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2011年5月の投稿

2011年5月29日 (日)

「大震災と原発事故」写真展in我が田舎(御代田町)

22日から田舎の御代田町で「大震災と原発事故」のテーマで写真展を開催中だ。会場は御代田町役場に近い「エコールみよた」の1階ロビー。今日は、プリントを数点追加し、入れ替えたりした。全部で47点となった。サイズはA3ノビで全カラー写真。全体の3分の2が津波被災地。残りが福島第一原発事故関連。29日(日)の午後6時半からは講演をすることになっている。話を聞いてもらうよりも、写真を見て感じてほしいので写真展もやってもらうことにした。講演会場は大会議室。

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主催は六ヶ所会議あさま・御代田9条の会・信濃追分9条の会。
後援は御代田町教育委員会。
参加費は資料代・会場費等で500円程度のカンパをお願いします。

写真展は31日までの予定で、6月1日から我が母校の御代田中学校で展示予定となっている。

一月ぶりの我が暗室小屋の庭先では、シャクナゲが満開だった。
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2011年5月23日 (月)

新宿ネイキッドロフト・JVJAトークイベント「フクシマと世界の核」・飯舘村の酪農家

20日夜のネイキッドロフトのイベント。飯舘村から酪農家の長谷川健一さんと田中一政さんが登場。新宿とは思えない深刻なテーマでの熱気が渦巻いた。長谷川健一さんは前田地区の区長も務める。この日登場したJVJAメンバーの中では、私だけが取材したことのない方たち。ありがたい機会で耳をこらして二人の話に聞き入った。何度も目頭が熱くなった。以下、メモ書きから。

(追記:JVJAの森住さん、豊田さん、野田さんが、長谷川さんたち飯舘村住民に早くから密着して取材をつづけている。豊田・野田コンビが取材しニュース番組で放送されたビデオ映像などが紹介され、放射線量の高さや酪農家の苦悩などが映像でも伝えられた)

「二人は被爆者です。もし放射能が夜になって光るならば、二人は真っ暗闇でキラキラ光ることでしょう」。長谷川さんの強烈なブラックユーモアに満席の会場も思わず噴出した。

長谷川さんは315日の水素爆発で覚悟したという。酪農を継いだ息子に「こりゃダメだ。覚悟しておかないと」。「そのとき、子どもたちは外で遊び、洗濯物は干され、大人は外で仕事していたよ。行政は危ないとは何もいわなかった。家は原発から直線で43㌔」。長谷川さんは役場に抗議に行った。 村長は留守で議長が在席していた。「安心だ、安全だ、これ以上何もすることはない」と議長。長谷川さんは怒鳴った。「今の子どもが25歳になって赤ちゃん産むよう になったときに、おまえら責任とれるのか。この村を牛耳っているのはお前らだべ。それを避けることができるのはお前らだべ」。

_aaa6279 (6月6日写真追加:長谷川さんは真ん中の白シャツ。右隣が田中さん。マイクで話すのは森住さん)

410日、長崎大の偉い先生が村の中学校の体育館で講演した。長谷川さんは別会場で聞いているのでどんな話かわかっていた。出かけなかった。「安全だから、安心だから、何も心配いらない」。翌11日、政府は計画的避難地区に飯舘村、浪江村などの20㌔圏外を追加することを初めて言い始めた。「それ避難しろって」。村民の怒りは収まらない。

430日、家に酪農家夫婦全員集まってもらって話し合った。長谷川さんたちは、そこで「休止」することを決定した。「廃業」ということばは使いたくなかったからだ。「休止」の次にあるのが「再開」だから。しかし、実質は廃業を決定したことに等しかった。

牛の処分が59日から始まった。放射線量の高い地区から開始。「情けないですよ。見るに耐えないですよ」。「今まで普通に家族と同じように泣き笑っていた牛たちですよ。屠畜場へトラックに乗せられていく。今、飯舘はそういう現実です。525日が我が身です」、と長谷川さん。

