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2012年12月の投稿

2012年12月23日 (日)

福島菊次郎と愛犬ロク

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 脱原発政党が惨敗した衆院選の翌日、福島菊次郎さんに電話した。菊次郎さんは有権者のブレの大きさに驚き、戦争が始まる前の時代に似てきたと言った。

「自民も民主も嫌だから、自分の名前を書いて出そうと思ったが無効になるといわれたので白紙で出した。自民党は長いこと平和憲法を変えたいと思っていた。だが国民を怖れていた。石破はコワイね。戦争をやりたいやつばかりだ。朝鮮半島(韓国と北朝鮮)や中国が日本に持っている怨念を僕らは知っている。安倍らの世代は違う。やっぱり戦争を全く反省していない。日本はまだ戦後を迎えていない。僕もそうだが、アジア蔑視感はまだある。経済が行き詰まった時に戦争が始まる」 

 菊次郎さんが周防大島の借家から、柳井市内のアパートに越してから10年ちょっと経った。無類の犬好きこ菊次郎さんの独居生活に犬はなくてはならない。周防大島時代はシベリアンハスキーのような大型犬を飼うことも可能だったが、狭いアパート生活ではそうもいかない。狭いアパートだからこそ、愛犬がそばに必要なのかもしれない。現在同居する柴犬ロク
2005ロク、2005年。

1999周防大島でミカン畑に囲まれた借家で生活している1999年頃。

_aaa48312010ロク。人間の年に換算すると70歳後半。2010年3月

Dsc_018920062006年9月。アパートの住人が保護してくれた柴犬をロクと思って引き取った菊次郎さん。ところが、愛犬ロクは島の友人に預けておいたので、アパートに戻っているはずがなく、部屋でしばらくしてから、余所の柴犬と判明した。外に出してやると、路地を歩いて勝手に離れていった。

_aaa8999食は細ったが、しっかりと食事は欠かさない。この写真と以下に続く写真は2012年11月の撮影。

_aaa9042

_aaa9080寝る前に頂いた日本酒を久しぶりに飲んだ菊次郎さん。

_aaa9087菊次郎さんが大好きなマウンテンゴリラの写真。圧倒的な存在感にひきこまれるからだと。

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_aaa0361この写真は2012年2月撮影。

 「僕の思想なんて活字を書き始めてできた。巡回展を初めてから写真の説明を全国で50ヶ所くらいやった。できあがった写真を解説するだけだった。ことばを持ったのも巡回展を始めてから。それまでは寡黙。無口でことばは持たなかった。話術はなかったがリアリティのある話はできたと思う。写真を撮り、プリントし、パネルにしてあちこちでいろんな人とのやりとりを経ているから、いまはことばが一人で出てくる」

_aaa9135朝の明るい日差しが差し込んだ部屋。

_aaa9141目を覚ました菊次郎さん、ロクにあいさつ。

_aaa9150散歩と買い物前に目薬をさす菊次郎さん。

_aaa9197近所のスーパーまでのおきまりの散歩コース。ロクは嬉しそうに飛び回りはしゃぐ。
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_aaa9224スーパーの駐車場。

_aaa9261アパートの前で体操をする菊次郎さん。上下の写真。
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 「石原と橋下は両方右翼じゃん。今度の選挙で立ち枯れ(「たちあがれ日本」の意味)と維新の会は、天皇を持ち出したら一足飛びで一緒になる」(石原慎太郎が新党「太陽の党」を結成する前の日の会話で)

_aaa9288朝食はコーヒーにトースト、ミキサーで作る野菜フルーツジュースが定番。ジュースには生卵も入れる習慣が島での生活から続いている。

_aaa9316菊次郎さんは2013年3月、92歳(訂正済み)になる。

 菊次郎さんは最近、台所で転んで左膝を打撲し、腰も痛めたと電話で話した。「独居老人はこういう時は嫌だね」
 結びにこれまで何度も引用している菊次郎さんのことばを紹介したい。総選挙後のいま、多くの人に知ってほしい一言だからだ。

