« 忘れがちだが、忘れてはならない警戒区域の惨状(一時帰宅同行記) | トップページ | 志賀原発(石川県)と周辺の風力発電とその景色 »

2012年12月 6日 (木)

我が母の旅立ちと母の回想

(写真はクリックすると拡大します)

_aaa2338_292歳と10ヶ月で旅だった母の遺影写真。晩年は畑仕事を生きがいにする母だった。

◯退院と旅立ち
 さる11月28日午前9時50分、「お母さん、息が止まっているみたい」の妹の一言で、母の隣でうつらうつらしていた私は、起きあがって母の口元を見た。つい先ほどまでかろうじて動いていた上唇の動きが止まっていた。92年と10ヶ月動きっぱなしの母の心臓の動きが止まったようだった。

 今度はいよいよかもしれないと覚悟し、東京から田舎の母の元に着いて9時間後のことだった。心拍数がだんだんと減り、酸素マスクしていても酸素の吸入量が確実に減っていたので、その時は近いのかもしれないとは思っていたが。

 それにしても8月15日に退院後の母はほんとうによく辛抱した。誤えん性肺炎により食べることも薬の服用も困難になり、点滴に頼る二週間の入院を切り上げ、管につながれたままよりも自宅の方がと退院を選んだ。あと1週間持つか持たないかとさえ思えたほど切羽詰まっていた。9月後半に出版することになっていた新刊「鎮魂と抗い」(彩流社)のあとがきは、たまたま退院した日に書くことになり、結びを「終末期を迎えた母親のいる田舎にて」と締めくくったほどだった。

 母が自宅で3ヶ月半を過ごし、自宅で理想的な逝き方ができたのは、何より妹のつきっきりの介護の賜だった。弁膜症を抱えていた心臓そのものが頑丈にできていたこともあるだろう。退院後に一月半続いた点滴の交換やもれなどのトラブルは病院の訪問看護師さんチームが心強い対応をしてくれ、危機を何度か脱し、介護ヘルパーさんたちの手も借り、自宅での穏やかな日々が過ぎていった。一月くらいは酸素吸入なしで大丈夫だったほど回復する傾向にあった。私もできる限り帰郷して妹の介護を交代した。
 8月末には、「死ぬってことは楽じゃない」とはっきりと話したかと思えば、「今、死ぬ真っ最中なんです」と、笑顔でヘルパーさんに話したりした。
 11月始めには、玉子プリンを一口食べて、「うまいなあ」という代わりに、「当分死なないな」と笑ったほどだった。その後は口からの水分や栄養補給が序序に困難となり、点滴の入る血管はなくなり、最後は衰弱するばかりとなった。
 
  私の兄の長男が早死しているため、私は喪主として12月1日に葬祭センターでお通夜、2日に葬儀・告別式を終え、3日に納骨を済ませた。いつかこの時が巡ってくることを覚悟してはいたものの、いざとなると、親類縁者と葬祭場の担当者にいろいろと伺わないと何も片付かないものだ。慌ただしい一週間がすぎた。
 
◯母の青春時代
_aaa1520母22歳のころ。

 母は大正9年(1920年)1月、佐久市岩村田で生まれた。妹が出してきた母のアルバムに若い頃の写真があった。母の世代の青春時代は戦争中だった。22歳の頃に家族で撮った写真は、兄が出征するために記念で撮影したものだ。
_aaa1555右から3人目が母。長寿の家系か。左の二人は妹で、二人ともに上田市で健在。

 母も家族も戦争に翻弄された時代を生き抜いてきた。兄の一人は復員したが、戦後まもなく結核で病死した。もう一人の兄(家族写真の右端。今年5月に98歳を前に自宅で逝く)はベトナムのカムラン湾で米軍の魚雷で船が沈められたが泳ぎが達者だったために生き延びることができた。戦争中に結婚した相手は上田市の男性だが、敗戦の年にフィリピン戦線に送られ、コレヒドール島の米軍との戦闘で戦死した。戦争未亡人となった母が戦後に結婚したのが私の御代田町の父親だった。泳ぎの得意な母の兄と中学の同級生だった縁だという。我が両親は二男一女をもうけた。農家として米を作り、ブドウを栽培し、野菜を少しやっていた。二人の息子は農家を継ぐ意思はなかった。

 私が中学に通うころから料理の得意な母が調理師として、国道18号線沿いでドライブインを始めた。焼肉、そば、うなぎ、カツ丼などが人気メニューだった。努力家の母のおかげでドライブインの経営は採算が取れたようだが、働き過ぎで手首の腱鞘炎となり、閉店することになった。

