獄死した尹東柱(ユン・ドンジュ) その詩と治安維持法
(写真はクリックすると拡大します)
戦前戦中の治安維持法の運用実態と、安倍自公政権下の特定秘密保護法の本質を知るために。
東京都下でも30センチの積雪となった記録的な大雪から二日後の2月16日(日)。池袋の立教大チャペルで、尹東柱(ユン・ドンジュ)さんを追悼するイベントがあったので出かけてきた。前日の新聞記事で知り、これは行かなければと思ったからだ。
戦争中に治安維持法で捕まって獄中死した、韓国では知らない人はいないといわれるほどの詩人。どんな詩を残したのかということ以上に、私が関心をもった理由は「治安維持法」と、「獄中死」だ。
とはいえ、詩の素晴らしさとはどんなものなのかを知るべく、代表作の「序詩」をネットで見つけてプリントアウトして出かけた。
尹東柱(ユン・ドンジュ)
詩集「空と風と星と詩」から 『序詩』
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)
それに、Twitterで京都在住詩人の河津聖恵さんが、京都で追悼会があるということをつぶやき、代表作の詩の一部の日本語訳に異論があるというようなことをつぶやいていた。そこも気になった。以下は、ネット上で見つけた別の方の訳だ。河津さんが指摘していたのは太字の部分だ。
死ぬ日まで 天を仰ぎ
一点の恥ずることなきを
葉あいを縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた
星を うたう心で
すべて 死にゆくものたちを愛しまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば
今宵も 星が風にーーむせび泣く
◯「詩人尹東柱とともに・2014」(主催:詩人尹東柱を記念する立教の会)
池袋駅から近い立教大学
立大チャペルで追悼会が開催されるようになって7回目とのこと。二階席もあり、300人ほどが参加した。中高年が多い印象。
プログラムは第1部の追悼セレモニーと第二部の講演会で構成され、充実した3時間だった。
追悼セレモニーの中で金大原牧師は、「あまりにも素直なことばで表現したユン・ドンジュさんの詩が、時間の経過とともになぜこれほどまでに愛されているのか、韓国の国民の誰もが詩の一つは知っているほどなのか」、ということに触れ、「戦う詩人というよりも、精神的な指標となった」と話した。
追悼セレモニーの会場となった立大チャペルに置かれた尹東柱(ユン・ドンジュ)氏の遺影。
6編の詩がハングルと日本語で朗読された。特に気に入った3編をネットからコピーした。
1.弟の印象画 (1938年 生まれ故郷の満州、間島)
2.陽の光・風 (1938年推定)
3.自画像 (1939年 専門学校2年) ←←ちょっとストイック。
山の辺を巡り田園のそば 人里離れた井戸を
独り尋ねては そっと覗いて見ます。
井戸の中は 月が明るく 雲が流れ 空が広がり
青い風が吹いて 秋があります。
そして一人の男がいます。
なぜかその男が憎くなり 帰って行きます。
帰りながら ふと その男が哀れになります。
引き返して覗くと男はそのままいます。
またその男が憎くなり 帰って行きます。
帰りながら ふと その男がなつかしくなります。
井戸の中には 月が明るく 雲が流れ 空が広がり
青い風が吹いて 秋があり
追憶のように男がいます。
4.愛の殿堂 (1938年)
5.たやすく書かれた詩 (1942年6月3日 立教大在学中) ←←すばらしい!「幼友達をみな失い」というくだりは、朝鮮語の詩を書くことでしか「抵抗」できない自分自身のふがいなさを詩っていると感じられる。
窓辺に夜の雨がささやき
六畳部屋は他人の国、
詩人とは悲しい天命と知りつつも
一行の詩を書きとめてみるか、
汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う
送られてきた学費封筒を受け取り
大学ノートを小脇に
老教授の講義を聴きにゆく。
かえりみれば 幼友達を
ひとり、ふたり、とみな失い
わたしはなにを願い
ただひとり思いしずむのか?
