« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月の投稿

2011年8月26日 (金)

稼働57年の水車発電(小水力発電所)を見た

 再生可能エネルギーの中でも、古くから利用されている水力発電。大規模な環境破壊のイメージとは全くことなる「小水力発電」という分野の実用例は、知られていないか、活用されていないだけで潜在的実用化は幅広い。そこで身近な平根水力発電所を紹介する。出力が数十~数千キロワット程度の小型の水力発電を総称して「小水力発電」と呼ぶという。

 我が田舎の隣町である佐久市に50年以上前から稼働し発電している水車発電所を見学してきた。場所は佐久市平根。平尾山の北側斜面にあるスキーガーデン「PARADA」近くにあり、浅間山系を水源とする湯川の脇にあった。湯川から取水した農業用水を利用し、湯川に放流する。湯川は我が御代田町を流れ、この地点から数㌔下流で千曲川に注ぎ込むので千曲川の支流の一つだ。
_aaa1933
_aaa1929

 佐久市農業協同組合自家発電所の看板のかかる平根発電所。平屋の建物も木造で古いまま。
_aaa2103
_aaa2108
_aaa2083_2


 この平根発電所は落差33mを利用して水車を回して発電する、実に単純明快な方式。稼働したのは1954年(昭和29年)と古く、すでに57年間発電しつづけているアナログ時代の優れ物だ。当時の平根村長の先見も明によって建設したという。この辺りの経緯とこの小水力発電所の生み出す電力量、電力の使われ方などが毎日新聞7月14日地方版に載っている。とてもわかりやすくて良い記事だ。リンクを張ったが新聞記事なのでまもなく読めなくなるかもしれない。要点を記事から以下に抜粋してみる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「最大出力は550キロワット。2000年から平尾山公園のエスカレーターやレストラン、昆虫体験学習館、
冬のスキーガーデン「パラダ」の各施設の電力に活用」。
「市建設部によると、10年度の年間発電量は約270万キロワット時。公園全体の需要の98%を賄った
上に、余剰電力145万キロワット時を中部電力に売電し、約713万円の収入があった。
公園の全電力を購入した場合と比較して、約200万円の黒字」。
「現在、発電所は佐久浅間農協の所有。市が施設を借り、第三セクター・平尾山開発に事業委託」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 常駐している管理人の方によると、夏場は平均300~400㌔ワットの発電実績とのこと。管理のやっかいな点は、落ち葉も水と共に水車に飛び込んでくるため、水路を定期的に清掃したり雑草刈りしたりする必要があるという。予想外に冬場に水量が減り、夏場の農業用水としての利用量が少ない時期に発電用の水量が安定し、安定して売電できるということのようだ。

_aaa2034
_aaa2024
_aaa2012
_aaa2089一目で年代物の骨董品のようで、丸みを帯びたフォルムが美しい。石川島芝浦タービン株式会社と書かれた銘板が決まっている。

3・11以後は見学者が増えたようだ。発電の流れを写真とイラストで解説した説明書きがありがたい。
_aaa1976
_aaa1957

 平根発電所は「電力の地産地消」の古くからの実例。小水力発電は日本列島に相応しい地域御用達の発電システムの一例ではないだろうか。

 毎日新聞8月26日朝刊の記事に驚くべき試算が載っている。小水力発電が本格的に実用化されると、原発10基分の電力が供給可能だというのだ。【注:再生可能エネルギー固定価格買い取り法(再生エネ法)施行で売電価格が高くなることが、普及促進に欠かせない】
「経済産業省の調査によると、水力発電に適した一般河川は全国で約2700地点あり、大半が小水力発電向け。これらの河川全部に水力発電設備を設ければ、発電容量は計1200万キロワットに達し、原発10基分以上に相当するという」。

先人の水力の活用法、進んだ技術で水を効率的に利用すればできるのではないか。

実用例が不十分だが、長野県の取り組みが伺える県のホームページはこちら。
長野県内の 農業用水を利用した小水力発電施設

環境省の小水力発電普及促進のためのアクションプラン(注:政府の考え方の現状を知るには良いかも)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

97歳の伯父の絵画展と妹のミニギャラリー・フリーマーケット開店

 田舎の実家で妹がフリーマーケットとミニギャラリー「はやみ」をお盆前に開店した。フリーマーケットが充実するのはまだこれからだが、ギャラリーオープン記念に、97歳の伯父・白井安秀絵画展を開催している(~9月4日)。伯父は雑記帳で度々掲載してきた自動車を今でも運転する現役ドライバーで、我が母親(91歳)の実兄。8月の誕生日には免許証の更新も果たしたので、100歳まで運転が可能だ。そこで開店祝いに紹介したい。