「お母さん牛を屠畜場へなんてとんでもない話。村外の心ある酪農家に預けて第二の人生を歩ませたい」と長谷川さん。

長谷川さんたちが牛にやるエサは昨年収穫した牧草で汚染されていないもの。福島県は4月から生乳の出荷ができなくなったが、自主的に牛乳のサンプリングをやって測定している。二度続けて出荷規制の基準を下回っているので、次回の結果を持って農水省に直談判に行って出荷停止の解除に持ち込みたいという意気込みを語った。

「私は酪農家(6月30日訂正:畜農家)です。酪農家(畜主)の責任として最後の一頭まで送り出し見届けるのが私の責任。区長として最後の1人が避難するまで私は出て行きません」と長谷川さん。

もう1人の田中さんは10年前に飯舘村に畜農のために入村した。長谷川さんの自宅前の放射線量は4.5マイクロシーベルト。田中さんの自宅は15マイクロシーベルトときわめて高い。「今更どうしろと。牛はいるし、避難先は決めてないし。諦めて普通に暮らすしかないと腹をくくりました」、と田中さん。飄々としているようだが、身動きできない辛さが表情にもことばにも出ている。

「牛、馬、家畜をもっと大切にしたいと思う。保護していきたい。ボクの命も牛の命も同じ重さだと思っている。簡単に殺すなよと思っている」。そう話す田中さんは、「ペットの犬やネコをほったらかしにしていると、そのうち罰が当たるよ」と最後に付け加えた。

政府が20㌔圏外の地域を計画的避難地域にすることを公表したのは411日。問題は1号機から4号機までが、次々と水素爆発したり、高濃度の放射線物質を大気中にばら撒いた最も初期の時期に、政府・行政から危険だと注意されなかったために、大人も子どもも被曝した事実。30㌔以遠の飯舘村でも、文科省のモニタリングでも数値が高いことは早くから明白だったが、政府は同心円の距離を基準に何ら手を打たなかったのが事実。

328日、29日、京大原子炉実験所今中哲二助教を代表とする「飯舘村周辺放射能汚染調査チーム」が、飯舘村の各地で放射線量を測定し、土壌検査もした。44日に公表された今中チーム報告書http://tinyurl.com/3wv42wq。超深刻な内容でも政府は動かなかった。

酪農家の長谷川さんや田中さんたちが直面する問題は、これまでの長年の努力の結果がすべて台無しになり、その後の生活の目処さえ立たないこと。原発事故により生きる尊厳を奪われたことを意味し、それは飯舘村の住民だけに限定されない。高濃度の放射能に汚染された大地はすぐに元には戻らない。人災による離村。まったく理不尽な現実だ。

(追記;「fotgazetフォトガゼット」第2号http://www.fotgazet.com/では、森住さんらのスティール写真で「放射能に汚染された村」として飯舘村をルポしている。「世界の核」特集号でもある。ぜひ購読していただきたい)

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2011年5月18日 (水)

fotgazet(フォトガゼット)創刊第2号を発行しました

大震災前の2月に創刊した「fotgazetフォトガゼット」第2号を5月16日にリリースしました。創刊号では編集長を務めましたが、今号は森住卓さんと豊田直巳さんが編集長です。(毎号、2名が交代で編集長を務める体制)

全131ページ、特集は「世界の核」。その他の特集に加え、今回は七沢潔氏(NHK放送文化研究所)、フォトジャーナリスト樋口健二氏、アジアプレスのジャーナリスト玉本英子氏の3名に特別寄稿して頂きました。(転送転載歓迎です)

fotgazetの年度購読(4冊分)2400円、ダウンロード販売のみ。年度購読によりフリーランスの私たちの取材活動を支えてください。

「fotgazet」 vol.2の目次と各特集の解説です:

■ 世界の核 森住卓/豊田直巳/野田雅也
チェルノブイリ、セミパラチンスク、イラク、マーシャル、チベットなど原発事故や核兵器による放射能が、人間にそして地球にどのような影響を与えたのか。 54ページのグラビア大特集。原発関連のテレビ番組を25年に渡って制作してきた七沢潔氏(NHK放送文化研究所)の特別寄稿『「ZONE」の既視 感~deja vu』も掲載。

