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2012年10月の投稿

2012年10月30日 (火)

一月遅れの一時帰宅報告・その2(大熊町)。中間貯蔵施設調査候補地&セイタカアワダチソウ

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 木田節子さんご夫妻に同行してから一日置いて、大熊町から避難している木幡仁・ますみ夫妻の一時帰宅に同行した。

 木幡夫妻は、原発立地していた大熊町が中間貯蔵施設を早く受け入れることと、東電が財物の完全賠償を早期に実施することを要望した緊急要望書の署名集めに取り組んでいる。町民から集めた1700筆をこえる署名は、8月中に政府に提出済みだ。

 木幡さん夫妻の一時帰宅に同行するのは今回が二回目。最初は昨年12月。放射線量の変化や、国が提案した中間貯蔵施設調査候補地などを気にかけながらの取材となった。木幡夫妻は会津若松市の仮設住宅で避難生活する。ちなみにお二人のことは拙著「鎮魂と抗い」(彩流社)の中では、「抗う」2として詳しく取り上げている。詳細は本をご覧ください。

_dsc6249地元紙に掲載された中間貯蔵施設調査候補地マップ。大熊町が最も多くて9ヶ所が候補地に上がっている。いづれも国道6号線の東側に位置する。

 まず比較してほしいのが以下の二枚の写真。警戒区域に入る検問所の機動隊員らはしっかりマスク着用手袋着用で任務についていることは木田さんの一時帰宅同行で紹介した。その時と変わらないのが、警戒区域内のスクリーニング会場で働く係員のみなさんのノーガードぶり。この日は一日中雨降り。

_dsc6098警戒区域内、スクリーニング会場手前の簡易的検問所の警察官。マスク手袋着用。
_dsc6102スクリーニング会場手前で車を誘導する係員。マスクなし手袋なし。
_dsc6110スクリーニング会場。ホワイトボードには毎時0.75マイクロシーベルトと表示されていた。

◯木幡夫妻の一時帰宅に同行して一時帰宅する赤井さん(70代)の自宅へ
 場所は原発から西南に約4㌔、熊地区新町にある。古い木造平屋の一戸建てが並ぶ一角だった。家の外の草むらでの線量は毎時5マイクロシーベルトをこえていた。どこを見ても伸び放題の雑草だらけだ。

_aaa1373
_aaa1408木造平屋の家は屋根の一部や壁などが崩れ、居間は片づけようがない状態。

_aaa1430庭先はセイタカアワダチソウなどの雑草ですっかり覆われていた。

_aaa1524赤井家の墓のある墓地。原発から4㌔以内だが、杉の木の下で計ると毎時11マイクロシーベルト。地震で倒壊した墓石はもちろん手つかずだ。

_aaa1468赤井家の墓地と赤井さんの家の近くに位置する双葉病院。避難が遅れたために50人の患者さんが避難先などで死亡したのがこの病院だ。国会事故調の報告書でも指摘されている。締め切られたゲート前の空間線量は4マイクロシーベルトだった。昨年12月は6マイクロシーベルトをこえていた。

◯木幡夫妻の一時帰宅
_aaa1549木幡さんの水田がある野上地区。原発から西に7㌔。水田地帯は背丈2mをこすセイタカアワダチソウの独壇場と化していた。
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_aaa1610同野上地区の自宅を背景に立つ木幡夫妻。仁さん(62)、ますみさん(56)。自宅へ通じる道路も雑草が両サイドから伸び放題。

_aaa1572庭もセイタカアワダチソウなどの雑草が伸び放題。空間線量は毎時5マイクロシーベルトに近い。昨年12月は7マイクロシーベルトだった。

_aaa1586繰り返される余震のためだろうか、昨年よりもますます散らかっているような気がする。
_aaa1599木幡さんは中高生向けの学習塾を経営していた。もう二度と使うことのないと思われる教室で。壁には県内や関東関西の大学合格者の名前が出身校と共に大きく張り出されていた。

_dsc6197自宅入口にあるイチジクの実が熟したまま、鳥につつかれたようだった。

_aaa1627原発から西へ約8㌔、野上一区公民館に面する墓地は雑草が伸び放題で、墓石も向きが変わったままだ。警戒区域内の墓地をあちこち見たが、浪江町や南相馬市の墓地の倒壊はひどいものだ。倒れていないだけ良しとしなければならないといえるのかもしれない。

_dsc6212国道6号線長者原交差点方向。原発からほぼ真西に2㌔。国道6号線で最も原発に近い辺り。
_aaa1700国道6号線沿線で最も線量が高いと思われる長者原地区は毎時28マイクロシーベルトをこえる空間線量。この辺りを通過すると車内でも毎時20マイクロシーベルトをこえる。

