」(妙見堂内、2008年撮影)

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石碑の裏面には、刑死した146人の名前が刻まれている。朝鮮半島の若者の名前も目立つ。
シンガポールで数万人といわれる華僑粛清の責任で絞首刑となった河村参郎警備司令官と大石正幸憲兵隊中佐の名前も刻まれている。
カールニコバル島で通訳として拷問に加わったとして処刑された学徒兵の木村久夫の名前もある。
(2008年撮影)

 この慰霊碑の前では、例年、4月第二週には、連合軍によるシンガポール軍事裁判(BC級戦犯裁判)により、チャンギー刑務所で処刑された旧日本軍軍人軍属の霊を供養する慰霊祭が行われる。戦争中は「日本人だった」韓国人朝鮮人148人も、死刑や長期有期刑に処せられ、23人が「日本人として」処刑されたので、有期刑で生還した元戦犯や遺族などが出席してきた。(台湾人も173人が有罪となり、26人が死刑となった)

2011年は東日本大震災と原発事故により開催は延期され10月16日に実施された。

_aaa14852011年10月に実施された慰霊祭。

_aaa1367韓国からは韓国人元BC級戦犯者の遺族会である韓国同進会の代表者姜道元氏らが来日し、日本の同進会の李鶴来(イ・ハンネ)会長らとともに同慰霊祭に初めて参加し挨拶した。

_aaa1401一度は死刑判決が出たが20年の有期刑に減刑された李鶴来さん。

_aaa1735韓国・朝鮮人元戦犯と遺族に対しての補償と謝罪のための特別立法を求める院内懇談会の李さん。(2011年10月17日)

「パネル写真と映像でたどる戦後69年目の韓国・朝鮮人BC級戦犯者問題-長すぎる苦難の歩みといま-」展(2014年4月26日~29日)

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 韓国・朝鮮人元BC級戦犯問題を広く知ってもらおうと、パネル展、映画上映会、講演などが、なかのゼロ地下展示室で開催された。大盛況だった。(主催は韓国・朝鮮人BC級戦犯者と同進会を応援する会)

 なぜ韓国・朝鮮人がBC級戦犯にさせられたのか、30枚近いパネルで日本の戦争責任わかる内容だった。

 韓国・朝鮮人元BC級戦犯者とその遺族は、1955年に互助組織「同進会」を結成。半世紀以上にわたり、日本政府に謝罪と補償を求めて働きかけてきた。裁判にも訴え、8年間の歳月をへて、東京地裁・高裁・最高裁から立法を促す付言判決が出されている。

  2008年5月には、韓国・朝鮮人および台湾人BC級戦犯者補償法案が衆議院に提出され、民主党政権下で成立が期待されたが、政権交代により廃案となってしまい、敗戦から69年経つ今日まで未解決のままとなっている。
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問題の背景:戦争中の1942年に、植民地下の朝鮮半島の20~35歳の若者が、「2年契約」という約束で軍属に徴用された。建前は募集に応じるものだったが、半ば強制だった。拒否しても徴兵や満州や日本国内の炭鉱などでの強制労働が待っていた。

 3000人が釜山で二ヶ月の軍事訓練を受け、東南アジア各地の連合軍捕虜収容所で監視員についた。上官の命令に従うだけの軍属だが、捕虜の扱いを規定したジュネーブ条約を無視する日本軍の指示に従い、日常的に捕虜と接触する役割を果たしたため、強制労働と食糧不足と病気によりおびただしい死者を出した連合軍捕虜から恨まれたのが創氏改名により「日本名」を持つ韓国・朝鮮人だった。英軍将校ビンタしただけで、懲役2年の判決で服役した者もいる。

 今年89歳になる李鶴来(当時の日本名は広村鶴来)さんも、日本人「広村」として一度は死刑判決を受け、20年に減刑され、移送先の巣鴨プリズンから56年10月に釈放された。1952年のサンフランシスコ平和条約により、巣鴨に収容されていた李さんたちは、日本国籍を喪失し、祖国韓国籍となっていたが、釈放後は身寄りのまったくない日本社会に放り出された。祖国では「対日協力者」の烙印を押され、帰国できなかった。

 旧日本人軍人・軍属に対する軍人恩給は1953年に復活し支給されてきた。現在でも57万人が支給対象とされ、2014年(平成26年度)の恩給費予算総額は4,217億円にのぼる。しかし、恩給法・援護法など戦後の援護諸法は、国籍条項を設け、韓国・朝鮮、台湾人を排除し差別してきた。

 しかし、国会は1987年に台湾人の旧軍人軍属戦没者遺族に対する弔慰金と、重度の戦傷病者に対する弔慰金又は見舞金を支給する法律を成立させたものの、日本軍幹部や将校の肩代わりで戦犯とさせられた韓国。朝鮮人に対しては、現在まで何の補償も謝罪もしていない。
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
_8ds7037初日はギャラリートークがあり、内海愛子恵泉女学園大教授(同進会を応援する会代表)の話があった。

 李さんは、死刑や自殺や生活苦で死んだ仲間の分も、死ぬまでに名誉回復をなんとしても実現し、不条理を正したいと語った。

 最終日の29日は 「ある告発 24年目の戦犯」(日本TV 1969年 50分)、「第18田無住宅の夏」(NHK 1976年 30分)、 「チョウ・ムンサンの遺書 チャンギーBC級戦犯裁判」(NHK 1991年 60分)、 「ミッドナイト・ジャーナル」の補償請求裁判提訴前日報道(NHK、1991年 20分)、 「朝鮮人BC級戦犯の記録」(監督・本橋雄介 日本映画学校卒業作品 1997年 60分)が、李さんや内海さんの講演などを挟み上映された。私は、このうち3本を初めて見た。