■ 原発労働者の被曝を追い続けて 樋口健二
原発建設のラッシュ時代だった70年代から、フォトジャーナリストの樋口健二氏(74)は、被曝労働者の被害を告発しつづけている。作業中に被曝し、白血 病や骨転移ガンで死亡した元労働者、孫請け会社で働かされていた16 歳の少年など、被曝労働者は闇から闇へと捨てられて来た。原発管理社会の暗い闇と歴史を映し出す。

■ 放射能に汚染された村 森住卓/豊田直巳/野田雅也
福島第1原発が水素爆発を起こした翌日の3月15日、福島県飯舘村には雪が降り積もった。北西に吹く風は、高濃度の放射能を運び、村に「黒い雨」を降らせた。30km圏 外でも高い放射線値を記録する飯舘村。計画的避難区域に指定され、古里から避難しなければならない酪農家たちをドキュメントする。

■ 弔う 鎮魂の読経 山本宗補
東日本大震災の被災地で、つぎはぎだらけの僧衣にわら草履姿で瓦礫に向かって読経する僧侶に出会った。岩手県盛岡市にある石雲禅寺の僧侶、小原宗鑑さん (28)。宮古市から読経行脚を開始し、岩手、宮城、福島と訪ねた。被災者たちは、読経を唱える宗鑑さんの姿に、心から手を合わせる。鎮魂行脚に密着取材。

■ 歌舞伎町 3?11それから 権徹
眠らない町、新宿・歌舞伎町。この町を撮り続けて15年の権徹は、地震直後、震える手でカメラを握り繁華街に飛び出した。大きく揺れる高層ビル、避難する 人々、派手なネオンも消えた。しかし震災から2週間が過ぎると、ネオン街には風俗やキャバクラ、異性を求める若者たちが集っていた。韓国人フォトジャーナリストが捉えたニッポ ンの異常な姿。

■ 戦争の記憶
連載「戦争の記憶」の第6~8回は、ミッドウェー海戦を経験した高木清さん、シベリア抑留体験をもつ千野誠治さん、元中国残留婦人の鈴木則子さんの3名。 丹念に聞き集めた証言と肖像写真で、戦争があった事実さえも知らない若い世代にも伝える。脳裏に深く刻み込まれ た「戦争の記憶」を語り継ぐ。

■ イラク 終わらない惨禍 玉本英子
「独裁からの解放」とともにこの国にもたらされた占領、イラク人どうしの殺し合いと対立。そのはざまで、行き場を失った人びとがとにかく今日を必死に生き なければならない。それが8年を経たイラクの姿だった。終わらない惨禍のなかで、バグダッドでは日本の震災復興を願うコンサートも開催された。

■ ハイチ大地震から1年 佐藤文則
2010 年1月の大地震から一年を迎えたハイチ。現在でも、60万人を越える被災民が、テント村で不便な避難生活を余儀なくされている。地震からこれまでに、撤去 された瓦礫は全体の約15~20パーセント、仮設住宅の建設は予定数の15パーセントにしか過ぎない。震災から1年以上が過ぎても、復興は進んでいないの が現状だ。

■ ラダック 光のなかで 桃井和馬
インド北部ヒマラヤ山中に、チベット仏教を信じる人々の里「ラダック」がある。2011年3月下旬。この場所にも日本の「震災情報」が届いていた。無数の 深いシワが刻んだ男は、ポロポロ涙を流し、「被災者のために」と私にお金を手渡そうとした。その気持ちと祈りはきっと、「地球の屋根」ヒマラヤの風に乗 り、日本の被災地にも届いている。