_dsc6223原発から3㌔以内の国道6号線の夫沢地区中央台交差点。下の昨年12月の写真を比べると、余震によって道路陥没が悪化しているのがよくわかる。(9月23日)繰り返される余震が確実に建物や道路を蝕み、もろくさせている。
_aaa2193こちらが昨年12月21日撮影。

_aaa1728同中央台交差点のコンビニ側の角。空間線量は毎時44マイクロシーベルトをこえる。ほぼ同じ場所で昨年12月は60マイクロシーベルトだった。

_dsc6229セイタカアワダチソウにビッシリと覆われた水田地帯。脇には「福島の米」と書かれたJA大熊町の倉庫が建つ。

_aaa1693国道6号線脇の中間貯蔵施設調査候補地と思われる場所の一つ。

◯取材後記
 1:レベル7の原発事故を起こした東電の原発を立地していた大熊町ほど平均的に放射線量が高い双葉郡内の自治体はない。土壌汚染のレベルも深刻だろう。原発事故から1年8ヶ月になろうとしているが、県内の除染で出る放射性物質を含んだ大量の汚染土や廃棄物を保管するための中間貯蔵施設が未だに決まらない。福島市などの中通りなどでの除染が遅れている原因の一つになっている。環境省が調査候補地を公表後、自治体は説明不足を理由に反発しただけだった。賠償の不安もあるからだろう。それでも原発を立地してきたことからも、中間貯蔵施設を最も受け入れるほかはないと思われるのだが。

 ちなみに毎日新聞10月26日地方版の記事に、渡辺大熊町町長のコメントがあるので以下に引用したい。
「中間貯蔵施設の調査候補地12カ所中9カ所が集中する大熊町の渡辺利綱町長は会議後、『国から偏った方針を示され、説明を求めている。近々回答があるはずなので、内容を精査してから考えたい』と話した」

 2:いま、全国の水田地帯の耕作放棄地や土手、河川沿線で黄色い花を咲かせているセイタカアワダチソウ。北米からの外来種で日本中に広まったやっかいな雑草だ。(とりわけアメリカから持ち込まれたと私は思っているが) 大熊町も富岡町同様、セイタカアワダチソウが覆い尽くしつつある。背丈は通常の倍の2~3mもあるほどぐんぐんと伸びている。浪江町も楢葉町も同じだ。住民が帰還できず、住まない以上、数年もすれば、水田も畑も見渡す限りの荒野に変貌するのではないだろうか。それは避難した住民が最も目にしたくない光景だろう。

 昨年12月の木幡夫妻一時帰宅同行のブログ記事はこちら→「どこを計っても高い大熊町内(警戒区域)の放射線量」

◯官邸前で初スピーチした木幡ますみさん
_aaa582410月19日。木幡ますみさんは院内集会に参加後、官邸前抗議に初参加し、避難住民の気持ちをストレートに訴えた。スピーチの後、ますみさんに直接聞くと、「仮設の人は投げやりのような、あきらめムードが高まってきている」と私に話した。左の男性は富岡町から避難する西山さん。
_dsc7931

 西山さんのスピーチの一部:
「仮設住宅で暮らす人たちは表向きは元気そうに見えるが、精神的に追いつめられている。アパートの借り上げで生活している人はもっと大変で、一人で苦しんでいる人が多い。原発事故で、なくてもいい分断が起きています。お願いです。福島の住民の話をもっと聞いてほしい。とにかく原発止めましょう」

 以下が木幡ますみさんのスピーチ起こし:
「お晩です。原発は田舎の何も仕事がないところにお前たちのために持ってきましたという感じで、金で共同体も壊しながらもって来られました。いま大熊町には、被曝しながら原発と闘いながら仕事している若者がたくさんいます。事故が起きたらお前たち、自分たちでやるんだよ、というように差別するようなこうした動き。原発は田舎の何もないところに差別的に持ってくるのが常じゃないでしょうか。こんな原発は許されません。私たちは蟻でもなんでもありません。私たちは人間です。自分たちの生命財産を守るのは当たり前じゃないですか」

 


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2012年10月27日 (土)

一月遅れの一時帰宅報告・警戒区域の実情(富岡町)

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 関係者に平謝り。先月末に警戒区域の一時帰宅の二日同行させていただきながら、ブログで報告をしていなかった。よって、一月遅れとはいえ、警戒区域の実情を共有したいと思います。(小声で週刊誌が取り上げそうもないので)

「野田総理。私の家をやるから、あそこに住め。フクイチの事故が収束したというんだったら、政治家は双葉郡に国会議事堂を置け。それができなかったら原発を止めろ」
 これは福島県富岡町から避難している木田節子さんのトレードマークともいうべき官邸前スピーチの一部。
_aaa48796月7日の首相官邸前でスピーチする木田節子さん(58)。

