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2012年3月の投稿

2012年3月31日 (土)

若狭原発銀座で元原発作業員(下請け労働者)・斉藤征二さんの話を聞いた(former nuclear power plant worker who suffered thyroid gland,,a cardiac infarction and otherdisease.)

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 「大飯原発の再稼働を許してしまうと、なし崩し的に他の原発の再稼働に繋がってしまう。第2のフクシマを続発しかねないという大きな危機感を抱いている」(グリーンピースのWebから引用)

 こうした危機感から、25日から福井県庁で断食の抗議活動に入った中嶌哲演住職(小浜市明通寺)の紹介でお会いできたのが元原発労働者(被曝労働者)の斉藤征二さんだ。斉藤さんにお会いして話を伺ったのは先月末。原発の元下請け労働者として全国で初めての原発下請け労働者の組合を1981年に設立し、仕事を失った斉藤征二さん(71歳)の話の要点を自分用メモとして書き出しておきたい。(反原発40年の中嶌哲演住職についてはこちらのブログでどうぞ)

 斉藤さんは岡山県生まれ。配管工として原発の仕事に10数年従事した。全国で初めての原発下請け労働者の組合を1981年に設立した。斉藤さんの原発での最初の仕事は美浜原発1号機の基礎工事(1967年)。原発関連の仕事を始めたのは、1964年に大阪の鉄工所で配管工事の仕事を始め、親方が「原発配管で通用したら世界で通用するぞ、腕を試してこい」といわれて福井県の原発建設の仕事を求めてきたのが経緯だったという。美浜原発1号機では基礎工事、配管埋設工事、一次系二次系配管も手がけた。通常、原発1碁建設には3~4年かかるが、その間に担当する専門分野の工事が終わると原発ではない別の工事現場に移るという仕事のパターン。敦賀市には東洋紡の工場もあったのでそちらの仕事もした。

_aaa0455斉藤征二さん。敦賀市の自宅で。2012年2月末

 斉藤さんがこれまでに働いた原発は美浜原発1号機と3号機、敦賀原発1号機、高浜原発1号機と2号機、大飯原発1号機、玄海原発2号機。組合設立後に浜岡原発5号機の基礎工事をやったという。「敦賀原発の1号機だけが東芝日立のGE。ほかは全部三菱系」。「浜岡は砂丘ですよ。ビックリしたのは、あそこには岩盤がない」
 斉藤さんが組合を設立したのは1981年5月。原発下請け労働者の組合で、全日本運輸一般労組原子力発電所分会の分会長となった。下請け労働者の抱えるピンハネと雇用不安の問題を訴え、組合参加を募るために全国キャラバンで福島第一原発にも女川原発にも出かけていってチラシをまいたという。

 組合設立の最大のきっかけは敦賀原発1号機での被曝しながらの「違法修理」が発覚し、原発の稼働が止まって何の保証もないまま仕事を失ったところにあるという。「違法修理」といっても、修理の指示は敦賀第一原発を運転する日本原電が子会社の関電興業に出し、下請(孫請)の武田鉄工から斉藤さんの親方に仕事が来るルートでの要請だった。原電の「ちょっと見てくれんか」(直してほしいの意味)の指示で実際に現場に入って動いたのは親方と二人だけ。蒸気発生器にピンホール大の穴が開いていて蒸気洩れが起きていた。穴をふさぐ応急処置として斉藤さんはハンマーで鉄を叩いて延ばして穴をふさいだ。全面マスクで作業した。(ここで重要なのは、応急修理の指示を出す原電からは具体的な修理方法についての指示はないという点だ)。応急処置が終わると、二人は事務所に呼ばれてビール1ダースが「ごくろうさん」と目の前に出されたという。後でわかったのは、ビールを飲んで汗や小便を出すことが除染の早道だと聞いた。

