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2012年10月11日 (木)

戦前と戦後の教育を受けた世代の心配とは?(狩野美智子X関千枝子対談)

(写真はクリックすると拡大します)

12_2_4狩野美智子さん(左)と関千枝子さん(右)

戦前と戦後の教育を受けてきた世代だからこそ、日本社会の戦前回帰の動きを誰よりも感覚的に感じているようだ。紹介する二人は決して著名ではないが、戦後民主主義の時代の気風を教育の現場から享受し、女性の権利を拡大してきたような人生を歩いてきた。

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10月7日の日曜日の昼下がり、東中野駅前のイベントスペースは、80人ほどの参加者で満席だった。見回すとほとんどが60代後半から70代に見受けられた。最前列に座った私が自信を持っていえるのは、参加者の平均年齢を確実に下げたことくらいだろう。もちろん、私よりも若そうな人が数名いたのも確かだが。

 場違いと思える場所に私が参加したのは、拙著「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」を発行してくれた彩流社から頼まれ、この本のカバー写真を撮影したからだった。

_aaa4559_3_2「狩野美智子・関千枝子往復書簡 広島・長崎から戦後民主主義を生きる」というタイトルの本だ。この日の対談は出版記念イベントだった。

 左の狩野さんは83歳、右の関さんは80歳。要するに戦前戦中戦後を生きてきた二人のお元気な高齢者の写真を撮った御縁。お二人のイメージは撮影の時の短い時間のやりとりだけだったので、この日のお二人の対談は私の戦争体験談についての興味を鮮烈にかき立ててくれた。ICレコーダーを持参しなかったので、ノートに書き留めただけで、正確な引用とはいえない部分もあるかもしれない。だが、狩野さんと関さんという、個性豊かなお二人の発言のエッセンスの一部を、本の引用もしつつ共有したい。対談は毎日新聞の記者を務め、全国婦人新聞の記者も務めた関さんが進行し、会全体の流れも決めていた。

 関さん:「年を取ると共に、被爆体験のフラッシュバックが戻る。戦後60年、今まで戦争体験を語らなかった人が語るようになった。~~マッカーサー司令部による改革で、女性の解放があったので、女も人間として生きられる時代になった。自分の人生は自分が選んだ道。自分で責任をとるしかない。戦前の女性には考えようのない考え方といえる」

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 狩野さん:「敗戦当時は15歳でした。東京で空襲の焼け跡をみて戦争とはこういうものだと実感しました。玉砕は美化した表現。撤退を転進と言い換え、敗戦を終戦と言い換えて誤魔化す。当時の秀才で戦後に名を成した人たちは、本当のことを自分の頭で考えることをしなかったのではないか。15歳にもなって、そんなこともわからないのかと違和感をもって生きていたことを思い出す。~~大人って、何でこんなによく変わるんだろう、何でこんなにバカなんだろうと。天皇が神様だったのが、マッカーサーの言うことは何でも正しいとその日のうちから変わった。国は若くて才能ある者を戦地に送り出して殺してしまいました」

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 関さんが話し出してからの2時間、お二人は代わりばんこに思い出を語るわけだが、会場の一体感と緊張感は抜けないまま、一気に突っ走ったという感じが予想外でもあった。とくに、歩行が大変そうに見える関さんが、すっくと立って会場を見渡しながら、同時代の関係者の発言を次々と引き出す姿とそのエネルギーは現役そのものの集中力を感じさせてくれた。目が爛々と輝いているのだ。_aaa4513_3

◯ここでお二人の略歴を簡単に紹介しておきたい。
・狩野さんは1929年、東京生まれ。東京で空襲を度々経験し、長崎での学徒動員中に工場で被爆。戦後は働きながら、早稲田よりも学費が安いと慶應大に入り、卒業後は都内の定時制高校などで28年間教えた。その後は文筆家、翻訳家となり、主著に「バスク物語」、「野上弥生子とその時代」、訳書に「バスク大統領亡命記」などがある。
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展示された狩野さんの著書などの出版物。

・関さんは1932年、大阪生まれ。旧制女学校2年の時に広島の自宅で被爆。戦後は早稲田大学のロシア文学科
を卒業し、1954年に毎日新聞社入社。同僚の夫の転勤でアメリカで6年半の子育て。後に全国婦人新聞の記者、編集長を長年務める。現在はフリーのジャーナリスト。「女性9条の会」世話人。

 関さんが中学生の時に作成した「万世一系」の天皇家の家系図を見せる。「家系は途中で途切れます」
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◯お二人の被爆体験についてはこの日の対談では具体的な話には触れられなかった。そこで往復書簡から引用したい。

