原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前の警戒区域の人動物模様。Part4・南相馬市編
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「相双ファーム」の野馬追で使われる馬。南相馬市原町区江井地区。原発の北16㌔。
「原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前の警戒区域の人動物模様」のPart・4は、一年前の4月半ばに警戒区域解除により、避難指示解除準備区域と居住制限区域に分けられた南相馬市小高区と原町区。3月中にアップしたかったが諸事情により息切れして遅れてしまった。取材は一月前になるが、帰還の可能性を知る重要なポイントが詰まっているので公開しておきたい。
小高小学校の隣にある小高商業高校の広大なグランド。2年経って荒野と化している。空間線量は0.5マイクロシーベルト。
南相馬市は海岸線が長いこともあり、福島県では大津波による犠牲者が最も多い自治体だ。小高区の場合も同様で、大津波により壊滅的な被害を受けた国道6号線(海から約1.5㌔前後)から海側一帯は、2年経った今でも、流された自動車さえもそのままで、全半壊家屋の解体も手つかずだ。水田地帯は主なガレキは片づいたが、細かなガレキを毎日手作業で拾い出している段階にすぎない。
◯原町区堤谷地区
復興事業で続けられる水田のガレキ撤去作業。原町区堤谷地区。海から1.5㌔。
ガレキ拾い作業のリーダーは区長の綱川定さん(64歳)。堤谷地区では6件が津波でやられたという。
「ゴミ一つでも拾わないと、一歩前へ進まない」
鹿島区の仮設での生活が続く。
「狭くて寒くて言い訳ねえべ。酒量は増え、体重は増え、ストレスが増え、血圧は上がる」
避難生活を続ける地元の住民の失業対策。45名の班。この日作業していたのは10名。日当は1万円。月曜日から金曜日までの作業。
トラクターの荷台にゴミを集める佐藤公一さん(73歳)。自宅は地震で屋根が抜けたがまだ修理できていないという。米作りと養蚕をやっていた。塩害の除去も必要なため、米作りの再開はまだまだ先のことだという。佐藤さんは浪江町請戸に嫁いだ娘さんを津波で失っていた。
「何もしないでただ生活しているわけにもいかない。仮設でのこうした生活が10年続いても、家直したりして、現実と向き合っていかないと。先々のことは誰も言えない。日銭稼がないと生活できない」(綱川定さん)
◯相馬野馬追馬を飼育する相双ファーム。
田中信一郎さん(54歳)の経営する相双ファームは、津波にやられた原町区江井(えねい)地区の国道6号線脇にある。昨年4月の再編で、避難指示解除準備区域となった、原発から20㌔圏内の地域だ。一段高いところにある自宅などは難を逃れたが、エサを保管していたコンテナトラック二台は流されたまま。厩舎は冠水。田中さんは、原発の爆発音を聞き、煙が上がるのを見たので一時避難した。
3月末に戻ると、厩舎につながれていた9頭が餓死していたという。津波で被災した厩舎に戻ったのは昨年12月末とのこと。野馬追に使われる馬たちは地元選出の国会議員の働きかけなどにより、国の家畜安楽死を免れ、事故後の5月に救出されて馬事公苑でボランティアなどの手により丁寧に管理されてきたという。今は、生き残った15頭の馬が大切に育てられていた。
自宅のある広い敷地にある馬の運動場。空間線量は0.3~0.5マイクロシーベルト。
「ここは線量が低いから除染しないといっていたが、除染しないと誰も戻ってこないよ。前に測定したら、天井裏で4マイクロシーベルトあった。津波で壊れたり冠水した厩舎の解体は、2年後といわれた」。
「原発なんてものはここにはいらない。原発が必要なら、東京に作りなさい」
◯鹿島区千倉の仮設住宅で避難生活を送る小高区の葉倉さんと木幡さん
拙著「鎮魂と抗い」107ページに登場する葉倉しげ子さんと雑種のマロン。犬を飼うことができる仮設住宅で、犬だらけの印象があるほど。一年ぶりに再会して、仮設で話しを聞いた。事故前はほえない犬だったマロンは、仮設に移ってからは吠える犬になってしまったという。