「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」

菊次郎さんの活字本三部作:「写らなかった戦後」シリーズ(2003年~、現代人文社)
1:「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘」
2:「写らなかった戦後2 菊次郎の海」
3:「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな 福島菊次郎遺言集」
1
この三部作ではの「ヒロシマの嘘」と「菊次郎の海」の二冊で表紙写真に犬が登場する。

菊次郎さんのことを書いた拙雑記帳、ブログと新聞記事リンク
 なお、菊次郎さんの人となり、生き方、考えを知るには、私が書いたこれまでのを参考にしてください。
2003年8月6日  報道写真家、福島菊次郎著「ヒロシマの嘘」のススメ
2005年7月6日  福島菊次郎さんの緊急講演会が決まる
2005年7月20日 「戦後60年 戦争が始まる」福島菊次郎講演会が大盛況だった
信濃毎日新聞2007年3月5日掲載 報道写真家・福島菊次郎『カメラを武器として』上:人生方向づけた「戦争」
信濃毎日新聞2007年3月6日掲載 中:自ら権力に挑んだ闘い
信濃毎日新聞2007年3月7日掲載 下:抵抗の一粒の種を蒔く
2007年6月25日  福島菊次郎講演会の終了、山本宗補写真展の開始
2008年9月18日  大盛況だった福島菊次郎さんの講演会と写真展
2010年3月25日  松江、柳井、光、祝島、大久野島
2010年8月24日  『遺言 Part3』 福島菊次郎最終講演会in府中
2011年9月25日   反骨の報道写真家・福島菊次郎さん(90歳)のこと

「反骨の報道写真家・福島菊次郎から、フォトジャーナリスト魂を学ぶ」 (朝日新聞発行 Journalism 2013.9 no.280)                    山本宗補(フォトジャーナリスト)


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2012年12月16日 (日)

総選挙と都知事選:山本太郎さん、宇都宮けんじさんと脱原発政党

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 12月16日に投開票が行われる衆議院総選挙の争点は「脱原発」だ。昨年から福島県を繰り返し取材し、警戒区域での取材もしてきた私からすれば当然のことなのだが、なぜそうなのか。
 何よりも原発事故は収束していないし、避難民に対する賠償さえ手つかずに等しい。廃炉も経費も見通し立っていない。使用済み核燃料プールは数年で満杯となる。再処理で取り出されたプルトニウムを大量に保持する理由は核兵器開発をやりたいからにほかならない。
 福島第一原発事故後に、原発と原爆は同義語だと認識できない大人の感性は尋常ではない。事故によってすでに国土の一部は失われたも同然なのだから。原発事故が再び起きてしまえば、経済だとか景気だとか安全な食品だと健康だとか旅行だとかを考える余裕など、金持ちでも貧乏人でも、誰彼構わず奪ってしまうことを、まず認識するほかはないだろう。地震や津波、火山の噴火などの大自然の営みを、私たちがコントロールできるとうぬぼれてはいけない。

「原発難民」
「私たちはモルモットではありません。家の裏で30マイクロシーベルトありました。国はそんなところを除染すれば帰れるといいます。そんなところに誰が帰れるでしょう」

「その国を汚した者が若者や子どもたちを考えずに改憲だの、原発必要などと言って恥ずかしくありませんか」

「美しい国を作ろうなんて人たちが、原発54基も作って、再稼動するなんて許せない!」

「原発が必要だとか、9条変えて国防軍作ろうとかの政党だけには絶対に入れないで!」
 これらは原発事故により故郷を奪われ、自宅に帰ることもできなくなった富岡町の木田節子さんと大熊町の木幡ますみさんの二人が、誰に頼まれたのでもなく、12月10日の夕方、会社員が帰宅を急ぐ新橋駅前SL広場に立ち、厳しい寒さの中、2時間も「原発難民」となった避難民の心情を話したときのものだ。二人は政府が、メディアが、国民が福島のことや被災地のことを忘れてしまったのではないかという気持ちで、黙っていられなくなったのだ、
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 付け加えれば、東電幹部や山下俊一氏らを刑事告訴した福島原発告訴団(武藤類子団長)の河合弘之弁護士は言い切っている。
脱原発よりも重要な政治的テーマは今の日本にはない。野田首相は後世の負担を残さないためには消費税を上げると言った。事故と使用済み核燃料の問題で後世にひどいツケを回す原発をそのままにして、消費税を上げて後世への負担を少なくするなど笑わせるな。まず原発を止めるべきです。脱原発を遂行し完遂するべきだ」

