毎時121マイクロシーベルト。原発北西方向はやはり高い浪江町。警戒区域の現実2.
(写真はクリックすると拡大します)
原発事故後の浪江町の一つの特徴は、生物の悲喜こもごもが集中していることではないだろうか。とりわけ、牛たちが懸命に生き延びている姿が目立つ。元々、町の山寄りの地域は畜産農家や酪農家が多く、水田や梨畑のような果樹園が展開する農耕地帯だったことがわかる。
牛の殺処分に断固として反対し、被ばくした和牛約300頭を原発事故の生き証人として生かし続けようと、国や東電、県や町の行政と闘ってきた「希望の牧場」(吉沢正己代表)又はエム牧場。原発から北北西に14㌔。屋外の線量は毎時4~5マイクロシーベルト。
「希望の牧場」支援者の援助で購入したエサは朝夕の二回分け与える。浜通りは内陸と大違いで雪はあまり降らない。北風の吹き下ろしが体力のない生後間もない子牛の命を奪い取ることもある。
原発事故後に「希望の牧場」では子牛の出産ラッシュが訪れている。だが、栄養価の高いエサ不足により母牛のミルクの出が悪いことで子牛の命を奪うことにつながっているようだ。下の写真は懸命にミルクを飲もうとする子牛。生命力の強いものが確実に生き延びている。
原発の北西約10㌔に位置する山本牧場(山本幸男さん)でも、和牛を40頭あまり飼育しつづけている。エサが定期的に与えられるので、牛たちは放し飼いでも牧場周辺でまとまっているようだ。屋外の線量は毎時9マイクロシーベルトと高い。
シイタケ栽培を手広くやっていたが、育ったシイタケは売ることもできない。奥さんに放射線測定のためにシイタケを取ってもらったが、相当に高い数値が出ることはまちがいない。
梨畑を根城にしている離れ牛の群れ。近くには離れ牛を捕まえるための囲い込みの柵があり、エサが置かれている。
この牛たちは、持ち主が定期的にエサと水を与えるので、やはり放し飼いでも牛舎の近くで群れをつくって落ち着いた生活をしているようだ。
ある酪農家の牛舎だが、12月に撮影した時は、つながれたまま餓死してミイラ化した約40頭の乳牛が放置されていた。いつキレイに片づけられたのか知らないが、ミイラ化した牛たちは、原発事故の生き証人だった。ミイラ化した乳牛の写真はこちらのブログに→2011年12月13日 (火)「警戒区域内「希望の牧場」と代表の吉沢正己さん」
原発から10㌔のコメリ浪江町支店前は毎時6マイクロシーベルトをこえる。
浪江町大堀地区は国指定の伝統工芸品大堀相馬焼のふるさとで、たくさんの窯元が集中している。原発の北西方向約9㌔に位置することと、地震による被害の甚大さが、3月11日直後のような印象さえ残している。室内の線量は毎時4.5マイクロシーベルト。屋外は毎時10~15マイクロシーベルトと極めて高いままだ。
毎時121マイクロシーベルトの測定したのは、ある窯元の庭にある窪地だった。細かく測定すれば、こうしたスポットがあちこちに存在することが容易に想像できる。原発から大堀地区一帯上空を通過し、北西方向の先にあるのが更に線量の高い浪江町津島であり、その先が飯舘村だ。
どこにでもあるような普通の住宅街が手つかずで残っている。放射能さえなければ、すぐにでも帰宅して普段通りの生活を再開できそうな気さえする。
原発事故以来、何度か足を踏み入れた20㌔圏内の警戒区域。無人街となったこうした光景を各地で目にするが、そのたびに、帰郷をあきらめきれない住民のみなさんの気持ちが痛いようにわかるような気がしてきた。地震で倒壊した古い家屋は別としても、これほどしっかりと町並みが残っていながら、帰宅して生活できないとは、誰にも思えないだろうし、思いたくないからだ。放射線の脅威さえ目に見えるように実感できれば、諦める決断をつける一助にはなるだろう。が、しかし・・・・だ。
「ふれあいセンターなみえ」のグランドが、近くの水田除染実験で取り除かれた土壌の仮置場となっている。空間線量は毎時0.6マイクロシーベルトと思った以上に低い。
国道6号線の道路工事現場で重機を運転する作業員。よく見ると防護服に身を包みながら、窓を開け、マスクをはずしたまま作業している、春先から本格的に始まる「除染」というある程度の被ばくを折り込み済みの作業現場の実態が想像できるのではないか。
請戸川に飛来した白鳥などの渡り鳥は、川も大気も放射能で深く汚染されていることを知らない。
南相馬市小高区浦尻一帯は、地盤沈下の影響か海水が引かずに湾になったように見える。線量は毎時0.10マイクロシーベルトと低い。だが、収束していない原発から11㌔北に位置する。
南相馬市小高区のJR小高駅手前まで押し寄せた津波の爪痕。自動車もガレキの撤去も手つかずのまま。原発から約17㌔北に位置。2012年3月11日から時間が止まっている。
◯取材後記:
いぜんはゴーストタウンにしか見えなかった警戒区域内の街並。生まれ育った故郷と祖先伝来の土地や墓を守っていかねばと思う年輩者の心情も、前よりも実感できるようになった気がする。そうした住民の心情に重くて不条理な決断を迫る原発事故がもたらした放射能汚染の問題は罪深い。
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コメント
山本様
2月10日のブログを90パーセント位、読ませてもらいました。私は昨年も警戒区域の家畜を助けたくて、官邸や農水省、環境省にメールを送りました。何万という家畜が死んでしまったことを思うといてもたってもいられません。日本人には命をもっと尊ぶ気持ちがあったのではないか、それがこの震災と原子力災害で亡くなってしまったのかとがく然とします。もちろんこれは政治が貧困であることの証拠です。せめて今生きている家畜や動物たちを助けたいです。また、酪農家の人々やボランチアをしている方たちを資金の面から助けたいです。どちらに義捐金を送ったらよいかを教えてください。黒木由里子
投稿: 黒木由里子 | 2012年3月 9日 (金) 14:13
黒木さま
文中の「希望の牧場」事務局に連絡し、
吉沢さんの活動のためにと募金の
送り先を限定して送ることへどうでしょうか?
投稿: 山本 | 2012年3月 9日 (金) 17:54