_aaa1765

_aaa1842

_aaa1845_2

 今回は大小の作品約30点を展示販売している。伯父の得意な作品のほとんとが浅間山だ。軽井沢、佐久、御代田、小諸などの様々なアングルと異なる季節で描いてきた。ところが、花とか果物などの静物を描いた小ぶりの作品がピカリと光るところがまた良いのだ。この日は年配の友人たちが見に来た。

_aaa1616

_aaa1633

_aaa1695

 伯父の顔は数年前から撮らせてもらっているが、100歳が近づくにつれて味わいが増している。痩せてきているのも確かだが。
_aaa1800

_aaa1673

 伯父は書道の達人でもあり、もしかしたら書の腕のほうが評価されてしかるべきなのだろう。
幸運の持ち主で、戦争中は本土から輸送船で仏印インドシナに向かい、現ベトナムのカムラン湾で米軍の
魚雷を受けたために船が沈没。泳ぎの達者な伯父はほぼ一日漂流して助け出され、書の腕を買われて
日本軍総司令部での事務的任務を与えられたために、最前線に送られずに生還できた戦争体験者。
_aaa1722

 こちらがフリーマーケットのスペース。かつては母親が何でも料理したドライブインだった店舗。母親の老齢のため、妹が今年になって田舎に戻って生活し始め、そこで思いついた改装がフリーマーケットとギャラリー。_aaa1678

_aaa1894

フリーマーケット・ミニギャラリー「はやみ」の連絡先は0267-41-0724(fax兼)。
フリーマーケットの出展者を募集しているので、出展したい人、詳細を知りたい人は連絡してください。
なおフリーマーケットの開催日は火木土の三日間。ミニギャラリーは毎週月曜日を定休予定。
両方の開店時間は午前11時~午後6時。
9月中旬からは私の写真展を約一月開催予定です。前期が東日本大震災の写真。
後期が「また、あした 日本列島老いの風景」から。
場所は御代田町馬瀬口の国道18号線添い。御代田駅からはタクシー6分。
車の方は、佐久インターからは10分。軽井沢インターからは30分。

我が御代田町の観光スポットは多々ありますが、特にオススメなのは、
浅間縄文ミューアムメルシャン軽井沢美術館です。

軽井沢、佐久、小諸などに来られたついでにお立ち寄りください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月21日 (日)

岩手県大槌町吉里吉里に見る大震災犠牲者の供養・初盆

8月12日から16日まで、岩手県大槌町吉里吉里の曹洞宗・吉祥寺さんにお世話になり、大震災による犠牲者の供養と初盆を取材した。大槌町と隣の釜石市はEモバイルの圏外なため、滞在中はまったく情報発信ができなかったので、写真も多めに使って紹介したい。

大震災後の大槌町は3月、4月、6月に続いて4度目となる。お盆の取材に大槌町吉里吉里を選んだ訳はないことはない。3月は壊滅的な被害を出した大槌町で遺体安置所を見せていただいたが、その一つが吉里吉里中学校だった。「吉里吉里」な名前が気になったが、井上ひさし著「吉里吉里人」の名前のモデルとなったと知ったのは随分後のことだ。東北地方のある自治体が日本から独立する奇想天外な話である「吉里吉里人」は20年ほど前に読んでいる。

JVJAの仲間の多くが、放射能汚染で全村避難を強いられた福島県飯舘村のお盆の取材にかけつけるので、私まで行っても良い取材ができるとは思えなかったので、津波被災地でのお盆を取材しようと考え、迷った結果が大槌町吉里吉里地区だ。幸いにして、吉里吉里で唯一の吉祥寺の高橋英悟住職は取材させていただいたこともあり、お盆の日程を知ることができた。交通渋滞必至、宿泊所さえも確保できない震災後の初盆だ。どこか一カ所で取材する方が良い結果を生むと思われた。前置きが長くなったが、そんな訳で選んだのが吉里吉里だった。

_aaa9179 大震災により吉祥寺の檀家の犠牲者は200人弱。お盆の間は本堂に犠牲者の位牌が安置された。

東日本大震災による死者行方不明者は20000人をこえる。宮城県の11766人についで多いのが岩手県の6646人。福島県は1851人だ。大槌町の人口は約16000人。約1450人の犠牲者を出し、このうち600人以上の遺体がまだ見つかっていないか、特定されていない。人口比で見ると、町民の11人に一人が犠牲になったといえる。