人生は生きがたいものなのに
詩がこう たやすく書けるのは
恥ずかしいことだ。
六畳部屋は他人の国
窓辺に夜の雨がささやいているが、
灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、
時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、
わたしはわたしに小さな手をさしのべ
涙と慰めで握る最初の握手。
6.序詩 (1941年11月20日)
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。。(伊吹郷訳)
(注:立大チャペルでの追悼会は当初から伊吹訳が使われてきたと、受付の女性から聞いた。河津さんが指摘した訳詩の違いは、知らなければ見過ごすところだが、別訳を知ってしまった以上は、こちらの方が自然で相応しいと感じてしまう。→→すべて死にゆくものたちを愛しまねば)
◯ユン・ドンジュ略年表(追悼会で配布された小冊子より抜粋し加筆)
1910年 日本の韓国「併合」。朝鮮半島の植民地化。
1917年(便宜上付記 大正6年) 12月30日 中国東北部(満州)間島省和龍県明東村に長男として生まれる。(注:現在の中国延辺朝鮮族自治区)
1925年(大正14年) 治安維持法制定(41年に改正され、重罰化)
1931年 満州事変。関東軍による中国東北部(満州)の占領へ。
1932年3月 傀儡国家満州国誕生。
1935年(昭和10年)9月 平壌の崇実中学に編入学
1936年3月 神社参拝拒否で崇実中が自主廃校となり故郷の中学に編入。
1938年 ソウルの延禧専門学校(現・延世大学)に入学。いとこの宋夢奎(ソン・モンギュ)と寄宿舎に入る。
1940年2月11日 朝鮮総督府の制令により「創氏改名」が施行される。創氏改名に抗議し投身自殺した人も出る。
1941年 延禧専門学校卒業。手書きの朝鮮語による詩集「空と風と星と詩」を3部作り、恩師と親友に贈る。日本に渡る前に尹を「平沼」と創氏。平沼東柱を名乗った。いとこは宋村と創氏し、宋村夢奎と名乗る。
1942年2月ごろに渡日。立教大学文学部英文科に選科生として入学。10月には同志社大学文化学科英文学専攻に選科生として編入。いとこの宋村は京大史学科選科に入学。
1943年7月14日 治安維持法違反の嫌疑で逮捕される。いとこの宋村も逮捕。
1944年 裁判の結果、2年の刑が確定し福岡刑務所に収攬される。
1945年2月16日 福岡刑務所で獄死。3月6日に故郷に埋葬される。いとこの宋村は3月10日に獄死。
1948年 韓国で詩集「空と風と星と詩」が刊行される。
1984年 尹東柱全詩集「空と風と星と詩」(伊吹郷訳、記録社)が刊行される。
1995年 没後50年 延世大学で50周年追悼会開催。同志社大に「序詩」の碑が建立される。韓国KBSとNHKが共同で「空と風と星と詩~尹東柱・日本統治下の青春と死」を制作し、放映する。
◯第二部水野直樹京大教授講演会「歴史研究者が見た尹東柱」
~~「創氏改名」問題と「独立運動」事件~~
・水野先生の講演は、副題の通りに、日本植民地下の朝鮮半島で強要された創氏改名の問題に尹と宋の二人はどう対処したのかということと、治安維持法で捕まるような活動を二人はやっていたのかどうかという点にポイントが置かれた。もう一つ重要な点は、いとこの宋氏の生き方を抜きには、尹氏の逮捕、獄死となる必然性は理解できないといっているように感じられたことだ。
まず、創氏と改名は区別して考えたほうが良いということ。創氏は義務であり家全体にかかることで、改名は一人一人が下の名を変えるかどうかの問題だったという。実際、1940年2月に施行された朝鮮総督府の制令により、朝鮮人各家が氏を設定することが義務づけられ、創氏設定期間となった8月10日までの創氏率は80%だった。同様に改名率はわずかに10%未満。
水野先生によると、尹東柱といとこの宋夢奎は、創氏はしたが改名はしなかったと解説した。尹は日本に留学する1年半前には創氏し、姓は「尹」から「平沼」となり、「平沼東柱」の日本名となった。専門学校に通学している時は日本名は名乗らないままだったとのこと。いとこの宋は「宋村」と創氏し、改名はせずに「宋村夢奎」の日本名になった。日本に渡る際の渡航証明書などで日本名を名乗る必要が出たためとのこと。
創氏改名の狙いは、朝鮮的な家族集団を解体し、日本的な「イエ」制度の導入であり、天皇制国家体制の基礎作りとなり、日本国家への忠誠心を植え付け、戦争への動員だと水野先生は解説した。
二人が治安維持法違反の嫌疑で逮捕されたのは、宋が43年7月10日。尹が7月14日。京都の下鴨署で取り調べを受け、分離公判で尹は44年3月31日に懲役2年の判決を受け、福岡刑務所に送られた。宋は4月13日に同じく懲役2年の判決で福岡刑務所に送られた。
