原発事故から2年。旧警戒区域と区域再編前後の人動物模様。Part 5・浪江町編
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◯原発作業員ハッピー( @Happy11311)さんの最近のつぶやき:
「今日は、東日本大震災25回目の月命日。東北被災地復興も、まだまだ問題山積みでなかなか進まなず、福島第一原子力発電所もとても収束とは言えず、警戒区域はじめ福島の際限なき除染も続けられ、半ば無理やり解除し住民を帰還を促す警戒区域。そんな現状が今も続いている」(2013年4月11日) ちなみに、ハッピーさんは、2年以上従事した事故現場の仕事から3月31日で撤退した。会社の被ばく線量基準上限に近づいたためと想像するが、理由は明らかにしていない。
◯浪江町の人口と避難人口。および再編後の三分割人口。
浪江町の人口は21168名(4月1日現在)。このうち県外避難者は6606名。町人口の31%以上が県外避難者だ。
原発を立地していないにも関わらず。富岡町や双葉町などよりも地域によっては広く深く放射能汚染されてしまった浪江町。全町警戒区域だったはずの浪江町が、避難区域の再編で3区分に分けられたのがさる4月1日。当日の取材も含め、3月に取材したものと合わせて紹介します。
避難区域再編により三分割される人口は、福島民報によると、以下のとおりだ。
「政府の原子力災害現地対策本部によると、区域別の推計人口は帰還困難区域が1210世帯・約3400人、居住制限区域が3080世帯・約8420人、避難指示解除準備区域が3030世帯・約8050人」(3月31日)
◯三分割マップ。
取材した区域は右のマップの避難指示解除準備区域と居住制限区域の一部。
◯移動した国道6号線検問所
検問所は再編により双葉町境手前に移動した。(4月1日)しばらく見ていると、仕事慣れしてしまった一人の機動隊員は、マスクなしで車から出て、他の隊員に連絡事項を伝えていた。大阪府警の機動隊員が担当だった。空間線量は0.6マイクロシーベルト。
◯命の楽園(高瀬地区・避難指示解除準備区域)
殺処分を拒否した牛を生かし、囲い込んだ水田の荒廃を牛によって防ぎ、農地保全を計り、具体的な成果を行政に見せつけているのが「命の楽園」。被ばくして経済的な価値がなくなった牛たちは、まさしく益畜となって力強く生きている。空間線量は元々低めのところ。0.3マイクロシーベルト前後。
毎日のように通って餌やりをしているのが原田登さん(81歳)と奥さんの良子さん(73歳)。
「原発事故前は8頭くらいだった。今は子牛入れると30頭くらいいる。エサはロール一つを午前と午後に分けてやる。草がはえてきても、草だけでは足りない。牛には困った時に助けてもらったから恩返しだ。品評会で優勝したりと楽しませてもらった」
ちなみに、事故前は原田さんの育てた子牛の売値は、一頭50~60万円くらいの値がついたという。
原田さんは専業農家だった。米農家で、200俵販売し、ハウスでほうれんそうやかぶなどの野菜も作った。長男の良一さんは農協に務めているが、避難先は福島市内だ。平日は老夫婦が牛の面倒を見てきた。
奥さんは、明治時代にハワイに移民し、成功して帰国した「移民」のお孫さんにあたる。
自宅は近いので、昼休みは隠居部屋で過ごす。再編にあたって、町からはガラスバッジが一人一人に支給されている。
町から貸与されている線量計は福島県内で作られたもの。
原発事故後は新潟県や東京都内など、落ち着くまで6回も避難して歩いたという。
「避難生活のストレスでみんな参っている。明日もわからない年だから、一刻も早く自宅に帰って生活したいのが本音。線量の低いところから帰したらどうか」と原田老夫婦は話した。登さんの実家は大熊町で、もう帰ることができない故郷になったとのことだ。
◯高瀬地区(避難指示解除準備区域)
国道6号線の海側一部から、6号線をはさんだ、西側の住宅街が高瀬地区。しかし、空間線量は0.2マイクロシーベルト前後から、4マイクロシーベルトまでと幅広い。西側が帰還困難区域の酒井地区と居住制限区域に隣り合っているためか。住民も線量の大きなばらつきを把握していた。居住困難区域に相当する線量下にある住宅であっても、賠償基準が同じという不合理が生じる。
「貸葬儀場 つばさホール」
ガラス戸越しに見ると、天井板が崩れるなど、地震による被害が甚大なことがうかがえた。
空間線量が1.6マイクロシーベルトある墓地。原田保久さん(79歳)が息子さんの墓参りに来ていた。福島第二原発で20年働いたそうだ。息子さんも同じく原発作業員となったが、20代で亡くなったという。息子さんの好きなビールを備えてあげたと話した。
「自宅を修理するには新築するくらいお金がかかる。隠居所を修理して帰ってくるつもりはないよ。息子には、余所で焼いても、ここに入れてくれと話してある」
警戒区域となった地域はどこも同じだが、地震による被害は激しく、墓地は手つかず。お墓の修理はこれからだ。
墓地のとなりの自動車修理工場で、70代と60代の二組の夫婦がにぎやかに話していた。
「ここは姥捨山だ。若い者は誰も帰るわけねえっぺ」