_aaa0497斉藤さんの1980年~81年の被曝管理手帳。「関電興業敦賀営業所 廃棄物処理兼設備定検工事」「配属 武田鉄工所」が読みとれる。

 約3ヶ月後、応急処置したところがひび割れたので、今度は肉厚のゴムと鉄板で二重に覆うようにして再び応急修理をしたという。だが、その後に洩れて原電による事故隠しが発覚し稼働停止となった。蒸気発生器の修理は本来は原発を止めて作業しなければいけないのに違反したことや、放射性物質を含んだ水が垂れ流され、コバルトが出たり、図面がないなど、様々な杜撰な管理が露呈した大騒ぎとなったという。重要なのは、こうした作業で斉藤さんの被曝量は半年で22.6ミリシーベルトに達したことだろう。
(当時はフイルムバッジ。原電は5枚のフイルムバッジを使用。ところが下請けは3枚だけ。最も危険なアルファ線と中性子も計れる2枚がない。当時は5レム(50ミリシーベルト)が最高値。3ヶ月で30ミリシーベルト(3000ミリレム)まで。)

_aaa0394斉藤さんはコンクリートの寿命を問題視する。コンクリートから無数にぶら下がる金具で配管が止められていることを説明している。「コンクリートは老朽化して『アルカリ骨材反応』で石とセメントが分離して強度が低下する」。とりわけ、建屋には無数の配管類がぶら下がっているので、落下損傷して大事故になることを心配している。「コンクリートの耐用年数は30年。30年経った原発は廃炉にしないと」と斉藤さんが強調する理由の一つだ。

 何の保証もなく仕事を失った斉藤さんは組合を設立して、同じ下請け労働者に向けたチラシではこう訴えた。

「被曝・雇用不安の解消をめざし 原発で働く仲間の皆さん、福井県民の皆さん、私たちはこのほど労働組合を結成いたしました。今まで私たちは、下請、マゴ請、そのまた下請といった、およそ時代の先端をいく職場にふさわしくない前近代的な状況の中で、労働者同士がバラバラで希望も権利もなし、あるのは被曝の危険と雇用不安だけというひどい実態です。私たちの場合は職場や企業が違っても、あなた一人だけでも加入できる個人加盟の組合です。あなたも運輸一般原電分会に加入して、労働者として希望と誇りの持てる生活とガラス張りの原発を築くために共に力をつくしてみませんか。心から歓迎します。 全日本運輸一般労働組合原子力発電所分会 分会長 斉藤征二」

 組合設立には様々な妨害があった。夜中に無言電話がかかってきたり、石を投げ込まれて玄関のガラスが割られたり、公安がつきまとったり。組合設立後に斉藤さんは中央労働委員会に、日本原電と関電興業が団体交渉を拒否しているので申し立てをし、使用者責任やピンハネの実態を追及した。下請とは契約書もないし直接雇用していないので雇用責任はないが管理責任はある、ピンハネの実態も認めたという。組合設立による交渉の結果、労働環境とピンハネの実態の改善につながったようだ。ピーク時には200人が組合に参加したという。

_aaa0458
 斉藤さんは60歳の2000年に退職した。最後に関わった原発の仕事は浜岡5号機の基礎工事。この時は被曝とは無縁の建設仕事だった。原因が特定できない病気が続出したのは原発の仕事を止めて数年後のことだった。

 2001年(61歳)に体調異変で背中に水がたまる病気になった。2003年(63歳)は甲状腺切開手術。ノドにピンポン玉より小さめな固まりができていた。2006年(66歳)には急性心筋梗塞で病院に運ばれ、胸部への電気ショックで息を吹き返した。「3分遅かったらアウトだった」というほど紙一重だったようだ。2008年(68歳)には腰部脊柱菅狭窄症手術をしている。2010年(70歳)では両目の緑内障手術をした。今年は白内障手術をすることになっている。こうした病気の連続により、斉藤さんはお年寄りのように腰が曲がってしまった。