ネット情報は便利で無料と思い込んで利用されていいる方が多いと思います。しかしそうではありません。私もメンバーの1人で活動するJVJAはフリーランスジャーナリストの緩やかな集まりです。フリーランスにしかできない、詳細でより迅速でより正しい情報を発信するには、最低限の取材費がかかります。JVJAの活動を信頼し期待よ寄せる読者のみなさんのサポートで取材活動を支えていただく必要があります。fotgazet発刊の経緯は私の2月16日の雑記帳を読んでください。「fotgazetフォトガゼット」の船出http://homepage2.nifty.com/munesuke/za-2011-2-16.htm 有料購読者となってサポートしてください。以下が購読ガイドです。

【購入はこちら】
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すでに年度購読されている方は、下記手順でダウンロードして下さい。
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「購入履歴(再ダウンロード)」→「fotgazet(フォトガゼット)vol.2」(セット内商品)→ダウンロード開始
※閲覧パスワードは、ご購入時のEメールアドレスです。

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※システムの変更点
PDFのパスワード設定が変更になりました。
パスワードは、ご購入時のEメールアドレスです。
今後、さらに使い易くなるように改善する予定です。

【追記】
「fotgazet」第2号の刊行に合わせ、5月20日、新宿ネイキッドロフトで開催予定のJVJAトークイベント「フクシマと世界の核」のチケットは完売いたしました。
当日の模様は、USTREAMで中継する予定です。

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2011年5月10日 (火)

南相馬市と浪江町津島:ちょっと遅れた20㌔圏外取材ルポ

(注:取材してから2週間も経つので、記事内の放射線量についてはそのつもりで読んでください)

取材したのは4月26日。チェルノブイリ原発事故から25年にあたる日の、20㌔圏外の放射線量の写真と、取材の要点です。ガイガーカウンターの測定数値は、3/11以前の平時と比べて現地がどの程度高いかを知る目安にしてください。(ちなみに、4月27日、都内自宅前で測定した数値は毎時0,08マイクロシーベルト)

福島市内の駐車場で車中泊したこの日は、飯舘村を通過して南相馬市に入り、再び飯舘村を経由して浪江町まで移動。遅くに都内の自宅に帰宅しました。4月22日以降は、南相馬市から隣接する浪江町に抜けるルートは、20㌔圏内が「警戒区域」と指定され、立入禁止となったために迂回するほかはなくなったからです。

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(南相馬市の国道6号線を浪江町に向かって南下すると、約25㌔地点辺りで警察の検問所があり、そこからは立入禁止。警察官の前で測定すると、毎時0.43マイクロシーベルト前後だった。ちょうど南相馬市の南端が20㌔圏内に入る)

南相馬市では真言宗泉龍寺に石川信光住職を尋ねて、大震災以降の状況を伺った。ご住職のことを知ったのは朝日新聞の4月16日朝刊に掲載された記事だった。見出しは、「檀家置いていけぬ。自ら弔いの場へ 原発から25㌔に居続ける南相馬市の僧侶」。原発事故後、「屋内退避指示」となった南相馬市では、ほとんどの住職が圏外へ避難したが、石川住職は寺に留まり(ご家族は避難させている)、津波による犠牲者の供養を火葬場に駆け付けて読経奉仕してきたとあった。私が直接取材したくなった理由は、最も必要とされるときに僧侶としてやるべきことを実践しているところにあった。

石川住職のお話で痛感したのが「30㌔の線引き」が生み出した厳しさと混乱。この時点で大震災から一月半が過ぎていた。海岸沿いの津波で壊滅的な被害を出した地域は別だが(ちなみに南相馬市の死者は531人、行方不明は410人。福島県内では最大の犠牲者を出している。5月7日時点)、地震による崩壊家屋は多くはなく、市内各所で住民が普段の生活に戻ろうとしている印象を受けた。しかし、住職によると、寺には宅配も郵便物も新聞も直接配達されないという事実。コンビニや個人商店はすでに営業しているが、大型スーパーはまだ開店していない。大手マスコミにいたっては、石川住職を直接取材したのは朝日とCNNだけで、他は電話取材だけという。そのため、「屋内避難指示」地域は「報道規制」がかかっているんじゃないかと住職はいぶかった。
「ここはまだ復興のスタートラインに立っていない。原発が収まらないと無理だべ」が住民の気持ちだと、ご住職が話したのも最もだ。