空間線量は墓地と同じで1.6マイクロシーベルト前後ある。二組は除染に何の期待もしていなかった。
「一軒につき200万も300万も除染にお金をかけるんだったら、除染などしないで、そっくり俺たちにくれる方が無駄がない」
この修理工場から200mも離れていないところにある丈六公園。入口のトイレのある敷地の空間線量は4マイクロシーベルトをこえた。
公園向かいの丘の上には雇用促進事業団の大型保養施設「福島いこいの村 なみえ」がある。本格的な除染は終わっているというが、入口の看板手前で計ると3マイクロシーベルトをこえた。
◯酒井地区(帰還困難区域)
高瀬地区を西に進み、「いこいの村なみえ」、丈六湖を過ぎると酒井地区に入る。ここは飛び地のような帰還困難区域となっていて、南隣が双葉町。さらに西側には居住困難区域があって帰還困難区域となるため、不思議なホットエリア。
酒井地区入口のバリケードは開いている。その奥に居住困難区域があるためと思われる。
幹線道路だけは通行可能だが、脇道の入口は鉄骨バリケードで封鎖されている。
不思議な光景だが、果樹園を経営する古農さんの自宅と倉庫が開閉式フェンスで封鎖されていた。古農さんの家族だけは出入りができることになっているようだ。
酒井集会所。地震によるものだけなのかはわからないが、壊れかたがひどい。大震災前年の、「平成二十二年度 酒井防災訓練災害対策本部」の立看が虚しく倒れていた。庭のモニタリングポストは3.08マイクロシーベルトを示していたが、5m離れて空間線量を測定すると、4.4マイクロシーベルトだった。
集会所から500mも離れていない西沢区の民家は地震で完全に倒壊していた。不思議だが、線量は0.6~0.7マイクロシーベルトを指した。こうした家を見る度に思うのだが、地震で倒壊した自宅を立て直して、放射線量を気にしながら誰が帰還して生活再建する気になるというのだろうか。
酒井地区の荒れ果てた水田地帯。立ち枯れたセイタカアワダチソウが畳のように折り重なっている。
酒井地区を通りすぎ、建設中の常磐自動車道辺りの帰還困難区域入口。フェンス式の検問所で警備会社の従業員が警備を担当していた。埼玉県から来たという60代の男性に積算線量計を見せてもらった。19マイクロシーベルトを示した。仕事初めの初日は朝7時から、撮影した午後3時半までの積算線量だ。交代勤務とはいえ、一日平均20マイクロシーベルトの被ばくをする計算。一月やったら、600マイクロシーベルト。二月で1.2ミリシーベルトの被ばくとなる。男性はマスクなしで任務についていたので、マスクは息苦しくても付けた方が健康のためですよとしつこく話した。その場を離れる頃に、男性はマスクを取り出した。
◯希望の牧場(居住制限区域)
ご存知、吉沢正己さんが場長を務める希望の牧場である。警戒区域にも関わらず、400何十頭の牛が生かされてきた、実に不思議なスポットだ。驚いたのは幹線道路のバリケードが開閉式フェンスに変わっていた。
言わずもがな、希望の牧場は、被ばく牛が原発事故後のエサの枯渇する環境でも弱肉強食で生き抜いてきた、「ワイルド」な空間だ。これまで度々伝えてきたので説明はとくにいらないだろう。
種付けできないのにがんばるメス牛。(3月1日)
去勢されていてもがんばる種牛の重重。
二代目フクちゃんが足を切断される前、吉沢さんたちが何とか自力で立たせようと試みていた。(3月1日)
やまゆりファームの岡田さんが、太り過ぎて自力で立てなくなり、エサを食べなくなった成牛にバナナをやっていた。(3月1日)
同じく、太り過ぎのため、自力で体位を変えられない牛を力づくで回転させる針谷さん。(3月1日)
牧草が出始めたので、ロールえさから離れて牧草を食べる牛もたくさん見かけた。(4月1日)
(3月1日撮影)
「原発の時代を本気で終わらせるんだ。参院選でも自民党が勝かもしれない。でも、事故を起こした以上、どうしても原発の時代を終わらせるんだという、気持ちのこめた話をいろんなところでしないといけないと思う。広く深くいろんな人、大勢の人と連帯し、国民の抵抗する実力が問われる。推進派だって実はびくびくしている。この牛たちを生かしながら、ぼくは残りの人生をかけようと思う」
◯請戸海岸(避難指示解除準備区域)
大きな牛のぬいぐるみがガードレールに立てかけられていた。
水田に取り残された浪江町消防署の消防車。車体の内側に、「平成18年度 電源立地地域対策交付金事業」とペイントされていた。
コンクリートの土台だけが残る民家の跡に、供花やお線香の束が備えられたばかりだった。
福島第一原発の排気筒や大型クレーンが見える請戸海岸。流された自動車が手つかずに残され、時間が止まったままだ。
◯午後5時で閉じられた開閉式フェンス(国道6号線沿い・避難指示解除準備区域)
いわき市の警備会社に雇われた、飯舘村出身の25歳の若者が警備に立っていた。彼の実家は牛も飼う兼業農家。彼自身も家に帰ることはできない避難民。もちろん家族も避難生活を続けている。生活のためとはいえ、何ともやるせない構図が、原発事故により誰が何を奪われたのかを静かに物語っていた。
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