_8ds7072NHKのドキュメンタリーや映画をしばらくぶりに見て、72年前の軍属に取られたころの記憶を鮮明に思い出したと話した李さん。李さんが、政府や議員、司法に補償と謝罪を求めて働きかける最前線と共に闘った仲間の元気な声と姿がスクリーン上にあった。その仲間の大半が鬼籍に入り、いまでは5人が残るのみで、活動に参加できるのは李さん一人になった。

_aaa5591NHKの番組を取材制作した元NHKプロデューサーの桜井均さん(立正大教授・映像ジャーナリズム論)

 「この問題は法の谷間と人の道義の谷間に落ち込んだ話だ。この問題の本質は、日本の植民地支配と天皇の戦争責任の問題に突き詰められる。(昭和)天皇の代理にA級戦犯が裁かれた。BC級戦犯も同じ構図だ」(桜井均)

_aaa5622イベントの最後には有田芳生参議院議員のトークもあった。
_aaa5620

 有田議員は、今年1月に安倍首相に対し、韓国人元BC級問題者問題に関する質問趣意書を提出し、2月4日に安倍首相の答弁があった。安倍首相のゼロ回答の答弁書が配布された。

 日韓協定により、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が・・・完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」。特別給付金を内閣立法する意思を問われた質問に対しては、「政府として、お尋ねの法案の作成について検討する予定はない」

 まったくの偶然だが、この日の東京新聞が、インド洋のカールニコバル島の住民拷問の通訳をしていたことで戦犯としてチャンギー刑務所で刑死した学徒兵木村久夫の遺書をスクープしていたので、有田議員は紙面を見せながら、えん罪に近い判決で絞首刑となった韓国朝鮮人元BC級戦犯と木村久夫上等兵について話した。(木村は、日本軍による拷問で85人の島民が殺害された虐殺事件の責任を負わされた)

 議員の一人として、当然の活動を続け、戦後70年の節目となる来年には特別給付金が実現するようにがんばると話した。


◯刑死した趙文相(チョウ・ムンサン)の遺書
_8ds7023_2パネル右側が趙文相の遺影と遺書の一部が書かれたもの。左側のパネルは金貴好さんの遺書となった寄せ書きに描かれた自画像。

 「時知らず 夜雨に眼を醒まし 明日より宿る床が気になる(処刑前夜の断想)」(金貴好)

 クリスチャンだった趙さんは英語が得意だったので、仲間の裁判の通訳もした。そのことを鮮明に覚えている朴(パク)・ビュンソクさんはソウルに在住し、昨年取材させてもらった。96歳の朴さんは英軍将校に対するビンタ一つで懲役2年の判決を受けさせられた。

3c91604e(パネル展でも使用されている遺影。ネットからコピー)

 「あわただしい一生だった。二十六年間ほとんど夢の中に過ぎた。石火光中とはよくもいい表したものだ。この短い一生の間自分は何をしていたかが全く自分を忘れていた。猿真似と虚妄、何故もう少し生きなかったか。たとえ愚かでも不幸でも自分のものといった生活をしていたらよかったものを、~~~

 友よ弟よ、己の知恵で己の思想をもたれよ、今自分は自分の死を前にして自分のものの殆どないのにあきれている。

 もう一ぺん古里のことを考えて見たがまとまらない。いや何か知ら肉親との絆がだんだん解かれて行くみたいだ。人生最大の苦しみだ。この部屋を出るまでだ。それはもう八分は済んだ。あと二分だ。俺よ!がんばれ。九時の号鐘、のびやかにゆったりと鐘が鳴る。

 父よ、母よありがとうございました。姉よ弟よ幸あれかし。一番列車出発!偉い偉い、俺もまねる。あと二、三分だ。俺もあんな万歳を叫ぼうよ。来た、いよいよらしい。これでこの記を閉つ。この世よ幸あれ。」(趙文相)

 趙文相=チョウ・ムンサン。現在の北朝鮮開城で生まれたチョウ・ムンサンは、創氏改名により日本名・平原守矩(ひらはら もりつね)を名乗った。朝鮮人だったが、日本人戦犯として1947年2月25日にチャンギー刑務所にて絞首刑で死んだ。26歳だった。

◯取材のまとめ
 チャンギー慰霊碑の裏面、下から二段目の右から8番目に趙文相の名が刻まれている。また、その段の奥には、李鶴来さんがPホール(死刑囚房)で一緒だった林永俊(イム・ヨンジュン)さんの名前も刻まれている。

 韓国政府は2006年に、捕虜監視員でBC級戦犯となったものは強制動員の被害者と認定し、親日派の汚名を公式に清算し、名誉回復をした。日本政府は植民地下の若者を使い捨てにしたまま、戦後70年ちかく経ってもまだ清算しようとしていない。

 「民主党は戦後処理に熱心だったが、安倍首相は無関心だ」と、李さんは静かな怒りを最終日に語った。

 なお、拙著の大型写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(彩流社)には、李さんとソウルの朴さんの二人を収録している。また、連合軍捕虜の旧日本軍(軍属も含む)に対する恨みと報復感情が湧くことが実感できる泰緬鉄道建設に関わった旧日本兵らも3名収録している。加えて、シンガポール華僑粛清を首の皮一枚で助かった華僑の証言も収録している。

 住民虐殺の本当の責任者の一部と、上官の命令に従っただけの末端の兵士や軍属が、シンガポールの連合国軍の戦犯裁判で同じように裁かれた不条理さが浮かび上がってくるのではないか。


◯取材活動支援のお願い
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