◯母の晩年
_aaa153660歳代の母。料理の腕を生かして、軽井沢の別荘のまかないに通った頃。

_aaa1544若い頃習ったという大正琴の師範免状を取ってから大正琴を教えた70代の母。

 途中は割愛するが、夫は23年前に肺のガンで先だった。76歳だった。その頃、母は大正琴を町内各集落のグループに教えていた。両足の股関節の手術をしたのもその頃だった。11年前には私の兄の長男が49歳で闘病の末、ガンで早死にした。当時81歳の母は落胆して弱気になったが、畑仕事に生きがいを見つけ毎日のように野菜作りに励んだ。苦労のせいか、早くから腰が曲がってしまったが、自宅から畑まで押し車を頼りに往復する姿が母のトレードマークとなった。長男の死から立ち直った母は、「88歳までは生きるかな」と言い始めた。
 夏は巨人時代から好きだった松井秀樹選手の背番号55のTシャツを着込んで畑に出た。暑い日はガリガリ君を食べるのが母の楽しみだった。

_dsc53642008年

_aaa46772010年。ピーナッツの収穫。

_aaa94902010年。長ネギに土をかぶせる。

_aaa30842010年。松井の55番を着て、アンデス系じゃがいもの収穫。

_aaa23002011年。サツマイモの収穫。

015dsc_075222008年。

Photo2008年。仲の良い兄妹。隣の佐久市に住む伯父は毎月、車を運転して妹である母に会いに来る。

_aaa05452010年。仲の良い兄と妹。

_aaa23902010年。病院の理学療法室でリハビリの練習。

_aaa06342010年

_aaa47292011年。介護ヘルパーの仕事を長年積んだ妹(右)が、母の生活支援のために都会から田舎に引っ越してまもなく。

_aaa2609_22011年12月。被災地での取材でご縁のできた被災者家族に送るための豆餅を伸ばす。

_aaa02472012年5月。家の前の駐車場で花見をする。

_aaa30452012年7月。家の縁の下で見つかった子猫との写真。

◯旅立ち
 _aaa81028月。付きっきりで介護する妹。母の部屋の襖を50点ほどの写真で飾った。

_aaa78718月。娘がドライシャンプーしてくれて気持ちよさそうな母。

_aaa1577_211月30日。母が3ヶ月過ごした部屋を写真で飾った。

_aaa151111月30日。生前、母が最も世話になった隣近所のおばさんたちがお焼香に来てくれた。古いアルバムで思い思いの母の思い出を語るおばさんたち。

_aaa1657葬儀場のロビーにパネルを置き、母のミニ写真展。
Img_0540母が大正琴を教えた「生徒」さんたちが写真に見入る。重田学氏撮影。

_aaa1726_212月2日。葬儀の祭壇。

◯結び 
 毎年、私が臼で餅をつくのが年末恒例の家族行事となっている。東日本大震災と原発事故が起きた昨年の末は、母に10数軒の被災者の家族に豆餅や野菜を送ろうと思うがと話すと、母はそれじゃあ頑張るかといって、一生懸命に餅を伸ばしてくれた。母の自慢の豆餅はとくに喜んでもらった。私は本当に自慢できる母を持ったものだ。今年は餅をつく楽しみがなくなったのが何とも寂しい。こんな母の子どもに生まれた私は幸せものである。

 ちなみに母の戒名は「快阿栄澄大姉」(かいあえいちょうだいし)です。

 合掌  山本宗補


 

|

« 忘れがちだが、忘れてはならない警戒区域の惨状(一時帰宅同行記) | トップページ | 志賀原発(石川県)と周辺の風力発電とその景色 »

ニュース」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

田舎(標高888mの畑)」カテゴリの記事

コメント

原発事故取材と多忙なスケジュールの中、お母様のお世話をする山本さんに尊敬しておりました。葬祭場での「ミニ写真展」お母様も喜んでおられる事と思います。お母様のご冥福、心よりお祈り申し上げます。山本さんもお身体に気を付けてこれからも取材や執筆、講演活動に頑張ってください。

投稿: juamwezi | 2012年12月 6日 (木) 01:21

山本さん、

素敵なお母様ですね。
葬儀場でお母様の写真展を行っていることにも心が動かされました。
自分の母との今後のつきあい方も考えさせられました。

心からお悔やみ申し上げます。


石川梵

投稿: 石川梵 | 2012年12月 6日 (木) 05:08

ご無沙汰しております。今慈光さんが見つけて下さいまして、お母様の御逝去を知りました。本当に悲しいことでしたね。心よりお悔やみ申し上げます。あの美味しいお餅の味が忘れられません。写真でお母様とお会いし、働き者で素敵な方でいらしたのが良くわかりました。 宗補さんと良く似ておいでですね。 有難うございました。合掌