 私は脱原発に本気の政党と候補者を応援する。

山本太郎さん_aaa210812月8日、高円寺駅前
 彼は自民党総裁選にも立候補した前幹事長の石原伸晃氏の選挙区にあえてなぐり込みをかけた。原発推進勢力の一角を崩し、50年にわたって原発を推進してきた責任を取らせたいからだ。
「地震国日本は地震の活動期。原発からの即時撤退以外に生き延びる道はありません」
_aaa340712月14日、荻窪駅前
 たくさんのボランティアの若者たちの支援を受けながら孤軍奮闘する山本太郎さんに、協力な応援弁士が駆けつけた。ジュリーで知られる沢田研二さんだ。荻窪駅前広場の立ち会い演説会場に現れた沢田さんは、壇上にあがってこういった。
「ただのジュリーです。正確に言うと、昔ジュリー、今ジジイです。でも、山本太郎のように、勇気のある38歳の若者が、ちゃんと打って出てくれました。(中略)今、選挙に出ている人はみんな「国難や」なんやと言っています。
原発を止める事自体が一番大事なことなんだ、それをやらない限りは、他の経済の事もいろんな事も何もかもが始まらないのだ。今日だって、地震が起こるかもしれないんですよ」
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「もちろんここに集まって頂いた方は、山本太郎に1票を入れようと思ってくれていると思いますが、悩んでいる方もいらっしゃると思います。悩んでいる方はよーく考えて下さい。そしてやっぱり原発NO!や!!という、山本太郎に、1票を入れて下さい。お願いします」
_dsc077812月14日、荻窪駅前
_aaa322212月13日、阿佐ヶ谷駅前
_aaa235612月10日。野田首相の選挙区、千葉4区で立候補した「日本未来の党」の三宅雪子候補の応援に出かけた山本太郎さん。船橋駅前。

_dsc061312月13日、阿佐ヶ谷駅前。都知事選候補者の宇都宮けんじさんと。

宇都宮けんじ(健司)さん 
 宇都宮さんは「核兵器のシュミレーションをやったらいい」とかオリンピックを誘致しようとする石原都政への完全なる決別候補だ。日本の人口の10分の1を抱える首都東京から、「脱原発とエネルギーシフト」を率先して推進する公約を掲げる。東京電力の大株主として、福島の全原発の廃炉と柏崎刈羽原発の廃炉を株主提案すると公約している。石原都政がオリンピック誘致のために積み立てた4000億円は、被災地復興や7000人の待機児童をゼロにするために活用するとも公約している。
_aaa289612月13日、表参道
_aaa130611月27日、日比谷野外音楽堂の集会にて。
6872714482011年9月6日。昨年の「さようなら原発全国集会」記者会見に、大江健三郎さん、落合恵子さんらと共に、呼びかけ人として出席した宇都宮健司さん(右端。当時は日本弁護士連合会会長) 

_dsc029212月13日、浜田山駅前にて。
_aaa2974浜田山駅前の書店にて。
_dsc0234冤罪事件として有名になった布川事件の強盗殺人犯として、無実の罪で30年間獄中にあった桜井昌司さんが応援弁士として話した。12月13日、表参道にて。
_dsc057512月13日、阿佐ヶ谷駅前

_aaa356012月14日、国会議事堂前で山本太郎さんと。
_aaa371812月14日、首相官邸前で脱原発を求める参加者と握手。

官邸前でたすきを外した宇都宮さんは、マイクを握って「衆議院選で官邸の主は、脱原発を掲げる主に変わるべきです」と大きな声で叫んだ。そして、自ら「大飯を止めろ!」「大間も止めろ!」「原発なくせ!」「農業守れ」「漁業を守れ」「子どもを守れ」「自然を守ろう、命を守ろう!」とシュプレヒコールを上げた。