◯富岡町、木田節子さんの一時帰宅
 その木田さんの一時帰宅に同行させてもらった。Jビレッジから原発構内での作業に向かう作業員らは、誰もが防護服で検問所を通過する。ところが、一時帰宅者は、普段着のまま検問所を通過し、スクリーニング会場で防護服や個人線量計、空間線量計などを貸与された後、警戒区域内で防護服に着替えるやり方だった。これには驚いた。

 何故か?検問所は楢葉町の警戒区域が8月のお盆前に解除されたので、原発から約10㌔の楢葉町と富岡町の境に移動した。その検問所の警備担当の機動隊は、全員がマスクにゴム手袋。素肌を出さないで徹底していた。これは当然の防護策だ。ところが、スクリーニング会場は警戒区域内に新たに移動した。国道6号線から会場に入る交差点に立って車を誘導する人もマスクなし、防護服なしだった。

 _aaa0546木田さん夫妻と同行者は私を含めて3人の計5人。支給された防護服に私たちが着替えたのは警戒区域内。あいにくこの日は雨模様。
_aaa0544毛萱・波倉スクリーニング会場は富岡町の第二原発に隣接する場所。毎時0.85マイクロシーベルトの表示がホワイトボードに書かれているにもかかわらず、20代と思われる若い女性スタッフ含め、ほとんどがマスクせず普段着だった。木田さんの一時帰宅に同行してこれが一番の驚きだった。
 
_aaa0575福島第一原発から8㌔の自宅に半年ぶりの一時帰宅という木田さん夫妻。自宅玄関から入るところ。築20年。瓦屋根ではないので、屋根が崩れる被害はなかったが、室内は地震で特に二階の衣装ダンスが倒れて大変だったとのこと。

_aaa0648木田さんがバスガイドの仕事を始めた頃の同僚からもらったこけし人形。ここは二階の窓側で空間線量は2マイクロシーベルト。
_aaa0679二人の子どもを出産した病院から発行された育児記録。一人は釜石市で、一人は南相馬市でお産。釜石市の病院で出産した長男が事故前から原発作業員として働き、事故後には原発の仕事に復帰。今は除染の仕事に関わっているという。

_aaa0631バスガイドの仕事で、ツアー先の観光地巡りを自ら大きな模造紙にイラスト入りマップを描いて案内に使ったという木田さん。10分程度で仕上げてしまうという。これは京都~福井県一体のツアー時に用意したもの。立体的で俯瞰的で色鮮やか。ツアー先によって毎回描いたという木田さんのセンスを実感した。指を指しているのは大飯原発再稼働に反対する小浜市の辺り。

 原発事故後、木田さんが福井県に出かけたのは、原発事故による避難民の心情として、大飯町役場や福井県庁に出向いて、再稼働に反対するように申し入れるためだった。事故前は観光案内で出かけた先への事故後の再訪理由が皮肉で悲しくもある。

_aaa0621こちらは木田さん手作りの信州観光イラストマップ。ちょうど我が故郷の浅間山と軽井沢や小諸も書き込まれていたので撮影。ぬいぐるみは長女の娘さんのもの。

_dsc5764バスガイド時代の観光地のホテル滞在の度に書いてもらった思い出帳。大津波で被害が大きく営業ストップしたままの岩手県田野畑のホテル羅賀荘のもの。下は宮城県南三陸町のホテル観洋のもの。ホテル観洋は死者も出したが今は営業再開している。_dsc5767

 釜石市生まれの木田さんは、大津波によって大きな被害を出した被災地の観光地を、お客さんを案内して軒並み訪れている。そのため、自宅に残る思い出は大津波前の被災地の観光スポットとしてのにぎわいぶりを彷彿させ、皮肉な思い出帳となっている。
 同時に、故郷は大津波で壊滅的な被害を受け、仕事で回った先々も同様に破壊され、自宅を建てた富岡町は濃い放射能汚染によって帰宅困難となってしまった故、木田さんの悲しみと悔しさは人一倍強いものがある。

_aaa0764木田さんがガイドの仕事で留守にすることが多いため、ご主人が食事の用意をすることが多かったのだとキッチンに立つご主人。ご主人はJRに務める。

_aaa0870周囲が雑草で覆われつつある自宅の全景写真を撮る木田節子さん。ちなみに自宅の庭先は4.65マイクロシーベルトだった。洋なしの木が一本あり、毎年実をしっかりとつけていたというが、今年は全くない。どうやら放れ牛が食べてしまったようだ。

_dsc5814木田さん。

 町内を移動中にたまたま出会った男性は木田夫妻と知り合いで、福島第一と第二原発で35年働いてきた作業員の人だった。今年の三月まで働き退職した元作業員の人の話では、「空間線量が4マイクロシーベルトは通常の100倍だ。もうここは人が住むべきところではない。除染して高齢者ばかり集めても、町として成立しない」