葉倉さんは60代の夫婦と、娘さんと、80代後半の母の4人で仮設生活。「狭いのが何よりもキツイ」という。夜は眠れなくなり、ストレスで胃が痛くなった。血圧は高くなり、薬が欠かせなくなったとのことだ。夫の育雄さんは、仮設に入ってから2ヶ月後に軽い脳梗塞を患い、片手が麻痺したという。この日、ご主人は、大震災前に退職した会社に昨年から復帰し不在だった。
警戒区域解除となった日に、葉倉夫妻が自宅に一時帰宅した時にお会いして撮った写真。(南相馬市小高区羽倉、2012年4月17日撮影)
この時、育雄さんは、帰還の思いをこう言っていた。
「水が使えない。米は作れない。作っても売れない。米作りはもうダメかもしれない」
「水道も使えない。浄化槽も使えない。電気は復旧してもここでは生活できない。仮設が本宅みたいなもので、ここは別荘みたいなもんだ」。
この時の取材で、農業用水の水源が最も高濃度に汚染された浪江町の山間部にある大柿ダムだということを知った。つまり、育雄さんが自宅前の水田で米作りを復活したいと思っても、ダムが除染されなければ水が使いものにならないということだ。もちろん、水源となる山の除染などありえない話。大柿ダムに水源を頼る以上、小高区の米作りはやりたくてもできないということだ。
しげ子さんは、狭い仮設にいるよりも、早く自宅に帰りたい気持ちが募ると話したが、ご主人は「オレは帰らない」というそうだ。自宅と周辺の除染はまだ先の話だ。
しげ子さんは、自宅で何もやらないわけにはいかないので、編物や折り紙などを集会所で習って、作ってはほしい人にあげるのだという。男たちの多くがパチンコや酒で気分転換を計ろうとする代わりに、川内村の取材でも同じだったが、仮設に引きこもりがちになる女性は暇な時間を手芸にうちこんで、かろうじて崩れがちな心の安定を保とうとしているような印象を受けた。
しげ子さんに勧められるままいただいた毛糸の人形二体。左はトイレ用のロール紙を入れ、右はスナック缶を入れる実用的なもの。
鹿島区の仮設住宅に着き、葉倉さんの部屋番号をたまたま訊ねた男性が木幡敬弘さん(79歳)だった。不思議なことだが、木幡さんにお会いしたことがないのに、「葉倉さんとこで見させてもらった本に、俺の家が載っていた」といわれてビックリした。話を聞いて、拙著の99ページに掲載した民家の立看板を写した写真のことだとわかり、納得した。「帰りたい 帰りたくない どうする」とベニヤ板の看板が民家の庭先にかけられているもので、実は浪江町と間違えて写真説明を書いていたものだ。
木幡さんが看板をとりつけたのは、警戒区域が解除された昨年4月16日。看板の文字は自分自身の揺れ動く心境を、他の住民に問い掛けたつもりだったと話した。 そこで、木幡さんに同行して、一緒にご自宅へ行った。
木幡さんは専業農家として20年。主に梨などの果樹栽培、トルコキキョウなどの花卉栽培、イチゴやトウモロコシなどの野菜を生産していたという。畑入口の直売所に立てた、宣伝看板はどれも手作りという。実にうまい出来だと感心した。木幡さんが、自分自身の心境を看板に書いてまで出したことが、自然な動きに感じられて納得した。
自宅は一見、被害がないように見えるが、裏ヤブ側の屋根が崩れて雨漏りがしているという。畳まで取り替えないと住めないとのことだ。庭先の線量は0.3マイクロシーベルトと高くはない。竹やぶとなった家の裏手は6マイクロシーベルトあるという。
「除染がどこまでできるか。近くにあるモデル除染した幼稚園の線量は変わっていない。農地は全部生活圏だから除染しないとダメだ。東電は元のままに戻してくれればいい。販売用の農業は、生きているうちはダメだろう」
ペットボトルの風車も手作りだという。誰もいない味気ない空間を、花の代わりに色塗りの風車で飾ってあった。
「人間は一人ではいられない。隣近所が帰ってこないと、生活は成り立っていかない」
◯原町区馬場の酪農家・瀧澤昇司さん