_dsc082612月15日の【Nuclear Free Now 脱原発世界大行進2】脱原発デモ参加者。東電本社前にて。

日本未来の党_dsc080012月14日。国会議事堂前にて。日本未来の党の小沢一郎さん。
「脱原発を主張する人が国会で多数を占めなければ、どうすることもできない。日本の将来を心配する皆さんの声を多くの人に伝えてほしい」
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結論:「原発が争点」
 脱原発に本気の個人や政党は、消費増税にも、TPPにも、憲法改正にも同時に反対している点も共通している。
_dsc0955上下二点ともに12月15日の【Nuclear Free Now 脱原発世界大行進2】脱原発デモ参加者。
_dsc0923 「脱原発に一票を」

  

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2012年12月 9日 (日)

志賀原発(石川県)と周辺の風力発電とその景色

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 掲載が遅れたが、10月末に取材で能登半島に出かけた際、北陸電力志賀原発とその周辺を回った。風力発電には理想的な風の通り道らしく、あちらこちらで巨大な風車を見かけた。滞在期間内で撮影できる範囲で撮ったものを紹介したい。

 地元の北国新聞によると、北陸は出力10㌔ワット以上の風力発電設備が90基あり、73基が能登地方に集中するという。石川県74基、富山県4基、福井県12基。
 ちなみに志賀原発は排気筒以外は撮影できるポイントがなかなか見つからなかった。代わりに北陸電力の原発宣伝のための「アリス館志賀」の展示内容をお見せしたい。

アリス館志賀と北陸電力志賀原子力発電所  _dsc8954志賀原発原子炉格納容器(1990年=平成2年6月)。1号機は54万kw、1993年運転開始。2号機は135万kw、2006年運転開始。日立製作所製原子炉。

_aaa7624運転制御盤模型

_dsc8947志賀原発の全体模型写真?

 ◯能登半島地震(2007年3月25日、M6.9)による志賀原発への影響
 石川県穴水町、輪島市、七尾市で最大震度6強を観測し、石川県、富山県、新潟県で震度5弱以上の揺れを観測した。死者:1人、負傷者:358人。全壊家屋:684棟、半壊家屋:1,732棟。輪島市だけでも約1600棟が全半壊する大きな被害を出した。原発立地の志賀町だけでも231軒が全半壊するほどのダメージの大きな地震だった。
 計測震度の最大地点は輪島市門前町。曹洞宗総持寺祖院のあるのがこの門前町で、巨大な本堂は地震による被害が大きく、今でも修復作業中で本堂全体が工事現場のように覆われている。門前町は観光の名所のため、商店街に面した家屋は修復されて新しくなっているが、ところどころ歯が欠けたような空き地も目立った。輪島市の中心街でも同様だった。

 震央から志賀原発まではたったの18km。幸運なことに志賀原発は二基ともに定期点検中だった
「北陸電力は,発電所の建屋内を点検中に,1号炉の原子炉建屋4階で,使用済み燃料貯蔵プールの冷却水がプールの周囲にあふれ出しているのを発見したことをあきらかにした.あふれ出た量は,約45リットルで,その水に含まれている放射能は約750万ベクレルである,と評価している。(略)
 また,志賀原発で観測された地震の揺れの大きさについては,つぎのように説明している.1号炉の地下2階の値は計測震度4.8で,加速度は239ガル(当初の226ガルを補正).2号炉の地下2階の値は,加速度が264ガル」(原子力情報資料室)

_aaa7515津波対策を示す模型

_aaa7507志賀原発のPR館の外観写真。見学無料。3階からの眺望がオススメ。原発の排気塔や原発に隣接する北陸電力の風力発電の風車群がわかりやすい。

_aaa7534アリス館から志賀原発方向を見る。手前の風車は高さ30mの研究用風車。

_aaa7570アリス館の子ども向けオススメゲームがこちらの「ペレットつかみゲーム」

_dsc8866志賀原発の北側からの光景。海沿いを走る幹線道路の国道36号線が海と原発敷地内の間を通る立地となっている。

_aaa7498_2原発関連施設の「花のミュージアム フローリイ」外観と二基の排気塔。志賀原発の南側からの眺め。
_aaa7493_2「花のミュージアム フローリイ」の遠景。