_aaa1077常磐線JR富岡駅ホームで線量を計るご主人。線路はセイタカアワダチソウなどの雑草でビッシリと覆われている。足元には「スーパーひたち自由席」の文字が。

_aaa1013JR富岡駅の近くに駐車してあったご主人の車は、数十m流されて手つかずのまま。いまはセイタカアワダチソウに取り囲まれている。

_dsc5875残された自動車と周辺をビデオに撮る木田さん。

_aaa0971富岡町役場の裏手。
_aaa0977富岡町役場の除染で出たと思われる汚染土が大型土嚢に入れられ、役場に脇に積み上げられたままだった。_aaa0982

_aaa0943原発マネーで建設された「健康増進センター リフレ富岡」。庭はコスモスやセイタカアワダチソウが占拠。

_dsc5837花びらのギザギザがなくて、丸みを帯びたコスモスの変種ではないかと木田さん。「リフレ富岡」の植え込みで発見。

_aaa0910JR夜ノ森駅前の自転車置き場。ここもセイタカアワダチソウが我が物顔に成長していた。空間線量は毎時6マイクロシーベルト以上。

_aaa1104検問所で警戒区域から出る私たちの車内をチェックする神奈川県警の警官。全員マスク着用している。

 ちなみに、この日の4時間半の滞在で、積算被ばく線量は0.007ミリシーベルトだった。この数値は、これまで浪江町や大熊町で取材した時と比較すると4~5分の1程度だった。

◯取材後記

 木田節子さんはいま各地での講演が多忙になっている。講演が官邸前抗議の日に重なり、最近は見かけないのが寂しい。先日、木田さんから以下のメールに添付されてここに紹介する観光イラストマップが送られてきた。 

 「次々に原発が再稼働したら、この日本は、出戻り総理を狙ってるどこかの世間知らずのボッチャン議員がいう『美しい国』ではなくなります。そうならないうちに、日本を旅しておきましょう。日本は山紫水明の国と言われ、とくに秋の十和田や八甲田、八幡平は最高ですよ…というような話をするために、東北イラストマップを描いてきました。先日の一時帰宅時に見つけた、バスに乗務したときのものを眺めて思い付きました。結構いいできだと思います。よければ見に来てください」
Photo「この地図に放射線は描けません」と上部にあるのが心憎い。
Photo_2「国民守らねー政治家はいねーがー!?」

 イラストマップを良く見ると、「『美しい国』だと~。腹黒い奴が言うな~!」「山下クン 医者止めなさい」などとも書き込まれている。いやはや何とも。木田さんは素晴らしいセンスと度胸持ちだ。

 


 

東日本大震災(原発事故・放射能汚染), 東日本大震災(津波被災地) | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月17日 (水)

「経団連解体!米倉ヤメロ!原発いらない!」コールが続く経団連前抗議

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 あたかも原発事故がなかったかのような認識と、放射能汚染による悪影響は取るに足らない事象とでも思っているのではないのか。自民党、公明党と共に原発推進路線をひたすら歩んできた経団連(米倉弘昌会長・84歳)は、民主党政権に圧力をかけ、2030年には原発のない日本社会を50%をこえる民意が求めている事実を無視し、野田政権の原発再稼働路線の後押し役を果たしている。自民党の政権復帰を願い、総裁に復帰したばかりの超タカ派元首相の安倍総裁にすりより、原発推進路線を確認しあっている。
 何と醜く恥知らずの「経済人」であることか。

 10月16日の水曜日夜6時すぎ、原発反対の抗議行動の矛先は自然と米倉会長のいる大手町の経団連会館となった。首都圏反原発連合の呼びかけに応じた数百人の若者、中高年入り交じる参加者が、激しい抗議を展開した。

_aaa5272_2「吸血鬼を滅ぼせ!」

_aaa5678経団連会館の最寄りの駅はメトロ大手町駅。

_dsc7664「米倉会長に国民不名誉大賞 ならびに 恥知らず大賞」(を!)