瀧澤昇司さんは拙著の「抗う人」6番目に登場する酪農家。現在40頭弱で酪農が完全復活。3・11前よりも出荷量が増えているという。毎週月曜日が綱引きチーム「大仁田」の牛舎での練習日。チームは6年前に結成し、牛舎を使っての練習は4年前に開始。夕方の搾乳が終わってから掃除が始まった。練習時間は夜7時から10時まで。
職業は様々というメンバー。この日の最年少は18歳。綱の反対側には、引く人数分に見合う重しをワイヤーで吊ってバランスをとっている。男たちの本気とは無縁のごとく、ホルスタインの牛たちは、我関せずの様子。
瀧澤さんは、4月から太陽光発電を開始すると言った。「原発に電気を頼らないようにしないと」。自宅の屋根が強度が足りないので、それならと牛舎の広い屋根を使い、22㌔ワットの事業用発電をして、東北電力に売電することにしたと。
「酪農家は毎日絞ってあげないといけないので、家を開けることができない。官邸前に抗議に行けないし、吉沢正己さんのように街宣もできない。せめてもの、俺なりの抗いですよ」
◯遠藤信之さん
東北電力原町火力発電所で働く遠藤さん。自宅は発電所前(原発の北25㌔)で、海が目の前にあったため、跡形もなく流され、奥さんと母親を失った。拙著でも取り上げた被災者の一人。久しぶりに近況を聞きに仮設を訊ねた。(鹿島区の山側にある仮設住宅)
自宅のあった場所は災害指定区域となり、立ち退き対象で家の再建はできない。市が土地を買い取ることになっているが、進んでいない。高台移転を考えているが、震災から2年経っても仮設の暮らしがしばらくは続くことになると覚悟していた。
「生命保険を担保にお金を借りて建てるしかないだろうな。ハウスメーカーは、いま黙っていてもお客さんが来るので営業しない。大工さんも含め、1年先まで予約で埋まっているそうだよ」
3月10日にお墓参りをして、菩提寺で3回忌を終えたという。長男は仮設から市内に引っ越し、埼玉県の高校に通う二男は4月からは高校2年制に進級し、長女は千葉市で生活。残った家族4人はバラバラに暮らしている。普段はあまり思い出すことはないという遠藤さんだが、毎晩、晩酌しながら、話相手がいない時に家族を失った寂しさを実感するのだと話す。
◯取材後記
小高区の場合は他の地区よりも地震による被害が甚大な点も特徴だ。住民の立入が自由になって1年、家の解体も修理もすすんでいない。電気が使えても、本格的除染はまだこれから。線量が低くても帰還の見通しは立ちにくい。避難生活を続ける住民の望郷心と、実際には帰りたくても帰れないと判断する心境が、実のところ、最も分かりやすい避難対象地域と実感した。
見通しが立たないでけでなく、近所の住民が一人も帰っていない場所に、高齢者が帰って生活を始めること自体が考えにくい。50代、60代ならまだしも、70代以上の体に不安を抱える高齢者が、仮設よりは自宅が何よりといって、孤独な生活を再会するだろうか。
自宅があれば、誰しもそこに帰って元の生活に一日も早く戻りたいと願う。そこに暮らす住民の感覚で、現実の生活環境を考えたとき、「原発難民」となった避難民が、いま帰還する選択ができるだろうか。帰還する選択ができないこと自体が、原発事故による実害だ。ましてや、原発事故は未収束ではないか。
立看のメッセージを張り出して1年。木幡さんは、もう少し希望の感じられるものに書き換えたいと言った。しかし、現状の本心は、やはり「帰りたい 帰りたくない どうする」のままなのだと。。
PS:1年前の警戒区域解除の日の現地ルポは以下のブログをクリックしてご覧下さい。
「止まった時間」・解除された南相馬市の警戒区域(Former No Entry Zone in Minamisouma city.)
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コメント
こんにちは
感心が薄れても、福島の現実を伝えて
いきたいです。詳細な情報を有難うございます。
非力ですが、転載させていただきます。
投稿: そらまめ | 2013年4月 7日 (日) 16:29
そらまめさま
コメントありがとうございます。
投稿: 山本 | 2013年4月 7日 (日) 19:08