投稿: 小原牧子 パパラギの里より | 2012年12月 6日 (木) 09:01

宗補さんそっくりのお母さんですね 偶然ですがお母さんの命日が私の誕生日です 遅くなりましたが お悔やみを申し上げます 気をおとさず前進あるのみだと思います  ほんとに優しそうな顔をしたお母さんですね 

投稿: 遠藤カズオ | 2012年12月 6日 (木) 09:12

juamweziさま、石川梵さま、パパラギの里 小原牧子さま、遠藤カズオさま、

みなさまのご丁寧なお悔やみとコメントに、彼岸に渡ったばかりの母も感謝していると思います。
ありがとうございました。

投稿: 山本宗補 | 2012年12月 6日 (木) 14:11

山本様
初めてお便りします。わたしの母も94歳で宮崎の地で健在です。ずーっとかくしゃくとしていましたが、最近はだいぶ弱ってきたような様子もみられます。あなたの記事を読んでいくうちに、胸が熱くなるのを感じました。写真のお顔もごことなく似ており、遠く郷里にいる母へ想いを寄せました。
わたしは末っ子で、自分の側にいてもらいたいのはわかっているのですが、まだ現役で仕事をしており、たまの帰省しか会っていません。あなたの文章を読み、写真の数々をみてるうちに、母の気持ち願いが伝わってくる思いがしました。ありがとうございました。生きてるうちに孝行をしなければ…と考え始めました。

投稿: 野崎ほし | 2012年12月 6日 (木) 14:42

野崎ほし様

ご丁寧なコメントありがとうございます。長生き世代は、誰か一人の力で元気で日々生活できているわけではなく、一人一人ができる範囲で親孝行することが、天寿全うの環境を整えることになると、母を見送ってから実感しました。
お母様が一日でも一年でも長く、元気でいられますように。

山本

投稿: 山本宗補 | 2012年12月 6日 (木) 15:18

山本宗輔様
ご家族様

お母さまの御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。

どうか皆様もお体とお心をご自愛くださいませ。

合掌

投稿: 新妻 邦嗣 | 2012年12月 6日 (木) 23:39

紛争地や社会と闘う人々を追う山本さんに、こんなにあたたかいお母様との時間があったと初めて知りました。こんな息子がいたらうれしいだろうなあ。娘にも兄弟にも恵まれ、農ができる場所に住み、豊かな老いの時間をすごされたのですね。妹さんもたいへんだったでしょうが、在宅で看取ること、自分のこれからの親との時間の過ごし方も考えさせられました。
お母様のご冥福と、ご家族の平安をお祈り致します。

投稿: 福田紀子 | 2012年12月 7日 (金) 00:39

新妻邦嗣さま
福田紀子さま

ご丁寧にありがとうございます。
母の晩年は平和で穏やかな日々があり、幸せだったと思います。

山本宗補

投稿: 山本 | 2012年12月 7日 (金) 01:13

お母様のご逝去を知り、心からご冥福をお祈りします。でも人生のその時その時を精一杯に、それもユーモアをもって生きられて、ご苦労もおありでしたが、お幸せだったと思います。こんな母の子に生まれて幸せだったと、息子に言わしめたことが、何よりの証明です!

投稿: いわたすみえ | 2012年12月29日 (土) 21:40

いわた様

ありがとうございます。
若い頃は相当に親不孝をして心配させた母親でした。昨年末のもちつきが最後となったのも巡りあわせでした。

投稿: 山本 | 2012年12月30日 (日) 23:45

山本様
はじめてコメントいたします。
お母様のご逝去を知り、心からご冥福をお祈りいたします。
このブログを読ませていただき、一人の人間が直向きに生きていけば、最後の旅立ちは素晴らしいものになることを改めて思いました。08年に89歳で亡くなった私の祖母とお母様が同世代ということもあり、いつもお母様の記事は楽しみに拝見していました。もう、新しい記事が読めなくなるのは残念です。

10年府中での福島菊次郎講演の打ち上げに1度だけご一緒した者です。

投稿: まつかげ | 2013年1月 1日 (火) 00:12

まつかげさま

コメントありがとうございます。府中で手伝っていただいたこと覚えています。
母についての記事は更新できませんが、田舎の農的生き方は随時更新していきたいと思っています。福島菊次郎さんの生き方から学んだことでもありますから。

投稿: 山本 | 2013年1月 8日 (火) 11:10

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 我が母の旅立ちと母の回想:

« 忘れがちだが、忘れてはならない警戒区域の惨状(一時帰宅同行記) | トップページ | 志賀原発(石川県)と周辺の風力発電とその景色 »