_aaa5636老いも若きも熱い思いは一緒。「経団連よ 金より命だ」

_dsc7640「あんたたち最低!! KEIDANREN HALL of SHAME(恥の殿堂)」


_aaa5339経団連会館前の歩道は道幅が広くゆったりしている。

_dsc7589老害政治家ならぬ米倉会長にピッタリのスローガン。「米倉老害」

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_aaa5592どんなテーマであれ、声量あふれるスピーチには頷かざるをえない「火炎瓶の鉄」さん。身体の動きは軟体動物のようでもある。

_aaa5349「金官チャリデモ」のひとりと思われる参加者。すごい健脚。抗議する人々の回りをひたすらグルグル回って「NO NUKES」をアピール。

_aaa5665ドラム隊勢揃いの感じ。

_aaa5535片側4車線の大手町の一等地に建つ経団連会館。

_aaa5495「大間原発作るな!」「let's change the nuclear policy」

_dsc7747東芝、日立、三菱製品のボイコットを呼びかける男性。

_aaa5515「原発いらない 経団連もいらない」

_aaa5649

_dsc7706官邸前と同様に、プラカード持ち、ひたすら静かに立ったままの参加者。

_dsc7768

_dsc7690「ふざけんな経団連!!」「原発推進ヨネグラゲは退治!!」

 米倉経団連会長がここまで醜く描かれ、なじられ、非難の的となる理由はここに書く必要もないだろう。
「米倉会長は大企業の業績が今さえよければ将来はどうなっても構わない、金もうけ一辺倒で企業倫理さえも持ち合わせない、『エコノミックアニマル』時代の価値観をまとった経済人だ」(山本の個人的見解)と、海外でさげすまれてもおかしくないことを、自分の胸に手をあててよく考えるべきだろう。

 米倉会長が原発に固執するのは、原発推進する限り、おそらく、経団連加盟の大企業が儲かる仕組みを失いたくないという気持ちの表れではないか。もちろん、その仕組みは原発事故によって簡単に破綻してしまうことが証明されたわけだが。そして大企業が儲かる仕組み、損をしない仕組みというのは、高橋哲哉氏が「犠牲のシステム 福島・沖縄」で指摘する「犠牲のシステム」の頂点に留まる仕組みであり、底辺の痛みを今もって認識することができないからだと思う。

 原子力発電は稼働しても止めても被曝労働者を踏み台にして成り立つ。人の手に負えない、処理できない高レベル放射性廃棄物を生みだし続ける発電システムだ。今回の原発事故によって、この犠牲を誰かに永遠に負わすことの倫理的な負い目を誰もが感じた始めたのではないか。とりわけ、大勢の人間のトップに立つものは、この倫理観に鈍感であってはならない。だが、日本を代表する大企業を束ねる経団連とそのトップである会長らは、経済界をリードする指導者としては器ではない。倫理観も、命に対する宗教観も欠如する輩だと断じてもおかしくない。

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2012年10月11日 (木)

戦前と戦後の教育を受けた世代の心配とは?(狩野美智子X関千枝子対談)

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12_2_4狩野美智子さん(左)と関千枝子さん(右)

戦前と戦後の教育を受けてきた世代だからこそ、日本社会の戦前回帰の動きを誰よりも感覚的に感じているようだ。紹介する二人は決して著名ではないが、戦後民主主義の時代の気風を教育の現場から享受し、女性の権利を拡大してきたような人生を歩いてきた。

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10月7日の日曜日の昼下がり、東中野駅前のイベントスペースは、80人ほどの参加者で満席だった。見回すとほとんどが60代後半から70代に見受けられた。最前列に座った私が自信を持っていえるのは、参加者の平均年齢を確実に下げたことくらいだろう。もちろん、私よりも若そうな人が数名いたのも確かだが。

 場違いと思える場所に私が参加したのは、拙著「鎮魂と抗い~3・11後の人びと」を発行してくれた彩流社から頼まれ、この本のカバー写真を撮影したからだった。

_aaa4559_3_2「狩野美智子・関千枝子往復書簡 広島・長崎から戦後民主主義を生きる」というタイトルの本だ。この日の対談は出版記念イベントだった。

 左の狩野さんは83歳、右の関さんは80歳。要するに戦前戦中戦後を生きてきた二人のお元気な高齢者の写真を撮った御縁。お二人のイメージは撮影の時の短い時間のやりとりだけだったので、この日のお二人の対談は私の戦争体験談についての興味を鮮烈にかき立ててくれた。ICレコーダーを持参しなかったので、ノートに書き留めただけで、正確な引用とはいえない部分もあるかもしれない。だが、狩野さんと関さんという、個性豊かなお二人の発言のエッセンスの一部を、本の引用もしつつ共有したい。対談は毎日新聞の記者を務め、全国婦人新聞の記者も務めた関さんが進行し、会全体の流れも決めていた。

 関さん:「年を取ると共に、被爆体験のフラッシュバックが戻る。戦後60年、今まで戦争体験を語らなかった人が語るようになった。~~マッカーサー司令部による改革で、女性の解放があったので、女も人間として生きられる時代になった。自分の人生は自分が選んだ道。自分で責任をとるしかない。戦前の女性には考えようのない考え方といえる」

