警戒区域で生きる松村直登さんと子牛の石松の誕生Part2 Second Part of a photo reportage about Mr.Matsumura who stays in No entry zone in Tomioka-machi & a birth of a premature calf.
(写真はクリックすると拡大します)
警戒区域の囲い込みで産まれた子牛の「石松」誕生物語。確かに感動的だったが、オッパイの出ない母牛とオッパイの位置を見つけられない未熟児の関係はそのままで夜が明けた。
「石松」の続編に入る前に、松村さんが自宅で生活し続ける富岡町と原発との関係、富岡町がどんな町で被害状況はどうなのかを知らずには「石松」誕生物語の背景はわからない。というよりも、その背景を知らずに、石松のような未熟子牛がなぜ産まれてしまったのか、なぜ母牛が他の牛たちのイジメに合い、エサも満足に食べられずに痩せ細ったまま子牛を産まなければならなかったのかという現実を抜きに理解されかねない。その意味で単なる動物愛護だけの観点で「石松」誕生物語を捉えてほしいとは思わない。そこでまずは以下の写真を見ていただきたい。
富岡町の夜の森公園の桜並木はとりわけ有名。たまたま通りがかったら、大手メディアを入れた撮影日となっていた。
富岡第二小学校の桜も満開。校庭の空間線量は地上から50㎝ほどで5.7マイクロシーベルト/時。福島第一原発から9㌔。除染して子どもたちが通学し、校庭で遊べる環境だろうか?それ以前に若い世代が帰還して日常生活が送れる環境とは言い難いが。
人口16000人弱の富岡町には東電福島第二原発4基がある。原発誘致に伴い、莫大な固定資産税や交付金が自治体収入となる。原発マネーと思われる箱物の一つがこの「富岡町健康増進センター リフレ富岡」。Webで見ると、温泉、プール、トレーニングジム、宿泊施設まで完備されている。富岡町役場も重厚な建物で、隣接する図書館を兼ねた「文化交流センター学びの森」も実に大きな箱物だ。
「文化交流センター学びの森」 2012年3月撮影
福島第二原発の建屋が海岸から見えた。福島県議会が脱原発決議をしているにも関わらず、東電は第二原発の廃炉を決定していない。この後に及んでもなお、国の出方を見てから判断するといっている。国民の税金でしか賠償金を支払うこともできない事実用倒産した電力会社ということと、事故を起こした責任を認識しようとしないのではないか。
海岸地帯の大津波による被害は甚大だが、警戒区域のために住宅の片づけは手つかず。後ろは第二原発の排気塔。この辺りの空間線量は0.7マイクロシーベルト強/時ある。
JR常磐線富岡駅周辺は壊滅的な被害を出した。駅舎はない。ガレキとなった自動車が駅周辺には何十台も残されていた。
原発から10㌔強にある畜産牧場は、牛舎で餓死した牛たちの死骸が全く片づけられないままだった。元々は養豚業を営んでいたと思われる牧場だ。狭いスペースに二頭が詰め込まれ飼育されてていたと思われる。事故前からの畜産業者の姿勢が問われる現場といえた。
野良犬となった首輪をつけた犬が死骸を食らっていた。放れ牛の多くが生き延びた一方で、水もエサもないまま、多くの家畜が息絶えていった地獄となっていたことがわかる。事故後の4月22日に警戒区域となった立入禁止区域は、原発事故が生みだした動物たちの地獄だ。人の都合で飼育され、棄てられた家畜もペットも哀れだ。住民さえも棄民する国だといえば驚いてもいられないが。
原発事故当時、建設業に従事していた松村さんは常磐高速道路の建設工事中だった。地震で古い木造二階建ての家はペシャンコに崩壊したが人的被害はなかった。普段生活していた自宅には80代の両親がいたこともあり、近所のおばさんと4人での避難しない生活が始まった。停電だったが、プロパンガスで煮炊きができ、大型冷凍庫には食料が保存されていて、飲み水は沢の水を引いて間に合わせたという。老いた両親の手伝いをして作った米もたくさんあった。タラの芽などの山菜も、川魚も平気で食べたと話した。庭先のビワの大木に鈴なりとなったビワもたらふく食べたという、ほぼ自給自足の生活は、政府が20㌔圏内を警戒区域に設定する4月22日前後まで続けた。自分が寝泊まりできる仮設住宅は三春町に確保し、両親は県外に避難させた。
松村さんの家だけ放射線量が低いはずもない。現に、庭先で計ると1.7マイクロシーベルト/時ある。仮設のある三春町ははるかに低いし、4月に帰村しはじめた川内村役場の線量と比しても5倍以上ある。どこへ行くにもマスクなしの松村さん。放射能の影響はもう考えないようにしていた。50代はじめという年齢からすれば、健康への影響は熟慮したほうがベターなはずだが、「希望の牧場」代表の吉沢さんと同様に、自らの被曝と引き替えに、どこかやぶれかぶれとなって国の指示に抵抗する生き方を感じる。