今回の大津波による被害は北海道から福島県・茨城県までも大きな被害を及ぼしているほど巨大だ。しかし、三陸海岸はたびたび発生する三陸沖大地震により、繰り返し大津波によって襲われてきた地域で、詳細は吉村昭著「三陸海岸大津波」に詳しい。その本によると、明治29年(1896年)6月15日(旧暦5月5日)の明治三陸大津波によって岩手県では22000人以上の犠牲者がでている。昭和8年(1933年)3月3日の昭和三陸大津波では2700人の犠牲者が出た。吉里吉里地区も大津波により大きな被害を出し、明治三陸大津波による吉祥寺の檀家の死者は365人。墓地を歩くと、一家4人とか5人が亡くなったことを刻む法名碑が目につく。

_aaa7458

_aaa8063 吉里吉里の港が一望できる吉祥寺の墓地。お墓参りは14日がピークで早朝から続々と住民がつめかけた。吉祥寺の檀家は約1000軒。檀家は吉里吉里地区以外にも多い。

_aaa9159jpg 本堂で14日には大震災犠牲者の合同初盆法要が行われた。写真はご詠歌を詠うおばさんたち。

Photo 14日夜の灯籠流し。200個近い水に溶ける灯籠が漁師さんらによって海に流された。

_aaa9211jpg 大震災発生から被災者に寄り添ってきた高橋英悟吉祥寺住職(39歳)。吉祥寺は吉里吉里でももっとも高台にあるために、津波の被害はない。直後から法事用会館は避難所として開放されていた。14日の初盆法要後、高橋住職は真新しい塔婆を遺族一人一人にに手渡した。「希望を捨てることなく、負けることなく、今できることをしっかり務めて前へ向かっていけたらと思います。残された命を大切に生きていくことが御供養だと思います」と、高橋住職は合同法要の終わりに話した。15日は境内が「鎮魂・御霊まつり」として開放され、支援者と住民たちが協力したイベントが開催された。写真はイベント開始のあいさつをする住職。

Photo_2 写真は「鎮魂・御霊まつり」を企画した地元出身ミュージシャンの呼びかけに応じて、ボランティアで登場したアーティストの小柳ゆき。若手のUCOCAの曲も光っていた。吉里吉里出身の「ノリシゲ+RIA」が「吉里吉里元気プロジェクト」を立ち上げ、震災後から吉里吉里の応援をしている。灯籠流しも支援の輪で実現した。東京の大森からはバーの経営者らのボランティアで焼きそば・そうめんなどの屋台から、カクテルを注文に応じてその場で作るバー屋台などまでが境内に出店を出した。料金がどれも一律100円(前売りチケット制)で提供された。

_aaa9458 この日は吉里吉里に古くから伝わる伝統芸能が奉納された。鹿子(しし)踊り、大神楽、虎舞の三つ。鹿子踊りは380年の伝統。虎舞は290年の伝統があるという。
_aaa0089jpg

伝統芸能の奉納が終わると、盆踊りとなり、予想外に盛り上がって吉里吉里住民と支援者との一体感がうまれた。_aaa0220jpg
_aaa0303jpg

8月16日がお盆最後の日。吉祥寺の墓地入り口で、本堂に置かれていた犠牲者の俗名と法名が書かれた位牌が焚かれ、送り火となって夜空に舞い、海に灰となって還っていった。_aaa0691

大槌町吉里吉里は、長い歴史のあるお寺が被災を免れ、住職と寺が犠牲となった多くの住民と残された遺族の心のよりどころとなり、死者の鎮魂と残された者たちの癒しと励ましの場として機能している。というのが私の取材した印象だ。
対照的に、同じ大槌町内で大槌役場に近い中心街は平坦な地形が災いし、曹洞宗・江岸寺は大津波とその後の火災で壊滅し、墓地の倒壊被害も甚大となった。83歳のご住職は流されて今だに見つからない。檀家の多くも犠牲となった。瓦礫と泥に埋まった墓地が墓地らしくなったのもお盆直前となった。テントが仮設の本堂でプレハブが仮設の社務所となっているが、寺が檀家の犠牲者をまだ正確に把握できない。こうなると、遺族が寺を頼りにできないし、地域住民の心のよりどころとはなりにくい。同じ町でも湾と集落を形成する地形の違いで明暗が大きく分かれている。このブログで紹介しているのが大槌町全体を象徴しているわけでもないことは知っておく必要はあるだろう。

親を失い、夫を失い、妻を失い、大切な家族を大津波により失った遺族の話も数人から伺うことができたが、それは別の機会に紹介したい。さいごに、東日本大震災により亡くなったみなさまのご冥福をお祈りし、遺族のみなさんの悲しみが少しでも癒えます用に、被災者の生活再建が一日でも早く軌道に乗りますように心から念じたい。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年8月 9日 (火)

広島・長崎・福島  「原爆と原発は同義語である」

1
米のスミソニアン博物館で撮影した修復されたB29戦略爆撃機「エノラ・ゲイ」。1997年撮影 テニアン島の基地で原爆を搭載し、広島に原爆を投下した。長崎に投下された原爆も同様にテニアン島から飛び立った。