石川住職は仏教僧として、大震災後から火葬場にかけつけ読経奉仕をしてきた。     「津波にのみこまれた苦しさの中で、すがるもののない中で亡くなり、火葬にされてゆく。宗派の違いはいってられない。さらっと拝んだだけでは成仏はありえない。お経を唱えることで、(死者に)行先の安心の道を示してやることができる」
ご住職は、阪神淡路大震災の時は、現地にかけつけ死者の供養をしたという。それで私も合点がいった。放出される放射線にビクビクして圏外へ避難する選択よりも、宗教者として重要なことは何かを普通に実践されたのだと。

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取材中、奥さんと母親を津波で失った40代後半の男性が生花を備えにやってきた(写真は同行の男性。右側が石川住職。事故後は屋内でもマスクは手放さないという)。男性は震災翌日に奥さんの遺体を見つけ、母親の遺体は一月後に独力で、自宅から1.5㌔離れた林で見つけだしたと話した。ご住職の案内で遺骨が安置されている本堂に向かうと、そこには11人分の遺骨が並べられていた。一つだけが小さな包みで、1歳の女の子の名が記されていた。

南相馬市は、一部が「避難指示」、一部が「屋外退避」指示と線引きされたことがいろんな場面で尾を引いていることを実感する取材となった。

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(写真は飯舘村と浪江町の境。毎時16.73マイクロシーベルトは相当に高い)

飯舘村では午前中に数カ所で測定済みなので、飯舘役場の前を通過し一本道を南下して前回取材した浪江町津島の渡辺さん宅へ直行。21日のブログ「東電福島第一原発から30㌔(浪江町津島)の住民」で紹介した一家だ。原発からちょうど30㌔の距離に位置するが、風の通り道のために放射線量が当初から異常に高く、2週間前でも毎時20マイクロシーベルトを越すホットスポットだ。

運良く渡辺さんが在宅で、避難住民から頼まれている留守宅の犬のエサやりに同行した。約26㌔地点にある警察の検問所を迂回してたどり着いた空き家には、5匹の犬が空腹を耐えかねたかのようにワンワンほえたてた。犬小屋の回りはフンだらけ。渡辺さんは2~3日置きにエサと水をやり、フンの片付けにくるという。主のいない民家の土手の桜の木は満開だった。
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渡辺さんの住む浪江町の大半の住民は早くから避難しているが、渡辺さんは30㌔圏上に位置するため、一時避難はしたものの、老いた母親とともに家族で自宅に戻って生活を続けている。しかし、浪江町全域も隣り合う飯舘村や葛尾村も併せて「計画的避難区域」となったため、5月いっぱいの引っ越しを迫られている。

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(渡辺さん宅入り口の道路上。19.99マイクロシーベルト以上で振り切れた。2週間前と変わらない)

「どうやら引っ越すほかはないようだね。行政に引っ越し先をまかせても遠くになってしまうだろうから、自分で二本松市辺りにアパートを借りるつもり。車で通って仕事を続けるしかない。高校生の子どもは明後日引っ越させるよ」。渡辺さんが自宅での生活に思ったほど拘っていないことにいくらか安堵した。

89歳のお母さんが気になったので伺うと、毎日元気に外で仕事をしているという。ただ、心配なのは、避難生活で心臓が悪化したお母さんが、元気の素である我が家と畑から切り離されてからのことだ。同時に私と一歳しか違わない渡辺さん一家が、避難先が決まって実際に避難するまで、自宅に留まっているだけでも相当な放射線を浴びることになるのは免れない。仮に毎日5時間、屋外で仕事をしているだけで毎時20マイクロシーベルト浴びるので、毎日100マイクロシーベルト浴びる計算となる。10日で1ミリシーベルト、30日で3ミリシーベルト。60日で6ミリシーベルト。体内被曝も考慮すると、とても心配な放射線量を浴びることになるのは否定できない。