「全ての原発を停止から廃炉にしないといけない。年内は絶対動かさないように。30年のものは全て廃炉に。それが私の今の運動です」

_aaa9878日本原電敦賀原発。左から1号機、2号機、ふげん(白い建屋)。敦賀市 2011年

_dsc2230関西電力美浜原発。右から1号機、2号機、3号機。美浜町 2011年

_dsc2462関西電力大飯原発。大飯町。 2011年

_aaa3758関西電力高浜原発。高浜町。 2011年

_aaa0036資料:「若狭の原発15碁の40年、そして今」(地元の反原発グループが発行した一目でわかるリスト)(データサイズを大きくしてあります。自由にコピーしてください)


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2012年3月20日 (火)

あれから1年。被災地では何が変わったのだろうか?(A year after 3/11,has anything changed in the great tunami & Fukushima nuclear power plant disaster-hit area. ?)

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 あれから1年が経ち、被災地にでもいない限り、国難の事態がつい昨日起きたことを私たちは忘れてしまいそうなほど、大震災前の日常を取り戻そうとしている。自戒をこめ、東日本大震災と原発事故から1年、現場で撮影した写真を通じて忘れてしまうことに抗いたい

 _dsc6839大津波と地盤沈下によっていわき市周辺の海岸線はどこも波が高い。広野町広野浄化センター前の海岸。3月7日

_dsc6654いわき市久之浜町末続の海岸。いわき市全体での死者行方不明者は347名。3月6日

_aaa0235撤去されずに残る漁船の残骸。いわき市四倉漁港。3月6日

_aaa0326死者行方不明者約60名といわれる、いわき市久之浜町久之浜 3月7日

_aaa0366同久之浜町久之浜。第一原発から南に34㌔。3月7日

_aaa0027Jビレッジスタジアムゲート。原発の南21㌔。空間線量は毎時0.5マイクロシーベルト。広野町 3月7日 

_aaa01713月1日、業務再開した広野町役場。除染された敷地内は毎時0.2~3マイクロシーベルトだが、周辺は0.5マイクロシーベルト平均ある。除染した小中校を再開するという。原発の南24㌔。3月7日

_dsc6702広野町の国道6号線警戒区域入口検問所。空間線量は毎時0.5マイクロシーベルトをこえる。3月7日

_aaa0920開店直前に被災したケーズデンキ富岡店。原発から南西に5㌔。3月8日

_aaa0888富岡町役場 敷地内の空間線量は3マイクロシーベルトだが、敷地外は6~7マイクロシーベルトの田園地帯が取り囲む。第一原発から南西に9㌔。3月8日

_aaa0701生け垣の剪定をする女性。自宅に帰って生活したい気持ちの表れなのだろう。原発から9㌔。富岡町 3月8日

_dsc6968水道管の破損状況を点検している作業員。原発から南西に9㌔。富岡町 3月8日

_aaa0528被曝研究のために囲い込まれた放れ牛。原発から南西に8㌔。富岡町 3月8日

_dsc7007元気に生きのびる放れ牛たちの群れ。富岡町 3月8日

_aaa0132「希望の牧場」でエサに食らいつく牛たち。原発から北西に14㌔。浪江町。3月9日

_aaa0009300頭をこす和牛がひしめく「希望の牧場」では、エサが与えられても厳しい冬を越せずに息絶える牛もいる。3月9日

_dsc7121南相馬市、大雪の降った朝の国道6号線検問所。3月10日

_aaa0026南相馬市鹿島区、国道6号線脇に撤去されずに残る漁船。南相馬市の死者行方不明者は900名。3月10日

_aaa0242南相馬市鹿島区漁港 国道6号線まで流された漁船と浪江町請戸港から運ばれた漁船が修理を待つ。3月9日

_aaa0388諦めかけた酪農を再開し、原発事故前に近い出荷量までに戻した滝沢昇司さん。疎開先の郡山市の中学を卒業し、地元の高校に入学する息子は酪農を継ぎたいという。南相馬市原町区。3月9日