_aaa7478_2原発の敷地の隣に建つ4棟のハウス。一つの棟ではミニトマトが水耕栽培されていた。原発の温排水利用施設として建てられたようだが、温排水は利用されていないとのこと。
_aaa7465_2空っぽのハウス内部。志賀町と農協が協力して立ち上げたようだが、当ては外れれたのは間違いない。

北陸電力の福浦(ふくら)風力発電所(日本海発電株式会社)_aaa7526アリス館の展示。風力発電に力を入れていることもPR。

_dsc8854直径92mのローター。発電機は三菱重工製。全9基で出力21600kw。年間発電電力4100万kw。一般家庭の11000軒分。(建設した鹿島建設サイトより)

_dsc8845原発の北2㌔にある福浦港から見える巨大風車
_dsc8839福浦港。
_aaa7424福浦港。

_dsc9024日没後の巨大風車
_aaa7661

北陸電力志賀太陽光発電所_dsc9004運転開始は2011年3月12日。総パネル数4815枚。規模1000kw。一般家庭約250軒分の年間使用電力量。(北陸電力の資料による)場所は志賀原発から東3㌔弱の能登中核工業団地内にある。
_dsc8999
_dsc8997_2

◯「あいの風酒見風力発電所」(石川県志賀町)と虫ヶ峰風力発電所(石川県七尾市)_aaa7414志賀町富来の海岸からの光景。あいの風酒見風力発電所は5基で出力9950kw。写真には1基だけの「酒見風力発電」も含まれるようだ。別会社だが、同じ地区に建つため。

_dsc8821虫ヶ峰風力発電所は志賀町の境に近い七尾市山中に10基ある。下の写真も同様。出力15000kw。2004年運転開始。
_dsc8815

あわら北潟風力発電「あわら夢ぐるま」_aaa7927福井県あわら市にある10基(X 2000kw)の風車。出力20000kw。直径83m。日本製鋼所社製。2011年2月運転開始。北陸電力に売電。
_aaa7907
_aaa7954近づくと巨大風車の巨大さが実感できる。
_aaa7972周囲は畑地。この風車は静かに聞こえた。

◯取材後記
 メガソーラーは規模の割に風力発電ほど発電できないのか?メガソーラーと風力発電の効率が私にはまだよくわからない。ただ、北陸電力消費地では自然条件をできるだけ生かそうと、3・11の大震災・原発事故前から再生可能エネルギー利用に取り組んでいたことは確かだ。その点、関西電力ほど原発依存を見直す努力をしない電力会社はないのではないか。関電の原発11基すべてが三菱系という事実が何かを物語っているのではないだろうか。

◯追記(12月20日)
 12月14日の共同通信配信記事に重要な事実を発見した。
 「経済産業省は14日、4~11月に発電を始めた太陽光など再生可能エネルギー発電設備の出力(速報値)が、大型原発のおよそ1基分に匹敵する144・3万キロワットに達したと発表した。再生エネで発電した電力を電力会社にすべて買い取らせる「固定価格買い取り制度」が7月に始まり、設備の普及を後押しした。
 内訳では、住宅に設置した太陽光発電が102・7万キロワットと全体の71・2%を占めた。大規模太陽光発電所(メガソーラー)など住宅以外の太陽光は37・1万キロワットで25・7%。バイオマスは2・8万キロワットで1・9%、風力発電は1・4万キロワットと1・0%だった」 (引用ここまで)

・住宅の太陽光発電   102・7万㌔ワット(71.2%)
・メガソーラーなど住宅以外の太陽光発電  37・1㌔ワット(25.7%)
・バイオマス発電     2・8㌔ワット(1.9%)
・風力発電         1・4㌔ワット(1%)
   
 記事は、メガソーラーなどよりも、住宅での太陽光発電の普及が、最も効率的な再生可能エネによる発電を増やすことを事実として伝えている。
 

◯取材活動支援のお願い
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2012年12月 6日 (木)

我が母の旅立ちと母の回想

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_aaa2338_292歳と10ヶ月で旅だった母の遺影写真。晩年は畑仕事を生きがいにする母だった。

◯退院と旅立ち
 さる11月28日午前9時50分、「お母さん、息が止まっているみたい」の妹の一言で、母の隣でうつらうつらしていた私は、起きあがって母の口元を見た。つい先ほどまでかろうじて動いていた上唇の動きが止まっていた。92年と10ヶ月動きっぱなしの母の心臓の動きが止まったようだった。

 今度はいよいよかもしれないと覚悟し、東京から田舎の母の元に着いて9時間後のことだった。心拍数がだんだんと減り、酸素マスクしていても酸素の吸入量が確実に減っていたので、その時は近いのかもしれないとは思っていたが。

 それにしても8月15日に退院後の母はほんとうによく辛抱した。誤えん性肺炎により食べることも薬の服用も困難になり、点滴に頼る二週間の入院を切り上げ、管につながれたままよりも自宅の方がと退院を選んだ。あと1週間持つか持たないかとさえ思えたほど切羽詰まっていた。9月後半に出版することになっていた新刊「鎮魂と抗い」(彩流社)のあとがきは、たまたま退院した日に書くことになり、結びを「終末期を迎えた母親のいる田舎にて」と締めくくったほどだった。

 母が自宅で3ヶ月半を過ごし、自宅で理想的な逝き方ができたのは、何より妹のつきっきりの介護の賜だった。弁膜症を抱えていた心臓そのものが頑丈にできていたこともあるだろう。退院後に一月半続いた点滴の交換やもれなどのトラブルは病院の訪問看護師さんチームが心強い対応をしてくれ、危機を何度か脱し、介護ヘルパーさんたちの手も借り、自宅での穏やかな日々が過ぎていった。一月くらいは酸素吸入なしで大丈夫だったほど回復する傾向にあった。私もできる限り帰郷して妹の介護を交代した。
 8月末には、「死ぬってことは楽じゃない」とはっきりと話したかと思えば、「今、死ぬ真っ最中なんです」と、笑顔でヘルパーさんに話したりした。
 11月始めには、玉子プリンを一口食べて、「うまいなあ」という代わりに、「当分死なないな」と笑ったほどだった。その後は口からの水分や栄養補給が序序に困難となり、点滴の入る血管はなくなり、最後は衰弱するばかりとなった。
 
  私の兄の長男が早死しているため、私は喪主として12月1日に葬祭センターでお通夜、2日に葬儀・告別式を終え、3日に納骨を済ませた。いつかこの時が巡ってくることを覚悟してはいたものの、いざとなると、親類縁者と葬祭場の担当者にいろいろと伺わないと何も片付かないものだ。慌ただしい一週間がすぎた。
 
◯母の青春時代
_aaa1520母22歳のころ。

 母は大正9年(1920年)1月、佐久市岩村田で生まれた。妹が出してきた母のアルバムに若い頃の写真があった。母の世代の青春時代は戦争中だった。22歳の頃に家族で撮った写真は、兄が出征するために記念で撮影したものだ。
_aaa1555右から3人目が母。長寿の家系か。左の二人は妹で、二人ともに上田市で健在。

 母も家族も戦争に翻弄された時代を生き抜いてきた。兄の一人は復員したが、戦後まもなく結核で病死した。もう一人の兄(家族写真の右端。今年5月に98歳を前に自宅で逝く)はベトナムのカムラン湾で米軍の魚雷で船が沈められたが泳ぎが達者だったために生き延びることができた。戦争中に結婚した相手は上田市の男性だが、敗戦の年にフィリピン戦線に送られ、コレヒドール島の米軍との戦闘で戦死した。戦争未亡人となった母が戦後に結婚したのが私の御代田町の父親だった。泳ぎの得意な母の兄と中学の同級生だった縁だという。我が両親は二男一女をもうけた。農家として米を作り、ブドウを栽培し、野菜を少しやっていた。二人の息子は農家を継ぐ意思はなかった。