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2週間前と同様に、原発から20㌔地点の昼曽根トンネル入り口で測定するため、114号線の約26㌔地点の検問所を通過させてもらい、トンネル入り口までたどりついた。ここは、渡辺さんの住むところ以上に数値が高い。文科省のモニタリングマップでは83番スポット。5月7日の測定では毎時40マイクロシーベルト前後。検問の警察官を前に私が計ったこの日は、毎時19.99マイクロシーベルト以上で振り切れた。ここで心配なのは、警察官のみなさんは普通のマスクをしているだけで線量計は身につけていない。その点を訊ねてみると、「班に一つしかありません。それで計っています」、という。おそらく検問所は交代任務だろうが、毎日5時間屋外で検問しているだけで、一日200マイクロシーベルト、5日で1ミリシーベルト被曝する計算となる。素人的にこれで安全なのかと思えてしまうのだ。最初の南相馬市の検問所の放射線量と比べてみると、異常に高い数値が一目瞭然。警察官のみなさんは、写真のように若い人ばかり。心配せざるをえない。ここにも、政府の安全管理の手落ちを見る思いだ。10日からは避難住民の一時帰宅が始まる。

(追記:神奈川県警の担当課に電話したところ、現時点では現場から引き揚げているので任務についていないとのこと。ということは別の県から応援が任務についているはず。放射線対策は大丈夫だろうか?)

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2011年5月 8日 (日)

世田谷と渋谷の脱原発デモ

連休中に都内で二つの脱原発デモが実施され、たくさんの市民が思い思いのメッセージを用意して参加した。ここではtwitterで紹介しきれなかった分も加えて掲載します。世田谷デモは5日の子どもの日に行われ、渋谷は7日でした。このデモの大きな違いは、6日に唐突に菅首相が浜岡原発の稼動停止を中部電力に要請したことで、反原発運動家が長年懸念していた浜岡原発が全停止となることが決まったことでした。菅首相が稼動停止を求めた理由はいろいろと憶測されていますが、脱原発を求める市民からは大歓迎され、財界の一部からは当然視されてもいる。

毎日新聞によると、「自動車大手スズキの鈴木修会長兼社長は7日、浜岡原発の運転停止要請について「国の最高決定権者として正しかったのではないか。自分がもしそういう立場だったら、同じようなことをしたと思う」と述べ、菅直人首相の決定を支持した。一方で「国民に生活の様式をもっと質素なものに変えてくださいと強く要望すべきだったと思う」と注文を付けた。(引用終了)

ソニーのCEOを務めた出井伸之氏 は、7日のtwitterでこう書いた。
「NHKの21時からの津波被害の映像特集すごく良い番組でした。あの津波の規模をみると今回の浜岡の原発の停止は当然な結論と思いました。今回の災害の科学的分析と将来の予測を日本及び世界の頭脳を集結して行い将来のビジョンの基本とすべきとおもいます。現在の延長でない基本案を考えましょう」
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_aaa5388 ここまでが世田谷デモの写真。
以下は渋谷原宿での脱原発デモ写真。
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ここまでが渋谷脱原発デモ。主催者発表では15000人というがちょっと?

ところが一夜明けたニュースに唖然。
中部電力以外の全国の原発の稼動停止を要請する可能性はない、と菅首相は記者団に答えたというのである(8日の朝日Webニュース)。
となると、菅首相は自分の頭で考え抜いて浜岡原発を止めようとしたわけではなさそうだ。
ただし、その決定は誰がみても当然で正しいとしか文句のつけようがない。なぜならば、3月11日後の止まない余震では、長野県と新潟県の県境にある栄村で震度6強を引き起こし、プレートのゆがみが日本列島のどこに大きな余震を起こすのか、専門家さえも予知できないのだから。ちなみに、超巨大地震で大きな津波を引き起こしたスマトラ島沖地震は、3ヶ月後にマグニチュード7をこえる大きな余震を引き起こしている。