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 狩野さん:「敗戦当時は15歳でした。東京で空襲の焼け跡をみて戦争とはこういうものだと実感しました。玉砕は美化した表現。撤退を転進と言い換え、敗戦を終戦と言い換えて誤魔化す。当時の秀才で戦後に名を成した人たちは、本当のことを自分の頭で考えることをしなかったのではないか。15歳にもなって、そんなこともわからないのかと違和感をもって生きていたことを思い出す。~~大人って、何でこんなによく変わるんだろう、何でこんなにバカなんだろうと。天皇が神様だったのが、マッカーサーの言うことは何でも正しいとその日のうちから変わった。国は若くて才能ある者を戦地に送り出して殺してしまいました」

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 関さんが話し出してからの2時間、お二人は代わりばんこに思い出を語るわけだが、会場の一体感と緊張感は抜けないまま、一気に突っ走ったという感じが予想外でもあった。とくに、歩行が大変そうに見える関さんが、すっくと立って会場を見渡しながら、同時代の関係者の発言を次々と引き出す姿とそのエネルギーは現役そのものの集中力を感じさせてくれた。目が爛々と輝いているのだ。_aaa4513_3

◯ここでお二人の略歴を簡単に紹介しておきたい。
・狩野さんは1929年、東京生まれ。東京で空襲を度々経験し、長崎での学徒動員中に工場で被爆。戦後は働きながら、早稲田よりも学費が安いと慶應大に入り、卒業後は都内の定時制高校などで28年間教えた。その後は文筆家、翻訳家となり、主著に「バスク物語」、「野上弥生子とその時代」、訳書に「バスク大統領亡命記」などがある。
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展示された狩野さんの著書などの出版物。

・関さんは1932年、大阪生まれ。旧制女学校2年の時に広島の自宅で被爆。戦後は早稲田大学のロシア文学科
を卒業し、1954年に毎日新聞社入社。同僚の夫の転勤でアメリカで6年半の子育て。後に全国婦人新聞の記者、編集長を長年務める。現在はフリーのジャーナリスト。「女性9条の会」世話人。

 関さんが中学生の時に作成した「万世一系」の天皇家の家系図を見せる。「家系は途中で途切れます」
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◯お二人の被爆体験についてはこの日の対談では具体的な話には触れられなかった。そこで往復書簡から引用したい。

狩野さん:「わたしは動員先の三菱兵器茂里町工場で作業中に被爆しました。爆心地から1.2㌔です。(山本注:工場は浦上駅近くで、当時の写真は鉄骨の骨組みだけ残して工場は壊滅している)建物の中にいたこと、大きなものの下敷きにならなかったこと、などなどの幸運で、左肘の近くに3センチほどの切り傷以外けがもなく~」
「自宅は爆心地から3.4㌔、間に山があって、爆風はいくらかさえぎられたのでしょう。ここで、母、祖母、妹二人は被爆しつつも無事でした。父は繁華街の勤め先で無事でした」
「からだのだるさはたまらないほどのもので、~~家でごろごろしていました。下痢がとまりませんでした。~~白血球は1300ほどになり、かなり危険な状態でした」「原爆で亡くなった人たちに、生きてしまったわたしたちはどう謝ったらいいのでしょう。~原爆で二クラス分の(熊本女専の)学友が亡くなったのです」
 「長崎から遠ざかるにつれ、被爆は話題にさえなりませんでした。関西で銀行に就職したときも、東京で大学に入学したときも、就職したときも、結婚したときも、なんの問題にもなりませんでした。わたしは被爆者だということを、『ひけめ』に思ったことはありません。被爆者だということについて、わたしは何の責任もないのですから」

関さん:「何しろ私は3㌔屋内被爆で、家も焼けず、爆心近くに入ったのは10月になってからでしたし、家族も誰も死なず、広島の被爆者では一番幸せな被爆者だと思っています。それは、私が放射能被害を受けているはずはないと言う気持ちと、申し訳ないという気持ちと双方に通じるのですが、だから結婚のときも隠しませんでした」
 「1975年、父の死後、姉が広島市内にたくさんある慰霊碑の写真を撮っているのを本にしたいと言いだし、私も説明文を作るのを手伝いました。この作業を通じて私は改めて原爆のすさまじさを思いました。そして、自分が原爆のことを書いたのは『モーニングショー』の一文だけ。~~私は、奇跡的に生き残った人間として、自分のクラスメートの被爆、死の模様を正確に記録に残そうと思いました」

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敗戦後の広島の中学校で、関さんが使った音楽の教科書。戦後に、戦意向上の内容の部分を、軍国主義教育の証拠隠滅のために生徒たちに真っ黒に塗らせたという。(発行は昭和19年9月)

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1995年に北京で開かれた北京女性会議を特集した「女性ニュース」紙を見せる関さん。「全国婦人新聞」から改題した頃。