_aaa0128宮城県名取市閖上。本堂を残しほぼ壊滅的な被害を受けた曹洞宗東禅寺。名取市の死者行方不明者は966名。3月10日

_aaa0181宮城県南三陸町。南三陸町の死者行方不明者は845名。3月10日

_aaa0165多数の犠牲者を出した南三陸町防災対策庁舎 3月10日

_aaa0434岩手県大槌町の海岸地帯を1周忌法要の現場まで読経する僧侶たち。3月11日 

_aaa0063岩手県大槌町役場。大槌町の死者行方不明者は1282名。3月12日

_aaa0042親戚の墓参りに来た大槌町の女性。大槌町で壊滅した曹洞宗紅岸寺の墓地。3月11日

_aaa0017大槌町浪板にある浪板仮設住宅に降りしきる雪。3月11日

_aaa0054_2大槌町江岸寺の墓地に建てられた一周忌追善供養塔。3月12日

_dsc7214大槌町吉里吉里にある曹洞宗吉祥寺での1周忌合同供養。200名近い檀家が亡くなった。3月11日

_aaa0286同吉祥寺での合同供養。僧侶約15名が全国から参加。焼香に来た人は1000名ちかかった。3月11日

_aaa06732012年3月11日午後2時46分。吉里吉里湾で犠牲者の冥福を祈る遺族たち。3月11日

_aaa0803遺族に代わって吉里吉里湾に生花を投げる僧侶たち。3月11日

_aaa0086大熊町から避難して会津若松市の仮設住宅で暮らす木幡夫妻。郡山市で実施された3・11脱原発集会に友人たちを誘って参加した。背景は磐梯山。3月14日

_aaa0274村長が帰村宣言をした人口3000人の川内村。除染されたかわうち保育園。毎時0.3マイクロシーベルトは、平常時を0.04~05マイクロシーベルトとすれば、7倍に相当する。3月13日

 大津波と原発事故による被災地を取材して感じるのは、1年の区切りが被災者にとってはあまり意味を持たないということだと思う。「あっという間の一年だった」。何度か取材してきた被災者の人たちからたびたび聞いた一言だった。被災者にとっては現在進行形でつづく大地震、大津波、原発事故との闘い。被災地から遠い私たちはどうしたら忘れずに助け合っていくことができるのだろうか。


 

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2012年3月 5日 (月)

除染:東電と国の無責任に耐えかねて除染ボランティアを始めた住職

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 まず、取材に協力していただいたみなさまに掲載が遅れに遅れてしまったことをお詫びしたい

◯つるりん和尚こと阿部光裕(曹洞宗)常円寺住職
_aaa0177「つるりん和尚」こと阿部光裕常円寺住職の除染作業前の支度。福島市立岡山小学校。2月5日

_aaa0185高圧洗浄機の使い方の手本をボランティアにして見せる、阿部光裕常円寺住職。ポイントのひとつは専用の洗剤を散布してしばらく放置してから洗浄機を使うこと。ゴーグルとマスクとカッパの装備が基本。

_aaa0384a福島市岡山小学校の除染に集まった県内外からのボランティアのみなさんと、除染道具。小学校の先生方も参加した。

 福島県中通りの除染は、国のあいまいな基準と対応策に結果的には住民が翻弄され、自ら除染と仮置き場を見つけださざるを得ない悲しむべき現実が根底にある。様々な事情から地元に留まることを選んだ大半の県民市民。行政の除染を待っていてはいつになっても足元の放射線量は下がらない。保育園や幼稚園、小学校や中学校に子どもたちが日々通う現実に対応するには、住民自らが除染を率先して手がけるしかない。汚染土を県も市も仮置き場を用意しないむごい現実を前に、自分たちで仮置き場を設置するほかはない。

 以下は福島市東部、 地区での、仏教寺院の住職が住民の苦悩を見かねて、自ら汚染土を預かる仮置き場を山中に設置し、ボランティア組織を立ち上げて、除染ボランティアを始めた事例だ。阿部住職は三人の子どもがいる。地元に留まる選択肢を選んだ子どもたちと共に暮らす以上は、地元の線量が高いまま放っておくことはできないと昨年から除染に取り組み始めていた。