二人ともに治安維持法第五条違反が適用された。
「国体を変革することを目的として その目的遂行のためにする行為をなしたるもの」(旧カタカナつかいを読みやすくするためにひらがなにしました)
略年表にあるように、尹は45年2月16日、福岡刑務所で獄死。宋は3月10日に獄死した。獄死にいたる理由は何も明らかになっていないようだ。ただ明白なのは、二人が相次いで獄中死した不自然さが残る。尹は未決拘留期間の120日(4カ月)を含めると、5カ月後には釈放されてもおかしくなかった。
水野講演の資料として配布された二人の独立運動の関わりには、判決理由でいとこの宋が中国で独立運動に参加したとは書かれているが、ユン・ドンジュについてはこれといった活動を積極的にやってきた記述はない。二人が朝鮮独立を夢見なかったとしたら嘘になるだろう。独立運動の闘士として重要な役割を担っていたということもなさそうという点からいえば、懲役2年で獄死させられるほど弾圧されたことが、治安維持法違反とのでっち上げでも、いかに恣意的に運用されていたことを証明しているのではないか。
獄死に至る経緯はわかっていないが、取り調べの拷問や、粗末な食事、病気などを無視するような獄中生活を送るうちに、衰弱し精神的に参ってしまって死に至るということが十分に推測できる。それは現代の民主化闘争などの活動家に対する拷問と長期刑により、獄死する若者が後を絶たない軍事政権下のビルマ(ミャンマー)などでは一般的に知られたことだからである。ましてや、戦前戦中にスパイや抗日ゲリラの取り締まり、「不穏分子」を投獄してやりたい放題の特高や憲兵隊が国民から怖れられていた時代はなおさらだ。
講演の結びに、「二人の独立への思いを心に持ち、詩を読んでほしい」と水野先生は強調した。最もだ。他国に植民地下され、母国語での教育や表現活動の自由を奪われ、名前まで強制的に変更させられ、様々な差別を受けておとなしくしている民族があるだろうか。
◯治安維持法による獄死の事例
『蟹工船』を1929年に発表し、不敬罪に問われ、30年に治安維持法違反で投獄された小林多喜二はあまりにも有名だ。出所後は地下活動に入り、33年2月20日、特高に捕まり築地署で拷問死した。
戦時下最大の言論弾圧事件となった横浜事件。当局のでっち上げにより、市民が共産主義者のレッテルを貼られ、治安維持法違反容疑で逮捕され、神奈川県警特高課の激しい拷問で4人が獄死した事件だ。雑誌に掲載された論文がきっかけとなり、42年から45年にかけて、編集者、新聞記者ら約60人が逮捕され、約30人が有罪となり、4人が獄死し、1人が保釈後に亡くなった。
戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求をし続けた。2005年に再審が開始され、罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴判決が下された。その後、元被告遺族による刑事補償請求により、横浜地裁は2010年2月、元被告5人に対し、請求通り約4700万円を交付する決定。裁判長は特高警察による拷問を認定。「特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まり、司法関係者による事件の追認によって完結した」、「警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と判断した。(この段落はウィキペディアより引用)
◯ブログのまとめ
2月16日のユン・ドンジュの命日に京都新聞に載った記事の結びにはこうある。
「治安維持という名のもとに民族の誇りを奪い、自由な言葉による表現活動を封じた時代があった。何が違反なのかは取り締まる側の裁量に委ねられ、弾圧対象が広がった。
特定の秘密を保護する」という名分の法が成立した今こそ、尹東柱の非業の死を胸に刻みたい。きょう16日は命日にあたる」
2月19日の東京新聞夕刊には、横浜事件の被害者遺族が秘密保護法を懸念する記事が載っている。
「戦前のドイツでは『経済を良くする』というナチスが国民を熱狂させた。庶民を束縛するものは、始めから恐ろしい顔はしていない。『このくらいならいいでしょう』と優しい顔で、少しずつ自由を奪っていくんです」
(平館道子さんのコメント。経済学者だった父親の平館利雄さんが横浜事件の元被告ででっち上げ事件の被害者となった)
国会正門前で、秘密保護法に反対する市民や学生。2013年12月5日撮影
あなたはこれでも特定秘密保護法は、拡大解釈されることも恣意的に運用されることもなく、市民やメディアの知る権利を脅かすことなく、戦前に回帰しようとする法律ではないと信じますか?