 参加者は関さん同期の新聞記者や、全国婦人新聞時代の同僚などと、狩野さんの妹さんたちと教え子など、二人とつき合いの長い年輩者が多かった。中には、東京都による「日の丸、君が代」の強制に反対する活動で停職処分を受け、教育現場への政治介入に反対する活動を今も続ける根津公子さんも。フィリピンで日本軍に強制的に慰安婦にされたロラたちをテーマにした映画『カタロゥガン!ロラたちに正義を!』の竹見智恵子監督も参加していた。

 関さんは根津さんなどの会場の声を引き出しつつ、教育現場や社会の右傾化の問題が黙っていられないほどに深刻になっていることをまとめとして参加者と共有しようとした。その辺りの懸念は本を読んでしっかりと実感してもらうほかはないが、ここでは対談での聞き取りの一部だけを紹介したい。

 根津公子さん:「民主主義を取り戻す生き方を一緒にしていきたい」
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 関さん:「民主主義が悪くなるのはまず教育から」と教育基本法の改悪を指摘した。「国会は変な女性議員ばかり増えた。困ったものだ」
 ちなみに、関さんは本では、男より差別的な人が多いのはどうしたことかと嘆いている。加えて、松下政経塾出身議員が民主党に多いことを懸念している。
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 狩野さん:「どうしていいかわからないほど戦前に近づいてゆく。今生きている人はみんな同時代人だから、戦前に戻らないようにしないといけないのではないか」
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◯おまけ写真:本の表紙用の撮影で使われなかった写真。狩野さんのご自宅にて。(2012年7月撮影)
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◯付記:原発問題についても本の中で二人はこう話している。
関:「原発は人を切り捨てるシステムです。そのゴミは何万年も放射能を出し続けるのです。私は原発は倫理的にゆるせないものだと思うのです」

狩野:「いまでも福島原発の事故は終息していません。放射能は漏れ続け、風向きで拡散し、雨で地面に着地します。原発はもうやめるしかないですね。あくまでもしがみつこうという保守勢力の前に、反対を言い続ける。村上春樹さんがいうように」

 何とも素晴らしい感性と考えを持ったお二人ではないだろうか。詳しくは本を読んでいただくkしかない。
参考までにお二人ともにブログをやっているとのこと。80代ですよ。
関さんは「千枝子のブログ」、狩野さんは「カノミの部屋」
のぞいてみてください。

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2012年10月 8日 (月)

福島と沖縄:「犠牲のシステム」と「無意識の植民地主義」

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 最近、高橋哲哉著「犠牲のシステム 福島・沖縄」(集英社新書)を読んだ。著名な高橋氏が福島県いわき市で生まれ、警戒区域となった富岡町の小学校に通い、中通りや会津地方で生活したことを知った。

 首相官邸前と周辺では、脱原発の集まりだけでなく、このところ沖縄の普天間基地にオスプレイを配備する計画に抗議する集まりが増えている。今のところ、両方の集まりに参加する市民はそれほど目立たないが、脱原発を求める市民の多くが、福島と沖縄に共通する「犠牲のシステム」に気づいているのではないだろうか。

 高橋氏は、「原発は犠牲のシステムである。そこには犠牲にする者と、犠牲にされるものとがいる」と規定する。さらに、福島第一原発事故の第一義的な責任は、国策として原発推進にかかわってきた「原子力ムラ」にあると指摘し、市民の責任についてもこう断じている。
「原発を過疎地におしつけて電力を享受してきた(筆者を含めた)都市部の人間の責任も免れない」
 加えて、高橋氏は、両者の責任は異質なもので、「問題は、犠牲のシステムそのものを止めることが肝心なのだ」と強調する。
 
 沖縄戦で日本本土の捨て石となった沖縄について、高橋氏は、「沖縄の犠牲なしに戦後日本は成り立たなかったと言っても過言ではない」といっている。沖縄に在日米軍基地の74%が集中している事実だけとってみても、「今なお植民地主義が継続しているということではないか」と指摘する。高橋氏の指弾は厳しい。「沖縄が植民地であり、日本人が植民者であるという意識をもっている人は、おそらくほとんどいないだろう」。高橋氏はこれを「無意識の植民地主義」と呼ぶ。

 同様に、高橋氏は、「原発のリスクはまず第一に福島県民が背負っているにもかかわらず、その利益は関東地方、東京電力管内で享受されている。~~これは、柏崎刈羽原発が新潟県に立地されているのと同じ構図である」「同じ構図は、関西電力の三つの原発がすべて福井県若狭湾沿岸に立地していることにも表れている」「これは、首都圏(中央)をはじめとする都市部と地方とのあいだに、一種の植民地支配関係があることを示していないだろうか。~原発の場合でも、その利益を享受している植民者側の人々は、それが植民地主義であることをふだん意識することはない