 私が中学に通うころから料理の得意な母が調理師として、国道18号線沿いでドライブインを始めた。焼肉、そば、うなぎ、カツ丼などが人気メニューだった。努力家の母のおかげでドライブインの経営は採算が取れたようだが、働き過ぎで手首の腱鞘炎となり、閉店することになった。

◯母の晩年
_aaa153660歳代の母。料理の腕を生かして、軽井沢の別荘のまかないに通った頃。

_aaa1544若い頃習ったという大正琴の師範免状を取ってから大正琴を教えた70代の母。

 途中は割愛するが、夫は23年前に肺のガンで先だった。76歳だった。その頃、母は大正琴を町内各集落のグループに教えていた。両足の股関節の手術をしたのもその頃だった。11年前には私の兄の長男が49歳で闘病の末、ガンで早死にした。当時81歳の母は落胆して弱気になったが、畑仕事に生きがいを見つけ毎日のように野菜作りに励んだ。苦労のせいか、早くから腰が曲がってしまったが、自宅から畑まで押し車を頼りに往復する姿が母のトレードマークとなった。長男の死から立ち直った母は、「88歳までは生きるかな」と言い始めた。
 夏は巨人時代から好きだった松井秀樹選手の背番号55のTシャツを着込んで畑に出た。暑い日はガリガリ君を食べるのが母の楽しみだった。

_dsc53642008年

_aaa46772010年。ピーナッツの収穫。

_aaa94902010年。長ネギに土をかぶせる。

_aaa30842010年。松井の55番を着て、アンデス系じゃがいもの収穫。

_aaa23002011年。サツマイモの収穫。

015dsc_075222008年。

Photo2008年。仲の良い兄妹。隣の佐久市に住む伯父は毎月、車を運転して妹である母に会いに来る。

_aaa05452010年。仲の良い兄と妹。

_aaa23902010年。病院の理学療法室でリハビリの練習。

_aaa06342010年

_aaa47292011年。介護ヘルパーの仕事を長年積んだ妹(右)が、母の生活支援のために都会から田舎に引っ越してまもなく。

_aaa2609_22011年12月。被災地での取材でご縁のできた被災者家族に送るための豆餅を伸ばす。

_aaa02472012年5月。家の前の駐車場で花見をする。

_aaa30452012年7月。家の縁の下で見つかった子猫との写真。

◯旅立ち
 _aaa81028月。付きっきりで介護する妹。母の部屋の襖を50点ほどの写真で飾った。

_aaa78718月。娘がドライシャンプーしてくれて気持ちよさそうな母。

_aaa1577_211月30日。母が3ヶ月過ごした部屋を写真で飾った。

_aaa151111月30日。生前、母が最も世話になった隣近所のおばさんたちがお焼香に来てくれた。古いアルバムで思い思いの母の思い出を語るおばさんたち。

_aaa1657葬儀場のロビーにパネルを置き、母のミニ写真展。
Img_0540母が大正琴を教えた「生徒」さんたちが写真に見入る。重田学氏撮影。

_aaa1726_212月2日。葬儀の祭壇。

◯結び 
 毎年、私が臼で餅をつくのが年末恒例の家族行事となっている。東日本大震災と原発事故が起きた昨年の末は、母に10数軒の被災者の家族に豆餅や野菜を送ろうと思うがと話すと、母はそれじゃあ頑張るかといって、一生懸命に餅を伸ばしてくれた。母の自慢の豆餅はとくに喜んでもらった。私は本当に自慢できる母を持ったものだ。今年は餅をつく楽しみがなくなったのが何とも寂しい。こんな母の子どもに生まれた私は幸せものである。

 ちなみに母の戒名は「快阿栄澄大姉」(かいあえいちょうだいし)です。

 合掌  山本宗補


 

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