◯福島市岡山小学校(阿武隈川東岸の東部地区)の除染作業(2月5日)
_aaa0327福島市立岡山小学校の門柱前の空間線量は毎時0.5マイクロシーベルト以上。首都圏であれば、保護者が大騒ぎとなる線量だが、福島市内では一般的な線量といえるほど基準が高止まりしているのが現実だ。加えて、岡山小学校は渡利地区同様に空間線量が3マイクロシーベルト前後だったため、昨年6月に校庭表土の除染が実施されていた。幼稚園が隣接することもあり、半年以上たっての再度の除染が欠かせなくなったといえる。

_aaa0294ボランティアには県外からの参加者の方が多い。30代もいるが、メインは40代~50代。県外者は2度目3度目の参加者が多い。「若い女性にはハードな作業なのでオススメはしません」とスタッフの弁。ボランティアは被曝の心配から40代以上が望まれ、20代の女性はお断りしている。

 実際、かなりの肉体労働だ。ブラシでごしごしこすり、スコップで泥をすくい上げて袋に入れる。参加者の負担を減らすには人海戦術が欠かせない。

 東京から土日を利用して参加した出版社の仕事をしているという46歳の男性は線量計も持参。「市民が自ら動いているところを手伝いたい。一人でも頭数が多いと役立てる。不安要素を少しでも取り除ける」。男性は南相馬市でガレキ撤去や草刈りなどのボランティアを10回ほどやってきたと話した。

 この日のボランティアは18人。大半が首都圏からの参加者で地元は3人だった。2度目3度目の参加者が多い。

_aaa0362排水路の除染前と除染後の線量が測定されて記録される。測定方法は主に直置きで50cm~1m間隔で計測し、ホットスポットを見つけだし、重点的に除染。効果のほどが確認できることが重要。

_aaa0225森林管理のプロも参加して枝木の選定と伐採も除染に欠かせない作業という。

_aaa0369除染で集めた汚染土は軽トラで常円寺の裏山に設置された仮置き場に運ばれる。

_aaa1573阿部住職は、近所や檀家から運び込まれた汚染土を寺の裏山の空き地に預かる仮置き場を設置した。少しづつ預かった汚染土が増えていく。除染ボランティアで取り除かれた汚染土もここに運び込まれて、仮置きされる。「行政をやる気にさせる方法のひとつ」と阿部住職。2011年12月撮影
_aaa1590汚染土の線量を計ると、私の線量計は毎時8マイクロシーベルトを示した。住職のものは毎時10マイクロシーベルトを示したが、いづれにしても高いことは間違いない。同12月撮影

_aaa0005ボランティアが寝泊まりする部屋で除染作業前の打ち合わせ。常円寺にて。

◯つるりん和尚のブログ「つるりん和尚のああいえばこうゆう録」より(1月26日)
「国が計測に入っても、玄関先と庭の中心部分の2地点のみ。それも、相変わらず地表から50㌢と1㍍です。

町会毎に線量計は配られていて、心ある役員さんなどが測りにくることもあるようですが、とても正しい計測がなされているとは思えません。そもそも、空間線量を計測することはそんな生易しいものではないからです。

事故後、1年が経過しようとしている中で、およそ信じがたい現状です。勿論、土壌検査にいたっては調査など無いに等しい。

結論から言うと、行政はこうした事実と向き合うのが怖いのです。ホットスポットが数多く存在することは知っていても、実際に自分たちが計測すると、それを除去しなければいけない責任が生じる。しかし、置き場もない上に、人手も足りない。一軒やれば次々と頼まれることになり、断ることができなくなる。

しかし、そこから目を背けては現実に脅威を取り除くことはできないのです。いわんや、通学路ならなおさらです。
結果、住民、殊に子供たちの未来に影を落とすことになるのです」(引用了)

◯福島市役所東部支所での除染講習会(2月4日)
_aaa0210福島市内阿武隈川東部の町会長さんたちが参加した除染講習会。講師としてウクライナ製線量計の使い方を説明する阿部住職。