◯参考資料
・詩人尹東柱を記念する立教の会
・「詩人尹東柱 記憶と和解の碑」建立運動の
現状と開示裁判資料の意味(PDF)
・横浜事件
◯追記:同志社大にある詩碑(5月9日)
写真展の営業で京都に出かけたついでに、同志社大構内にあるユン・ドンジュ詩碑を見てきた。ひっそりとだが、教会の建物脇に建てられていた。詩碑には、「序詞」がオリジナルのハングルと伊吹郷訳で刻まれていた。
朝鮮半島の統一を願う旗も置かれていた。
5月8日撮影
◯取材活動支援のお願い
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コメント
私たち日本人の名前は「氏」と「名」から成り立っていますが、
朝鮮人の名前は「族譜(一族の名前)」と「名」から成り立っています。
「族譜」というのは日本でいえば、「源氏」・「平氏」のようなもので、
例えば「源氏の足利尊氏」ならば、
「族譜」が「源」、「氏」が「足利」、「名」が「尊氏」になります。
氏改名の「創氏」とは、朝鮮人の名前に新たに「氏」を加えることです。
「創氏」であって「改氏」ではないのはこのためです。
ただ、この「氏」を日本風にするかどうかは任意で、届け出を出さなければなりませんでした。
例えば「李○○」という名前の人が届け出を出さなければ、この人の「氏」は「李」となります。
また朝鮮人の「族譜」は、彼らの伝統を尊重して戸籍に残しました。
ちなみに「創氏」は無料でした。
白善燁氏や、陸軍中将にまでなった洪思翊氏は、どうして朝鮮名のままいられたのでしょうか?
もう少し、自分の祖父母をお信じになってもよろしいのでは?明治維新を生き、大正デモクラシーを経た日本人の事はご存知ないのでしょうか?
投稿: 通行人 | 2014年12月21日 (日) 10:41
水野直樹先生の「創氏改名―日本の朝鮮支配の中で」 (岩波新書)がおススメです。
投稿: 山本 | 2014年12月23日 (火) 12:08
ネットサーチ中にみてコメント残します
日本でも尹東柱の詩に興味を持っている方がいるのは幸いなことです。韓国ではドンジュという映画も去年公開されました。もし、よかったらいつか観てみてください。
それに他の方がコメントしてる創氏の内容は大変誤り。白善燁みたいな人は親日行為で韓国では認めていない人物です。当時、このような人が多かったのは歴史の恥になるかもしれないが、その分、民族性を持っていた韓国人がもっと多かったです。
なかでも尹東柱先生は、詩の中に映ってるよう、心に詩人として知識人としてキリスト人として、そして人間として痛みを抱いていた方と今を生きる韓国人に認識されてます。
投稿: ドンジュ | 2016年7月 7日 (木) 21:32
ドンジュさま
コメントありがとうございました。
「通行人」のコメントは、このブログ読者が読めばどんな立ち位置から発言しているかは明白なので、そのまま紹介しています。
ブログ記事中の水野教授による講演主旨と要旨からも、私のようにユン・ドンジュを知らなかった多くの日本人が、彼の詩を知り、彼の存在を通じて創氏改名の恐ろしい本質、加えて日本による朝鮮半島の植民地化の実態を学ぶ機会となっていると思います。
投稿: 山本 | 2016年7月 7日 (木) 23:10