津波対策ばかり強調されるが、不思議なのは、2007年7月に東京電力柏崎刈羽原発は、震度6強の中越地震によって緊急稼動停止したが、火災は発生したり、放射性物質が漏れる深刻な原発事故をひきおこした。被害は地震によってであり、津波によるものではなかった。


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2011年5月 4日 (水)

暗室小屋周辺の「風力発電」と、釜石ウインドファーム

28日に長野市で講演が二つ重なったこともあり、田舎の暗室小屋に3泊4日で帰郷した。講演の一つは昨年末に松本市で長野県内日蓮宗の僧侶のみなさんに、インドで仏教徒の最高指導者として破天荒な活動をする佐々井秀嶺師のことを話させていただいたことがご縁だった。参加者は長野県保育協会のみなさんで、保育園の経営者や園長先生など。日蓮宗のご住職が市内で保育園をやっているご縁で、当初は世界各地で取材してきたことを踏まえ、世界の子どもたちの置かれた現状などについて話す予定だった。

そこに東日本大震災が起きた。講演内容は大幅に変更し、津波被災地や福島原発周辺取材をスライドで紹介した。福島原発事故による放射能汚染の問題が子どもや幼児に及ぼす心配について、原発から離れているからといって他人事と思っているとマズイですと強調した。一時間半以上のスライドトークとなったが、50人ほどのみなさんは真剣に耳を傾けてくれた。

二つ目は友人が緊急企画してくれた大震災の緊急報告会。こちらは参加者は多くはなかった。やはり原発事故や津波被災地が遠いことからくる「温度差」なのだろうか?原発の問題やダイオキシンなどを生むゴミ焼却場問題、自然エネルギー利用派など、古くから活動している友人知人は多いのだが、マイノリティーがマジョリティーにはなかなかならない厳しい現実がある。

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(隣町の佐久市に住む伯父は8月で97歳になるが、軽自動車でふらっと立ち寄ってくれる。91歳のオフクロとは本当に仲の良い兄妹の関係だ)

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我が暗室小屋周辺は一部が果樹で一部が畑。果樹といってもリンゴ2本、ラフランスや梨が数本、アーモンド1本。畑はオフクロさんが自家用のための野菜作りに精を出します。季節的にやっと畑仕事の開始時期となったので、種まきなどを急ぐ野菜の畝作りに精を出した。一日の畑仕事でスイカとメロン用の畝をこしらえ、里芋用の畝とサツマイモ用の畝とトウモロコシ用の畝を作り終えた。(追記:昨年の暑さで落花生がたくさん収穫できたので、「今年は被災者に落花生を送ったら」とオフクロに提案してみた。するとオフクロは俄然元気になって、「それは良いことだな。よし、目標ができたから、空いているところは全部落花生を蒔くぞ」。) 

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で、タイトルの「風力発電」のことだが、正確には「ペットボトル風車」のことで、ガラガラとうるさく回転しているだけで発電しているわけではない。この風車は昨年から導入したモグラや鳥退治用だ。地中のモグラは落花生や芋類を知らないうちに食べてしまう。風車がモグラ退治に効くというので、手製の風車を10基作って、畑のあちこちに立てた。今はタマネギ、ジャガイモ、スイカの畝に立ててある。ペットボトル風車は無料で24時間働いてくれる優れものなのだ。

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話飛んで、先月末に岩手県大槌町に向かって山道を走っていて目に入ったのが写真の風力発電だ。ネットで調べて詳細がわかったのが釜石広域ウィンドファームhttp://www.eurus-energy.com/news_2004.html。 釜石名が冠してあったので釜石市の敷地かと思っていたら、遠野市、大槌町、釜石市の三つの自治体にまたがる丘陵地帯に設置されていた。看板を見ておもしろそうなので山道をドンドン登っていって写真を撮ったのだが、牧場をやっている人に聞いてわかったことは3月11日の大震災以降は稼動していないという事実だった。2004年の操業時、「風力発電所で、操業中案件としては日本国内最大規模」とある。早期の復旧発電を願うばかりだが、脱原発を具体化するのに風力発電も欠かせない自然エネルギーの一つだ。

原発推進行政の結果として、自然エネルギーの研究開発が何十年も遅れ、「もんじゅ」や六ヶ所村使用済み核燃料リサイクルに3兆円をこす莫大な浪費をしてきた事実がある。東京電力の人災で回避することができなかった福島第一原発の収束の方向が見えない放射能汚染。その周辺を取材してきて実感するのは、エネルギーシフトしか日本の生き残る道はないことだ。

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2011年5月 3日 (火)

パパラギの里(石雲禅寺)

「鎮魂の読経」で紹介した小原宗鑑さんを、先月末に盛岡市郊外にあるお寺に訪ねた。
宗鑑さんと尼僧の慈光さんは、2週間あまりの被災地鎮魂行脚から帰寺していた。二人とも、どことなくすがすがしさで一杯の印象を受けた。

石雲禅寺を訪ねるのは二度目だ。前回は二人が被災地で行脚している間に伺った。津波被災地の瓦礫の間を歩き、読経し続ける二人のバックグランドを知りたかったからだ。どんなお寺なのか、寺はどのような活動をしているのかを知り、二人に関心を持った人たちに知ってほしいと思ったのだ。

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石雲禅寺は岩手県盛岡市郊外の、石川啄木で知られる渋民の地の入り口にある。深く冠雪した岩手山の裾野にあたる素晴らしい自然の中だ。寺の建物は細長い4階建。だが、急斜面を利用しているので、玄関は3階になるおもしろい設計だ。

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それはともかく、石雲禅寺はNPO法人「パパラギの里」http://www.paparaginosato.org/を運営し、10数人の老若男女が禅的な共同生活を営んでいる。寺もパパラギの里も一帯で切り離せない。それでいて、寺としての座禅堂もある。(5月6日訂正:庫裏は昨年の火事で残念ながら消失)

私がお寺を再訪したのは、実は宗鑑さんと慈光さんが、日常の修行生活に戻り、地方での
托鉢行脚に出発するためだ。宗鑑さんは二ヶ月近い托鉢行に出たまま、しばらくは戻らないという。お二人がお寺にいる時の写真はまだ撮っていない。そうしたこともあり、東京から盛岡まで車を走らせた。

(その後は、大槌町で曹洞宗寺院のご住職を訪ね、釜石市内や大船渡市などを経て、福島県南相馬市の真言宗寺院のご住職の取材をして帰京)

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前回の取材で、宗鑑さんの関心や趣味の範囲が幅広いことを知ったが、彼が宮沢賢治や岡本太郎好きであり、高校生の頃から音楽もやっているとわかった。部屋の壁には「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の書が飾られ、アフリカの太鼓やギターが置かれていて、得度していなければ、20代の普通の若者の部屋に思えるところが愉快だった。
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この日、宗鑑さんは750ccのオートバイに、テント、食糧、托鉢用の鉢、網代笠などを積み、大きなバッグパックを背負って四国に向かった。同様に、慈光さんは寝泊りする軽自動車に必要なものを積み、山梨県へ托鉢に向かった。宗鑑さんが寺に戻るのは夏ごろになるという。

ちなみに「パパラギ」とは隠れたベストセラーのタイトルで、20数年前に読んで感動した本だ。ひとことでいうと、南の島の酋長による文明批判。誰が書いたのかは知らないが、深い味わいのある名著だ。ありとあらゆるものを浪費することで成り立つ日本や先進国の人々の精神の貧困さをやんわりと揶揄する内容だと記憶する。ここから、石雲禅寺と「パパラギの里」の創建理念などが想像できる。

托鉢し、自活用の野菜を育てて生きる清貧な日常生活から、人間やすべての生きとし生けるもの、大木や瓦礫と化した住宅などの津波によって失われた形あるものの鎮魂を懇ろに弔った宗鑑さんと慈光さんの、いてもたってもいられない心の動きが伺いしれる。禅的な「知足」の生活は、宗派仏教=伝統仏教という枠からはみ出したくてもはみ出せない僧侶の、本来のあるべき生き方を示していると思う。

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