_aaa0186福島市役所東部支所での除染講習会で、20町会の町会長らに除染方法の講義をする阿部住職。

_aaa0263参加した町会長さんたちに高圧洗浄機の使い方を実演。「やる気にさせる。楽しくやって見せる。結果で出ることを見せる」のがポイントと住職。市からは50万円の除染補助金が各町会単位で出ることになっている。線量計も高圧洗浄機は希望する町会に貸し出し、住民自らが除染作業をすることになる。

_aaa0387東部支所の前の水路沿いの通学路で除染の実演が行われた。前日までに測定されたミニホットスポットの数値が路面に書き出されている。毎時20マイクロシーベルトをこえるスポットもある現実。

_aaa0381マイガイガーカウンターで測定しても毎時20マイクロシーベルトをこえる。水路沿いの雨水が水路に流れ込むと思われる場所が高い数値を示す傾向。

_aaa0409午前中で予定していた除染を終え、お昼はカレーライスが無償で提供された。(2月5日)

_aaa0084菜の花の種。阿部住職が立ち上げた「福島復興プロジェクトチーム『花に願いを』」が希望者に配る種。活動についてのwebはこちら。活動の主旨は、汚染された福島の大地の浄化を願い、草花などを利用した手段や表土除去など、考えられる方策を速やかに検討し実践すること。活動報告公式ブログ「人生は365歩のマーチ」はこちら。

つるりん和尚のブログからの引用(1月12日

よく「除染ボランティア」に否定的な意見を言う人がいて、その中でも「無用な被ばく」をさせようとすることが許せないという意見が多い。しかし、仕事として除染作業に従事する人たちが大勢いるわけで、仕事ならしかたがないとでも言うのだろうか。

少なくとも、多少の被ばくを覚悟してでも社会的責任を果たそうとしている人を外部から批判だけする人を私は軽蔑する。私は、除染ボランティアに来られる人たちと直におつきあいさせていただいて、本当に頭が下がるのだ。

しかし肝心の福島に住む人たちの参加者、特に除染重点地域などの住民の協力がなかなか得られないことは深刻な問題だ。ともすると、ボランティアの人にさえ敵対心を持つ人もいる。これを私は「恥ずかしい」ことだと思う。

確かにこうした状況に置かれた住民にとって、除染に参加しなければいけないのは理不尽であると思う。
が、現実を直視するならあれこれ不満ばかりを言っている時ではない。

「人手が足りない」ことを、とにかく自覚することが先決だ。そして、真実の意味で原発事故に向き合おうとする強固な意志を持つのだ。長い道のりを覚悟して、頑張りすぎず、しかし諦めず、までいに、行動していくことが真の復興に繋がると信じたい。」(引用了)

 県外から除染ボランティアに来て熱心に除染に取り組む姿を見た東部地区町会長さんたち。阿部住職は地元住民のやる気を引き出し、行政の協力姿勢を引き出し、「理不尽」だとわかっていても被災住民たちが線量の高い現実に向き合う決断をうまく促していた。もういうまでもないが、つるりん和尚のブログは本音のオンパレードだ。これを機会に読み続けてほしい。

◯取材後記
 地元住民の除染活動の後押しを始めた「福島復興プロジェクトチーム『花に願いを』」。スタッフの地元の若い女性が話してくれたことばが印象に強く残っている。

「放射能は闘って何とかなる相手ではないとは思うけど、地元に留まる決断をした以上は、線量を減らす努力を続けるしかないと思う。みんな不安一杯で生活している。除染で安心して生活できるレベルに下がらないとしても、除染をやることで不安やストレスの低減につながっているのではないかと思う」

 原発から60㌔、70㌔離れた福島市、二本松市、郡山市などの中通りの人口が密集する市街地。そのあちらこちらにホットスポットが点在し、見えない放射性物質とのいたちごっこが繰り返されようとしている。東電の原発事故がまき散らした放射性物質の後始末を、スピード感のない、住民の不安に聞く耳を持たない国や県の政策に期待できないために、被災者自らが除染に取り組むことの不条理をメディアはもっともっと伝えなければいけない。

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