事故後の4月。松村さんは東電本社に単身乗り込んでどなりつけたこともあるという。地震によって崩落した屋根を修理したくても住民も業者も立入できない現状に対し、東電が住民に代わって応急修理するべきだと実施させる結果につながったと話した。
松村さんは、殺生は嫌いな性分から、残されたペットの犬やネコなどにエサをやり始めたが、今では富岡町に残る放れ牛の面倒をみようというプロジェクトを立ち上げ、NPO法人化する予定だ。正式名称は「福島の再生と未来を考える がんばる福島」となる予定。本人の思ったほどではないというが、寄付金が少しづつ集まっている。ちなみに、松村さんの遠い祖先は、檀家となっている近所の真言宗寺院の住職をしていたとのことだ。
停電対策にと、太陽光充電でランタンなどの充電ができる優れものも寄付された。
「初めは牛の面倒を見るつもりはなかった。イヌ、ネコだけにエサやりをしていたのが、今では生き残った牛も引き受けてしまった」と松村さんは話した。松村さんの活動は町から避難した友人が専用のブログ(「ときぶーの時間」)を立ち上げて発信するようになり、海外にも広まった。ペット用のエサが余るほど届いていた。インスタントラーメンや缶詰類などの食料と飲料水も一人では食べきれないほど届いていた。
私が伺った時期は、谷あいの細長い水田地帯に牛を囲い込む柵を設置するなどの作業で、自宅に寝泊まりして生活していた。昼はインスタントラーメン、夜はご飯に缶詰のおかずのパターンらしかった。夜はロウソクの灯りだけでも何とか生活できるようだ。長い夜にはアルコールも欠かせない。
二羽のダチョウもフェンスを作って飼う。一羽は車のあとを着いてきたといい、一羽は放浪しているところを捕獲して飼うようになったという。
野良猫を見つけると道路端にエサをやる。決まった家の倉庫などにエサを置く日課だが、カラスの目につくところに置いてもカラスに食われるだけだと、置き場所は限定している。
住民が設置した倉庫内のエサ筒にエサを補充する。
数匹のネコが集まる場所。松村さんが呼びかけるとどこからともなく寄ってくる。
野良牛の群れを見つけると餌づけして慣れさせる。捕獲して移動する作業は時間がかかる。
牛を囲い込むための柵は未完成だが、囲い込みで無用の繁殖を防ぐため、オスとメスを二ヶ所に分け約200頭を目処に収容することを考えていると話す。水田の雑草は牛たちがきれいに食べてくれるので、農地の荒廃を防ぐ狙いもある。当面の土地は両親や親戚が米作りをしてきた水田などを利用している。
現実には、警戒区域内で100頭の牛を生かすことも楽な取り組みではない。膨大なエサ代や運搬用トラックなどの機材に必要な資金と人材を確保して継続することは至難のわざだろう。しかも、松村さんはイノシシは飼っていたが、本業は建設業で畜産家ではない。松村さんが取り組もうとしていることは、殺生は嫌いだという感情からの東電原発事故の尻拭いとなりそうだ。
本来は東電及び国が、生き残っている牛たちを殺処分せず、しっかりと保護し、被曝研究なり除染研究なりに活用し、生かす方策を考えるべきではないかと思う。原発事故は国策で推進され、「安全神話」のウソを言い続けた国と東電による人災事故だったのは明白だからだ。
◯「石松」のその後お産の翌日、母牛と石松は寄り添っていたがオッパイを飲んだ様子は伺えない。
石松は前日よりもしっかりと歩けるようになっていたが、母牛の気ままな移動に後を追うだけ。
松村さんは「石松」を抱きかかえて、出ないオッパイの代わりに赤ちゃん用の粉ミルクで代用することにした。
遠藤さんが入手してきた粉ミルクを、湧かした水を冷まして溶かし、石松に与える松村さん。ゴクゴクと飲み始めたら一気に飲み干した。
結局、母牛のオッパイを吸うこともできないため、石松は松村さんの自宅に運ばれた。被曝した牛たちを警戒区域の外に移動することは禁じられているため、獣医が来てくれない限り、獣医に見てもらうこともできないのが現状だ。毎日粉ミルクをたくさん飲ませて面倒みないと、未熟な石松が生き延びることは難しいだろうというのが実感だった。加えて、森に隠れたり、牛舎の隅に身を潜めたりと衰弱した母牛には死が迫っていると思ったほどだ。私が撮った「石松」の最後の写真がこれ。私は翌日の二本松市の取材があるため、4月19日の夕方には富岡町を離れた。
その後、石松と母牛はどうなったのか?つづきは「ときぶーの時間」で読んでいただくほかはない。
◯最後に原発事故と原発に関しての松村さんのコメントを紹介しておきたい。
「事故前から放射能は何度も何度も洩れていたんだ。まだ事故が収束していないのに再稼働って。政府は何を考えているのか、あきれかえる。もう一度事故と起こしたら日本はもうダメだぞ。新しいエネルギー開発に取り組むべきだろうが」
◯取材活動支援のお願い
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