 あれほどの反対の声がありながら大飯原発が再稼働された。原発の新設増設はないといっていたはずが、大間原発の建設再開が始まった。茶番人事で始動した原子力規制委員会(田中俊一委員長)は、「安全性の確認はするが、再稼働の判断は電力事業者か担当省庁がすること」との趣旨の見解を公表した。

◯首相官邸前とその周辺 10月5日 
_aaa3909十字架に見立てた作品を担いで歩くいわき市のアーティスト。偶然だが、背景に「原発54基 罪を省みよ」のプラカードが見える。10月5日
_aaa3926双葉町の原発推進スローガン「原子力未来のエネルギー」を考案した大沼勇治さん。

_dsc6981「平和を実現するキリスト者ネット」の団扇を持つ女性。

_dsc6979「憤」の一字を手に、静かに立ち続ける参加者。

_dsc7011「田中俊一 NO!」

_aaa3944「財界 米国 いいなりの政治から決別し 原発ゼロを」

_aaa4048大間原発建設反対の寄せ書き。

_aaa4104「金官チャリデモ」参加者。

_aaa4216自転車で颯爽と走り去る女性。

_dsc7165「ふくしま集団疎開裁判」応援メッセージをスピーチする山本太郎さん(合同庁舎前)

_aaa4284合同庁舎前の「ふくしま集団疎開裁判」支援の輪。

_aaa4238「日本独立宣言 原発ゼロ NO OSPREY」

◯防衛省前(9月30日)と首相官邸前(10月4日)
 沖縄では、県民あげての反対の声、基地ゲートを封鎖する実力行動があっても、オスプレイは配備された。死亡事故が多発し「未亡人製造機」と呼ばれているオスプレイが、本土上空も訓練ルートと使うことに驚いた国民の多くも抗議の声を上げた。にも関わらず、森元防衛大臣や野田首相は、米政府の言いなりで、オスプレイの安全性が確認されたので配備に問題がないと公言した。

《琉球新報 2012年10月7日webより引用:
 米海兵隊は6日、米軍岩国基地(山口県)に残っていた垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ3機を、米軍普天間飛行場に移動させた。岩国基地に7月に搬入された全12機の沖縄配備が完了した。海兵隊は今後、普天間を拠点に歩兵部隊と一体となった訓練を実施するほか、キャンプ富士(静岡県)や岩国基地に毎月数機を派遣し、本州、四国、九州での低空飛行訓練も計画している》

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_aaa3350「NO OSPREY」

_aaa3229防衛省正門前での抗議を体を押しつけ執拗に排除しようとする警官。
_aaa3276

1

12路上に置かれたプラカードも踏みつけ、拡声器の使用をやめさせようとする警官。

_aaa3863官邸前 10月4日

_aaa3651県鳥に指定され、希少野生動物にも指定されている沖縄本島ヤンバルの森に生きるノグチゲラ(かぶりものですが)も登場し、オスプレイ配備や高江ヘリバッド建設反対を訴える。

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_aaa3700「オスプレイは構造的不備こそ事故の原因。オール沖縄で反対だ。配備は撤回し訓練は直ちに停止せよ」。内閣府代理人に野田首相宛の抗議文を読み上げる代表(右)。

_aaa3796沖縄本島北部にのみ生息する絶滅危惧種のヤンバルクイナも登場。高江の危機的状況を現地の座り込み現場を再現するかのように訴える若者たち。
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_aaa3856「オスプレイも原発も野田もいらない」

◯心しておきたい高橋哲哉氏の結論
 
 私自身の認識は、昨年3月13日にJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)の仲間5人と車三台で双葉町役場まで取材に入った時に目にした電信柱の看板ではじめて気づかされた。そこには「東北電力」のPR看板だけが並んでいて、原発立地自治体は東京電力ではなくて東北電力管内だと初めて知ったところから東電の電力を享受してきた自分を意識するようになっていた。
 昨年6月に刊行したJVJA写真集「3・11メルトダウン」(凱風社)に収録した座談会で、私は司会進行をつとめたので、沖縄を最も取材している森住卓さんにこう問い掛けた。

山本:「原子力発電所という危険なものを地方の過疎地につくる、沖縄に米軍基地をつくる。福島と沖縄はどこか共通するところがあると思うんですけど、そのあたりどう考えていますか」 
森住:「沖縄の人たちがあれだけ苦しんでいるのは、やっぱり安保だよ。エネルギー政策も安保なんだ」

 改めて読み直してみたが、森住さんは問題の本質をズバリついていてさすがだ。

 高橋氏は著書をこうまとめている。
「だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか」

_aaa96279月9日、国会包囲の際にスピーチした高橋哲哉さん。

_dsc54219月9日。国会包囲の参加者。

 


 

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