狩野さん:「わたしは動員先の三菱兵器茂里町工場で作業中に被爆しました。爆心地から1.2㌔です。(山本注:工場は浦上駅近くで、当時の写真は鉄骨の骨組みだけ残して工場は壊滅している)建物の中にいたこと、大きなものの下敷きにならなかったこと、などなどの幸運で、左肘の近くに3センチほどの切り傷以外けがもなく~」
「自宅は爆心地から3.4㌔、間に山があって、爆風はいくらかさえぎられたのでしょう。ここで、母、祖母、妹二人は被爆しつつも無事でした。父は繁華街の勤め先で無事でした」
「からだのだるさはたまらないほどのもので、~~家でごろごろしていました。下痢がとまりませんでした。~~白血球は1300ほどになり、かなり危険な状態でした」「原爆で亡くなった人たちに、生きてしまったわたしたちはどう謝ったらいいのでしょう。~原爆で二クラス分の(熊本女専の)学友が亡くなったのです」
 「長崎から遠ざかるにつれ、被爆は話題にさえなりませんでした。関西で銀行に就職したときも、東京で大学に入学したときも、就職したときも、結婚したときも、なんの問題にもなりませんでした。わたしは被爆者だということを、『ひけめ』に思ったことはありません。被爆者だということについて、わたしは何の責任もないのですから」

関さん:「何しろ私は3㌔屋内被爆で、家も焼けず、爆心近くに入ったのは10月になってからでしたし、家族も誰も死なず、広島の被爆者では一番幸せな被爆者だと思っています。それは、私が放射能被害を受けているはずはないと言う気持ちと、申し訳ないという気持ちと双方に通じるのですが、だから結婚のときも隠しませんでした」
 「1975年、父の死後、姉が広島市内にたくさんある慰霊碑の写真を撮っているのを本にしたいと言いだし、私も説明文を作るのを手伝いました。この作業を通じて私は改めて原爆のすさまじさを思いました。そして、自分が原爆のことを書いたのは『モーニングショー』の一文だけ。~~私は、奇跡的に生き残った人間として、自分のクラスメートの被爆、死の模様を正確に記録に残そうと思いました」

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敗戦後の広島の中学校で、関さんが使った音楽の教科書。戦後に、戦意向上の内容の部分を、軍国主義教育の証拠隠滅のために生徒たちに真っ黒に塗らせたという。(発行は昭和19年9月)

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1995年に北京で開かれた北京女性会議を特集した「女性ニュース」紙を見せる関さん。「全国婦人新聞」から改題した頃。

 参加者は関さん同期の新聞記者や、全国婦人新聞時代の同僚などと、狩野さんの妹さんたちと教え子など、二人とつき合いの長い年輩者が多かった。中には、東京都による「日の丸、君が代」の強制に反対する活動で停職処分を受け、教育現場への政治介入に反対する活動を今も続ける根津公子さんも。フィリピンで日本軍に強制的に慰安婦にされたロラたちをテーマにした映画『カタロゥガン!ロラたちに正義を!』の竹見智恵子監督も参加していた。

 関さんは根津さんなどの会場の声を引き出しつつ、教育現場や社会の右傾化の問題が黙っていられないほどに深刻になっていることをまとめとして参加者と共有しようとした。その辺りの懸念は本を読んでしっかりと実感してもらうほかはないが、ここでは対談での聞き取りの一部だけを紹介したい。

 根津公子さん:「民主主義を取り戻す生き方を一緒にしていきたい」
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 関さん:「民主主義が悪くなるのはまず教育から」と教育基本法の改悪を指摘した。「国会は変な女性議員ばかり増えた。困ったものだ」
 ちなみに、関さんは本では、男より差別的な人が多いのはどうしたことかと嘆いている。加えて、松下政経塾出身議員が民主党に多いことを懸念している。
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 狩野さん:「どうしていいかわからないほど戦前に近づいてゆく。今生きている人はみんな同時代人だから、戦前に戻らないようにしないといけないのではないか」
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◯おまけ写真:本の表紙用の撮影で使われなかった写真。狩野さんのご自宅にて。(2012年7月撮影)
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◯付記:原発問題についても本の中で二人はこう話している。
関:「原発は人を切り捨てるシステムです。そのゴミは何万年も放射能を出し続けるのです。私は原発は倫理的にゆるせないものだと思うのです」

狩野:「いまでも福島原発の事故は終息していません。放射能は漏れ続け、風向きで拡散し、雨で地面に着地します。原発はもうやめるしかないですね。あくまでもしがみつこうという保守勢力の前に、反対を言い続ける。村上春樹さんがいうように」

 何とも素晴らしい感性と考えを持ったお二人ではないだろうか。詳しくは本を読んでいただくkしかない。
参考までにお二人ともにブログをやっているとのこと。80代ですよ。
関さんは「千枝子のブログ」、狩野さんは「カノミの部屋」
のぞいてみてください。

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