8月9日は長崎に原爆が投下されて66年の追悼の日。
長崎市の田上富久市長はこの日恒例の長崎平和宣言を平和公園で読み上げた。
「たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です」。明らかな脱原発宣言といえる。6日の広島市長よりも、原発事故をはるかに深刻かつ真摯に受け止めて熟考している。
田上市長は世界に2万発あるとされる核兵器についてもこう表現している。
「1か所の原発の事故による放射線が社会にこれほど大きな混乱をひきおこしている今、核兵器で人びとを攻撃することが、いかに非人道的なことか、私たちははっきりと理解できるはずです」。

また、菅首相のあいさつ文での脱原発表明は広島市でのものと変わらない。
「我が国のエネルギー政策についても、白紙からの見直しを進めています。私は、原子力については、これまでの安全確保に関する規制や体制の在り方について深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じるとともに、原発への依存度を引き下げ、『原発に依存しない社会』を目指していきます」。

広島と長崎の原爆慰霊碑は、最近では2年前にインドから佐々井秀嶺師が44年ぶりに帰国された際の全国行脚で訪ねている。長崎の平和公園の片隅に建つ母子像がやけに記憶に残っている。一目見て、息絶えたような我が子を手に無限の悲しみに立ちつくすシンボリックな母親像に感じられたからだ。長崎県出身の彫刻家・富永直樹氏による長崎被爆50周年記念事業での作品だと解説がある。この日、長崎市内を案内してくれた知人の長崎新聞写真部の松嶋さんによると、物議をかもした作品のために、公園の隅に置かれたという経緯があると聞いた。
_aaa6177

_aaa6096平和公園の一角にある「原子爆弾無縁死没者追悼之標」

人類史上、広島に原爆が初めて投下された6日は、都内日比谷・銀座周辺では脱原発デモが実行され、2500人をこえる参加者があった。それまでの脱原発デモに違い、「広島・長崎・福島」を意識したスローガンも見受けられた。この日に脱原発デモが若い世代の参加者の呼びかけて実施されたことも、原爆と原発の放射能汚染を等しくとらえていることから選ばれたに相違ない。ただ、デモがどこで開催されようとも、警察の執拗な規制は異常なほとだ。動員される警察官の数には毎回驚くばかり。少しでも隊列を崩そうとすると警告し、デモが終わるまでには必ず誰かを「公務執行妨害」で逮捕しないと気がすまないという感じがする。
(おそらく、警察官も交代勤務で福島県の警戒区域周辺自治体での検問やパトロールに動員され、放射線量の高さを十分に知らされずに被曝している可能性は高いのだが)

_aaa6278

_aaa6268

_aaa6189_2

_aaa6078

_aaa6038

「原爆と原発は同意語である」と早くから言い切っているスゴイ人がいる。私が畏敬する「反骨の報道写真家」として著名な福島菊次郎さん(90歳)だ。山口県下松市の出身で、6日間の違いで九州の海岸で米軍上陸を想定した自爆訓練にあけくれている時に、原爆投下により広島市の原隊は全滅となって命拾いした。それよりも、戦後の福島さんは広島の被爆者を徹底的に撮影して写真集「ピカドン」 ある原爆被災者の記録」を1961年に出版している。70年代には、広島市内のABCC(日米合同の原爆傷害調査委員会のことで、「放射線影響研究所」の前身)をうまく騙して取材し、米人所長にインタビューしたり、カマボコ型の研究施設内で撮影している。福島さんが自衛隊広報課を欺き、自衛隊の軍事演習や兵器工場をことごとく撮影した後、全部月刊誌などで発表し、暴漢に襲われたり借家を不審火で失ったりしてもひるむことのない究極の生き方を貫いている人だ。

 62歳で瀬戸内海の離島と周防大島での自給自足の生活を開始してから出会った上関原発反対運動も、長年通って撮影している。そうした経緯から、福島さんが「原爆と原発は同義語である」という結論に至ったのは誰にも理解しやすいことだと思う。

ちなみに、これは宣伝になるが、私が編集長(交代制)を担当したオンラインマガジン「fotgazetフォトガゼット」第3号では、「時代の証言者たち」として、広島・長崎・水俣・福島を大特集した。広島は福島菊次郎さんの写真をお借りして15ページ組んだ。ABCCの写真も含まれている。発行は8月10日の予定だ。これは私もメンバーとして活動するフリーランスジャーナリスト10数名が独自に編集し発行する電子雑誌。年4回発行し年間購読料は2400円。詳細はfotgazetのWebでご覧ください。ぜひとも購読することでフリーランスの活動をサポートしていただきたい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »