2012年5月14日 (月)

「永遠の永遠の永遠」草間弥生展(埼玉県立近代美術館) YAYOI KUSAMA Eternity of Eternal Eternity

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 長野県松本市が輩出した世界的アーティスト、草間弥生展に行ってきた。立体のオブジェクトはほとんどが撮影自由となっていたので、好き勝手に撮らせてもらった。説明などの必要もないので写真だけお見せしたい。会場は埼玉県立近代美術館で、5月4日に入場者2万人を達成したとある。

 ちなみに草間さんは1929年生まれ。83歳になる。水玉模様にとりつかれたようなオブジェクトの作品群が一つの特徴だ。作品制作を紹介するビデオには、「精神病院を生活の拠点に」とある。もちろん仕事場で作品の制作に熱中するわけだが、寝泊まりはどこかの精神病院なのだということらしい。

◯草間さんの若い頃の活動の一部(ご本人の公式webから引用)
 「1957年渡米、巨大な平面作品、ソフトスカルプチャー、鏡や電飾を使った環境彫刻を発表する。1960年代後半にはボディ・ペインティング、ファッション・ショー、反戦運動など多数のハプニングを行う」

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_aaa0224「ヤヨイちゃん」
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_aaa0071「大いなる巨大な南瓜」
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“~~~命の限り無限の生と死のかがやきをもって200年も500年も生きながらえて 平和と人間愛の行き着く所への不滅の志を持って闘っていきたい。 そして地球の人々へ告ぐ 未来は原爆や戦争を止めてかがやいた命を永遠の永遠の永遠の~~~”(大きな黄色い南瓜の前に掲げられた一遍のメッセージの一部を引用)

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_aaa0179「チューリップに愛をこめて、永遠に祈る」

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 ここに紹介した作品は、あくまで写真撮影可能なもので、展示の中心は100点あまりの特大絵画シリーズだ。もちろん、これらの作品は撮影禁止。公式webでは10数点が紹介されているのでご覧ください。作品サイズは半端ではありません。釘付けになること請け合いです。素晴らしい。圧倒されます。

◯以下は公式webにある「見どころ・展覧会紹介」文のコピー:
《世界的な現代美術家として活躍する草間彌生の、最新の創作活動を紹介します。
半世紀以上にわたって、水玉や網の目の作品を作り続けてきた草間は、2009年から、驚異的な創作意欲を傾け、まったく新しい絵画の仕事に取り組みはじめました。それらは子どものように自由で楽しい想像力に溢れながら、人間の内面世界をえぐり出すような、これまでに見たこともない作品群となりました。この色彩豊かな新作と対照的なのが、50点からなる『愛はとこしえ』の連作です。草間が2004年から3年間で一気に描き上げたモノクロの線画作品は、無限に湧き出る連鎖的なイメージを、魔法のような筆使いで描き出したものです。さらに、初公開となる『南瓜』などの彫刻やインスタレーションも展示し、草間の分身としての創作世界を体感いただきます。
草間彌生という希有な才能をもった芸術家の、最先端の挑戦を、ぜひご確認ください。》

会期は5月20日(日)まで

草間弥生常設館のある松本市美術館の屋外展示作品(2007年撮影)
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2012年5月 7日 (月)

写真ルポ【祝!原発ゼロ 脱原発杉並+原発やめろデモ:2012年5月6日】A celebration on a stormy day in Suginami for Zero NPP operation !

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打ち止めです!みなさん、おつかれさまでした!
「脱原発日本、これからが正念場です、ね!」

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2012年5月 1日 (火)

警戒区域で生きる松村直登さんと子牛の石松の誕生Part2 Second Part of a photo reportage about Mr.Matsumura who stays in No entry zone in Tomioka-machi & a birth of a premature calf.

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 警戒区域の囲い込みで産まれた子牛の「石松」誕生物語。確かに感動的だったが、オッパイの出ない母牛とオッパイの位置を見つけられない未熟児の関係はそのままで夜が明けた。

 「石松」の続編に入る前に、松村さんが自宅で生活し続ける富岡町と原発との関係、富岡町がどんな町で被害状況はどうなのかを知らずには「石松」誕生物語の背景はわからない。というよりも、その背景を知らずに、石松のような未熟子牛がなぜ産まれてしまったのか、なぜ母牛が他の牛たちのイジメに合い、エサも満足に食べられずに痩せ細ったまま子牛を産まなければならなかったのかという現実を抜きに理解されかねない。その意味で単なる動物愛護だけの観点で「石松」誕生物語を捉えてほしいとは思わない。そこでまずは以下の写真を見ていただきたい。

_dsc8029富岡町の夜の森公園の桜並木はとりわけ有名。たまたま通りがかったら、大手メディアを入れた撮影日となっていた。

_aaa0320富岡第二小学校の桜も満開。校庭の空間線量は地上から50㎝ほどで5.7マイクロシーベルト/時。福島第一原発から9㌔。除染して子どもたちが通学し、校庭で遊べる環境だろうか?それ以前に若い世代が帰還して日常生活が送れる環境とは言い難いが。

_aaa0360人口16000人弱の富岡町には東電福島第二原発4基がある。原発誘致に伴い、莫大な固定資産税や交付金が自治体収入となる。原発マネーと思われる箱物の一つがこの「富岡町健康増進センター リフレ富岡」。Webで見ると、温泉、プール、トレーニングジム、宿泊施設まで完備されている。富岡町役場も重厚な建物で、隣接する図書館を兼ねた「文化交流センター学びの森」も実に大きな箱物だ。
_aaa0868「文化交流センター学びの森」 2012年3月撮影

_dsc8183福島第二原発の建屋が海岸から見えた。福島県議会が脱原発決議をしているにも関わらず、東電は第二原発の廃炉を決定していない。この後に及んでもなお、国の出方を見てから判断するといっている。国民の税金でしか賠償金を支払うこともできない事実用倒産した電力会社ということと、事故を起こした責任を認識しようとしないのではないか。

_aaa0789海岸地帯の大津波による被害は甚大だが、警戒区域のために住宅の片づけは手つかず。後ろは第二原発の排気塔。この辺りの空間線量は0.7マイクロシーベルト強/時ある。

_aaa0707JR常磐線富岡駅周辺は壊滅的な被害を出した。駅舎はない。ガレキとなった自動車が駅周辺には何十台も残されていた。

_aaa0664原発から10㌔強にある畜産牧場は、牛舎で餓死した牛たちの死骸が全く片づけられないままだった。元々は養豚業を営んでいたと思われる牧場だ。狭いスペースに二頭が詰め込まれ飼育されてていたと思われる。事故前からの畜産業者の姿勢が問われる現場といえた。

_dsc8117野良犬となった首輪をつけた犬が死骸を食らっていた。放れ牛の多くが生き延びた一方で、水もエサもないまま、多くの家畜が息絶えていった地獄となっていたことがわかる。事故後の4月22日に警戒区域となった立入禁止区域は、原発事故が生みだした動物たちの地獄だ。人の都合で飼育され、棄てられた家畜もペットも哀れだ。住民さえも棄民する国だといえば驚いてもいられないが。

 原発事故当時、建設業に従事していた松村さんは常磐高速道路の建設工事中だった。地震で古い木造二階建ての家はペシャンコに崩壊したが人的被害はなかった。普段生活していた自宅には80代の両親がいたこともあり、近所のおばさんと4人での避難しない生活が始まった。停電だったが、プロパンガスで煮炊きができ、大型冷凍庫には食料が保存されていて、飲み水は沢の水を引いて間に合わせたという。老いた両親の手伝いをして作った米もたくさんあった。タラの芽などの山菜も、川魚も平気で食べたと話した。庭先のビワの大木に鈴なりとなったビワもたらふく食べたという、ほぼ自給自足の生活は、政府が20㌔圏内を警戒区域に設定する4月22日前後まで続けた。自分が寝泊まりできる仮設住宅は三春町に確保し、両親は県外に避難させた。

 松村さんの家だけ放射線量が低いはずもない。現に、庭先で計ると1.7マイクロシーベルト/時ある。仮設のある三春町ははるかに低いし、4月に帰村しはじめた川内村役場の線量と比しても5倍以上ある。どこへ行くにもマスクなしの松村さん。放射能の影響はもう考えないようにしていた。50代はじめという年齢からすれば、健康への影響は熟慮したほうがベターなはずだが、「希望の牧場」代表の吉沢さんと同様に、自らの被曝と引き替えに、どこかやぶれかぶれとなって国の指示に抵抗する生き方を感じる。

 事故後の4月。松村さんは東電本社に単身乗り込んでどなりつけたこともあるという。地震によって崩落した屋根を修理したくても住民も業者も立入できない現状に対し、東電が住民に代わって応急修理するべきだと実施させる結果につながったと話した。

 松村さんは、殺生は嫌いな性分から、残されたペットの犬やネコなどにエサをやり始めたが、今では富岡町に残る放れ牛の面倒をみようというプロジェクトを立ち上げ、NPO法人化する予定だ。正式名称は「福島の再生と未来を考える がんばる福島」となる予定。本人の思ったほどではないというが、寄付金が少しづつ集まっている。ちなみに、松村さんの遠い祖先は、檀家となっている近所の真言宗寺院の住職をしていたとのことだ。

_aaa0661停電対策にと、太陽光充電でランタンなどの充電ができる優れものも寄付された。

「初めは牛の面倒を見るつもりはなかった。イヌ、ネコだけにエサやりをしていたのが、今では生き残った牛も引き受けてしまった」と松村さんは話した。松村さんの活動は町から避難した友人が専用のブログ(「ときぶーの時間」)を立ち上げて発信するようになり、海外にも広まった。ペット用のエサが余るほど届いていた。インスタントラーメンや缶詰類などの食料と飲料水も一人では食べきれないほど届いていた。

_aaa0501私が伺った時期は、谷あいの細長い水田地帯に牛を囲い込む柵を設置するなどの作業で、自宅に寝泊まりして生活していた。昼はインスタントラーメン、夜はご飯に缶詰のおかずのパターンらしかった。夜はロウソクの灯りだけでも何とか生活できるようだ。長い夜にはアルコールも欠かせない。

_aaa0034二羽のダチョウもフェンスを作って飼う。一羽は車のあとを着いてきたといい、一羽は放浪しているところを捕獲して飼うようになったという。

_dsc8097野良猫を見つけると道路端にエサをやる。決まった家の倉庫などにエサを置く日課だが、カラスの目につくところに置いてもカラスに食われるだけだと、置き場所は限定している。
_aaa0093住民が設置した倉庫内のエサ筒にエサを補充する。

_aaa0287数匹のネコが集まる場所。松村さんが呼びかけるとどこからともなく寄ってくる。

_aaa0241野良牛の群れを見つけると餌づけして慣れさせる。捕獲して移動する作業は時間がかかる。

_aaa0477牛を囲い込むための柵は未完成だが、囲い込みで無用の繁殖を防ぐため、オスとメスを二ヶ所に分け約200頭を目処に収容することを考えていると話す。水田の雑草は牛たちがきれいに食べてくれるので、農地の荒廃を防ぐ狙いもある。当面の土地は両親や親戚が米作りをしてきた水田などを利用している。

現実には、警戒区域内で100頭の牛を生かすことも楽な取り組みではない。膨大なエサ代や運搬用トラックなどの機材に必要な資金と人材を確保して継続することは至難のわざだろう。しかも、松村さんはイノシシは飼っていたが、本業は建設業で畜産家ではない。松村さんが取り組もうとしていることは、殺生は嫌いだという感情からの東電原発事故の尻拭いとなりそうだ。
 本来は東電及び国が、生き残っている牛たちを殺処分せず、しっかりと保護し、被曝研究なり除染研究なりに活用し、生かす方策を考えるべきではないかと思う。原発事故は国策で推進され、「安全神話」のウソを言い続けた国と東電による人災事故だったのは明白だからだ。

◯「石松」のその後_aaa0400お産の翌日、母牛と石松は寄り添っていたがオッパイを飲んだ様子は伺えない。

_dsc8078石松は前日よりもしっかりと歩けるようになっていたが、母牛の気ままな移動に後を追うだけ。

_aaa0433松村さんは「石松」を抱きかかえて、出ないオッパイの代わりに赤ちゃん用の粉ミルクで代用することにした。

_aaa0533遠藤さんが入手してきた粉ミルクを、湧かした水を冷まして溶かし、石松に与える松村さん。ゴクゴクと飲み始めたら一気に飲み干した。

_dsc8114結局、母牛のオッパイを吸うこともできないため、石松は松村さんの自宅に運ばれた。被曝した牛たちを警戒区域の外に移動することは禁じられているため、獣医が来てくれない限り、獣医に見てもらうこともできないのが現状だ。毎日粉ミルクをたくさん飲ませて面倒みないと、未熟な石松が生き延びることは難しいだろうというのが実感だった。加えて、森に隠れたり、牛舎の隅に身を潜めたりと衰弱した母牛には死が迫っていると思ったほどだ。私が撮った「石松」の最後の写真がこれ。私は翌日の二本松市の取材があるため、4月19日の夕方には富岡町を放れた。

 その後、石松と母牛はどうなったのか?つづきは「ときぶーの時間」で読んでいただくほかはない。

◯最後に原発事故と原発に関しての松村さんのコメントを紹介しておきたい。
「事故前から放射能は何度も何度も洩れていたんだ。まだ事故が収束していないのに再稼働って。政府は何を考えているのか、あきれかえる。もう一度事故と起こしたら日本はもうダメだぞ。新しいエネルギー開発に取り組むべきだろうが」

 


 

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2012年4月30日 (月)

警戒区域で生きる松村直登さんと子牛の石松の誕生Part1 A photo reportage about Mr.Matsumura who stays in No entry zone in Tomioka-machi & a birth of a premature calf.

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 全域が警戒区域となっている富岡町の自宅で生活し続ける松村直登さん(52歳)の生活の一旦を見せてもらった。自宅は福島第一原発から南南西に約12㌔の辺り。松村さんが生まれ育った自宅は、周辺に民家はまばらな森の中にあった。電気も水道もない状態で、飼い犬のアキと拾ってきた放浪癖のあるタロウの二匹、それに二羽のダチョウが飼われていた。(追記:ネコもいることを忘れていた)撮影は4月18~19日。

_aaa0632左がタロウで、右が甲斐犬のアキ。(空間線量は1.7マイクロシーベルト/時)

 自宅に着いてまもなく、松村さんの携帯に連絡が入り、同じ町内で牛のお産の現場に行くことになった。そこからは松村さん自身も未経験の牛の出産から、生まれたばかりの未熟児の子牛の面倒をみるという予想外の展開となっていった。

_aaa0722子牛の前足と頭の一部だけが見えていた。

お産の現場は3月に放れ牛の移動の手伝いで来たことがあり、富岡町役場の近くだった。民間の創生水という会社が水を使った「除染実験」目的のためにトラックで何度も運んだ囲い込みだった。片隅でガリガリに痩せ細った母牛が泥の中に倒れ込んだまま子牛を産もうとしていた。この柵の牛たちに水とエサをやるボランティアをかって出ている遠藤カズオさんが、難産の子牛を一人では引っ張り出せないとのことで、松村さんが救援に駆けつけたわけだ。(追記:この民間会社による除染実験は、遠藤さんによるとまだ開始されていないようだ。会社のWebを見ても情報の更新も少ないし中身がない。囲い込んでも比較実験が開始されないということは、計画が頓挫したのではないか}

_aaa0739二人で前足に縛ったロープを何度か引っ張ると、子牛がやっと飛び出た。人のお産は仕事柄、自宅出産や助産院で3度撮影した経験があるので、この事態にあせる気持ちはなかった。ただ、タイミングだけは外したくなかった。

_aaa0808松村さんはワラを引いた上に、産まれたばかりの子牛を置き直した。独力では向きを変えることもできないほどに、未熟で立とうとする本能も余力もなかった。放っておいたら、母牛と子牛も共倒れだったと思える状況といえた。もちろん、現場は警戒区域で獣医さんが飛んでくるところではない。
_aaa0827時間の経過とともに、子牛の表情から希望が感じられるようになった。

_aaa0009母牛は骨がガリガリで、オッパイが張っていないため、子牛に飲ませようと松村さんがほ乳瓶に初乳を絞った。ほんのわずかしか出なかったが。

_aaa0036遠藤さんが子牛の口を開いて初乳を何とか飲ませることに成功した。申請中のNPO「ガッツ福島」(代表は遠藤さん)にちなんで、子牛を「石松」と名付けたのは遠藤さんだ。

_aaa0079子牛の「石松」が誕生した囲い込みの牛たち。40頭ほどいる。創生水という民間会社による除染実験の目的で殺処分は免れている。(追記:空間線量は5マイクロシーベルト/j時をこえる。囲い込みに隣接する畜産農家の家の庭先では、50マイクロシーベルト/時をこえてしまう雨水が流れ込む地面もある)

_aaa0200倒れ込んだままで、子牛にオッパイをやろうとすることもなく、身動きしなかった母牛を、松村さんたちが懸命に引っ張り起こして、柵の外に連れ出した。胎盤が出てきたのはしばらくしてからだった。いくらか落ち着いたのか、エサのワラをやっても食欲を示さなかった母牛だが自ら青草を食べ始めた。他の牛たちに角で突かれて皮がむけた傷あとが身体中にあった。エサを満足に食べることができなかったことを物語っていた。ここまででお産から3時間経過している。

_aaa0231母と子の動きを見つめる3人。だが、母牛はオッパイをやろうとする素振りはない。子牛の「石松」は、立つのもやっとのことで、オッパイを探ろうとする本能は希薄で素振りがない。

_aaa0460一計を案じ、松村さんは母牛をつないで、石松にオッパイを吸わせようと股の間に何度か入れてみたがダメだった。石松は前足の間にオッパイがあると勘違いの素振りばかりだった。松村さんたちが「石松」を懸命に生かそうとしたが、「石松」の運命を暗示していたいるようだった

_aaa0455_2母牛がなめたりして、身体のぬめりがすっかりとれた「石松」だが。

一気に紹介したいところだが、つづきはPart2にて。


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2012年4月28日 (土)

再稼働絶対反対首相官邸前抗議集会(4月27日)No to Restart Nuclear Power Plants in front of prime minister's office 

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These are the photo reportage about a big gathering voicing agaist restarting Ooi Nclear Power Plants (in Fukui pref) in front of prime minster's official residence on the weekend.

 原発再稼働反対の強固な意思を持つ多数の市民は首相官邸前に雨の中集った。世間はゴールデンウィークに突入するというい週末、短時間のうちに参加者が見る見る増えていった。「総理官邸前」交差点の角に集まった参加者の列が後続が見えないところまで続いたようだ。まるで一つのデモ行進に集まった参加者が一つの集団を作って歩くかのように。参加者の様々な思いを共有するものとして写真で応援したい。

 _aaa0328「原発 再稼働NO!!」

_aaa0180「野田さん あんたわしらを殺す気か?!」

_aaa0200「福島第一原発はまだ収束していませんよ!!」

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_aaa0212_2「大飯再稼働絶対反対」 「大飯原発→危険のおおい原発→おおこわい原発」

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_aaa0208「大飯原発の再稼働に断固反対」「原発は止められる WE CAN STOP THEM」

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_aaa0226時間と共に参加者がぞくぞくと増えていった。最後尾は見えない。

_aaa0316福島第二原発のある富岡町から茨城県に避難している木田節子さんの訴えが心に響いた。「安全ですは嘘でした 断ち切られる絆 補償も帰還も国主導で行われる 誰も責任を取らない 原発立地県のみなさん 福島県民の声を聞き 私たちの悲劇を繰り返さないでください」

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_aaa0268「NO NUKES SAVE CHILD 真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」「STOP!原発」

_aaa0366_5「原発と原爆同じだよ!」「今、NOと言わなければ」

_aaa0349「人に冷たく無能な国に原発を持つ資格はない 東海村村長 村上達也」 「贈りたい 原発ゼロの こどもの日」 ipadを使ったメッセージは夜が効果的だ。

_aaa0238_2「♪原発廃炉でエエジャナイカ♪♪♪ Soul Flower Union♪♪」

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◎念のため、ハンストのつづく経産省前テントの写真も
_aaa0145このテント空間は、再稼働ありきで、一部の集団のための利権存続を計り、国民の声を無視して突き進もうとする政府・経産省の喉仏に突き刺さる「静かに熱く闘う意思」。テントの中では、古い馴染みの日本山妙法寺の大津行秀上人が団扇太鼓を叩きつづけていた。
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2012年4月25日 (水)

「止まった時間」・解除された南相馬市の警戒区域(Former No Entry Zone in Minamisouma city.)

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This is a photo reportage about former No Entry Zone in Minamisouma-city. All photos are taken on April 16-17th. What you could see there is a town where nearly everything is freezed as if no rehabilitation took place after the big earthquake and super tunami on 3/11 becauce of nuclear power plant disaster.

 4月15日深夜12時を境に南相馬市の警戒区域が解除され、空間線量率を元に新たに3区分に分けられた。
_aaa0034_2新たな検問所が浪江町との境界に近い国道6号線上に設置された。深夜に現場に着いたついでに真夜中の検問所に行ってみた。土手の雑草が伸び放題で、「3・11」後のままなことを物語っていた。

 警戒区域が解除されるまでに何度か立ち入った南相馬市小高区。警察の目を気にすることなく、自由に動き回れるので、16日と17日の二日間、線量の低い海側から線量が高めの山側まで回った。立入禁止だったために、地震で崩れ落ちた建物も、大津波で全壊した住宅も、復旧作業が手つかずで、時計の針が止まったかのような空間だった。原発事故による放射能汚染さえなければ・・・。

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_aaa0196南相馬市役所小高支所裏手の排水設備関係の液状化がすごり。

_aaa0144貴船神社の鳥居や石灯籠などが倒壊している。

_aaa0252墓地の石柱の多くが地震によって倒れたまま。解除されたメリットは屋根の修理や墓地の修繕ができるようになることくらいか。

 解除された警戒区域見直し基準は、航空機モニタリング結果を補正した空間線量率が3.8マイクロシーベルト/時以下が「避難指示解除準備区域」。3.8~9.5マイクロシーベルト/時が「居住制限区域」。共に宿泊禁止で一時帰宅が防護服やスクリーニングなしで自由にできるようになった。9.5マイクロシーベルト/時以上が「帰還困難区域」で立入禁止措置は変わらず。

_aaa0307国道6号線をこえた大津波による惨状も手つかず。

_aaa0324商品が散乱したままのツルハドラッグストア小高店。海岸から2.5㌔離れている。

_aaa0561自動販売機が村上海岸から国道6号線の間に広がる水田地帯に残されていた。

_aaa0498住宅の半分がもぎ取られたままの中川夫妻の自宅。70歳代のご両親が流されて亡くなり、息子さんは翌日救出されて助かったという。「いまでも夢を見ているようだ。住み易いところだったが、ここには戻らない」。村上地区での死者は62名。

_aaa0463同村上地区。

_dsc7706「水没」状態の浦尻地区はもともと埋め立てで造成された水田地帯。現在はポンプで24時間、水をくみ出し排水している。

_dsc7718献花に訪れた家族の姿も(浦尻地区)。113戸のうち、全壊52戸。

_dsc7626村上海岸の破壊された防潮堤。

_aaa0045アカバナミツマタの花が満開だった。

_aaa0036愛犬マロンを連れて解除後に初めての一時帰宅をした葉倉夫妻。三春の枝垂れ桜を苗として成長した桜が咲き始めていた。空間線量は0.9マイクロシーベルト/時。ところが、海風が吹く度に、線量が上がって1マイクロシーベルトをこえた。(小高区羽倉地区)

 約200㌶の水田で米を作り、150俵を出荷していた葉倉さん(60歳)。水源はセシウムに汚染されて使いものにならなくなった大垣ダムという。小高、浪江、双葉の3町が農業用水として利用してきたのが大垣ダム。
「水が使えない。米は作れない。作っても売れない。米作りはもうダメかもしれない」
「水道も使えない。浄化槽も使えない。電気は復旧してもここでは生活できない。仮設が本宅みたいなもので、ここは別荘みたいなもんだ」

_aaa0188JR常磐線桃内駅は浪江駅と小高駅の間にある。線路はツタが繁茂。高台にある駅は大津波の影響はないが。
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_dsc7678移動した検問所は南相馬市と浪江町の境界に近い国道6号線上に設置された。空間線量は0.45マイクロシーベルト/時。

_dsc7764山側の空間線量が2マイクロシーベルト/時をこえる交差点で、愛知県警がノーマスクで車輌チェックをしていた。車から降りて、このスポットはマスク着用をした方が良いと進言した。「下っ端に言われてもどうにもならないから上司に言ってくれ」と。脅威が目に見えない「放射能組みし易し」、と思いこむほど慣れが怖い。

_dsc7743小川から飛び立った白鷺。

 解除された旧警戒区域内に自宅のある人や墓地を持つ住民にとっては歓迎される措置。だが、上下水道は壊れたままで、水を持ち込まないと自宅の掃除もできない。トイレは行政が設置した仮設トイレしか使えない。電気が復旧しても、ライフラインとなる道路などのインフラの復旧が完了しないとどうにもならない。農業が再開できるわけでもない。外部の者も自由に出入りできるので窃盗の心配は増す。収束の目処が立たない原発から20㌔圏内で、放射線量が低めだからといっても、若い世帯が近い将来、暮らせる環境ではないとしかいえない。


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2012年4月 9日 (月)

発行しました! fotgazet Vol.5(JVJAが編集発行するPDFマガジン) fotgazet Vol.5,a PDF magazine, just paublished by JVJA !

東日本大震災と福島原発事故直前の昨年2月に創刊したオンラインPDFマガジンfotgazetの第5号が発行されました。今回からは毎号単体での販売となります。一部600円。バックナンバーの購入も同じ金額で可能です。
これは私も会員の一人で活動するフリーランスのジャーナリスト集団であるJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)が独自に編集し発行するものです。ビジュアルなメディアなのでパソコンやiPadなどのタブレット端末での利用が最適です。
(fotgazet vol.5 is featuring various photo reportage on a year after 3/11 . Top story is an ariel photography of Fukushima Daiichi Nuclear Power plant by Morizumi Takashi, freelance photojounalist and a member of JVJA .
Another main feature story is a series of B&W portlait of young workers at the Fukushima Daiichi Plant by a young photojounalist Obara Kazuma.

fotgazet is edited and published by JVJA, a group of freelance photojounalist and videojounalist originally. it is 600 yen per issue. JVJA has started publiishing it in February 2011 just a month before 3/11.)

今号の目玉は何といっても森住卓さんによる福島第一原発の空撮。ボロボロの3号機、4号機の現状を見ただけで、野田首相による「原発事故収束」宣言のまやかしを再認識します。同時に、小原一真さんによる寄稿で、その現場で働く若き原発作業員=被曝労働者のポートレートが胸に迫ります。
私は原発から14㌔の浪江町で300頭の和牛を生かし続ける畜産家・吉沢正己さんに密着したフォトストーリーを掲載しています。国による「棄畜棄民」に抵抗する吉沢さんの闘いです。

私たちフリーランスのジャーナリストがこれからも良い取材活動ができ、マスメディアとは異なる視点、市民目線から情報を発信し続けることができるように、どうか購入よろしくお願いします。

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fotgazet vol.5 ダウンロード開始!
「ポスト311」~大津波と核汚染~

http://www.fotgazet.com/

ボロボロの福島第一原発を近距離から空撮。原発作業員のポートレートや原発作業員T氏の手記も掲載。目に見えない放射能を可視化できるラジオオートグラフ では、東大の森敏教授が植物の放射能汚染の実態を告発。被災地の海に生きる造船所の男たち、海へと戻った野蒜のサーファーのフォトストーリー。双葉厚生病院で1000μSv/h以上を計測した日から1年後、JVJA メンバーが再び福島県三春町へ集合した。座談会も収録。

ダウンロード販売 各号600円
※年度購読から個別販売になりました。バックナンバーも購入できます。

【目次】

激写!一年後の福島原発(森住卓):p2~p12
福島の彼方に~原発作業員のポートレート~(小原一真):p13~p24
原発作業員T氏の手記(T):p25~p29
植物の放射能汚染(森敏):p30~p37
「棄民」への抵抗(山本宗補):p38~p51
被災地に響く槌音(野田雅也):p52~p67
野蒜のサーファー(佐藤文則):p68~p81
カルカッタから石巻へ(木村肇):p82~p92
胡四王蘇民祭(野田雅也):p93~p103
座談会 ポスト311(日本ビジュアルジャーナリスト協会):p104p109

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2012年3月31日 (土)

若狭原発銀座で元原発作業員(下請け労働者)・斉藤征二さんの話を聞いた(former nuclear power plant worker who suffered thyroid gland,,a cardiac infarction and otherdisease.)

(写真はクリックすると拡大します)

 「大飯原発の再稼働を許してしまうと、なし崩し的に他の原発の再稼働に繋がってしまう。第2のフクシマを続発しかねないという大きな危機感を抱いている」(グリーンピースのWebから引用)

 こうした危機感から、25日から福井県庁で断食の抗議活動に入った中嶌哲演住職(小浜市明通寺)の紹介でお会いできたのが元原発労働者(被曝労働者)の斉藤征二さんだ。斉藤さんにお会いして話を伺ったのは先月末。原発の元下請け労働者として全国で初めての原発下請け労働者の組合を1981年に設立し、仕事を失った斉藤征二さん(71歳)の話の要点を自分用メモとして書き出しておきたい。(反原発40年の中嶌哲演住職についてはこちらのブログでどうぞ)

 斉藤さんは岡山県生まれ。配管工として原発の仕事に10数年従事した。全国で初めての原発下請け労働者の組合を1981年に設立した。斉藤さんの原発での最初の仕事は美浜原発1号機の基礎工事(1967年)。原発関連の仕事を始めたのは、1964年に大阪の鉄工所で配管工事の仕事を始め、親方が「原発配管で通用したら世界で通用するぞ、腕を試してこい」といわれて福井県の原発建設の仕事を求めてきたのが経緯だったという。美浜原発1号機では基礎工事、配管埋設工事、一次系二次系配管も手がけた。通常、原発1碁建設には3~4年かかるが、その間に担当する専門分野の工事が終わると原発ではない別の工事現場に移るという仕事のパターン。敦賀市には東洋紡の工場もあったのでそちらの仕事もした。

_aaa0455斉藤征二さん。敦賀市の自宅で。2012年2月末

 斉藤さんがこれまでに働いた原発は美浜原発1号機と3号機、敦賀原発1号機、高浜原発1号機と2号機、大飯原発1号機、玄海原発2号機。組合設立後に浜岡原発5号機の基礎工事をやったという。「敦賀原発の1号機だけが東芝日立のGE。ほかは全部三菱系」。「浜岡は砂丘ですよ。ビックリしたのは、あそこには岩盤がない」
 斉藤さんが組合を設立したのは1981年5月。原発下請け労働者の組合で、全日本運輸一般労組原子力発電所分会の分会長となった。下請け労働者の抱えるピンハネと雇用不安の問題を訴え、組合参加を募るために全国キャラバンで福島第一原発にも女川原発にも出かけていってチラシをまいたという。

 組合設立の最大のきっかけは敦賀原発1号機での被曝しながらの「違法修理」が発覚し、原発の稼働が止まって何の保証もないまま仕事を失ったところにあるという。「違法修理」といっても、修理の指示は敦賀第一原発を運転する日本原電が子会社の関電興業に出し、下請(孫請)の武田鉄工から斉藤さんの親方に仕事が来るルートでの要請だった。原電の「ちょっと見てくれんか」(直してほしいの意味)の指示で実際に現場に入って動いたのは親方と二人だけ。蒸気発生器にピンホール大の穴が開いていて蒸気洩れが起きていた。穴をふさぐ応急処置として斉藤さんはハンマーで鉄を叩いて延ばして穴をふさいだ。全面マスクで作業した。(ここで重要なのは、応急修理の指示を出す原電からは具体的な修理方法についての指示はないという点だ)。応急処置が終わると、二人は事務所に呼ばれてビール1ダースが「ごくろうさん」と目の前に出されたという。後でわかったのは、ビールを飲んで汗や小便を出すことが除選の早道だと聞いた。

_aaa0497斉藤さんの1980年~81年の被曝管理手帳。「関電興業敦賀営業所 廃棄物処理兼設備定検工事」「配属 武田鉄工所」が読みとれる。

 約3ヶ月後、応急処置したところがひび割れたので、今度は肉厚のゴムと鉄板で二重に覆うようにして再び応急修理をしたという。だが、その後に洩れて原電による事故隠しが発覚し稼働停止となった。蒸気発生器の修理は本来は原発を止めて作業しなければいけないのに違反したことや、放射性物質を含んだ水が垂れ流され、コバルトが出たり、図面がないなど、様々な杜撰な管理が露呈した大騒ぎとなったという。重要なのは、こうした作業で斉藤さんの被曝量は半年で22.6ミリシーベルトに達したことだろう。
(当時はフイルムバッジ。原電は5枚のフイルムバッジを使用。ところが下請けは3枚だけ。最も危険なアルファ線と中性子も計れる2枚がない。当時は5レム(50ミリシーベルト)が最高値。3ヶ月で30ミリシーベルト(3000ミリレム)まで。)

_aaa0394斉藤さんはコンクリートの寿命を問題視する。コンクリートから無数にぶら下がる金具で配管が止められていることを説明している。「コンクリートは老朽化して『アルカリ骨材反応』で石とセメントが分離して強度が低下する」。とりわけ、建屋には無数の配管類がぶら下がっているので、落下損傷して大事故になることを心配している。「コンクリートの耐用年数は30年。30年経った原発は廃炉にしないと」と斉藤さんが強調する理由の一つだ。

 何の保証もなく仕事を失った斉藤さんは組合を設立して、同じ下請け労働者に向けたチラシではこう訴えた。

「被曝・雇用不安の解消をめざし 原発で働く仲間の皆さん、福井県民の皆さん、私たちはこのほど労働組合を結成いたしました。今まで私たちは、下請、マゴ請、そのまた下請といった、およそ時代の先端をいく職場にふさわしくない前近代的な状況の中で、労働者同士がバラバラで希望も権利もなし、あるのは被曝の危険と雇用不安だけというひどい実態です。私たちの場合は職場や企業が違っても、あなた一人だけでも加入できる個人加盟の組合です。あなたも運輸一般原電分会に加入して、労働者として希望と誇りの持てる生活とガラス張りの原発を築くために共に力をつくしてみませんか。心から歓迎します。 全日本運輸一般労働組合原子力発電所分会 分会長 斉藤征二」

 組合設立には様々な妨害があった。夜中に無言電話がかかってきたり、石を投げ込まれて玄関のガラスが割られたり、公安がつきまとったり。組合設立後に斉藤さんは中央労働委員会に、日本原電と関電興業が団体交渉を拒否しているので申し立てをし、使用者責任やピンハネの実態を追及した。下請とは契約書もないし直接雇用していないので雇用責任はないが管理責任はある、ピンハネの実態も認めたという。組合設立による交渉の結果、労働環境とピンハネの実態の改善につながったようだ。ピーク時には200人が組合に参加したという。

_aaa0458
 斉藤さんは60歳の2000年に退職した。最後に関わった原発の仕事は浜岡5号機の基礎工事。この時は被曝とは無縁の建設仕事だった。原因が特定できない病気が続出したのは原発の仕事を止めて数年後のことだった。

 2001年(61歳)に体調異変で背中に水がたまる病気になった。2003年(63歳)は甲状腺切開手術。ノドにピンポン玉より小さめな固まりができていた。2006年(66歳)には急性心筋梗塞で病院に運ばれ、胸部への電気ショックで息を吹き返した。「3分遅かったらアウトだった」というほど紙一重だったようだ。2008年(68歳)には腰部脊柱菅狭窄症手術をしている。2010年(70歳)では両目の緑内障手術をした。今年は白内障手術をすることになっている。こうした病気の連続により、斉藤さんはお年寄りのように腰が曲がってしまった。

「全ての原発を停止から廃炉にしないといけない。年内は絶対動かさないように。30年のものは全て廃炉に。それが私の今の運動です」

_aaa9878日本原電敦賀原発。左から1号機、2号機、ふげん(白い建屋)。敦賀市 2011年

_dsc2230関西電力美浜原発。右から1号機、2号機、3号機。美浜町 2011年

_dsc2462関西電力大飯原発。大飯町。 2011年

_aaa3758関西電力高浜原発。高浜町。 2011年

_aaa0036資料:「若狭の原発15碁の40年、そして今」(地元の反原発グループが発行した一目でわかるリスト)(データサイズを大きくしてあります。自由にコピーしてください)


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2012年3月20日 (火)

あれから1年。被災地では何が変わったのだろうか?(A year after 3/11,has anything changed in the great tunami & Fukushima nuclear power plant disaster-hit area. ?)

(写真はクリックすると拡大します)

 あれから1年が経ち、被災地にでもいない限り、国難の事態がつい昨日起きたことを私たちは忘れてしまいそうなほど、大震災前の日常を取り戻そうとしている。自戒をこめ、東日本大震災と原発事故から1年、現場で撮影した写真を通じて忘れてしまうことに抗いたい

 _dsc6839大津波と地盤沈下によっていわき市周辺の海岸線はどこも波が高い。広野町広野浄化センター前の海岸。3月7日

_dsc6654いわき市久之浜町末続の海岸。いわき市全体での死者行方不明者は347名。3月6日

_aaa0235撤去されずに残る漁船の残骸。いわき市四倉漁港。3月6日

_aaa0326死者行方不明者約60名といわれる、いわき市久之浜町久之浜 3月7日

_aaa0366同久之浜町久之浜。第一原発から南に34㌔。3月7日

_aaa0027Jビレッジスタジアムゲート。原発の南21㌔。空間線量は毎時0.5マイクロシーベルト。広野町 3月7日 

_aaa01713月1日、業務再開した広野町役場。除染された敷地内は毎時0.2~3マイクロシーベルトだが、周辺は0.5マイクロシーベルト平均ある。除染した小中校を再開するという。原発の南24㌔。3月7日

_dsc6702広野町の国道6号線警戒区域入口検問所。空間線量は毎時0.5マイクロシーベルトをこえる。3月7日

_aaa0920開店直前に被災したケーズデンキ富岡店。原発から南西に5㌔。3月8日

_aaa0888富岡町役場 敷地内の空間線量は3マイクロシーベルトだが、敷地外は6~7マイクロシーベルトの田園地帯が取り囲む。第一原発から南西に9㌔。3月8日

_aaa0701生け垣の剪定をする女性。自宅に帰って生活したい気持ちの表れなのだろう。原発から9㌔。富岡町 3月8日

_dsc6968水道管の破損状況を点検している作業員。原発から南西に9㌔。富岡町 3月8日

_aaa0528被曝研究のために囲い込まれた放れ牛。原発から南西に8㌔。富岡町 3月8日

_dsc7007元気に生きのびる放れ牛たちの群れ。富岡町 3月8日

_aaa0132「希望の牧場」でエサに食らいつく牛たち。原発から北西に14㌔。浪江町。3月9日

_aaa0009300頭をこす和牛がひしめく「希望の牧場」では、エサが与えられても厳しい冬を越せずに息絶える牛もいる。3月9日

_dsc7121南相馬市、大雪の降った朝の国道6号線検問所。3月10日

_aaa0026南相馬市鹿島区、国道6号線脇に撤去されずに残る漁船。南相馬市の死者行方不明者は900名。3月10日

_aaa0242南相馬市鹿島区漁港 国道6号線まで流された漁船と浪江町請戸港から運ばれた漁船が修理を待つ。3月9日

_aaa0388諦めかけた酪農を再開し、原発事故前に近い出荷量までに戻した滝沢昇司さん。疎開先の郡山市の中学を卒業し、地元の高校に入学する息子は酪農を継ぎたいという。南相馬市原町区。3月9日

_aaa0128宮城県名取市閖上。本堂を残しほぼ壊滅的な被害を受けた曹洞宗東禅寺。名取市の死者行方不明者は966名。3月10日

_aaa0181宮城県南三陸町。南三陸町の死者行方不明者は845名。3月10日

_aaa0165多数の犠牲者を出した南三陸町防災対策庁舎 3月10日

_aaa0434岩手県大槌町の海岸地帯を1周忌法要の現場まで読経する僧侶たち。3月11日 

_aaa0063岩手県大槌町役場。大槌町の死者行方不明者は1282名。3月12日

_aaa0042親戚の墓参りに来た大槌町の女性。大槌町で壊滅した曹洞宗紅岸寺の墓地。3月11日

_aaa0017大槌町浪板にある浪板仮設住宅に降りしきる雪。3月11日

_aaa0054_2大槌町江岸寺の墓地に建てられた一周忌追善供養塔。3月12日

_dsc7214大槌町吉里吉里にある曹洞宗吉祥寺での1周忌合同供養。200名近い檀家が亡くなった。3月11日

_aaa0286同吉祥寺での合同供養。僧侶約15名が全国から参加。焼香に来た人は1000名ちかかった。3月11日

_aaa06732012年3月11日午後2時46分。吉里吉里湾で犠牲者の冥福を祈る遺族たち。3月11日

_aaa0803遺族に代わって吉里吉里湾に生花を投げる僧侶たち。3月11日

_aaa0086大熊町から避難して会津若松市の仮設住宅で暮らす木幡夫妻。郡山市で実施された3・11脱原発集会に友人たちを誘って参加した。背景は磐梯山。3月14日

_aaa0274村長が帰村宣言をした人口3000人の川内村。除染されたかわうち保育園。毎時0.3マイクロシーベルトは、平常時を0.04~05マイクロシーベルトとすれば、7倍に相当する。3月13日

 大津波と原発事故による被災地を取材して感じるのは、1年の区切りが被災者にとってはあまり意味を持たないということだと思う。「あっという間の一年だった」。何度か取材してきた被災者の人たちからたびたび聞いた一言だった。被災者にとっては現在進行形でつづく大地震、大津波、原発事故との闘い。被災地から遠い私たちはどうしたら忘れずに助け合っていくことができるのだろうか。


 

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2012年3月 5日 (月)

除染:東電と国の無責任に耐えかねて除染ボランティアを始めた住職

(写真はクリックすると拡大します)

 まず、取材に協力していただいたみなさまに掲載が遅れに遅れてしまったことをお詫びしたい

◯つるりん和尚こと阿部光裕(曹洞宗)常円寺住職
_aaa0177「つるりん和尚」こと阿部光裕常円寺住職の除染作業前の支度。福島市立岡山小学校。2月5日

_aaa0185高圧洗浄機の使い方の手本をボランティアにして見せる、阿部光裕常円寺住職。ポイントのひとつは専用の洗剤を散布してしばらく放置してから洗浄機を使うこと。ゴーグルとマスクとカッパの装備が基本。

_aaa0384a福島市岡山小学校の除染に集まった県内外からのボランティアのみなさんと、除染道具。小学校の先生方も参加した。

 福島県中通りの除染は、国のあいまいな基準と対応策に結果的には住民が翻弄され、自ら除染と仮置き場を見つけださざるを得ない悲しむべき現実が根底にある。様々な事情から地元に留まることを選んだ大半の県民市民。行政の除染を待っていてはいつになっても足元の放射線量は下がらない。保育園や幼稚園、小学校や中学校に子どもたちが日々通う現実に対応するには、住民自らが除染を率先して手がけるしかない。汚染土を県も市も仮置き場を用意しないむごい現実を前に、自分たちで仮置き場を設置するほかはない。

 以下は福島市東部、 地区での、仏教寺院の住職が住民の苦悩を見かねて、自ら汚染土を預かる仮置き場を山中に設置し、ボランティア組織を立ち上げて、除染ボランティアを始めた事例だ。阿部住職は三人の子どもがいる。地元に留まる選択肢を選んだ子どもたちと共に暮らす以上は、地元の線量が高いまま放っておくことはできないと昨年から除染に取り組み始めていた。

◯福島市岡山小学校(阿武隈川東岸の東部地区)の除染作業(2月5日)
_aaa0327福島市立岡山小学校の門柱前の空間線量は毎時0.5マイクロシーベルト以上。首都圏であれば、保護者が大騒ぎとなる線量だが、福島市内では一般的な線量といえるほど基準が高止まりしているのが現実だ。加えて、岡山小学校は渡利地区同様に空間線量が3マイクロシーベルト前後だったため、昨年6月に校庭表土の除染が実施されていた。幼稚園が隣接することもあり、半年以上たっての再度の除染が欠かせなくなったといえる。

_aaa0294ボランティアには県外からの参加者の方が多い。30代もいるが、メインは40代~50代。県外者は2度目3度目の参加者が多い。「若い女性にはハードな作業なのでオススメはしません」とスタッフの弁。ボランティアは被曝の心配から40代以上が望まれ、20代の女性はお断りしている。

 実際、かなりの肉体労働だ。ブラシでごしごしこすり、スコップで泥をすくい上げて袋に入れる。参加者の負担を減らすには人海戦術が欠かせない。

 東京から土日を利用して参加した出版社の仕事をしているという46歳の男性は線量計も持参。「市民が自ら動いているところを手伝いたい。一人でも頭数が多いと役立てる。不安要素を少しでも取り除ける」。男性は南相馬市でガレキ撤去や草刈りなどのボランティアを10回ほどやってきたと話した。

 この日のボランティアは18人。大半が首都圏からの参加者で地元は3人だった。2度目3度目の参加者が多い。

_aaa0362排水路の除染前と除染後の線量が測定されて記録される。測定方法は主に直置きで50cm~1m間隔で計測し、ホットスポットを見つけだし、重点的に除染。効果のほどが確認できることが重要。

_aaa0225森林管理のプロも参加して枝木の選定と伐採も除染に欠かせない作業という。

_aaa0369除染で集めた汚染土は軽トラで常円寺の裏山に設置された仮置き場に運ばれる。

_aaa1573阿部住職は、近所や檀家から運び込まれた汚染土を寺の裏山の空き地に預かる仮置き場を設置した。少しづつ預かった汚染土が増えていく。除染ボランティアで取り除かれた汚染土もここに運び込まれて、仮置きされる。「行政をやる気にさせる方法のひとつ」と阿部住職。2011年12月撮影
_aaa1590汚染土の線量を計ると、私の線量計は毎時8マイクロシーベルトを示した。住職のものは毎時10マイクロシーベルトを示したが、いづれにしても高いことは間違いない。同12月撮影

_aaa0005ボランティアが寝泊まりする部屋で除染作業前の打ち合わせ。常円寺にて。

◯つるりん和尚のブログ「つるりん和尚のああいえばこうゆう録」より(1月26日)
「国が計測に入っても、玄関先と庭の中心部分の2地点のみ。それも、相変わらず地表から50㌢と1㍍です。

町会毎に線量計は配られていて、心ある役員さんなどが測りにくることもあるようですが、とても正しい計測がなされているとは思えません。そもそも、空間線量を計測することはそんな生易しいものではないからです。

事故後、1年が経過しようとしている中で、およそ信じがたい現状です。勿論、土壌検査にいたっては調査など無いに等しい。

結論から言うと、行政はこうした事実と向き合うのが怖いのです。ホットスポットが数多く存在することは知っていても、実際に自分たちが計測すると、それを除去しなければいけない責任が生じる。しかし、置き場もない上に、人手も足りない。一軒やれば次々と頼まれることになり、断ることができなくなる。

しかし、そこから目を背けては現実に脅威を取り除くことはできないのです。いわんや、通学路ならなおさらです。
結果、住民、殊に子供たちの未来に影を落とすことになるのです」(引用了)

◯福島市役所東部支所での除染講習会(2月4日)
_aaa0210福島市内阿武隈川東部の町会長さんたちが参加した除染講習会。講師としてウクライナ製線量計の使い方を説明する阿部住職。

_aaa0186福島市役所東部支所での除染講習会で、20町会の町会長らに除染方法の講義をする阿部住職。

_aaa0263参加した町会長さんたちに高圧洗浄機の使い方を実演。「やる気にさせる。楽しくやって見せる。結果で出ることを見せる」のがポイントと住職。市からは50万円の除染補助金が各町会単位で出ることになっている。線量計も高圧洗浄機は希望する町会に貸し出し、住民自らが除染作業をすることになる。

_aaa0387東部支所の前の水路沿いの通学路で除染の実演が行われた。前日までに測定されたミニホットスポットの数値が路面に書き出されている。毎時20マイクロシーベルトをこえるスポットもある現実。

_aaa0381マイガイガーカウンターで測定しても毎時20マイクロシーベルトをこえる。水路沿いの雨水が水路に流れ込むと思われる場所が高い数値を示す傾向。

_aaa0409午前中で予定していた除染を終え、お昼はカレーライスが無償で提供された。(2月5日)

_aaa0084菜の花の種。阿部住職が立ち上げた「福島復興プロジェクトチーム『花に願いを』」が希望者に配る種。活動についてのwebはこちら。活動の主旨は、汚染された福島の大地の浄化を願い、草花などを利用した手段や表土除去など、考えられる方策を速やかに検討し実践すること。活動報告公式ブログ「人生は365歩のマーチ」はこちら。

つるりん和尚のブログからの引用(1月12日

よく「除染ボランティア」に否定的な意見を言う人がいて、その中でも「無用な被ばく」をさせようとすることが許せないという意見が多い。しかし、仕事として除染作業に従事する人たちが大勢いるわけで、仕事ならしかたがないとでも言うのだろうか。

少なくとも、多少の被ばくを覚悟してでも社会的責任を果たそうとしている人を外部から批判だけする人を私は軽蔑する。私は、除染ボランティアに来られる人たちと直におつきあいさせていただいて、本当に頭が下がるのだ。

しかし肝心の福島に住む人たちの参加者、特に除染重点地域などの住民の協力がなかなか得られないことは深刻な問題だ。ともすると、ボランティアの人にさえ敵対心を持つ人もいる。これを私は「恥ずかしい」ことだと思う。

確かにこうした状況に置かれた住民にとって、除染に参加しなければいけないのは理不尽であると思う。
が、現実を直視するならあれこれ不満ばかりを言っている時ではない。

「人手が足りない」ことを、とにかく自覚することが先決だ。そして、真実の意味で原発事故に向き合おうとする強固な意志を持つのだ。長い道のりを覚悟して、頑張りすぎず、しかし諦めず、までいに、行動していくことが真の復興に繋がると信じたい。」(引用了)

 県外から除染ボランティアに来て熱心に除染に取り組む姿を見た東部地区町会長さんたち。阿部住職は地元住民のやる気を引き出し、行政の協力姿勢を引き出し、「理不尽」だとわかっていても被災住民たちが線量の高い現実に向き合う決断をうまく促していた。もういうまでもないが、つるりん和尚のブログは本音のオンパレードだ。これを機会に読み続けてほしい。

◯取材後記
 地元住民の除染活動の後押しを始めた「福島復興プロジェクトチーム『花に願いを』」。スタッフの地元の若い女性が話してくれたことばが印象に強く残っている。

「放射能は闘って何とかなる相手ではないとは思うけど、地元に留まる決断をした以上は、線量を減らす努力を続けるしかないと思う。みんな不安一杯で生活している。除染で安心して生活できるレベルに下がらないとしても、除染をやることで不安やストレスの低減につながっているのではないかと思う」

 原発から60㌔、70㌔離れた福島市、二本松市、郡山市などの中通りの人口が密集する市街地。そのあちらこちらにホットスポットが点在し、見えない放射性物質とのいたちごっこが繰り返されようとしている。東電の原発事故がまき散らした放射性物質の後始末を、スピード感のない、住民の不安に聞く耳を持たない国や県の政策に期待できないために、被災者自らが除染に取り組むことの不条理をメディアはもっともっと伝えなければいけない。

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2012年2月20日 (月)

写真で見る「脱原発杉並有象無象デモ」

(写真はクリックすると拡大します)
 
 2月19日に杉並区内で開催された脱原発杉並デモ(副題は自由)を撮影した。主催者によると5000人から6000人の参加者という。過剰警備によって細切れに分断されたものの、参加者数はかなりにのぼった。ところが、新聞テレビ報道は、日本共産党機関紙の「赤旗」のみがしっかりと掲載しただけだった。一体どうしたことだろう。全国紙の都内版にベタ記事でも掲載するのがごく普通の報道機関の果たすべき役割ではないのだろうか。などと愚痴ってもはじまらないので、ネットメディアの役割を果たすだけだ。なにしろ、ブログに掲載するだけでも、大手メディアでさえも否定できない事実として残されるわけだから、逆にネットメディアの責任は重い。

 ということで写真による脱原発デモの報告をご覧下さい。もちろん、ここに掲載する写真は全体のごく一部でしかありません。ブログという限られたスペースと撮影者の主観で選んでいるだけです。また、主催者のwebはこちら→脱原発杉並(副題は自由)
 
 _aaa0039自分でも笑ってしまった写真。集会場で登壇したのが鈴木邦男氏(一水会代表)。参加者の固い表情。社民党、新社会党、日本共産党の政党旗がはためく集まり。鈴木氏は中沢新一氏らが立ち上げた「グリーンアクティブ」発起人の一人として参加しているので、驚くことではないが、それにしても右から左の左までの集まりだったのは確かだ。(東高円寺駅前の蚕糸の森公園)

_aaa0017_2「この国に米軍基地の広さほど並べてみたし太陽パネル」「責任を誰が負うのか半減期数十万年の核の危うさ」

_aaa0104「全電力を人民に!! POWER TO THE PEOPLE !!」

_aaa0177オシャレなプラカードのひとつ「核などいらない」「ついでにマイナンバーとかも拒否ですだよ」

_aaa0116「反核上等」 作った女性の弁:「パンダが好きだから」

_dsc6414「NO NUKES」ヘアバンド

_aaa0260明治42年(1909年)に杉並で生まれた102歳の藤原フミさん。4月には103歳になるそうです。脱原発デモの最高齢者ではないだろうか。「渇っ!」をいただきました。
_aaa0169乳母車の赤ちゃんも、「原発いらない」の風船を手に参加?

_aaa0183別の若い夫婦が赤ちゃんとともに参加。手にしていたあやし用玩具に「原発 ダメ 不要」と。

_dsc6375

_aaa0337「もう一基爆発したら日本はどうなる」

_aaa0368「直接請求」「原発 都民投票」

_aaa0328いよいよ有象無象の登場か?
_aaa0333怪しい屋台「なんとかBAR」

_aaa0324カラオケトラック

_aaa0210中東関係の方とシャボン玉の関係???

_dsc6393「STOP 許すな! 原発再稼働」「2・19 NO! NUKES」 存在感を示す年期の入った高齢者集団(といっては失礼か)

_aaa0278

_aaa0352「東電燃やす」「FUCK ALL」 スゴイ人形使いの若者。

_aaa0376警戒区域の残されたネコも涙目で恨めしそうに参加?「どうしてボクたちおきざりにされたの?」 

_dsc6442警察官(機動隊?)脱原発デモ隊???(そんなわけないか。ただし心の中はわからない)
_dsc6464

_aaa0440先頭を歩くキッズ班。

_aaa0414「原発いらない」の首飾りをさげた女の子。ちょっと歩き疲れた様子。

_aaa0293「ACT 3・11 JAPAN 廃炉」

_aaa0382「ダメ!ゼッタイ!再稼働ダメ」

_aaa0314汚染地域から子供を解放 集団移住 未来への責任

_dsc6568いつもみかける「脱原発」の大旗。腕力を鍛え抜いている方でしか担ぎとうせない技。

_dsc6522「福島県浪江町です。原発から14㌔地点。あの爆発音を二回聞きました。浪江町はもう人も住めない、帰ることもできない、まさにチェルノブイリです」 一気に通行人とデモ参加者の関心を引き寄せて熱弁をふるう吉沢正己「希望の牧場」代表。デモ隊がJR阿佐ヶ谷駅に着こうとする手前に街宣トラックを止め、感情込めて叫んだ吉沢さんは、3月18日に東電本社に単身乗り込んで、直接抗議した強者。吉沢さんの牧場の現状はブログでどうぞ

◯解散地点が杉並区立杉並第一小学校の校庭には驚いた。
_aaa0720_2「今こそターニングポイント さようなら原発!」

_aaa0698警備のおまわりさんたちもフォークダンスの輪に入りたいのか???(そんなわけはないか)

_aaa0763

_aaa0739ラストショット。故人扱いの「バイバイ もんじゅ君」団扇。小学生くらいの女の子が手にしていた。

◯取材後記のひとこと:これほど多種多様、種種雑多、右左の有象無象らしき市民が集って民主主義を行使しているというのに、大手メディアはいったいどこで何を取材しているのだろうか?

◯共感できる主催者の呼びかけ文紹介
「原子力にたよらない世界をめざして、杉並を中心とした市民が立ちあがりました。 原子力発電所はもういらない! わたしたちは、その一点において、広くゆるくつながった「有象無象」です。世代も、仕事も、会社も、国籍も、組織も関係なし。ひとりひとりが自分の声をもつ、みんなちがって当たりまえの個人です。

自分たちの使う電気がどこから来るかに無関心すぎた、訴えてきたけれど力が足りなかった、あるいは、知っていたのに見て見ぬふりをしてきたことを悔やむ——ひとりひとりにそれぞれの理由があり、そこから「脱原発」を求めます。

わたしたちの子ども、孫、そのまた孫の未来を脅かしてはならない。放射能に家を追われた人、残ることを選んだ人、福島の原発事故現場で被曝しながら作業をつづける人たちを忘れてはならない。放射能で大地を汚すな。痛みを分かち合い、開かれた議論の場をつくろう! と、訴えたいことはたくさんありますが、全部ここでは言い切れない。」 つづく


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2012年2月19日 (日)

「希望の牧場」Part2:警戒区域内の「生と死の狭間」。警戒区域の現実3

(写真はクリックすると拡大します)

「警戒区域内「希望の牧場」と代表の吉沢正己さん」(2011年12月13日 (火)のその後です。

_aaa0566杉並区の脱原発有象無象デモに飛び入り参加した吉沢さん。阿佐ヶ谷駅近くでデモ参加者に叫びかける。(2月19日)
_aaa0640

 「福島県浪江町です。原発から14㌔地点。あの爆発音を二回聞きました。浪江町はもう人も住めない、帰ることもできない、まさにチェルノブイリです。そういう汚染地帯になってしまいました。たくさんの牛たちがエサもなく水もなく死んでしまいました。僕たちの人生をめちゃくしゃにしてしまいました。福島県の米は売れない。野菜は売れない。東京電力のせいです。国のせいです。ぼくたちの町は人も帰ることのできないチェルノブイリになってしまった。町に帰る意味もないんです。故郷は放射能まみれです。東京のみなさんが使っていた電気を40年作って送ってきました。もう原発なんかたくさんだ。

 東電の金儲けのために原発事故が起きてしまいました。町に帰る意味がないことをみなさんはわかりますか?絶望的な状況の中で町がなくなる。でもみなさんには暖かい家もあるし、帰ることのできる故郷もある。しかし、浪江町は二度と米を作るなど不可能だと思います。子どもや孫たちの世代までも放射能汚染に苦しむそういう世界になってしまいました。子どもの戻らない町にどうして親御さんが戻るでしょう。

 私は牛たちの命を見捨て逃げるわけには行かなかった。私の牧場では、いまなお300頭の牛が生きている。経済的な価値のなくなった牛たちが生きています。私も牛たちも被曝しました。国は殺処分を命じています。命を大切にしない日本の世の中の縮図だと思います。たくさんのペットは救出されました。でもぼくたちの牛やブタはガレキのように扱われています。放射能に汚染されても生きる300頭の牛たちは、原発事故の生き証人です。真実の姿をみなさんに提供してくれます。絶望的な状況であっても必ず希望の灯火をもやしたいと思います。

 僕たちの浪江町はチェルノブイリです。誰のせいだ、東京電力のせいだ。国のせいだ。東京電力の責任のみならず、首都圏のみなさんは電気代を倍払ってほしい。そのお金で福島県の被った損害をみんなの連帯責任でやってほしい。故郷はチェルノブイリだ。ぼくたちの未来はつぶされた。10万人の避難民は寒い仮設住宅で心が折れそうになっています。この胸のつぶれるような思いを東京で言い続けたい」

_aaa0264渋谷駅ハチ公前交差点で通行人に呼びかける吉沢正己さん。1月27日撮影 吉沢さんは阿佐ヶ谷と同様に絶叫していた。誰もが無関心と思えるハチ公前だが、カンパ箱に千円札を入れていく人が多いそうだ。中には1万円札も。

 「希望の牧場」で300頭(おそらくこえているかもしれない)の和牛の世話をする吉沢正己さんは、都内の街頭に立ってゲキを飛ばす知る人ぞ知る、ある意味では「過激な」、ある意味では真っ当な畜産家だ。演説の内容は、核心をついているたけに、福島第一原発から遠く離れた大都会の喧噪をすいすいと泳ぐ都会人の耳には痛い内容かもしれない。

_aaa0486牧場ゲートの立て看板が新しくなった。(以下は2月初旬撮影)

 真冬の「希望の牧場」は一言でいって、生と死が凝縮した空間となっている。生き抜く力の強いものがより多くのエサを食べ、弱いものが痩せていくそんな厳しい世界。たくさんの子牛も生まれてくるが、生き延びることの叶わない生命も少なくない。母牛用の栄養価の高いエサが近所のある酪農家とのもめ事で入手できなくなったために、子牛が育つに十分なオッパイが出ないことも直接の原因のひとつだという。いづれにしても、たった一人の吉沢さんが、毎日朝晩エサをやり、管理し養うことが最低限にできる範疇をこえているとしかいいようがない。

 加えて、毎週一度は囲い込みで捕獲された離れ牛の引き取りという、ほかの畜産農家がやろうとしない作業もある。実際、私の取材中に、4頭の「M牧場(希望の牧場の前身)」所属の離れ牛を囲い込み施設まで大型トラックを乗り付けて引き取った。捕獲や引き取りはケガしてもおかしくないほどたいへんな作業となるが、市や県、農政の現場担当者は捕獲された牛を引き取ってもらうことには協力的だった。

 いま、「希望の牧場」は、春先に草がはえてくる時期までの試練の時を迎えている。

_aaa0657乾燥干し草のロールにむしゃぶりつく和牛。

_aaa0556見ていると体格の良いものが押しのけてエサにかぶりつく。乾燥ロールは3~4ヶ所に置かれるので、早い者強い者勝ちだけの世界ともいえない。
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_aaa0224

_aaa0051相馬市のモヤシ工場に、エサ用のもやしカスを引き取りに行くのも仕事のひとつ。モヤシのカスは乾燥エサよりも牛たちが奪いあうほどうまくてよろこばれるそうだ。

_aaa0958モヤシカスを置いた途端に我先にと食べ始める和牛。いつもいつも食欲旺盛だ。

_aaa0105牛舎では乳離れしつつある子牛たちが7~8頭寄り添っていた。

_aaa0804だが、母牛用の栄養価の高いエサが十分でないためか、冬を乗り切ることができずに息絶える子牛があちらこちらに。

_aaa0824寒風吹きすさぶ厳しい北風に耐えることができなかったのだろうか、死んだ子牛がここにも。

_aaa0962カラスにつつかれた子牛の屍も。

_aaa0921生存競争に負けたのか、エサ不足なのか、成牛も亡くなる厳しい季節。

_aaa0554生まれて死んでゆく子牛。

_aaa0905そして、毎日種付けできるほど元気な種牛。

_dsc5162母牛のオッパイを求めて離れない子牛。

 12月の取材から約2ヶ月の間に、牧場で亡くなっていた牛は子牛と成牛会わせて10数頭。吉沢さん一人の手に負える状況をこえた、コントロールのきかない状況下に置かれた牛たち。生き延びるもの、死んでゆくもの。安全圏に住む私たちの感傷的な判断基準をこえた状況の中で、それでも牛たちはあと2ヶ月あまりの冬を何とか乗り切ることができるのではないだろうか。
 春を迎え、夏、秋、冬と被曝した牛たちが生き延びることは、原発事故の生き証人を生かすことではないだろうか。ビキニ事件で被曝し、その隠された歴史を時代をこえて発信し続ける第五福竜丸を保存しつづけるように

◯追記:「希望の牧場」はエサ支援などのサポートを歓迎している。詳しくは希望の牧場のwebでごらんください。


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2012年2月16日 (木)

仏教界に脱原発の動きはあるのだろうか?その後(自分用メモ)

 「仏教界に脱原発の動きはあるのだろうか???(自分用メモ)」(2011年11月21日 (月) のフォローアップ。

 昨年のブログに書いた時点で見逃していた曹洞宗の原発問題に関する公式見解(2011年11月1日)と全日本仏教会の公式宣言(同12月1日)の内容を以下にコピーしておきたい。

 一読すれば曹洞宗の公式見解が一気に後退してしまったことがよくわかるだけに、残念至極だ。一言でいえば、曹洞宗の見解は、曹洞宗が自ら掲げる「人権・平和・環境」のスローガンと完全矛盾していて、相容れないこと。永平寺がある福井県という原発立地自治体に配慮するあまり、原発作業員が被曝労働者であることと、原発の稼働も廃炉も被曝労働者を大量生産し続けることを全く考えていない。全日本仏教会の宣言にある、地球環境規模で原発問題と事故を捉えて思考していないことからも、アウトといえる。この見解に呆れ返っている曹洞宗の僧侶が相当いることも容易に想像できる。

浄土真宗大谷派でも、長年、原発の危険性を訴えてきた僧侶らが巻き返しにあっていると報道されている。
この反動的とさえいえる動きは、政権与党の民主党も、半世紀にわたって原発推進一直線の国策を遂行してきた自民党も、野田政権登場後は、脱原発志向から原発稼働思考に変わりつつある「俗界」と変わらないということだろう。

 加えて、仏教界だけでなく、世間の注目を浴びた永平寺のシンポジウム「いのちを慈しむ~原発を選ばないという生き方~」(2011年11月2日開催)実施に中心的な役割を果たした西田正法布教部長に対する宗派内の様々な批判と圧力により、西田師がその職を辞めることになりそうだという情報をある方からいただいた。(現段階で布教部長職を辞したかとうかは未確認)

 永平寺布教部長を辞す必要がある理由が何なのかは、門外漢の私には特定できない。私の推測は三点。
一つは、シンポジウムの内容が曹洞宗の公式見解を逸脱し、脱原発が不可欠なことが参加者に共有された内容だったことに対する批判。
二つめは、「もんじゅ」「ふげん」の命名に永平寺が関与していたことを世間に周知させたことに対する批判。
三つめは、原発の菩薩名は、実は秦慧玉師(慈眼福海禅師1976年4月~1985年)が命名したという当時の事実を誤魔化した記者会見(西田師は不在。松原副監院が質疑応答)だったことに対する批判

 「もんじゅ」「ふげん」命名の経緯についてブログで書いてから、複数の曹洞宗関係者や読者の指摘で明らかになったことは、永平寺の秦慧玉禅師が自ら命名したというものだった。これは残念以外の何ものでもない。さらにいえば、曹洞宗関係者のみならず、日本の伝統仏教会関係者は、「もんじゅ」「ふげん」のネーミングについて今からでも遅くないから止めさせようと考える思考を持ち合わせていないことが何とも情けない。

 永平寺シンポジウムの報告ブログはこちら

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曹洞宗は「原子力発電に対する曹洞宗の見解について」を次のとおり発表したいます。
原子力発電に対する曹洞宗の見解について(PDF)
2011年 11月 01日

原子力発電に対する曹洞宗の見解について

東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故は大量の放射性物質を拡散しました。
福島県ではたくさんの人びとが強制的に避難を強いられ、いつになれば自分の家に戻れるのか、その見通しすらついていません。また、避難された先ざきで差別や偏見にさらされ、さまざまな風評被害も生じています。
日本のエネルギー自給率を考えるなかで、CO2削減のためにその将来性を期待され、すすめられてきた原子力政策が、今回の事故で絶対的な安全はないということが明らかになり、ひとたび事故を起こすとその被害、影響は計り知れないものであることがわかりました。

しかし、現状において即時に全ての原子力発電を停止し、再生可能エネルギーに転換することは不可能であり、また、火力発電や水力発電にしても、CO2排出量の増加や、河川などの環境への負荷、建設地域の方がたの移転等、それぞれに多くの問題を抱えています。また、電力不足による経済の混乱、原子力発電所が立地する自治体の事情や、それにかかわる労働者の雇用問題など、解決しなければならない問題は多岐にわたります。
曹洞宗は「人権・平和・環境」のスローガンのもと、人権の擁護、平和の確立、環境の保全を目指し、これらの課題に真剣に取組んでいます。

今回の震災とそれにともなう原発事故の問題は、「人権・平和・環境」のすべてに関わるものであり、日本のみならず、世界規模の問題と私たちは考えています。もとより、すべてのものごとが互いに支え合って存在しているととらえ、どちらか一方の立場にとらわれることなくものごとに接していくことが、私たち曹洞宗の姿勢であり、それを具体化したものが、このスローガンです。

地震大国である日本の状況や地球環境を考えれば、原子力発電は速やかに停止し、二度とこのような被害や環境破壊を起こさないためにも、再生可能エネルギーに移行することが望ましいと思います。
しかし、直ちにこれを廃止する場合、前述のようなさまざまな問題を解決しなければならず、現時点で原子力発電の是非について述べることは非常に難しいのではないでしょうか。
私たちは、発電の背景には多くの問題や課題があり、それに携わるたくさんの人びとがいるということ認識しながら、一人ひとりが自分の問題として向きあうことが大切だと考えます。日々の生活の中で使う電気を無駄に消費していないか点検することもその一つです。

また、原子力発電を否定的に捉えることが感情的に行なわれ、原子力発電にかかわる人びとを傷つけることも心配されます。
すべての人びとの生活や苦悩といったものに正しく向きあい、支えあっていくことが、私たちの大切な使命であると考えております。
曹洞宗人権擁護推進本部では、被災地に赴き、避難されている方がたとの対話と交流を通じ、風評被害や人権に関わる被害の実態の把握に努めています。また、曹洞宗総合研究センターにおいても、10月24日に「東日本大震災をうけて いま、私たちに何ができるのかを考えるシンポジウム」を開催し、たくさんの方がたから貴重なご意見をいただきました。これらを通して、すべての人びとと思いを共有し、さらなる世界の平和と人びとの安寧無事を願い、祈り、諸活動を続けていきたいと考えます。                    

11年11月1日
曹 洞 宗


全日本仏教会ニュースリリース

宣言文

原子力発電によらない生き方を求めて

東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。

広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。

日本は原子爆弾による世界で唯一の被爆国であります。多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射線による被曝で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」の尊さを世界の人々に伝え続けています。

全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。

私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。

そして、私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言いたします。

2011(平成23)年12月1日

財団法人 全日本仏教会

河野太通会長からのメッセージ (Youtubeの動画です)
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 私の情報ソースは偏っているので、他宗派の動きについての情報があればコメントしてください。

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2012年2月12日 (日)

「さようなら原発1000万人アクション 2・11」 アピール力のある訴えは個人参加者のものか

(写真はクリックすると拡大します)

 大江健三郎さんや落合恵子さんらが呼びかけ人で昨年の9月19日からスタートした「さようなら原発 1000万人アクション」。都内開催3度目のイベントは、主催者発表では12000人の参加者があったという。朝日新聞が朝刊の一面に大きく脱原発デモの写真を掲載したのにはいくらか驚き、大歓迎。だが、内容的には、組織や団体ののぼりやワンパターンのスローガンが会場にあふれ、若干気持ちが萎えた。
 掲載した写真で一目瞭然だと思うが、市民の一般参加者と思われる個人や仲間が手にする独自で多様なアピール方法、スローガンの中身が参加者の熱意を感じさせ、説得力があることがわかる。

_aaa0089呼びかけ人の一人、大江健三郎さんの開会のスピーチ。
_dsc5980前回は原稿が赤や青で校正されていたが、今回は校正あとは少なかった。

「ドイツは原発廃止の問題を倫理の問題として取り上げた。~~いま政治家や実業家や官僚たちが、原発をうやむやに再稼働させようとしている。こういう時に私たちは抵抗しなければいけない。抵抗は倫理である。日本人が原発を全廃することは倫理なのです。いかなる価値、経済的価値とか、政治的価値とか、国力がどうのとかを超えた、根本的に一番重要なのが倫理なのです」(大江健三郎さんのスピーチから)

主催者の「さようなら原発 1000万人アクション」はこちら

_aaa0040参加組織の幟が集会場を埋め尽くし、一般参加者が入りにくそうな雰囲気だった。

_aaa0053 「NO 原発」のストレートなうちわメッセージ。

_aaa0062 「東電は我が美しき故郷「福島」の自然を返せ!」このアピールも素晴らしく、唸った。
_aaa0292 「地震列島 日本に原発 危なすぎ」
_aaa0143_2 「フクシマの風下生きる我が狂気 堕ちよ滅びよ驕奢の時代(ゲンパツニッポン)」

_aaa0122_2 「野田政権による原発再稼働阻止! 全原発を即時停止・廃炉せよ! 日米安保教化・大増税を許すな! 革マル派」 まったく同感できる檄文だ。革マル派も最も大きく目立つ横断幕で堂々と参加。さまざまなグループが思想信条の違いをこえて参集している。

_aaa0032「原発はいらない!」 「ドイツにできた事は日本にもできる!」
_aaa0201「原発を止めろ!」 益永スミコさん(88歳)。戦争中に産婆となり、戦後も助産婦として長年務めてきた素晴らしい一人活動家。益永さんの生き様の記事はこちらに_aaa0176外国人男性も思わず写真を撮っていた。

_aaa0248 「原発止めよう!」「脱原発を実現し、エネルギー政策を転換! 六ヶ所再処理工場に反対し、放射能汚染を阻止する全国ネットワーク」
_aaa0232 「日本人はどうするのか? NO! NUKES! IF YOU WANT IT」_aaa0347呼びかけ人の一人、落合恵子さん。明るい人だ。

_aaa0530組織的動員で参加者が増えることに異論はまったくない。が、原発事故からもうじき1年が経とうとしている。独自に用意したスローガンやアピール方法による多様な脱原発の訴えがあって自然だろう。_dsc6272_2

_dsc6217 「原発ほうき」「原発再稼働 NO!」「NUKE IS OVER!」「NO MORE FUKUSHIMA」「エネルギー政策転換を!」「STOP NUKES FOREVER!」
_aaa0436 「核は人類には制御不能の魔物」 「原発に頼らぬ暮らしを」
_aaa0331 「都民が決める!」「原発住民投票条例? 作れるわけないし作るつもりないもん」

_aaa0630埼玉県で農業を営む若者のグループ。放射能によって目に見えない被害を受ける生物をきつねのお面でシンボリックに表現したという。

_aaa0396 「福島を返せ! 南相馬市に帰りたい! 故郷lを奪った国と東電を許しません!」
_dsc6152「(保安院 あんたら、ナメてるの?) 再稼働は災禍道! 廃炉こそ文明の選択です!」
_aaa0371個人的にこの日の一番のお気に入りスローガン。このスローガンと傘でのアピール、最高の組み合わせです。

「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし 田中正造」


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2012年2月10日 (金)

毎時121マイクロシーベルト。原発北西方向はやはり高い浪江町。警戒区域の現実2.

(写真はクリックすると拡大します)

 原発事故後の浪江町の一つの特徴は、生物の悲喜こもごもが集中していることではないだろうか。とりわけ、牛たちが懸命に生き延びている姿が目立つ。元々、町の山寄りの地域は畜産農家や酪農家が多く、水田や梨畑のような果樹園が展開する農耕地帯だったことがわかる。

_aaa0471牛の殺処分に断固として反対し、被ばくした和牛約300頭を原発事故の生き証人として生かし続けようと、国や東電、県や町の行政と闘ってきた「希望の牧場」(吉沢正己代表)又はエム牧場。原発から北北西に14㌔。屋外の線量は毎時4~5マイクロシーベルト

_aaa0727_2「希望の牧場」支援者の援助で購入したエサは朝夕の二回分け与える。浜通りは内陸と大違いで雪はあまり降らない。北風の吹き下ろしが体力のない生後間もない子牛の命を奪い取ることもある。

_aaa0893原発事故後に「希望の牧場」では子牛の出産ラッシュが訪れている。だが、栄養価の高いエサ不足により母牛のミルクの出が悪いことで子牛の命を奪うことにつながっているようだ。下の写真は懸命にミルクを飲もうとする子牛。生命力の強いものが確実に生き延びている
_dsc5309


_dsc4928_2原発の北西約10㌔に位置する山本牧場(山本幸男さん)でも、和牛を40頭あまり飼育しつづけている。エサが定期的に与えられるので、牛たちは放し飼いでも牧場周辺でまとまっているようだ。屋外の線量は毎時9マイクロシーベルトと高い。

_aaa0763牛舎でエサをやる山本幸男さん。

_aaa0787シイタケ栽培を手広くやっていたが、育ったシイタケは売ることもできない。奥さんに放射線測定のためにシイタケを取ってもらったが、相当に高い数値が出ることはまちがいない。

_aaa0312>「安心安全な米作り」の立て看板(北西方向の立野地区)。

_aaa0348_3梨畑を根城にしている離れ牛の群れ。近くには離れ牛を捕まえるための囲い込みの柵があり、エサが置かれている。

_aaa0213この牛たちは、持ち主が定期的にエサと水を与えるので、やはり放し飼いでも牛舎の近くで群れをつくって落ち着いた生活をしているようだ。

_aaa0273ある酪農家の牛舎だが、12月に撮影した時は、つながれたまま餓死してミイラ化した約40頭の乳牛が放置されていた。いつキレイに片づけられたのか知らないが、ミイラ化した牛たちは、原発事故の生き証人だった。ミイラ化した乳牛の写真はこちらのブログに→2011年12月13日 (火)「警戒区域内「希望の牧場」と代表の吉沢正己さん」

_aaa0219したたかに生き延びているネコ。エサは与えられているようだ。

_aaa0387原発から10㌔のコメリ浪江町支店前は毎時6マイクロシーベルトをこえる。

_aaa0468浪江町大堀地区は国指定の伝統工芸品大堀相馬焼のふるさとで、たくさんの窯元が集中している。原発の北西方向約9㌔に位置することと、地震による被害の甚大さが、3月11日直後のような印象さえ残している。室内の線量は毎時4.5マイクロシーベルト。屋外は毎時10~15マイクロシーベルトと極めて高いままだ。

_aaa0517_2毎時121マイクロシーベルトの測定したのは、ある窯元の庭にある窪地だった。細かく測定すれば、こうしたスポットがあちこちに存在することが容易に想像できる。原発から大堀地区一帯上空を通過し、北西方向の先にあるのが更に線量の高い浪江町津島であり、その先が飯舘村だ。

_aaa04323月中に完成間近だった浪江町地域スポーツセンター。

_aaa0372どこにでもあるような普通の住宅街が手つかずで残っている。放射能さえなければ、すぐにでも帰宅して普段通りの生活を再開できそうな気さえする。

 原発事故以来、何度か足を踏み入れた20㌔圏内の警戒区域。無人街となったこうした光景を各地で目にするが、そのたびに、帰郷をあきらめきれない住民のみなさんの気持ちが痛いようにわかるような気がしてきた。地震で倒壊した古い家屋は別としても、これほどしっかりと町並みが残っていながら、帰宅して生活できないとは、誰にも思えないだろうし、思いたくないからだ。放射線の脅威さえ目に見えるように実感できれば、諦める決断をつける一助にはなるだろう。が、しかし・・・・だ。

_aaa0384「ふれあいセンターなみえ」のグランドが、近くの水田除染実験で取り除かれた土壌の仮置場となっている。空間線量は毎時0.6マイクロシーベルトと思った以上に低い。

_aaa0191_2国道6号線の道路工事現場で重機を運転する作業員。よく見ると防護服に身を包みながら、窓を開け、マスクをはずしたまま作業している、春先から本格的に始まる「除染」というある程度の被ばくを折り込み済みの作業現場の実態が想像できるのではないか。

_dsc5903請戸川に飛来した白鳥などの渡り鳥は、川も大気も放射能で深く汚染されていることを知らない。

_aaa0175南相馬市小高区浦尻一帯は、地盤沈下の影響か海水が引かずに湾になったように見える。線量は毎時0.10マイクロシーベルトと低い。だが、収束していない原発から11㌔北に位置する。

_aaa0227南相馬市小高区のJR小高駅手前まで押し寄せた津波の爪痕。自動車もガレキの撤去も手つかずのまま。原発から約17㌔北に位置。2012年3月11日から時間が止まっている。


◯取材後記:
 いぜんはゴーストタウンにしか見えなかった警戒区域内の街並。生まれ育った故郷と祖先伝来の土地や墓を守っていかねばと思う年輩者の心情も、前よりも実感できるようになった気がする。そうした住民の心情に重くて不条理な決断を迫る原発事故がもたらした放射能汚染の問題は罪深い。 


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